浜松中納言物語 0
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「源氏は流された明石でも愛人を作る」 「Dog photography and Essey」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(熱中症のあと初めて妻が療養する病院へ行った)明石は源氏物語五十四帖のひとつで源氏28歳の物語。第13帖。明石の君19歳、紫の上は20歳で紫の上や花散里に次ぐ地位を得る。光源氏の明石時代の愛人で源氏の一人娘の明石の中宮を出産する。明石の君の父は官職を捨て出家し明石の入道と呼び母は明石尼君。(いつも通る道だが車の渋滞で中々進まなかった)明石の入道は京の姫君に劣らない程の厳しい教育をほどこしていた。住吉大社にお参りに来た明石の君は夕霧を連れた源氏を目に留める。源氏の息子の夕霧が大切に扱われ隠し子のような存在の自分の姫と比較。明石の君はわが身との差を感じ深く傷つき参拝せずに帰ってしまう。(会計へ寄り入院費を支払おうとするが現金を忘れる)源氏は右大臣の娘の朧月夜と縁が切れない事で京から明石に流されていた。父の入道の肩入れで逢引を重ね源氏が帰京したのち明石の中宮を出産する。田舎育ちで身分の低さもあり源氏の愛人達にひけをとるのではと懸念。源氏の二条東院へは入らず父が用意した大堰(おおぜき)の別邸に住む。(公園へ寄ると犬仲間のご主人が熱中症で入院中だった)別邸で源氏と明石の中宮と対面が叶うが紫の上の養女として引き取られる。明石の君は娘の行く末を考え手放したが成人するまで会う事は叶わなかった。明石の君は冬の御方とも呼ばれ娘の入内を機に付き添い紫の上と対面を果たす。我慢強く気品を備えた明石の君は紫の上の死後は悲嘆に暮れる源氏を支える。
2018.07.14
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「源氏は須磨(すま)送りを決意し全てを託す」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(西日本大雨災害義援金の振り込みへ行って来た)須磨(すま)は源氏物語五十四帖の巻名の一つで源氏26歳春から。第12帖。朧月夜との仲が発覚し源氏は東宮に迷惑になると自ら須磨送りを決意する。左大臣を始め親しい人々や藤壺に暇乞いをし東宮や女君には別れの文を送る。一人残してゆく妻の紫の上には領地や財産をすべて託した。 (日本赤十字社を通じて届けられるとの事である)源氏が葵祭りで勅使を務めた折に随従した尉の蔵人は官位を失った。尉の蔵人は自ら願い出て源氏の須磨流しに随行を志願し須磨へ行く事に。須磨の侘び住まいで源氏は都の人々と便りを交わしたり絵を描いたりした。京の都に居た頃とは全く違う日常でまさしく淋しい日々を送る事になった。(ボランティアで手助け出来ないので義援金だけ送った)都から義兄で政敵でもある頭中将が訪ねて来て一時の再会を喜び合った。源氏は明石の君の噂を聞き悪い事を思い巡らすが嵐が須磨一帯を襲う。嵐は連日のように続き豪風雨になり眠れぬ日々を過ごす源氏一行だった。二条院から紫の上の文が届き都でもこの豪風雨が発生している事を知る。(私が送る義援金は車検費用程でスズメの涙でしかない)悪天候のため厄(やく)除けの仁王会(にんのうえ)が開催され政事は中止さた。京の都から文を届けに来た使いの者から聞き都に残してきた家族を案ずる。源氏は以前幼い紫の上が住んでいた邸で宿直(とのい)した事を思い出していた。源氏が生きた時代は紫式部が生きた50年前の時代で近衛府が夜間警備を担った。
2018.07.13
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「花散里(はなちるさと)源氏物語の第11帖」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(熱中症の眩暈から10日後血圧を測ると52/88と低目)花散里(はなちるさと)は源氏物語の第11帖で光源氏25歳夏の話。花散里は「桐壺帝(源氏の父)」の妻の妹で源氏の信頼も厚かった。花散里は源氏と葵の上の長男夕霧と孫と夕顔の娘の玉鬘の面倒をみる。源氏は3人の世話を全て花散里に任せ裏から支えた聖母と呼ばれている。(酷い眩暈と嘔吐が続いたが病院へは行かなかった)五月雨の頃に源氏は故桐壺院の妃の一人麗景殿女御を訪ねる。妹の三の君(花散里)は源氏の恋人で姉妹は源氏の庇護を頼り暮らしていた。訪問の途中で中川の女(空蝉うつせみ)に歌を詠みかけるが拒絶される。空蝉の邸は橘(たちばな)の花が香り昔を忍ばせるホトトギスが鳴いていた。(塩分を摂り6日後血圧を測ると71/111と戻りつつある)源氏は空蝉と昔話を語り合った後そっと孫である三の君を訪れた。花散里は源氏の父桐壺帝の妻を姉に持ち源氏とは若い頃から関係があった。容姿は端麗ではないが温和な慎ましい性格で裁縫や染物にも堪能な女性。源氏の妻の中では葵の上と紫の上に次ぐ立場となるが葵の上は他界してる。(十分な水分摂ってたが塩分控えた調理が体に影響かも?)花散里は源氏の通い妻の一人だったが六条院造営後は夏の町の主となる。夏の御方とか東の御方とも呼ばれ家庭的で信頼の置ける人柄を見込まれる。夕霧と玉鬘の母代わりとなり夕霧の子の一人を孫として引き取り育てた。源氏の死後は二条東院を遺産として譲り受け再び二条東院に移った。
2018.07.12
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「源氏と朧月夜の密会が右大臣に露呈する」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(ラジオ深夜便で明治10年の看病婦の話題を放送)賢木(さかき)は源氏物語の五十四帖の巻名のひとつで第10帖。源氏23~25歳、紫の上15~17歳、藤壷中宮:28~30歳の頃の物語。正妻の葵の上が亡くなり六条御息所が源氏の正妻にと世間が噂していた。だが生霊としての姿を見た源氏との縁が遠くなったと感じる六条御息所。(日清日露戦争を経て大戦でも招集され戦地へ赴く)悩める六条御息所は娘の斎宮と共に伊勢に下る準備をし出発間近となった。このまま別れるのはあまりにも忍びないと源氏も御息所のもとを訪ねる。源氏と顔を合わせると心が乱れると予定を変える事なく伊勢へと下った。桐壷院は重篤になり死期を悟り朱雀帝に春宮と源氏の事を託し崩御する。(日本敗戦の色濃く看護婦は重篤患者へ消毒液投与)桐壷院の死で藤壷は実家へ戻ったが源氏は執拗に藤壷を口説いている。藤壷に拒絶され源氏は紫野寺院に籠り勤行に励むが紫上や朝顔には手紙を送る。源氏と朧月夜の密かな逢引は続いていたが朱雀帝の寵愛は深く許していた。藤壷は春宮(冷泉帝)が源氏の子である事を思うと春宮を守る為に出家を決意。 (安楽死をさせたが今では消毒液が殺人に使われる)桐壷院の一周忌のあと思いを貫き藤壷は出家を願い出て髪を下ろしてしまう。藤壷の封禄は滞り仕える者の昇進も無くなり辞職し頭の中将も冷遇された。危機の中で源氏と朧月夜の密会が右大臣に露呈し現場を押さえられてしまう。激怒した右大臣と娘の弘徽殿大后は源氏を政界から追放しようと画策し出した。
2018.07.11
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「葵の上が亡くなり紫の上と結婚する」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(後期高齢者限度額適用認定証の手続きに行って来た)葵(あおい)は源氏物語の五十四帖の第9帖で源氏22歳頃の事。桐壺帝が譲位し源氏の兄の朱雀帝が即位することとなった。藤壺中宮の若宮が東宮となり源氏は東宮の後見人となる。六条御息所の娘であり光源氏の従妹である秋好中宮が斎宮となった。(妻の場合身障者1級で後期高齢者となり市役所へ)斎宮とは天皇の即位毎に伊勢神宮に遣わされた未婚の内親王のこと。賀茂祭とは葵祭で賀茂神社に奉仕する未婚の皇女が加茂川でみそぎする日。源氏も供奉のため葵祭に参列するが六条御息所の一行も一目見ようと参列。当時懐妊していた源氏の正妻の葵の上一行と牛車置き場で争いを起こす。(手続きが終わり来週初めに認定証が発送されて来る)葵の上の従者と六条御息所の争いにより牛車は破損し御息所は恥をかく。元東宮妃である御息所にとり耐え難い屈辱で六条御息所は葵の上を深く恨む。源氏は賀茂祭の役目を終え戻ったが事の一部始終を聞かされ驚愕する事になる。源氏は謝罪に向かうが門前払いされるばかりで葵の上は病の床に就いてしまう。(帰りに「もも」のトッピング豚バラ肉を買いに行った)葵の上の病は六条御息所の生霊の仕業だが源氏も苦しむ葵の上に付き添った。源氏は葵の上の看病中に六条御息所の生霊を目撃して非常に驚くと表現される。葵の上は難産の末に夕霧を出産するが在京諸官の任命公事の夜に亡くなった。源氏は夕霧の養育を左大臣託し美しく成長した紫の上と密かに結婚する事になる。
2018.07.10
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「花宴(はなのえん)政敵の娘の朧月夜だった」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(側溝掃除は下水道になり綺麗なもので早く終わった)桐壷帝が花見の宴を開いた折に源氏は朧月夜に会う。源氏物語第8帖。朧月夜と聞けば文部省唱歌の菜の花畠に入日薄れが浮かぶことだろう。紫式部の描いた源氏物語の全てのやり取りは和歌に終始し解釈も難しい。花見の宴には藤壷中宮や弘徽殿女御や大勢が揃う中源氏は漢詩を詠む。(もも同伴で自治会館の掃除と公園の草引きを行った)吟ずる声も現在の宮中の歌会始めと同じ儀式なのだろうと思う。源氏の詩も素晴らしく詠う声の調子も良く頭の中将もそれに続いた。ともに美しい舞も披露し宴はさながら二人の独壇場であると描かれる。宴が終わり散り散りに去りゆくが源氏はその場を去りがたい気持ちだった。(地元消防隊の説明による消火器と消火栓訓練をした)一人宴(うたげ)の余韻に浸り藤壷の部屋へ彷徨うも扉には鍵がかかっている。引き返し藤壺が住む弘徽殿へ行くと鍵がかけてなく源氏は中へ入ろうと考える。そこへ女性が「春の夜の朧月夜は最上の月夜」と口ずさみながらやって来た。源氏は女の腕を掴んで招き寄せ和歌で口説きはじめ女も相手が源氏だと察知。(ももは大勢の人たちに撫ぜてもらい幸せそうだった)頑なな女だと思われたくなく素直に源氏を受け入れるが名乗ろうとはしない。春の宴で源氏と出会ってより女性の朧月夜は物思いに沈む日々が多くなった。源氏との一夜の出来事が忘れられないまま月日が流れ源氏20歳春となる頃の事。素性も知らぬままに扇を取り交わして別れた姫君こそ政敵の娘の朧月夜だった。
2018.07.09
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「紅葉賀(もみじのが)50歳の祝典」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(各地で集中豪雨の被害情報が刻々と出ていた)紅葉賀(もみじのが)は源氏18歳の秋から1年間を描いた第7帖をいう。紅葉賀は人の名前ではなく五十路を祝う祝賀会と言ったところだろう。朱雀院で開かれる紅葉賀に向けての準備で騒がしくなっていた。桐壺帝は最愛の藤壺が懐妊した喜びに臣下たちも準備で動き回っていた。(気象庁の解説で今回はレアなケースと放送)だが藤壺の子は桐壺帝の御子ではなく最愛の息子光源氏の子であった。政敵の右大臣側の勢力や藤壺のライバルに発覚すれば破滅は確実である。源氏は藤壺の心配をよそに藤壺と再度交流をと手紙を送り断られていた。源氏は華やかな式典で舞を披露する事になっても浮かない顔のままだった。(テレビを見ている人の中で何人が理解できるのか)源氏の唯一の慰めは北山から連れて来た藤壺の姪の少女若紫を見る事だった。帝は式典に参加できない藤壺のためにリハーサルを宮中で催すことに決める。源氏は雅楽の演目青海波を舞いながら何度も藤壺へ視線を送っていた。藤壺も一瞬源氏を見るが源氏を憎む皇太后の弘徽殿女御は嫌がらせをする。(レアなケースとは珍しい事態と言った意味だろう)紅葉の中見事に舞を終えた翌日源氏が藤壺に文を送った返事が届き胸を躍らる。桐壺帝が源氏に正三位と位を上げ弘徽殿女御は不満を露わにするのだった。翌年二月藤壺は無事源氏にそっくりな美しい皇子(後の冷泉帝)を出産する。桐壺帝は最愛の皇子を得て喜ぶが藤壺は罪の意識にさいなまれるのだった。
2018.07.08
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「末摘花(すえつむはな)は異色の不美人である」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(足が熱く2015/8/11に足湯バケツを購入している)末摘花(すえつむはな)とは源氏物語巻名のひとつで第6帖。茎の先端につく花を摘み取って染色に用いベニバナの古名でもある。源氏18歳頃に末摘花と出会い生涯光源氏と関り続けた女性の一人である。(足湯バケツを購入する前から足が熱かった)源氏は「悲劇の姫君」という幻想に憧れと好奇心を抱いて求愛する。親友の頭中将とも競い合うが彼女の対応はハッキリせず源氏を困惑させた。ある雪の朝に末摘花の顔を覗いた源氏は美しくない顔に驚いてしまう。その後も世間知らずな言動の数々に閉口しつつも源氏は彼女と逢っていた。(冬の灯油暖房は足が熱く殆ど使わなかった)彼女の困った表情や素直な心根に見捨てられないものを感じていく。困窮した彼女の暮らし向きを思うにつけ援助を行うようになっていった。末摘花は常陸宮と呼ぶ皇族の一人娘だが父親を早くに亡くし困窮していた。僧侶の兄と国守に嫁いだ叔母がいるが経済的な援助は見込めなかった。(4年ほどの手足の火照りが熱中症に繋がった?)極端に古風な教育を受け一途で純真そのものの汚れのない令嬢だった。末摘花は源氏物語の中で最も細かく容貌を描写された女性である。座高が高く痩せ細り顔は青白く鼻が大きく異様に垂れ下がって見える。鼻の先は赤くなっていると描かれ源氏物語の中では異色の不美人である。(分からないが体は何かを訴えている事は間違いない)皇族の父宮が亡くなる前の裕福さと亡き後の没落が見事に表現されている。大人しく実直な性格で昔気質の気が利かない性格の為に源氏を困らせる。彼女は源氏に忘れられていた間も一途に源氏の帰りを信じて待ち続けた。源氏はその一途さに二条東院へ引き取り妻の一人として晩年も平穏に過した。
2018.07.07
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「若紫は源氏の妻の紫の上のことである」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(2011/10時点の私の血圧94/132だった)源氏18歳、若紫10歳の折の事柄が源氏物語の第5帖に描かれる。若紫は幼い頃の紫の上の事を描いている事で若紫と呼ばれている。光源氏が北山で若紫を垣間見てから二条院に迎えるまでを描がいている。(中国での仕事中の血圧は116/162の時もあった)源氏はマラリアの三日熱を病んで加持祈祷のために北山を訪れていた。密かに恋焦がれる藤壺(23歳)の面影を持つ10歳の若柴を垣間見た。若紫は藤壺の兄兵部卿宮の娘で父の正妻による圧力を機に心を病んだ。若紫の母は若紫が生まれて程なくして病により亡くなっている。(今回眩暈が続き始めて血圧を測ると52/88である)若紫は祖母の北山の尼君の元で育てられてより10余年経っていた。源氏は若紫の後見を申し出るが結婚相手には幼く尼君は本気にしない。4月藤壺(23歳)は病で里下がりした折に源氏は藤壺と再会を果たすことに。藤壺は源氏の文も拒み続けたが源氏の義母の藤壺は源氏の子を宿していた。(1日2Lは飲めないが脱水と疲労から低血圧なのか?)若紫は北山の尼君が体の調子を崩しその後若紫と共に都に戻っていた。源氏は晩秋尼君を見舞いに訪れるが尼君は間もなく亡くなってしまう。身寄りのなくなった若紫を源氏は父兵部卿宮より先に行動を起こす。源氏は自らの屋敷二条院へ藤壺の身代わりに若紫を育てようと連れ去る。
2018.07.06
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「悲劇的な最後の夕顔は読者の心に残る」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(妻の寝間着を大きな袋へ入れ出掛けようとした)夕顔(ゆうがお)については一度書いたが再度書いてみよう。夕顔は源氏物語の第4帖に登場し帚木(ははきぎ)三帖の第3帖になる。源氏物語に登場する夕顔は「常夏(なでしこ)の女」とも呼ばれている。(ももを車の助手席のケージに乗せ車道を走り出した)夕顔は葵の上の兄である頭の中将の側室だったが光源氏は葵の上の義弟。頭中将の一女(後の玉鬘)を産むが本妻の嫉妬を恐れて姿を消した。宮中を出て街中に紛れ暮らしていた時若い光源氏と情を交わしてしまう。幼い娘(後の玉鬘)を残して若死にし悲劇的な最後が印象に残る女性である。(信号が二重に見え1時間の運転を取り止め病院へ連絡)源氏17歳夏から10月従者藤原惟光の母親でもある乳母の見舞いの折の事。隣に夕顔が居り垣根に咲く夕顔の花を源氏が従者に取りに行かせ和歌を頂く。藤原惟光は源氏より少し年上だが源氏との密会の際に急死した夕顔を葬る。街中で暮らす夕顔と和歌のやり取りなど光源氏のために働いていた。(体の状態を説明し寝間着を病院で洗って頂く事になった)夕顔の葬儀を終え源氏は夕顔がかつて頭中将の側室だった事を知る事になる。源氏は夕顔に忘れ形見の姫君(玉鬘)の事を知り姫君を引き取りたいと切り出す。騒ぎを恐れ制止され夕顔が暮らしていた家へ向かうが雑草に覆われていた。登場する回数こそ少ないが悲劇的な最後が印象に残る女性夕顔は心に残る。
2018.07.05
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「源氏は空蝉ともう一度一夜を共にと思う」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(ももの催促で深夜の散歩でびしょ濡れになった)「帚木」(ははきぎ)は源氏物語巻名の桐壺に続く第2帖。巻名は光源氏と空蝉が交わした和歌の帚木の心や消ゆる帚木に因む。帚木帖と3帖の空蝉(うつせみ)4帖の夕顔と併せて帚木三帖と呼ぶ。(遠くへは行かずに住宅街の中を3周するだけだった)「帚木」は「桐壺」の後の話を描いているが数年間の時間が経過している。「帚木」では正確な源氏の年齢は書かれていないが17歳夏から冬の話だ。五月雨(さみだれ)の夜17歳になった光源氏へ友の頭中将が訪ねてきた。さらに2人の近所の貴族も交え4人で女性談義をすることになる。(横殴りの雨でびしょ濡れになり足の熱が楽に)頭中将は女性と付き合うなら上流より中流の女性が良いと前置きする。子までもうけた内縁の妻の話をするが正妻の嫌がらせに遭い家を出た。頭中将の内縁の妻が夕顔で子供が玉鬘だということがわかる。翌日紀伊守の屋敷に訪れた源氏は空蝉に興味を持ち強引に一夜を共にする。(体の熱が引き眩暈も治まり軽くなったようだ)強引に空蝉と一夜を共にして以来空蝉(うつせみ)を忘れられなくなる源氏。源氏は紀伊守に計って空蝉の弟の小君を自分の元で仕えさせる事にする。源氏から文を託された小君は空蝉に恋文を届けるが断られてしまう。姉の返事を源氏に伝え自分になびかない空蝉ともう一度一夜を共にと思う。源氏物語3帖へと
2018.07.04
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「光り輝くような美貌から光源氏と呼ばれた」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(トイレに起きテレビをつけると2対0で日本リード)源氏物語第一帖の桐壺(きりつぼ)から学習。源氏誕生から12歳までを描き桐壺は後宮の七殿五舎のうちの一つに居た。七殿とは弘徽殿、承香殿、麗景殿、登華殿、貞観殿、宣耀殿、常寧殿の事。(座って間もなくベルギーがヘッディングで1点入れる)五舎とは飛香舎(藤壺)、凝花舎(梅壺)、昭陽舎(梨壺)、襲芳舎(雷鳴壺)、淑景舎(桐壺)を呼び源氏の母は桐壺は淑景舎(しげいさ)に控えていた。淑景舎(桐壺)は天皇の御座所となる清涼殿から最も遠い場所にあった。物語では帝(桐壺帝)から寵愛を受けた女性(桐壺更衣)が淑景舎にいたとある。(ベルギーの動きが早くなりヘッディングまた1点取られる)更衣とは天皇の居室(寝室)に立ち入ることが可能な女官の事を更衣と呼ぶ。桐壺は美しい皇子を出産するが他の妃たちの嫉妬や嫌がらせが原因で病気に。桐壺更衣は3歳の皇子を残して病死し桐壺帝は深く嘆き悲しむ。桐壺帝を慰めるために亡き更衣である桐壺に生きうつしの藤壺を招く。(ロスタイム残り少なくなりゴールされ失点して日本敗退)先帝の皇女(藤壺)が入内して皇子は帝の手元で育てられる。皇子は亡き母(桐壷)に似ているという藤壺を殊更に慕うようになる。帝は元服した皇子に源姓を与えて左大臣家の娘(葵の上)の婿にする。元皇子はその光り輝くような美貌から光る君と呼ばれ光源氏の物語が始まる。(FIFAランク3位を脅かす戦い胸を張り帰って来てほしい)当時の天皇は皇室経費を削減し安定させるため皇子の多くを臣籍降下させた。嵯峨天皇の妃には皇后(中宮)多くの女御・更衣・御息所などがいた。皇后・女御など比較的身分の高い妃ではなく、更衣・御息所など、比較的身分の低い妃が産んだ皇子から臣籍降下させた。
2018.07.03
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「貴族が執筆途中の源氏物語を読んでいた」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(光源氏の妻の5人を苦戦しながらも紐解いて来た)平安時代中期の970年ごろ藤原為時(ためとき)一条朝の貴族を父に持つ。歌人でもあり漢詩人でもあり中納言の藤原兼輔(かねすけ)は祖父になる。紫式部は歌人を父とする環境の下に生まれ短歌の才能が長けていた。998年ごろに藤原宣孝(のぶたか)と結婚する親子ほど年の差があった。(今回源氏物語を書いた紫式部を紐解いてみた)紫式部は翌年のちの歌人・大弐三位となる藤原賢子を出産した。2年後の1001年に疫病の為に夫の藤原宣孝を亡くす事になる。藤原宣孝が亡くなった頃から源氏物語を書き始めたと文献にある。1005年から一条天皇の妃である彰子(藤原道長の娘)に仕え始める。(源氏物語は世界最古の長編小説として知られる)1011年に10年の歳月を掛けた源氏物語が完成している。1012年に紫式部は彰子のもとを去り2年後他界したと伝わる。紫式部の名前は本名ではなく源氏物語の紫の上から名前を付けている。平安時代は天皇の妃や内親王でもなければ本名も生没年月もわからない。(源氏の妻たちのあとは関係した女たちを紐解きたい)紫式部が生きたのは10世紀の終わりから11世紀の初めごろ。平安時代の中期だが紫式部が生没年は正確にはわからないが40歳で没。紫式部の父が兄に漢文を教えていても紫式部の方がすぐに覚えていたほど。紫式部はとても内気な性格で漢文の知識がある事を周りには見せなかった。(夕顔は中国で何度も聞いていて既に更新済みだ)源氏物語が書き始められこの物語の評判が藤原道長の耳に入ることに。一条天皇の妃である彰子に世話役として仕えることになり執筆を続けた。宮中では一条天皇をはじめ多くの貴族が執筆途中の源氏物語を読んでいた。後の摂政道長も紫式部の部屋を訪ねては源氏物語を催促したようである。
2018.07.02
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「女三宮は不義の子薫を産む事となる」 「Dog photography and Essey」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(amazonから経口補助液が届き試し飲みしてみた)女三宮(おんなさんのみや)の読み解きは難しい。女三宮とは歴代の天皇の三番目の姫宮のこと。源氏物語に登場する内親王が3人いる。現在では眞子さま、愛子さま、佳子さまの3人が内親王である。(近所の看護師さんからの経口補助液と味が違い過ぎる)光源氏の父である桐壺帝の同母妹、頭中将・葵の上の母。桐壺帝の第三皇女、賀茂斎院。母は弘徽殿女御。桐壺帝の第一皇子の朱雀帝の第三皇女、光源氏の正室。女三宮は光源氏の姪で朱雀院の第三皇女の二品内親王。(薬局で同じ経口補助液を買ったが値段は30%高い)源氏が41歳のとき女三宮は15歳の時物語りが始まる。母は藤壺中宮の異母妹である藤壺女御。女三宮は藤壺に似ていない。出家する事になった朱雀院が母も亡く後見人もいない女三宮を不憫に思う。准太上天皇となっていた源氏への正妻と決め六条院の春の町の寝殿へ。(届いた経口補助液は安いが不味すぎて飲めない)源氏も内親王であると言う事で女三宮を妻に迎える事を承諾してしまう。容姿は美しいが父に溺愛されて過保護に育ちあまりの幼さに失望する。女三宮への失望は返って紫の上への愛が増す事となり女三宮は傷つく。女三宮の心の隙間へ柏木の強引な密会の結果不義の子薫を産む事となる。(黒酢ぶどうベリーUSM茶へ混ぜて飲むと問題ない)薫が柏木と女三宮の不義の子と気付いた源氏は女三宮に強く当たる。耐え切れなくなった女三宮は父朱雀院に願って出家する事になる。源氏亡き後は六条院を出て朱雀院から譲られた三条宮で余生を送る。仏の道にすがる女三宮の姿は息子の薫の性格にも根深く影響していく。
2018.07.01
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「娘の行く末を考え手放す事を決断する」 「Dog photography and Essey」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(経口補助液で徐々に体の調子も良くなってきた)明石の君(あかしのきみ)について。源氏が28歳の時に明石の君は19歳。紫の上は20歳とされる。光源氏の明石時代の愛人で源氏の一人娘の明石の中宮を出産する。紫の上や花散里に次ぐ地位を得る。父は明石の入道で母は明石尼君。明石の君の父は光源氏の母方の祖父の甥で官職を捨て出家している。(早速amazonへ48本の経口補助液を注文した)源氏物語に登場し明石の御方とか明石の君とも呼ばれる。明石の上と呼ぶ人もあるが身分の低い側室で「上」は付けていない。住吉大社にお参りに来た明石の君は夕霧を連れた源氏を見つける。源氏の息子の夕霧が大切に扱われ隠し子のような存在の自分の姫を比較。(梅雨明けが早まり今年の夏は長くなりそう)明石の君はわが身との差を感じ深く傷つき参拝せずに帰ってしまう。源氏はお側の者から明石の君も来ていたと言う話を聞き彼女の心を推測。側用人は明石の君を思う源氏の心を察し筆を差し出し文を遣わしていた。明石の入道は娘に京の姫君に劣らないほどの厳しい教育をほどこしていた。(2軒隣の看護師さんへ経口補助液を返しに行った)源氏は右大臣の娘の朧月夜と縁が切れない事で京から明石に流されていた。父の入道の肩入れで逢引を重ね源氏が帰京したのち明石の中宮を出産する。田舎育ちで身分の低さもあり源氏の愛人達にひけをとるのではと懸念。源氏の二条東院へは入らず父が用意した大堰(おおぜき)の別邸に住む。(母から聞き点滴が一番だけど役に立ち良かったと笑顔)別邸で源氏と明石の中宮と対面が叶うが紫の上の養女として引き取られる。明石の君は娘の行く末を考え手放したが成人するまで会う事は叶わなかった。明石の君は冬の御方とも呼ばれ娘の入内を機に付き添い紫の上と対面を果たす。生真面目で我慢強く気品を備え紫の上の死後は悲嘆にくれる源氏の慰め役となる。
2018.06.30
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「源氏を裏から支え聖母と呼ばれていた」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(熱中症の眩暈と嘔吐の症状がぶり返してきた)花散里(はなちるさと)は源氏物語の巻名のひとつで第11帖。源氏物語の作中最も短い巻であり巻名は光源氏の詠んだ歌に因む。「橘の香をなつかしみほととぎす花散る里をたづねてぞとふ」から取る。花散里は「桐壺帝(源氏の父)」の妻の妹で源氏の信頼も厚かった。(自治会内の売られた空き家が取り壊された)花散里(はなちるさと)は光源氏の妻の一人である。長男「夕霧ー光源氏の長子。母は葵の上」孫「三の君ー貴族の三女の敬称」 養女「玉鬘ー夕顔の娘」源氏は3人の世話を全て花散里に任せ裏から支えた聖母と呼ばれている。(2軒隣の看護師さんが経口補水液を持って来てくれた)光源氏25歳夏の話。五月雨の頃に源氏は故桐壺院の妃の一人麗景殿女御を訪ねる。妹の三の君(花散里)は源氏の恋人で姉妹は源氏の庇護を頼り暮らしていた。訪問の途中で中川の女(空蝉うつせみ)に歌を詠みかけるが拒絶される。空蝉の邸は橘(たちばな)の花が香り昔を忍ばせるホトトギスが鳴いていた。(経口補水液は点滴と同じ作用なので飲んでみてと言われる)源氏は空蝉と昔話を語り合った後そっと孫である三の君を訪れた。花散里は源氏の父桐壺帝の妻を姉に持ち源氏とは若い頃から関係があった。容姿は端麗ではないが温和な慎ましい性格で裁縫や染物にも堪能な女性。源氏の妻の中では紫の上に次ぐ立場となる。(一気に飲まず100mLずつ飲んで大分楽になった)花散里は源氏の通い妻の一人だったが六条院造営後は夏の町の主となる。夏の御方とか東の御方とも呼ばれたが家庭的で信頼の置ける人柄を見込まれる。夕霧と玉鬘の母代わりとなり夕霧の子の一人を孫として引き取り育てた。源氏の死後は二条東院を遺産として譲り受け再び二条東院に移った。
2018.06.29
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「佳人薄命の如く夕顔は玉鬘を残し他界」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(飲酒はしてなかったが酒より酷い眩暈だった)第3帖夕顔は三位中将の娘で頭中将の側室で一女を産み名を玉鬘と付けた。本妻の葵上の嫉妬を恐れて市井に紛れ暮らしている時光源氏の愛人となる。光源氏が17歳で24歳の六条御息所へ通っていたが次第に足が遠のいていた。その折19歳の夕顔と出会いお互い素性を明かさずに結ばれることになる。(ももの散歩は水を持ち日傘を差し慎重に歩いた)夕顔との出会いは源氏の乳母の見舞いで五条まで見舞いに出かけ出会う。侘びしい佇まいの隣家に咲く花の名を尋ねた女性が夕顔で和歌を源氏へ送る。興味を持った源氏は返歌をし互い身分を明かす事もなく夕顔に心ひかれていく。夕顔は無垢な雰囲気を備えどことなく品がある不思議な女性だった。(歩数も普段は13000歩だが1200歩へ昨日6700歩)六条御息所は源氏が久しく来ないので弄ばれた事が広まらないか苦悶の日々。源氏は夕顔を連れ無人の屋敷で一夜を共にするが恨み事を言う美女の夢を見る。夕顔は息をしていなく夢に出てきた美女が再度幻となって現れては消えて行った。佳人薄命を絵に描いたような悲劇的な最後が印象に残る夕顔は玉鬘を残し他界。(私が救急へ運ばれればももが一人取り残されてしまう)帚木三帖の「雨夜の品定め」で「愛した女人が北の方の嫉妬に遭い姿を消した」頭中将の言葉にその女人が夕顔である事を源氏は悟り玉鬘がいる事を知った。源氏は「玉鬘を引き取りたい」と切り出すが騒ぎになる事を恐れ制止された。源氏は夕顔がふと現れるのではと家へ向かったが夕顔の姿は何処にもなかった。
2018.06.27
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「紫の上に冷たく当たってきた事を後悔」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(トイレの便座を上げた状態で手を付き嘔吐)怨霊の人の六条御息所の事を書いたせいなのか眩暈嘔吐が酷かった。ベッドから起き上がろうとしても部屋がグルグル回ってトイレで嘔吐。脳梗塞を疑い水分補給をし嘔吐しても栄養を補給したが熱中症かも。一夜明けたものの自分の体ではないように重たくバランスも取れない。(トイレまでは何とか間に合ったがももが心配そうに覗く)光源氏の正妻は葵の上で父は桐壺帝時代の左大臣で母は桐壺帝の妹の大宮。光源氏とは従姉にあたり左大臣の思惑で元服した源氏の北の方に納まる。源氏が22歳の時にようやく懐妊の報に周囲は喜びに沸き上がっていた。周囲の勧めで賀茂祭へ見物に行き源氏の愛人の六条御息所と車争いになる。(左耳が風が吹いてもブーンブーンと音がしていた)六条御息所の牛車を壊し恥をかかせてしまい葵の上は物の怪に悩まされる。葵の上は臥せる日が続き源氏が見舞う前で六条御息所の生霊が姿を見せる。葵の上は難産の末に夕霧を産み覚めた源氏と夫婦の情愛が通い合う事になる。だが六条御息所の怨霊なのかその夜に急に苦しんで呆気なく他界してしまう。 (午後5時過ぎからの散歩は日傘を差して出掛けた)密かに藤壺を恋い慕う源氏に葵の上も打ち解けず夫婦仲は冷め切っていた。源氏との夫婦仲の冷淡さは葵の上が詠んだ和歌が一首もない事にも象徴される。紫の上は消えてゆく露のように最期の時を迎え夜が明けきる頃に亡くなった。源氏は紫の上に冷たく当たってきた事を後悔し左大臣邸にこもって喪に服した。
2018.06.26
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「娘には手をつけぬよう釘を刺し病死」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。(西野監督の采配が光っていた試合だった)六条御息所(ろくじょうのみやすどころ)は光源氏の愛人の一人。華やかに描かれ物語では生き霊になり人を殺す異質な未亡人像を描く。 「袖ぬるる こひぢとかつは 知りながら 下り立つ田子の みづからぞうき」泥沼の恋だと知りながら気持ちを抑えられなかった私は愚かですねの意味。(セネガル戦は2対2で引き分けた)彼女の嫉妬した表情は般若の面にも代表され妖怪扱いされてきた。現代の日本文学では病んでると言うヤンデレの元祖に祭り上げらている。 亡き東宮の皇太子妃の地位を持ち知性も教養もプライドも高い美女である。源氏には正妻葵の上がおり愛人という事に我慢していたが正妻を呪い殺す。(日本選手が揃って言った言葉は勝てた試合だった)正妻を呪い殺した事を源氏に知らせることなく自らの病を理由に出家した。六条御息所の見舞いに訪れた源氏に娘に手をつけぬよう釘を刺しつつ病死。死んでも尚怨霊として源氏の正妻の紫の上や女三宮にも取りついた。葵の上死亡以前に起こる夕顔の突然死の幽霊も六条御息所だと思わせる。 (28日対ポーランド夜11時キックオフ)御息所の一人娘の秋好中宮は亡き母の動きを嘆き悲しみ追善供養を行った。 現代で病気は遺伝や不摂生や精神ストレスからだが当時は怨霊とされていた。源氏は御息所の屋敷を自分の家である六条院に改造してしまっていた。 六条御息所の御息所は天皇及び東宮の子を産んだ妃にのみ与えられる。
2018.06.25
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「袖を振るという事は一つの愛情表現」 「Dog photography and Essay」では、愛犬ホープと歩いた道と「愛犬もも」との物語を公開してます。ラジオ深夜便で「トキメキ源氏絵巻」が始まったのが今年3月の事。源氏物語は人間関係の複雑さやストーリーの壮大さで読まない人も多い。番組に石田純一が出ていて驚いたが歌人の小島ゆかりも出ていて少し安心。源氏物語は主人公の光源氏が成長する過程を和歌を中心に描いた絵巻。光源氏が17歳の時に初めて恋に芽生えた相手が藤壺の宮だった。藤壺は光源氏の父親の後妻なので義母にあたり禁断の恋である。光源氏は藤壺が出席する宴で舞を披露し一首の和歌を藤壺へ送った。「物思ふに 立ち舞ふべくも あらぬ身の 袖うちふりし 心知りきや」直訳すれば貴女を想い舞うこともやっとという私の心をご存知でしょうか。あなたへと振る袖の心を知らないわけではないでしょうという意味の歌。「振る袖の心」袖を振るという事は愛情表現で藤壺へアピールした歌である。藤壺へ歌を送る前に光源氏と藤壺は夜を共にして光源氏の子を身籠っていた。光源氏の心は藤壺の宮へ藤壺の心は夫の桐壺帝に分かるのではと心情を詠む。架空の人物像を描いた紫式部は小さい頃から才女として抜きん出ていた。中国にも紅楼夢という長編小説があり学生達は源氏物語との類似点を探す。
2018.06.24
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