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ランチ時、テレビをONすると、唐突なニュースが流れていた。金正日さん、世を去る。健康に問題ありという話は流れていたけど、ほんとに唐突。脳にも心臓にも疾患をかかえつつ、肉体的精神的な無理を重ねて地方視察を重ね、その疲労から心臓に受けたに耐えかねたのだとか。独裁者だけど無理を重ねないと国をまとめられない状態だったのか、独裁者だから周囲の諫言も無視して暴走を続けたのか、どちらにしろ自ら寿命を縮めたって感じだなぁ。後継者である三男はまだまだ権力基盤を築けてはいないだろうし、エアポケットのようなリーダー不在のこの機を狙って軍部が台頭したりするんだろうか。軍部の力を抑えていたタガがはずれるようなものだろうから。日本はどう関係を築いていけばいいのだろう? イニシアチブをとれるだろうか?拉致問題は進展するんだろうかしらん。なし崩し的に反故にされることだけはないように。しかし・・・、父親の敷いたレールに乗り、国民が初めてその肉声を聞いたのは50才の時といういびつな姿に身をやつし、70才目前に地方巡りの列車の中で息を引き取る。幸せな人生だったのかな?思い残したことは何なのかなぁ。
2011.12.19
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フライドポテトの袋にあった注意書き。こんなことまで手取り足取り、配慮してやらんといかんのかな。「熱くてヤケドした!」なんてねじこむ客もいるのかな。店側の先回りしたクレーム対策なのかな。こんな過保護、過反応をよく目にする。自分の責任だと思うけどね。
2010.01.10
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シルバーウィークだとか。「敬老の日」が9月の第3月曜日にかわったことで出来た大型連休。敬老の日からの一週間は「老人週間」としてお年寄りを敬う気持ちをあらわし、心を育てる期間なんだそうだけど、世間は「休日」の話ばかりだなぁ。「不況の底を脱した」と日銀総裁が発言していたような気がするけど、まだまだ不況。でも、これまでみんな働き過ぎだったのかもしれないし、まとまって休みが取れるのはいいことだ。旅に出る人たちが多い。エコカー減税の効果もあるのだろうけど、車の販売も上向いてきたとか。100年に一度の大不況と言われていても、旅は出来る、車は買える。それだけ日本の経済は体力があったということなのかなぁ。でも、不況から抜けきったわけではないだろうし、リーマンショック以降の経済的な冷え込みが本当に見えてくるのは来年だと言う人もいる。これまでは本格化するまでの序章だったってことかな?専門家の分析ってのは、どうもわからない。素人に分かるように説明するのがマスコミに登場する人や記事・番組の義務だと思うのだけど、耳にし目にするたびに「???」が増えてしまう。「?」を理解するだけの経済的な素養がこちらにないからだとは思うけど。経済って難しい。カレンダー上は連休だけど、休めない人たちもいる。ぼくも、どこへも出かけません。自分にも言おっと。 「ご苦労さまです」。
2009.09.19
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内閣のメンバーが決まりつつある。個々の実績&実力は、ぼくら選挙民としては把握しきれないけど、皆さん、しかとそれぞれお仕事して欲しい。特に郵政事業はどうなるか。興味津々。自民党が大勝利をおさめた前々回の選挙。郵政事業をどうするか、それのみが焦点という考えられない選挙でばくら選挙民は踊った。小泉さんの思惑のままに。今回の衆院選は自民党のあまりの体たらくにぼくらがどんな声をあげるか。政権交代も十二分に考えられる選挙だった。投票率は高かったものの、それでも70%に届かなかった。10人のうち3人が国の動きにを左右する一票を無にした。もったいないね。「投票しても政治は変わらない」そんな諦めは確かにあるけれど、自分の票を投じるという権利を行使しなければ、不満の声をあげるのも虚しかろう。今回は国のかじとりを民主党に委ねたけれど、彼らの実力を認めたわけじゃない。未知数に少々の期待をかけた。何をどうやるか? それを期待と呼べるのならば、期待している。裏切られるのか、納得出来るのか。楽しみではあるね。
2009.09.15
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衆議院の解散総選挙はいつか?自民党役員、閣僚の人事一新はあるのか?それとも、総裁選挙で自民は党の顔を取り替えるのか?新聞も、テレビニュースも、すべて「選挙ありき」。どうしてマスコミは、政治家の我が身保身のどたばたをかくも重大事として取り扱うのだろう?景気はかすかに上向いて来たらしい。でも、有効求人倍率は過去最低。仕事を探しても見つからない人はますます増えている。必要なのは、経済対策 雇用対策ということは明らか。今、どんな対策が打ち出され、どんな実効があがっているのか? さっぱりわからない。今、マスコミの役割は、解散音頭の太鼓を叩いて盛り上げることじゃなく、政治家たちを「やるべきことをやれ!」といさめることだろう。今この時期に解散総選挙をしなければならない理由もさっぱりわからない。麻生さんは安部さん、福田さんのあとを受け、自民党の総意で担ぎ出したはず。それなのに、人気が下がると「この顔じゃ選挙は闘えない」と引きずり降ろす。選挙の顔にそのまんま東さんを担ぎ出そうという動きもある。なんとまぁ、節操のないこと。政治家のイスを守らせるために、ぼくらはあんたらを選んだわけじゃない。自分の仕事をやってください。選挙に浮かれている時間なんかないでしょう。
2009.06.29
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鍛えた拳で同じ学校の学生に強盗行為を繰り返していたボクシング部員の浅はかさには驚いたけど、部そのものをあっさり廃部にした大学にも驚いた。決定したのは学長や理事たち10人。話し合った時間は、たった“2時間”ですと。全会一致だったとか。ホントかね?他の学生やOBの意見をまったく反映させない理由はなんなのだろう?行為は卑劣だけど、どうして「みんなで総懺悔」になってしまうのかな。それも「廃部」とは。インタビューに呆然とする部員。その気持ちはどこへ持って行けばいいのかな。仲間が犯した過ちを、仲間として反芻する間もなく“ジ・エンド”とは…。これって、即効の解決策になるのかしらん?半世紀以上の歴史があるという名門ボクシング部。でも、これが例えば六大学の野球部だったりしたら、2時間の話し合いでその長い歴史に終止符をうったかなぁ。伝統って結構大事。そこに触れた人の心もね。心の拠り所を無くした部員、想い出を後輩ばかりか大学本部にまで汚されたOBたち…。お気の毒。
2009.06.18
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大砲から打ち出される着物の女性。くるりと空中回転、シュタッと立って、歌い出すは「天城越え」。あぁ、石川さゆりさん…。テレビにCMを出す企業が減ったこのご時世、パチンコ業界の元気さが目立つのは相対的なモノなのかな。もう30年近くパチンコをしないから、今どんな台が人気があるのかは知らないけれどテレビCMを見る限り、ありとあらゆるキャラクターの台があるみたい。でもね~。名曲を歌うご本人が自らを茶化すようなCMにご登場っていうのはどうなのかなぁ。歌い手も、曲の作者もスタッフも、そしてファンにとってもプラスにならない気がするのだけれど。お金が入るからいいのかなぁ。すごくもったいない気がする。パチンコのCMだからというのではなく、誇るべき自分の仕事を茶化していることが。石川さんも50代。白い帽子で「お~もい出します、隠れんぼ♪」と歌っていたころをふと思い出してしまった。
2009.06.05
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民主党の代表選挙は鳩山さんが勝ち、この体制で麻生さんと次期総理の座を睨んだ解散総選挙とあいなるのかな。世襲議員の存在が少しだけ問題視されてる。これまで何度も浮かんでは消える世襲議員問題。今回もいつの間にやら沈んで行くだろうな。あとを継ぐ議員はどんどん増えてるし、その彼らが自分自身の存在を揺るがすこの問題に本気で取り組むことは期待出来ないし。何より、世襲の問題は選ぶ方の問題。血筋に重きを置く有権者が選択基準を候補者の政策に目を向けるようにならないと「○○議員の二世三世四世」は増えて行く。麻生さんは吉田茂の、鳩山さんは鳩山一郎の、それぞれ孫だから、世襲議員サラブレッド中のサラブレッド。国の顔も血族で交代するようになるのかな。昔、大学受験の時にお世話になったお宅は、鳩山一郎さんのお宅の隣だった。都心に重厚な壁が続く邸宅で、「国の顔は庶民の代表じゃないんだなぁ」と思ったっけ。お孫さんは僕らの視点に立てるかな。麻生さんが庶民に軸足を置いてないのは、その言動でもう明らかだけど。
2009.05.18
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豚インフルエンザの拡大が続き、警戒段階が上げられた。パンデミック=世界的大流行に近づいているということ。日本ではまだ感染が確認されていないけど、やっぱりなんとなく薄気味悪い。「パンデミック」という言葉の響きが「コワイ…」感じを強くしている気がする。これ以上広がらず、沈静化してくれるといいけど、「世界的流行」という意味では、冬場、年中行事のように現れる香港型やソ連型はすでにパンデミック化してるということなのかな?「人混みに出ないように」と言われても、そりゃムリというもので、僕らに出来るのは手洗い&ウガイ、そしてマスクをするくらい。アメリカではインフルエンザを「うつした」「うつしてない」というイザコザも起こっているらしい。これも恐い話だ。テレビ等の報道は、どうしても煽り気味になる。コメンテーターとして登場する専門家も「何が起きてもおかしくない」と深い憂慮を示す人から「毒性は弱いので慌てることはない」と穏やかに話す人までさまざま。目に見え、耳に聞こえる情報のどれを信じるか。その取捨選択は、結局ぼくら個人に任せられているということかな。煽りに急き立てられるのもイヤだけど、バスに乗り遅れるのも不安だし。困ったもんだね。早く心穏やかな日が訪れますように。
2009.04.29
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きょうから市議選が始まった。朝から候補者の名前を連呼する選挙カーがぼくの住む地区にも入れ替わりでやってくる。連呼連呼また連呼。ひたすら候補者の名前を呼ぶばかり。それがお仕事なのだからヤメテくれとは言わないけれど、テープ起こしをしているぼくの耳に取材の言葉が聞こえないのは困るなぁ。これが次の日曜まで続くのか…。30人弱の候補者が立候補しているのだけれど、今のところ分かっているのは新聞紙上に載った候補者の顔と履歴だけ。思想信条とか、公約とかは今のところ「?」のまま。候補者個人のチラシなぞは2,3、郵便受けに入っていたけれど、いずれ新聞の折り込みとかで全員の思うところが知らされるのかなぁ。なんて有権者側が受け身だから「連呼」になるのかな。本当なら候補者がどう考え、何をしようとしているのか、自ら知ろうとしなきゃいけないんだろう。でも、しない。めんどくさいもんね。一票を持つ有権者の姿勢がこうだから、ぼくらの脳に名前をすり込んだ方が早い。だから「連呼」になるのかな。拡声器で流れる名前を聞くたびに、「連呼」は逆効果じゃないかしらんと思うのだけど。辻に立ち、地道に語りかける候補者もいる。言っている中身はさておき、少しポイントは高い。その姿勢が議会でも保てるのかはわからないけれど。候補者の大半が「無所属」っていうのもその政治的バックグラウンドをわからなくしてる。市議選に立っている候補者で政党に公認されているのは、公明2人、共産3人、社民1人…。自民党、民主党共に公認が一人もいないってのもおかしくない?国政は二大政党制に近づいているなんて言われるけれど、地方は逆なのね。また複数の名前が飛び交い始めた。あ~、やかましか…。今回もまた、一番名前を聞かなかった候補者に入れようと思ってしまうのだった。
2008.10.12
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後期高齢者医療制度がこの4月から始まっているそうだ。知らなかった。最初、新聞の記事で目にした時には、ネーミングのあまりのセンスのなさに唖然。このネーミングを提案した人&決めた人たちって、どんな感覚の持ち主なんだろう?こう呼ばれた時の心の痛みにも、いずれ自分もこう呼ばれる年齢に達するということにさえも、全然思い至らないんだろうなぁ。福田さんは「長寿」と呼び変えることにしようと言ったけど、通称変われど法律上は「後期」のまま。だから、保険証には分類された呼称がはっきり記載されている。保険証は色分けもされている。「一目で歳が分かって、やだわ」ニュースで老女がそうはにかんでいた。年齢を重ねても、控え目な恥じらいが消えることはない。が、お役人にそこまでの想像力を期待するのは酷なのかも。この新たな保険証が二つ、届いた老女がいるそうだ。疑問に思った女性が役所に問い合わせたら、「ひとつは自分で破棄してください」と言われたとか。すごい回答だなぁ。運転免許証などを持たない人にとっては、保険証は即身分証明書だ。「わたくしたちにとって大事な書類を、自分で破棄しろ、ですって…」言われた方は驚愕だったろうし、存在の軽さを思わされたかもしれない。「長寿」保険料の年金からの天引きが今日から始まったようで、銀行など金融機関や役所の窓口は高齢後期に分類された人々でごった返した。「2年も前に決まったことなのに」法律家の言葉を聞きつつ、ふと思った。ぼんやり日々を過ごしている今この時にも、数年後に「知らなかった…」と呆然とする何事かが決まっていっているかもしれない。怖いね。
2008.04.15
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不二家の社長さんは辞任するそうだ。誰にも実害が出ていない現状で、かつ法的にも違反しているかどうか定かでない中の引責辞任ってのも奇妙だと思わなくもないけど、社内倫理のルーズさを示す事例がこんなにズルズルと出てくると、創業者のお孫さんも身をかわしきれなかったんだろう。個人としての社長さんはお気の毒とは思うし、辞めればいいってもんでもない。これで「責任をとった」と思ってしまうぼくら消費者もルーズで甘い。しかし、この事件が表に出てきた経緯は、どうもムカつく。問題が明るみに出た当初、不二家は「再雇用したパートの判断が甘かった」と公表した。社員ではなく、臨時雇用の人間が過ちを犯したと記者会見を通じ、世の中に発表したのだ。そう言った担当者は「パートのモラルが低かった。社員はキチンとしてるよ」と言わんばかりの口調と表情で、ぼくはその記者会見をテレビで見たときに「あ、ウソだな」と思った。あとで知ったことだけど、この問題自体、臨時雇用の人による内部告発から明るみに出たという。それに対し、調査した会社側は表沙汰になると「雪印の二の舞になる」とした。公表すべきだとした幹部はひとりもいなかったそうだ。それが昨年の11月。隠蔽と言われても申し開きはできないだろう。そして、期限切れの牛乳その他の原料を使用する命令を下したのは上司で、担当者から工場長までその事実を知っていた工場もあると今朝の新聞では報道されている。なんのことはない。モラルが低下していたのは社員であり、それを組織している会社じゃないか。内部告発した臨時雇用者がいなければ「いいよいいよ、このままで」状態がずっと続いていただろう。なにか事があると企業は社員を守ろうとする。それは当然なのだろう。「社員」なのだから。しかし、企業が行っている経済活動の多くの部分はパートや契約社員などが担っている。賃金を低く抑えられ、しかし、仕事の内容は社員と同じ。そうした多くの人がいるから、世の中はキチンと回るのだ。それを、不祥事だからパートに責任を押しつけちゃえとする企業体質。信じられないね。でも、決してまれな例じゃないだろう。最初に記者会見した担当者の表情を思い出すにつけ、「臨時雇用者をナメんじゃないよ!」って、思ってしまうのだ。「社員よ、しっかりしろよ!」ともね。雇用主・企業体から手厚く保護され、安穏としていられる特権を持つ「社員」は、自らの組織を守るということがどういうことかを考える責任も負う。その重い責任があればこそ、組織員たり得る。既得権を後生大事に抱き締め、言われたことだけを盲目的にやり続けるだけじゃ、組織にとってもマイナスにしかならない。「社員」こそ、ときには我が身を斬って悪い血を流すことも必要なのだ。保身ばかりじゃなくてね。
2007.01.16
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歯科医を目指す浪人生の兄が、女優を目指す妹を殺めた。朝のワイドショーなどでは、なにがどうしてどうなったやら、ちっとも確証のないままに“○○らしい”レポートのオンパレード。聞くたびに気分が滅入る。「だったらワイドショーなんか見るなよ」っていうむきもあるだろうけど、事件そのものには多少の興味はあるのだった。祖父が歯科医。父も歯科医。そして、兄も歯科医間近。そんな、歯科医に染まった家に生まれたら、ぼくも「歯医者になろう」と思ったろうか?思っただろうな、きっと。そして、自分で自分をがんじがらめにしていたかもしれないな。高校時代の知人に歯科医の息子と生まれた双子がいたけど、ふたりはそろって浪人を経て、そろって仲良く歯科医となった。どちらが家の歯科医院を継いだかは知らないけれど、親のあとを継ぐってのはあたかも当たり前のように、平成も19年目となった現在でさえ、誰もが思っている。だから、「他にも道はあるだろう」って軽々しく言うことはできないな。でも、やっぱりね、他にも道はあるんだよ。親の期待に見事応えた兄と、我が道を切り開いていくように見える妹。そのふたりにはさまれた、アイデンティティを見いだせない宙ぶらりんの自分。それに気づいてもどうしようもなく自分自身を追い込んで行く。つらいよね。歯科医を目指しているのは自分の意志だとか。ならば、受験の関門は越えざるを得ないし、その目標へ歩む限り、他の道は見えてこないね。でも、他にも道はあるんだよ、やっぱりさ。悩みのさなかにいるときには、他人の言葉は素直に耳には入らない。アドバイスは高所からの忠告に聞こえるし。朝日新聞は先日まで「いじめ」に関する有識者の言葉を連載していた。いろんな人が自分の経験を話したり、よかれと考えることを記したりしていたけれど、「みんな成功者の言葉に過ぎない」という読者からの意見もあったという。ぼくもその意見に近い。悩みのどん詰まりにいるときに、こうした言葉は心に響くんだろうか?ぼくも若いころ、誰の言うことにも耳を貸すか!と思っていた時期があった(らしい)。どんなアドバイスや意見も“言える立場にいるから言えるんだ”としか思えなかった。言えない立場にいる人はどう言うだろう? そう考えると“言える立場”の人の言葉もむなしく空回り。白々しくさえ思えてしまってしょうがない。そんな時期が確かにあった。「夢を持て」とかさ。少年よ、大志をいだけってか? 軽く言うなよ。いだけないから、悩んでいるのに。いだけないから、辛いのに。「夢を持て」なんて言えるヤツらって、持てない痛みを知らないんだな。そんな風に思っていたから、自分の未来に期待をいだけない若い人たちに言う言葉をぼくは知らない。でも、これだけは言える。他にも道はあるんだよ。道はひとつだけじゃないんだから。
2007.01.06
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教育基本法改正法案、参議院通過。ニュースのトップ項目=松坂選手、レッドソックス移籍決定。ニュース項目の順番は出来事の重要性と視聴者の興味を考えつつ最終的にはニュースのデスクが決定する(らしい)。教育基本法の改正よりも野球選手の輸出の方を喜ぶと思われてしまった視聴者。怒るべし。教育基本法の改正よりも野球選手の輸出を重要と考えるデスク&記者。恥じるべし。視聴者の興味に沿わなくても伝えるべきを、的確に、確実に、明快に伝える。それをやらずしてなんの“報道”か。なんの“ジャーナリズム”か。数の論理だけで突き進む議会政治。そこで葬られようとしている教育基本法。それを可能にした数的力学を作り上げたのはぼくら国民。恥じる。
2006.12.15
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電車内でメールを打ち続ける若い女性。止めるのを恐れるかのように没頭中。周囲も携帯を握りしめてる人ばかり。バッグに入れていればいいだろうに。でも握りしめてる必要がある。携帯を介して誰かとつながっている、その安息が欲しいんだ。それは、心が暖かくなる実感ではなく、すがるような渇望の発露。「一人じゃない」というフレーズを使った歌が増えてる気がする。自分は一人じゃないんだということを信ずるために、みんな携帯を握りしめる。つながる…簡単なようで難しい。こんな世の中で、つながりを実感できるのは、本当に幸せなことなんだろうなぁ。
2006.12.14
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プレステ3が180台、一挙に盗まれたそうな。発売が延期されていたプレステ3、その人気はすごいらしい。販売店には長い列ができ、買い占め&転売をはかるブローカーに雇われた人たちも買っては並び、買っては並び。妙なところで礼儀と常識を知ってるなぁと、ちょっと感心。でも、ゲームをまったくやらないぼくには、並ぶ気持ちも、盗む気持ちもわからない。昔々。今は合併し、スクウェア・エニックスとなったスクウェアとエニックスの両社を取材したことがある。「ドラゴンクエスト」が爆発的にヒットし、それに少し遅れて「ファイナル・ファンタジー」が発売されようとするころだったろうか。取材対象はソフトを開発する20代の若者たち。泊まり込みでプログラムを組んでいるというある若者は、寝不足で目を赤くしていた。開発室の床には寝袋が転がり、カップラーメンの食べかけが冷たくなっていたっけ。激務でしんどそうだったけど、自分たちの力で新しい世界を拓いて行っているという情熱を感じた。ぼくと年齢がほとんど同じの若者たち。偉いもんだなぁと感心したっけ。でも、同時に、ゲームソフトの限界みたいなもの感じた。彼らがプログラミングしたこと以外のことって、ぼくらはできないんじゃないの?そう思うと、ず~んと白けたっけ。夜を徹してプログラミングしている姿を見たときに思った。ゲームをやり、熱中している、そのときのぼくは、彼らの手のひらの上で踊っているんだなぁって。「お釈迦様の掌の上を飛ぶ孫悟空」って感じかな。緻密に、綿密に練り上げられたストーリー。音楽も、キャラクターも、一流の人が力をふるっている。プログラマーも叡智を尽くし、よりよいもの、おもしろいものを作り上げようとしていた。それはすごくよくわかった。でもなぁ・・・・・。やってる途中で自分の空想に遊んだり、その空想の方がおもしろくなって手元が止まったり、そのままアタマの中がどこかへ行ってしまったり。そんなことができないんじゃ、それって「遊び」じゃないんじゃない?そこがマンガや、小説や、テレビや、映画と、決定的に違うな・・・。マンガも、小説も、テレビも、映画も、読んだり見たりしている途中でも自分の世界に浸れるし、想像をたくましくすれば、その世界をどんな風にでも作り上げられるし、広げられる。想像の世界への導入部分はマンガや小説やテレビや映画に作ってもらったとしても、それを遊ばせるのは自分自身。だから、おもしろいんじゃないのかなぁ。ゲーム・・・行く先も、行き方も、結果もプログラミングされているストーリーをたどるのって、そんなにおもしろいのかなぁ。なんてことを思いながら、取材をしたっけ。そのときはぼんやりとしか思ってなかったから、ゲームの開発に携わる若者たちにそのことを尋ねなかった。なんて答えてくれただろうか? きいてみればよかったな。ぼくのこんな感想は、食わず嫌いの思い込みなんだろう。でも、家電量販店の店頭などでゲームに没頭する子どもたちや少年たち、若者たちを見ていると、いつの間にやら彼らが「孫悟空」に見えてくるんだなぁ。偏見かしら?
2006.12.06
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中学生が自殺し、その主たる誘因が教師の「いじめ」(暴力だと思うけどな)にあるとされる事件では、その中学を政府の担当者が訪れ、詰問する事態となっている。その訪れた女性、どこかで見たような・・・と思ったら、故小渕首相の娘さんだった。なんでまた彼女が?と思ったら、文部科学省の政務官であらせられるのね。ちょっと頼り無げなところが、何となく心配。いじめの問題って、地域社会の問題とよく言われるけど、んじゃどうすればいいかっていうと、よくわからない。おとなが子どもを気にかけましょう、なんて言葉は飛び交うけど、核家族化し、子どもが少なくなり、妙な事件が頻繁に起きるこのご時世、「子どもを気にかける」ってのも至難のワザだ。自宅で仕事をしているぼくが、昼下がり、気晴らしの散歩中、街角にひとりたたずむ少女を見つけた。で、「ちょっと、お嬢ちゃん、どうしたの?」と声をかけようものなら、ぼくは立派な「不審者」と化す。平日昼日中、ぶらぶらしている中年オヤジが少女に声をかけてたら、ぼくも「怪しいヤツ」と思うだろう。難しいなぁ。。。。ぼくは炭坑街の育ちだけれど、炭坑街っていいところだったなぁとよく思う。なにより、「来る者拒まず、去る者追わず」という雰囲気が街にはあった。どこからか逃げてきた、流れてきたあんちゃんたちも、その日から街の一員として受け入れられ、我が物顔で闊歩していた。ぼくの家にも東京あたりからあんちゃんが流れてきて、近くに借りた四畳半に住んでいた。あるとき、そのあんちゃんを呼びに行ったぼくは、あんちゃんが見知らぬ姉ちゃんと抱き合ってるところに遭遇し、度肝を抜かれた。抱き合ってると言うのは大げさで、ランニング姿のあんちゃんにノースリーブの姉ちゃんが添い寝していただけなのだけど、小学生高学年の僕には衝撃が強すぎた。思わずたじろぐとあんちゃんが、「お、わりぃわりぃ」と言いつつ、ぼくの頭をポンポンと叩いたっけ。「来る者拒まず」という気風は、石炭最盛期の頃、拒んでいたら坑夫が集まらないからだったのだろうけど、斜陽になってもその気風は変わらず、おおらかというか、いいかげんというか、そんな人間関係だった。これが「土地」というものに何物にまして重きを置く農村だったら、他の土地からの侵入者にあっさりと心を許すことはないような気がする。炭坑街独特だったのかもしれないな。おおらか or いいかげんな気風ってのは、人を助ける。ぼくの家は妙な家で、表札が三枚、ぶらさがっていた。ひとつはぼくの名字、もうひとつは母の名字、あとひとつは、母と同居している男性の名字だ。ぼくの両親はぼくが3歳くらいの頃に離婚していて、ぼくはお袋に引き取られたのだけど、名字は父親のもの。お袋は旧姓に戻ったから、母と子の姓が違う。そこに、子連れの男性が同居し、表札がみっつになったわけだ。ぼくはこの「みっつの表札」が自慢で、ことあるごとに近くのおばちゃんに、「オレんとこ、名前がみっつ、あるとばい。よかろ」と言っていた。ぼくがそう言うたびにおばちゃんは、「すごかね~。○○ちゃんとこは名前がみっつもあるっちゃね」と相手をしてくれた。大学に入ったころだろうか、この出来事を思い返し、おばちゃんに感謝してもしきれないなぁと感じた。名字がみっつあり、どこからきたのかさっぱりわからない連中(ぼくと母&姉も他の土地からの移住者だ)を、そのまま、丸のまま受け入れてくれたんだもんなぁ。もし、そのおばちゃんが「あんたの母ちゃんな、男ば引きずり込んどるとばい」てなことを言ったとしたら、可憐で無垢な(かな?)ぼくの心には深い傷が残ったかもしれない。おばちゃんはじめ、周囲の人たちが受け入れてくれたから、ぼくは助けられた。ほっ、よかった。まぁ、炭坑地帯のガキだから、そんな風に言われても平気の平左だったかもしれないけれど、農村だと、このおばちゃんのように「名前がみっつもあるっちゃね、よかね~」といった対応はしないんじゃないだろうか。よそ者を排除することで、限られた土地を守ってきたのが農村だろうから。これは、ぼくの偏見かもしれないな。炭坑街って愛すべき、素晴らしいところだけど、子どもの「教育」にはよろしくないかもしれない。ぼくの家の台所は石炭ストーブが置かれた板張りで、冬になると男衆が車座になり、花札で沸き立った。男衆が敷く座布団の下には、小銭、100円札、500円札、1000円札、5000円札、そして1万円札がきちんと並べられていて、一場の勝負が終わる毎に金が飛び交っていた。要するに、簡易な即席賭場だったのね~。男衆が叩きつける花札の音が小気味よく、ぼくはいつもその様子を飽かず見ていた。ぼくもこの即席賭場に参加したことがある。小学校低学年のころの正月のこと。お年玉でふところが暖かだったぼくに男衆の誰かが「入らんか」と声をかけてくれた。よっし、やってやろうと意気込んではみたものの、「赤タン、青タン、猪鹿蝶に月見で一杯、松桐坊主、二ゾロにカラスッ!」なんて言葉が飛び交う花札なんぞが小学生の手におえようはずもない。アッと言う間にすってんてんにされてしまった。身ぐるみはがされ、浮き世の厳しさに打ちのめされてベソをかいていると、男衆のひとりが「これ、お年玉たい」と、ぼくが負けた金額を丸々渡してくれた。つまりは、軽くからかわれただけなのね~。こんな地域社会だったら、子どもは自ら命を絶つ道を選ばなくてすむだろうか? つかず離れず。来る者拒まず、去る者追わず。いろんな人間がいるのがあたり前・・・・人と人との間にそんな関係性があれば。そうかもしれない。でも、そんな関係性の中にバラバラな人間たちがうごめく社会を今の地域が持てるだろうか。ムリなような気がするなぁ。「みんな違って、みんないい」とお題目は唱えるけれど、実は「みんな同じじゃなきゃダメなのよ」というのが現実だもの。鈴と小鳥と それからわたしみんな違って みんないい金子みすゞがしたためた、こんな「あたり前」のこと。それに、改めて心ひかれるような現状ではね。
2006.10.25
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今、学校に行かない子供たちの番組に携わり中。行かない理由はそれぞれだけど、大抵のオトナは行けと言う。でも、なぜ行かなくちゃ?を子供たちに説くことができるオトナは少ない。ぼくもできん。義務教育だからと言う人は多いけれど、義務教育の「義務」は「学校に行く」義務じゃない。子供に「教育を受けさせる」義務だ。だから、行きたくなければ行かなくてもいいんだぞ、と思ってしまうタイプのオトナであるぼくが「まっとうに生きる」を提起する番組の制作に参加していいのかしら?しかし、携帯で書き込むのは時間がかかるな~。女子高生の指が欲しいわ。
2006.10.18
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福岡の静かな町で中学生が自ら命を絶った事件の続報は教育する側の荒廃を見せつける。友人に教師が多く、授業中に生徒が教室にバイクで乗り込んできたり、ヤーサンがたむろする夜の街を生徒を探して一晩中歩いたりという話を聞いているぼくは、その友人たちの落胆を思わずにいられない。しかし、これは「いじめ」じゃないだろう。学校という閉ざされた空間で、公務員である教師が、保護すべき生徒にふるった言葉による「暴力」だ。でも、この教師は「すみません」と頭を下げ続けるだけで、罪に問われることはないんだろうか?なんだか釈然としないなぁ。
2006.10.17
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TVニュースは「おめでとう」一色。新聞は一面トップ。号外も出た。記事の見出しに踊る「3位」。何のことやらと思ったら皇位継承順位。これで安心、大安泰とばかり、愛子さんはあっさり外された。女系だなんだのお話はどこへ行ったのかな?ぼくらは忘れっぽいから、まだ名前のない皇子が健在であるかぎり、俎上にのぼりそうにない。雅子さんもホッとしているだろう。これで愛子さんが自分で人生を創れるのだから。よかったね。入れ替りで帝王学に染まる皇子はちょっと気の毒。せめて自分で選択できる自由をあげたいな。せっかく生まれてきたんだからさ。
2006.09.06
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きのうだったか、TVのニュースを見ていたら、米軍基地建設に反対する韓国学生たちの姿が出てきて、機動隊と激突するその姿が70年代安保のころにあまりにそっくりでびっくりした。日本と同じように韓国でも米軍再編が進んでいて、ソウルの少し南に新たな米軍基地を造るという。その計画に反対する学生たちは大規模な意思表示行動に出た。それに対し、韓国政府は1万人もの機動隊と警察隊を導入。力で鎮圧した。警棒を背中に届かんばかりに振り上げ、学生の頭めがけて振り下ろす機動隊員。倒れた学生に違う機動隊員が一発二発と蹴りを入れる。手加減など一切ない。蹴り殺すつもりなのか。動かなくなった学生は、他の機動隊員に足を持って引きずられていった。建物の床に横たわり、互いの腕を固く組み合う学生たち。そのひとりひとりを機動隊員がごぼう抜きにしていく。学生たちはここでは暴力をふるわない。互いに組み合った腕だけでつながっている。機動隊員はその学生たちを、有無を言わさず引きずり、はがしとっていく。同じ光景が日本で見られたのはもう30年以上前だろうか。安保のときも、成田のときも、もっと以前、復帰する前の沖縄では座り込んだ年寄りたちをごぼう抜きにして土地の接収が行われた。「接収」というと聞こえがいいな。「取り上げた」か、「かっぱらった」か、どちらにしても国家権力が力づくで反対する人々の声を抑えつけた。辺野古では海上案が頓挫した。それは地元のお年寄りたちをはじめ、国側の度重なる実力行使や脅しに屈しなかった人々の勝利。それは確かだ。しかし、同じ座り込みを70年代に行っていたら、防衛施設局員か、機動隊員が反対派をごぼう抜きにして終わりだったろう。国は世論を恐れた。ほんの少しだけ。国は世論の強い反発を受けてまで、辺野古の海に基地を造るほどに急いでいないし、せっぱ詰まってもいない。いずれ、“地元”が折れるのだから。住民を抜きにした“地元”が。「国家権力は、学習している」34年前に起きた外務省機密漏洩事件。沖縄返還時に日本政府とアメリカ政府が取り交わした密約を暴露した自社の記者を守ることができなかった毎日新聞の元労組委員長は、こう言ってため息をついた。権力側は学習し、新たな手段をこうじてくる。同じ轍は踏まない。反対する側は、抵抗する新たなすべを持たない。権力に対抗できるのは世論しかない。その世論も、例えば憲法を変えようとする動きを「いいんじゃない?」と遠くの出来事であるかのように眺めている。赤ん坊は痛い目、不快な目にあうことで、知恵をつけ、推測することを学び、未来を予測する。しかし、成長しきった赤ん坊であるはずのぼくらおとなの集合は、過去のぼくらを見舞った痛い目をあっさり忘れ去ってしまう。もう一度、自分自身や愛する人たちを戦いに巻き込まないと、ぼくらは過去の痛い目を思い出せないのかな?男の子を持つ母親たち。あなたは、その子を戦場に立たせたいのかい?「はい」そう答える母親はいないだろう。女の子を持つ父親たち。あなたは、その子に父親の顔を知らない子どもを生ませたいのかい?「そうだとも」そう答える父親。あんたはバカだ。子どもをつくる前に、歴史の勉強をしなおした方がよかったね。ザ・フォーク・クルセダーズ 『 戦争は知らない 』寺山修司 作詞 加藤ヒロシ 作曲野に咲く花の 名前は知らないだけども野に咲く 花が好きぼうしにいっぱい つみゆけばなぜか涙が 涙が出るの戦争の日を 何も知らないだけど私に 父はいない父を想えば ああ荒野に赤い夕陽が 夕陽が沈むいくさで死んだ 悲しい父さん私はあなたの 娘です二十年後の この故郷であしたお嫁に お嫁に行くの見ていて下さい はるかな父さんいわし雲とぶ 空の下いくさ知らずに はたちになって嫁いで母に 母になるの「いくさ知らずに はたちになって」今の子どもたちは、そうなれるんだろうか?
2006.05.05
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きょう、5月1日は水俣病が公式に確認されてから50年目の区切りだそうだ。50年の区切り・・・・・・どんな意味があるんだろう?たとえば、胎児生の患者の人たちにとって、「水俣病公式確認から50年」という言葉はどんな意味を持つのだろう?「50年、50周年だと、まるでお祭りのように騒ぎ立てるのはやめて欲しい。自分たちは、この50年間、ずっと悲しい日々だった」こんな意味のことを患者の方が語っていた。そうだろうな。50年たったからといって、亡くなった人がもどるわけでもなければ、崩れた体調が回復するわけでもない。できるのは、もう二度と繰り返すまいと祈ることだけ。どうしてぼくらは「区切り」が好きなんだろう? 去年は太平洋戦争敗戦60周年記念ということで、テレビ各局はこぞって戦争をテーマにしたドキュメンタリーなどを作成した。ぼくは、60年だから何だっていうんだ?と思いつつ制作に参加していた。戦後59年だろうが61年だろうが、あの出来事の重大性が小さくなるわけでもなければ、まして忘れ去ってしまっていいわけでもない。60周年目の懺悔であの出来事を完全に過去のものとする。そんな意志が見え隠れする。60年たったから、自分の体験を語り始めた。そんな人たちも多いという。その人たちにとっては、意味ある「区切り」なのだろうし、語らずに去るよりも、後の世をになう子どもたちに自分の体験を伝える方がいいとぼくも思う。しかし、伝えられた方がその思いを受けとめることができるのか。受けとめるだけの想像力を持ち合わせているのかを考えると、これから先の時代にふたたび闘いの炎が燃えさかることはないと言い切れないのがつらい。自衛隊は軍隊となり、憲法は改悪され、教育基本法には愛国心が載り、ぼくらが酒を飲みつつ国の政治に対してぐだを巻くと共謀罪に問われる。そんな時代がもうそこに来ている。それを良しとする有権者のなんと多いことか。まぁ、世論調査というのも回数を重ね、比較した上での傾向を見るひとつの手段に過ぎないけれど。今の政治の動きを是とする人、肯定する人たちは、我が子だけは、自分の身内や愛する人や友人たちだけは、闘いの地に行くことはないと信じているんだろうか?水俣病公式確認から50年。その間、水俣を訪ねた総理大臣はひとりもいない。小泉さんはアフリカで日本の経済協力を約束し、その姿勢がアフリカの国々に高く評価されることに喜々としている。でも、そうだよな。革新総理だった村山さんでさえ、水俣には足を踏み入れていないんだもの。国にとってはその程度の関心度で、この50年間が過ぎてしまった。水俣で公式行事が開かれていた場所は、水銀で汚染された海を埋め立てたところ。公園になってはいるが、深く重い水俣の思いが集積されている。そして、そこはぼくにとっても想い出の地だ。せめて、祈ることだけは忘れまい。
2006.05.01
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北九州市の市長が「高額接待」をしていたそうな。東京・赤坂の料理店で、市長を含め4人で12万強。北九州市門司区の料亭では、市長を含め5人で12万。市の秘書室はこの接待額について「社会通念上の範囲」とコメント。ひとりあたり3万の飲み食いが「社会通念上の範囲」なのかぁ。すごいなぁ、日本の社会って。などと言ってみても、皮肉にもならん。大きな企業の役職にある人たちならば、この程度の支出は当然のごとく「アリ」なのかもしれない。しかし、公僕であるはずの公務員が「社会通念」を振り回しちゃいかんだろう。自分を律するべきは、「公務員としての通念」じゃないのかな? 市長は「オーナー社長」でもなんでもない。住民がお金を出し合って行政を託しているに過ぎない「ただの人」なのだ。それは、他の公務員にも言えること。その立場を見誤っちゃ、困る。でも、公務員の友人によると、ここ数年来、公務員の給与体系はあれこれカットで大変らしい。今年(だったかな?)、数年ぶりにほんのわずかだけど昇給したそうだ。飲みながら彼らの話を聞いていると、マジメな人ほどソンをするのが公務員の世界のような感じがしてしょうがない。「大変だなぁ」と思いつつ、「番組の構成料って、17年前より下がってるんだけどねぇ・・・・・」とも思うぼくなのだった。まぁ、「常識的通念」さえない業界だからね。とにかく、税金のムダ遣いだけはやめてよね、市長さん。
2006.03.23
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番組の大半をつぶしたり、ライブドア騒動の報道は続く。NHKの『クローズアップ現代』なぞは、二日続けてこの騒動をやるんだそうで。ご苦労さまと言っておこうか。有識者が言うように「証券取引における信頼関係を揺るがしたゆゆしき出来事」には違いないのだろうし、時代の寵児が凋落したんだから見る方もおもしろかろう。独居房のイラストまで登場させ、地に堕ちた勝ち組をいたぶる。持ちあげといて、突き落とす。「手のひらを返す」という言葉があるけれど、マスコミは千手観音みたいに手のひらをたくさん持っているんだろう。株価全体が上がったり下がったりするほどの大きな大ごとなんだろうけど、ちょっと時期がたてば「そんなこともあったね」と記憶のどこかに残っている程度の「時代のあだ花」と化してしまうだろう。その程度の出来事に過ぎない。栃木で殺された女の子、その後、捜査はどうなったんだろう?辺野古には、やっぱりアメリカ軍の基地ができちゃうのかな?イラクはイラクの人たちが治める国になりつつあるのかしら?あだ花として消え去ることが決してない、現実の出来事をぼくは知りたい。
2006.01.24
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ニュース速報が流れた。「堀江社長逮捕」。NHKも民放数社も、いきなり特番に切り替わった。夜のニュースは、この事件一色。新聞は号外を出した。街の声もいろいろ。「大ショック!」「悪いことしていたんだから当然よ」「興味はお金だけだったんじゃない」「日本を変えるのはこの人しかいないのに」「もともと、うさん臭いと思ってた」まぁ、両極端。人気もあれば、反感もある人だということがよくわかる。株の世界のコトはさっぱりわからないし、興味もまるでないぼくは、これほどに大騒ぎになること自体に驚いた。スポンサーのOKがあったんだろうけどレギュラー番組をとばして特番を組んだり(ということは、局側はその準備をしていたということだ)、裏が英文となっている号外が配られたりするほどの事件なんだなぁと、改めて感じた。でも、特番を組み、なおかつ、ニュース番組の大半の時間を割いて報道するような「おおごと」なのかしらと、やっぱり思ってしまう。ぼくの感覚の方がおかしいのかな?街の声に、「彼のやってることは、実業じゃないんだから」と断ずる初老のおじさんがいた。“どうだ、若僧、わかったか!”てな勢いだった。なんとなくムカッとした。ぼくは全然「若僧」じゃないし、堀江さんのファンでもなければ、逮捕されたことがおかしいとも思わない。「自分が『世界一』となることは既成の事実」と公言する堀江さんは、あらゆる手段で自己資産を肥大化させ、その資産が見かけの上で増えることを活用しメディアの世界へ強引に切り込もうとした。そのやり方は、どうにも賛同はできない。しかし、その「虚業」に、老若男女、多くの人たちがひきつけられた。「人の心はお金で買える」と言い切れる「虚業」に魅力を感じるような社会は、「実業じゃないんだから」と言い放つおじさんたち世代が作り、育て上げてきてものだ。主人公が“若僧”であることを事件の原因にすることはできないだろう。「虚業」に生きる彼を、マスコミを通じて持ち上げに持ち上げていたのも、実は「実業」の世界なのだから。堀江さんの言動がおおっぴらだったこともあり、ニュース・ソースとしてもおもしろいから、人々の関心も買う。そのカゲで消えていくニュースもある。22日、沖縄県名護市で市長選が行われた。ジュゴンの住む海にアメリカ軍のヘリポート(という名目の新たな基地)を建設しようとしてすったもんだしている辺野古がある町だ。立候補したのは3人。すべて「基地建設反対」の立場。しかし、その反対には“絶対反対”から“国の出方次第では容認”まで温度差があり、当選したのは「国の出方次第では基地建設を認めてもいいよ」と考える人。長い間にわたり基地建設に反対してきた人たちは候補者をひとりにしぼることができず、選挙に敗れた。辺野古での体をはった反対運動は、これからも続くだろう。日本という国の中に、戦争に使われる基地が新たにつくられようとしている。その町の首長選で“建設容認”を思う候補者が当選した。こちらの方が大事な出来事だと思うのだけど、パトカーで先導されつつ東京拘置所へ入るホリエモンの方が興味をひいてしまうのかな。
2006.01.23
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それにしても脆弱なシステムであり、体質だこと。株取引の舞台・東証と、そこで踊る投資家たち。ライブドア・ショックという言葉が早くも生まれたらしいけれど、成長するのかダメになるのか、今後どのようになるのかもわからない企業がとった成長への方法論で株の取引全体がこれほどオロオロするとはねぇ。昔々の「巨人軍の江川獲得作戦」じゃないけれど、決まり事のすき間をぬって利益をあげるのがライブドアのやり方ということは既に何度も報道されてきているし、そのスレスレのところが「非だ」と言われたところでそんなに驚くこともあるまいに。IT企業とは言うが、その実体も、その将来像も、やがて訪れる未来をどう設計するのかもよくわからない組織体。その「わからなさ」に、“無限の可能性”という夢を見るのが投資家だ。はかない夢と消える、そんなリスクをあえて買うのが投資家の思い切りだし、仕事みたいなもんだから、暴落して損をしてもそれは前もって見通しているはず。だから、投資家も今回の件も想定内だろう。危うい道を通っているからこそ、見返りも多いのだから。でも、今や投資家の多くがインターネットを使った個人。素人がキーボードを叩きながら株を買える。ライブドア(だけじゃないけど)は、そんな素人向けに株を小分けし、手が出しやすくした。そこに、素人は飛びついた。自分は「リスクを買ってる」のだと、腹をくくることもなく。浅はかじゃなかろうか、やっぱり。墓穴を掘ったのは自分だから、誰を責めることもできないね。それにしても、「やっぱり狙い撃ちされたか」という感じがするのは否めない。日本って、いまだに出る杭は打たれる社会なんだな。
2006.01.18
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きょうは成人の日。ぼくの住む町は、一足早く、きのう成人式を行ったらしく、きのうの夕方、ホールのある建物の前を通ったら、晴れ着の娘っ子たちと紋付き袴のあんちゃんたちがぞろぞろたむろしていた。きょうのニュースでも、あちこちの町で行われた成人式の様子が。それを見て、ハタチの若い衆が結構出席しているのに驚く。どうもワカラン。オトナの、それも行政という、オトナのいやらしさが固まり臭っているかのような組織が主催する「成人式」なんぞに、よく出席する気になるなぁ。まぁ、卒業式で別れた高校の友人たちなんかに、久々に、公然と会えるいい機会であることはよくわかるけど、それならツマラン式典なんぞに出席することなく、どこかに飲みにでも行けばいいじゃぁないかと思うのだが。娘っ子は晴れ着を同性には見せびらかしたいだろうし、異性には普通の状態では醸し出せない、意外な魅力を見て欲しいだろうな。でもなぁ。。。。子どもがいないぼくには、二十歳までよくぞ無事に育ってくれたという親の感慨は分からないが、きょう限りもう二度と袖を通すこともないだろう振り袖を揃えてあげるというところに、両親の喜びは充分に感じ取れる。お子さまの方は、親の心なぞ知らないだろうが。それでもなぁ。。。。おやぢのぼくが聞いても、ちっともおもしろくなく、ためにもならないおやぢたちの「新成人に贈る言葉」や、優等生丸出しで「ほんとにそう感じてるのか?」と思わざるを得ない「新成人の誓いの言葉」なんぞを聞いて、いったい何になるのか?大半の出席した新成人の若い衆は、壇上で語られる言葉などには耳もかさず、しゃべくり合ったり、かわいい女の子、素敵な男の子を捜したりするのに忙しかろうが。でも、しかし。オトナがしつらえてくれた晴れの場に出るということ、それ自体が、どうにも信じがたい。ときに、人前に出るとはしゃいでしまう幼稚園入園前のガキのようなハタチがいて、ところかまわず暴れ出し、「成人式はどうあるべきか?!」などと議論になったりするけれど、どんなに情けない醜態をさらそうが、結局そんな場に出るということ自体、オトナの手のひらに乗ったということ。そこでイキがってみたところが、手のひらの上でバタバタしているだけにすぎない。今年も会場でクラッカーを鳴らしたアホンダラがいたらしく、現場にいたプロレスラーのグレートサスケが意見をしていた。それだけでガキ以下に情けないのに、さらに情けないのは、グレートサスケにくってかかる「お友だち」が数人いたことだ。コイツらは、いつまでたってもオトナの手のひらから飛び出せはしないだろう。まったくカッコよくないし、体制に反抗するってな心意気もゼロである。オトナの後ろ盾があるから、ハメをはずせる。その程度のニンゲン・レベルだ。ぼくらのころから、「ハタチは、まだオトナじゃない」と言われていた。30くらいになってようやくオトナと呼べると、ぼくらのころのオトナたちにぼくらは揶揄され、嘲笑されていた。確かに、ぼくらはオトナになるのはズンと遅かった。いやいや、成人式を二度して余りある歳になった今の今まで、オトナになった実感なぞ、ない。他人が決めた区切りなぞで「大人になった気がします」なんて、とても言えるもんじゃない。名実共に大人と認められた昔の元服とは違い、成人の日は生まれて20年という時間が過ぎたということを示す行事に過ぎなくなった。それはとうの昔にわかっている。式は、単に区切りをつけるだけの通過儀礼。そんな、オトナが準備してくれたステップなんかにエヘエヘしながらあがるなよ。猿回しのサルじゃあるまいし。しかし、オトナの手のひらの上でクラッカー鳴らして喜んでるようなハタチにも、選挙権が与えられるのか・・・・・。コイズミ路線、安泰か?
2006.01.09
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トラックバックにずらりと“エロへのお誘い”が。ぼくが表示できるよう設定している8件、全部、同じ内容。一件一件、トラバッていったのかしら? まぁまぁ、ご苦労さんだこと。でも、アホやろ、お前。トラックバックした時間を見ると・・・・・・午後10時台。こんな早い時間に、エロサイトへ誘いをちまちまとトラバるおやじ(若いかもしれんし、女かもしれんが)の姿を想像すると・・・・・・アワレだねぇ。他にやること、ないのかい?こんな駄文にひかれてバカヤロ様のところを訪ねる人もいるんだろうね。どうせ他にやることがないんだったら、もっと「行きたい!」と思わせるよう、文章力を磨いた方がいいでっせ。努力のトラックバック8件、全部削除しようかと思ったけど、その内容のあまりのお下劣&脳みそゼロレベルの見本に、一件、残しとこ。みなさん、どうぞ、ご覧あれ。しかし、このバカヤロ様のところへは行かない方が賢明です。バカとアホがダブルでうつります。
2005.12.28
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耐震偽装の問題は、国会の証人喚問へ。どこまで真相があきらかになるやら。「こんなことが起こるとは・・・・・・・性善説に基づいておりますから」偽装を見逃したある行政の担当者は、こう弁明していた。そうだろうなぁ。ぼくが担当者だったとしても、「マサカ!」と思うだろう。でも、まず疑うこと、それがチェック機関の役割。その役割を果たしていなかったことは明白なので、「仕事をしていない」と言われてもそれは仕方のないことだ。しかし、「マサカ!」ばかりの世の中で、「性善説」ってなんだろう?そう言えば、株の発注ミス。結局、400億円の損だとか。株関係にまったく疎い人間からすれば、なぜこんな結末になるのか、とても不可思議。「1株=65万円」と入力するところ、「1円=65万株」と入力。シロウトにも分かるようなミスだから、その道のプロは一目で間違いと気づいたことだろう。そのミスを指摘するでもなく、いや、「チャンス!」とばかりに買い込んで、何億円もの差益を手にする。そうした利益を得た側は、今、どんな気持ちでいるのだろう?儲けたアナタ。喜びに打ち震えることができていますか?株を買った側にすれば、市場における正当な取引で利益をあげたに過ぎないということなのに違いない。が、どうも釈然としないなぁ。自らの努力で見出した傾向と対策を駆使したとか、ライバルの油断やスキを突いたとかいうのならまだしも、単に「ケアレス・ミスにつけこんだだけ」のようにしか見えないのだけど。ここに、「性善説」は存在しない。それにしても、入力ミスした人は、今、どうしているのやら。400億円を背負い込んでいるんじゃなかろうか。だいじょうぶかしらん。
2005.12.14
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どうしてこんなことが起こるやら。アルバイト講師の大学生が生徒の命を奪うとは。疎ましく思われることで彼のプライドが傷ついたのか。目指す中学へ通してやろうと思っていたのに、熱意が伝わらないと思ったのか。どちらにしても、あまりに「傲慢」だ。相手は小学校6年生の女の子。年は10歳以上違う。それも、アルバイトであっても「教え子」だ。しかし、そう思えずに、「異性」として意識していたのか。自分の好意が通じない相手として。そんなことがないとは言えない。中学生のとき、15歳年上の男性とつきあっていたという女性を知っているから。もちろん、援助交際などではない。でも、やっぱりそれは「普通」ではないな。ぼくは学生が小・中・高校生、及び予備校生を教えるということに以前から疑いを持っている。教えるということは、それがたとえ「受験術」だとしても小手先でできることではない。とても難しいことだと思うし、ある意味、職人的な経験を必要とすると思うから。学生時代、ぼくはある新聞に、学生がアルバイトで家庭教師をすることを批判する投書をしたことがある。「教え方も学ばずに、さらには偏差値偏重を批判しながら、バイトに家庭教師を選ぶのはおかしい。受験戦争の片棒を担ぎつつ、遊ぶ金を稼いでいるだけだ」といった内容だった。家庭教師をやっているという女子大生から、すぐに反論がきた。「お金のためじゃない。厳しい受験を突破するために、子どもと一緒に成長しようと考えて、自分なりに精一杯にやっている。それのどこがおかしいのか」そんな内容だったと記憶している。彼女の主張は理解できた。子どもの(多くは「親の」だけど)希望をかなえるために、できない問題がどうやればクリアできるか、真面目に努力していることもよくわかる。でも、彼女の言い分は、ぼくの疑問を解消してはくれなかった。労働の対価としてお金をもらえば、アルバイトと言えどプロ。それが「自分なりに精一杯やっている」程度のレベルで、子どもを教育・指導できるとは思えない。中途半端な技術や姿勢で収入を得ているのは事実だし、多くの子どもがその被害者の立場にいることも事実だろう。教師になるためには、決められた内容を学び、一定の経験を積まねばならない。そして、教えることの難しさは、教師になってから実感するという。教師の道に進んだ友人の多くは、今でも試行錯誤を続けている。そんな、「教えることの難しさ」を、どうして10代後半から20代前半の、知識も経験も不足した「学生」が担えるだろう。だから、学生が手軽で高収入な「アルバイト」として家庭教師をすることはおかしいとぼくは思っていた。働くのなら体を動かす仕事にすべき。別に「額に汗する」仕事を神聖視するつもりはなかったけれど、そう考えていたのだった。もちろん、その考えに反論する同級生たちもいた。家庭教師は生き方を教えるんじゃない。教えるのは受験のためのテクニック。厳しい受験の世界を通り抜けてきた先輩として、その方法を伝授しているんだ。成績が上がれば子どもたちにもその親にも喜ばれるし、教えた子どもが志望校に合格するとほんとに嬉しいんだぞ。お前にはわからんだろ。友人のひとりはそう言った。そうかもしれない。教えていた子どもを志望校に合格させたお礼に車をプレゼントされたヤツもいるというようなウワサも、まことしやかに流れていたし。おっと、こんな即物的な嬉しさじゃないな、彼が言っていたのは。自分が面倒を見た子が、志望校に通る。それは、努力の結実として、純粋に嬉しいことに違いない。でも、ぼくの思いは、そのころとあまり変わっていない。家庭教師も、塾の講師も、学生が仕事としてやるべきことではないと、やっぱり今でも思うのだ。教育の経験はもちろん、社会的な経験もいまだない学生に、「人を教える」という重い役割をまかせていいとはどうしても思えない。雇用する側がどんなに適性を判断していると主張しようとも、学生を雇う大きな理由が人件費を安く抑えられるという点にあることは事実なのだし。今、全国には30万とも40万とも言われるほどの数の学習塾があるという。ぼくの甥っ子もせっせと塾へ通っている。どこでも、講師不足は深刻らしい。アルバイトを探す学生と、講師を求める学習塾。需要が上回っている限り、「教えること」が効率のいい仕事であることは変わらないだろう。どうやれば今回のような事件が防げるのか。そうした、対症療法的な手段しかないのかな。
2005.12.11
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12月8日。この日、何の日?国が人殺しを容認した日。家族を、友を、愛する人を、そして彼らが生きる世界を守りたい。人々の、その切なる願いを利用して、同じ思いを抱く他国の人たちを殲滅する。その蛮行に、日本が国として本腰を入れ始めた日。「山本五十六は最後まで戦争回避の努力を続けた」それは、事実かもしれない。でも、山本さんは真珠湾を攻撃することを進言し、実施し、事実人々を殺した。それを、「苦渋の選択」として容認することはできない。「真珠湾奇襲は、アメリカのウソだ」いまだにそう言う人たちがいる。ルーズベルト大統領は日本艦隊が攻めてくることを知っていたのだと。知っていて、パールハーバーを見殺しにし、国民の反日感情を煽ったのだと。そんなことはどうでもいい。日本、アメリカ、どちらの国が殺し合いを仕掛けたのかは。ただ、おびただしい血が流された。数え切れない悲しみがあふれた。そして、その悲しみは、まだ癒えてはいない。それだけを覚えておきたい。1941年12月8日。この日、国家の思惑は国民の生命を超えることが証明された。もう一度、証明される日が来るのだろうか。今年の、この日。自衛隊のイラク派兵延長が決まった。人道復興支援活動という名の軍事活動は、少なくとも来年12月まで続く。いずれ、自衛隊は自衛軍となり、防衛庁は防衛省へと昇格する。自衛軍が陸軍、海軍、空軍と分割される日がこないとは、もう言えない。「世界の現実に対応せねば。理想を追っても命の危険は去りはしない」そう考える人たちが増えている。そう考える人たちは子どもたちに、理想を追わずになにを追えと教えるのだろう。太平洋戦争が「仕方がないな」という判断で始まったように、現実を「仕方がない」と受け入れることは、新たな戦いを生むことだ。そして、あの戦いがもたらした悲しみは、さらに遠い過去のものとなる。いずれ、事実は歴史書のみに見出され、この日、人々の脳裏に甦るのは、「 BEATLES の John Lennon が射殺された日」それだけという日がくるのだろうか。ぼくらは、みんな、忘れっぽい。
2005.12.08
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女優の原ひさ子さんが亡くなった。96歳。訃報記事の大半では「おばあちゃん役の」という形容詞がついている。が、若いころから「おばあちゃん」で勝負していたワケじゃあるまい。お年頃のころには、初々しい娘役もなさったことだろう。でも、原さんという女優の存在に気づいたときから、やっぱり「おばあちゃん」だった。品のいい、優しい、でも、どこかキリッとした「おばあちゃん」。原さんは明治42年8月6日生まれ。昭和20年の誕生日。その日、広島に原爆が落とされた。それを知ってから、原さんは一度も誕生日を祝ったことがないという。自分の生まれたことを祝うかわりに、原爆で世を去った人たちの冥福を祈る日にしたそうだ。できそうで、できない、こんな心遣いは。優しい風貌の原さんに感じていた、一本筋の通った、凛とした存在感は、こんな心構えから生まれていたんだろうな。90歳を過ぎてからも、ずっと現役を貫いていた原さん。日本最高齢の現役女優としてニューヨーク・タイムスにも写真入りで紹介された。「継続」ということの尊さを感じる。ご冥福を祈ります。
2005.12.07
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いやはや。旅から戻って、なんとなく体が重いな~と思っていたらボンと発熱。疲労にカゼをプラスしてしまったらしい。インフルエンザの予防接種をしてもらうはずの病院で、「熱が下がってからね~」と言われ、投薬を受けた。情けなか。ぼくのカゼは、頭が痛いだの、気分が悪いだのという症状はなく、ただひたすら熱と汗が出るばかり。2時間くらいのサイクルで汗にまみれた下着やパジャマを取り替えて、再びフトンにくるまり背中や首筋、額に流れる汗を感じる。その繰り返し。ここ4日間・96時間のうち、90時間以上をフトンの中で過ごしてしまった。飽きるわぁ。ホントはじっくり眠ればいいのだろうけど、睡眠は足りているので目玉はパッチリ。汗かき中は雑誌も読めないので、ついついTVをON。強度偽装問題の“渦中の人々”が入れ替わり立ち替わり登場。国会の参考人招致までじっくり見てしまった。しかし、他人の人生を狂わせるほどの状況を招いていながら、皆さん、なんと姑息な人間なのか。参考人招致の場でチンピラまがいの暴言を吐き、それが自らの存在を主張していると勘違いしているバカなオヤジ。「倒れるにしても前のめりに」なんて、坂本龍馬を気取っても、誰も誉めはしませんぜ。「東京のことは任せっきりでわからない」と繰り返す、肥後山奥のボケ老人。「私はなんにもわからない」--これが“社長”の言葉か? 熊本に拠点を置きながら、首都圏はじめ、あちこちらにマンションやホテルを建設するほどに“やり手”だったんじゃないのかい?不正をあばいたのは我が社だと言わんばかりの検査機関の若社長。構造計算の不正を見抜けなかったという時点で、あんたの会社は社会的な存在意義が消えているだろう。「義務を果たせませんでした」くらい言ったらどうなんだ?誰もが口をそろえて「うちは悪くない」。それを見ていた欠陥マンションの住人たち。6000万の部屋を35年ローンで購入したという30代の奥さんは、ただただ涙なみだナミダ・・・・・・。もう、気の毒としか言いようがない。そばにいたとしても、慰めの言葉もかけられないだろう。35年ローン・・・・・・考えただけで気が遠くなる。大きな決断のもと実行した、生涯最大の買い物だ。月々10数万円、35年間もの間、払い続けようと思い切れたのも、その物件の良さにひかれ、この地で生きていこうと心に決めることができたからだろう。それが、“欠陥”と呼ぶにはあまりに悪意に満ちたものだったとは・・・・。安全よりも安価を優先、一番大事なのは“儲け”なのさ。奥さんが涙する気持ち、よくわかる。はぁ・・・・・。ため息をついてると、「Yahooにニセの記事を載せた男」登場。その動機は、「インターネットの世界で注目を浴びたかった」姑息と言うのもあきれるばかりの、この理由。なんだかなぁ・・・・
2005.12.01
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朝、テレビのチャンネルをくるくるかえていたら、あちこちのワイドショーで皇室の系図が。皇室典範をどう変えるかの問題。有識者(妙な言葉!)会議は「第一子を継承者に」という意見でまとまったようだけど、それに対して、「神代の昔から男系で通してきてる天皇家のあり方を変えるのはいかがなものか」という疑問・反論が出ているという。「女帝」は許しても、「女系」はダメだというのね。「女系」のなにが悪いのかしら? 別にどっちでもいいじゃんか。そう思いながら画面に登場する人たちのコメントを聞いていた。愛子さんが「天皇」になるのはOK。でも、彼女のお子さんが即位するのは「男系」を連綿として守り続けてきた天皇家、ひいては日本の歴史が許さないということらしい。別に神代の昔からぼくら庶民が天皇家を慕い、尊敬し、その家系を守ろうとしてきたわけではないと思うし、南北朝の混乱などで「万世一系」かどうかもよくわからない家系にこだわる必要はないとぼくは思うのだけど、「家」にこだわる人にとってはそうではないらしい。「男系」を主張する人も、天皇家には40年間、男子が生まれていない事実は変えられない。ゆえに、旧宮家を再興させるという力わざを使おうと主張する人も出てきた。戦後、占領軍によって庶民へと「落とされ」た旧宮家には、現在、11人の「男系男子」がいるのだそうな。いろんな意見が出る中で、おもしろかったのは自らも旧宮家の「男系男子」11人のうちのひとりである30歳男性の言葉。「ぼくらは天皇家の“血のスペア”として存在している。その責任を負わねば」そんな内容だった。“血のスペア”という言い方もすごいけど、それを責任と考え、意識せねばならないと思うところがまたすごい。「男系」にこだわり、旧宮家を復活させるとこの方にも皇位継承権が生じる。もし皇位がめぐってきたらという質問に対しては、「おそれおおくて、想像できない」とのこと。もし、ぼくが彼の立場なら、即「イヤです」と答えるんだけどな。国民が愛着を持つかどうかは置いておくとしても、皇室の、しかも天皇を継がねばならない運命にある人間ほど自由のない人がいるだろうか?これは、聞いた話。小学生(中学生だったかもしれない)のころ、巨人のファンだった皇太子は、時々、テレビで応援していたそうな。で、ある時間が来ると、皇太子は侍従に、「試合の結果は、あしたの朝、教えてくださいね」と頼んで寝室へ行くんだそうな。この話を聞いたとき、思った。皇太子って、野球の結果がわかるまで起きてちゃいけないんだなぁ。。。。よかった、庶民で。よっぴいて起きていられる自由があるもの。今回の「女帝騒動」も、皇室典範に関する有識者の答申があっさり出されたのも、その面影が皇太子そっくりの愛子さんを未来の天皇として育てるためには一時も早く帝王学を学ばせねばという焦りからだし。愛子ちゃん、あな、お気の毒。。。。ところで、愛子さんに帝王学を!と、焦っているのはだれなの?宮内庁? 政府? それとも国民?
2005.11.22
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以前、沖縄の小さな島が自衛隊誘致に揺れたことがある(今も揺れているはず)。町議会が満場一致で自衛隊誘致を決めた。島にお金を落としてくれるだろうというのが、誘致の表だった理由。それに対して住民たちは反対運動を起こし、町の集会所に全議員を呼び、議会の意向を問いつめた。そして、自衛隊誘致の白紙撤回を勝ち取った。そのごたごたには、カゲの大物みたいな70がらみのおじさんがいて、「自衛隊を誘致しとかないと、中国が攻めてきたときにどうしますか!」なんてことを言い、一部議員をあおり立てていく。ちょうど中国の潜水艦らしきモノが沖縄の海を横切ったあとだったから、その言葉はいっそう効果的。話を聞いた議員は「なるほど、そうだ」と感心し、誘致で地元にカネが落ちるという甘い言葉に「一石二鳥、三鳥だ」と歓喜する。黒幕は、してやったり、とほくそ笑む。こんなオヤジを「平和ボケ」と言う。そのオヤジの年代ならば、戦争の悲惨さをぼくらよりもずっと知っているはずだ。家族を失った人たちをたくさん見ているだろうし、自分自身もその悲しみに沈んだ記憶があるかもしれない。その記憶を、武力の行使とカネ儲けに変えて、奇妙だとも思わない。敗戦後60年間の「平和」で、戦争の悲惨さを忘れきった「ボケオヤジ」たち(当然ながら、同様のオバハンたちもいる)。日本を臨戦態勢に持ち込もうとしている人たちの多くは、多少なりとも戦争の怖さを知っているはずの、そんなオヤジたち。政治家であれ、資本家であれ、武力の恐怖とそのむなしさを知っているはずなのに、日本を守るには「武力を持つしかない」と口にしてはばからない。同じことを繰り返す、その準備をさせようというのか?あまりの経済成長と、その間の平和さに、脳みその根幹からボケたとしか思えない。敗戦のその日のことをぼくは知らない。しかし、多くの人が「もう死ななくてすむ」「家族を死なせなくてすむ」と思ったことは、実際に耳にして知っている。ときがたつにつれ、敗北感よりも解放感の方が大きくふくれあがったという話も聞いた。それは、理不尽な死というものがない世界の素晴らしさ、空から爆弾が降る恐怖におびえることもない自由の素晴らしさを多くの人が知ったということだろう。そこにまた、「恐怖」の影を落とそうとする平和ボケのオヤジたち。もう、核抑止力がまかり通った冷戦時代じゃないのだ。根気強い会話でしか、平和を維持していくことはできない。靖国神社に参拝した小泉さんも、平和にぼけたオヤジのひとり。日本の、アジアの、戦争で傷ついた人々の心を逆なでして、その痛みに思いをはせることができない哀れな人間。戦争で犠牲になった人たちを悼むのならば、その手を合わせる先は靖国神社であるはずがない。本来、戊辰戦争でお上のために命を落とした兵士を慰霊するために明治になって建てられた、神社の世界の新参者。そこに、太平洋戦争で亡くなった主に軍人を「英霊」として、その家族の意向も無視し、力づくで合祀した。それが靖国。空襲で世を去った、そんな庶民はカミ様にはなっていない。そんな神社に手を合わせて、さも「残った者の義務を果たした」という顔をするのならば、その足で千鳥ヶ淵の戦没者墓園へも参ったらどうだ。それでも、順序が逆だとは思うが。平和ボケのオヤジたちは、自衛隊のイラク派兵期間を延長し、自衛隊を自衛軍と明記すべく憲法を変えようとしている。痛みを後世に残し、自分たちは平和を享受してこの世にサヨナラするのだ。そんなオヤジたちに、「平和ボケ」なんて言われたくないね。
2005.10.17
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小泉さん、靖国へ。朝、ワイドショーを久々に見ていたら、小泉さんが靖国神社を参拝するという速報が飛び込んできた。やっぱりね。靖国神社は、秋の例大祭の初日。敗戦からちょうど60年。それの節目の年に、必ず参拝すると常々公言していた小泉さんにしてみれば、国民に対して表明したことを実行するだけだし、何より、口に出したことをやって何が悪いという思いなのだろう。郵政民営化を有権者に問うという前代未聞の独善的解散そして総選挙に勝利し、同法案はあっさり可決され、余裕綽々の小泉さん。英霊に、そのお礼でも捧げるのだろうか。これまで5回、靖国神社を参拝している小泉さん。今年は、赤い絨毯の上を歩くことなく、本殿には入らず、玉串料もなく、一般の人に交じり、平服で参拝するとか。「一私人」を強調したいのだ。しかし、どんな小細工をろうしても、靖国神社というひとつの宗教組織を一国の総理大臣が参拝するという、政治と宗教を分離した憲法に反することは明白だ。その画期的な判決も、つい最近、出されたばかり。なのに悠々と参拝とは、司法も軽くみられたもんだ。NHKの電話による世論調査では、小泉さんが「靖国神社に参拝すべきだ」という人と「参拝すべきではない」とする人が拮抗している。「参拝すべき」と答えた人の、その理由の筆頭は「他国が口を出す問題ではないから」。首相の靖国神社参拝は「他国が口を出す」問題なのだ。アジア各国を侵略した日本という組織のあり方を問う、ひとつの、大きな、問題なのだ。小泉さんの靖国参拝を「良し」とする人、靖国神社のあり方が「良い」とする人たちは、靖国神社がどんな風に「おかみの神社」として生まれたか、誰をまつって、誰をまつってないのか、それを知った方がいい。空襲で命を落とし、原爆で瞬時にこの世からかき消え、のちに苦しみつつ帰らぬ人となった犠牲者たち。そうした戦争の被害者は「英霊」ではないから、靖国神社にはまつられていない。上野公園に犬を連れて立つ西郷隆盛もまつられてはいない。西南戦争で「官軍」に反抗したからだ。無益な戦争の犠牲者を靖国神社は明瞭に区別している。靖国の目は「国」を向いている。戦争で犠牲となった軍人・軍属をまつっているのは「お国のためによく闘った」と、いい子いい子してるに過ぎない。しかし、街の声の中に「日本は日本の道を行くべきだ」という旨の発言をする人が多いのにはガクゼンとする。この答えをする人たちが考える「日本の道」って、なんなの? 間違っていると異人さんに指摘されても、「ほっとけ!」と反発することなのか? 逆の立場になっていたとして、侵略されたぼくらは、「もう、完璧に忘れたよ」を言えるだろうか?テレビのアナウンサーやキャスターの言葉も気になる。小泉さんは「自分の意志を貫いた」という言葉が乱舞する。プラスの意味としかとれないそんな言葉を使うならば、必ず「多くの人たちの心の傷を無視して」とフォローすべきだろう。映像を見ずにコメントだけを聞いていると、「信念を持った、強いリーダー」を前提に置いてしゃべっているように感じる。などと書いている間に、小泉さんは黒塗りの車で乗りつけ、ポケットから出したさい銭を投げ、雨の中、さっさと参拝し、SPと殺到する取材陣に囲まれながら、とっとと帰っていった。このSPも、ぼくら国民が小泉さんのために雇っている。しかし、ぼくのアタマの中では、靖国神社に参拝する「一私人」を護衛するために税金を支払ったつもりはない。一斉に特番に切り替わっていたテレビ局(テレビ東京と日本テレビは変更なし)も拍子抜けの体。しかし、この数分の小泉さんの行動が、アジア各国との外交をこんがらがったものにする。抑圧されていた国の人々の心を逆なでするような「英霊参拝」は、いつまで続くのだろう?
2005.10.17
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阪神電鉄&TBSの株を買占め、あちこちの番組で熱弁を奮う村上氏。ファンのためにを力説するが、タイガースの企業価値を上げるのは株主のためというのが透けて見える。そして、いずれ株を売却するつもりであることも。株の操作で利益をあげ、出資者に還元するのが村上氏の仕事。カネでカネを生むのが義務なのだから機を見てサヨナラするのも当然だ。しかし、インタビューでそこを突かれると「ファンのため」を繰り返し、微妙にかわす。自分の仕事は出資者を儲からせること。そう明言できないのはなぜなのか。言葉を粉飾しなければならない仕事。どこか虚しい。
2005.10.12
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ガソリンを入れた。単価129円也。上がった。でも全国平均は130円を超えているから、スタンドは精一杯頑張っている。この近辺は他県に比べて安い。国道に出ると居並ぶスタンド、軒並みリッター=127円。どこかが下げると数分もしない内に同額に。儲けが出るのかなぁ。台風騒ぎのアメリカでは、避難するためにガソリンを買う長蛇の列。日本もそうだけど石油に頼り切りの状況を抜けないとな~。食事にしても石油を食ってるみたいなもんだし。でも、いつかはなくなるとわかっていながら、使い方は変わらない。人間、痛い目に合わんとわからんのかな、やっぱし。
2005.10.12
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寝てるとヒマだ。パキスタンの大地震。復旧に要する金額は320億円あまり。一方、村上ファンドが阪神電鉄につぎ込んだのは1000億を超える。カネの有効な使い道ってなんだろう。村上氏がタイガースをゆるがすのも、出資者に配当を約束し、自らも利益を得るため。カネが最終目的なのは明白だけど、資本本位の社会で氏の行動はアリ。社会的モラルを持ち出してきても説得力はない。瓦礫の下にはまだ数百人の人が閉じ込められている。でも、救出作業は諦めた。重機がなければどうしようもない。ヒトを救うカネと、カネのために動くヒト。後者の方がチカラを持つ。悔しいね。
2005.10.12
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寝てるとヒマだ。新潟の地震の際、母親や姉と共に土砂に埋まり、ただひとり助かった男の子の、その後のニュース。ハキハキ明るく元気な子に育っているとか。よかったと思う。同時にその伝え方に疑問が。男の子が思慮深く、引っ込み思案の人見知りに成長していたら、どんな表現で報道するのだろう。「事故がトラウマとなっている」と、短絡な一言でくくられてしまいそうでコワい。どんなニュースでも、被害者・死亡者は明るくていい人となる。なんか変だ。人は誰もがネアカでなくてはならないのか。ネクラでもいいじゃないか。勝手に飾り立てるのは失礼だぞ。
2005.10.10
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恐ろしい言葉を知った。「およそ戦争という 国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、 国民がその生命・身体・財産等について、 その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、 それは、国をあげての戦争による『一般の犠牲』として、 すべての国民がひとしく受忍しなければならない」1980年12月11日、厚生大臣の諮問機関「原爆被害者対策基本問題懇談会(基本懇)」の答申に含まれていた言葉。すでに周知の言葉なのだろう。被爆者の間では『基本懇の受忍論』と名付けていたそうだ。知らなかった。戦争でぼくらがどのような犠牲を受けようとも、それは国民として堪え忍ぶべき『一般の犠牲』に過ぎないという、この信じられない文章は、よりによって原爆の被害・後遺症に苦しむ人たちに向けて発せられた。放射能に汚染され、今なお外傷や体内被曝による後遺症に苦しむ人たちに向かい、「がまんして当然」と言い放つこうした文章を編み出した人間たちはどのような人たちなのだろう? 学者など“有識者”と呼ばれる人たちなのだろうが、他の人間にふりかかった苦しみを自らのものとして考える姿勢がみじんも見えないのは、同じ人間として恐怖すら覚える。上記文章が言うように、戦争は確かに国の存亡をかけて行われるものだろう。しかし、戦争までに至る過程を省みることなく、ただただ「非常事態だから堪え忍べ」というのは帝国主義の時代と変わりない。国の責任をまったく問おうとしていないのも、「お国があるから、お前らがいる」というお上思考から導き出されたものだ。しかし、この25年前の文章。今は当時以上に賛同する人たちが多いのじゃないだろうか。そう思うと、戦慄を覚える。小泉さんの煽動により自民党が圧勝した政治の場では、憲法改悪の準備が着々と進んでいる。各種世論調査によれば憲法に手を入れるべきだと考えている国民は50%前後にも達している。憲法をいじり、九条を書き換え、自衛隊を軍隊とし、社民党じゃないが日本を「戦争のできる国」にしてもいいと考えている人が半数いるということだ。日本国民の半数を占める人たちは、家族が命を落とそうが、すべての財産を失おうが、それは「国をあげての戦争による『一般の犠牲』として、すべての国民がひとしく受忍しなければならい」こととして堪え忍ぶ覚悟があるのだろうか?ぼくには、そんな覚悟、まったく、ない。戦争が起こったら、青くなって逃げ出す。しかし、わからんのは、憲法をいじってもいいと思う一般の人たちの心情。ぼくは、なにを、どう考えても、なぜ憲法を、第九条をいじらなければいけないのかいまだにまったく理解できないのだが、それはぼくが時流に乗り遅れているということなのだろうか?頭曲がれば尾も曲がる。犠牲を強いる社会へと突っ走る暴走電車に目隠し状態で乗るくらいなら、ホームに取り残された方がいい。ほんのちょっとしたこと、たとえば、今回の衆院選での自民党圧勝と、それを現実のものとした有権者の一票が戦争への道をより可能にしていく。投じた側にとっては郵政改革への賛同の一票にすぎなかったのかもしれない。が、権力の座に座る方は、圧倒的多数の国民の信任を得たと言い換えることが可能だ。やはりぼくらは、郵政改革だけでなく、憲法改悪にも、税制改悪にも、その他多くの自民党主導の政策・議案にも賛同の一票を投じたことになる。投票することへの思慮の浅さが、結局は僕ら自身の未来をせばめ、自分の首を絞めていく。「およそ戦争という 国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、 国民がその生命・身体・財産等について、 その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、 それは、国をあげての戦争による『一般の犠牲』として、 すべての国民がひとしく受忍しなければならない」何度読んでも、恐ろしい。誰が、どのような理由で戦争を起こそうとも、それが国家の名で行われる以上、ぼくらはなんの異議も唱えられない。だが、これまで、国民の圧倒的多数の支持を確認してから遂行された「戦争」なんてあるのだろうか? あとから見れば、国民は踊らされていたと言える戦いは数多いけれど。そんな過去を知るにつけ、国の進む道を決めているのは誰なのか? ぼくら有権者のはずなのに、その視点が揺らいでいるんじゃないか。そう思えてならない。「国をあげての戦争による『一般の犠牲』として、 すべての国民がひとしく受忍しなければならない」この文言があらわれてから25年間。きょうまで、こんな非人道的な考えが公にされていたことさえ知らなかった自分のボンヤリ野郎ぶりを恥じる。しかし、もう、忘れない。・・・・・・・・・首相の靖国神社参拝に、初の違憲判決が出た日に。
2005.09.30
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「一番、住んでみたい都道府県は?」う~ん、そう聞かれても困るなぁ・・・。北海道なんか、いいかなぁ。。。時事通信の調査によれば、次のような順位になったとか。■1番目に挙げられた住んでみたい都道府県 1.沖 縄 11.3%(2) 2.静 岡 9.9%(1) 3.京 都 9.0%(5) 4.東 京 8.8%(3) 5.福 岡 6.5%(7) 6.北海道 5.4%(6) 7.長 野 5.0%(8) 8.神奈川 4.6%(4) 9.宮 城 3.5%(9) 10.兵 庫 3.5%(-) ※かっこ内は前回2003年調査の順位 琉球新報 「 住んでみたい都道府県で沖縄が1位に 」より。トップは、やっぱり沖縄。ここ数年の沖縄ブームそのまま。あたたかくて、人情があふれ、自然は豊かだし、食べ物もおいしい。よそから見れば、いいとこ満載という感じ。時間はゆっくり流れているし、長生きできそう・・・。でも、それってやっぱりイメージ先行。住んでみたいと言われれば、そこに暮らす人間は嬉しいけれど、なんとなく素直に喜べない。ぼくが住む福岡県は5位に入っているけれど、何を根拠に「住みたい」と思うのか、よくわからんな~。よく言われるように、魚はうまいし、物価が安いせいか。はたまた、華麗な祭り・山笠が疾走するせいか。それとも、今年も強いホークスの人気かな? いやいや、タモリに陽水、聖子ちゃん、浜崎あゆみに椎名林檎、さらには氷川きよしなどなど、出身芸能人がわんさかいるせいじゃない?「住みたい」と言う人も、はっきりとした理由があるわけじゃないのだろう。マスコミや口コミにのる量によってイメージをふくらませているに過ぎない。ぼくは「北海道がいいかなぁ」となんとなく考えたけど、北海道も広かろう。「そのどこに住みたいの?」ときかれたら「さぁ?」と答えざるを得ない。地元のことをまったく知らないのに「住みたい」と言うのは、考えてみれば失礼かも。ところで、この時事通信の調査、対象者が「有識者」と、ちょっと変。新聞記事によれば「行政や経済界、教育・マスコミなど47都道府県ごとに15人を選んで」調査したという。これって、結果がかなり偏るんじゃないかしらん? 旅行したことのない人に尋ねると、まったくのイメージになってしまうと思ったのかなぁ。10位に「兵庫県」が入ってるのは、回答者が「有識者」だから?それに、ひとつの都道府県を代表するのが15人というのもあまりに少なくないかなぁ。全回答者数は、わずかに679人。昔、調査会社にいたことのあるぼくは、この調査対象者の少なさが気にかかる。でも、視聴率調査は、関東地区で数百世帯。統計学上はそれで十分ということになっている。だから、この「一番、住んでみたい都道府県は?」調査も、これはこれでいいのかも。しかし、おおざっぱな調査だこと。
2005.09.22
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選挙の結果を知らせる新聞を読みつつ思う。地元出身者は、その選挙区で立候補できないようにしたほうがいいんとちゃう?「地元の利益を代表し、地元の声を国会へ」そんなことを唱え、確かに当選するのは地元に密着し、経済基盤という支持基盤を築いている方々だ。角栄さんのやっていたことは正しかったのか、やはり。しかしまぁ・・・亡くなった夫の無念を晴らすために出馬する妻、父の遺志を継いで国政へ打って出ようとする二世・・・・・。いかにもボクラ好みで美しい。が、それが美しい一葉の絵として留まらず、ホントに当選させてしまう「地元」っていったいなんやねん?!政治家としての力量どころか、人間として生きていく常識やセンスがあるかどうかさえはっきりしない、どこの馬の骨かは分かってるというだけの後家や青二才を「センセイ」と呼んで恥じない品性が理解できん。地元から立てないとなれば、ネームバリューのある落下傘候補ばかりが当選するかも。でも、その方がいいようにも思う。ホリエモンさんは、「ジバン・カンバン・カバン」、三位そろった亀井さんにはかなわなかったし。こんなこと言っても、負け犬の遠吠えのように聞こえるなぁ。。。。結局、自分に跳ね返ったり、痛い目にあったりしないとダメなのね。特定郵便局の局長をやっている友人は、以前、飲みながら「小泉のばかやろぉ!」と言っていたっけ。今ごろは飲む気力もないんじゃなかろうか。多くの局員をいずれ整理しなければならなくなるのか? そんな先の憂いも抱えなければならない。改革は必要だろう。でも、それが今の小泉さんのやり方でなぜ「OK」なのか。やっぱり、さっぱり、ワカランなぁ。
2005.09.12
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もう、アンタンたる気持ち。自民党圧勝。単独過半数どころか、300議席を突破すること確実。ぼくの住む県は、小選挙区すべてが自民党で議席を埋めてしまいそうな勢いだ。野党の砦だったあの頃の有権者の心はどこへ行ってしまったの?という感じである。小泉さんの「郵政改革、イエスか、ノーかを問う選挙」の面白さに誘導された票がいかに多かったかということか。亀井静香さんが「国民の皆さん、目を覚ましてください!」と、憤死せんかの錯乱状態で声を裏返していた。タカ派の亀井さんにそう言われるというのも情けないが、小泉さんの「公務員とか、一部の勢力の言うなりになる議員は国民の代表じゃない!」とか「改革を後退させて本当にいいのか!」といった、耳ざわりのいい、一見正論に目をくらまされたのは間違いないだろう。ボクラは、“コイズミ催眠術”にやられてしまった。郵政改革をやるだけが国会じゃない。年金問題も、靖国問題も、憲法九条も、増税問題も、環境問題も、教育も少子化も、あれこれもやらねばならない。なのにボクラは、「カイカク」という、見た目おいしい氷山を与えられ、それだけに気をとられ、水面下に隠れたより重要な部分に気づかなかった。ボクラは、「カイカク」よりも重要な問題まで、小泉さんにゆだねてしまった。憲法九条は、憲法改悪は、どうなるんだろう?たったひとつの「カイカク」で国政を揺るがす。なぜそれをボクラは許しているのだろう? マスコミは参議院での議決の結果をもとに衆議院を解散するという、憲法違反の疑いさえある総理大臣の強権発動をなぜ追求しないまま、「カイカク選挙」を喧伝し続けたのだろう?憲法九条問題で、国民にイエスかノーかを問うために衆議院を解散する、そんな“強権発動”が考えられるだろうか?亀井さんが言外に匂わせたように、ボクラは「オロカ」な国民なんだろうか?今、自民党の武部さんが「国民は賢いです!」と強調している。あなた方にそう言われれば言われるほど、ボクラのオロカさが見えてくるのだ。
2005.09.11
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台風が行ってしまうと青空が広がる。でも、朝はまだどんよりしていたので、すっきりしないなぁと思いつつ、机に向かう。昼食をとり、腹ごなしにごろごろしつつ『項羽と劉邦』を読んでいたら、頭にピンッ。「あ、洗濯物、干しちょらんっ!」台風一過で晴れ上がるだろうと、朝の内に洗濯物を洗濯機にぶち込んで回していたのを、なかなか天気が良くならないもんで忘れてた。あら~、からみあってしわくちゃになっちょるわぁ。ま、いっか。ジーンズにTシャツばかりだし。しかし、ねじれ、からんだままに放っておいた天罰か、一枚一枚解きほぐすのに往生した。午後から干しても乾くかなぁ。遠くから選挙カーの声が聞こえる。と、思ったら、ずんずん近づいてくる。あ~、家の前を通るぅぅぅぅぅ。。。。やかましか。ぼくの住む選挙区は候補者3名。うち、自民党と民主党の二名は、どちらが選挙区で落ちようとも、比例区で復活当選することが確実。まったくつまらない。無風選挙区もいいとこだ。比例で復活するなんて、選挙民に失礼極まりないと思うんだけどなぁ。家の前を通ったのは民主党の二世議員。オヤジさんは社会党で「国会の爆弾男」と異名をとったやり手議員だった。あのころが社会党は花だったのかもしれない。「その父が、こうして車の中から皆さまにご挨拶いたしております」ほ~、老骨にむち打ってオヤジさんも息子の選挙に応援参加してるのね。もう80代半ばになるはずだけど、がんばるなぁ。やはり選挙区で当選しないと「負け」という感覚があるんだろうか。まぁ、オヤジさんが来てると聞いたって、二階から駆けて行ってその顔を拝見するほどの興味はないけれど。今回の選挙は多くの人が関心を持っているという世論調査が毎日のようにマスコミから流れる。調査の仕事をしていたことのある身としては、鵜呑みにはできないところが多々あるのだけれど、そういう傾向があるということは確かだろう。きのう、見たニュースの世論調査では、選挙民が関心を持っているという項目の二番目に「郵政民営化」があがっていた。その結果にぼくはすごく違和感があったのだけど、「郵政民営化を問う選挙だ!」と声をからしている小泉さんにしてみれば、してやったりというところだろう。民営化、改革・・・・前向きに聞こえる、耳ざわりのいい言葉のられつ。「なぜ、いま、必要なのか」ということが、ぼくはいまだにまったくわからないのだけど、○か×かを出さねばならないのだろうか? どちらを出しても端役として小泉劇場のステージにあがってしまう。でも、棄権するつもりはない。政治に踏み込める、たったひとつの手段を行使せずして、なんだかんだと文句が言えるか。ニュースで20代前半のお母さんが、「誰がやっても変わらないから政治に興味ない」とおっしゃっていた。まぁ、確かに劇的に変わりはしないかもしれん。でも、「興味がない」で過ごしていると、ある日突然、お子さまが命のやりとりに他国へ行かされるハメになっても反抗できませんよ。権利と義務は果たしとかんとね。なにもしないのは、為政者にとってプラスに作用するだけだもん。あぁ、空が真っ青だぁ。。。。。♪ おぉブルースカイ ブルースカイ この空の明るさよ ♪♪ なぜぼくの この悲しみ 映してはくれない ♪なつかしかね~。♪ 忘れようと破ってみた 君の写真だけど ♪♪ なぜか想い出させる きょうの空の青さは きょうの空の青さは ♪♪ おぉブルースカイ ブルースカイ この空の明るさに ♪♪ まぎれながら 生きてゆこう 悲しみがくる前に ♪夕餉の買い物がてら、ドライブにでも行くかな。
2005.09.07
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刺客と呼ばれる落下傘部隊が、ぼくらの選挙区にも舞い降りてきた。有名・無名関わらず、小泉さんの意の通りに動いているように見える。無派閥ながらも小泉さん、「やると言ったらやる」と駄々っ子に近い言動でも周囲の人々は追随。総理の権力というのは絶大なのだなと改めて感心する。県単位、地区単位で、その地域の代弁者として議員を選ぶというやり方にも「おかしいな」と思う点は多々ある(昔の新潟3区のように、我がふるさとが国民の上にあるように思ってしまうことなど)のだけれど、見も知らぬ、どこの誰やらわからない人が突然やってきて、「皆さまの意見を代表します」と言われてもこちらは「なんじゃ、こいつ?」と思うだけだ。自民vs自民という、めったにない構図だし、選挙としてはこれまでになくおもしろい。新聞の論調も、構造改革を(まったく我流ながら)押し進める小泉さんにシンパシーを感じているような内容だし、前代未聞の選挙戦が見られるだろう。しかし、おもしろがる前に、やっぱり「参院が否決したのに、衆院を解散していいの?」という、ごく単純かつまっとうな疑問にきちんと答えるべきなんじゃないだろうか? 解散権は総理に与えられた切り札だけど、その切り札を切る理由が「思い通りに行かなかったから」じゃダメだと思うのだけど。衆院を解散したとき、どうするのかなぁと思っていた靖国参拝。信念に基づいていたはずの英霊への鎮魂行事も、やはり総理という地位があってのものだね、あっさりやめてしまった。敗戦の日に出した久々の総理談話では、中国・韓国の国名をあげて、過去の侵略行為に遺憾の意を表した。目標をその手にするためには何でもするという点では、小泉さん、見上げた人と言えるかもしれない。首尾一貫しないし、無責任極まりないが。対抗馬の亀井さんは「騒がせた責任を取る」という、ありきたりで理屈の通らない理由で派閥の領袖を降りた。この際、新党を旗揚げしてその中心として昨日したいのだろう。なんとまぁ勝手な人ばかり。ぼくら日本人は「“仕方がない”で終わる国民」と言われているとか。過去の戦争も、自衛隊のイラク戦争派兵も、今回の衆議院解散も、「ここまできたなら仕方ない」とその過程を省みることなく次のステップへ進んでしまう。そして、テレビの開票速報をイベントのように見つつ一時ばかり盛り上がり、何事もなかったかのように日常へ戻っていく。今回の解散劇と選挙騒動も、9.11の投票日を過ぎると「そんなこともあったよね」となってしまうのだろうか。それじゃ、マズイ。落下傘部隊に1票を投じるつもりはないけれど、自民以外の対抗馬が心もとない面々なんだよなぁ。なんとかならんか、野党さん。
2005.08.16
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衆議院が解散した。なんとも、想像を絶する権力闘争だ。小泉さんには想定内だったことだろう。衆議院を5票差という僅差で通過したときに、今、この現状を計画していたに違いない。参議院を通過すればそれでよし。否決されたら解散だ、と。解散権は総理大臣に与えられた権限だし、議会進行中のどこでその伝家の宝刀を抜いても「違法」ではないのかもしれない。しかし、権力闘争に使うことを前提に定められた権限ではないと思うのだが。郵政民営化は選挙時の自民党の公約だ。小泉さんは総裁になるときから、具体的な施策はこれしか言ってこなかった。自民党の議員たちはそれを認め、無派閥の小泉さんを自分たちの領袖に担ぎ出したはず。彼らにしてみれば一時しのぎだった小泉政権も、有権者の奇妙な支持を得続けているから不満に思いながらも延ばし延ばしに。そのあげくが「公約」を公然と破る暴挙。政治家にとって約束とは何か、またまたはっきりと教えてくれた。暴挙は小泉さんの方も大。参議院で否決された法案は、衆議院に差し戻し、再度議論を重ねるのが当然だろう。「参議院で否決されたから、衆議院を解散する」というのは、誰がどう見ても不自然だ。首相に参議院の解散権があれば、小泉さんは衆参両院を解散させたことだろうけど。衆議院でもう一度議論をし、そこで再度否決されたら衆院解散というのなら、まだ話はわかる。その段取りを踏まなかったのは、任期が残り少なくなっているからなのか?変人の権力闘争に、また膨大な税金も消えていくのか。有権者にしてみれば、降って湧いたチャンスではある。投票でしか自分の意思を表せないぼくらにとって、郵政民営化をはじめ、小泉さんを中心とした現政府に「YES」か「NO」かを表明できる唯一の機会だ。結局はぼくらがどう選択をするかにかかっている。でもまた、「積極的棄権」などという人たちが数多くいるんだろうな。投票の棄権に「積極的」も「消極的」もない。数による結果だけが現実の意思として残る。どういう理由であれ、棄権は為政者を利するだけなのだ。たとえ投票した候補者が落選したとて(ぼくが一票を投じた人は、まだ誰一人も当選してない。。。不吉)、投票した行動やその得票にぼくらの意思は残る。小泉さんは郵政民営化法案に反対票を投じた議員に党推薦を与えないことを明言した。子どもみたいだとも言えるが、郵政民営化が自民党の公約であることを考えると、その姿勢もありかなとは思う。今のところ、自民党は分裂選挙を余儀なくされる。亀井さんたち反対派は新党を結成して選挙に臨むのか? 自分たちこそ自民党主流派だ(それはそうだと思うけど)と主張して、ふたつの自民党がひとつの選挙区で競うことになるのか? それはそれでおもしろい。おもしろいけど、やっぱりひっかかる。「参議院の動きによって、衆議院を解散する」 これって、本当に問題がないのだろうか? 首相に与えられた解散権がこのように行使されることが可能なら、国政を混乱させるのは簡単だ。でも、新聞もテレビも、総選挙に向けて走り出した。一番大事な点を顧みることなく、先へ先へと進んでしまう。たまには立ち止まって考えてもいいと思うのだけど。
2005.08.09
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「ニートのための若者自立塾」なる話を聞いた。何をすればいいのかわからない不安は僕も体験したし、今もそのさなかにいるが、でも僕は働いていない期間でもニートではなかった気がする。不安にさいなまれながらフラフラしていた頃も自分で動けた。それは周囲が放っておいてくれたからじゃないかしら。ニートが気の毒なのは、ひと固まりにまとめられ、日本社会の未来と絡ませて語られること。放っておいてはくれないね。トータル何十万人いようとも、辛いのは個々の個人、ひとりひとり。きっかけは何でもいいから、まずは一歩、踏み出せますように。
2005.06.30
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名古屋は今一番元気のある街だとか。少し前までは福岡がそう呼ばれていた。世の趨勢は早い。雑誌に躍る「名古屋嬢」の文字。ファッションセンスが注目されているようだがそうなのかしら? 無粋な僕にはケバいだけにしか見えん。化粧品消費量の多い名古屋嬢がメーカーに踊らされているだけと口の悪い友人は言う。こちらもホントかどうかはワカラナイ。が、道行くお嬢さん方のお顔を拝見するに、厚塗りの方が確かに多いらしく見うけられる。ファッションにしろ化粧にしろ、他人がとやかく言うことでもないが、万博の後押しもある「名古屋嬢」ブーム、いつまで持つのかな?
2005.06.23
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*アメリカ=6分*イギリス=5分*日本=1分駅で待つ乗客が「電車が遅れた」と感じる時間だそうだ(「ニューヨーク・タイムス」調べ)。実際は、アメリカ、イギリスとも、もっとおおっぴらに遅れるそうだけど。ぼくが利用する駅でも、1分以上遅れるとホームに「ひとつ手前の駅を1分の遅れで、ただ今、発車いたしました」とアナウンスが流れる。東京の山手線や大阪の環状線ではない。北部九州の、駅周辺には人が集まり住んでいるけど、駅を出ると間もなくレールの両側にたんぼが広がる。そんな路線。通勤時間には確かに利用者は多いのだが。こうしたアナウンスは客の少ない昼間でも同様。そのアナウンスをうるさく思ってしまうような感覚でいると、異様に思える気の遣いようだ。でも、それはぼくら利用者へのサービスなのだろう。遅れた1分を乗り換え駅までに取り戻してしまうことも日常。数メートル、オーバーランすることだって別に珍しいことじゃない。日常なのに、大惨事。不可思議。東京で「酷電」と呼ばれる満員電車に乗っていたころ。1分でも、1秒でも、この辛さから解放されたいと思った。それは、通勤・通学する人は、どこでも、誰しも、感じることに違いない。「1分ぐらい、がまんしろよ」とは言い切れない。遅れることが許される状況にあったなら、事故は起こらなかったのだろうか?昔、インドに行ったとき。出かける前にいろんな人から言われたように、列車ダイヤはあってないようなもの。30分、1時間の遅れは日常。遅れどころか、到着・出発のアナウンスもない。車内で同席した人に「時間通りに列車はこないんですね」と言ったら、「時間は目安だよ」と、返された。そんな世界に、ぼくらはもう戻れない。
2005.04.28
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