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2022年03月06日
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カテゴリ: 鎌倉殿の13人
「鎌倉殿の十三人」

梶原景時は、頼朝が千葉市や上総氏を加えた大軍勢で押し寄せるということにうろたえる大庭景親に見切りをつけた。景親をまっすぐに見据え「それがしは大庭殿の家人ではござらぬ」と言い切って、たもとを別つ。

 北条義時が女人の装束を借りに、景時の館へやってきたとき、景時は盆栽を嗜みながら「それが、大庭殿とは袂を分かったところ」と伝える。

「粗暴な男は苦手でな」

 後に梶原景時が、義経と対立する伏線がはられている。

 一方、義経の奇人ぶり、残忍ぶりは目立つ。

奥州をたった義経は、その道中で野武士と野兎を奪い合うことになる。
野武士は義経に矢を向けるが、義経は矢の飛距離を争う勝負を持ち掛ける。
野武士が弓を引いた後、義経は野武士に向かって矢を放つ。

矢の勝負では勝てないからだまし討ちにすることに天真爛漫。
義経の純粋さは狂気と紙一重である。

*梶原 景時(かじわら かげとき)は、石橋山の戦いで源頼朝を救ったことから重用され、侍所所司、厩別当となる。
当時の東国武士には珍しく教養があり、和歌を好み、「武家百人一首」にも選出されている。

梶原氏は坂東八平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族であり、大庭氏とは同族である。曾祖父、または従曾祖父に後三年の役で源義家のもとで戦い武勇を謳われた鎌倉景正がいる(梶原氏の祖・景久の従兄弟)。梶原氏は大庭氏らとともに源氏の家人であったが、平治の乱で源義朝が敗死した後は平家に従っていた。

『源平盛衰記』では、敗軍の頼朝は土肥実平、岡崎義実、安達盛長ら6騎としとどの岩屋の臥木の洞窟へ隠れた。大庭景親が捜索に来てこの臥木が怪しいと言うと、景時がこれに応じて洞窟の中に入り、頼朝と顔を合わせた。頼朝は今はこれまでと自害しようとするが、景時はこれをおし止め「お助けしましょう。戦に勝ったときは、公(きみ)お忘れ給わぬよう」と言うと、洞窟を出て蝙蝠ばかりで誰もいない、向こうの山が怪しいと叫んだ。大庭景親はなおも怪しみ自ら洞窟に入ろうとするが、景時は立ちふさがり「わたしを疑うか。男の意地が立たぬ。入ればただではおかぬ」と詰め寄った。大庭景親は諦めて立ち去り、頼朝は九死に一生を得た。

頼朝は安房国へ逃れて再挙し、千葉常胤、上総広常ら東国武士が続々とこれに参じて大軍に膨れ上がり、10月に鎌倉に入った。頼朝は平維盛率いる平氏軍を撃破し、大庭景親は捕えられ斬られた。12月に景時は土肥実平を通じて頼朝に降伏。翌養和元年(1181年)正月に頼朝と対面し御家人に列した。弁舌が立ち、教養のある景時は頼朝に信任され鶴岡若宮の造営、囚人の監視、御台所・北条政子の出産の奉行など諸事に用いられ侍所所司(次官)に任じられている。





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最終更新日  2022年03月06日 13時00分49秒


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