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何のことかと言うと、株です。いや、僕は元々株の仕事をしておりまして、でも、証券会社ではないですよ。証券会社に発注する投資家の立場だった訳です。投資家と言っても、僕がお金を出す訳ではなく、僕がいた会社がお金を出すのですが、会社自身のお金であったり、会社がお客さんから預かったお金であったり、そういうものを投資していた訳です。僕は実際に発注したこともあるし、個別の株式が割高か割安か、それも短期的にみるとどうだ、中期的に見るとどうだという調査業務もやってたことがあるし、市場全体の株価が上がるか下がるかという見通しによって、先物を売買するというそういうこともやっていて、まずまず良い仕事をしていた。つもりだったのです。当時、社内規定で株式を個人で売買することは禁じられていたので、そういう株式業務から離れてから、個人としては投資を始めました。そして、今日、タイトルのような印象を持ったのには次のような悲しい物語があります。それはある企業の株式お話。その企業の株を買ったのは、元々はある証券会社の営業マンの推奨でした。ただ、自分でも公開情報を基に調査してみると、なかなか面白い。安い株式ではなかったのですが、買うことを決意しました。後で知ったのですが、その企業の所在地は、僕の実家のすぐそば。最寄駅よりも近い位置にあります。不思議な縁を感じたものです。しかしながら、そういう縁とは皮肉なもので、簡単に儲けさせてくれません。ずっと持ち続ける宿命のように。800円程度で購入したのに、株価は500円程度をうろうろします。損切りをする気にもなれないし、かと言って上値も期待できず、まさに「塩漬け」状態です。でも、一度チャンスがありました。800円を超え、1000円も超えたのです。推奨してくれた証券マンは電話を掛けてきてくれました。「ジョーさん、とりあえず、利食っときましょうよ」僕は、耳を貸しませんでした。そりゃ、ここまで我慢したんだもの、1500円ぐらいになってくれないと…。なんて欲の皮が突っ張った考えをしていると、知らない間に1000円を割っている。あれよあれよと言う間に950円も割り、900円も割り、購入価格の800円を割るのはあっという間でした。「だから、言ったでしょ。ジョーさん。世の中には欲の皮が突っ張った奴がいるんですけど、結局は利食ったもん勝ちなんですよ。絶対にピークでは売れませんから、上がってる時に売るんですよ。上がった後にたらたらと下がる局面で売るのは、ホントに難しいんですから」ごもっとも。僕は彼の言うことを黙って聞くしかありませんでした。でも、またチャンスはあるさ。そのチャンスは5年ほど待たなければなりませんでした。幸い、そこそこの配当が出る株式だったので、(銀行預金よりはいいや)ヤケクソです。でも、株価は昨今の不況もあり、ついに300円台へ。もう、泣きそう。もうすっかり忘れて、いや、忘れることは出来ないものの、忘れたいと日々思っていた昨年の下旬、株価は突然上昇を始めます。ファンダメンタル面での好材料が出たのです。400円台。500円台。600円台。700円台。ついに、買い入れ価格も超えました。そのままほぼ一本調子で上昇し、一時は1100円に。でも、その相場は長続きしませんでした。その後、あっという間に900円台の前半に。(こりゃまた売り場を逸するかなぁ)すると、何故かまたするすると上昇します。910円くらいだったのが、930円、950円、960円。いずれも、ザラ場(取引の最中)では1000円を付けるものの、その後あっさりと割り込んでます。ただ、さらにもう少しは上値がありそうです。今朝、僕は決心しました。(1000円を超えたら売ろう)今朝の株価は970円程度。でも、板(買い手や売り手が市場にさらしている注文)を見ると、どうも危うい。値が崩れるリスクを孕んでいます。(よし、後場の開始と同時に上がって、その後下落する可能性があるので、とりあえず1006円でさらしておこう。)そして僕は昼食に出ました。この段階で、1006円で売れる可能性は20%程度と見ていました。さて、少し長めの昼食を終えて戻ると…株価は1030円を付けているではないですか。当然、僕の株は1006円で約定済み。あらまあ。自分の発注をさらしたまま、外出してはいけないというトレーディングの基本中の基本を忘れておりました。その後、株式はストップ高。1100円も超えました。実は僕は昨日、940円で売り注文を出し、結果的には約定出来なかったので、今日1006円で売れたことで、6万円程度儲けたとも考えられますが、後場、しっかり見ていたら、恐らく1100円程度で売れただろうから10万円程度損したとも言えます。加えて、もしかすると、来週以降一段高もあるかも。悔しいから、6万円儲けたと考え、二度とその株を見ないようにすることとしました。でも、きっと気になるんだよなぁ。才能がないとは信じたくないけど、つくづく、株は難しいと思います。とりあえず、本業でこの何百倍儲けて、もう一度、余裕資金を作ってリベンジしよう。そう、本業に燃えた、金曜日の昼下がりでした。おそまつ…
January 22, 2010
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何度も何度も書いては、でも、あまりのつまらなさに、消してしまい、それでも気を取り直して日記を書く。そんなに無理して書かなくてもいいのにね。と、自分でも思う。マイミクのことを書こうと思ったんだけど、マイミクが6人しかいない僕がマイミクを論じる権利はあるまい。書いてしまえば、マイミクの多い人へのやっかみに聞こえるかもしれないし、そんなことをうだうだと考えていてた訳です。今、この段階で何を書くかも決めておらず、だから、タイトルは空欄です。日記の最後までには埋まるでしょうが…。そうそう、この話をしましょう。この時期になると想い出す女性がいます。まあ、想い出すと言っても、彼女は別に想い出の中だけに生きている訳ではありません。恐らく、携帯を出して、「元気?」とメールしたら、30分後には「元気だけで何か?」という、誠に事務的なお返事をいただくことは目に見えています。彼女とは遠い昔、付き合いかけ、大きな誤解でそれは実現することはなく、後でお互いにその誤解を知ることとなったけど、後の祭り。僕は彼女に告白したつもり。そして、その告白に対して色よい返事をいただけないと思っていた。彼女は僕から告白されたことはないと、キッパリ。告白されたら絶対に付き合っていたと、さらにキッパリ。その発言は、僕の告白のかなり(10年前後)後です。彼女としては、一夜の盛り上がりで愛し合い、熱烈に愛し合い…。でも、朝になる前に、一人暮らしの彼女のマンションに彼女を置いて帰って行った、憎らしい奴。それが僕だそうです。10年ぶりの再会では、チューもさせてくれませんでした。手も触れさせてくれませんでした。それ以来、ただの友達。ただの親友。彼女は大企業に勤務するのに飽き、今は自分で企業を経営し、僕は彼女からたまにビジネスの相談を受けるけど、アドバイスをしている僕が何故かお支払いも担当させられる。僕は、彼女とはそういう関係になり得ないので、気になる女性についての話をする。「君もまったく懲りない人だわよね」の一言で終わる。そんな彼女と一夜限り盛り上がったのは、ある年の、ちょうどこの時期。あの日に戻りたいとは思わないけど、そんな一日もあったなぁと、ちょっとセンチメンタルに。
January 20, 2010
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数日前、僕の日記に、一つの奇妙なコメントが記載された。それは、よくあるアダルト系、出会い系に誘導する、http://付きの、誠に下品なコメントとは異なり、一見、まともなコメントに見える。ただ、この二つに共通するのは、誰が書いたか分らないということ。僕のブログの日記のコメント欄は、楽天ユーザーに限定していない。したがって、物理的には誰でもコメント出来る。ただ、楽天ユーザー以外がコメントすることは極めて限定的。何人か、僕のリアルな世界での友人・知人はこのサイトの存在を知っているため、たまに覗いて、コメントしてくれることもある。ただ、こういう場合はだいたい分る。ただ一回、例外的に、ある友人からのコメントを、まったく知らない人物からのコメントと勘違いして、(なんだ、馴れ馴れしい奴だなぁ)と、速攻で消去してしまったことがある。彼はその後、私書箱にコメントをくれたのだが、コメントをしてくれたのが彼だと知って、いたく赤面したことがある。こういう例外を除けば、楽天ユーザーで、リンクをしていたり、コメントのやりとりをしていたりと言う人がほとんど。だから、今回のコメントも、ちょっとクエスチョンマーク付きで読み始めた。案の定、僕の不吉な予感は当たった。まず、日記に対するコメントではない。最初に、「最近、寒いですねぇ。お体に気を付けて下さい」的な当たり障りのないコメントが書かれ、「ところで」と本題に入る。彼(もしくは彼女)の本題は「外国人参政権反対」および「外国人参政権を推進している民主党はけしからん」ということだったようだ。ただ、なぜ反対なのか、なぜけしからんのかについての説明が皆目ないから、それに賛同する気にもなれないのである。これが、僕を感動させるようなら論理構成であるなら、100歩譲って、納得したかもしれない。でも、そうではない。加えて、お前、人のブログのコメント欄汚すなよ!てな感じである。人のブログのコメント欄を汚すという点では、アダルト誘導、出会い系誘導のコメントとなんら変わりがないと思うのである。ただ単に、独りよがりの、自分の主義主張を押しつけているに過ぎないのである。僕は立腹し、速攻で削除した。こういうケースは実は過去にもあって、削除すると、いやがらせのように、同じ日記や後日の日記でまた同じコメントが繰り返される。時には、そのコメントに対するレスを書くこともあるが、結局は水掛け論になる。だから、こういうアラシは削除という対抗措置しかないのかと思っている。ちなみに、僕は外国人参政権に賛成である。しかし、仮に僕が反対であったとしても、彼(もしくは彼女)のコメントに対しては同様の措置をとったと思う。外国人参政権に反対ならば、反対意見を堂々と自分のサイトで展開すれば良い。そうそう。その人物の場合、「○○○」と検索したら詳しく説明されてますよ、というおためごかしも付いていた。確かにググってみたら、そんなサイトありました。おいおい、それってお前のサイトだろ?てな感じです。さも、グーグルというフィルターを掛けて検索した情報が公益性が高く、そこには私の言ってることと同じことが書いてあるでしょ?だから私が言ってることが正しいことが、あなたにも分りますよね?ってか?それはあたかも、優良出会い系サイトと悪質出会い系サイトの見分け方を教えるふりをして、実は自分の息のかかった悪質サイトに誘導するのが目的というサイトに似ている。もちろん、そういう優良・悪質判別サイトにも優良なものもあります。それは誤解のないように。そういう姑息な輩はでえっきらいなんだよ!プンプン!!
January 19, 2010
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風邪をひき始めたのは三連休の最中。自覚症状があったのは日曜日だから、今日で丸一週間。でも、まだ治らない。いや、自業自得な面も多々あります。ちゃんと養生しなかったり、自分で勝手に治ったと判断して外出したり…。加えて、一日も休むことなく仕事をしてましたので。でも、なんだか変なのです。先週の日曜日こそ熱が38度あったけど、その日に比較的しっかりと寝て、熱は下がった筈。体温計で測っても36度程度。でも、頭がボーっとするのです。なんとなく熱っぽい感じがして、でも熱を測ると36度だったりする。あとの症状は鼻が詰まる。だから、一日でごみ箱がティッシュで一杯になります。ただ、こんな状態でも鼻は比較的通ります。だから寝る時も口呼吸にならず、したがってのどは傷んでいません。考えてみれば、先週は水曜日にかなり夜更かしし、カラオケまで絶唱してしまいましたし、金曜日には朝から8キロも泳いでしまいました。昨日も京都まで…。まあ、その時は調子が良かったので、大丈夫だろうと、そういう行動に出たのですが、そういう後は熱っぽくなってボーっとする。止めときゃ良かったと思っても後の祭り。今日は流石にしっかりと寝ました。でも、一日寝て、寝飽きた夕方、こうやってまたブログを書いたりしている、懲りない僕。いまだに、明日のジムはどうすべきか思案しています。本来は休むべきであることは明らかなのですが。肉離れもまだ完治しないうちに別の箇所が痛む始末だし、風邪もなかなか完治しない。あんまり、肉体は若いとは豪語出来ませんな。そうそう。金曜日の夕方に辛そうにしていたら、会社の女性が気になることを。「実はインフルエンザってことはないんですか?」「インフルエンザではないと思うよ、熱はほとんどないし…」「新型はあまり熱が出ないそうですよ」そういう心配もし始めています。でも、僕が新型インフルエンザだったら、かなりの人に感染させてるな。迷惑な奴…。
January 17, 2010
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臨済宗の大本山である両足院で、長谷川等伯の『水辺童子図襖』や、伊藤若冲の『雪梅雄鶏図』等、なかなか面白い展示があるということを小耳に挟み、建仁寺へ。実は私の家の宗教は禅宗。ただし、禅宗と言っても道元が始めた曹洞宗と栄西が始めた臨済宗があり、うちは曹洞宗の方。そういうことから、曹洞宗の総本山である永平寺には行ったことがあるし、それ以外にも曹洞宗とはなにかと縁があるものだが、正直言って、もう一つの臨済宗については高校時代に、栄西や建仁寺というキーワードはつながっていたものの、こんなに近くにあるとは、露知らなかった。お恥ずかしい限り。場所は京都の祇園を奥に奥に行き、場外馬券場の喧騒を過ぎるとある。京阪四条駅からも10分とかからず、阪急河原町駅からも15分もかからない。祇園に来た時には凄く近くを通っているにもかかわらず、来たことはなかった。で、初めての建仁寺。本日は等伯や若冲の襖絵や屏風を数点観たのみであるが、やはり美術館などでガラス張りの中に展示され、しかもそのガラスの前には人山の集りで、ろくろく観られないというのと違い、お寺の部屋に自然に飾られているのは、味わいが全然違うものだ。お目当ての『水辺童子図」と『雪梅雄鶏図』もなかなかのもの。等伯最晩年の作品である『水辺童子図』は、その枯れた感じが素晴らしく、『雪梅雄鶏図』は色彩、とりわけ赤が鮮やかである上に、迫りくるような立体感、躍動感が見事。これらの作品はこの後、東京と京都の博物館にも出展されるそうだが、確かどちらかが東京のみ、どちらかが京都のみなので、両方見られるのは両足院のみらしい。ちょっと得した気分。この展示は明日までなので、ご覧になりたいからは、急いで。
January 16, 2010
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バドミントンの小椋久美子選手が引退するそうです。実は、小椋久美子という名前も実はハッキリ知らなかったのですが…。でも、かつて「オグシオ」ペアが一世を風靡した時、どっちが「オグ」でどっちが「シオ」かは、こんな僕でも知っていました。そして、男性から見ると、この「オグ」と「シオ」のどちらかに自分のタイプがいると言われたものであります。因みに僕の周辺にヒアリングした結果は圧倒的に「シオ」の勝利。どちらかと言えば美形のオグより、カワイコちゃんタイプ(←死後?)のシオの方が好まれる傾向が。加えて、シオの方がメディアでの映り方が上手い気がします。受け答えが上手い。オグはと言うと、どうも不器用でぶっきらぼうな。そんなオグが僕は好きだったのです。だから、僕は何を隠そう、少数派のオグ派。まあ、キャンディーズではミキ、ピンクレディではケイがタイプと言っていた僕ですから、世間と趣味がかい離していることは、子供の頃から薄々と…。ただまあ、残念なのが、小椋さんの場合、普通の社員に戻るということで、タレント活動をする訳でもないので、これでほぼメディアで見る可能性がついえたということです。僕の勝手な想像ですが、メディアが「オグシオ」とはやし立て、ペアのシオはそれに乗っかってタレント的な活動をすることに対して、やや斜に構えた部分があったのでは?と思います。まあ、今はとにかく故障を治して、幸せな第二の人生を送っていただきたいと思っています。
January 12, 2010
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フィラデルフィア・イーグルスのシーズンが終わりました。NFLのすべてのチームが2月に開催されるスーパーボウルを目指して戦います。そして、16試合のレギュラーシーズンの成績によってプレーオフ進出が決まり、プレーオフで勝ち続けるとスーパーボウルに進出となります。フィラデルフィア・イーグルスを応援し始めたのは僕が渡米した1991年。その頃は、オフェンスは、走れる黒人クオーターバックのランドール・カニンハム、ディフェンスではレジ・ホワイトに率いられ、ヘッドコーチは、そこそこの成績を上げたバディ・ライアンがクビとなり、リッチ・コータイトが新たに就任と言うタイミングだった。その年(1991年)は最低だった。今まで故障知らずだったランドール・カニンハムが早々に怪我で離脱、二番手クオーターバックで、個人的にはカニンハムより好きだったジム・マクマーンも怪我で離脱。どうしようもなく使えない三番手クオーターバックで戦うこととなり、事実上のオフェンスなしのシーズンだった。だって、得点の大部分は、インターセプション・リターン・タッチダウンとか、ファンブル・リカバリー・タッチダウンみたいな、ディフェンスによる得点ばかりだったと思う。でも、それぐらいディフェンスは頑張った。でも、プレーオフには出場できなかった。1992年シーズンはディフェンスのジェローム・ブラウンを交通事故死で失うという不幸もあったものの、それが却ってディフェンスの結束力を強め、シーズン当初は絶好調。その後、スローダウンしたものの、プレーオフに進出し、ニューオーリンズ・セインツを破って次はカウボーイズという段階で、やられた。結果的にこの年は、QBトロイ・エイクマン率いるカウボーイズがスーパーボウルも制した。帰国後、アメリカにいた頃ほどはNFLの試合を観ることは出来なくなったが、常に気にかけているチームだった。約10年前、ヘッドコーチにアンディー・リードが就任し、QBのドノバン・マクナブが入団して以来、チームの成績はそこそこ安定している。恐らく7割~8割の確率でプレーオフに進出しているし、この試合に勝てばスーパーボウル進出という、NFC王座決定戦には昨年を含め4回進出している。ただし、ここでの戦績は1勝3敗。つまり、スーパーボウルには1回しか進出していない。その一回も、ニューイングランド・ペイトリオッツに敗れた。これまで比較的コロコロと変わってきたイーグルスのヘッドコーチであるが、リードは10年以上クビにならずにいるし、つい最近、契約延長もした。ドノバン・マクナブもその契約延長を歓迎するコメントも出しており、彼らの相性も良さそう。ただね…。熱烈なファンである我々からすると、どうなのかねぇって気がする。恐らく、リード&マクナブのコンビでスーパーボウルを制覇する可能性は0.1%もないだろう。良いところまでは行く。でも、頂点には達しない。何故か。リードは、形勢不利な試合での戦略の修正が出来ないヘッドコーチ。だから、勝つ時は良いが、負ける時は、手を拱いているようにしか見えない。今週、先週の敗戦はその典型。マクナブは、プレッシャーのかかる場面で良いプレーが出来るQBではない。正直言って、スーパーボウルを制覇出来るかどうかは、この「極度のプレッシャー下での能力」にかかっている。往年のジョー・モンタナしかり、ペイトン・マニングしかり、最強時代のトム・ブレイディしかり、カート・ワーナーしかり、去年のベン・ロスリスバーガーしかり。である。プレッシャーを受けると、地面に突き刺さるようなパスを繰り返すマクナブはからっきし期待できない。昨年のNFC王座決定戦もそうであった。だから、個人的には早くリードとマクナブに決別して、新たなチーム作りをせねばならないと思うのだが…。
January 11, 2010
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金曜日から兆候はあった。なんとなく鼻が詰まったような症状があった。でも、誘われるがままにスーパー銭湯に行き、心地よくのぼせ、気持ち良く帰宅。この頃はなんてことはなかった。連休初日の土曜日も症状は悪化しなかった。若干鼻水が出る程度。走りにも行ったくらい。でも、前日にペキっていった右の太ももの痛みが強く、ほとんど走れず。ただ、この頃までは、いつになったらフルに走れるのだろうか?に僕の関心の9割は向いていた。様子がおかしくなったのは日曜日。鼻がかなり詰まる。体もだるい。家でおとなしくしていることに。夜少しお酒を飲み、風邪薬や漢方薬を飲み、早めに就寝。でも、朝まで寝ることは出来ず。体のだるさ、しんどさに、4時頃目が覚め、浅い睡眠のまま朝を迎える。明らかに風邪の症状で、かつ、しんどい。今日、会うことを約束していた友人に電話を入れ、キャンセルしてもらうことに。熱を測ったら、37.8度。微熱と言えば微熱だし、確かに微熱程度のしんどさでしかないが、しんどい。本格的なジム通いをして以来初めての体調不良。肉体改善をしたから、風邪をひくことなどなくなったのだと過信していたのが大間違い。朝からずっと寝続け、ふと目が覚めて、つまらない日記を書く。アメリカでは今、NFLのプレーオフをやっているが、僕の贔屓チームであるフィラデルフィア・イーグルスは、ワイルドカードで早々に、僕の一番嫌いなダラス・カウボーイズに敗北。実はこの対戦は2週連続で、前週は、勝てばNFC東地区優勝、かつ、ワイルドカード免除で一週間お休みという大事な試合に敗北。結果的に、優勝はダラス・カウボーイズに奪われ、しかも、ワイルドカードで、前週と同様、アウェイで同じチームと対戦することに。だからまあ、負けても驚きはないんだけどね。思い返せば、1年前もシーズン最終戦はダラスでのカウボーイズ戦で、これは勝ったチームのみがプレーオフに進出できるという試合で、大勝し、溜飲を下げたものだ。しかし、今季はこれでカウボーイズに三戦全敗。キッチリ、リベンジされてます。ていうか、来期に向けて苦手意識が芽生えないか心配だなぁ。てことで、今年はフィリーズはワールドシリーズに進出したものの、僕の一番嫌いなヤンキースに敗北する始末。バスケットボールのセブンティシクサーズは最低の成績で、はやヘッドコーチ解任せえや!って事態だし、フライヤーズもイマイチ。イーグルスも今シーズンは不本意な形で終わったし、全体的に不満なシーズンだったかな。さて、長々と書いてしまった。また、しっかり寝て、明日に備えるとするか。
January 11, 2010
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年内ランニング禁止とのドクターストップから3週間。年明けの今週から軽めのランニングを再開。ただし、今までみたいに一日12キロとかではなく、5キロから、走っても8キロ程度にセーブ。それを水、金とやって、いい感じと思い始めた矢先。右太ももに、ペキっと、違和感を感じました。それは歩行者用青信号が点滅し始め、でも、急いで横断しようと軽いダッシュをした時。その後、親友Hとスーパー銭湯に行って、僕は湯船の中でせっせせっせと患部をマッサージをしたのですが、状況は好転せず。今朝は軽くジョグを試みたけど、痛い。諦めて歩き、自宅で長時間入浴してマッサージしたけど、望み薄。すると親友Hから夕方にメールが。「俺も左太ももがペキってゆうた」肉体は、人並みの中年よりはるかに若いつもりやったけど、お互い若くないかも…。
January 9, 2010
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今日、1月8日という日は、父の命日。31年前の今日、父は肺癌による1年半に及ぶ闘病の後、他界した。最初はほんの軽い咳だった。それがいつまで経っても止まらない。風邪だと思っていたのが、喘息ではと疑い始めた。父方の祖父も喘息持ちだったので、遺伝したと思われていた。ある時、僕が風邪をひいた。大阪の中心部にある総合病院に、僕の赤ん坊の頃から主治医の先生を訪ねた。僕の風邪はどうってことのないもの。型通り薬を処方された。帰り際に母が一言。「先生、うちの主人、なんだか軽い咳をこのところずっとしてますのよ。やっぱり、父親が喘息だったから、喘息なんでしょうか」すると先生はこう言った。「早く医者に行きなさい。肺癌ってこともあるからね」僕も母も、この一言に大きなショックを受けた。まだ小学校高学年だったが、癌と言う病が言わば「不治の病」であることは知っていた。母とて、先生のこういう回答を予期していた訳ではなかった。急遽、父は病院に行くこととなった。同時に母も検査を受けた。その結果、母は異常なし。父は精密検査が必要と言うことで、入院をすることとなった。父が入院をしなければいけないことが判明した日の夕飯時、父はそのことを我々子供たちに話した。肺癌と決まった訳ではないが、その恐れもあること。肺癌でない場合も治療は必要であること。だから、入院が必要であること。僕は何故か涙が止まらなかった記憶がある。その僕に対して父は、「どうした。別にまだ深刻な病気って決まった訳じゃないんだよ。泣くことないじゃないか」僕も理屈では分かっていたが、涙が止まらなかった。入院して数週間は順調であった。肺癌ではなく、肋膜炎である可能性高いということだった。肋膜炎の治療を続け、1週間程度様子を見て大丈夫そうなら退院してもいいよと先生に言われていた。その一週間に病状は悪化した。後から思えば、その時に肺癌であることは判明していたのだと思う。しかし、我々家族には告知されなかった。母にも姉にも僕にも。もちろん本人である父にも。後で分ったことだが、その段階では母の弟と父の姉の夫に告知されていたそうである。しかも、その内容は「余命3カ月」というもの。なにも知らない我々4人の病院に対する不信感は強まり、転院することとなった。大阪の某病院から兵庫県の某病院へ。その段階では病状はかなり悪かった筈。しかし、ここでの抗癌剤治療で、劇的に回復する。そして、一度は完治に近い状態にまで回復し、担任も可能となった。我々にとって、最初の大阪の病院は「悪」、二番目の兵庫の病院は「善」と映った。実はその「悪」の病院、今僕が働いている事務所からさほど遠くないところにある。でも、僕はそこには行けない。その後、多分、母方の祖父が聞いてきた良い病院との評判の、大阪の別の病院に入院した。三度目の入院。この頃は、少なくとも祖父は最悪の結末を覚悟していた節がある。ある時祖父が僕に悲痛な表情をして言った。「なんとか、助けてやりたいがなぁ…」寺の住職として、檀家からの信望も厚く、かつ、我々家族にとっては太陽のような存在で、怖くもあり、頼もしくもあった祖父の、僕にとっては恐らく最初で最後に見た、祖父の弱音だった。続けて祖父は言った。「代わってやれるもんならなぁ」この時、僕も事態が自分の想像よりもはるかに悪いことを理解した。三回の入院を経て、一旦は退院した。しかし、それは完治したから退院したというより、手の施しようがないので退院したと考えるべきであった。次に入院を余儀なくされた際、父は、やっぱり最初に治していただいた兵庫県の病院に入院したいと言った。四度目の入院の日程も決まったある日、ほんの些細なことで、僕は父にこっぴどく叱られた。今思い出しても理不尽な気がする。そんなに酷いへまをした覚えはない。実際、何をしたかも思い出せない。ただ、それまでの13年間で最も厳しく父から叱られたという記憶のみある。父もこの段階で、自分の命が尽きようとしていることを、自分に残された時間が僅かであることを悟っていたと思う。その状況で、長男である僕には特に厳しくしなければならないと考えたのだろう。中学1年生だった僕は、薄々、そのことが分った。叱られたことも辛かったが、こうやって叱られることも最後かも知れないと思うと、余計に辛かった。1978年の12月に、父は4度目の入院をした。その数日前、今から考えると信じられないが、父の運転で、車で10分程度のファミレスに家族4人で行った。それが最後の晩餐となった。年末年始は外泊が認められた。もちろん、病状が良いからではない。これが最後のお正月となることが主治医にも分っていたからである。年末年始の外泊から戻ると、病院に母宛ての電話がたびたびかかるようになった。しかも、電話から戻ると、母の眼は赤くはれている。無邪気な僕は「何故泣いてるの?」と訊いたものだ。実は、看護婦の「お電話です」というアナウンスは嘘で、実は主治医が病状を説明するために、母を呼びだしたのであった。母に最終的に告げられたのは「余命3カ月」であった。前回の「余命3カ月」は逃れた父であったが、今回はダメだった。実際、その宣告から1週間も経たずに、父は亡くなった。1月8日は3学期の始業式。父の病院は、大阪の自宅と、僕が通っていた西宮の中学の通学途上にある。終業式を終えて父の病室に向かった僕。前日や前々日は七転八倒する局面が何度かあった父であるが、その日は比較的安定しているように見える。僕は何をするでもなく、ただ、病室の椅子に座っていた。両親がやっていた仕事の関係で不測の事態が発生した。誰かがそこに行かなければならないということで、本来は母が行くべきであるが、それは無理なので父の姉が行くことになった。でも場所が分らない。僕が付いていくこととなった。片道1時間半程度。往復で3時間強で戻ってくる予定だった。行く時に、普通に病室を出ようとすると、叔母が僕に「パパが握手したいって」見ると、父が右手を差し出している。僕も右手を差し出して握手をすると、父は心なしか微笑んでいるように見えた。叔母と現地に到着した僕は、父の容体が急変したことを知る。往路は電車を乗り継いだ叔母と僕だったが、帰路はタクシーで急行した。でも、間に合わなかった。病室に近付くにつれ、きつくなるアルコール臭。父方の祖母が病院で他界した時と同じ匂いだと思った。病室に入り、父が亡くなったことを知った。聞くところによると、京都の中学に通っていた姉が病室に到着し、父の手を握った瞬間、まるで姉を待っていたかのように、血の気が引いて行ったそうである。姉の到着から30秒後、父は亡くなった。僕が到着したのは、父が亡くなってかれこれ30分は経っていただろうか。父が亡くなった瞬間は、涙がまったく出なかった。31年前のちょうど今は、こんなことをしてたなぁ…。と、今でもふと思うことがある。31年経っても、あの日のことは記憶しているものだと、ちょっと驚き。
January 8, 2010
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年初早々、恩師の訃報に接した。亡くなった恩師は、高校1年の時の担任。我々の学校は、場所は違えども中高6年間一貫教育で、その間、ベースとなる教師は6年間ずっと一緒。つまり、英語、数学、国語に関しては、メインの教師が基本的には6年間一緒で、さらに担任となる。ただし、例外もある。我々は中学が3組、高校が4組なので、高校の場合、1人必要となる。それが理科や社会の教師となることが多い。この担任の教師は理科、それも生物の教師で我々1年D組の担任となった。中学から留年や放校のある恐ろしき学校であった我が校において、留年すれすれの成績で高校に進級した僕にとって、彼はとてつもなく容赦のない教師であった。僕は文系で、特に生物が苦手(いや、中学に入って以降、理科があまりに嫌いになったので文系を選択せざるを得なかったのかも…)だったので、そもそも相性が悪い。加えて成績はラストから一ケタである。随分と絞られた。僕のみならず、母も絞られた。ボロクソ言われた。挙句に、うちの高校OBの家庭教師まで強引に付けさせられた。随分とお節介な教師で、あらゆることに立ち入ってきた。でも、なんとなく愛すべきキャラクターだった。中一で父を亡くした僕にとって、彼は父に近い存在だった。中一の頃の担任、中二、中三の時の担任にはない、一歩踏み込んだ愛情があった。いや、中一の担任や中二、中三の担任に愛情がなかった訳ではない。確かにあったと今は分る。ただ、彼らは僕を大人として扱い過ぎた。大人として扱い、性善説で自主性を重んじた指導をしてくれた彼らに対し、高一の担任は、完全に子供扱いで、性悪説で管理した。ただ、当時の僕はまだまだ子供で、そういう指導方法が性に合っていたのだと思う。彼には父性を感じ、なんとなくこの先生に褒めてもらうために頑張ろうと思った記憶がある。苦手で、いつも赤点ばっかり取っていた彼の担当する生物で、一度だけ80点台を取ったことがある。自分にとって快挙である。喜び勇んでテストをもらいに行った僕。テストを返す瞬間、80点台前半の点を一瞥した彼は一言。「まだまだ甘い」やられた。その反面、僕の得意科目に対しては寛容だった。数学や英語は、良い時は90点台を取るものの、不調の場合、平均点を下回ることはなかったものの、60点台等を取ることもある。つまり、高一の時は、得意科目とは言え、結構ボラティリティが高かった。しかし、定期試験の後の面談で彼は「心配ない。そのうち安定する」どうしてそんなことが言えるのか、不思議で仕方がなかったが、実際にそうなった。数学や英語は高二、高三となるにつれ安定し、大学受験の武器となった。その時になって彼の言っていることが本当だと感じた。恐らく、彼の長年の進学指導の経験から分ったことなのであろう。東京の大学への進学を希望した僕と、僕を東京に送り出すことにやや躊躇した母親との三者面談で、彼は僕と母にこう言った。「大学は希望通り東京に行きなさい。でも、就職は大阪に帰ってくるように。でないと、一生帰ってこなくなります。いいですね、お母さん」希望通り、東京の大学に行ったものの、就職も東京でして…。彼の「指導」を無視して東京に残ったことに後悔はまったくないものの、心にはずっと引っ掛かり続けていた。彼と我々の学年との関係は1年で終わった。中学を引き締めるために、中学に来て欲しいと言われ、我々が高二の時の中一の学年の担任をすることとなったのである。中学と高校は場所も異なるため、生物を教わる機会もない。顔を拝見する機会もない。その後、我々は卒業し、風のうわさで彼がうちの学校の校長に就任したことを知った。そして、ちょうど前世紀から今世紀に移行しようとする頃、校長を退任し、引退されたことも知った。大阪に帰った時には一度は会いたいと思い続けていた。でも、実行に移すことはなかった。ないまま、訃報に接することとなった。まだまだ亡くなる歳ではないと信じていた。まだまだ会う機会はあると信じていた。まだまだお礼を言う機会はあると確信していた。でも、再会することなく、彼は逝ってしまった。個人的には、高一で彼に出会えなければ、まともな大学に行けていなかったかもしれないと思っている。その意味で、彼には深く感謝している。こころからありがとうと言いたい。先生、ありがとうございました。安らかにお休み下さい。
January 5, 2010
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29日の朝に東京に帰り、かれこれ1週間。明日の朝の飛行機で、大阪に戻ります。今年はどんな一年になりますやら。また、今年もどうぞよろしく。
January 4, 2010
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