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2020.04.10
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カテゴリ: 30徒然草

今朝、いつものウオーキングコースを歩いていて、目を見張ったのは茶畑の新芽です。つい最近に、茶畑の上の部分を刈上げていた部分に黄緑色をした新芽が出ていました。日中は暖かくなってきましたが、早朝はまだ肌寒く、手袋が欲しいほどの気温です。茶畑には、高さ 10m 程度のポールの先に付けられた扇風機が全部の茶畑ではありませんが、その周りに設置されています。温度が低かったり、霜の発生するようなときに自動的に扇風機が回っているようです。また、なかには、トンネル状にネットをかけた茶畑もあり、大切に育てられている様子がうかがえます。自分はお茶のことはあまり詳しくありませんが、このような茶畑は牧之原台地、川根、掛川、袋井、磐田などに多く見られます。新茶の時期になりますと、茶摘みや、茶もみ、お茶の入れ方など子どもたちの体験やお茶の品評会などの TV 報道がなされています。


(磐田の茶畑:撮影筆者)            (茶畑の茶の新芽:撮影筆者)


普段目にする「茶畑」ですが 、「お茶」や「静岡茶」の歴史を調べてみました。特に興味があったのは、この地方の一大茶畑、茶事業が明治維新に徳川慶喜とともに移り住んだ「徳川藩士」や川に橋がつくられたことによる「川越人足」などの失業対策を兼ねた大規模な開墾によるという事でした。以下は、「お茶の牧農園」さん「磐田市」さんのホームページの紹介 ( 転載 ) です。

「お茶の牧農園」さんのホームページ

https://www.makinouen.co.jp/ocha_rekisi.html

<お茶の歴史(伝来)>

静岡県は全国一のお茶の生産量と栽培面積を誇っています。静岡のお茶はどこから来たのでしょうか。お茶は現在の中国から伝えられたといわれています。また、日本に伝わってからどのように静岡に普及したのかを見ていきたいと思います。

[ わが国のお茶の始まり ]

(栄西禅師の像)

わが国のお茶は、平安朝の初期、 伝教大師 ( 最澄 ) や弘法大師 ( 空海 ) など唐へ留学した僧侶たち によって中国から持ち帰ったのが始まりとされています。その後、鎌倉時代に入り、臨済宗の開祖でもある 栄西 ( えいさい ) 禅師 (1141 1215) が、宋 ( 中国 ) に渡り、茶が医薬として効能があることを体験しました。栄西は日本でもお茶を普及させて、その効能を広く人々に知らしめようとしました。そこで栄西は、お茶の種を持ち帰るとともに、その効能を「喫茶養生記」にあらわし「お茶は養生の仙薬なり、延齢の妙術なり」とお茶の効能を宣伝しました。

[ 静岡県とお茶 ]

静岡県にお茶を紹介したのは、駿河国栃沢 ( 静岡市旧安部郡大川村、現静岡市郊外 ) に生まれた 聖一国師 ( しょういちこくし )(1202 1280) が、宋 ( 中国 ) からお茶の種を持ち帰り出生地の近くの足久保にまいたのが最初だといわれています。聖一国師は静岡茶の祖といわれています。

[ お茶は薬、その後茶の湯が誕生 ]

お茶はもともと薬として飲まれてきました。それを安土桃山時代のはじめに、茶の湯として千利休が確立をしました。

[ 明治維新の牧之原台地の開墾 ]

明治維新になり、 徳川藩士や大井川の川越人足などが職を失い、牧之原台地の開墾 にあたりました。それによって日本一のお茶の生産地になっていきました。

※静岡茶とその歴史 ( 出典: Wikipedia)

[ 静岡茶 ]

静岡茶(しずおかちゃ)は、静岡県で生産されているお茶(緑茶)であり、そのブランド名である。牧之原台地とその周辺地域がその最大の生産地であり、生産量は日本国内第一位である。 宇治茶、狭山茶と並んで日本三大茶 とされる。

[ お茶と静岡茶の歴史 ]

鎌倉時代、円爾(聖一国師)が仏教修行のため渡った宋から茶樹の種を持ち帰り、駿河国足窪(現:静岡市葵区足久保)に植えたことが、静岡茶の始まりと伝えられる。南北朝時代の中原家文書『師守記』は、貞治元年( 1362 年)に山名郡浅羽庄の柴重西、岡郷付近(現:袋井市)の茶が中原家に贈られたと記す。江戸時代に入ると慶長年間より、御用茶を駿河の足久保や大河内から江戸の将軍家へ届ける下命があった。また東海道沿道では参勤交代の武士を始め多くの旅人が行き交い茶の消費や江戸への出荷も増えた。

大政奉還の翌慶応 4 年、徳川慶喜は家督を田安亀之助改め徳川家達(いえさと)に譲ると、家達は静岡藩 70 万石に移封され、 6000 人もの幕臣が駿府に移った。 その中の 慶喜の護衛にあたった精鋭隊(静岡転出後は新番組と呼ばれた)隊長の中條金之助、副隊長の大草太起次郎、松岡万ら約 300 名が明治 2 年、版籍奉還を受けて帰農を決意。牧之原台地で茶園の開墾 に乗り出した。明治 3 年には彰義隊の残党数名も合流した。また 大井川の川越人足も明治 3 年の渡船許可によって職を失い 、関係者の尽力によって 100 名ほどの者が牧之原への入植を許された。その後農民らによる牧之原はじめ静岡県各地での茶園の開墾も増えていった。

牧之原台地は水の便が悪い ため稲作農民から放置されており、開墾は大正時代初めにかけて続いた。但し、水田ほど水を必要としない茶園も水の確保には苦労し、灌漑などの環境整備、品種改良や栽培・茶葉加工方法の工夫による品質向上の取り組みは太平洋戦争後まで続いた。

[ お茶の品種改良と製造法の確立 ]

また、茶園の広がりと共にお茶の品種改良も進んでいきました。 杉山彦三郎 (1857 1941) は明治10年からお茶の優良種の開発に取りかかり優良品種の「やぶきた」を発見しました。このやぶきたの由来は竹やぶを開墾した試験園の北側に母樹があったために名付けられました。樹勢・品質の優秀性が認められ現在までやぶきたに勝る品種の開発は行われていません。現在全国のお茶の7~8割がやぶきた品種で占められています。それほど優秀な品種ということです。

(牧之原公園から見た大井川)

さらにお茶の普及を進めたものに機械化によるお茶の製造法の確立があります。高林謙三 (1832 1901) は明治18年にお茶の葉を蒸す機械の開発に成功すると共に特許を取りました。さらに、明治31年には製茶機械原理の元になるお茶の葉の荒揉機を完成された。これより、いままでは手で製造していたお茶が機械で製造されるようになりました。そのためお茶の製造生産性は飛躍的に向上しました。

以上のようにたくさんの人の苦労により、いまの生産量日本一の静岡茶が生み出されて行きました。現在でも、牧之原台地には県の茶業試験場があり日夜高品質なお茶の品種の改良と、生産性の向上の研究が行われています。

<地元「磐田茶」について>

磐田市ホームページより 特産品

https://www.city.iwata.shizuoka.jp/sangyou_business/nougyou/nourinsuisangyou_shinkou/1002284.html

磐田市の特産物である「いわた茶」について説明します。

磐田市で茶の栽培が始まったのは、今から百余年前の明治初期に遡ります。戦後ヤブキタの普及と共に面積は拡大し、昭和 33 年の磐田原簡易水道の完成、昭和 43 年より県営磐田原圃場整備事業が実施されると畑地灌漑設備も整い、磐田市茶業の様相は一変してきたようです。

地域の基幹作物であるお茶は栽培面積約 600 ヘクタール、茶生産者は約 300 人です。製茶工場が約 40 軒あり、普通煎茶から深蒸煎茶までこだわりをもって幅広く製造され評価を得ています。渋みと旨みが調和し味わい深さがあり、さわやかなすっきりした香りが特徴です。

磐田原台地に広がる茶園は、地形が平坦で温暖な気候にも恵まれているため、県内でも極早場所の産地であり、 4 月の中旬から新茶の摘み採りが始まります。その恵まれた地形から茶園の基盤整備もされ、ヤブキタの再改植も進む一方で、それぞれ特徴ある新品種の導入も進んでいます。また、乗用管理機の普及率は県内一です。次世代を担う若い後継者も多く就農しており、将来が楽しみな産地でもあります。

いわた茶を盛り上げるため、しっぺいのお茶摘みバージョンを作成しました。
お茶摘み姿の”しっぺい”を活用して、いわた茶を応援してください。



<茶の大敵、晩霜害と防霜ファン>

出典:世界緑茶協会  http://www.o-cha.net/teacha/saibai/banshimo.html

茶は亜熱帯原産の植物 といわれています。この亜熱帯原産の植物を温帯の日本で生産するためにはどうしても気象との関係をうまくコントロールしないと気象災害の危険性があります。この 気象災害の中でも最も被害が大きくなるのは凍霜害 です。一般に葉の表面に結霜が見られ白くなっていることを白い霜害と表現し、結霜が無く表面が濃緑色のまま植物体が凍結し、被害発生する時を黒い凍害と言います。茶では結霜してもしなくても春先の新芽が低温障害を受けた場合を凍霜害と表現します。

茶芽の耐凍性は厳寒期にはかなり強いものです、 1 月に- 10 ℃、2時間以内であれば茶芽はほとんど影響を受けません。しかし、 3 月になって 新芽が徐々に生育を開始すると耐凍性は低下 してきます。図は茶芽の生育時期別の被害発生温度を示したものですが、 3 月始には- 6 ℃近い低温に耐えられた茶芽も、生育を開始して茶芽が水を多く含むようになると耐凍性が大きく低下します。新芽の長さが冬芽の約倍になった時を萌芽といいますが、この萌芽期を少し過ぎた時に最も被害を受けやすく- 2 ℃で凍霜害を受けます。

日本上空が比較的低温の寒気団を伴った移動性高気圧に覆われ、夜間を通じて風が弱く、上空は快晴で雲が無い条件で放射冷却が起きやすくなります。地表面付近の気温分布は日中は高く、夜間は低くなります。特に茶株面のように昼は直接、太陽熱を受け、夜間は放射冷却面になって熱を放出する役目を果たす所は暑くなりやすく、冷えやすい傾向があります。このような気温の高さ別の温度差を差を気温の逆転度ということがあります。

これは風呂を沸かしたとき、表層が暖かくて、いざ入浴しようしたら、下はまだ水だったということがありますが、このような状況と同じです。湯を攪拌して全体が均一な温度になる様にします。この攪拌するための道具として風呂では湯かき棒?の様なもので行いますが、 茶園では防霜ファンの風でかき混ぜます

~あとがき~

毎朝、ウオーキングのときに何か変化はないか、印象に残るものはないかと意識し風景を見るようにしています。ある面で脳のトレーニングにつながるものと考えて意識してやっていることです。わたしの住む地域は「磐田原台地」に隣接し、茶畑が結構あります。最近では、手が加えられていない茶畑を散見したり、宅地造成のために茶畑が減りつつあるように感じています。それでも、ウオーキングコースはほとんど茶畑を見ながらのコースであり、このコースが定番のコースとしてはお気に入りのコースでもあります。今日の変化は、黄緑の新芽の美しさでした。新芽、茶畑、静岡茶、お茶の歴史、茶畑の開墾、防霜ファンなどと知りたい連想の輪が広がっていきました。そのほとんどは、インターネットに掲載されている「知識」を披露させてもらっただけのものですが、自分が知りたかったことをまとめることができました。自分の知りたかったことをまとめられると、なぜかうれしく満足した気持ちになります。以上











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最終更新日  2020.04.10 07:19:07
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