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2020.10.27
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カテゴリ: 82旅行

今回の旅は、琵琶湖東岸の「城・城跡」を訪れることも目的の一つでした。琵琶湖東岸は東山道(中山道)、北国街道等のある要衝の地でもあり、当時の日本の中心でもあった「京都」や「大阪」などとも近く戦国時代の戦略的な拠点ともいわれています。織田信長が「安土城」を築城したのが 1576 年で、その築城には 3 年かかったと言われていますので、 1573 年には工事が始まっていたと思われます。

<当時の歴史年表を紐解くと>
当時の状況を振り返ってみると、信長→秀吉→家康と移り行く様子が感じられます。

1570 年 浅井長政、信長攻防戦、姉川の戦い
1571 年 信長、比叡山延暦寺焼き討ち
1572 年 室町幕府滅亡(信長、足利義昭追放)
1573 年 浅井長政自刃、浅井家滅亡→ 羽柴秀吉、信長より浅井氏の旧領を拝領
秀吉、長浜城築城開始
※最後の城主は羽柴秀吉であるが、居城としていた期間も短く、小谷城は浅井氏の発展と共に築城し、浅井氏の滅亡と共に廃城となった。
1575 年 長篠の戦い(信長 VS 武田勝頼)
1576 年  信長、安土城築城
1577 年 信長、安土に「楽市」の制を敷く
1582 年  本能寺の変(信長自刃) / 山崎の戦い(秀吉、光秀やぶる)
1583 年 秀吉が大坂城を築く
1590 年  秀吉が全国統一
1592 年 秀吉が朝鮮出兵を命じる(文禄の役)
1597 年 秀吉再び朝鮮に出兵する(慶長の役)
1598 年 秀吉が死去
1600 年  関ケ原の戦い、東軍勝利 。家康、小早川秀秋を先鋒とし佐和山城攻撃
西軍の敗将、石田三成( 40 歳)、小西行長( 45 歳)、安国寺恵瓊( 61 歳)、が 11 6 日に京都六条河原で梟首(きょうしゅ)される。このとき豊臣秀頼( 8 歳)。
井伊直政、家康よりこの地を封ぜられ 、一時佐和山城に入城。彦根城の完成をみず死去。
1603 年  徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
1606 年 彦根城築城(佐和山城、小谷城など築材利用)と共に佐和山城廃城
1614 年 大坂冬の陣
1615 年 大坂夏の陣、 豊臣氏滅亡 。豊臣秀頼自決。
1616 年 徳川家康が死去

※年齢等は諸説あります(暦の違い、生誕がはっきりしないなど)
※梟首(きょうしゅ)斬首刑の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて 3 日間( 2 晩)見せしめとして晒しものにする公開処刑の刑罰。晒し首ともいう。付加刑として財産は没収され、死体の埋葬や弔いも許されなかった。
※六条河原(ろくじょうがわら)は、京都市内を流れる鴨川の河原に存在した刑場。古戦場(六条河原の戦い)。現在の五条通(五条大橋)から正面通(正面橋)の辺り。

<彦根城、佐和山城跡の訪れ>

安土城から彦根城までは琵琶湖の東岸の一般道を北に走り、約 40 分で彦根に着きました。彦根城に向かう直近の復元した当時の街並みを左右に眺めながら、お堀にそって車を走らせ城郭公園奥にある駐車場に止めました。


( 出典:彦根観光ガイド )

[ 彦根城の築城 ]

彦根城築城は、将軍徳川家康公の命により佐和山城を一掃するため、慶長 9 年( 1604 )より着工されました。 当初は湖畔の磯山を予定していたといわれていますが、直継の代になって現在の彦根山に決定し、 20 年の歳月をかけて築城されました。

[ 彦根城の紹介 ]

水をたたえた掘りも城郭もよく整備されており長野県の松本城などと同じ国宝の城のひとつであり、「世界遺産」登録を目指しているのも納得が出来ます。天守をはじめ、重要文化財の各櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀などが当時の姿を留めています。全国的に見てもきわめて保存状態のよい城跡で、年間を通じて多くの人々が訪れているようです。



( 出典筆者 天秤櫓 )

彦根城のお堀を遊覧する屋形船が運航しています。四季折々の彦根城を船の上からゆったりと楽しむことが出来そうです。


( 出典筆者 お堀を遊覧する屋形船 )

天守も昇ってみましたが、彦根城はすべての点でよく整備され、素晴らしい感動を与えてくれました。

<佐和山城跡の哀愁>
次の、目的地は近くの「佐和山城跡」でしたが、ここはかっての石田三成の居城で絶対に見たいところでした。歩いていけないところではないようですが、時間の関係もあり車で向かいました。


( 出典筆者 さみしく揺れる「佐和山城跡」麓のたった 1 枚の三成の幟 )

[佐和山城の推移]
戦国時代の後半に入ると、北近江における六角氏勢力は衰退し、それにともなっては新興勢力である浅井氏が伸張した。佐和山城もその支配に入って、城は磯野員吉に引き渡され、小谷城の支城の 1 つとなった。

天正 10 年( 1582 年) 6 月の本能寺の変の後に行われた清洲会議では、明智光秀討伐に功があった堀秀政に与えられ、秀政は翌年に入城した。これ以降は事実上、豊臣政権下の城となってゆく。天正 13 年( 1585 年)には、転封となった堀家に替わって堀尾吉晴が入城。 さらに石田三成が入城したとされる。入城時期については 、伊藤真昭氏の研究により、天正 19 年( 1591 年) 4 月であることが確定した(ただし、伊藤氏は天正 19 年の入城は城代・蔵入地代官としての入城で、三成が正式に佐和山城主に任じられて北近江 4 郡を与えられたのは文禄 4 7 月であったことも立証している)。 三成は、当時荒廃していたという佐和山城に大改修を行って山頂に五層(三層説あり)の天守が高くそびえたつほどの近世城郭を築き、当時の落首に 「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」 と言わしめた。ただし、三成は奉行の任を全うするために 伏見城に滞在することが多く 、実際に城を任されていたのは父の正継であった。城内の作りは極めて質素で、城の居間なども大抵は板張りで、壁はあら壁のままであった。庭園の樹木もありきたりで、手水鉢も粗末な石で、城内の様子を見た当時の人々もすこぶる案外に感じたと記されている

時間の関係や天気の関係で山城を歩くことはできませんでしたが、廃墟となった城跡を又の機会に歩いてみたいと思いました。

[「関ケ原の戦い」後の佐和山城] 

「関ヶ原の戦い」における西軍の敗退後、あまり歴史の中で取り上げられることはありませんが、実は「佐和山城の戦い」がありました。慶長 5 年( 1600 年) 9 15 日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃しました。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は 2800 人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月 18 日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。

家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』)。

[徹底的な破壊・転用され荒れた佐和山城]

石田氏滅亡の後、徳川四天王の一人である井伊直政がこの地に封ぜられ、入城した。井伊家が、 このまま佐和山城を利用すると、領民は井伊家が石田家を継承したような錯覚を抱き、領民達の前領主への思慕を断ち切ることができない ことから、新たに彦根城築城を計画した。しかし、直政は築城に着手できないまま、関ヶ原合戦での戦傷がもとで慶長 7 年( 1602 年)に死去。計画は嫡子の直継が引き継ぐこととなり、大津城・佐和山城・小谷城・観音寺城などの築材を利用しつつ、天下普請によって彦根城を完成させている。佐和山城は慶長 11 年( 1606 年)、完成した彦根城天守に直継が移ったことにともない、廃城となった。なお、彦根城の城下町までを含めた全体の完成は元和 8 年( 1622 年)のことである。

佐和山城の建造物は彦根城へ移築されたもののほかは徹底的に城割されたため、城址には何も残っていない。しかしそれでも、石垣の一部、土塁、堀、曲輪、千貫井戸跡や西ノ丸にある焔硝櫓跡・塩櫓跡などの施設が一部に現存しており、また、ときとして新たに遺構が発見される。 (出典:Wikipedia)





安土城につづいての訪問地は「彦根城」と「佐和山城跡」でした。余りにもこの2城は関ケ原の戦いの勝者側と敗者側の異なる表情を見せていました。佐和山城は三成の改築により城の落書に「
三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」 と言わしめたほどの近世城郭でもあったようです。その佐和山城も、彦根城の築造で徹底的に破壊、転用されたため、ほとんど何も残っていないのは残念なことでもあります。佐和山城跡の麓にたった1本の「三成の大一大万大吉」の幟が立っていました。どなたが建てたのかわかりませんが、なぜか三成に情けを禁じ得ない心情がつのりました。引き続き訪れた「長浜城」、「小谷城」、「関ヶ原」、「岐阜城」について記述したいと思っています。以上






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最終更新日  2020.10.27 06:49:34
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