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結構忙しい訪問となっていましたが、「安土城跡」、「彦根城」、「佐和山城跡」と巡り、次の訪問地である「長浜城 ( 歴史博物館 ) 」に向かいました。この辺から傘の必要となる雨が降り始めました。「長浜城」は城郭や城郭跡はありませんが城のかたちをした「長浜歴史博物館」を見学し、観光地の「黒壁スクエア」を観て、 1 日目の宿泊先「己高庵」(ここうあん)(長浜市木之本町)に向かいました。宿泊地に着いたときには、両足のふくらはぎは筋肉痛となっていました。「安土城跡」見学がききました。
<長浜城と黒壁スクエア> ( 出典: wikipedia)
戦国時代末期に豊臣秀吉が城主として過ごした長浜城は、江戸時代前期に廃城になり、遺構は彦根城や大通寺に移築されたようです。その跡には、僅かな石垣と井戸だけが残されていましたが、昭和 58
年( 1983
)に安土桃山時代の城郭を模して「昭和新城」を復元されました。

(
出典: wikipedia
、模擬天守(長浜城歴史博物館) )
内部は歴史博物館として公開されています。展示室は 2
階と 3
階に分かれており、期間ごとに特別展や企画展が開催されています。 2
階では、さまざまなテーマに沿って湖北・長浜ゆかりの資料が展示されています。 3
階では、「秀吉と長浜」をメインテーマに秀吉の他、浅井長政、石田三成といった長浜と関わりの深い人物達の足跡や人物像を紹介した常設展示を行っています。湖北を一望する 5
階の展望台では、ナレーションや効果音によって、戦国時代における長浜の重要性を実感することができます。
この後、長浜市内の一部ですが「黒壁スクエア」地区を散策しました。「黒壁ガラス館」は好きな施設のひとつです。ここには「工房」があり、ガラス作品づくりの実際の様子も見学できました。
※黒壁ガラス館
前身は明治33年に建てられた旧第百三十国立銀行長浜支店。平成元年に長浜市と民間によりガラス館としてよみがえりました。国登録有形文化財。
< 2 日目、小谷城跡を訪ねる>
朝、宿泊先の「己高庵」を 8:00
に出発。残念ながら天気予報通りの激しい雨模様のスタートでした。小谷城まではスマホの MAP
機能でみると、それほど遠いところでなさそうだ。小谷城に向かう途中の「道の駅・浅井三姉妹の郷」で、マスクをした「お市と浅井三姉妹」の銅像を見つけましたので寄ってみました。わたしは残念ながらこの大河ドラマはみていませんでしたが、 2011
年の大河ドラマで上野樹里さんが「江」役で出演した「江(ごう)~姫たちの戦国~」を記念して建てられたようです。淀・初・江の三姉妹(浅井三姉妹)の末っ子・江は、徳川二代将軍・秀忠の正室となり、息子は三代将軍・家光となる。戦国時代を力強く生きた三姉妹の愛と波乱と苦難の人生を描いた作品でした。「新型コロナ」の関係でどなたかが、みなにマスクをしたものと思われます。
( 撮影:筆者、お市の方と浅井三姉妹 )
小谷城には
30
分程度にて到着しましたが、着くなり感じたのは「彦根城」と比べるとなんとわびしく、さみしい感じがするものかということでした。
[ 小谷城 ](出典:wikipedia)
小谷城は、長浜市の小谷山( 495.1m )にあり、浅井(あざい)家が 3 代にわたって居城としていました。築城は大永5年(1525年)ごろで、中世三大山城のひとつです。湖北の大名・浅井長政、戦国一の美女といわれた織田信長の妹、お市の方や、その間に生まれた3人の娘・浅井三姉妹(茶々、初、江)ゆかりの城です。城跡からは琵琶湖や湖北の地を一望することができます。

( 撮影 : 筆者、小谷城戦国歴史資料館前木柵に立てられた幟、長男万福丸の幟も )
小谷山一帯の尾根筋や谷筋をそのまま活用した南北に長い山城で、築城当時は現在の本丸跡よりさらに北に位置する大嶽城付近に本丸があったと考えられています。久政、長政によって代々拡張が重ねられ現在の城郭になった。落城後長浜城の建築資材とするため小谷城は解体されてしまったが、山王丸付近に現存する大石垣をみる限り当時としては先進的で大規模な城であったと推察される。

(出典 :wikipedia
小谷城跡の曲輪分布図)
織田信長との戦いで浅井家が滅んだ(1573年)後、羽柴(豊臣)秀吉に与えられましたが、秀吉は今浜(いまはま)(現在の長浜)に城を築いたために、そのまま廃城となってしまいました。小谷山全山におよぶ城跡の遺構から、当時の面影を偲ぶとともに、お市の方と 3 人の娘たちの生涯に思いをはせることができます。
自然の地形を利用して、東西の尾根づたいに各郭が配置され、本丸、大広間跡などから建物の礎石が出土しました。最頂部の大獄(おおずく)( 495m )にも土塁が残っています。清水谷(きよみずだに)には、平時における浅井氏と家臣たちの館跡があります。昭和 12 年( 1937 )、国の史跡に指定されています。
浅井長政とお市の子供として「茶々、初、江の三姉妹」が歴史上にその記録を残しています。ところが、浅井長政の子供に男子が二人いたとは知りませんでした。
お市の方は、 戦国大名・織田信長の妹(または従妹 )で、信長とは 13 歳離れています。 婚姻時期については諸説あるようですが、通説では、永禄 10 年( 1567 年) 9 月または永禄 11 年( 1568 年)早々の 1 月から 3 月ごろ、美濃福束城主・市橋長利を介して、浅井長政に輿入れしたとされています。 小谷城落城後、織田信長の命により、長政の嫡男・ 万福丸は、関ヶ原で秀吉の手によって殺されました。次男の万寿丸は、まだ赤児だったので命を助けられ、後に出家させられたとも言われています。
※ 『信長公記』 には、関ヶ原にて磔の刑(一説には「串刺しの刑」)に処せられた「十歳の嫡男」との表記がありますので、やはり、お市の方の子では無いのでしょう(長政とお市の方の結婚は永禄十年= 1567 年かその翌年と考えられています)
そして、次男とおぼしき万寿丸・・・彼も、落城寸前に脱出して身を隠しますが、幸いな事に処刑される事なく仏門に入って正芸と号し、後に、近江国坂田(滋賀県米原市)の福田寺(ふくでんじ)の住職になったと伝えられていますが、彼の誕生は江と同じ天正元年( 1573
年)とされるので、やはり、彼も、お市の方の子供では無いようです。
~あとがき~
いつの時代も「戦争」は悲惨で、数多くの兵士や武将が命を落としています。家族を含めたら、どれだけの悲しみがあったかと思うと辛いものがあります。歴史の個々の年表の裏側にはいかほどの悲劇が埋もれているのでしょうか。浅井家の滅亡や嫡男で 10 歳といわれる万福丸の「磔」での死去など胸が痛くなりますね。そのひとの「死」とはその後の本来であったら続く人生を断ち切ってしまう本当に残酷なことです。いったん戦争になると、命の取り合いとなり負けると死が待っているという切迫感は今の時代では感じることができません。本当に幸せな時代に生きていることへの感謝と時が経つと戦争の不幸を忘れて、また戦争を繰り返す人類の歴史には嘆かざるをえません。みんなが「仲良くしなくてはいけない」、「世界的には国際協調が求められている」と頭では分かっているのに、なぜできないのでしょうか。以上
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