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http://www.news-pj.net/npj/kimura/023.html
「時代の奔流を見据えて──危機の時代の平和学」
より、抜粋
木村 朗(きむら あきら、鹿児島大学教員、平和学専攻)
第二三回
日米安保体制の再考
1.戦後日本の歩みと失われた「もう一つの選択」
日本が米国の占領から 「独立」を回復して国際社会に復帰したのは、今から58年前の1952年4月28日のことである。そのときに日本は、その前年の9月8日に対日講和条約と同時に結んだ日米安保条約によって、米国の軍事力に基本的に自国の安全保障をゆだねて、その代わりに戦後復興と経済発展に専念する道を選択した。
しかし、これとは異なる別の見方がもう一方にある。
それは、対日講和条約で失われた「もう一つの選択」 を重視し、サンフランシスコ体制の影の部分にも目を向ける見方である。
当時の日本は、冷戦開始を背景にした米国による占領政策の転換を受けて、戦犯追放の解除や財閥解体の中止など「逆コ-ス」へと旋回・軌道修正されつつあった。講和条約締結の問題が浮上した背景には、日本の再軍備(すでに、朝鮮戦争勃発直後の米軍指令により50年7月には警察予備隊が創設されていた)を促進するとともに、日本の早期独立と引き替えに、新たな同盟条約を締結して米軍駐留と基地の自由使用の権利を認めさせようとする米国の強い意思があった。
これに対して当時の吉田政権は、全面講和を求める多くの国民の声を無視して、米国を盟主とする西側の一員となるという選択を、片面講和と日米安保条約の同時調印という形で受け入れたのであった。
このときの選択によって、日本は、日本国憲法の平和主義の精神に基づく「軍隊のない国家」 「軍事同盟を結ばない国家」として、戦後国際社会において自主的な平和外交を積極的に展開して世界の非武装化の先駆的な役割をはたすという「もう一つの選択」 を失ったのである。
今日における日本の根本問題である「対米従属」 「アメリカ化」 の原点がここにあると言えよう。
2.平和憲法と日米安保体制の矛盾
- 対米従属、沖縄の犠牲とアジアの忘却
吉田路線の負の遺産は、
1.対米従属という自主性の喪失、
2.アジアの忘却と沖縄への差別、
3.法治主義の腐食
という三つの点に集約される。
まず第一番目の負の遺産は、片面講和と日米安保条約の同時調印によって、日本が米国の世界戦略のなかに深く組み込まれることになったことである。
それは、冷戦状況下で米国を盟主とする(西側)自由主義陣営の一員となり、ソ連を盟主とする(東側)社会主義陣営に対決していくことを意味した。
すなわち、「東洋のスイス」 から 「東アジアにおける反共の砦」としての日本への転換であり、「独立(主権回復)」と引き替えの 「対米従属」、すなわち 「自立性の喪失」であった。それを象徴するのが、占領軍からそのまま駐留軍となった特権的な米軍の存在であり、また朝鮮戦争の最中に米国の強い圧力によって生まれた経緯を持ち、「憲法違反の存在」でありながら米軍の一貫した監視下で戦力増強を義務づけられた自衛隊である。
それは、日本外交の不在、あるいは戦略的思考の停止と経済面での過大な対米依存、米軍の補完勢力としてアジア有数の軍事力・戦力を持つにいたった自衛隊といった形で現在でも続いている。
二番目の負の遺産であるアジア(沖縄を含む)の忘却と犠牲は、戦争責任および戦後責任の放棄という問題と密接な関係がある。
日本は、冷戦開始を契機とする米国の政策転換によって、戦前の最高指導者であった昭和天皇をはじめ岸信介元首相など一部のA級戦犯容疑者が免責されたばかりでなく、講和会議に臨んだ米国の強い意思で当然行うべきであった賠償責任さえも負わずにすむという「幸運」 に恵まれた。こうした 「幸運」には、東京裁判で、米軍が行った原爆投下や東京大空襲などとともに、日本軍が行った細菌戦・人体実験や強制連行・従軍慰安婦(=戦時性奴隷)などの重大な戦争犯罪が断罪されなかったことや、朝鮮戦争やヴェトナム戦争で日本が「享受」 した戦争特需のにわか景気等も加えられよう。
しかし、この結果、戦後の日本は、過去の清算、すなわち侵略戦争や植民地支配への真摯な反省・謝罪と日本人の手による戦犯の追及・処罰、被害国・被害者に対する国家および個人レベルでの適切な賠償・補償という最も大切なけじめをつけることなく、今日にいたるまで重大な禍根を残すことになった。
「戦後六〇年」の節目を過ぎた今日でもアジアの多くの民衆から不信と警戒の目でみられ、国内ではそれに反発する形で戦前回帰の動きが急速に強まっている根本原因も、東京裁判での昭和天皇の免責と新憲法における象徴天皇制の導入、日本および日本人自身による戦犯処罰や戦後処理・過去清算の欠如、という形で「戦前との連続」 を色濃くのこすことになった戦後日本の出発点のあり方にあることは明白であろう(「貫戦史」を唱える中村政則 『戦後史』 岩波新書、 2005年を参照)。
また沖縄は、講和条約によって日本が独立した後も米軍の過酷な占領下におかれ続けたばかりでなく、 72年の本土復帰後も「米国と日本(本土)による二重の占領・植民地支配」が形を変えて継続することになった。・・
在日米軍基地の過度の集中という過酷な現実に苦しむ沖縄(琉球)の人々の声に真摯に耳を傾けようとしない日本政府(および米国政府)と、日本本土の人々の冷淡さ・差別の原点がここにある。
「沖縄にとって戦争は本当に終わったとはいえない」(目取真俊 『沖縄 「戦後」 ゼロ年』日本放送出版協会、2005年)という厳しい現実のなかにいまも置かれ続けている沖縄、そして「日帝支配がなければ、朝鮮は独立国として分断される何らの理由はありませんでした。そればかりか、日本は敗戦後も冷戦の一方に加担し、一貫して朝鮮の統一を妨害し、朝鮮の分断から利益を得てきました。」(徐勝 『第一歩をふみだすときー日本とアジアの戦後五〇年を問う』日本評論社、1995年)という冷厳な歴史的事実を今こそ直視しなければならない。
最後に三番目の負の遺産として挙げなければならないのは、法治主義の腐食・揺らぎである。
敗戦後の日本は、米軍による事実上の単独占領下に置かれ、非軍事化と民主化を掲げるGHQニューディール派の官僚主導で戦後復興の道を歩んだ。
その過程で導入されたのが、1946年11月3日に公布され翌年5月3日に施行された日本国憲法であった。この戦争放棄と交戦権否定の9条を含む日本国憲法が制定された背景には、昭和天皇の免責と沖縄の分離支配を国益とみなす占領軍・米国側と日本側(昭和天皇を中心とする支配層)の「暗黙の一致」 があった。