1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%B2%BB%E4%B8%80%E9%83%8E1907年に大連へ渡り、大道易者や偽医者として生計を立てる。1910年、日本総領事に強制送還されて帰国。1911年、土建業松本組を創業。配下には高松弥太郎などの九州きっての暴れん坊たちが揃っており藤田五郎の「九州やくざ者」では敵対した組の通夜の夜、殴りこんだ松本組が敵の家屋を瞬時にして「文字通りの」廃材の山としたとする記述がある。この高松弥太郎という方は 梅津会の顧問的な方のようです。いまでも そうですが 一昔前は 建築現場といえば 紋々しょた方がいっぱいいらしたわけです。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%B4%A5%E4%BC%9A四代目梅津会(うめつかい)は、福岡市博多区千代に本拠を置く日本の暴力団(任侠団体)で、指定暴力団・二代目福博会の2次団体。九州のヤクザは気性の激しさから激烈な抗争が多く短命な組織が多い中、九州では珍しく戦前から系譜が続いている。また山口組 伊豆組初代組長・伊豆健児が若い頃、初代会長・梅津高則の舎弟だったこともあり、福岡では伝統のある団体として知られている。初代・梅津高則は児玉師団の大物・高橋義人と兄弟分であり、父・梅津高次郎は松本治一郎の盟友。上海派遣軍にいた許斐氏利(東京温泉)も梅津の流れを汲んでおり日本の暗部と繋がってきた面を持つ。梅津高次郎とは 当時 運動のほうでは知られた方だったようです。この梅津会と 解放同盟というか 松本組とのお付き合いは あるようです。さて、このほかにも 松本治一郎と 右翼暴力団とのご関係を示すものは まだまだあるんですが 宮崎学の小説 万年東一のなかで 児玉軍団が 例のカニの横ばい事件の中で 松本を狙うという設定が出てきますが、吉田彦太郎を始め 児玉軍団の中核は 福岡の方が多く 個人的にも 友人関係の方もいるようです。まさに 馬鹿馬鹿しいにつきます。
2007年02月26日
閲覧総数 2438
2
小佐野賢治と 右翼ヤクザ筋とのお付き合いについては素人には 伺いしれものがありますが従来は 児玉との関連でしか 語られていないようですがひとつ 見過ごされているのではないかと思う点がありますhttp://episode.kingendaikeizu.net/14.htm一番下の小佐野賢治の ご夫人の父の従兄弟にあたる方が酒井忠正という方です。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%AD%A3http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_number.php?number=10131この2つの 経歴から わかるのが この方はひとつは 右翼の安岡正篤のスポンサーであり また相撲 プロレス 競馬関係のタニマチでもあった方のようです。http://www.asyura2.com/0311/bd31/msg/990.htmlあくまでも 仮説ですが 安岡のところに 出入りしていたのが この塚本素山だったら 面白いし、そこから 創価学会 公明党とのつながりが 発生したのかも?http://www1.neweb.ne.jp/wa/keyword/riki.html相撲人脈が プロレスに延び それが 児玉人脈と 結びついたのも面白いし そのプロレスを放送しているのが 正力テレビというのも 実に興味深いです。(このへんは また考察してみたいですが)児玉軍団が 国粋会を押さえられたのも ここがキーポイントなのかもしれません。立花隆は 小佐野が児玉と うまく結びついたので 裏社会に影響力を持てフィクサーとして活躍できたと みているようですし 大多数の見方が そうだろうかと思いますが?実は 例えば 小佐野の後見人だった 田辺七六が 大東急の五島慶太の師匠分の阪急の小林十三の異母弟であったように、実は むしろ 小佐野の方が 田中角栄や 児玉より 格上だったのかもしれません?小佐野の結婚についても 美女と野獣的な見方がされるようですが 実はもっと深く 仕組まれたものがあったのかもしれません。
2007年04月02日
閲覧総数 3927
3
http://library.main.jp/index/jst09415.htm書籍名 樺山丑二-職人貴族著者名 樺山事務所 発行著者紹介 発行社 みづほ出版総頁数 226定価・頒価 非売品発行日 平成03年08月 日 1991判サイズ(mm×mm) 209 148貸出料金 480円 序に代えて(樺山典和)1.葬儀・告別式 喪主挨拶(樺山典和) The Message of Condolence(Jack F. Loughran) 弔辞(山田忠義) 弔辞(小池義郎)2.一年祭当日の追憶談 ごあいさつ(樺山典和) 追憶談 (山下三郎・高橋是彰・Jack F. Loughran・飯野匡・大川基子)3.友人方の追憶記 プリンストンの樺山丑二さん(寺島宗従) 樺山丑二さんを偲ぶ(堀江薫雄) 樺山さんのこと(盛田昭夫) 日米金融市場のキイ・マン(川島章司) 丑二小父様を偲ぶ(青木徹雄) 別離(岩崎寛彌) 樺山さんを偲ぶ(石坂信雄) 樺山小父上(相馬和胤) おじさまの思い出(中島世惠子) 丑二様を偲んで(岩田幸子) 樺山先生を偲ぶ(渡辺茂) 尽きぬ思い出(伊藤好美)4.親族・近親者の追憶記 丑二さんを偲ぶ(望月百合子) 樺山の伯父の子と(白洲兼正) 義父の子と(樺山有多子) おやじの持つ三つの力(樺山紀次) アメリカでの父との思い出(若村竹子) 黙って愛してくれた父(松子・ダッフィー)(チャールズ・ダッフィー) 自然のうちに教えて下さった祖父(的場佳代子) My Dinnwe with a Debonaire Dandy(樺山資正) 本当に優しかった義父(樺山澄子) おじいちゃまの思い出(望月実加) おじいちゃまの思い出(樺山園子) おじいちゃまの思い出(樺山陽子) 丑二旦那様のこと(野口寿子) おちゃめな旦那様(田中郁子) 若旦那様(佐島直三郎)5.アメリカの友人の追憶記 (Morris“Kutch"Mayers)(Tony M. O'Connor) (Robert F. Seebeck)(Robert J. Whnn)6.アメリカの友人より弔電 (Morris A. Mayers)(Adolph W Schmidt) (Mr.& Mrs. James F. Pitcairn)(Curtis W. Tarr) (M. B. Willamson)(George F. Schmucki) (John T. Olds)(John F. Loughren) (Courtenay Haight)(Donald R. Marsh) (Robert J. Wynn)(Edward F. Moller) (A. Richard Janiak)(Anthony M. O'Connor) (J. Perry Ruddick)「週刊新潮」より 人物履歴外人さんは 今回はパスで ネットでわかる人物をリストアップしてみました 白洲伝説では見えにくい ジローさんの姿も少しみえてくるような人脈です高橋是彰http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/T/takahashi_krk.html飯野匡三井銀行副社長寺島宗従http://www.uraken.net/rekishi/reki-tokugawa17.html終連時代の吉田茂の秘書官堀江薫雄http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%B1%9F%E8%96%AB%E9%9B%84東京銀行の頭取川島章司http://homepage3.nifty.com/hougyokudou/newpage59.htm国際証券の初代社長は野村の専務から野村投信にいった川島章司社長が社長となり地盤は固まったとは言え、盛田昭夫 石坂信雄http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/1239.htmlグルー大使も モルガンに縁のある件に注意岩崎寛彌http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E5%AF%9B%E5%BC%A5三菱の大物相馬和胤http://www.kashiwadai.co.jp/about/岩田幸子http://www.47news.jp/CN/200205/CN2002051501000254.html岩田幸子さん死去 岩田 幸子さん(いわた・ゆきこ=作家・故獅子文六氏の妻)14日死去、90歳。東京都出身。自宅は東京都港区赤坂8の11の4。葬儀・告別式は19日午前10時から渋谷区西原2の42の1、代々幡斎場で。喪主は長男敦夫(あつお)氏。白洲兼正甥というよりは 東宝グループの後輩としてではないか白洲家や 姉の近藤家からの参加がみえないのが面白い望月百合子http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%9C%AD%E4%B8%89%E9%83%8Eこの人のお父さんが この人 橋本圭三郎という 戦前の石油業界のドンです
2011年02月06日
閲覧総数 1116
4
北尾さんという方はマジカで何度か みたことがあるけど絶対に糖尿だというような体型の方で豚というならホリエモン以上 銭ゲバなら 最盛期の野村証券の法人営業を引っ張った方なので、ある意味 ライブドア証券の若造たちが把になってかかったもかなわない人です。http://kiri.jblog.org/今回も、ここでは、黒幕は誰だという見方がされていましたがhttp://doggyman8th.air-nifty.com/media/2005/03/post_11.htmlホワイトナイトが実は黒幕だったというおちですね。踊らされただけというhttp://www.itoyama.org/contents/jp/days/2005/0325.html本物の 乗っ取り屋さんは 馬鹿な マスコミ人がすっかり忘れていることを思い出させてくれます。ヤフーBBにコンテンツ(いやな言葉です)の新規の供給がないと光ファイバーが売れない放送 音楽業界に入らないといけないがテレビ朝日の件でこりている孫さんに、北尾さんが知恵をつけさせた馬鹿を1人踊らさせてみようとうまい具合に ソニーの役員人事でもうひとりのホワイトナイトの出番がないのでSBにいいタイミングで、チャンスが転がり込んできたというのが 今回の真相ですね。ホワイトナイトがトロイの木馬になる可能性だってあるんだよということでわかっている人はいるから対応を間違えてしまった日枝さんは表に出られなくなってしまいそのうち スキャンダルで解任?という結末か非公開日記
2005年03月26日
閲覧総数 18
5
この人のおもしろいところは、たとえば 黒幕を 時代劇風にたとえると 浪人のセンセイとします。児玉の場合には、えたいのしれない形が似合うのですが、三浦の場合は 本来ならば そのスポンサーの商人の長男が そのセンセイになっている点です。ですから 右翼というよりは、金持ちの不良の出というのが この人の本質というような気がします、下山事件 最後の証言の中で 登場してくる 矢板玄が とてもこの方とよく似ているのです。父親の噺三浦義一の先祖をはるか さかのぼると かの三浦梅園までいくそうですがこの方の父は三浦数平という方で大分市議会議長 市長 衆議院議員までを務めた方で 城南女学校(現 福徳学院)の理事長をされた方で 大分の名家の出であります。そんな一家の長男に 三浦義一は生まれました。日銀の法王といわれた 一万田尚登の細君の実弟に兄妹の一人が嫁しているのですが、後年のことですが、この一万田が、吉田茂政権を支える人間になり、またその一万田の娘たちが 中部電力の初代会長の井上五郎の息子たちに嫁します。その井上五郎が、浜口雅彦(浜口首相の息子)の義兄弟になります。九州水力電気入社大学時代は 北原白秋の門弟といわれるようですが 卒業後は 父親の数平が法律顧問をしていた 九州水力電気に入社します。一応 現九州電力の 前身の一つといってもいいのですが 鉄道部門を抱えていたこともあり これを西日本鉄道に売却したこともあります後年 三浦義一に対して 西日本鉄道では 社長ですら 彼に頭があがらないとは これが一つの理由になっているようです。この九州水力電気の創設に大きく関与したのが、麻生太吉になります。彼の孫が吉田茂の娘婿になります下山事件 最後の証言の中で 三浦義一が 金銀運営会の金を使い 吉田茂を戦犯と公職追放から救う形で動いたのも、これが遠因になつたのかと思います。南京市長顧問を勤め 金銀運営会を運営するということ 日本が中国の紛争に 直接 介入するようになってから 大陸のインフレが 過激に進行するようになりました。日本の軍票などは 中国では通用しませんから 現地で 軍需品を調達をする場合には、阿片と貴金属しか 代替えに出すものがありませんから、たとえば 南京では、阿片を使って 南京市の財源をつくったわけですが こんなことは 当時でも おおっぴらにできる噺ではございませんので 右翼筋の人間をつかうわけで 三浦義一が 南京市長顧問についたのも こんな背景があるのでしょうか? 金銀運営会の運営についても、軍需品の海外での調達のためのにつくられたものですから 右翼筋の人間を絡ませる必要があったのでしょうか? これに なぜ 三浦義一が絡んだのかは わかりませんが、財閥との関係 梅津 阿南の陸軍首脳が 大分の出である点も考慮すべきかと思います。財閥と 占領軍と 三浦義一の関係三浦義一と 占領軍とのつながりは 財閥の持ち株処理をおこなった 興銀理事の笹山忠夫が 同郷で知り合いだったことにもよるというのが 一般的な見方のようですが さらに三菱財閥のエリザベスサンダーホームの沢田美喜が 矢板玄が知り合いだったようですが、その系譜から考えると、当然 後見人の三浦義一も 三菱財閥と密接な関係をもっていたことが伺えます。三井財閥との つきあいは、池田成彬や 江戸英雄などを 介した 三井銀行や 三井不動産とのつきあいが メインだったようです。さらに 焦点を変えてみますと 三浦義一といえば 大分の出 大分といえば 福沢諭吉の閨閥が 三井 三菱財閥の閨閥と うまくからんでいることが 広瀬隆の持丸長者という本の中では指摘されます。三浦義一の暴力装置下山事件 最後の証言の中で 矢板玄率いる 亜細亜産業の かなり怖い裏側が語られていますが 同じビルの中に 関山義人率いる 興論社があれば 当然なことかも 下山事件 最後の証言の著者の柴田哲考氏には このあたりが 多少 見えていなかった面もあるのかもしれません。 戦後の混乱時期に、共産党や 朝鮮人連盟を押さえ込むさいに、ヤクザ者の力を権力側が使った時期があります。下山事件 最後の証言の中でも その筋の方々が出てきますが、銀座警察との関連をみることはできないかと思いますが 三浦義一も 銀座警察との交流があったようで、リーダーの高橋輝男を 三井不動産の江戸英雄の紹介したこともあるようです。三浦義一の関与した噂のある 保全経済会事件で 保全経済会の投資した会社の日堂商事という会社に、殉国青年隊本部(銀座警察にた豊田和夫がリーダーです)があったことから、金が当然 流れていたことと推定されます。この流れの中に 平和相互銀行事件、皇民党事件、オウム事件があるようです。
2007年04月24日
閲覧総数 2026
6
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/ASUKAISI/saruisi.htmlネットからの画像で これは、たぶんレプリカのほうの撮影だが、なかなかよくできたものではないかと思います。もともと、今の場所にあったわけではなく、天皇稜近くの水田から発掘されたとのこと、猿石という名前も後からつけられたものか?作られた目的としては、いわゆるマニ教とか、ゾロアスター教関係とか 奴隷収容所の標識とか?または 生贄の身代わりで作られた埴輪のプロトタイプとか さまざまな説があるようですが明確なところは判明せず。像には装飾もされていた模様。ペニスが見えていたりとか、見方によれば子供に見えなくもない、猿というのは、昔はうまやがみでもあるので、そこからの解釈もできないか?また石神さまという見方で考えると 道祖神や おしらさま 地蔵などのご先祖さまのように、これは見えなくもない。朝鮮半島からの伝来とみるも可だろうし、南洋からの伝来とみるも可だろうかとするもよし。遠く 中近東に思いを馳せるのも可だろうが、われわれのご先祖さまの作りたもうたもであるとみるべきだろう。問題はそれからだ。
2004年11月25日
閲覧総数 39
7
児玉センセイと言いますと 岡村吾一センセイが 事実上 関根賢親分の身内なので 関根組と松葉会との関係は ここからはじまるんですが住吉の場合は どこから始まったかといいますとhttp://piza2.2ch.net/4649/kako/988/988463245.html79 名前: 名無番長 投稿日: 2001/07/13(金) 05:07並木は六代目の親分の津久井成行が日興から来たけど、日興の看板は出してません。 龍馬氏とのバランスを取るのと並木の五代目の小沢の先代が引退するために跡を継いだ。 当時3億で毎月200万を先代に払っていた。 津久井氏は堀の総長が亡くなって無ければ、次の次に住吉の代を取っていたと言われている。 現在の日興の跡目を含め全て津久井の六代目の舎弟である。 並木、小林、日興は兄弟組織であるが、並木量次郎が出てる分並木が一番座布団が上。 津久井氏は日興に籍は残しているが、並木の当代であり、日興より並木の金看板を大事にしているhttp://wikiyakuza.wiki.fc2.com/wiki/%E6%B3%A2%E6%9C%A8本拠は浜松町で 量次郎親分は 松田義一親分の兄貴分のようですが下記にそれぞれ注目http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201001190000/http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201005080000/http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/019/0666/01904010666016c.html日本夕刊は元やまと新聞と申しておりまして、岩田富美夫さんが御経営になつていたのであります。おなくなりになつてから、昭和十五年に児玉署士夫さんがこの経営をお引受けになつた。その後、当時芝の田村町に本社がありましたのを、兒玉さんが、現在の浜松町一丁目三番地に社屋を移され、その後経営を続けておつたのでありますが、戦後児玉さんが戦犯容疑者として巣鴨に収容されることになりましたので、これを弟分である――弟分という言葉はどうかと思いますけれども、これは私どもの社会では言うのですが、高源重吉氏に経営を譲つた。編注 岩田が死んだのは もう少し後なので このあとに 児玉先生が経営を引き継ぐことになりますが この当時は 社長 児玉センセイ 副社長が 吉田彦太郎になったようです 住所が 政友会の本部のあった芝田村町から 港会の中核の並木一家の本拠の浜松町に移転していることに注目戦後の新夕刊は 児玉センセイが巣鴨送り 彦ちゃんが たぶんパージなんで 高源重吉が担当のことだろうと思いますどうも 児玉センセイは 一部の方には戦時中はずっと 中国にいたという認識があるようなんですが やまと新聞の経営だけを考えても それは誤りではないかと思いますやまと新聞から 新夕刊の流れのなかで 児玉センセイが 松永材という哲学者の雑誌の後援をしていたり 新夕刊の経理部長が カストリ雑誌を出したりとか いろんな副業をしていたようなんですがほぼ まちがいなく 任侠の方々との交流も どういう形でかはわかりませんが ここからはじまり これが保全経済会事件につながるんだろうと思います
2010年11月22日
閲覧総数 1488
8
ジャパンラインが児玉へ支払われなかったツケは これだけで終わらなかった 児玉は昭和石油と子会社の日本精鑞をめぐる紛争の調停で ジャパンラインを利用するこの時 児玉は73年11月16日に 謝礼として矢飼督之日本精鑞社長から得た2千万円も脱税に問われている冒頭陳述によると 昭和石油の永山時雄社長と昭和石油の専務だった矢飼日本精鑞社長が対立 矢飼は昭和石油が持っていた日本精鑞株を他社へ売却させ 昭和石油の支配から脱却することを計画した矢飼は平和生命の武元忠義社長を介して 児玉に永山との交渉を依頼した児玉はこれを引き受け 太刀川(児玉の秘書)が交渉に当たった 74年8月 太刀川が昭和石油の日本精鑞株を買い取らさせた相手がジャパンラインであった児玉誉士夫のダイヤモンド 立石勝規永山のけつもちはジローさんでしたが ジローさんが 女ネタで 総会屋筋から脅されたのも この時期なんでしょうか女ネタはともかく そのお手当はどこからとくれば ジローさんの場合は うしろめたいことやまほどですから三浦義一先生が死ぬと 影響力の低下もあったのでしょうか日本精鑞というのは 元は満州鉄道の関連会社だったようですが 一時期 昭和石油の関連会社だった時期もあります この仲裁人の武元と言う方は 大蔵省の財務局にいた方で その間に裏事情はあったんだろうとおもうのですがちなみに この児玉の秘書の太刀川は大勲位のところにいたこともあり ジローさんの遺言を 大勲位が異様に気にしたのも いろいろあるとはおもうんですが このさいのことかもしれません
2009年02月11日
閲覧総数 647
9
山口登が築いた戦前の実績は、三代目の田岡一雄にとって大きな遺産になっていた。山口組を継承すると同時に田岡は、関東の親分衆とも縁をもつことができた。横浜の博徒笹田照一は山口登の兄弟分だったが、田岡を売り出すために五分兄弟の盃を交わしている。山口登は、戦前の興行界に大きな勢力を持っていた籠寅組と対立し、刺客に襲撃されて本人は重傷を負い中島武雄という客分が殺されるという事件があった。その抗争の仲裁に奔走した一人が、もと松竹浅草の大プロデューサーで自由党院外団の最高幹部だった東五郎という人物である。田岡は東の行為を徳として、上京するたびに交遊を深めた。東の義兄弟の一人に、関東姉ヶ崎四代目の山本五郎がいた。田岡は、山本とも義兄弟の縁を結ぶ。山本の兄弟分には、東京の戦後裏面史に名を残す岡村吾一 新田新作 入船貞治 藤田卯一郎 てき屋芝山益久 安田朝信などの親分衆がいた。彼らは、田岡と回り兄弟の関係になる伝説のやくざ ボンノ 正延哲士 幻冬舎アウトロー文庫より田中清玄が田岡一雄と仲がよかったのは、事実のようだ。もともとは田中の身元引受け人だった富田健治が、佐藤軍次という横浜で海運業をやっていた男を紹介したことがはじまりで、その佐藤が京浜一帯の沖仲仕の総元締で大親分だった藤木幸太郎を紹介した。 戦後の京浜地区は鶴見の埋立てをめぐって抗争が激しく、陸を仕切っていた土建業松尾組の松尾嘉右衛門と、海を仕切っていた藤木が対抗していた。日本の海運業はこのあと藤木によって、海運業者の集団を日本海運協会に、従業員の集団を日本海運共同組合にしたことが基礎になる。藤木はこの海運協会の会長に田岡をもってこようとするのだが、田岡は固辞した。このとき田岡は政治的なことは田中清玄さんのような人に任せ、自分はヤクザのほうを取り仕切ると決めたらしい。http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1112.htmlここにでてくる岡村吾一という方は 児玉機関に参加し、戦後も児玉軍団の中核の一人として有名だった方です。田中清玄と 田岡一雄の関係を 自伝からのみで語る方がいますが 任侠の世界は そんな単純なものでないように思いますね。
2007年07月01日
閲覧総数 5896
10
http://canpan.info/open/news/0000001889/news_detail.html坪内 主人公・王長徳がオーナーをしていたクラブ・マンダリンというお店について詳しく書いてありますよね。昔、「アルスグラフ」っていう雑誌があって、増刊号で銀座を特集した時に、マンダリンの綺麗な写真が載っていた。連日、賭博が行われていたとかで、そのスキャンダルを暴いたのが三田さんだったということは、この本を読んではじめて知りました。康 厳密に言うと、こういうことなんです。当時の読売新聞は社会部帝国主義の時代だった。そのボスが女優の香川京子の亭主だった牧野拓司。まだ本田靖春が新米のチンピラ記者だった頃の話ですけど、読売で「東京租界」という連載特集を組んで、マンダリンの話を取り上げた。立役者が牧野で、その下に三田がいたんだ。坪内 「アルスグラフ」の中でも、確か、東京租界という言い方をしてましたね。香港かと思うぐらいにエキゾチックで、戦後のあの時期の銀座・新橋辺りって面白かったんだなって思いましたよ。で、うちのお袋も、戦前、上海にいて、実は父親よりももっとディープな環境にいたんですよね。うちの祖父が児玉機関の吉田(彦太郎)さんをすごくかわいがっていたらしくて、僕も「吉田の彦ちゃん」という呼び名を聞いたことがあるぐらいだから。王さんの息子さんがやっていた宝石屋にも、十年ぐらい前まで、お袋はよく行っていた。だから結構事情に詳しくて、上海時代の話を聞いたりすると、中国マフィアの話もよく出てくる。赤幇(ホンパン)とか青幇(チンパン)とか。王さんがそれとどう関わりがあったのか。この本には、そういう話は全然出てきませんよね。康 ご本人は、終戦直後、中国国民党の軍属・将校みたいな形で日本に乗り込んできたと言っている。実際にはどうだったのか。坪内 国民党の将校だとしたら、青幇でしょうね。康 可能性はあります。蒋介石は青幇ですから。当時は、終戦直後、日中国交が断絶したまま、大使館じゃなくて、代表部というのがあったわけですけど、その代表部に王さんが自由に出入りしていたことは、僕は知っているんですよ。国民党となんらかの関係があったのも確かでしょう。ただ、どこまで深い付き合いがあったのか。関係者がほとんど生きていないから、真偽のほどが明らかではない。実は、その点については、個人的に、言いづらい部分がいっぱいあるんです。つまり、日中戦中に、国民党が割れて、親日の汪兆銘政権が誕生したでしょう。その南京政府駐日大使館侍従医を僕の親父がやっていたこともあって、戦後は「漢奸」(売国奴)と言われて、戦犯として代表部に逮捕されてしまったわけだから。王さんとはまったく逆の立場。ひとつ言えるのは、終戦直後、彼が、いわゆる「第三国人」の特権を利用することによって、新橋界隈で強引な商売を展開して、いろいろトラブったことは事実。あの辺りは松田組が抑えていたから、そこに膨大な利権料を払って、闇物資を流しながら儲けていた。それがこの本のアウトラインですよね。夏目さんも、お金を借りて揉めたっていう話を随分してましたよ。ただ、タイトルに「帝王」とあるけれども、当時の東京の闇市を全部押さえていたような印象も受ける。そこは誤解されるかもしれませんね。まあ、全体としてちょっとオーバーな語り口であることは確かなんだ。坪内 著者が、闇市というものをよくわかってないんじゃないかっていう気もしたんですよ。僕らの子どもの頃は、まだ闇市の名残がいろいろあって、イメージできるものが具体的にあったわけですね。新橋駅前ビルの地下とか、有楽町の交通会館の雰囲気とか。行けばすぐに元闇市だとわかった。その辺りを、理解していない感じがする。康 当時の闇市について少し話をしておくと、池袋は極東、新宿は尾津組とかに分かれていて、新橋も松田組が押さえていた。彼らが三国人とも結合しているわけだけれど、三国人はただの供給源であって、ダイレクトに闇市をコントロールしていたわけではない。僕も、砂糖とか食料品を、仲買人のところに持っていったことがある。自分自身、三国人ですから、そこに流れてくる物資を横流しする。闇市の現場に持って行くわけではなくて、ヤクザの親分のところですけどね。そうやって、ある時期までは、割合自由に儲けることはできた。ただ、この本にも書かれてありますが、最終的には、王さんも、新橋にあった会館の不法占拠事件で裁判に負けることになりますよね。はっきり言えば、三国人の力が社会的にも法的にも弱ってきた結果でしょう。http://www.wako.ac.jp/souken/touzai_b01/tz_b0109.html 隠退蔵物資摘発運動と朝鮮人の協力 遠藤 敗戦から一九四七年の二・一闘争まで、たとえば、国鉄労組の立場からだと、隠退蔵物資摘発運動というのがあったんです。仙台にも航空廠があって、その倉庫には大豆がいっぱいあったりしましたが、それを摘発しました。また、日本陸軍が、蔵王のふもとの農家の蔵などに、建築資材と称してバターや缶詰などの食料物資を隠していました。その情報をよく知っているのが朝鮮人だったんです。釘などの建築資材は、国鉄が引き取って、その後の鉄道建設の基本材料にしましたが、報せてくれた朝鮮人たちには、食料などの物資を、ある程度まとめてポンと渡すということはよくありました。 高橋 共産党が最初に手をかけたのは、隠退蔵物資の摘発でした。全国的にやりましたが、それを一生懸命手伝ってくれたのが朝鮮人たちでした。 遠藤 そして、情報をよく知っていました。 ―M もしかすると、アメリカ軍が朝鮮人に情報を流したということがあるのではないでしょうか。GHQが最初日本の軍事物資の処分についてやっていて、実際の兵器になるものは破壊しているわけですから。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/001/1380/00109231380017c.html それからキヤラコ事件というものがありまするが、目下東京地方檢察廳において捜査中のものであります。被疑者は佐々木在久、大野圭演、泊利一、平山寅雄という者でありまして、佐々木は弊原男爵の甥であり、大野は朴烈の伜であり、泊は滿洲國高官であると名乘りまして、大倉喜七郎、中島知久平共有の無籍物のキヤラコ五萬七千反が桂公爵邸や野村大使邸の地下室に保管してあるが、大倉からこれを正規のルートによる賣捌き方を依頼せられていると稱しまして、G・H・Qの輸送證明書のごときもの及び朝鮮獨立促進青年同盟の加工委託及び輸送證明書を作成いたしまして、漆原徳藏ほか數名を欺岡いたしまして、代金名下に百九萬八千圓を騙取いたしまして、全部遊興に使用したことがわかつておるのであります。http://mindan-tokyo.org/bbs/history.php ? ? 1945年の日本の敗戦により民族解放が実現した。在日同胞は8月18日に杉並で「在日朝鮮人対策委員会」が組織されたのを皮切りに、全国で数多くの同胞団体が組織された。しかし、こうした群小組織を一体化するため同年10月に結成された「在日朝鮮人連盟(朝連)」は、発足当初から共産主義の左派が独占するようになり、これに不満を抱いた同胞青年たちは11月に「朝鮮建国促進青年同盟」を組織した。 同年11月、秋田刑務所から出所した戦前からの同胞指導者であり、後に民団初代団長となる「朴烈」は、左派に独占されていた朝連に入ることを拒否し、共産主義化に反対し決起した「朝鮮建国促進青年同盟」と「新朝鮮建設同盟」を主軸として民主勢力を糾合、共産主義者らの妨害をのりこえて1946年10月、日比谷公会堂で2000名の同胞が集い「在日朝鮮居留民団」を結成した。 東京においては、12月に豊島、板橋、練馬の3区連合支部が結成され、翌47年2月に文京、台東、北、墨田、江東、江戸川による6区連合支部と、中野、新宿、世田谷、目黒、渋谷の5区連合支部が相次いで結成された。 民団東京本部は、こうして結成された各支部組織の代表が集い、1947年2月28日に文京区内において「在日朝鮮居留民団東京本部」結成大会を開催し、今日の民団東京本部がスタートした。 民団は1948年、韓国政府の樹立とともに在日同胞の公認団体として同年9月、正式に認められた。また、韓国動乱の時には祖国防衛のために641名の青年学徒義勇軍が編成され、第一線に参戦している。 闇市については いまでも三国人と 日本人やくざの闘争という点から語られることが多いのですが ここにあげたものを裏読みするだけでも ちがう風景も見えてきます 田岡 稲川の親分にしても その傘下には 在日の親分衆が かなりいるらしいことを思えばうまく利用したというのが ホントのところではないかと思いますこのさいの三国人とヤクザと米軍の仲介役を務めたのが 児玉センセイの子分連中だったのではないかと思います
2010年01月19日
閲覧総数 2286