2010年11月22日
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児玉センセイと言いますと 岡村吾一センセイが 事実上 関根賢親分の身内なので 関根組と松葉会との関係は ここからはじまるんですが
住吉の場合は どこから始まったかといいますと

http://piza2.2ch.net/4649/kako/988/988463245.html
79 名前: 名無番長 投稿日: 2001/07/13(金) 05:07
並木は六代目の親分の津久井成行が日興から来たけど、日興の看板は出してません。
龍馬氏とのバランスを取るのと並木の五代目の小沢の先代が引退するために跡を継いだ。
当時3億で毎月200万を先代に払っていた。
津久井氏は堀の総長が亡くなって無ければ、次の次に住吉の代を取っていたと言われている。
現在の日興の跡目を含め全て津久井の六代目の舎弟である。

津久井氏は日興に籍は残しているが、並木の当代であり、日興より並木の金看板を大事にしている

http://wikiyakuza.wiki.fc2.com/wiki/%E6%B3%A2%E6%9C%A8
本拠は浜松町で 量次郎親分は 松田義一親分の兄貴分のようですが

下記にそれぞれ注目
http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201001190000/

http://plaza.rakuten.co.jp/junksai/diary/201005080000/


http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/019/0666/01904010666016c.html
日本夕刊は元やまと新聞と申しておりまして、岩田富美夫さんが御経営になつていたのであります。おなくなりになつてから、昭和十五年に児玉署士夫さんがこの経営をお引受けになつた。その後、当時芝の田村町に本社がありましたのを、兒玉さんが、現在の浜松町一丁目三番地に社屋を移され、その後経営を続けておつたのでありますが、戦後児玉さんが戦犯容疑者として巣鴨に収容されることになりましたので、これを弟分である――弟分という言葉はどうかと思いますけれども、これは私どもの社会では言うのですが、高源重吉氏に経営を譲つた。

編注 岩田が死んだのは もう少し後なので このあとに 児玉先生
が経営を引き継ぐことになりますが この当時は 社長 児玉センセイ 副社長が 吉田彦太郎になったようです 住所が 政友会の本部のあった芝田村町から 港会の中核の並木一家の本拠の浜松町に移転していることに注目
戦後の新夕刊は 児玉センセイが巣鴨送り 彦ちゃんが たぶんパージなんで 高源重吉が担当のことだろうと思います


やまと新聞から 新夕刊の流れのなかで 児玉センセイが 松永材という哲学者の雑誌の後援をしていたり 新夕刊の経理部長が カストリ雑誌を出したりとか いろんな副業をしていたようなんですが
ほぼ まちがいなく 任侠の方々との交流も どういう形でかはわかりませんが ここからはじまり これが保全経済会事件につながるんだろうと思います









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最終更新日  2010年11月22日 20時42分01秒
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