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今日で3月も終わり。今年も四分の一が過ぎてしまった。3月は、20日の春分の日に「屋久島 光のガイド」のHPを全面的にリニューアルした。新しい時代のHPに変身した。その副産物として、「今日の短歌」が生まれた。元々は、写真やロゴが多すぎるので、もっと文字を増やすための手段だった。短い文章のつもりが、試験的にアップされたのが短歌だった。それがいい感じだったので、そのまま短歌を掲載することにした。毎日、日替わり。しかし、何かの都合で見損なうと、前日の短歌がわからない。そこで、「kimi和歌集(前日までの短歌)」を新たに加えた。「今週の写真」の短歌バージョン。但し、「今週の写真」と違うところは、期間がないこと。「今週の写真」は、1週間分のみ。しかし、「kimi和歌集(前日までの短歌)」の方は、無制限。すべての短歌を掲載したいと思っている。毎日、変わる。一年365日、違う短歌を掲載する。それでも、既に10年分ぐらいのストックはある。新しいものも追加されるので、別に問題はない。まとめて短歌を読んでみると、何か感じるものがある。一貫して流れているものがある。一つの短歌だけでは伝わりにくいものも、たくさんの短歌だと伝わりやすくなる。大切なものは、言葉を超えたエネルギー。そのエネルギーを言葉で表現しているだけ。そのエネルギーを感じるには、何度も読み返すといい。そのうちになんとなくわかってくる。読書百遍意自ずから通ず。短歌は、今の時代に向いている。今は、携帯メールやTwitterの時代。短くて簡潔な文章が好まれる。それは、まさに短歌の世界。短歌は、伝えたいことを三十一文字(みそひともじ)で表現する。極めて凝縮された表現方法。日本古来の洗練された表現の仕方と言える。俳句と並んで日本人の心を表している。たぶんあの世へ帰って自慢できそうなのは、短歌ぐらい。写真も美しいものをたくさん撮った。しかし、プロには敵わない。プロが撮った屋久島の写真集がたくさん出ている。日記もたくさん書いた。しかし、精神世界の本は、山ほど出版されている。水晶のストックもたくさんある。しかし、もっとある人は、いくらでもいる。ただ精神世界の短歌というのは、あまり聞かない。昔の人の道歌というのはある。人生訓みたいな短歌。過去の宗教家に見られる。しかし、これだけたくさんの精神的な短歌を残した人を知らない。もしかしたらいるのかもしれないが、寡聞にして聞いたことがない。たぶんいないのではないだろうか。少なくとも現存する出版物はないだろう。このスピリチュアルな短歌だけが、真の財産かもしれない。読み返す度に、いいなと思う。自画自賛だけれども、自分でも好きな短歌たち。何とも言えない美しい世界が広がっている。何千首かの短歌は、再び同じものを作ることは不可能に近い。その時その時にできたものなので、再現は限りなく難しい。今は、楽天のこの日記にあるのみ。これが消えると、全財産も消える。バックアップを取らなければ・・・と思いつつ、まだ一部しかできていない。自分の唯一とも言える財産なのだから、もう少し大切にした方がいいかもしれない。明日の短歌は・・・わからない。どんな短歌になるのかは、ぴあのさんしだい。短歌の選択権は、ぴあのさんにある。というか、ぴあのさんにまかせてある。こちらでは、短歌の全容を把握していない。たぶんぴあのさんの方が詳しいだろう。一旦書いたものを読み直すことはない。そのために書いたものを忘れていることも多い。それ故に、自分の短歌にもかかわらず新鮮さがある。毎朝、読むのが楽しみ。もう何年も前に作ったものなので、記憶の外にあるものも多い。よくこんな短歌を作れたなと感心する。自分の財産と言えるものは、短歌と日記と写真と水晶。ただそれだけ。お金もないし、土地や家もない。今生を生きた証(あかし)と言えるのは、短歌と日記と写真。それらは、死んだ後もキープされるかもしれない。少しは世の中の役に立つかもしれない。でも、変化が速い時代なので・・・何とも言えない。人生を振り返って一番価値がありそうなのは、短歌や日記。それ以外には、あまり思いつかない。個々の行為というものもあるが、短歌や日記のような普遍性に欠ける。精神世界のセミナーや個人セッションなどもあるが・・・やはり普遍性で及ばない。短歌や日記には、普遍性がある。時代を超え、次元を超えた普遍性。どこでも通用する。大袈裟に言えば、人類の遺産?いずれ教科書に載る?どうかな?ま、どちらでもいいが。ネット上に残しておくか。それとも、本として残しておくか。いずれにしても残しておく必要はあるだろう。ある段階に来たら、そのようにするつもりでいる。まだ当分は、大丈夫だろう。まだ作り続けられる。現役の間は、いいかな。しかし、生涯現役のつもりなので・・・まだ日記を書き、短歌を作る。当分は、それが続くだろう。まだ死にそうにない。というか・・・死そのものがない感じ。生き通しという感じになってきている。死というものが、自分のなかからほとんど消えている。生死はないに等しい。これからも、この世とあの世とをつなぐ短歌を作り続けるのだろう。この世オンリーバージョンではなく、多次元バージョンの短歌。短歌と日記が、自分にとってこの世に貢献できる最大の方法かもしれない。まあ、楽しみながらやろう。『日記書き 短歌を作る ことこそが 自分が生きた この世の証(あかし)』『人類に 貢献できる 最大の 方法それが 日記と短歌』『普遍性 あるものだけが 生き残る 世の人々の 役に立つため』これが日記を書き始めて2645日目の心境。
2012.03.31
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今日の屋久島は、春爛漫となっている。天気も良く、気温も高い。春は、いい。心が軽い。こちらの心身の状態は、グランディングの外にある。もうほとんど天中殺状態。最近は、この「天中殺」という言葉もあまり聞かなくなった。四柱推命では、「空亡」と言う。時間はあるけれども空間がない状態。つまり、この世にいないような状態。それが、12年に2年、12ヶ月に2ヶ月、12日に2日回ってくる。こちらは、辰と巳が空亡。今年と来年。4月と5月。それが早めに来ている感じ。ほとんどここにいない感じ。実際は、肉体はこの世にいる。仕事もちゃんとしている。しかし、その存在が認められない。世間からは・・・世間から見えない状態。認識されない状態。忘れられた状態。それが、空亡という時期。それは、霊的に生きる時。本来の霊性を取り戻す時。この世バージョンから脱却する時。この世に生きる者にとって、なくてはならない時期。一般的には、空亡や天中殺は嫌われる。なぜなら、この世的にはうまくいかないから。新しいことを始めると、途中で頓挫することが多い。それは、土星と同じように嫌悪される。この世オンリーバージョンで見れば、その通り。でも、トータルで見れば、それは必須。それをわかっている占い師のなんと少ないことか。みんなこの世バージョンでアドバイスしている。土星が回ってくると、占星術師はネガティブなことばかり言う。それは、土星は困難を運んでくるから。土星は、試練の時。カルマに挑戦する時。カルマとは、過去世で作ってしまった癖。パターンのようなもの。いわゆるネガティブパターン。欲得に溺れ、人本来の生き方ができなかったところ。人本来の生き方とは、霊性ベースでこの世を生きるということ。天にあるごとく地でも生きる。天の御国を地上に実現する。生まれてくる時に決めてきたことを、この世で実現する。過去世からの自分のパターンを乗り超えるために、土星は働いてくれる。試練や困難を与えてくれる。それをクリアーしてこその今生。それでなくては、生まれてきた意味がない。にもかかわらず、世間一般では土星を忌避する。土星を避けて木星を歓迎する。木星は、幸運の星。木星が回ってきた時は、物事がスムーズに運ぶ。それは、木星が潜在している可能性を開いてくれる星だから。それもまた約束事。今生でどのような能力を花開かせるか。それは、生まれてくる時に決めてある。必要な能力や環境を自分なりに整えている。それを花開かせてくれるのが、木星。だから、木星は誰にでも歓迎される。しかし・・・それだけでは足りない。自分の可能性を花開かせるのも必要。しかし、それと共にカルマの清算も不可欠。両方が揃って必要十分条件。自分のなかのネガティブパターンを克服し、可能性を花開かせる。それこそが、今回生まれてきた目的。片方だけでは、片手落ち。土星や天中殺を忌避しているようでは、本来の生き方とは言えない。人は肉体と共に成長することで、どうしても物質バージョンになりやすい。その物質バージョンから本来のスピリチュアルバージョンに転換させるために、天中殺がある。この世的なことがうまくいかないことによって、人は考え込む。自分の人生について深く見つめ直す。いつも順風満帆であれば、自分を見つめ直す機会はない。自分を見つめ直してこそ、より深く生きることが可能となる。いつも発展ばかりしていては、人生バブルとなってしまう。量だけで質の伴わない人生となる。12年、12ケ月、12日ごとに天中殺が回ってくることは、人を深化させるための仕組み。霊性を忘れないためのセッティング。この世バージョンになりきらないための防波堤。実にすばらしくできている。霊性を現実化する。それこそが、この世に生きる意味。霊的な現実創造。それが、この世でやるべきこと。物質オンリーバージョンで生きても、さしたる意味はない。それは、霊性をこの世に実現するための前提条件。ほとんどの人は、前提段階に留まっている。本来の意味を理解して生きている人は、少ない。土星=試練・困難は、本来の自分に引き戻すための安全装置。ビルト・イン・スタビライザー。この世的ネガティブパターンを乗り超えるためのハードル。それは忌避するものではなくて、歓迎すべきもの。天中殺=空亡も、霊性に目覚めるためのモラトリアム。この世オンリーバージョンで生きる人々への天からの贈りもの。霊性に生きよとの神からのメッセージ。いずれにしても・・・この世オンリーバージョンではなく、霊静にこの世を生きるためのシステム。西洋占星術も東洋占星術も、極めれば同じことを言っている。霊性を持ってこの世を生きるためのアドバイス。本質は、同じ。この世オンリーバージョンで生きる人は、やがて滅びる。それは、もう時間の問題。物質やお金に拘泥する時代は、既に終わっている。霊性が甦る時代となっている。ここのところ、全身が微妙にしびれている。机の前に座っているのに、まるで神社にいるような感じ。繊細なエネルギーが周囲に充ち満ちている。ほとんど半霊半物質状態。自分ではしっかりこの世に生きているつもりでも、なんとなく不安定。グランディングが効かない。それは、天中殺期の特徴。時間はあっても、この世に自分の居場所がない。世間一般からは、ほとんどいないに等しいような待遇。この世から半分存在感が消えている。それが、天中殺=空亡の特徴。ところが・・・もしかしたら、これからずっとそれが続くのかもしれない。まだ何とも言えないが、その可能性もある。あるいは、もう一度この世に戻って来られるか・・・元々、片足しかこの世に着いていないけれども、それが更に怪しくなっている。外の景色は、春。心も春。軽やかになりすぎて、蝶のように舞い上がっている。美しい花は咲いていないかな・・・『ネガティブな 過去世のカルマ 乗り超えて 霊性ベースで この世を生きる』これが日記を書き始めて2642日目の心境。
2012.03.28
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今日の屋久島は、晴れている。しかし、風が冷たい。冬に逆戻り?いや、花冷えだろうか・・・今日の「屋久島 光のガイド」の短歌は、次のようなものだった。『美しき 花を咲かせて 風に散る ただ一片の 執着もなく』なかなか美しい歌。好きな歌でもある。自然には、執着がない。執着があるのは、人間だけ。執着は、何から来るか。それは、良い思いから来るのではないだろうか。良い思いをした経験。それが忘れられず・・・その再現を期待してしまう。またあのような日々に帰りたい・・・幸せだったあの頃。満たされた思い出の日々。しかし、もちろん再現することはない。亡くなった人は、甦らない。壊れたものは、元に戻らない。できることは、ただ懐かしむことだけ。今モードに、執着はない。過去モードにだけ、執着がある。今モードとは、常にゼロ。今ここには、何もない。波動が遅いと、すぐ過去モードになってしまう。波動が速くなると、今モードで生きられる。今とは、プロセスの世界。過去とは、結果の世界。今モードは、常にプロセス。結果はない。時間の世界にいないので、結果というものはない。比較がないので、結果は生じない。思考が働くと、執着が生じる。記憶モードになると、執着が発生する。今ここに、執着はない。今ここは、常にゼロ。ゼロというのは、スッキリさわやか。何もない。何もないから、すべてがある。何もないところにだけ、すべてがある。何かあるところは、有限の世界。つまり、限定の世界。何もないところは、無限の世界。つまり、無限定の世界。有限の世界では、すべてを手にすることはできない。無限の世界で生きる時にのみ、すべてを手にすることができる。有限の世界で生きるから、執着が生じる。無限の世界で生きれば、執着はない。自然は、循環しているだけ。何の執着もない。淡々と事が運んでいる。人は、もの思うが故に執着する。思いがつくり出す苦しみの世界。楽しみがあることによる、その喪失としての苦しみ。相対の世界に生きている限り、苦しみはつきまとう。苦しみを超越するには、相対の世界を超えるしかない。相対の世界とは、思いの世界。思いがつくり出す思い込みワールド。つまり、幻想。それが、この世のあらゆる苦しみをつくり出している。思いがなければ、苦しみもない。しかし、思いも必要。必要な時には、思いも使う。しかし、思いに使われないこと。思いを理解して、思いを超える。それが唯一の執着を超える道。今ここに生きることだけが、執着から自由にしてくれる。今ここは、常にゼロ。ゼロであるが故に、新鮮。新鮮であるが故に、執着はない。ただ、今が美しい。今、美しいものが目の前にあるだけ。『過去モード 浸れば人は 遅モード 後ろ向く時 悲苦が生じる』『楽しさの 逆が苦しみ 相対の 世界に生きる 宿命と知れ』『相対の 世界を超える 唯一の 道は思考の 次元を超える』『今ここは 常に新鮮 ゼロ地点 思い・比較の 次元を超える』『今ここは 思考を超えた 別次元 思考静まり 空が広がる』これが日記を書き始めて2639日目の心境。
2012.03.25
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今日は、朝から晴れた。新月なので、水を汲みに行く。山桜は、五分咲き程度。新緑が、目に眩しい。田んぼでは、水が張られていた。もうすぐ田植え。屋久島は、いつも三月下旬から4月上旬が田植えの時期。7月末から8月上旬には、刈り取りとなる。辺りは、春景色。しかし、心が春になれない人もいる。今月上旬に三泊四日の屋久島の旅をしたMさんからメールが届いた。まだ厳しい冬が続いている様子。---------------------------------------------------------HP、新しくなったんですね。「今日の屋久島」の昨日の菜の花の写真が、とてもきれいで感動しました。私はこの一週間、かなりネガティブにハマっていました。イライラし、気持ちが焦り、とても冷静とは程遠いものでした。先程もかなりネガティブになってしまったので、考え方をポジティブに変えてみました。一瞬明るい気持ちになりましたが、すぐにマイナス思考になります。例えば誰かに対して言った一言を、「失礼だったかな」と思い後悔する。相手にどう思われたか気になる。「またネガティブになってるな。いつもの考え方の癖だ。」と自分の気持ちを見守るようにする。そこまでは何とか出来たとしても・・・相手の反応が良くないと感じると、「やっぱりあんなこと言ったからだ。」とネガティブにハマっていきます。今がまさにそうです。ポジティブに考えてみようとしても、「いくら何でもその考え方には無理があるのでは?」と思ってしまいます。それも「決めつけ」かな?自分の気持ちをさらけ出すことと相手の気持ちを尊重することのバランスがよくわかりません。何でもストレートに言えばいいという訳ではないのはわかりますが、自分の気持ちに正直になると相手を傷つけてしまう気がします。また、「嫌われるのでは」という恐れもあります。 自分の気持ちに正直に行動すると居心地が悪く感じるのです。今まで人に合わせ過ぎてきたからでしょうか?正直言って気持ちが苦しいです。まだまだ努力が足りないですね。読んで下さってありがとうございます---------------------------------------------------------自分の気持ちを正直に出すことと、相手を尊重することのバランスは、とても難しい。自分の気持ちを爆発させれば、相手を傷つける可能性が高い。そうかといって自分の気持ちを押し殺したのでは、自分がいたたまれない。さて、どうするか。自分の気持ちも表現し、相手の気持ちも尊重する。その両方を両立させる。それが大原則。しかし、それには冷静さと客観性がいる。冷静に話せないのなら、話さない方がいいかもしれない。客観的に自分を見守れない状態なら、黙っていた方がいいかもしれない。感情のままに話しても、よいことはない。いかに相手を理解し、自分を理解するか。相手の立場になり、自分の立場を客観視する。なかなか骨が折れる。自分の感情をぶつけることは、たやすい。同様に、自分の気持ちを押し殺すことも難しくはない。しかし、それらは問題を引き起こす。なぜなら、相手の気持ちを無視しているから。あるいは、自分の気持ちを無視しているから。そのどちらも適切とは言えない。相手を理解し、自分を理解して話すのは、至難の業。そんなに簡単にできることではない。これまでは、無意識にやってきただけ。周りに妥協して生きてきただけ。妥協はしない。自分の気持ちを押し殺したり無視したりもしない。そうかといって、そのままぶつけることもしない。相手の言うなりにもならない。さてさて、なかなか難しい。本当のコミュニケーションというのは、そんなに簡単なものではない。特に他人との間では。身内なら気心が知れているが・・・でも、いくら気心が知れていても、行き違いもある。意思の疎通を円滑にすることは、そんなにたやすいことではない。もう一度、ゼロからやり直すしかない。前提や思い込みを外して・・・相手の言葉を注意深く聞く。相手は何を伝えようとしているのかを正確に理解する。わからなければ、聞き返す。たぶん・・・いつもは、そんなに注意深くは聞いていない。いい加減に聞いて、いい加減に返事をしている。すべてゼロからやり直すということは、真剣さが求められる。ただの会話でさえ、もう一度真剣に聞いてみる。相手の言いたいことが正確に理解できたら、こちらの気持ちを伝える。すぐに反応しない。すぐに言い返さない。落ち着いて、しっかり相手の言葉を受けとめてから話し始める。できるだけ冷静に、できるだけ客観的に話すように心掛ける。知り合いだからと、いつものように無意識に話さない。話す内容をしっかり確認しながら話す。これまでは・・・イージーすぎた!相手の言葉を半分も聞いていなかった。すぐに相手の言葉に反応した。そう、表面的に生きていた!表層意識だけで生きていたから、すぐに反応した。ただ反応の繰り返し。それでたくさんのトラブルが起きた。会話に深さがなかった。真剣に注意深く会話してこなかった。そもそも会話を正面から見据えることさえなかった。惰性のままに会話してきた。コミュニケーションとは何か、真剣に考えたことはなかった。もう一度、すべてをゼロからやり直す。一つ一つ確認しながら進んでいく。そのくらいの覚悟がないと、ネガティブの泥沼からは抜け出せない。厳しいようだけれども、それが事実。但し、一つ一つ丁寧にやっていると、やがて加速度がつく。そして、いつか花開く。大切なことは、最初の一歩。丁寧に注意深くトライしてみること。いつものようにイージーに生きない。一つ一つに注意を払う。すべてを見直す。よちよち歩きから出直す。大原則は、先ずは相手が何を言おうとしているのかを理解すること。これがなければ、返事のしようがない。わからなければ、わかるまで聞く。まず相手を理解し、それから自分の気持ちを伝える。深く相手を理解できれば、それに見合ったものが自分のなかから自然に湧いてくる。それが、一番ナチュラル。無理がない。いかに相手を深く理解するかに尽きる。一旦、ゼロに戻ること。すべての始まりに戻って、ゼロからやり直す。まず相手の言おうとすることを正確に理解するように努める。一つ一つ順序立ててやっていく。最初は、亀の歩みかもしれない。でも、それが必要。まず何よりも相手を理解すること。それがすべての始まり。憶測しない。勝手に推測しない。わからなければ、聞く。正確に相手の気持ちを理解する。そして、自分の気持ちも理解する。それから言葉を発しても遅くはない。すぐに反応しない。もし反応すれば、それはいつものパターン。間を置く。冷静になる間をおく。理解する間をおく。それから対応する。イージーに言葉のやりとりをしない。注意深く、大切に言葉を扱う。それが、人生を真剣に生きることにつながる。これまでの惰性で生きない!一つ一つのことに注意を払う。それは、とても骨の折れること。だから、すべてを一度にはできない。できることから、一つ一つ丁寧にやっていく。まずは、会話にもっと注意を注ぐことだろうか。しっかり相手を受けとめる。相手を受けとめることは、自分を受けとめることに他ならない。相手も自分もしっかりと受けとめてあげる。それは、生きる基本的姿勢の問題。会話一つが、生き方の根幹に関わってくる。相手をどれだけ大切にしているか。それとも、いい加減に扱っているか。相手を大切にしているということは、自分も大切にしているということ。逆は、言うまでもない。人を大切にしていないということは、自分も大切にしていないということ。つまり、誰も大切にしていないということ。もしそれが自分のありのままの姿としたら?なんと寂しい人生だろう。一つ一つのことが、なんともいい加減。些細なことが、本質的なこと。いい加減に生きないで、一つ一つ丁寧に生きる。一歩一歩着実に歩んでいく。最初は、手探りでもいい。試行錯誤でも、何も問題はない。なにしろ一つ一つを真剣に注意深くやってみる。最初の一歩が最後の一歩。最初にいかに取り組むか。どういう姿勢で人生に対処するか。まさに生き方が問われる。どのように生きたいのか。手っ取り早く結果だけを得たいのか。良いとこ取りか・・・それとも、地道に一つ一つ積み重ねていくのか。結果を求めず、今この瞬間の生きる姿勢を大切にするのか。問われているのは、生きる姿勢。生きる真剣さ。『何よりも 相手の気持ち 受けとめて 理解するのが 最初の最初』『よく聞かず 反応するから これまでの パターンのまま ネガティブ指向』『よく聞いて しっかり受けとめ 理解して それからゆっくり 話し出すこと』『受けとめる 気持ちがあれば おのずから 出てくる言葉 それに対応』『落ち着いて 生きる姿勢が 人生に 深いやすらぎ 調和もたらす』『小手先の ノウハウ・ハウツウ テクニック そういうものは すべてごまかし』『結果だけ 求めて生きる 人生は 時間のなかの 思考の世界』『真剣に 生きる姿勢が 人生の 真理もたらす 最初の一歩』『始まりの 姿勢のなかに 人生の 真理は宿る 最後の一歩』これが日記を書き始めて2636日目の心境。
2012.03.22
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今日の屋久島は、青空が広がっている。しかし、気温は低い。風が冷たい。三寒四温が続いている。昨日から「屋久島 光のガイド」が正式にスタート。それに伴って、「今日の短歌」というのが始まった。これは、ぴあのさんが選択してくれることになっている。そのため、今日はどんな短歌になるのか事前にはわからない。今朝、その短歌を見て少し感動した。自分の短歌なのに?でも、すばらしかった。その短歌とは・・・『大空に 己が意識の ベース置き 流れ過ぎゆく 雲を眺める』見守りの短歌。大空ベースで、流れゆく雲を見守っている歌。雲とは、現象世界であり、自分の表面意識でもある。大空とは、深く大きな意識。この短歌もTwitterのなかにあった。Twitterには、たくさんのkimi短歌が入っている。改めて読んで見ると、感動もの。すばらしい宝の山。Twitterに関しては、こちらはまったく関与していない。すべてぴあのさんが管理している。そのため、kimi短歌も客観的に読める。なかなかすばらしい短歌がたくさんある。これまでにどのくらいの短歌を作ったのか・・・定かではない。少なくとも千を超えているのは、間違いない。数千だろうか。ここのところ太陽フレアーのせいか、何かが乱れている感じがする。少なくとも自分自身は、電磁波に超弱くなっている。これまではある程度パソコンを続けても、どうということもなかった。しかし、最近はきつい。特に頭がしびれる感じ。どうしてだろう?磁気の乱れ?電磁波の変化?体調の変化や精神の変化は、多くの人に起きている。ここのところ、ネガティブが少し息を吹き返しているように見える。しかし、実際はより奥のネガティブが出てきているのだろう。それに振り回されている人もいる。自我とは、固執。自己限定。そういう自分にこだわる。自分の感性、自分の考え、自分の価値観・・・そういう自分の意に添わないものには、反発する。強烈な違和感を感じる。それは、差別やいじめにつながる。自分以外のものを否定し、排除しようとする。狭い自分の了見にこだわる。それは極めて限られたものであることに気づかない。お山の大将。自分が絶対。それは、裸の王様に似ている。人から言われないと気づかない。自分では、自分が絶対正しいと思い込んでいる。自分の感性や価値観がスタンダードと思って疑わない。しかし、それは自分の経験に基づく狭い物差し。自分の人生経験がすべて。あるいは、人から聞いた知識。マスコミの影響・・・それらは、底が浅い。深さがない。それ故に、バラバラ。そのため、お互いに衝突する。住んでいるところによっても異なる。気候も言語も風習も違う。人種まで違うこともある。多種多様。そのすべての人が、自分なりの価値観や感性や考え方を持っている。そして、自己主張する。それは、違っていて当たり前。同じということは、あり得ない。それぞれ異なる自我が自己主張する時、世の中は混乱する。それを力のある者が、力で押さえつける。それが、これまでの社会。今も多数決という力が猛威を振るっている。自我とは、自己限定。自分とは、思い込み。それ以外に自分などはない。枠をはめなければ、自分は存在しない。もし記憶がなくなったら・・・その途端、自分は消えてしまう。つまり、自分とは記憶に他ならない。あるいは、記憶をベースにした自己イメージ。いずれにしても、記憶がなければ何も始まらない。ということは、すべて過去ベースということ。自分とは、過去からできている。過去がなければ、自分もない。赤ちゃんは、白紙。親や周りの人が、盛んに名前を呼ぶ。そのうちに名前を自分と思ってしまう。自分の始まり。「○○ちゃんは、歌が上手」「○○ちゃんは、絵がうまい」「○○ちゃんは、力持ち」「○○ちゃんは、カッコイイ」逆のことも言われる。「○○ちゃんは、オンチ」「○○ちゃんは、泣き虫」「○○ちゃんは、物覚えが悪い」子供のころから同じことを何度も言われ続けていると・・・やがて、自分をそういう者だと思い込んでしまう。それが、自己イメージ。つまり、自分というもの。自分とは、自己イメージ。自分で思い込んでいるだけ。自己限定こそが、自分。それ以外に自分はない。自己イメージだから、それは可変的。褒められれば自慢できる自分となり、けなされればダメな自分となる。しかし、一貫しているものがある。それは・・・良い自分であれ悪い自分であれ、自分にこだわる。それが、すべての自我に共通していること。自分、自分、自分・・・何でも自分。その自分の実態を理解しない限り、真の自由というものはない。いくら精神世界の本を読んでも、ただの思い込み。新しい自分のイメージに更新しただけ。自分の本質を理解しない限り、自由に生きることはできない。それは、自我に限らない。魂もグループソウルも、すべて自己限定。宇宙に存在するものは、すべて限定されたもの。色の世界は、すべて限定の世界。限定された個。限定された色。そういう自覚を持って生きることだろうか。自分の限界を理解した上で生きることだろうか。自分とは、自己限定。無限のなかの一部。夜空に浮かぶ星のようなもの。星とは、宇宙空間のチリが集中固体化したもの。星も、夜ごと変化している。人も、日ごと変化している。自分は、固定したものではない。だから、そんなに固執することもない。ゆるやかに。しなやかに。揺れ動く葦(あし)のように。人は、考える葦と言うではないか・・・『自分とは 自己限定に 他ならず 過去の記憶と 自己同一化』『記憶との 自己同一化 外す時 自分は誰か 特定できず』『自分とは ただのイメージ 思い込み 過去をベースに できた幻想』『自分とは 自分がつくる 限定と 理解する時 自由生まれる』 これが日記を書き始めて2635日目の心境。
2012.03.21
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今日は、春分の日。陰陽の中間地点。これから陽の極へ向かう。また新しい始まり。「屋久島ナチュラルヒーリング」を正式に「屋久島 光のガイド」に変更。それに伴って、HPも全面的にリニューアル。これまでのHPとは、まったく違うものになった。次元が異なる。光の時代の光のガイド!これが、新しいキャッチフレーズ。目指すのは、新しい時代の新しいガイド!光のスピリチュアルガイド。1月9日に水晶とブレスレットの新しいネットショップを立ち上げた。屋久島ライトクリスタル。それが、2012年光の時代のすべて一新の第一弾。今回が、第二弾。第三弾は、たぶんこの日記になるだろう。100万アクセスを達成したら、楽天から別のところへ移る。その際に、何らかのリニューアルがあるだろう。今年は、すべて一新する。時代が、まったく変わってしまった。古いものも、まだ残っている。しかし、それは残滓。もう力はない。壊れゆくもの。消えていくもの。古い時代の名残。既に終わったもの。まだ過去の残像に怯えている人は多い。しかし、後ろを振り向かないこと。前を向いて歩くこと。そうすれば、そこには光がある。後ろを向く時にだけ、影がある。過去を見る時にだけ、自分の闇が見える。前を向けば、今ここの時点に立てば・・・闇は、一欠片(ひとかけら)もない。自分のなかの闇は、すべて過去の残滓。自分がつくってしまった思い込みの反応。今には、闇はない。今には、何もない。何もないところに、すべてがある。すべては、目の前にある。新鮮にある。その新鮮なものを古くしているのは、記憶。過去のフィルターで見る時、今の景色は色褪せたものとなる。今の新鮮さは跡形もなく消え、セピア色の古ぼけた写真が残る。旬の初々しさは、既成概念に姿を変える。今だけにあるいのちの滴(しずく)は、瞬時に蒸発する。実際にあるのは、この瞬間のみ。瞬間という概念さえない。ただ在るだけ。在るということもなく、在るだけ。山は、大きい。圧倒的な存在感で迫ってくる。空は、広い。どこまでも気持ちが広がっていく。海は青く、滝は白い。草木は緑に輝き、鳥たちは軽やかに歌う。春は、すべてのものが活き活きとする。風でさえ、なんとなく花の香りがする。過去を手放し、今に生きる。今は、ゼロ。何もない。だから、いつでも新しく始められる。常に新鮮。常にスタート。気持ちしだいで、いつでもリニューアルできる。それを阻むものは・・・惰性!重たく、暗く、固い心身。遅い波動。エネルギーの欠如。極力手放して軽くなることだろうか。たくさん着込んでいては、身動きがとれない。息が詰まってしまう。身軽な方が動きやすい。必要なものは、そのつど手に入れればいい。所有する必要はない。たくさん所有するから重たくなる。活用すればいいだけ。やがて、所有したものに所有される。お金、物、地位、名声、知識、信念、信仰・・・ミイラ取りがミイラになる。お金や物の奴隷と化す。自分を支えるための信仰が、自分の自由を縛る。地位や名声が、新しいことへのチャレンジを押しとどめる。お金や物をたくさん持って豊かなはずが、それらを失わないために汲々とする。知識をたくさん持つことによって、感性が死んでしまう。人は、裸で生まれて裸で死ぬ。常に裸でいるのが、一番楽。必要な時に必要なものを使えればいいだけ。所有すれば、所有したものに所有される。肉体も人格も借り物。この世限りのもの。可変的なもの。そういうものに所有されないことだろうか。精神の自由の確立。確立と言うには、形のないものだが・・・限定なき精神の自立。固定を外すこと。フォーカスを変える。自由にフォーカスできる精神のしなやかさ。一つのことだけに固執すれば、精神は自由を失う。もっと大局から見守る。見守りつつ今を生きる。自由の空間のなかで、限定なき今を生きる。何かにフォーカスすることによって限定が生まれる。自由にフォーカスを変えるしかない。地球は太陽の周りを回り、太陽は銀河の旅をする。同じように回っていても、同じところにはいない。銀河もまた宇宙の旅をしている。生々流転の時間のない旅が続く。『やわらかな 風の触感 春霞 鳥は喜び 蕾(つぼみ)膨らむ』『今ここは 常に新鮮 新しい 思い立ったら いつも吉日』『新しい 光へ向かう UFOに 乗りたかったら 身軽になること』これが日記を書き始めて2634日目の心境。
2012.03.20
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今日は、朝からさわやかに晴れている。雄のカラフルなキジが、庭を散歩していた。写真を撮ろうとしたが、すぐに草むらに隠れてしまう。車で近づいても逃げないが、人が近づくとすぐに逃げる。こちらは、昨夜から目が激痛。やむなく水晶の浄化に行く。持って行ったのは、昨日届いたビーズたち。サンストーンやアンデシンやブルームーンストーンなど。ゴールドルチルやスギライトなども買ったら、軽く20万円を超えてしまった。水晶原石であれば20万円分と言えば、すごい量になる。しかし、ビーズはほんのわずか。その分、浄化は楽。ビーズをまず海で浄化する。海水は、そんなに冷たくはない。しかし、川の水はまだ冷たい。ビーズを入れたザルを川に置いて、こちらは隣の海岸へ。隣の海岸は、砂浜。裸足になって歩く。目が痛い時は、これが一番。ふかふかの砂の上を歩くと、この上なく気持ちがいい。目の前に種子島が見える。海の上には、大きな貨物船が浮かんでいる。海は青く、波は白い。砂浜の上に鳥の足跡があった。自宅から車で5分のところに、美しい海岸がある。透き通る川もある。1時間も行けば、山も滝もある。すばらしいところに住んでいる。こんなに良いところに住んでいるのに、パソコンばかりしていてはもったいない。もう少し自然のなかに入った方がいい。これからは、それが楽にできる季節になる。冬の間は、さすがに寒い。ここのところ、ものすごくパソコンに弱くなっている。正確に言うと、電磁波に弱くなっているのだろうか。全身が微妙にしびれる感じ。原因は・・・心身が繊細になっているからだろうか。車を運転していても、心ここにあらず。なんとなくぼんやりしている。もっとも、隣に人がいる時は別。その人が、しっかりこの世に引き留めてくれる。そういう意味では、ガイドに支障はない。でも、一人で運転している時は心許ない。半分ぐらいしかグランディングできていない感じ。そうなると、当然、執着も減る。元々それほど執着はないが、更にファジーになっている。物質次元に対する囚われが、どんどん薄くなっている。別に死ぬ感じはしない。死ぬと言うより・・・むしろ生死を超えるという感じ。死というのは、生の対極としてある。生に対する囚われが強いほど、死に対する囚われも強くなる。生に対してそれほど囚われなくなると、死に対してもそれほどこだわらなくなる。生も死もない。時間もない。永遠の今があるだけ。その永遠の今のなかに、時間がある。生死もあり、歴史もある。成長や進化もある。無限のなかに有限の宇宙がある。空のなかに色がある。色の世界は、変化の世界。千変万化の形の世界。時間をベースにした宇宙・人間ドラマの世界。それはそれで面白い。しかし、それにはまり込みすぎると、悲哀が生まれる。執着すれば、苦しみが生じる。ほどほどに楽しめば、人生も悪くない。落ち着いて、ゆったりと生きることだろうか。何事にものめり込みすぎないことだろうか。のめり込みすぎると、視野狭窄になる。そうすると全体が見えず、自分を見失う。何をやるにしても、全体を見、自分を見る。小さな世界にはまり込まない。雄大な宇宙と共に生きる。全体と共に個を生きる。『全体と 共にゆったり 生きていく 時空を包み 歴史を包み』これが日記を書き始めて2629日目の心境。
2012.03.15
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今日の屋久島は、寒い。かなり気温が低くなっている。天気は、明るい曇。三寒四温が続いている。昨夜、嬉しいメールが届いた。以前にも紹介したことのあるYさんからのもの。すばらしい意識の変化が起きているらしい。驚くほどの速さで変化している。------------------------------------------------------今日はご報告です。一昨日、魂のレベルで次元上昇が起きたようです。kimiさんに屋久島で光を入れてもらった後、皇居近くでの光の写真を見てもらい、使命を授かったのでしょうというメッセージをいただきましたよね。その時は、一体何の使命なのかわからなかったので、答えがわかるのをしばらく待っていました。一昨日、答えが出たんです。あの光の写真の後、強力な二人のサポーターが出現しました。そのお二人の力を借りる形でしたが、極めて強力な力で上に持っていかれました。二ヶ月の間に様々な偶然が飛び込んできて、それに動かされるような形でした。でも、面白いのは、一つ一つの言動が試されていた試験のようで、それを一つ一つ丁寧にクリアしていったことで、すごいご褒美を頂くことになりました。次元上昇が起きたと感じたのは、その瞬間、まるでボトルをよく振ったシャンパンキャップを開けた時のように、音を立てて次のステージへの扉が開き、キラキラしたものが内側から溢れ出てきたんです。魂のレベルでどうなったかというと、私は今までいろいろと感覚が敏感で、特に悪いエネルギーに影響を受けた時は具合が悪くなってしまう程だったので、ネガティブな波動には近づかないことで、自分をプロテクトしてきました。しかし、今回、極めて高い波動をもつ二人に二ヶ月の間、毎日のようにサポートしてもらう中で、次のステージが見えたんです。もうそれは、闇をも跳ね返す強い光を放ち、さらに闇を癒して光に変え、天にあげるだけの強さが存在するのを間近で見ることになったからです。今までは自分をどうやってプロテクトすればいいのかということを考えてきたのですが、それは間違いでした。もちろんプロテクトも時には必要ですが、それよりも自分自身の波動をさらに高いレベルにまで上げて行くことの方が、もっと重要だということに気づきました。そして、何かを考える時、それは宇宙、地球、そして全人類の利益となることがすべての中心となります。もちろん自分や家族も大事ですが、天の意にそって行動をすれば、それは自ずと自分や自分の家族にも利益となって戻ってくるので、何の心配もありません。集合意識の中で、自分はその一部に過ぎず、やるべきことは全体を整えることだというのが理解できました。この感覚を当たり前のように持てるようなり、自分の目指すエリアのビジョンが見えたことが今回起きた変化です。アセンションが何を示すのか私にはよくわかりませんが、12月にkimiさんにお会いした時、すでに昨年の10月から密かに始まっているとおっしゃってましたね。世界の至るところで、すでに光のリーダーたちが動き始めているのではないでしょうか。Kimiさんの光のガイドによって次元上昇する方が、他にもたくさんいることと思います。厳しい試練が課されるのでクリアできるかどうかは本人次第ですが、次元上昇するには既にその次元にいる方からの助けが必要です。私も何とかクリアはしましたが、いくつか失敗もしました。お力を貸していただきありがとうございました。これからさらに大きな課題が待っていますが、がんばります。ではまた。------------------------------------------------------「何かを考える時、それは宇宙、地球、そして全人類の利益となることがすべての中心となります。」まさにその通り!それしかない。私利私欲なんか、小さい小さい・・・「やるべきことは全体を整えることだというのが理解できました。この感覚を当たり前のように持てるようなり・・・」それが当たり前になるということは、自我を卒業したということ。自我を超えて全体と共に生きるということ。二ヶ月でここまで来るというのは、すごい!の一言。よくこの心境まで深化したもの。自分で願ったこととはいえ、すばらしい!真に願えば、何事も実現する。これから、このような方が増えてくるだろう。目覚める人が増えることによって、時代は変わっていく。人の意識が物質や肉体に閉じ込められた時代が終わる。意識が物質や肉体を自由にコントロールする時代となる。東日本大震災以降、深い悲苦を感じるようになった方も多い様子。しかし、大切なことは、それらに振り回されないこと。このメールにもあったように、プロテクトするのではなく、自分自身の光のレベルを上げること。そのようなものに左右されない次元まで意識の光をアップすること。影響を与えているのは、思念。思いの世界。それは、自分が思いの次元で生きているから。その次元を超えれば、そのような影響は受けない。思いの次元から離脱すること。思いの次元を超えること。それこそが、まさに自我からの自由。自我のベースは、思いの世界にある。思いの世界を超えて光の次元に生きる。光の次元と一口に言っても、いろいろある。とりあえずは、魂次元。魂と共にある次元。それは、全体と共にあることを意味する。私利私欲を超えている。私利私欲に興味がなくなり、全体のことを常に考えるようになる。全体とつながって生きるようになる。そういうサポートをするための、この日記。光のガイドも、水晶やブレスレットたちも同じ。目指す方向は、一つ。自我から魂の光へ。これから多くの人が目覚め、時代が変わる。それは、間違いない。まさに地球の夜明け。そういう時代に生まれ合わせた幸せ。全体と共に生きる幸せは、何ものにも代えがたい。それは、小さなマイホーム的な幸せの次元を超えている。マイホーム的な幸せは、いつ壊れるかわからない。それが、まさに今回の大震災。大震災が起きなくても、交通事故や疾病は日常的に存在する。小さなマイホーム的な幸せは、もろい。いつ壊れてもおかしくない。そんなものにすがっていても、安心立命は得られない。もっと自分の本質に還らないと。自分の本質のなかに幸せは元々ある。外に求める必要はない。その幸せこそが、個であり全体であるということ。全体と共に生きる。個を活かすことによって全体に貢献する。個も全体も共に花開く。それが、これからの時代。『自分さえ よければいいと 思うのは 小さな自我の 儚(はかな)い願い』『人々の 悲苦の思いを 感じたら それらを包む 光となること』『自我を超え すべてと共に 生きる時 個と全体が 共に花咲く』これが日記を書き始めて2626日目の心境。
2012.03.12
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今日は、3月11日。東日本大震災から1年。実は3月11日というのは、自分にとっては別の意味がある。それは・・・こちらは、9年前の2003年3月11日に屋久島に移住してきた。フェリーから外に出ると、山々にはまだ雪が残っていた。あれから9年。既に10回目のガイドのシーズンが始まっている。この9年間で大きく変わった。何が最も変わったかというと・・・世の中も変わったが、何といっても意識。意識が9年前とは、まったく異なる。それは、この日記を書き始めたから。最初の2年間は、屋久島に慣れるのに精一杯だった。少し余裕ができた2005年から、この日記を書き始めた。そして、7年が過ぎた。今の意識状態は、既に半霊半物質に近い。三次元で生きている人と、かなり距離感がある。交流はできるけれども、生きている次元が少し違う感じ。現実感が希薄。固定ではなくて、ファジー。かなり揺らいでいる。まるで海底の海草のよう。物質的な固定感が、どんどんなくなってきている。その分、意識が現実化しやすくなっている。意識と現実との境目が希薄になっている。次元の壁が薄れつつある。自分の意識がより投影されるようになっている。この傾向は、これから更に進むだろう。物質次元ではなくて、半物質次元で生きるようになる。自分の望む現実のなかで生きるようになる。それが、これから更に明確になっていく。日本は、昨年が大底。既に大峠は、超えている。後は、光に向かって一直線に進むだけ。これから更に加速度が付く。しかし、世界は、これから洗礼を受けることになるだろう。日本は、先駆け。世界の雛形。日本は、いい感じになってきている。東日本大震災によって、かなり膿が出た。それによって、日本人が本来持っているものが出始めている。和。隣人愛。お互いに助け合って生きるという雰囲気が、日本全体に満ちている。これは、すばらしい。このために大震災があったようなもの。しかし・・・まだ原発は、安定していない。放射能は、出続けている。原発再稼働を唱える人たちもいる。まだまだ物質ベースの人も多い。そういう人たちとは、だんだん遠くなっている。生きる世界が違っている。明らかに別の世界で生きようとしている。次元が異なる。物質からの解放。固定からの解放。観念からの解放。思い込みからの解放。この7年間やってきたことは、物質的な思い込みからの解放。物質化した意識を本来のスピリチュアルな意識に回帰させること。その結果、極めて軽くなっている。意識はファジーになり、ふんわりしてきている。光の時代の光の意識。これからは、それがメインになる。これまでの物質的な意識とは、乖離していく。更に軽く、更にしなやかになっていく。この感覚を言葉で表現するのは、難しい。例えて言えば、角のない四角のようなもの。物質的な角がない。やわらかくて、しなやか。一応の形はある。しかし、ファジー。常に揺らいでいる。固定してはいない。物質は、固定の世界。しっかり固定した関係を楽しむところ。しかし、それは両刃(もろは)の剣。固定して安定はしているが、それに縛られもする。変化が遅いので、固定したものだと思い込みやすい。物の形も関係性も。考え方も固定的になる。それが思い込みというもの。観念や信条を元に生きるようになる。信仰などの固定したものに拠り所を見つける。地位や財産に汲々とする。何につけても安定を求める。それが物質次元。この世というところ。しかし、それも大きく変わろうとしている。固定の魔法が外れようとしている。思い込みからの解放。物質からの転換。スピリチュアルな主体を取り戻す。物質に翻弄されず、自分ベースで生きられるようになる。時代は、根本から変わろうとしている。これまでと異なる意識状態が実現する。霊主物従。物主霊従の時代は、終わる。知識ではなくて、自分で感じながら生きることだろうか。感じながら、いろんなものと交流しながら生きることだろうか。物質も、物質の意識と交流しながら関わることだろうか。ただの物として関わらないことだろうか。人に対しても、その時その時、感じながら関わることだろうか。固定観念で接しないことだろうか。先入観を持たないことだろうか。もう観念の時代ではない。知識や観念を超えていくことだろうか。自分の感性を大切にしていくことだろうか。しなやかに揺れ動いている感性。この生きている感性を・・・『固定した 安定感を 望むのが この世の意識 物質ナイズ』『しなやかに ファジーに揺れる 精神が 物質からの 自由の証(あかし)』『繊細に スピード感を 伴って 変化していく 意識のままに』これが日記を書き始めて2625日目の心境。
2012.03.11
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三泊四日の旅の最終日。天気は、今にも雨が降りそうな曇。山の方は、雲に覆われている。間違いなく雨だろう。南の方が天気が良さそうなので、南にある石楠花(しゃくなげ)の森公園へ向かう。南に近づくにつれて、天気は回復。道路が乾いていた。公園の駐車場に着いた時には、雨の気配はまったく消えていた。昨日は、巨木の森でシャクナゲの蕾をたくさん見た。里では既に咲いているかと思ったのだが・・・ぜんぜん咲いていなかった。蕾は、巨木の森に比べると圧倒的に大きくなっていたが・・・公園のなかを奥まで歩く。公園は、川に沿ってできている。その川の美しいこと。水の色が、緑色。遠くを眺めると、山の中腹に白いものが見えた。山桜だろうか。南の方は暖かいので、開花したのだろうか。この辺りは、もう春という感じ。公園の一番奥まで行って、道路に出る。そこから橋を渡ると、小谷ヶ滝の入口がある。30分も歩けば、滝に着く。しかし・・・それには、それなりの覚悟がいる。ここから先は、道なき道。かなりハード。気合いを入れないと行けない。今日は、屋久島を離れる日。飛行機は、12時25分発。そんなに時間の余裕はない。滝は、次回に取っておく。今度来たら、川や海で泳ぎたいとのこと。シュノーケルで熱帯魚を見たい様子。夏場に来れば、滝も熱帯魚も見放題。四季折々、いろいろ楽しめる。10時半頃に公園を出て空港へ向かう。南の方は、青空が見えていた。しかし、北へ近づくにつれて小雨が降り出した。屋久島の天気は、場所によってまったく異なる。途中でブレスレットの浄化をする。この川へ来るのは、3回目。ほとんど毎日のように来ていた。メインは、隣の砂浜を裸足で歩くことだったが・・・車での行き帰りに、またたくさん話をした。徹底的に話した。自分のこれまでの生き方を再確認してもらった。それは・・・自分に正直に生きてこなかった人生。周囲に迎合した38年間。自分を偽り、ウソの自分で生きてきた日々。そのために本当の自分がわからなくなってしまった。もう一度ゼロからやり直すしかない。自分を見つめながら、自分は本当は何をしたいのかを探す。一つ一つ手探り。試行錯誤の始まり。それは、自分自身で始めるしかない。常に自分を見守って、周りに迎合しようとする自分に気づく。もうそれが習い癖になっている。まるでそれが自分の本性のようになってしまっている。だから不注意であれば、すぐにいつものパターンになってしまう。よほど注意していないと、これまでの癖を乗り超えるのは難しい。一歩一歩やるしかない。そうしない限り、本当の自分に辿り着くことはできない。今のままでは、偽りの自分のままで一生が終わってしまう。それでは、今回生まれてきた意味がない。もう一度生き直さないと。人生を転換しないと。彼女は、話した内容は秘密にしてほしいと言った。残念でした!既に日記に公表されています。もう秘密にする時代ではない。みんなで共有する時代。共有することによって、お互いに学び合う。他人(ひと)の経験は、自分の経験。基本構造は、似ている。他人(ひと)の経験から自分も学ぶ。それでこそ各自の経験が活きる。よく話して、彼女も納得。「他人(ひと)の役に立つのなら嬉しい・・・」この日記を両親にも読んでもらうように言う。もしかしたら既に読んでいるかもしれない。父親は、時々、こちらの日記を読んでいるらしい。両親も子育てを通して気づくことが、まだ残っている。子供が自立しない限りは、両親にもまだ学びが残っている。まだ気づいていないことがある。子育ては、親育てでもある。子育てを通して、親も人として成長していく。人は、成長過程で圧倒的な親の影響を受ける。しかし、そのままでは終わらない。普通は、反抗期というものがある。それは、これまでの親の影響から離れようとする時期。親の言うままにならず、自分の足で立とうとする。それは、極めて大切なこと。そうでない限り、自分自身を生きることはできない。親の言うなり。人は親に育てられ、小さいころは親の影響下にある。しかし、成長するにつれて自己を主張するようになる。それが、自然の成長プロセス。ところが・・・あまりにも親の押しつけが強いと、素直に自分を主張することができにくい。親に迎合したまま大人になってしまうこともある。そうなると、自分自身を生きることのできない大人ができてしまう。いつも周りの顔色ばかりを気にする大人になってしまう。自分というものが曖昧。自分を信頼できない。その結果、周りをも信頼できない。そうなると、びくびくして生きることになる。それが、対人恐怖であり、アダルトチルドレン。それが、今の彼女。これまでの38年間。その総括をするために、屋久島へ来た。自分の人生を振り返ることは、意味がある。これからいかに生きるかを再検討できるチャンス。彼女の場合は、生き直し。本当の自分で生きるための転換。いかに自分に正直に生きることが大切か。いかに自分にウソをつかないことが大事か。それなしでは、人生はほとんど意味がない。いかに真実の自分を生きるか・・・真実の自分とは、何か。周りに迎合しないとは、どういうことか。単に自己主張することではないのは、明らか。それは、単なる我が儘。深い自分を生きること。表面の浅はかな自分を生きないこと。表面の浅はかな自分こそが、周りに迎合する自分。それは、本質的に生きないで、保身のために小手先でごまかしている自分。そのような生き方をしている人の、なんと多いことか。自分の真実を生きている人の、なんと少ないことか。それは、彼女一人の問題ではない。多くの人に共通する問題。程度の差はあれ、多かれ少なかれ彼女と似たようなものを持っている。つまり、周りに迎合してウソの自分で生きているということ。本当に自分の真実で生きていると断言できる人が、何人いるだろうか。多くの人は周りに迎合し、周りと妥協しながら生きている。なに?それしかできない?それが普通?自分を生きるなんて無理?できないと思えば、できない。無理だと思えば、無理。逆に・・・できると思えば、できる。不可能ではない。人生に不可能はない。やりたいということは、可能性があるということ。本当にそのように生きたかったら、それは可能。あらゆることが、可能。そういう時代になっている。自分の望むとおりの人生を生きる。それは、浅はかな自我我欲の人生を意味しない。自分に正直に生きるということは・・・自分に真実に生きるということは・・・自分の深い意識に忠実に生きるということ。表面意識に翻弄されないということ。表面意識は、この世の意識。この世を生き抜くための意識。それも必要。しかし、それだけでは足りない。深い魂レベルの意識がいる。その時に、初めて人は満たされる。深い深いやすらぎを感じる。自分の真実を感じる。それこそが、自分のルーツ。自分の意識の故郷(ふるさと)。この世的な意識が、自分の故郷ではない。自分の本質は、もっと深いところにある。いかに深く生きるか。いかに自分自身にグランディングして生きるか。彼女を見ていると、浅い。呼吸も浅いし、反応も浅い。深いところで生きていない。表面で生きている。意識の表層だけで生きている。もっと深い意識で生きないと・・・深い意識のみが、大きな意識につながっている。大きな意識のみが、宇宙とつながっている。宇宙とつながっている意識のなかに、やすらぎはある。表面意識のなかに、やすらぎはない。表面意識は、この世に適応するための意識。その意識を使って、深い意識が働く。それが、人の意識の仕組み。例えて言うと・・・表面意識は、十二単(じゅうにひとえ)の一番外側の着物のようなもの。そこは常に外気と触れているので、温(ぬく)もりを感じることはできない。内側の着物にこそ、温もりが感じられる。着物の一番奥には、本体がある。それは、着物とは異なる。意識の本体。多くの意識を纏(まと)っている本体。それこそが、真の実在。人は、それを神と呼ぶ。真理とも真の実在とも呼ぶ。何と呼んでもいい。真なるものは、変わらない。そこをベースに生きること。そこをベースに生きないと、人生は虚しくなる。多くの人が、快楽に溺れた。しかし、その末路は憐れなもの。肉体の快楽に溺れれば、意識は空虚になる。深い意識と共に生きる時にのみ、人は満たされる。物質に溺れ、肉体に翻弄されてきた人類。それが、これまでの人類史。物質を理解し、肉体をマスターすることも必要。それは、地球で生きるための必要条件。その必要条件をマスターする過程で、それに溺れてしまった人類。ミイラ取りがミイラになってしまった人類史。そのことを理解し、それを超える時がきた。それが、今という時代。深い意識が花開く時。この世意識だけでなく、魂意識が現れる時。宇宙とつながり、多次元的に生きる時。表面意識に惑わされず、表面意識を使いこなす時。経験に溺れず、経験を活かす時。人類史を総括し、新たな人類史を創る時。人類史とは、まさに一人の人の人生に他ならない。一人の人のなかに、人類史は凝縮されている。自分自身を見ること。そこに人類史がある。自分は、人類の代表。自分は、魂の代表。自分自身のなかに、宇宙の始まりも終わりもある。自分と共に生きるしかない。『子は親の 鏡であれば 親もまた 子供見つめて 己に気づく』『外側に 翻弄されて 迎合し 浅く生きれば 自分失う』『真実に 生きるしかない 真実は 自分自身の 奥底にある』『人はみな 一人一人が 人類史 自分のなかに すべてが宿る』これが日記を書き始めて2619日目の心境。
2012.03.04
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三泊四日の光の旅の三日目。里の天気は、雨が降ったり止んだり。しかし、天気予報では、だんだん回復するはず。そのつもりで、巨木の森へ向かう。行く途中は、山には雲がかかっていた。しかし、だんだん雲が途切れ、天気は回復。登山口に着いた時には、すっかり雨は上がっていた。駐車場には、車が2台駐まっていた。森のなかは、静かだった。空気は、ひんやりとして澄んでいた。小鳥の声がしていた。大きな杉に次々と出会っていく。巨木たちは、人の心を大きくしてくれる。何千年の月日を生きている屋久杉たちは、スケールが大きい。人間のちまちました日常意識を払拭してくれる。心が伸びやかになる。行く時には気づかなかった花を、帰り道ではたくさん発見した。屋久島固有種の大五加葉黄蓮(オオゴカヨウオウレン)が群生していた。海抜1400メートルなので、心なしか花が小さい。雪のなかでも咲く可憐な花。森のなかでは、対人恐怖やアダルトチルドレンのことは、あまり話さなかった。ただ自然に触れ、自然を楽しんだ。大きな自然。人を包み込んでくれる大自然に浸った。車中では、たくさん話をした。この日記に書かれていることは、そのほんの一部。この何十倍も話をしている。それは、徐々に彼女の潜在意識に浸透している。ヒラヒラと光が舞い落ちる。潜在意識の闇のなかに光が舞い落ちる。潜在意識の奥で眠っていたものが刺激される。やがて、人の真実が目覚める。彼女の問題は、何か。それは、過度に周りに迎合したということだろうか。周りに迎合しすぎて、自分を見失ってしまったということだろうか。今の現状は、外主内従の結果ではないだろうか。親の期待に応えようとしたのかもしれない。良い子ブリッ子しすぎたのかもしれない。周りを気にしすぎたのかもしれない。自分がどう思われるかが心配だったのかもしれない。いずれにしても、意識が外を向きすぎてしまった。自分を外に合わせてしまった。本来の自分を押し殺してしまった。その結果、自分を見失ってしまった。他人(ひと)に迎合しすぎた結果、他人(ひと)が怖くなった。他人(ひと)の目を気にしすぎ。周りによって自分が翻弄される。というか・・・過度に周りを意識するあまり、考えすぎて自滅するのかもしれない。空回り。自家中毒。同じところをグルグル回っているだけ。その現状を親のせいにする。親のせいにして自己正当化する。身を守るために自分を犠牲者にする。それは、更に自分を惨めにする。親にも問題がない訳ではない。我が子は、可愛い。可愛さ余って、子供を自分のものと思ってしまう。自分の望み通りに育てようとする。親は、言う。すべて子供に良かれと思ってやったこと!確かにそうかもしれない。子供を思っての厳しいしつけだったかもしれない。しかし、そのなかに自己投影がなかっただろうか。自分が実現できなかった夢を子供に託していなかっただろうか。自分にはできなかったことを子供にはやってほしかったかもしれない。自分では気づかない支配や所有があったかもしれない。はっきりしているのは、子供の本来性を引き出そうとはしてこなかったということ。子供を自分の望む枠にはめようとしてきたということ。自分の思う通りの子供にしようとしてきたということ。子供の本性を尊重してきたとは言いがたい。それは、社会のなかでより良く生きていけるようにという親心かもしれない。しかし、それが過ぎると、子供の本質が歪められてしまう。角を矯めて牛を殺す結果となる。度が過ぎた社会適応は、子供の個性を殺す。社会に適応することも必要。しかし、それはメインではない。自分を活かすことが、最も重要なこと。それによって社会に貢献するのが、本来のあり方。子供を社会の枠にはめようとする。それが、今の社会。それが、今の受験戦争であり、学校教育。それは、明治時代から続く富国強兵策の延長。産業界からの要請で、子供を企業の役に立つように育てる。学校教育は、ほとんど職業訓練化している。子供の個性を伸ばす教育とは言えない。それは、外的生活を豊かにすることだけに意識が向きすぎた結果。それが、今の人類の現状。外的環境に意識が向きすぎ。地球の物質的環境を理解することも必要。しかし、それだけでは足りない。外側の環境は、生きるための必要条件。しかし、それはあくまで前提でしかない。本質ではない。本質は、内なるものを花開かせること。内なるものを外に現実化すること。人のなかに宿る真実を物質次元で実現すること。自己実現。人の真実の花を開かせる。子育ても学校教育も、外面重視。内面軽視。社会適応ばかりに気を取られて、内面を花開かせることがお留守になっている。それが、多くの精神的問題を生み出している。彼女に車中で話したことは、親も未熟であると言うこと。完璧な親はいないということ。親も子育てを通して育っていく。子育ては、親育てでもある。親は未熟にもかかわらず、自分の価値観を子供に押しつけようとする。自分の限られた経験から正しいと思うことを子供に強いる。その結果、子供の本来性が育つのが疎外される。真っ直ぐに伸びようとする芽が、歪められてしまう。親も未熟。しかし、それが親のせいにする理由とはならない。なぜなら、どこの親も未熟だから。すべての子供が対人恐怖やアダルトチルドレンになる訳ではない。親は、あくまで縁。因は、自分自身にある。外に迎合しすぎたということ。その結果、自分を見失ってしまったということ。自分の真実を生きずに、外に流されてしまった。そういう過去世がある。それは、悔いが残る過去世。だからこそ、今生は自分自身を生きたい!にもかかわらず、また同じような人生を送っている。周りに迎合し、自分をなくしている。周りばかりを気にして、自分の真実を生きていない。自分が信じられず、自分自身がわからない。もう一度、ゼロからやり直す。生き直し。外ではなくて、内を見つめ直すしかない。外ではなくて、内に依拠する生き方に切り替える。一旦白紙に戻して、もう一度、自分自身を見つめながら生きる。自分を感じ、自分を探りながら生きる。外ではなくて、内に意識を向ける。他人(ひと)にどう思われるかではなくて、自分がどう感じるかを大切にする。180度生き方を変える。方向転換。外主内従から内主外従へ。自分の主体性を確立する。それは、新しい旅立ち。自分探しの旅。これまでの人生は、反応の人生。ただ外側に反応してきただけ。内なる真実を生きる。内なるものを外に表す。それが、人が生きるということ。自己表現こそが、人生。ただ生き残るのが、人生ではない。人生は、サバイバルゲームではない。生き残るのは、必要条件。しかし、十分条件ではない。生き残り、内側を花開かせてこそ、必要十分条件。それでこそ生きている意味があるというもの。自分自身を花開かせる。それこそが生きるということ。精神的に問題がある人は、根本が間違っている。外主内従。自分の本質を生きていない。自分の真実を生きないで、外に迎合しているだけ。にもかかわらず、社会的不適合。ヘンな話ではある。外側に迎合しすぎると、そのうちに内側を喪失し、その結果、外側にも適応できなくなる。過ぎたるは及ばざるが如し!内主外従。内をメインにしない限り、内も外もなくしてしまう。あくまで内がメイン。外は、後から付いてくるもの。大切なことは、まず内を育てること。社会的適応は、内が育てばどうにでもなる。内が育つ前に社会的適応だけを強調すれば、内が枯れてしまう。親が良い子という枠にはめようとすることは、育つ芽を刈り取るようなもの。いかに内なる芽を育てるか。いかにその子の本質が出るように育てるか。その本質こそが、神の精髄。一人一人のなかに流れる宇宙の真実。人類は、まだ未熟。親も未熟。子も未熟。すべてが未熟。外主内従から内主外従へ。体主霊従から霊主体従へ。物質化から精神化へ。それこそが、アセンション。流れが変わる。方向が転換する。物質化から霊化へ。この世バージョンからスピリチュアルバージョンへ。自分の真実を生きる。自分自身を生きる。それこそが、これからの最大のテーマ。そのために・・・彼女の38年間があった。真実に生きるために。本当の自分を生きるために。目覚めるために・・・苦しみは、目覚めるための揺り籠。困難は、真実に至るための道標(みちしるべ)。自分を見失うことは、真の自分を発見するための前提。古いものは崩壊し、新しいものが立ち上がる。彼女は、もう一度、ゼロからやり直す気になっている。まだ人生の半分が残っている。これからが、本番。これまでは、準備体操。これまでは、真実に生きるための前菜。ちょっと苦い前菜だったが、その分、メインの料理が美味しくなる。ネガティブ思考は、身を守るための単なる癖。もうそのような鎧はいらない。自分を守るための心の壁もいらない。壁が厚すぎて、今のままでは窒息してしまう。そのようなものは全部採り払って、ありのままの自分で生きる。自分を信頼して、ありのままの自分自身を生きる。もうウソの自分はいい。いつまでも良い子ブリッ子してもしかたがない。仮面舞踏会は、終わり。これからは、素顔の自分で生きる。彼女は、人類史そのもの。外主内従の人類史の結果。それは、物主精従と言ってもいい。体主霊従とも言える。いずれにしても物や肉体に重点を置きすぎ。外側に意識が向きすぎ。それを転換することが、アセンション。方向が逆転する。内なるものを育てる。内なるものを花開かせる。内なるものを外に表現する。内にあるごとく外もあるべし。『外側に 意識が向けば 内側が お留守となって 自分喪失』 『外側に 振り回されて 一生が 終わってしまう 気をつけないと』『内にある ものを表す ことこそが 真の人生 生きるということ』『生き残る だけでは人生 不十分 自分の花を 咲かせなければ』これが日記を書き始めて2618日目の心境。
2012.03.03
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朝から雨が降ったり止んだりしていた。ホテルに彼女を迎えに行くと、とても元気そうだった。三泊四日の旅の二日目は、木霊の森へ。北の方へ向かうにつれて、天気は回復。白谷雲水峡の駐車場に着いた時には、ほとんど降っていなかった。しばらくすると、一面霧に覆われた。それから、また雨が降り出した。ゆっくりと木霊の森へ向けて歩き出す。最初の大岩で、瞑想。自分のなかから出てくる思いを見守るように伝える。小雨のなか、一人で座ってもらう。こちらも、少し離れたところで瞑想。瞑想していると、どんどん雨が激しくなった。最後には、土砂降りに。それでも、そのまま瞑想を続ける。30分ぐらいして、立ち上がって歩き始める。しかし、雨はひどくなる一方。ほとんど夕方のように暗くなった。その上、雷まで鳴り出す。あまりにも悪天候なので、このまま進むか、それとも引き返すか彼女に聞く。彼女は、引き返したいと言った。その前に眠いとも言っていた。眠いままで悪天候のなかを歩くのは、危険。引き返すことに。帰り道は、あちこちが泥水で溢れていた。道が川状態。とんでもない大雨。ここまでの雨は、久しぶり。外ではカッパを脱げない状態。やむなく車のなかで脱ぐ。彼女の靴は、びしょ濡れ。ゾウリに履き替えてもらう。駐車場から下がるにつれて、雨は小雨になった。周囲も明るくなった。もしかして里は降っていないのでは?里に着くと、雨は既に止んでいた。ちょうど昼頃だったので、屋久杉自然館のなかの杉の茶屋へ行く。ここは、近所の人が経営している。いろいろ世間話をしながら昼食。娘さんが嫁いでいるインドネシアやシンガポールの話をしてくれた。あちらでも新しいコミュニティの形ができつつあるらしい。みんなの総力を結集した形で、庶民パワーで賑わっているとか。ヨーロッパの経済危機とは関係なく、自立的な経済発展をしているらしい。フィリピンやインドネシアなどで年金暮らしをする日本人も増えているとか。昼食の後は、kimi水晶館へ。たくさんの水晶を見てもらう。もちろん、水晶見物が目的ではない。水晶よりも、もっと大切な話がある。いろいろ話をした後、彼女の生年月日を聞く。生まれた時間も場所もわかっていたので、それで星の配置を見る。太陽と水星と金星と木星が、水瓶座だった。これでは、八割方水瓶座人間。もう一つの注目点は、土星。こちらは、双子座。双子座は、その名の通り二面性がある。良くも悪くも単純ではない。良く言えば、複眼。常に別の見方ができて、一つのことにのめり込まない。物事を冷静に客観的に見られる。しかし・・・悪い面が出ると、本音と建て前が異なる。顔で笑って心で泣いて・・・これこれ!これこそが、まさに彼女。土星は、カルマを表す。つまり、過去世から顔で笑って心で泣いていたということ。二面性があったということ。自分のなかが統合されていなかったということ。本音で生きてこなかった。外面を絶えず気にしていた。周りに迎合して自分を押し殺してきた。自分がどう思われるかばかりを気にして生きてきた。それは、今生だけの問題ではなかった。過去世からの課題だった。だからこそ、その課題をクリアーするための環境設定をして生まれてきた。それが、今の両親。過去世と同じ状況はできた。そこまでは、成功。しかし、そこでストップ。まだ過去世と同じまま。自分に正直に生きれていない。対人恐怖で、自分をありのままに出せない。外面と内面が、まるで異なる。外面は、カワイコぶりっこ・・・でも、実際は心を開いていない。誰も信頼できない。常に緊張している。リラックスできない。彼女は、常に心身共に緊張している。それが常態なので、自分ではそのことを自覚できていない。しかし、こちらから見ると、それが手に取るようにわかる。長年、いろんな人を見てきているので、一目瞭然。このままでは、過去世と同じパターン。この38年間は、過去世とまったく同じ。さて、どうするか。もちろん、このままでいいはずはない。幸いなことに、彼女は水瓶座を多く選択してきている。水瓶座の特徴は、冷静で知的。つまり、今の自分の状態を冷静に理解することができる素地がある。そこまで用意周到に準備されている。そして、今、屋久島に来ることも。屋久島で、自分の状態を理解するサポートをしてもらうことも。すべて準備して生まれてきている。後は、それを最後まで仕上げられるかどうか。自分の状態を冷静に見守る。感情のままに自分を見失わない。できるだけ自分に正直に生きる。外面と内面を統合する。自分のなかに矛盾があると苦しい。内面と外面が違っていると、心身共に混乱する。本音と建て前が違っていたら、素直に自分を表現できない。自分に素直になれないから、自分を信じられない。自分を信じられなければ、他人(ひと)を信じることもできない。他人(ひと)を信じられなければ、他人(ひと)に心を開くこともできない。他人(ひと)に心を開けなければ、孤独で寂しい。彼女は、ずっと寂しかったとのこと。すべてが悪循環。それは、過去世でも度々経験したこと。だからこそ、今生でクリアーしたいと願ったに違いない。だからこそ、似たような状況を設定してきた。ここまでの人生は、予定通り。しかし、過去世からの課題を乗り超えるところでストップ。過去世からの課題は、高い壁。さて、どうするか。先ずは、自分自身の現状を客観的に冷静に理解するしかない。深く理解して、乗り超えていく。他人(ひと)のせいにしているだけでは、まったく理解にはほど遠い。それでは、何も問題は解決しない。絡んだ紐を一つ一つ解いていく。最初のゼロポイントまで戻す。最初からやり直し。ゼロから再スタート。38年間は、準備期間。これからが、本番。これからが、今生に生まれてきた意義を問われる時。この課題を乗り越えられるかどうか・・・乗り超えられれば、今回生まれてきた意味があったということ。もし乗り超えられなければ、また生まれ変わって再挑戦する必要が生じる。選択肢はない。乗り超えるしかない。そのために、わざわざ生まれてきたのだから。過去世からの課題を乗り超え、新しい地平を切り開くために生まれてきた。そのためにいろいろ状況設定をしてきた。多くの縁のある方たちに協力してもらった。ここから。これから。新しい挑戦が始まる。もう一度生まれ変わって生き直す。38歳の再出発。ここまでは、彼女も理解できた様子。彼女は、再出発する気になっている。屋久島の二日間で、確実に意識は変化している。残り二日。さて、どのようになるか。それは、わからない。人生は、わからない。でも、方向性は、はっきりしている。自分に正直に。深い心で生きる。そうでない限り、かならず行き詰まる。深い意識がストレートに表面に出てくることが、最大の幸せ。深い意識と表面意識が矛盾していると、苦しい人生となる。素直。正直。ストレートに本音を吐露できることが、いかに幸せか。その本音の出所が深ければ深いほど、人は幸せに満たされる。それは、魂と一体であり、神と共にあることを意味する。自分の真実であることを意味する。ストレートに魂とつながり、神とつながる。それに優るものはない。その魂の気持ちを、神の気持ちを、地上に表すのが人の役割。人は、魂や神の代理人。地上における神の代理人。それこそが、人の本質。肉体に宿った霊止(ひと)の真実。そのためには、自分に正直に生きるしかない。 『親が子を 抑え込むのは 子に宿る 無限のものに 蓋(ふた)をすること』 『子に宿る 無限の神の 可能性 引き出すことが 親の役割』 『内にある ものを地上に 現実化 するのが人の 真の役割』 『真実は 人とは神の 代理人 地上における 神の働き』 『内側の 深い真実 出すために 自分にウソを ついてはいけない』 『外側に 負けて心を 閉ざす時 真実(まこと)に生きる 道が断たれる』 『圧力に 負けずに深い 真実を 出すことこそが 真の人生』 『真実に 生きるためには 正直に 素直に生きる 自分自身に』 『人はみな 神の地上の 代理人 深い意識で 生きるしかない』 これが日記を書き始めて2617日目の心境。
2012.03.02
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今日は、3月1日。新しいガイドシーズンの始まり。今回で10回目。屋久島に来て10回目の春を迎えようとしている。今日は、朝から激しい雨が降っていた。しかし、お昼頃には止んだ。今日から三泊四日のガイド。11時20分着の飛行機で、無事にお客さんが到着。彼女は、もう10年以上前から知っている人。彼女の家に泊めてもらったこともある。お父さんもお母さんも屋久島に来ている。家族ぐるみの付き合い。もう少し暖かくなってから来るように言っていたのだが・・・彼女は、待ちきれなかった様子。彼女には、対人恐怖とアダルトチルドレンがある。そのため、仕事も人間関係もスムーズにいかない。最初に永田いなか浜へ行く。雨が止み、青空が顔を出す。寒くもない。早春の雰囲気。砂浜を裸足で歩く。時々、波が足下までやって来る。海水も、そんなに冷たくはない。誰もいない砂浜をのんびり歩く。一番奥まで行って、彼女は昼食。こちらは、お昼寝。久しぶりに自然のなかで昼寝する。最高に心地良い。彼女は、親のせいで今のような自分になったと思っている。みんな親が悪い。親の顔を見ると気分が悪くなる。オヤオヤ・・・アダルトチルドレン関係のセミナーに出ると、親を許すように言われたとか。親を許す?ハー、あなたは何様?何とも態度がでかい。親は、許すもの?それとも、感謝するもの?その感謝ができないと嘆いていた。誰にも心が開けないらしい。こちらは、親のこともよく知っている。自分と同じ世代。とても真面目な人。社会的信用もある。しかし、家庭では厳しかったらしい。高校生になるまで、自由にテレビを見ることも漫画を読むこともできなかったとか。確かに、それは厳しすぎるような・・・あまり自由のない幼少期を過ごしたようだ。しかも、それを素直に受け入れてしまう性格。自分を押し殺して親に迎合して生きてきたということ。その無理が祟って、対人恐怖になってしまった。幼少期の心の傷が、大人になっても尾を引いている。今の自分の状態を親のせいにしている限り、救われることはない。一生被害者のまま。それでは、暗く苦しい人生。これまでの延長。これまでの38年間は、とても辛かったとのこと。それが限界になって、待てなくて屋久島へやって来た。希望はある。但し、本人しだい。自分が頼んで親になってもらった。それは、過去世と似たような環境をつくってもらうため。そのなかで過去世から繰り越してきた課題をクリアーするため。親は、約束通り過酷な環境を準備してくれた。それは、親が悪いからではない。親は、頼まれた通りにしただけ。いやいや悪役を引き受けてくれただけ。その親に対して・・・恨むとは、何事か!許す?何を許すというのだろうか。親は、許してもらうようなことをしたのだろうか。しかも、親は既に謝っている。自分たちの子育てを反省している。そのために、いろいろ経費も使っている。今回の屋久島行きの費用も親が出してくれた。親は、感謝こそすれ恨む相手ではない。本末転倒!すべてが、あべこべ。しかし・・・これが、世間一般の認識。専門家も、そのように捉えている。だから、治らない。逆だから。確かに親に問題がないとは言わない。しかし、親はあくまで縁。けっして因ではない。そういう状況を吸収したのは自分自身。似たような環境でも、みんながみんな対人恐怖やアダルトチルドレンになる訳ではない。全員同じということはあり得ない。ネガティブなものを吸収しやすい性格というものがある。それは、親を縁として自分がつくりあげたもの。なぜつくりあげたか?それは、過去世からの課題をクリアーするため。わざわざ似たような状況を創作しただけ。自作自演。ここまでは、計画通り。だから何も問題はない。問題は、ここから。他人(ひと)のせいで終わらせるのか、それとも自分で責任を取るのか。他人(ひと)のせいで終わらせれば、救われる可能性はない。なぜなら、他人(ひと)のせいだから、人が変わらなければどうにもならない。たとえ他人(ひと)が変わったところで、既に対人恐怖やアダルトチルドレンになってしまっているので手遅れと思うだろう。被害者パターンが払拭されない限り、恨みの人生は終わらない。ネガティブパターンをいかに克服するか。それは、単なるパターン。身についた癖。しかし・・・何度も何度も繰り返してきたため、骨身に染みついている。今生だけでなく、過去世においても。だから根深い。だから根強い。だから、すぐにネガティブになりやすい。だから、簡単には変わらない。イージーに生きれば、過去世の繰り返し。それが一番楽ちん。しかし、それでは今回生まれてきた甲斐がない。同じことを何度も繰り返しても意味はない。この辺でクリアーしないと。そのために親にも一役買ってもらったのだから・・・このような話を車の中で彼女にした。彼女は、半信半疑。まだ十分には、理解できない。まだそこまでは付いていけないと言う。あと三日ある。残り三日も、きっとそんな話になるだろう。四日間そんな話を聞き続ければ、それなりに潜在意識に浸透する。真実は、強い。真実は、やがて思い込みを凌駕する。なぜなら、真実は光だから。思い込みは、闇。闇は、光に太刀打ちできない。闇に光が当たれば、闇は消える。本当のことがわかれば、思い込みは解消する。長年の心の癖。思い癖に過ぎない。ネガティブ思考。思考は、指向。指向は、嗜好。単なる好み。いろいろ試してみたかっただけ。ミイラ取りがミイラになってしまっただけ。それが、人類史。物質界を探検して、物質の虜になったのと同じ。過ぎたるは及ばざるが如し!物質にのめり込みすぎ。ネガティブにのめり込みすぎ。それを中道に戻す必要がある。バランスの取れた状態に戻す。それが、今生の課題。それこそが、今生の使命。そのために生まれてきた。そして、そのための準備は整った。過去世と同じような状況をつくりあげた。後は、それを乗り超えるだけ。そのために、わざわざ屋久島まで来た。さて、これからどうなるか。実況中継なので、それはわからない。深く理解してくれれば、こちらも新しい何かが開ける。これが光のガイドとしての最初の仕事。彼女が目覚めれば、後に続く人も出てくるだろう。こちらも、この方向で仕事をしていくことになる。もう自然の案内人は、卒業。人を本来の状態に戻すガイドに変身。屋久島の自然の案内は、他の人でもできる。しかし、人を本来の状態に戻すサポートは、そう簡単にはできない。40年のキャリアがものを言う。いや、過去世も入れれば、数え切れないほどの年月・・・満を持して今生に生まれてきている。この時のために。これから人類に貢献するために。新しい時代の光となるために。もちろん、自分一人が光を独占するつもりはない。多くの光が、この時のために生まれてきている。それぞれが光の仕事をしていく。こちらもその責任を果たす。『悪いのは 他人(ひと)のせいだと 思うのは 自分を守る ためのパターン』『他人(ひと)は縁 因は自分の なかにある 縁を責めずに 因を見つめる』『乗り超える 課題を持って 生まれきて 困難超える それが人生』 『世の中は 本末転倒 すべて逆 この世だけでは 真実見えず』『真実に 気づき問題 超えていく そのサポートが 光のガイド』これが日記を書き始めて2616日目の心境。
2012.03.01
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