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「見つめること[1]」の続き次のメール。「昨日と今日のブログもこころに響きました。いろんな示唆に溢れてました。どうもありがとうございました。この前は、恐怖を見つめていて、恐れている私は何も信頼していず、なにも愛していないことがわかりました。イメージの中にいて、いつも今ここに生きていず、見えているようで見えていず、聞いてているようで聞いていない。恐れる私は暴力的で、支配的で、狡猾で、色んな形を使って事実に対面する事をごまかそうとするということも見えてきました。はじめはショックで、否定したり、どうしたらいいの?と、さらにそこから逃げようとして、考えては、混乱したり、絶望的気分になったりしました。でも、いまはだいぶ落ち着いてきました。昨日のブログで、それから逃げ出そうとする事がどんなものであるか、気付けたように思います。恐れが現れたときに、まだまだ浮き足立つけれども、気付くこと、気付こうとすることが興味深くなりました。今日は、ゆっくりゆっくりやっていこうと思えました。屋久島から戻ってから、毎日のようにちょっとした事で涙が出てしまいます。時にはワンワン泣き出す始末、こんなにこころが揺れ動いて仕方ない事に戸惑っています。そんなときは屋久島から拾ってきた大き目の珊瑚がずいぶん助けてくれています。(抱きしめると落ちついてくる!)この数日、すっかり寝不足気味だったので昨夜は早めにゆっくり寝ました。今朝、Kimiさんが夢に現れて、もっとらくーに生きなよって笑ってました。意地になっちゃってるよ、って。笑ってしまいました。そうかぁー、そうだったんだねって思いました。欲望。びっくりした。これが欲望だったのかー、安全への欲望というものがあるなんて、気付けなかった。私は安全を欲していたってこと?そうです、そう、自分を必要以上に守ろうとしていたんだな。必要以上、それが欲なんですね。恐ろしい考えでいっぱいで不安で仕方なかった。でも今日は仕事をしながら、確かめてみました。安全ではないと感じていたけれど、ちゃんと何者にも脅かされないで仕事をしていた。よくみてみると、なにも、誰も、私を傷つけようとしてなかった。かえって気遣い、大事にしてくれていました。訪問を終え、見上げた空はとても青くて、三羽のすずめ達がさえずりながら突然飛びたち、西の空へ仲良く消えていきました。些細なあたたかさや思いやりが沢山見えてくる。改めてありがたいなと思いました。過去の痛みの記憶と、増殖しているイメージが、ずっとわたしの目を、今ここに立っている事を見えなくさせていたこと。何も感じさせなくしていたこと。何も受け取れなくしていたこと。やはり、思考には愛を受け取り、感謝が生まれる場所などないんだなと、それがまた明らかになりました。私が傷つくということ。今日のブログの一つ一つの問いかけに、自分を見つめながら、あらゆる場面で、いろんな人といる時にも、一体自分をどう思い込んでいたのか、どうありたくなかったのか、同時にこの思考の巧妙さの初めから終わりまで、自分なりにゆっくり一つ一つ大切に見つめてみます。そうして、イメージがない状態ってどういう状態なんだろう?こころが傷つくということ。改めてこころとはなんだろうと思った。こころが傷つく。そして、この胸の痛みはなんでしょうか?たとえば、とても苦しがっている人の前で、どうしようもできない時。誰かの中にどうしようもない苦しみとか、悲しみがあると感じられたとき。好きな人に、心を閉ざし、心にもない事を言ってしまった時。相手を大切に出来なかったと感じたときに。そして、これは自分の痛みなのか、相手の痛みなのか解らなくなる時。今まで、この胸の痛みをどうにかしようとし続けてきたのだなって思いました。でも、そこから逃げ出そうとすることで、なにもかもすべてかき回してばらばらしてしまっていたんだな。この胸の痛みはそのままに、ただ丸ごと感じてあげるだけでよかったのかもしれない。ただそれと一緒にいるということが出来なかったんだな。ブログを読んでそう感じたのでした。自分の中におきている、数々の思考を理解するということ。本当に理解することが出来るのは?起きた痛みをかき回さず、そのままにして包んであげられるのは?あっという間に時間がたってしまいました。Kimiさんヒントをありがとうございました。一つ一つゆっくり注意深く見つめてみます。」ありのままの自分と直面すると、いろんなことが見えてくる。思ってもみなかったような事実。何も隠さず、何も持たないで他者と真っ直ぐに向き合うことを恐れ続けてきた。何も信じていない、何も信頼していない。自分の中にある怒り、恐怖、心の傷・・・常に自分を守ろうとしていた。その結果、生きること自体が恐怖と言えるほど、生きることを怖がっている。幼い頃の恐れ。いろいろ言い聞かせてきたにもかかわらず、解決されずに残っている恐怖。事実を見ず、ただイメージの中に浸っていただけ。それが何も感じなくさせ、何も受け取らせなくしていた。人は思いの世界に浸っている。自分の世界に浸っている。目の前の現実を見ながらも、事実と共に生きてはいない。自分の思い込みの世界で生きているだけ。自分流に解釈し、自分流に判断し、自分流に反応している。事実をそのままストレートには見ていない。常に自分というフィルターを通して見ている。そのフィルターこそが、まさに自我。意識の周りを覆っている雲。良くも悪くも、それが自分。実際は、自分と思っている自分でしかない。それもまた思い込み。全て思い込み。傷つくことも、恐れることも、怒ることも・・・全て思い込み。全ては思い込みから発している。自分を深く深く理解していけば、人はシンプルになる。ただ意識があるだけ。その周りに、多くの記憶や思考や感情がある。しかし、自分は記憶でも思考でも感情でもない。その全てであり、その全てではない。意識は、意識。ピュアーな意識。恐れが潜在的に人の人生を支配している。元々は自己保存の本能に源を持つもの。それが思考と合体し、必要以上に増幅される。恐怖のあまり、足下の事実を見ることさえできない。人は事実と共に生きてはいない。恐怖がつくり出す幻と共に生きている。人は、今ここに生きてはいない。人が生きているのは自分ワールド。イメージの世界。ありのままのリアリティと共に生きている人は少ない。ほとんどの人は現実を自分ワールドに引き込んで生きている。人は自分ワールドから出ようとはしない。安全な自分ワールドで孤独に生きている。リアリティに直接触れようとはしない。怖いから・・・思い込み、イメージ、観念・・・そういう世界の中で人は生きている。それが自我という幻想。自我の壁。その壁を打ち破ることができるだろうか。恐怖という壁。自分を守るという壁。執着という壁。自分本位という壁。多くの壁に囲まれて、人は生きている。そこが安全だと信じて・・・いや、壁の外を知らないで・・・子供の頃には壁の外で遊んでいた。怖いものを知らずに生きていた。ところが、いろんな怖い経験を積み重ねる中で、いつのまにか自分の周りに高い壁を築いてしまった。気がつくと、それは砦(とりで)になっていた。自分という砦。自我という砦。その中は安全だと思われる砦。しかし、その砦も常に危険と隣り合わせだった。いつ攻撃されるかわからない。常に防備を忘れることはできなかった。少し気を緩めれば、その隙を衝いて砦の深くまで攻め込まれる。その度にボロボロに傷ついた。いかに心を閉ざすか。いかに心を開かないか。それが重要な課題だった。しかし、それでは恋もできない。友達をつくることさえできない。ほんの少しだけ、安全と思われるだけの隙間を開けておく。いつでも閉められるようにして、その隙間から外と付き合う。心を全開にするなど、夢のまた夢。そんな危険なことは考えることすらできない。程度の差はあれ、それがほとんどの人の人生。それでいいのだろうか。それで本当に満足なのだろうか。そんな一生でいいのだろうか。何も悔いは残らないのだろうか。もしそんな人生では満足できないのなら、もう一度自分自身を見直してみるしかない。これまでの生き方を振り返り、これからの生き方を決めた方がいい。別に、どのように生きろとも、どのように生きてはいけないとも言うつもりはない。どのような人生も、それぞれの人生。別に今のままでも悪くはない。でも、それでは真に満足できないのなら、別の生き方を模索してもいい。まったく新しい、これまでとは次元の違う生き方。それが可能かどうか、試してみる価値はある。屋久島へ来ると、涙もろくなる?自然に癒され、本来の自分へ戻ろうとする?泣くがいい。涙を流すがいい。思いっきり泣くがいい。涙と共に心の傷は癒され、本来の自分が甦る。元々、人は傷ついたりはしない。常に光り輝いている。ただ、その周りを厚い雲が覆っているだけ。思い込みという雲が・・・その雲を取り除けば、そこには燦然と輝く光がある。雲の上には青空が広がっている。青空の中には常に太陽が輝いている。思い込みが外れてくると、物事がありのままに映る。自然の美しさがストレートに入ってくる。幼子のいのちの発露が感じられる。全てが美しい。迷いの霧が晴れれば、全ては美しい。『目が覚めて 瞳に映る 美しさ 自然と共に 生きる幸せ』『人類の 迷いを覚ます 稲光(いなびかり) 人の心の 最奥(ふかみ)を照らせ』『手放して 手放し抜いて 手放して 最後の最後に 何が残るか・・・』『見守って 涙と共に 手放せば 涙の海に 浮かぶ朝陽(たいよう)』『手放して 手放し抜いて 行き着けば 裡から溢るる 万感の愛』これが395日目の心境です。
2006.01.31
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今日の屋久島は、天気予報が外れて穏やかに晴れている。天気予報では朝から雨のはずだった。気温も高く、まるで春先のようだ。今日で1月も終わる。速い。でも、31日間、完璧に日記を書けた。今年は365日、毎日、日記を書くことにフォーカスしている。とりあえず12分の1は済んだ。道のりは遠いけれども、書くことは楽しい。書きながら一人で感動していることもある。1月は、かなり細かく意識の内面に迫った感じがする。でも、更に深く意識構造を浮かび上がらせる必要がある。明確にすることが自由をもたらす。実際は、全てわかって順番にやっているわけではない。一緒に探っている感じだろうか。人の意識構造を、より鮮明に白日の下に晒(さら)す。それによって、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということになるのを期待している。必要以上に恐れることはない。ただ事実を直視すればいいだけ。直視できれば、その先に自由が待っている。靄(もや)がかかっている自分の意識構造。見えているようで見えていない自分自身。それを改めて、もう一度見直そうとしている。見直すことによって、過去の自分から自由になれる。過去の束縛から解放される。過去から解放されることは、自我から解放されることを意味する。自我からの解放は、新しい意識が開くこと。新しい時代の新しい意識。この日記は、そこへ向かっている。1月中旬に屋久島へ来たYさんからメールが届いた。恐怖、怒り、執着、傷つくこと・・・ここ一連のテーマについて、自分自身を見つめてみたようだ。真面目に真剣に見つめられている様子が克明に書かれていた。他の方の参考になると思うので、本人の了解を得て、次に掲載する。「この数日のホームワークに取り組ませてください。今回はブログ上ではなくメールで送ることを許してください。見つめるのに取り掛かるまでが困難で時間がかかってしまい、期限が過ぎてしまって申し訳ありません。この数日のブログのテーマとホームワーク、真っ直ぐに自分の事を言われているようでドキドキしました。ブログの言葉がこころに真っ直ぐ向かってきて、私の何かが壊れそうに迫ってきました。そして、今回、ホームワークに向き合おうとする私は、改めて、今までずっと何も隠さず、何ももたないで他者と真っ直ぐ向き合うことを恐れ続けてきたことに気付きました。私はそれらから巧みに、より狡猾に逃げ回っていたことにも気付きました。私は何も信じていない、というより、信頼していないという事実。これは大きな問題。深刻と言っていいと感じたのでした。私はここで本当の意味で生きることを理解できるか、全く出来ないまま生きながら死ぬか、そんな瀬戸際にいる!と感じました。見つめてみます。Kimiさん、どうぞ宜しくお願いいたします。そして色々見つめる中で、Kimiさんの、ことある事のさまざまな示唆の数々に気づいたのでした。どうもありがとうございました。この一連はつながっていて、ひとつの塊であって、今まで切り離すことが出来なかった。怒り、恐怖、致命傷。私の場合、ほぼ瞬時にこの三つは生まれているように感じた。きっかけはなんだろう?私が傷つくものだと思っていれば、なんだってきっかけになるのかもしれない。私はいて、私の外の世界もあると思い、私は傷つくと信じ込んでいて、私を脅かすものが外からやってくると思う。私は守られなければならないと思う。傷ついたと感じる。それか、傷ついたと感じた過去を思い出してまた味わう。傷つくこと、それをもたらすと思われる物事を恐れる。私を守ろうとする。守られなければならない、そして怒りが生まれる。(まだ反応が早くて。もっとよく観ます。)今回の旅の間、私は何度となく、怖いという言葉をKimiさんに話していたことを思い出しました。突然木から落ちてくるヒル、利用者さんのお宅の雰囲気、幼い頃、父が色んな所から次々と持ち込んでくる石。突然予期せず飛んでくる虫。その他、他者の感情、映し出される表情、他者の瞳に映る私の姿。愛されない、守られない、大切にされず、放置されると感じること、無力であると感じること、介入されること。親密になること。性的に利用されると感じること。それだけに留まらない、まだまだあります。今の一番自分に強い傾向のひとつ、外の世界からやってくるものが私を傷つけるのではないか、自分にはコントロールできないあらゆるものから常に自分を守らなければと感じていること。これは怒りにつながる。ああ、私は怒っている。改めて見ていくと、沢山の恐怖を怒りを私は抱えていました。これは一体、なんということだろうと思いました。なんと、なんと、ひどいことだろうかと。私にとって、まるで生きること自体が恐怖と言ってもいいくらいです。そう、私は生きることを怖がっています。その上、いつからそれを恐れるようになったのかすら、改めてみるとちゃんと理解できていないこともあります。石を怖がるなんて。冷静に考えてみたら不思議です。石が突然飛んできて私を傷つけるわけがないのに。それって、この事実の世界に一切触れることなく、何も見ず、聞かずに、ずっとイメージの世界に閉ざされて生きていることなんだと感じました。見ているようで何も見ず、触れているようで何にも触れていないと同じ。森でKimiさんはヒルのことについて私に問い直していましたね。どうしてそんなに怖がるのか、咬まれたことがあるのか、私は実際ヒルに咬まれたことはないと話したら、笑っていましたね。そう、ヒルに咬まれた人の姿、流れる血、痛みの反応を見て、怖いと感じている。それも明らかに空想だし、自分が作り出したイメージ。それに乗っかって怯える。ある意味、それを探し出している自分がいたりする。そしてヒルが突然落ちてくるなんて怖い!と思う。私には自分ではコントロールできないものへの恐怖が生まれる。裏返せば、なんでも自分でコントロールしたいということ!!なんとうこの我の強さ。なんという怒りの強さ、その醜さ。このあまりにもの優しさと愛のなさ。なんてひどいんだろう?なんと頑なな考え、そしてそのはたらきの狡猾さ。私は見えないところで巧みに色んなものをコントロールしようとしてた・・。どのようにそうするか。Kimiさんもコントロールしようとしていた!ごめんなさい、確かにそうしていたと感じる。狡猾なコントロールをしていることに気づいたら、幼い頃の恐れの経験が、乗り越えられたと思っていたけれど、そうではなかったことに気づきました。まだちゃんとそのことを理解していなかったんだって思った。今まで私がしてきたことは、さまざまな言い聞かせの強固であって、理解ではなかったこと。もういちど見つめなおさなければならないんだと。そうして、傷つくこと、恐れ、怒り、執着・・・。すべてがつながってくるように感じる。まだそこまでは進めない。傷つくことから。どうして傷ついたと感じたか。どうしてそれを信じたか。私は傷つくと信じているから、恐れるのだから。誰がしきりにそんなことを騒ぐのだろう?ちゃんと見なければ、いまはそれしか、ちゃんと見て行かないと。でないと解らない。まだ始まりですね。私には辛い作業です。でも、本当に理解できるか、やってみます。諦めないでやってみます。今夜はもう限界です。期限がなくなりそうですが、また気付いたことを書いていきます。ここまで、気づかせてくださってありがとうございました。」「見つめること[2]」に続く
2006.01.31
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今日の屋久島は、暖かい。南から突風が吹いている。春一番という感じ。室温は25度以上ある。今日も、えっちゃんモデルに登場してもらおう。一般人の代表として、なかなかステキなモデルさんだ。先日、次のような書き込みがあった。「相手を決めてかかる人に、誤解を解くのは難しい。言われた事を訂正しても、もうその人には不信が植わっていて、私の言われた事の不当さに腹が立ってきたという言葉に爆発する。私の対応の不適当を言い切って終わる。聞く耳無し。今日、職場のよくあれこれ私をつつく人の根源が見えた。決めてかかるということ。私のしている事を否定して、自分の言うようにしろというけれど、私は言われた事と同じようにしている。けれど、その人は自分の頭で想定した自分の気に入らないやり方をしていると言うのです。私のしている事をろくに見もしないで言うわけです。ほかの事で、誤解を解く努力をしたことがありますが、かえって、生意気、文句を言う、言う事を聞かないという、その人の私への基本評価として定着しています。私は、自分自身を信頼と思いやりで、満ち溢れさせたいと願っていますが、届かない相手には届かないし、全て自分の思い込みと自分を否定すれば、自分自身が壊れてしまいそうです。私に今できる事は、相手を攻めない代わりに、そういう人たちの前では亀になるしかないという事です。」えっちゃんの職場は、なかなか厳しい環境のようだ。いろいろ話を聞くたびに、大変だなぁーと思う。しかし、だからといって、亀になるしかない?というのでは・・・このような厳しい環境の中で過ごしている人は、他にもいらっしゃるだろう。職場であれ、家庭であれ、近隣であれ、多かれ少なかれ困難は伴うものだ。困難が皆無ということは、今の人生ではあり得ないだろう。では、そういう場合、どうするか。亀さんになる?それも一つの方法ではある。それもけっして否定はしない。しかし、それは極めて消極的な身の守り方だと言わざるを得ない。もっと積極的な生き方はないものだろうか。もっといのちが活き活きとするような対処の仕方はないのだろうか。亀さんでは、いのちは萎縮してしまう。たとえどのような環境であれ、その場を生かすことだろうか。すべてを生かして使う。けっして守りに入らない。自分を守ろうとすればするほど、傷つく。そもそも守ろうとする姿勢そのものが、傷つく準備をしているようなもの。では、守らないで、どうするのか。守らないということは、攻めるということを意味する。攻めると言うと勝負っぽくなるので、積極的に生きると表現した方がいいだろうか。それとも、ポジティブに生きるとか・・・いずれにしても、前向きに生きることなのだ。「イヤだなぁー」と、相手のせいにする。早くこんなところから逃げ出したいと思う。それまでは、亀になって、じっと我慢。人生辛抱。それもまた人生。否定はしない。でも、別の生き方もある。相手が自分を否定してくる。自分の感情や思考が反応する。身を守ろうとして自動的に反発する。そこでストップ!その瞬間に感情や思考に負けない。感情や思考のままに翻弄されない。グッと踏みとどまる。自分の感情や思考を見守る。感情や思考によって自分を見失わない。それができるだろうか。新しいチャレンジ!自分にとって厳しい環境にいると、感情や思考が自動的に反発する場面には事欠かない。それは逆に言うと、すばらしい環境なのだ。自分を見つめるのには最高の環境とも言える。幸せで調和した環境では、そういうことはけっしてできない。今の環境を生かす。それしかない。常にそれしかない。どのような環境にいようと、その中でポジティブに生きるしかない。その環境をクリアーできれば、次の環境が目の前に展開する。しかし、そこから逃げたら、また別のところで同じようなことを繰り返すことになる。その環境をクリアーできるまで繰り返す。それは自分で選んだこと。誰かがそうさせているのではない。自分が今生でチャレンジしていることなのだ。それを忘れて逃げまくる。あるいは、他の人のせいにして自分を正当化しようとする。そんなことをしても何の意味もない。ただの一時しのぎ。正々堂々と真っ正面から対峙するのが一番の早道。回り道をしている間は、道草としか言いようがない。別に道草を食っても悪くはない。真っ直ぐに進んでも、ジグザグに進んでも、一人一人の人生だ。ただ一つだけはっきりしているのは、今の環境は自分で選んだということ。自分にとって最適の環境を自分で選び取ったということ。だから、環境のせいにしたり、他の人のせいにしても仕方がないのだ。それは逃げているだけで、問題の根本的な解決には結びつかない。ただただ真っ直ぐに問題に直面することだろうか。そして、それを乗り越えていく。それしか道はない。いくら回り道をしても、やがては乗り越えていくしかないのだ。乗り越えなければ、先へは進めない。人生の幸・不幸というのは、とらえ方次第。人生万事塞翁が馬。何が良いか何が悪いかは、すべて後解釈。ただ事実があるだけ。それを幸せと捉えるか、不幸せと捉えるか、ただそれだけの違い。厳しい環境の中にいても、それによって自分を理解する絶好のチャンスであると捉えれば、幸せと言えなくもない。厳しい環境の中で、身の不幸を嘆き、世を呪えば、不幸の泥沼へと入る。同じ環境にあっても、一方は幸せ、他方は不幸せ。そういうことがあり得るのだ。客観的な幸せ・不幸せというものはない。自分の生きる姿勢一つなのだ。常に前向きに、すべての環境を生かして生きる。そういう生き方に不幸はない。環境自体はニュートラル。それを判断しているのは自分の価値観。つまり、価値観という思い込みが、自分の幸・不幸を左右している。大切なのは、生きる姿勢。常にポジティブであれば、不幸は存在しない。絶えず前向きに生きれば、未来は常に明るい。明るい未来しかあり得ないのだ。どんな未来でも、それを生かして使えば明るくなるしかない。要は、その捉え方であり、対応の仕方なのだ。日々、自分を見守る。自分の感情や思考が自動的に反応する様を見極める。自分が感情や思考に翻弄されないように注意深く生きる。今日、失敗してもいい。また明日がある。明日、失敗してもいい。また明後日がある。厳しい環境にいるということは、それだけチャンスが多いということでもある。厳しい中で自分を見守る。そして、いかなる状況でも冷静に対応できる自分になる。厳しい環境の中では冷静に対応できない自分にとっては、今の環境は最高の環境なのだ。厳しい環境でも自分を見失わない自分になる!それを肝に銘じて自覚することだろうか。誰かが与えた環境ではない。自分が自ら選び取った環境であることを深く自覚する必要がある。見守るのは自分だけではない。相手もやさしく見守ってあげよう。そのように厳しく対応するには対応するだけの背景があるに違いない。それがわかれば、こちらの対応も違ってくる。自分も周りの人も限りなくやさしく見守る。無条件にやさしく見守る。注意深さとやさしさが必要なのだ。注意深いだけでは冷たくなる。やさしいだけでは不注意になる。やさしく、かつ注意深く・・・自他を見守ってほしい。そうやって見守ることが、すばらしい結果につながる。別に結果を求めているわけではないが、結果的に何かが変わる。実践あるのみ。ゴチャゴチャ言い訳はいらない。言い訳をしている間は変わらない。それはただ現実から逃げているだけ。逃げてもいい。但し、いつかは現実に直面しなければならない。それが早いか遅いかの違いだけだ。どちらでもいい。なぜなら、あなたの人生だから。書いている人の人生ではないから。こちらはどうにもできない。ただ指をくわえて見ているしかない。歯がゆい思いをしながらも、他には何もできないのだ。書くことと見守ること以外は・・・ゆっくり、自分のペースでいい。どうか逃げないで、チャレンジしてほしい。今の環境をクリアーしてほしい。それがあなたの新しい人生を切り開く。そこから新しい展望が開ける。未来は明るい。ぜひ自他を見守ってほしい。『身に起きる 全てのことを 前向きに 捉えていけば 道は開ける』『逃げたとて いつかまた会う 道なれば 逃げずにここで 直面するのみ』『逃げないで 諦(あきら)めないで 捨てないで 自他を見守り ゆっくり進む』これが394日目の心境です。
2006.01.30
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「ハート[1]」の続き次は、たろうくんですね。「『ハートはどこにある?』シンプルに答えると、この地球すべてにハートがあると感じます。自然も生物もみんな。。。 『ハートを感じるにはどうしたらいい?』 求めるのではなく、まずは自分の心を開くことかと思います。一番簡単で、私でも毎日できることは挨拶です。ご縁あり出会えた人も自然も全ての存在にです。私は、あなたに心を開いています☆という思いを込めて挨拶をします。おはよう・こんにちは・ありがとう etc...私が心(ハート=愛)を開けば、それを感じていただきハートを開いてくれる。その心の交流の中で、ハートを感じています。そして、ハートを感じ交流していると、優しさとぬくもりに包まれ、何の判断もなく、その瞬間に感謝の思いでいっぱいになります。」たろうくんも、全ての中にハートがあると感じているようですね。たろうくんのハートの感じ方は具体的ですね。心を開いて挨拶する。こちらが心を開けば、相手も心を開いてくれる。そこからハートの交流が始まる。すばらしい!ハートの交流を感じると、優しさや温もりに包まれ、感謝の思いでいっぱいになる。そのとおりですね。自分の方から心を開けたら言うことなしだね。心を開けば、ハートも開く。ハートが開けば、愛が花開く。好循環だね。自分から心を開いて挨拶するというのは、すばらしいね。最後は、えっちゃんです。「私は、ハートの場所と、ハートって如何なるものかわかっていないのですが、考えてみると、自分全部、私というこの肉体も心もまるまるハートのように思えてきました。外からの刺激に感性で反応するものがハートと捉えてみたのです。私はそういう意味で、いつも全開状態で居たい訳ですが、この無防備はハートを風雨にもさらします。あわてて、シートで覆ったり、仮面をかぶったり、愛想笑いをしたりして、ハートが傷つくのをかばったりするのですが、のどもと過ぎれば暑さ忘れるで、また無防備に開けている。子供達も全開だろうな。だから、ハートを開くでなく、もともとオープン状態なものが、逆に、生きていくうえで身に付けてしまった思い込みや、外からの自分にとっての危険な刺激に、バリヤーを強化してしまってるかも知れないのですが。もっとも、ハートを全開にしてる事と、振りまけるほどあふれる愛を持っていることとは少し違う事で、ハートを全開にしてても愛がたらふく転がっているわけではない。ただ、刃を向けられない限り、相手に好意的でありたいし、優しさ、美しいものには敏感でありたい。でも、それが出来ていないとしたら、私もあまりにバリヤーを張り過ぎているのかも知れない。私にハートがあるとしたら、そういうものだと思います。ハートを感じるには・・・感動した時、想いが高ぶった時、胸がドキドキしたり、キュ~~ンとなったりしますが、体が浮いたようにもなるし、手が汗ばむ事もあるし、目頭が熱くなったり、ゾクゾクッと震えることもある。あたたかいやさしさに出会うと、体中がほぐれていく・・・そういう時、私が思っているハートは私全部に満ちていると感じる。」えっちゃんは感動しやすいタイプなので、ハートを感じていないということはないでしょう。ただ明確に自覚されていないだけでしょう。言葉の定義のようになりますが、少し言葉の混乱が見られますね。感性と意識の違い。心とハートの違い。これは、他の人も曖昧ですね。少しえっちゃんに質問があります。「ハートは傷つくでしょうか」「ハートを全開にすることと、愛があふれることとは、どうちがうのでしょうか」「刃を向けられない限り好意的でありたいとは、刃を向けられるとどうなるのでしょうか」イエスキリストが刃を向けられた時、彼は人を愛することをやめるでしょうか。刃を向けられない限りという条件付きの好意は、愛と言えるのでしょうか。ここで次のホームワークを提案します。心とハートと愛の関係について述べてください。心とハートと愛は別のものです。混同しないで明確に理解してください。単なる言葉の定義ではなくて、しっかり実感として理解してください。まだみなさんの理解は曖昧な感じがします。クリアーに理解することが、愛が満ちることにつながるでしょう。心とはどういうものでしょうか。ハートとはどういうものでしょうか。愛とはどういうものでしょうか。そして、心とハートと愛の関係はどういうものでしょうか。回答は2月1日の午前10時までにBBS(掲示板)に書き込んでください。誰でも参加できます。但し、本の知識や人から聞いたことは無効です。自分の実感をベースに書き込んでください。『自(みずか)らを 見つめ見つめて ゆっくりと ハート開けば 愛があふれる』これが393日目の心境です。
2006.01.29
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今日の屋久島は雨になった。太陽がないので気温は低いが、それでも室温が16度ぐらいはあるので、そんなに寒くはない。一昨日、レンタルDVDで「心の旅(REGARDING HENRY)」というアメリカ映画を見た。1991年制作のもので、もう15年も前の作品だが、最後の方で感動してしまった。感動というより、「家族が一番大切なんだ」という主人公の言葉がダイレクトに伝わった。この主人公は敏腕弁護士で仕事人間。妻との関係は冷え切り、子供に対しても命令口調だった。人間的な思いやりよりも、勝ちさえすればいいという弁護姿勢。ところが、ある日、コンビニで強盗に銃で撃たれてしまう。瀕死の重体で、やっと意識が戻った時には、記憶がほとんど消えていた。それからハードなリハビリで、やっと体は動くようになったが、記憶はなかなか戻らない。家族や愛人の顔さえ思い出せない。少しずつ記憶が戻る過程で、人間的なふれあいの大切さに目覚めていく。仕事や収入よりも、もっと大切なものがあることに気づく。そして、最後のクライマックス・・・かつての裁判の相手に謝りに行き、相手にとって有利な証拠を渡す。仕事を辞め、子供を寄宿舎から引き取り、家族の絆を大切に生きようとする。愛が何よりも尊いことがハートフルに描かれていた。たぶん、多くの人がこの映画を見て感動したことだろう。感動するということは、愛によって意識が強く震えたということ。愛が共振したということ。一昨日のホームワークをやることにしよう。テーマは次のようなものだった。ハートはどこにある?ハートを感じるにはどうしたらいい?自分の実感を元に答えてほしい。但し、どこかで読んだ本の内容や誰かから聞いたことではなく、自分の実感で書き込んでほしい。最初は、アリスさんですね。「ハートは自分の中の胸の辺りにあるのだと思い込んでいましたが、ハートは、何処にあるのだろう?とイメージしてみたら・・・体の内にも外にもたくさんあることに気が付きました。目の前のパソコンにも、道行く人にも、庭に生えている草花にも、青空を流れていく雲にも、夜空に輝く星にも全てのものの中にハートがあるんだ!ハートって何?って具体的にはよくわかりませんが、自分の実感で答えるのなら、的外れかもしれませんが・・・今、人との出会いを楽しんでいる私がいて、その人の幸せを祈っています。ただ心の中で、目の前に居る人の幸せを祈るのです。そうしていると私の心がウキウキしてきます。それが相手にも伝わるのか、なんとなく楽しい気分になります。そんなところにハートがあるのかなあ?って感じがします。」全てのものの中にハートがある?今回のホームワークで、このような感じの回答が多かったのには驚きました。確かに、全てのものと共振して生きるのはステキなことですね。目の前にいる人の幸せを祈る時、自分の心がウキウキし、相手にも伝わって楽しい気分になれる。お互いのハートが共振し、胸が熱くなる体験をしたことのある人は多いでしょう。ハートベースの愛が出ていれば、そうなるでしょうね。次は、エンジェルフレアさんですね。エンジェルフレアさんは、掲示板ではなくてコメント欄に記入されていましたが、内容はホームワークの回答という感じでしたので、こちらで取り上げることにしました。「ハートを開くというのは、まず自分の感情を見つめることから始まるのかな~と思います。自分の感情にいい、悪いの判断をしないで。わたしは長い間本当の気持ちを抑圧していたので、自分の感情から切り離されてました。でも、今は感情を少しづつ感じています。そして、それを自由に許してくれる人のそばにるとき、自分のハートが開いてゆくのを感じます。始めての書き込みで緊張します。(笑)」こちらを無条件で受け入れてくれる人の傍にいると、心が開きますね。それは安全だと思うからでしょうか。心を開いても傷つく心配がないからでしょうか。心が開く時、ハートが顔を出します。そうすると、こちらからもあたたかいエネルギーが流れ出します。ところが、心が開くと、つい我が儘も出たりするのですね。そうなると、問題が起きたりします。問題が起きて傷つきそうになると、心は閉じます。同時にハートも姿を隠します。最初は安心して心を開ける人の傍にいるのがいいかもしれませんね。愛に包まれた中で、自分の感情を解放していくといいでしょう。感情を押し殺さないで、少しずつ、ゆっくり解放することでしょうか。ゆっくり心を開くのですね。それに伴ってハートも開いていくことでしょう。一気にやりすぎると、傷つく可能性があります。そうなると、心は再び閉じてしまいます。心が閉じれば、ハートは顔を出すことはできません。ゆっくり感情や思考を見守りながら生きていくといいでしょう。次は、せきせきさんですね。「ハートのあるところ。私の髪、声、体の一つひとつにも、私全てにも。お野菜の中にも、川にも、大地にも。お布団にも、欠けたお茶碗にも、お鍋にも。誕生の中にも、死の中にも。どんな人の中にもどんな物の中にも。それらの中にある、悲しみや喜びも全て、ハート。全ては愛が結晶になり、響きになり、ご先祖様から延々繋がって私達がいる。全てはメイド イン ハート、愛。ハートを感じる方法今までも、介護をしていた時、恋をした時、友達と語り合う時にハートは感じていたと思う。でも気がつかないくらいのつかの間。このサイトと今与えられた環境の中で、自分を見つめてきて、コメントをしてきた。その結果今までは、すごいスピードで考え巡ることしかなかったが、今は、出来事や考え巡ることがスローに感じる。前より、楽、解決が早い、相手をより感じる。自分が何故今つまずいているか、見つめてきたら、自然にハートを感じることが多くなった。」全ては、made in Love ?全ては愛の結晶?そのように言えば、言えないこともないかもね。宇宙の森羅万象は愛でできている?愛がこの宇宙を創っている?愛の宇宙?確かにそのようにも言えるね。自分のハートが開いた時に、森羅万象と共振するのかな?愛の共鳴?愛あふれる世界だね。そういうふうに日々、生きていけたらいいね。自分を深く見つめる中で、自然にハートが感じられるようになった?自分を見守る中で、自然にハートが開いてきたのかな?全てを見守ることが、ハートを開く鍵かな?次は、ぴあのさんですね。「ハートはどこにある?宇宙の大きな愛に繋がる私の中に・・・ハートを感じるにはどうしたらいい?思考をとめて、大きなものに自分を信頼して任せてみる。この 大きなもの というのは言葉では表現できない自分なりの感覚なのですが宇宙とか 愛とか 神とか 言葉にするとそういったものでしょうか・・・先日コメント欄でkimiさんに >ハートにベースを置いてピアノを弾くと、どうなるだろう?>やってみて?と言っていただきました。やってみました。弾きながら模索していました。気持ちを込める ということはできるけれどもそれとはまた違う。ハートにベースを置くってどうやればいいの?わからないので とにかく一音一音を愛して慈しんで丁寧に弾きこんでいきました。頭で音をなぞるのではなく、心でなぞってみました。美しい旋律とピアノの音色が くっきりと立体的に浮かび上がり空間を満たすように思いました。心が震えて、私は音楽に共振共鳴して 思考のない世界、ただ感動と喜びの世界を感じました。余計なことを考えず、ただ宇宙を自分を信頼して 今やっていることに愛を込めて慈しんで一緒にいてみる。そうすると、心がとても喜んで愛が全開になる感じ。愛が溢れ出る感じ。なんともいえない至福に包まれる。私にとってハートを感じるって そういう感じかしら・・・」宇宙の大きな愛につながる自分の中に、ハートはあるということですね。ハートは宇宙とつながっているということですね。余計なことを考えないで、宇宙と自分を信頼して、今やっていることに愛を込め、慈しみ、一緒にいる。そうすると愛が溢れ出る。何とも言えない至福感。それがハートを感じるということのようですね。宇宙は愛に充ち満ちています。それを感じられるかどうかだけです。愛の宇宙と共に生きられたら幸せですね。それには思考に翻弄されないことでしょうか。思考を鎮め、静かに感じることでしょうか。静かに今と一緒にいることでしょうか。そうすると、ハートが開く。そうすると、愛はそこにある。そんな感じでしょうか。次回のピアノの発表会の時、ぜひハートにベースを置いて弾いてみてください。聴いている人は、どんな感じがするでしょうか。楽しみだな・・・「ハート[2]」へ続く
2006.01.29
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今日の屋久島は、春のようだ。窓を開け、靴下をはかずにいても、寒くはない。室温は軽く20度を越えている。今日はカキコ常連のえっちゃんにモデルになってもらう。残念ながら、ファッションモデルではない。ここ最近のテーマ、「怒り」「恐怖」「傷つくこと」に関して、実社会の中で体験があったようだ。それを逐次コメント欄に書き込んでくれた。それらを見ながら、実際の実例で更に深く検討してみたい。まず初めに、これまで書き込まれたコメントを順を追って掲載する。少し長いけれども、読んでみてほしい。「誤解から怒りが生じ、その怒りから、増幅した怒りが戻ってきた・・・というまさに先日、今日の日記の体験をしました。それも、親しさを感じていた相手への、半分甘えからの怒りでした。ああ誤解だったねと笑って済ませてもらえるだろうという甘えから言ってみた怒りでした。誤解が悲しくて、怒り風に表現しましたが、怒りのエネルギーは込めてなかったつもりでした。ところが、ものすごいパワーの怒りが返ってきました。関わりの破局という決定的な怒りの前に、唖然とする私の頭の中で、私の発する言葉や想いのカタチと、受け取る相手の受け取るカタチの落差、相違に私自身の発するカタチに対する私自身の把握すら、信じられなくなり、自分が分からなくなる。自分が思う自分は違っているのか?という疑問まで浮かぶ。私が軽いと思って発する言葉の重さを計量ミスしているのか。今、私は自分自身すら何者か見失いそうな状況です。手も足も頭も言葉も決して出さず、また自分の甲羅にもぐりこんでいれば、 トラブルを起こさず、安全な生き方が出来るのでしょうか。人と極力関わらない生き方を自分に課そうとしています。ただ、不安すぎて、ここには書き込みしてしまいましたが。」「ひとつの恐怖が、八方塞がりの状況を形作る。それが、思考のなせる罠にはまった私でした。傍で今、冗談を言い合ってる久しぶりの友達も、本心はどうなんだろう?懐疑は膨らむ。人の想いを正しく受け取れているか・・・自分の想いを、正しく受け取ってもらえてるか・・・懐疑は深まる。けれど、自分に見えたもの、自分が感じたもの、自分が心で受け取ったものを、そのまま受け入れればいいということでしょうか?自分を信じてやるしかないという事でしょうか?私の今回の失敗で、別の第三者に、私が巻き込んでいた第三者に、迷惑が及ぶ事を恐れていました。いえ、それによって私が無くす、別の信頼関係の破局を恐れていました。私の失敗による第三者への失礼を詫びる私に、第三者は縁がなかったのよと流してくれる。亀になるつもりの私に、また楽しい事をよろしくって言ってくれる・・・額面通りに受け取ろうと思います。失敗は次のステップを慎重にしてくれるでしょうか?また、思い立ったが吉日で、人を巻き込むお祭りをドンヒャラ始めてしまうでしょうか?失敗を活かせる私になりたいと思います。亀になってた方が、世の中のためかも知れないけれど。」「私は、どんなスピリチュアル的超能力も要らない。どんな、摩訶不思議体験もいらない。信頼と思いやりで心満たしたい。そしてそれが揺るがないものでありたい。気負いもなく当たり前の状態で持ち続けたい。誰もがそうであれば、それが地球に奇跡をもたらすかもしれない。」「いくら、思い込みをはずして・・・と思っても、やはり自分の人格を、詮索好きのいやらしい奴のように取られたのには、一言文句を言ってしまった。言葉は難しい。遠慮もあって、私がやや下手からゴニョゴニョ言ったかと思える。いやらしい奴に相違ないと言葉のニュアンスで決めてかかったかも知れない。きちんと訂正すればよかっただけなのかも知れないけど、自分の見られ方が切なすぎて、文句を言ってみたけれど、内心は腹立ちより悲しかっただけ。言葉は発せられた瞬間から、もう一人で走り出す。言葉爆弾が帰ってきてからあわてても、時すでに遅しですね。本当に、慎重に生きなければいけませんね。言葉も選ばないといけない。その辺は、子供のようにストレートには出来ない。心をオープンにしても、自由と野放図は違うという事ですね。」ストーリーを整理すると・・・すべてはここからスタート。「やはり自分の人格を、詮索好きのいやらしい奴のように取られたのには、一言文句を言ってしまった。」それは、「親しさを感じていた相手への、半分甘えからの怒りでした。ああ誤解だったねと笑って済ませてもらえるだろうという甘えから言ってみた怒りでした。」ところが、「ものすごいパワーの怒りが返ってきました。」ただ、「自分の見られ方が切なすぎて、文句を言ってみたけれど、内心は腹立ちより悲しかっただけ。」その結果、「関わりの破局という決定的な怒りの前に、唖然とする私」そして、「自分が分からなくなる。」自分の人格を詮索好きのいやらしい奴のように取られたことは、黙って見過ごすことはできなかったようだ。まさか自分が「詮索好きのいやらしい奴」とは思ってもいなかった。だから、そのように言われた時、思わず反論してしまう。もちろん、普段から自分は詮索好きのいやらしい奴ではないと意識しているわけではない。しかし、そう言われると、そうではないと反論せずにはいられない。ということは、どこかに自分は詮索好きのいやらしい奴ではないという意識があることになる。いつもは意識されていないけれども、自分はそんなにひどい奴ではないとか、そんなに悪い人間ではないという自己正当化があるのではないだろうか。それがなければ、「詮索好きのいやらしい奴」と思われても、すぐに反応することはないだろう。人は自己保存の本能から、何かにつけて自己正当化しようとする。それが普通の意識状態に他ならない。その思い込みを否定されると、自分の全存在を否定されたかのように思って、人は怒ったり反論したりする。すべては自分を守るための行為。まずその根本を抑えておく必要がある。人は常に自分を守ろうとする習性がある。それが自動的に反応し、往々に問題を引き起こす。他人のことであれば、聞き流すこともできる。ところが自分のこととなると、そうはいかない。相手の発言に引っかかってしまう。それは自分に対する思い込みがあるからに他ならない。思い込みがなければ、即座に反応することはない。反応してはいけないと言っているわけではない。自動的に反応するということは、自由意志がないに等しい。単なるロボットに過ぎない。思い込みが反射的に反応する。思い込みが多ければ多いほど、反応も出やすくなる。つまり、人は思い込みに拘束されているようなもの。どこにも自由はない。思い込みで身動きがとれなくなっている。その事実を自覚する必要がある。相手の発言が誤解であれば、冷静に誤解を解く努力をすればいいだけのこと。ところが、反射的に反応が起きてしまうと、それができなくなる。軽い怒りが、怒りの連鎖反応を呼んでしまう。それが思いもよらぬ関係の破局にまで至ってしまう。怒りは自分を守ろうとする習性からくる。相手の怒りに対して、自分を守るために怒りで反応する。すべては、自分を守ろうとする意識の反映。お互いが自己保存の本能を前面に出せば、必要以上の摩擦が起きる。主観とは、概ね自己中心的なものだ。自己中心的とは、自分を守ろうとする意識。すべての発想が、そこからスタートしている。そこには客観性はない。自分のことが第一。それがオートマチックな反応を引き起こす。そこを肝に銘じて理解する必要がある。周りの人との関係も、問題は周りの人ではない。自分の視点なのだ。常に自分を守ろうとする視点から発想していないだろうか。それが周りとのトラブルを引き起こしてはいないだろうか。もう一度よーく見つめてみるといい。自分を守ろうとする視点も否定することはない。それはそれで必要な視点だ。しかし、それだけでは周りと摩擦が起きてしまう。自分と周りを共に生かす視点が必要なのだ。それがないと社会はうまく機能しない。お互いに生かし合う視点がある時にのみ、社会はスムーズに機能する。たとえ相手にその視点がない場合でも、それは自分にもなくていいという言い訳にはならない。相手の問題ではなく、問題は自分の視点なのだ。視点が自己中心的になっている限り、トラブルは避けがたい。なぜなら、お互いにそうであれば、ぶつからない方がおかしいのだから。お互いを生かすという視点が、バランスのとれた社会をつくる。信頼と思いやりをベースに生きたかったら、まず自分のありのままを理解することだろう。自分を守ろうとする意識が潜在していることに気づかないままでは、信頼と思いやりは絵に描いた餅となる。自分の意識状態を本当にこまやかに観察し、理解する必要がある。常に自分を守るための行為かどうかチェックしてみる必要があるのではないだろうか。それほど自分を守ろうとする意識は根強い。そして、根強いだけではなく狡猾でもある。不注意であれば、気づかないうちに自分を守ろうとしている。すべての発想、すべての行為が、そこから出ていないだろうか。よくよく注意する必要がある。ハートからの行為のつもりが、実はその裏に自分を守ろうとする潜在意識が隠れていたりする。それほど自己保存の意識は根深い。それが悪いと言っているわけではない。それは問題を引き起こす原因であると言っているに過ぎない。その原因を自分の中から発見することではないだろうか。亀になっても何の問題解決にもならない。傷つかないために心を閉ざしても、惨めになるだけだ。自分の心を深く理解すれば、全開で生きることも可能だ。自己保存の本能と一体化した思考に翻弄されているだけなのだ。そこを理解することだろうか。常に自分を守ろうとする視点から反応する自分に気づく。そんなにまでして自分を守らなくても、生きていける。逆に、そんなにまでして自分を守ろうとすることが、生きることを難しくする。自分と周りの人の両方を生かそうとする視点は、生きることを楽にする。自分だけに偏ると、人生は苦しくなる。自他という両方に意識が向くと、楽に生きていける。共に生きる。一緒に生きる。それが楽な生き方だ。それが平和な生き方でもある。意識が自分に偏りすぎると、アンバランスになる。肉体の自己保存の本能のために、ややもすると意識は自分に偏りがちになる。すぐに自分を守ろうとする。それも必要だけれども、それだけでは足りない。個と全体が共に生きるには、自己保存の本能だけでは足りないのだ。理解とハートが必要なのだ。周りの人がどうであろうと、自分は常に冷静に生きていくよりない。自他の両方を生かす視点で生きていくしかない。それが自分の幸せにつながる。それが周りの幸せにもつながる。すぐに自分を守ろうとする傾向に、よくよく気をつけることだろうか。それに翻弄されて自分を見失わないように注意する必要がある。ゆっくり進めばいい。気をつけながら・・・『身を守る 姿勢は 常に傷ついて 怒りとなったり 恐れとなったり』『守ろうと すればするほど 傷ついて 心のやすらぎ 見つけ出せない』『自他共に 生かす道のみ お互いが 平和で楽に 生きられる道』これが392日目の心境です。
2006.01.28
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今日の屋久島は、穏やかな天気だった。午後にテレビとパソコン本体をつなぐアダプターコードが届いた。すぐにつないでみた。結果は・・・きれいに見れた。パソコン本体に問題はなさそうだ。但し、横長画面だった。画面自体は安定しているし、とても美しい。しかし、写真が横長になってしまう。これでは正確に写真を検討することができない。このテレビでは長い期間は無理なようだ。とりあえずは使えるという感じだろうか。ただ、パソコンをやりながら小さな画面でテレビを見れるのは便利だった。文章を入力している時はあまり使いそうにないが、ネットサーフィンしている時には使えるかもしれない。昨日のコメント欄に次のような書き込みがあった。「ハートにフォーカスしたいけれど、ハートがどんなものか、何処にあるのか・・・まだまだ掴めない理由のひとつは、思考がハートを見つけようとしてるからかもしれない。いつかkimiさんが、考えるのでなく、わかる、ある日突然わかるというわかり方をするっていう様な事をおっしゃってられた事と同じようにハートに出会えるのでしょうね。でも、私は今でも思考でハートをわかろうとしている。もうひとつ、よくハートを開くという事を言う人たちが今は巷にたくさんいらっしゃるようですが、聖人になるというか、心がクリアになるというか、愛であふれるというか、許す心、抱き参らせる心、それこそ信頼と思いやりで人と関わるようなそういう人になる事と、ハートにフォーカスするのとはまた違う事なのでしょうか?この疑問もハートが見つからない理由のひとつです。あっ♪見つけた!って感じれたらどんな世界が開くのでしょう!一人、ゲームの答えを知らない置いてけぼりにならないよう、探しに行こう!と思考が手を引っ張ってくれますが・・・さて?」ハートを開くという事を言う人たちが今は巷にたくさんいらっしゃる?あの髭もじゃのオウム真理教の教祖みたいな人たち?シャクティパットで新しい境地を開くとか?その手の人たちは今も巷で流行っているようだ。そういうところへ行きたい人は行けばいい。但し、そういうところには常に危険が付きまとう。あなたまかせというのは、危険と裏腹。それが正しいという保証はどこにもない。自分で試行錯誤しながらやった方が確実かもしれない。安易な道は危険と隣り合わせというのが、世間の通り相場。それは精神世界に限らず、うまい話には気をつけろというのが世の常識。甘い罠に騙される人は後を絶たない。お金儲けも悟りも同じ。欲に駆られると、バカを見ることになる。たとえ誰かがハートを開くことができたとしても・・・開いてもらったものは長続きするのだろうか。すぐに閉じてしまうことはないのだろうか。なぜ閉じる?それは簡単なこと。恐怖があればハートはすぐに閉じてしまう。自我がある限り、ハートはすぐに閉じる。なぜなら、自分を守ろうとする時、オープンハートのままでいるのは不可能だ。自我や恐怖が理解されない限り、開いたハートはやがてまた閉じる。やはり、地道に思考を理解することではないだろうか。それがオープンハートの前提条件だろう。ハートにベースを置いて生きるとはどういうことだろうか。それを口で説明するのは難しい。ハートは愛の中心。愛をベースにした生き方になることは間違いない。しかし、その愛を思考が邪魔する。恐怖が愛の行く手を遮(さえぎ)る。恐怖から自由でない限り、ハートを全開にすることはできない。怖くて、とてもそんなことはできないのだ。ハートはどこにある?ハートを感じるにはどうしたらいい?それは今日のホームワークということにしよう。自分の実感を元に答えてほしい。1月29日の午前10時までに掲示板に書き込んでほしい。誰でも参加できる。但し、どこかで読んだ本の内容や誰かから聞いたことではなく、自分の実感で書き込んでほしい。書き込みを評価するようなことはない。テストではないので、こちらの感想を付け加えるのみ。気軽に参加してほしい。甘い話には、ご用心!誰かがあなたを救ってくれる?メシヤが現れる?そんなことを考える暇があったら、メシでも食った方がいいだろう。自力でやる限り、騙される心配はない。安易な道には常に罠が待ちかまえている。それがこれまでの歴史的事実。ゆっくり自分のペースで自分自身を理解していくのがいい。自分を理解していくのは楽しい。自分がわかった分だけ自由になる。楽しみながらやればいい。焦るから騙される。マイペースで、ゆっくりと・・・『ゆっくりと 自分のペースで 真実を 探し求めて 生きる幸せ』これが391日目の心境です。
2006.01.27
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今日も屋久島は快晴に近い。とてもさわやかだ。昨夜は星がきれいだった。久しぶりに美しい星空を見た。昨日は目がほとんど限界に近かった。痛くて痛くてしかたがなかった。早めにパソコンを切り上げ、たまっていた新聞を読んだり、洗濯をしたりした。長いホームワークは、ほとんど一昨日にはできており、昨日は最後の校正をしただけ。一日中、アクビをしていた。涙をいっぱい流して目をヒーリングしていたようだ。今日はそれほど痛くない。昨日がピークだった。パソコン本体とテレビをつなぐアダプターコードは、昨日の昼頃に発送したとメールが届いた。本土であれば今日中には届くだろうが、ここは屋久島。フェリーに乗ってやって来るので、一日余計にかかる。明日の1時頃にフェリーが屋久島に着く。自宅に届くのは夕方だろうか。ヘタをすると次の日という場合もある。郵便局に取りに行った方が早いかもしれない。まだパソコンは使えている。目も今のところは大丈夫だ。アダプターコードが届くまで、なんとかなりそうだ。アセンションについて、かなりはっきりしてきた。アセンションとは、意識の中心が思考からハートへ移ること。極めて単純。各個人にとっては、地球のアセンションよりも、意識のアセンションの方が重要だろう。自分の意識が変わらないことには、アセンションは何の意味もなさないのだから。今の意識の中心は、思考にある。ほとんどの人が、思考がつくり出す「私」=自我を中心に生きている。それは悪いことでも良いことでもない。ただの事実。すべてはそこからスタートする。現実を正確に認識し、自分を理解していく。自分の意識の中心が思考にあれば、それを見守る。そして、できるだけ意識の中心をハートに置くようにする。ハートを中心に生きるように心がける。ハートがベースの生き方ができれば、幸せになれる。ハートの中に幸せはある。ハートにフォーカスし、ハートをベースに生きればいいだけ。極めて単純。それができてしまえば単純なことなのだが、できるまでに思考があれこれ邪魔をする。思考の性質を理解しておかないと、途中で思考に翻弄される。いつの間にか自己中心的なハートになっていたりする。人類全体が思考にベースを置いて生きているので、その壁は厚い。でも、その壁を貫いて宇宙から目覚めを促すエネルギーが届いている。そのエネルギーと共に思考の壁を超えるしかない。自分の外に意識を取られないで、自分自身を見守る。まず思考の動きを見守る。意識が思考に翻弄されていないか注意する。それから、フォーカスがハートから離れていないか見守る。フォーカスがハートから離れ、思考の海を彷徨っていたら、それに気づいて、ハートに戻る。ハートを自分の母港とする。常にハートを意識しながら行動する。意識の中心をハートに置き、冒険の旅に出る。形に囚われることはない。自由に生きればいい。ハートは目には見えない。意識の中心にあればいいだけ。胸の中心のハートを意識しながら生きればいいだけ。地球のアセンションよりも、自分自身のアセンションを意識した方がいい。地球まかせではなく、自分自身でアセンションする方が確実だ。多くの人が意識の中でアセンションする時、百匹目のサル現象が起きるだろう。ハートとハートは共振し、多くの人のハートが目覚めることだろう。今は百匹のサルが目覚めるために、日記を書いているようなものだろうか。誰かが百匹のサルになる必要がある。そうでない限り、人類の目覚めは起きない。地球まかせではなく、人類は人類としてやるべきことがある。ただハートに意識のベースを置くだけのことなのに、膨大な文章を書いている。一人一人が意識の中心をハートに置けばいいだけ。ところが、それが簡単にはいかないので、この膨大な量の文章となってしまった。後から振り返れば、どうしてあんな単純なことができなかったのだろうと思うかもしれない。しかし、思考の渦に巻き込まれていると、何がなんだかわからなくなるのだ。その思考の混乱を解(ほど)くために、延々と書き連ねている。思考の絡まった糸を解くのは簡単ではない。十重二十重(とえはたえ)?いや、もう何重になっているのかさえわからない。過去世から人類がつくってきた思い込みの膨大な渦。殺し殺され、犯し犯され・・・傷つけ傷つけられ、裏切り裏切られ・・・恨みや憎しみや、怒りや恐れ・・・それらの複雑な思い込みの固まりを解いていく必要があるのだ。そのための膨大な文章量。ハー、気が遠くなりそう。それもまた自分が選んだ道。生き甲斐?そういうことかもしれない。書くことによって、自分自身もクリアーになっている。一緒にクリアーになる道。そういう選択をしたということ。いや、そういう約束をしてきたのかもしれない。みんなで一緒にアセンションしよう!楽しい、楽しい、ワクワクする時代に共に生まれ、一緒にアセンションしよう!これまでの長い永い輪廻転生の総決算。フィナーレをみんなで祝おうとしているのかもしれない。そう、ここは祝杯の場かもしれない。アセンションに乾杯!そのためのスペースかもしれない。さて、さて、どうなることやら・・・アセンションストーリーは続く。思考をマスターすることが、アセンションの必要条件。ハートに中心を置くことが、アセンションの十分条件。アセンションのための必要十分条件は、思考を理解し、意識の中心をハートに置くこと。『思考から ハートへ移る アセンション 意識のフォーカス ハートに合わせる』これが390日目の心境です。
2006.01.26
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「傷つくこと[2]」の続き最後は、ぴあのさんですね。「私は過去三度、大きく傷ついたことがあります。三度とも、相手からの私を否定する言葉で。一度目は母。大学受験に失敗した私をなじった。憎々しい射るようなあの目は今でも忘れられない。芸術の世界はとてもお金がかかる。私には莫大なお金をつぎ込んでもらった。それはすべて、母にとっては私が志望校に入るためのものだったのか・・・?娘のブランドを自慢したいだけのものだったのか・・・?元々母との関係が良くなかった私に、母を嫌悪する最後のパンチとなり、長年しこりが残っていた。二度目は友達と話をしていて 何気なく精神世界の話をしたらその人は物事をすべてプラズマで解決するタイプの人だったらしく私を 「おもいっきり軽蔑するわ」 と言葉にだして 嘲笑されたとき。さっきまで仲良く談笑していた友達。私はショックで その友達の前で泣いてしまった。三度目は十年来の親友に突然電話で絶交を言い渡されとき。パニックになって泣いて泣いて そして怒りに変わった。なぜ私が絶交されなければならないの?なんてひどい人!信じられない!今までの友情って一体なんだったの!?自分の存在を否定されると傷つく。プライドを傷つけられると傷つく。そういうパターンだったと思う。今は・・・きっと 傷つかない。何を言われても。その人の気持ちも理解してあげられる。どんな理不尽なことを言われたとしてもその人には その言葉を出す その人なりの理由があるのだ と考える。その人の気持ちを考えてみる。傷つく時は 自分で自分で精一杯なのだと思う。だから 何か言われると 即 反応してしまう。すべてが 『私』 中心。自我の世界。自分は ”被害者”、相手は ”加害者”、そういう思考なのだと思う。今は、相手の気持ちを受け止める。ただ、黙って。その人を理解する。そして、愛を送り返す。」自分の存在を否定されると、傷つく。それが傷つくことの基本パターンです。その傷つく「自分」の中身は、思い込み。自分がつくってきた思い込みワールド。それが自分です。その思い込みの自分が否定されると傷つく。まさに自分中心の世界です。自分が否定されると傷つく、ただそれだけの世界。愛の一欠片(ひとかけら)もありません。自分さえよければいい世界です。別にそれさえも否定する必要はありません。それはそれ。事実は事実。ただ、それを明確に自覚することです。深く自覚できたら、その世界から離れる。本来の自由な世界に戻る。ただそれだけです。相手の気持ちを受け止めるというスタンスはいいよね。ゆっくりと構えて、慌てないで、相手の気持ちをわかってあげるといい。そうすれば誤解は解ける。相手も自分の思い込みに気づく。相手も自分の思い込みから人を傷つけるようなことを行っている。相手も自分も同じ。思い込みと思い込みがぶつかりあっているだけ。まさに思い込みワールド。思い込みと思い込みが、傷つけあっているだけ。その世界にいる限り、傷つくことは避けがたい。思い込みワールドから抜けない限り、安全はない。静かに見守る。見守りワールドには、心のやすらぎがある。傷つく心配もない。ただすべてを無条件に見守る。やさしく、あたたかく見守る。それは、まるで太陽のよう。太陽に雲はない。太陽に闇はない。太陽は傷つくことはない。『長すぎて 読むのが大変? ごめんなさい 何度も読んで 理解(わか)ってほしい』『思い込み ワールド超えて 雲超えて 青空の中 光る太陽』これが389日目の心境です。
2006.01.25
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「傷つくこと[1]」の続き次は、せきせきさんですね。「心が傷つく理由は人それぞれ違う。自分の世界の中のこだわりやコンプレックスのストライクゾーンに当たれば傷つく。傷つく時は心の自由を失っている。心が固くなっている。傷を受け入れる準備をしているようなもの。空気の流れない部屋で、息苦しくなるように、流れの悪い川のように、心はよどみ、不自由になる。でも、それも結局自分が自分で行っていること。心の致命傷、心が死ぬとは、傷つくことをそれ以上感じないために、自分で心を消してしまうこと。自分が傷ついているか、傷ついてないかも、心があるのかもわからなくなること。人に支配されるのが何も感じなくなるということ。心が死んでいく人を次々見ることもまた心が傷つく、だから、皆も進んで自分の心を殺す。肉体は生きているのに、心は死んでいる。やがて、そんな状況を何も感じない世界になる。心の衰退はゆがんだ世界を生み出す。私は、子供の頃こんな世界に何年かいたことがあって。でも、戦争とかもそういう世界かな。アウシュビッツのような世界も。そして、実はゆるやかにみえる今のこの社会や世界も。これからは深い心で生きることを選ぼう。ゆっくり優しく見守りながら。最近のホームワークで充分整理できました。ありがとうございました。 」こだわりやコンプレックスがあるということは、傷つく準備ができているということですね。心は固くなり、しなやかさを失って、些細なことにも傷つくようになっている。それは自分がやっていることであって、他の人のせいではない。自分が自分で自分が傷つくようにセットしている。それが実際のところでしょうか。誰かが自分を傷つけた?しかし、傷つく準備ができていない人を傷つけることはできません。否定的なエネルギーを受け止める準備のできている人だけが傷つくのです。思い込みやこだわりやコンプレックスのない人を傷つけることはできません。天真爛漫な人を、どうやって傷つけることができるのでしょうか。いくら傷つけたくても、傷つけることはできないのです。傷つくのは、自分の中にたくさんの思い込みやこだわりや囚われや執着を持っている人です。前提条件や先入観、偏見や固定観念。信仰や信念、価値観や人生観。固定的なものは、必ず傷つきます。しなやかなものだけが傷つかないのです。これ以上傷つかないために自分の感受性を封印してしまう。亀のように甲羅の中に閉じ籠もって自分を守ろうとする。甲羅の中とは、自分の価値観の世界。自分だけの安全な世界。外とは隔絶された世界です。そこにいる限り傷つくことはありません。傷つけるのは、自分以外の他の人だから。他の人との接触を断てば、傷つくことはないのです。たとえ他の人と接触しても、感受性を切断すれば、他の人から傷つけられる心配はありません。完全に自分一人の世界です。しかし、そのようにして生きることは、少しも楽しくありません。生きる喜びも、また遮断されてしまうからです。やがて、甲羅の中からほんの少し頭を出してみます。また傷つきそうであれば、すぐに甲羅の中へ戻れるようにしておいて、外の様子をうかがうのです。一人ではさびしすぎるのですね。それを繰り返している人も多いようです。もっと正々堂々と、のびやかに、活き活きと生きることはできないのでしょうか。何も恐れることなく、自分自身を生きることはできないのでしょうか。それは不可能ではありません。本気でその気になれば、可能です。自分自身を注意深く見守っていけば、それは可能なのです。それを延々と、繰り返し、ここでは書いているだけです。次は、たろうくんですね。「『自分はどんな時に傷つくのか』 以前の自分が傷つく時は、自分のことを信じてもらえない時や、 信じていた相手に非難されたりしたときに傷ついていました。 でも、以前の同じ課題のホームワークで、kimiさんよりお言葉をいただき、 私の自我や思い込みが生んだ感情だと、少しずつ見つめることができるようになったので、 以前のように、自分が傷つけられたんだという被害者のような意識はなくなったように思います。『何に傷つくのか』 以前は自分のプライドが傷ついたと感じていたように思います。 今は、何に傷つくのかと見つめてみましたが、う~~~ん。。。 立ち止まったり、悩んだりしていることはあるかと思いますが、 傷ついているという意識で見つめることはなくなってきているので、 ちょっと思いつきませんでした。『何が致命傷になりそうか』。 今の私に致命傷になるもの。。。 色々見つめてみましたが、今の自分に致命傷と考えれば数多くあるかもしれません。 自分や家族、愛する人達の存在etc... でも、その時の私は致命傷じゃないかもしれない。 致命傷だと感じてしまえば、それに囚われてしまう。 起こるべきものをあるがままに受けとめていきたいと思います。」以前のホームワークが生きていますね。ちゃんと身に付いている。すばらしい!人は被害者をやりたがるのですね。自分を正当化するために、相手を加害者にして、自分を被害者にする。そうやって自分を守ろうとするのですね。傷つける相手が、悪い。傷つけられた自分は、少しも悪くない。むしろ、かわいそうな被害者であり、弱者なのだ。そんな自分を傷つけるなんて・・・なんてあの人はひどい人なの・・・そうやって自分を正当化し、自分を守る人生。それは言い訳の人生であり、解釈の人生。本当はヒロインを演じたいのに、それができないので悲劇のヒロインに甘んじる。いずれにしろ、みんなに認められたいことに変わりはありません。自分を否定されると、自分を悲劇のヒロインにしてまで認めさせようとする。そうしないと自分が居たたまれない。自分を維持できないのですね。それもまた自己保存の本能。自分を守るための思考の悲しい所行。それもまた否定することはありません。ただ、ただ、理解すること。深く理解して乗り越えること。プライド。それは自分自身に他なりません。プライドが傷つくことは、自分自身が傷つくこと。プライドが傷つくことは、自分自身が否定されること。プライドも、また思い込み。思い込みこそが、自分。その思い込みが否定されて、傷つく。そんな傷つくような思い込みは、捨ててしまえばいいのに。捨てられない。なぜなら、それが自分だから。それ以外に自分はないから。しっかり自分の思い込みにしがみつく。執着。苦しみ。虚しい。というパターン。自分の囚われや拘りや執着を、よーく見守っているといいよね。気づいたら、手離せばいい。思い込みに気づいて、それを手離す。別に難しいことではない。楽に、ゆったりと構えて取りかかればいい。何も問題はない。OK。万事OK。次は、アリスさんですね。「私にとって致命傷とは、最愛の人を失うこと。心が傷つくとは、自分の心がバラバラになって自分の存在を拒否すること。自分の愚かさや、劣等感が明るみに出た時に、自分で自分を否定し、攻撃し、自分をゆるさないで、自分で自分の心を傷つけてきました。周りの人から受け入れてもらえない、という恐怖心から身を守る為に、それ以上の恐怖を自分に与えていたようです。小さいころから、自分の存在価値を見出せないままでいました。でも数十年間ここまで生きてきて、このまま生きていても大丈夫だ、ということがわかってきました。いろんな人との出会いを通じて、今のありのままの自分の尊さを感じています。もう、自分を傷つけるのは、やめました。心から私を愛しています。」心から自分を愛するといいよね。自分を傷つける必要はない。自分という存在を、大切にやさしく見守っていくといい。自分を守るために自分を傷つける。人は、とても複雑なことをします。自分の愚かさが表に出た時に、それを否定することによって、自分を正当化しようとする。本当はそんな自分じゃない・・・それが根底にはあります。周りの人から受け入れてもらえない事実が判明する前に、受け入れられるわけがないと自分で自分を否定してみせる。予防線を張って自分を守ろうとする。人はあの手この手で自分を守ろうとします。それはそれでいい。別に否定する必要はありません。むしろ、素直に認めればいい。認めた上で、更に深く自分を見つめる。そうすれば別の可能性も生まれます。人は、身構えて自分を守ろうとする。それには人それぞれのスタンスがあります。それはそれでいい。素直に認めてあげればいい。でも、そうやって身構えなくても生きていける道があるかもしれない。もっと楽に、もっと自由に生きれるかもしれない。そういう可能性を追求してみる価値はあるでしょう。それがこのサイトです。「傷つくこと[3]」へ続く
2006.01.25
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今日の屋久島は、おだやかに晴れています。パソコンは、もう風前の灯火(ともしび)です。もうしばらく保ってほしいのですが・・・傷つくことに関するホームワークを見ていきましょう。テーマは次のようなものでした。自分はどんな時に傷つくのか。何に傷つくのか。何が致命傷になりそうか。自分を見ながら、心が傷つくとはどういうことか、もう一度深く見つめてみてください。 最初は、藍aiさんですね。「ここに来る皆さんは、とても物事を深く考えられる方々ばかり。。。藍は単純なので、あまり難しくは考えられないけれど。。あたし自身が深く傷つく時は、いままで心から信頼していた人に裏切られる時です。それは人だけではなく価値観でも。。。いままで信じてきた価値観が、心から信じられなくなった時に自分の生きてきた意味も失いそうになる危うさを感じます。そして、3人の子供を持つ母として、その子供達が危険に晒されたり、子供達が、ひどく苦しむようなことがあった時、あたしはとても傷つき苦しみます。もし、自分の子供達に何かあったとき。。たとえば命を失うとか。。そうなったときは、藍も生きてはいられなくなる。。そういまは思います。自分の命をかえても惜しくない子供達を失うことは、あたしにとって自分の命を失うよりも苦しく辛いことです。だから、誰であれ生命が脅かされるということは悪であると藍は思います。ましてや大量殺人。。つまり戦争は、あたしの中では絶対悪です。なんの罪もない子供や女性が殺されてしまうことを仕方ないことだとは思えません。そういうことを言う人は、大抵は独り身の男性だと思います。命を育んできた者にとって、たいせつな人の死を簡単に受け入れることなどできません。 もし、子供達が命の危険に晒されたら、藍は命がけで生き延びて欲しいと願うことでしょう。愛する者を失う辛さは、一言では説明できないと思います。誰もが、そのとき自分が身代わりになれば良かったと切実に思うことでしょう。そう思うと、心の傷と肉体が傷を受けることとは大きく違うと思います。自分ひとりなら死ねるかもしれない。でも、愛する人が死ぬのは、とても辛すぎる。その傷は、一生消えないと思います。すみません。。書いているうちに支離滅裂になってきました。自分の言いたいことが、よく分からなくなってきた。ごめんなさい。。。」信頼していた人に裏切られる時、傷つくのですね。信じていた価値観が信じられなくなった時も、傷ついてしまう。信頼できる人だと思っていたのが、そうではなかった。これこそは価値のあるものだと信じていたものが、そうではなかった。よくあることですね。人は、自分が思い込んだり信じたりしたことが、事実ではなかった時に傷つくのでしょうか。それは自分の思い込みや信仰が崩壊したということでしょうか。それは自分自身が否定されたような、自分自身が崩壊したような感じでしょうか。自分自身は思い込みや信仰そのものであったということでしょうか。だから、その信念体系や価値観が否定され、崩れた時、自分自身が崩れるようなショックを覚えるのでしょうか。それが傷つくということでしょうか。自分自身の否定と崩壊。それが傷つくということでしょうか。自分自身とは、思い込みであり、信じたことであり、価値観であり、信念ということでしょうか。傷つくとはどういうことか、更に深く見つめてみるといいでしょう。子供を愛することは、とてもすばらしいことですね。自分のお腹の中から生まれてきたので、強い一体感があるのでしょう。ぜひ大切に育ててください。ただ、一つ注意した方がいいのは、愛し過ぎると執着になるということです。執着とは、所有です。所有しているものが自分から取り上げられる時、多大の苦しみが伴います。愛して大切に育てるのはいい。でも、執着すると、子供の自由を奪ってしまいます。やさしく子供が育つのを見守るというスタンスがいいかもしれませんね。天より預かったものだから、保護が必要な間は大切に守り育てる。でも、子供の個性を尊重する。けっして自分の所有物ではないのですね。子供のいのちの発露を見守り育てるというスタンスがいいように思います。次は、陽風さんですね。「自分はどんな時に傷つくのか。相手に自分の気持ちが通じなかった時だったと思います。何に傷つくのか。自分が自分の思いに気付かなかったこと?何が致命傷になりそうか思い込み?今は思ったままを伝えているので傷付かなくなっているような気がします。前の感情を思い出してみました。相手も自分も言葉に余分なエネルギーがのっていなければ傷付かないような気がします。」 自分の気持ちが通じると思っていたのに、通じなかった時に傷つくのでしょうか。通じるという思い込みが否定された時に傷つくのでしょうか。思い込みが否定されたことが、自分が否定されたように感じるのでしょうか。思い込みと自分が一体化しているのでしょうか。自分の思い込みに気づけなかったことに傷つくのでしょうか。そのような思い込みを持っていたこと自体に傷つくのでしょうか。自分にはそのような思い込みはないと思い込んでいたのでしょうか。いずれにしても、思い込みが外れた時に傷つくようですね。思い込みが外れることは、自分が否定されるのと同じことなのでしょうか。自分は思い込みでしょうか。余分な感情的なエネルギーを乗せないで、思ったままを伝えているので傷つかない?お互いにそうであれば、傷つかないかもしれませんね。でも、相手が感情的なエネルギーを乗せて伝えてきたら?それでも傷つかない?相手の感情的なエネルギーに反応しなければ傷つきはしません。でも、思い込みがあると、つい反応してしまいます。自分の中の思い込みに気づくことでしょうか。相手の言葉に反応する自分の思い込みに気づく。相手の言葉によって傷つく自分の思い込みに気づく。気づいた時に、手離すということでしょうか。次は、石ころ館店主さんですね。「まず、『傷つく』のは、実は自分で自分を傷つけているのだ、と言われますね。誰かに何かをされた、言われたことが原因ではない。それは単なるきっかけ。では、なぜ自分に傷をつけ、『痛み』を感じるのでしょう。そこを見ていくと原因にたどり着くと思います。『致命傷』の原因、正体は『価値観』ではないでしょうか。トラウマ、こだわり。美意識すらその範疇でしょう。こだわりが大きいと、そこに反するようなものに触れた時、痛みが大きくなるのでは?。 もし、その痛みが『致命傷』となるなら、それはこだわり、トラウマとして固めて作り上げたものが大きいということでしょうか。固めて作り上げたもの、それを『自分』だと思っている。それを揺るがすもの、崩壊の危機を感じさせるものに出会うと、極端に反応する。自分が致命傷を受けたとすら思ってしまう。でも、自分はそんなもの、固めて作ったようなものではない、と分かれば、そもそも『致命傷』などあり得なくなってしまう。たとえ千の刃が降ってきても、それが刺さって切り裂くべきものがなければ、どこにも傷はつかない、そんな気がします。以前、友人が『あの人の言葉って、トゲがあるのよね』とある人を指して言っていました。確かにトゲがあるのかも。でも、もっと問題?なのは、そのトゲを引っ掛けてしまうササクレがこちらにもある、ということかなあ。自分の中にも実は、気づかないところで、たくさん固まりがあると思います。どんな刃が潜んでいるか、それが出てきたら、自分がどう反応するか、今は分かりません。でも、日常の小さな事から一つずつ向き合い、落ち着いて見つめて行く自分になりたい。 たとえ『致命傷』と思われるような状況になっても、それを冷静に見据えていく自分になりたいですね。自分が今、頭で考えたことが本当なのか、体験し、自分の中に収めて行くことを続けて行けば、もっと楽しい自分になれる、と。」ほぼパーフェクトな回答でしょうか。そのとおりでしょう。トゲのある言葉が飛んできた時、どうするか。思い込みがあれば、そのトゲが思い込みに刺さってしまいます。当然、自動的に反応し、ショックを受けます。トゲとは、否定するエネルギーです。そのようなエネルギーに遭遇した時、たいていの場合は反発します。自分を守ろうとして自動的に反応するのですね。それは守るべき自分があるからです。それは価値観であり信念であり信仰であるかもしれません。いずれも自分の思い込みです。その思い込みこそが自分を形成しています。だから、その思い込みを否定されると、自分を否定されたように感じて傷つくのですね。 もし自分の中に思い込みがなければ、トゲのある言葉は素通りしていきます。どのような否定的なエネルギーも、キャッチしなければ通り過ぎます。自分がキャッチするから、その影響を受けるのです。自分の中の思い込みを否定されると、自動的に自分が否定されたように思い込んで、傷つくのです。思い込みの連鎖反応です。つまり、自分というのは、思い込みでできているのです。思い込みの連鎖反応、それが自分の実体ではないでしょうか。もちろん、それには実体はありません。常に揺れ動いています。固定しているものはないのです。つまり、自分の実体はないのです。ただのエネルギー場に過ぎません。自分があると思っているのも、また思い込みなのです。どこにも自分はありません。人は数え切れないほどの思い込みを抱えて存在しています。それらの思い込みは、いろんな状況の下で出てきます。特に自分が否定されたと感じる時は、自分の思い込みが否定されているのです。そういう時は、自分の思い込みに気づくチャンスです。傷ついている場合ではありません。自分の思い込みに気づくのです。どうして自分は傷ついているのだろう?よーく自分を見つめるチャンスなのです。傷つくことは、思い込みがある限り起こり得ます。ですから、傷つくことを恐れないでください。それよりも、傷つくことによって自分の思い込みに気づけることを喜んでください。そういうスタンスであれば、傷つくことは怖いことではなくなります。絶好の機会なのです。思い込みに気づき、思い込みから自由になる最高のチャンスです。ぜひその機会を生かしてください。「傷つくこと[2]」へ続きます。
2006.01.25
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今日の屋久島は、さわやかに晴れ上がっている。にもかかわらず、寒い。放射冷却?水道の水も冷たかった。食事を減らし始めた頃、ガスを止めた。夏場だったので、まったくガスは使わなかった。冬場になって、お茶を沸かすのにガスがいることに気づいた。慌ててカセットコンロを買った。今はカセットコンロで煮炊きをしている。特に不便はない。但し、瞬間湯沸かし器が使えないので、水道水で食器を洗ったり、顔を洗ったりすることになる。いかに屋久島といえども、冬場の水道水は冷たい。しかし、朝、冷たい水で顔を洗うとスッキリする。ただ、顔を洗う時に少し気合がいる。それも悪くはない。だらだらと生きるよりも、時に気合いを入れて生きるのもいいものだ。3月になれば暖かくなる。あと一ヶ月で気合はいらなくなる。10時33分に種子島でロケットの打ち上げがあった。見物の人が近所に集まって来た。知り合いも見物に来た。一緒に見に行く。突然、大きな火の玉のような光が種子島の上空に上がった。それは順調に上へ登って行った。しばらくして轟音が響いた。しかし、今日は逆風のためか、それほど大きな音ではなかった。音がするまでは無声映画を見ているようだった。(この時の写真は、明日の「屋久島ナチュラルヒーリング」のHPのトップに掲載する予定です)昨日は天気が良かったので、久しぶりに買い物に行った。店で子供たちを見かけた。まだ学校へ行く前の子や小学校低学年の子。顔がとてもスッキリしていた。エネルギーの歪みがない感じ。赤ちゃんや小さな子供を見ていると気持ちがいい。なぜだろう?エネルギーがスーッと通っているからだろうか。大人は?気持ちがいいとは限らない。なぜ?エネルギーが屈折している?素直ではない?何か歪んでいる?抵抗がある?子供たちのようにシンプルではない。何が違うのだろう?子供たちは、よけいなことはあまり考えない。単純に生きている。野生動物とどこか似ている。シンプルで、さわやかだ。大人は?とてもシンプルとは言えない。何が?何かが・・・疑り深くなっている?素直に言葉を受け取れない?心をオープンにして生きてない?いつも自分を守ろうとしている?小さな子供たちのように、のびやかに、おおらかには生きていない。どうしてそうなってしまったのだろうか。たくさん傷ついてきたから?もう傷つきたくないから?傷つくのが怖いから?恐れ?恐怖と共に生きている?傷つくとはどういうことだろう?何が傷つくのだろう?褒められると、だいたい嬉しいものだが、けなされると、おおむね嬉しくない。女性の場合、「お肌がきれいですね」と言われれば、たいていの人は喜ぶ。ところが、男から「ブス!」と面と向かって言われると、傷つかない女性はほとんどいないだろう。多くの場合、自分を肯定されると喜び、否定されると傷つく。しかし・・・「あなたは頭が悪い」と言われると、どうだろう?傷つく人もいれば、傷つかない人もいる。自分は頭がいいと思っている人は、傷つく。でも、自分は頭が悪いと思っている人は、深く傷つくことはない。中学校で成績がトップクラスの子が、一流進学高へ行ってビリの方になる。「オマエは頭が悪い」と言われると、ショックかも知れない。その子にとって頭がいいことだけが誇りだったりすると、その傷はなおさら深くなる。野球が得意な子が、高校野球の名門校に入る。中学ではレギュラーだったのに、高校では補欠にすらなれない。プライドはボロボロ、深く傷ついてしまう。中学で体育が苦手だった子が、高校で初めて水泳部に入る。もちろん、いつもビリ。でも、けっして傷ついたりはしない。自分が運動神経が鈍いことを自覚しているから。日本語で「バカ!」と外国人に叫ぶ。しかし、外国人はキョトンとしている。アフリカの人が現地の言葉で日本人に「オマエはバカだ」と言う。しかし、日本人は笑っている。意味がわからなければ、何を言われても傷つくことはない。では、何が傷つくのだろうか。自分の思い込みとは違うことを言われると、人は傷つくのだろうか。頭がいいと思っている人に、「こんなこともわからないの」と言う。スタイルがいいと思っている人に、「太っている」と言う。スポーツ万能と思っている人に、「うすのろ」と言う。その人の思い込みと逆のことを言えば、その人は確実に傷つくだろうか。あるいは、その人のウイークポイントを指摘しても、傷つくだろうか。また、人に隠しておきたいことをみんなの前で指摘しても、深く傷つくだろうか。それらのことは、その人にとって認めたくないこと。そうはありたくない自分。そうであってはいけない自分。そういう思い込みだろうか。その逆を言われると、人は深く傷つくだろうか。要するに、傷つくか傷つかないかは、その人の思い込みにかかっているだろうか。思い込みに反することを言われると傷つくのだろうか。致命傷とは、自分が最もこだわっている思い込みのことだろうか。それを指摘されると、決定的に傷つくのだろうか。傷つくとはどういうことだろう?自分が思っていたイメージと逆のことを言われて、ショックなのだろうか。思い込みがズタズタにされたということだろうか。体の傷が細胞が切り裂かれることのように、心の傷は思い込みが切り裂かれることだろうか。思い込みが破壊されることが、心理的に傷つくということだろうか。それ以外に傷つくということがあるのだろうか。傷つくものは何だろう?自分の思い込みが、相手によって否定される時、人はショックを受けるのだろうか。それが傷つくということだろうか。しかし、思い込みがない時、何を言われても人は傷つかないだろうか。思い込みが多ければ多いほど、傷つきやすくなるだろうか。素直でスッキリした顔の子供たちが、いつの間にか複雑で歪んだ顔になってしまう。それは思い込みが増えるからだろうか。言葉を自分流に受け止め、自分流に解釈するのが、思い込みだろうか。それが自我と呼ばれるものだろうか。それは先入観であり、偏見であり、固定観念であり、信念であり、信仰であり、イメージだろうか。それらの総体が自我と呼ばれるものだろうか。すべては自分がつくりあげた思い込みだろうか。思い込みのエネルギー場が、自我と呼ばれるものだろうか。何もない空っぽの心は、さわやかだ。エネルギーはスーッと通り、何の抵抗もない。思い込みを外し、軽やかに生きる。これからはそういう時代になるだろう。『抵抗の ないのが健康 心身は 空っぽスッキリ 軽くさわやか』これが388日目の心境です。
2006.01.24
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今日の屋久島は、久しぶりに陽射しが見える。パソコンは極めて不安定。いろいろ問い合わせてみたが、やはりモニターの問題らしい。とりあえず、テレビにつないで急場を凌ごうと思ったが・・・接続ケーブルのピンが合わない。パソコンは29ピン。テレビは15ピン。結局、29ピンと15ピンを接続するアダプターを購入することに。もちろん屋久島にはないので、ネットでオーダーしたが、店にも在庫がなく、取り寄せに。屋久島に着くのは一週間ぐらい先になりそう。その間、このモニターが保つかどうか・・・今も時々、点滅したり、画面が小さくなったり、もう字が見えないほど暗くなったり・・・画面が左側にずれてしまうと、スタートボタンが見えなくなってしまう。そうなると、パソコンを消すのに直接、電源スイッチを切るしかなくなる。パソコンが壊れてしまう?目が痛いのなんの・・・早くアダプターが届くことを祈るのみ。最近は、思考のカラクリについて書いている。今日は、欲望について書く。欲望はどこからやってくるのだろう?元をたどれば、これも自己保存の本能に行き着く。食欲と性欲と安全欲。それは動物の本能だ。これがなければ種族を維持できない。だから、本能自体は何も問題はない。動物には本能はあるが、欲望はない。では、欲望はどこから生じるのだろうか。最近の悪役は、決まって思考。ここでも思考の出番となる。ベースは本能。しかし、思考はそれをより確実に確保しようとする。ストック、ストック、ストック・・・欲望は限りない。食料だけではない。自らの安全を確保するために、軍隊を創設し、軍備を整える。相手が軍備を増強すれば、こちらも負けてはいられない。自分の安全がお金で確保できると思う人は、お金に走る。いくら溜めても、完全に安心はできない。いつ盗まれるかもしれないし、いつハイパーインフレになるかもしれない。より安全を確かなものにするために、土地や貴金属も確保する。しかし、財産が増えれば増えるほど、盗まれる危険性も増す。安全を確保しようとすればするほど、心のやすらぎは遠くなる。それだけではない。病気になったら元も子もない。健康のためにジムに通い、健康補助食品を大量に飲みまくる。それでも、地震が来たらひとたまりもない。地震にも負けない耐震構造の家を建てるしかない。それでも、ミサイルが飛んできたら耐えられない。庭にシェルターを掘るしかない。しかし、毒ガスや細菌戦になったら・・・心配や不安はキリがない。安全対策を施せば施すほど、不安はいや増すばかり。いくら万全の安全対策をしても、風邪さえ防げない。新型のインフルエンザが大流行したら、一歩も外に出れなくなってしまう。ハンバーグもアメリカ産牛肉は危険なので食べられない。ヘタにセックスしようものなら、常にエイズの危険が付きまとう。どこにも安全確実は見当たらない。考えれば考えるほど、危険は増すばかり。安全に対する欲望は果てしない。しかし、その欲望そのものが、不安の原因となっている。これではイタチごっこ?いや、自分の尻尾を追いかけ回す犬だ。安全を求めれば求めるほど、安全は遠ざかる。安全を求めれば求めるほど、不安が増大する。美味しいものをいくら食べても、一日に食べられる量は知れている。ところが、食欲というのは限界がない。美味しいものを求めて世界中から珍味を集める。美味しい店を探して世界中を食べ歩く。性欲も肉体的には限界がある。連日連夜、何人もの人と交わり続けることは不可能だ。にもかかわらず、性欲に限りはない。魅力的な人を求める旅は終わらない。食欲も性欲も肉体的には限界がある。動物たちは本能の範囲内で生きている。ところが、人間だけは、自分が食べられる範囲を越えて食糧を備蓄しようとする。よそでは飢え死にしている人がいても、美食にふけり大量の残飯を出す。世界中の魅力的な異性を独り占めにしようとする。欲望は自己中心的だ。自分さえよければいい。自分の安全が確保されれば、他のことはどうでもいい。それが極めて短絡的な思考であることには気づかない。それがやがて身を滅ぼすことになろうとは、その時になるまで気づかない。本能には限界がある。しかし、欲望に限界はない。それは本能が肉体に基づいているのに対して、欲望が思考に基づいているからだ。思考に限界はない。考えることに限りはない。その欲望と欲望がぶつかり合い、戦いが起きる。それは果てしない戦いとなる。憎しみと恨みがぶつかり合う。それは子々孫々にまで受け継がれる。アラブとイスラエルの戦いは、いつ果てるとも知れない。すべては思考がつくり出す罠。思考は必要以上のものを確保しようとする。足ることを知らない思考に限界はない。そういう思考の性質を知って、どうするか。思考任せにしていては、地球は危ない。思考の思うままに翻弄されては、地球は破滅してしまう。理性的に話し合う?しかし、思考は疑り深い。相手を信頼する術(すべ)を知らない。何を信頼するのだろう?人間性?いかなる人間性?これまでの歴史を振り返れば、裏切りと下克上の歴史以外の何ものでもない。それではお互いを信頼することはできない。アラブとイスラエルが、どうやってお互いを信頼するというのか。それは憎しみと恨みの歴史そのものだ。思考のレベルで信頼を見出すのは不可能に近い。では、いかにして地上に平和をもたらすのか。いかにして欲望の無制限の跳梁を抑えるのか。感情に訴えても、一時的なものでしかない。理性に訴えても、思考の猜疑心に邪魔される。では、どうやって・・・たぶん、思考を超えたものによって、としか言いようがない。第四チャクラ、即ちハートによって、としか答えようがない。ハートには、既に信頼関係がある。ハートの中には、思考の猜疑心を超えた相互信頼が眠っている。そのハートを呼び覚ます?たぶん、それしかないだろう。ハートが思考の上に立つ時、地球は平和になるだろう。そうでない限り、地球の平和の可能性は見当たらない。思考に翻弄されない。思考の奴隷にならない。思考をマスターする。思考を自由に使いこなす主体となる。欲望に振り回されない。欲望の性質を見極める。欲望は不安の裏返しでしかないことを見抜く。欲望に心のやすらぎはないことを深く自覚する。多くの人が、思考ではなくハートをベースにして生きる時、地球の新しい時代がやってくるだろう。それまでは欲望をベースとした争いは収まらないだろう。思考に中心がある限り、本能と自己同一化した欲望の拡大は避けられない。ただハートに中心が移った時にだけ、相互信頼をベースとした社会が成り立つ可能性がある。思考を見守り、思考を理解し、思考を超える。ハートにベースを置き、ハートで生きる。ハートの時代の到来だけが、新しい平和の地球を切り開く。『時満ちて 多くのハートが 開く時 地球の平和 自(おの)ずからなる』『人類の 永き争い 終わらせる ハートの時代 目の前に見ゆ』『自(みずか)らの ベースをハートに 置き換えて 地球の平和 共に開かん』これが387日目の心境です。
2006.01.23
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ホームワーク [恐怖] 1よりの続き次は、優しい気持ちさんですね。>身を守るための本能として存在する恐怖が、なぜこんなにも問題のあるものになってしまったのだろうか。本来肉体的な自己保存のためにある恐怖、目の前に起こる、ただその時の状況に対して、恐怖感をいだき、その危機的な状況を回避しようと対処することには問題がありません。恐怖を経験したときの状況から対策を学び、頭にインプットしておくことも問題ないと思います。しかし、人間の思考は、仮想の出来事、将来起こるかもしれない出来事を想定して、頭の中で恐怖感をいだき、まだ起こりもしない事象に対し準備や対処しようとするから問題なのではないかと思います。それによって「今ここ」を生きるということから外れていくのだと思います。「今ここ」に対する意識が無いということです。その要因の一つとして、社会的な破滅というものがあると思います。昔は肉体的な死が恐怖の対象の大部分だったと思いますが、 現代社会では社会的な死というものも、とても大きな恐怖となっているということはないでしょうか。また、生きている限り、いろんな恐怖がありながら、ただ一つの恐怖に思考を縛り付けることで現実から逃避しようとするということもあるでしょうか。思考による現実からの逃避です。」確かに、恐怖というのは、一つの現実逃避ですね。今の目の前の事実から目を逸らし、遠い未来の恐怖に逃げ込む。そうすることで現実に直面しないですむ。今を生きたくないのでしょうか。今を認めたくないのでしょうか。恐怖というのは、今ここから外れることです。過去か未来へ逃避することが恐怖です。それは思考のイマジネーションの世界に逃げ込むことです。ところが、いつの間にか、それが自分を縛ることになります。現実から逃げたつもりが、今度は自分が思い描いた恐怖の現実に縛られるのです。幻想の恐怖が現実の恐怖に変わるのです。そういう事実を理解する必要があります。理解して、その泥沼から抜け出すのです。思考の底なし沼です。思考は使い方を誤ると、とんでもない結果になります。戦争も飢餓も思考の誤った使い方の結果でしょう。誤った使い方とは、恐怖です。必要以上の恐怖をつくり出し、その陥穽(かんせい)にハマってしまうのです。思考の暴走に歯止めをかける必要があります。思考は野放しにしてはいけないのです。きちんとその性質を理解し、有効に活用すべきなのです。それが今の人類の緊急の課題ではないでしょうか。次は、やちよさんですね。「何を恐れているのか。何が怖いのか。 人が怖い。 人の態度、人の言葉、人の目、人の心が怖いです。 自分にとって心地好くないと思い込んでいる態度・言葉・目・心です。どうしてそんなに恐れるのか。 自分の過去の反応を思い出すから。 その反応とは、誰にも会いたくなくなる。絶望感に支配される。 ゴハンが喉を通らない。胸が苦しい。胃が痛い。生きる事が嫌になるなど。 さらに、その反応を知られることが恐怖ですね。ダメ人間に決定されてしまう恐怖です。 理想の自分は、かわいがられ、褒められて、いつも心地好い自分だから。 それと...過去世にひどい事をされたのではないかと思っている自分がいます。 異常に「恐怖」を感じてしまう自分が少し不思議なので、それで納得しようとしてるかな。恐怖が、なぜこんなにも問題のあるものになってしまったのだろうか。 恐怖からは、「戦争」「殺人」のようなものしか生まれない。 人には「思考」があるばっかりに、間違った方向へ進んでしまった。」ダメ人間と見なされることは、生きにくくなることですね。かわいがられ、褒められ、心地よい自分であることは、生きやすいのですね。それも元をたどれば自己保存の本能に行き着きます。それはそれで否定する必要はありません。では、何が問題なのでしょうか。それは弱さでしょうか。あなたまかせというか、周りの人に左右されているというか・・・自分で環境をクリエイトしていく力強さがあまり感じられないことでしょうか。周りから嫌われないように。みんなに好かれるように。周りからどう思われるか。そういう受け身のスタンスでしょうか。それが恐怖をつくり出しているのでしょうか。もちろん思考が恐怖をつくり出していますが、それは思考が悪いからではありません。使い方を誤っているだけです。思考がなければ、今の文明は成り立ちません。思考は必要です。正しく使えば、とても役に立ちます。使い方を誤ると、人を殺すことにも戦争にもつながります。思考に使われないで、思考を使いこなすことでしょうか。主体性を持って、自分の世界をクリエイトしていくことでしょうか。思考に振り回され、恐怖に翻弄されないでください。思考を理解し、思考を縦横に使いこなしてください。すべては、あなたにかかっています。思考が問題ではないのです。それを使う主体の問題です。思考を理解し、人生を自由にクリエイトしましょう!次は、せきせきさんですね。「世界はいつも怖かったです。被害者になるか、加害者になるかの中だけの世界に浸かっていたから。病になってからは、人が離れていったり、お金の事や、必要のない人になる恐怖。体の変化と痛みの恐怖。考え出せば、どこまでも恐怖を増やせた。痛みの恐怖で、葛藤し宗教も入った。人を勧誘すれば、体が良くなるとも聞いた。やれなかったし、とても学びも多かったが、恐怖に支配されると何でもやるという追い詰められる気持ち、突き進む力を知った。そして恐怖から逃げることは、恐怖を増幅させることが今はわかります。でも、恐怖体験をしたのに、恐怖を増やすことのできないこともあった。執拗に狙われてサスペンス劇場の様な危なさだったのに。何が違ったのだろう。たぶん私は考えなかったから。その時は体で精一杯で色々重なったから、考えなくて事実をたんたんと対処したから。どうも恐怖とは、すごい体験だから恐怖が大きいわけではないみたい。私がもし、痛みの恐怖で宗教にはまり、無理やり勧誘し他の宗教の批判をしていたらそれは世界の宗教の争いと変わらないかも?犯罪被害にあって、家から出られなくなるほど警戒したり、武器を大量に家に持ち、外からガードしたら、それは、戒厳令を発令することや、国のミサイル保有と変わらないのかも?(実際、沢山の防犯グッズをかかせないし、スタンガンもほしかったし)私の中に、今の世界の出発点がある。皆恐怖がある?だから、学校では、枠を出さないような方法をとり、法律内に収める?人を下にみようとしたり、怒りで威嚇する?パワーゲームのように?そう、怒りをぶつけられた私も震えていたけれど、狂乱して怒る人も震えていた。力と侮辱で脅すようにする人や、追い詰めるようにしていく人も。涙がでました。私の恐怖に。その方達の恐怖に。ありがとうございます。」考え出せば、どこまでも恐怖を増幅させることができますね。逆に、考えなければ、恐怖なしで生きることもできます。ただ事実と共に生きられれば、恐怖はありません。必要もないことを考えすぎるところから恐怖は生まれます。事実に恐怖はありません。恐怖が増殖していけば、原爆があっても水爆があっても足りません。何があっても恐怖の増殖には追いつけないからです。次々に新しい恐怖が生み出され、恐怖から自由になることは永遠にできません。それは恐怖という枠内でゲームをしているからです。いくら強い武器を手に入れても、相手が更に強いものを手に入れたらどうしようという思考が働けば、強い武器は無力となります。事実と共に生きる。取り越し苦労をしない。それを徹底するしかありません。それが徹底されれば、恐怖や不安から生み出される戦争や病気は一掃されることでしょう。心身は光の下で健(すこ)やかに育つでしょう。もう闇は姿を見せることはないでしょう。理解することです。恐怖のシステムを。理解して乗り越えることですよ。次は、ぴあのさんですね。「この瞬間、今ここを白紙で生きていたら恐怖はありませんよね。kimiさんに 今ここ、白紙 と言われ続けて?早一年・・・(笑)かなりな恐怖が私の中から消えていった とみられます。本能としてインプットされている恐怖は別として、思考が作り出す恐怖におびえていた日々。実際 起こってもいないことを あれこれ取り越し苦労をしていたり・・・すべて、意識が 今ここ にないときに起こりますよね。それらは、先のことを思い煩うから でありました。あるいは、過去の様々な記憶、周りからのインプットを思い起こしてしまう。イメージ、妄想、幻・・・それらに囚われてしまい、自分を縛ってしまう。もし、自分にとって恐怖に値することが実際現実に起こったら、その時 その場で勇気を持って立ち向かう それしかないように思います。(・・と、きっぱり書きましたが 最後のこの二行は理想です)」ほぼパーフェクトな回答ですね。唯一、もう一つ付け加えるならば、勇気の他に注意力でしょうか。日々、注意深く生きることですよ。それに尽きますね。思考の渦に巻き込まれないように、注意深く生きる。思考に翻弄されないように、しっかりとした主体性を持つことですね。最後は、陽風さんですね。「恐怖を見つめてみました。最初は 恐怖→怒り→悲しみと続いて気が付きました。恐怖=思い込み?自分が創りだした現実にただ恐怖を抱いているのではないかと…。自分を縛り付けているのではないかと。」その通りでしょうね。恐怖とは、思い込みです。自分でつくり出しているだけのものですよ。実体のないもの。フィクション。幻想。イリュージョン。事実と共に生きれば、恐怖はありません。肉体的・本能的恐怖はあるかもしれません。しかし、それは永続するものではありません。それは極めて短時間のものです。なぜなら、そんな危ないところに、いつまでもいないからです。永続する恐怖は思考の中だけに存在します。それは思い込みということです。それ以外に永続する恐怖などというものはありません。ただ事実があるだけです。そこには恐怖はないのです。恐怖のない世界というのが、本当の世界です。山や森や海では、常に危険が付きまといます。ですから、常に注意が必要です。でも、恐怖心はありません。注意深くさえあればいいのです。それが恐怖を乗り越えるのに、最も必要なものです。
2006.01.22
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一昨日のホームワークを見てみましょう。テーマは次のようなものでした。「身を守るための本能として存在する恐怖が、なぜこんなにも問題のあるものになってしまったのだろうか。自分自身の中にある恐怖をよーく見つめて答えてほしい。何を恐れているのか。何が怖いのか。どうしてそんなに恐れるのか・・・・」では、最初に夢子さんの回答から見ていきましょう。「今朝目覚めて、こんな感情が何故出てくるの?と思った。昨夜半kimiさんの日記に心を鎮められ、感謝のコメントを書き込んで、熟睡したのに。目覚めと共にきた予想外の感情。コメントに書いた彼女を攻撃したい自分の攻撃性を見た。その攻撃性の中に幼い時に味わった人格を正当に扱われない無念、哀しみ、怒りを見た。何と言う破壊性、攻撃性、暴力性をそれらの感情は備えているのだ!これらは、人間関係の中で醸成され、血の繋がりによって、親から子へと刷り込まれ続ける形で人類が引き継いできたものだろう。原初は個別になった肉体の安寧を維持する為にのみ、使われていた感情が、自分以外の人やものと拘わるうちに、個別化された肉体ゆえに他との間に齟齬が生れ、そこから自己保存の感情が生じたのか。強烈に心に残るのは自分の自由を奪われる恐怖。それが、自由に自分の好む生き方を選択出来なくさせている縛りだとの憤激。恐怖は外から与えられるという考え。相手の思いと出方ががこちらを縛るとの恐怖。だから、自分が自由に生きられるように相手を縛らねばとの攻撃心。これらの私の過去から発せられている悲鳴たちに耳を傾けている今の自分はどんな体感をしているのかしら?と感じてみた。意外にも、私は微笑んでいる!私は羽根の下に雛たちを抱えためん鳥のように、悲鳴達を自分の周りに引き寄せて、優しく見守っている。これは、光の時代とkimiさんの光の場のおかげだ。私の中にある、血の繋がりと共に引き継いできてしまった恐怖とそこから派生した暴力性や攻撃性、残忍さを 私は微笑みながら見守っている。私は悲鳴達の言い分によーく耳を傾け、充分に言語化してあげ、受け取ってやって、それらが私から巣立つ飛翔の日を楽しみにしている。あれっ、この文はkimiさんのホームワークへの答えになってない?ご免なさい。おゆるしを!」自分の中の攻撃性。その奥にある、自分の自由を奪われる恐怖。それはいのちの発露を抑えられるということでしょうか。自分のいのちを抑えられることは、生きることを否定されることです。そうなると、逆に反発してしまいます。自分を守るために相手を攻撃します。それが人類史と言っても過言ではないかもしれません。抑圧し、抑圧され・・・攻撃し、攻撃され・・・自分を守るために戦ってきた個人史であり人類史です。その中で恐怖というものが大きな役割を演じてきました。恐怖に駆られて先制攻撃をし、必要以上に殺し合ってきたのです。恐怖の自己増殖による戦争の歴史。もうそれも終わらせてもいい頃でしょう。それには恐怖を理解し、マスターする必要があります。恐怖がなければ、必要以上に人を攻撃することもないでしょう。もっと冷静に話ができるはずです。お互いに落ち着いて話し合えば、平和の道も開けます。それは国と国との場合も、個人間も同じことです。自分の中の恐怖をよーく見守り、理解しましょう。親鳥のように、たくさんの恐怖をやさしく包み込み、あたたかく抱いてあげましょう。そうすれば、やがてそれらの恐怖は、あたたかさの中で溶けていくことでしょう。自分を守ろうとすることから、すべての恐怖が発生します。本能的な自己保存は問題ありません。思考がつくり出す必要以上の恐怖が問題なのです。身を守るための恐怖が、いつの間にか身を苛(さいな)むものになってしまうのです。恐怖の連鎖反応を止めなければなりません。それには、恐怖を恐れないで直視することです。直視して、やさしく包み込み、理解する。それはただの幻であることを心から理解することです。次は、あかねさんですね。「私は何が怖いのだろう?これは、最近私も気になっています。世間の評価。お金がなくなること。自由への、恐怖があります。私の家は以前商売をしていて、親戚一同皆そうでした。だから、お金は努力して稼ぐもの。一円でも無駄にしてはいけないという感覚。だから、休みの日でも家にいろということ。でも、父だけが商売を手広く広げすぎ、頓挫。そのときの恐怖感が今でも根底にあります。世間的な評価を失ったという思いや、生活の一変。親戚から、色々といわれたこと。派手な暮らしをしたから、こうなったという思い。だから、これからは地味に何も欲しがらず、自分の要求も言わずに暮らそうという思いがありました。そういう、幼い時の恐怖を引きずっています。人から見た自分がどうなのか? そのほうが気になって自分の要求があいまいなまま。今は、時々、子供に向かっています。意味もなく怒り散らしています。私が良い人であろうとしすぎているのかもしれないです。自分で判断する、その責任を取ることを恐れるあまり、もっと大きな恐怖を作り出し、それにしがみついている状態だと思います。それで、自分を動けない状態にして、殻の中にいた状態でしょうか?ただ、それには限界があるので、限界が来たときに、とんでもない方向に流れ出して行きます。一人ぼっちの感覚も怖いのでしょう。人の流れに乗る方が、ずっと楽ですから、絶対安心な流れが出てくるまで待っていようかという気持ち。もし、ここで自分だけが楽しい思いや、自分を出してしまったら、後で何か悪いことが怒るんじゃないか?誰かから攻撃されるのではないか?という思い。それが、根強いですね。だから、私はお金を使うことが怖かった。本当に欲しいものを手に入れるのが怖かった。そして、一つ手に入れたら、次が欲しくなるというその感情が怖かった。欲はきりがないので。少しずつ、小出しにしていく必要があるのでしょうね。」恐怖について、すごくわかりやすく書いていただいていますね。大多数の人の中にある恐怖が、ほとんど網羅されています。まずこれだけでもすばらしい。しっかり今の時代の人間を生きていますね。それは事実と共に生きていないということを意味します。恐怖と共に生きているのですね。恐怖が人生の原動力になっています。別の言い方をすると、自分を守ろうとして生きているのですね。それが悪いと言っているわけではありません。ただの事実です。その元は自己保存の本能です。それに思考が加わって、より複雑になっているだけです。ほとんど鉄壁の防御でしょうか。ところが、鎧(よろい)が重すぎるのですね。重すぎて身動きがとれない。身を守ろうとするあまり、人生の喜びというものが希薄になるのです。ダイナミックに思いっきり生きるなんて、夢のまた夢。保身第一に小さく縮こまって生きるしかない。そんな感じでしょうか。そういう人生もあります。それも一つの体験としては悪くはありません。だから、そのままでもいいのです。でも、別の生き方もあります。それは恐怖に支配されない生き方です。恐怖を乗り越えて自由に生きる生き方です。どちらでも可能です。自分で決めてください。恐怖は思い込みです。もうあんな思いは二度としたくないという思い込み。それがまた起きるかもしれないという思い込み。つまり、取り越し苦労です。事実ではありません。自分がつくりだした幻想を恐れているだけです。ありもしないもの。まだ起きてもいないもの。それをあるかもしれないと思い、起きるかもしれないと思って怖がっているだけです。事実は、まだ起きていないということです。事実と共に生きるのか、恐怖の幻想と共に生きるのか。もちろん、恐れを抱き続けていれば、それが現実化するでしょう。なぜなら、思い続けているのだから。思い続けていれば、いつの日か現実化するというのが、この世の法則です。それはポジティブなものであれ、ネガティブなものであれ同じです。恐れるのではなくて、理解すること。理解すれば、自由になります。恐れている限り、不自由のままです。深く深く、恐れの実体を見つめてみてください。それは自分がつくり出しているだけのものです。自分がつくって自分が恐れているだけです。自縄自縛。それが思考の罠です。思考に翻弄されないでください。思考を理解してください。そして、思考から自由になってください。あなたは思考でも、恐れでもないのですから。あなたは本来自由な存在なのですから。あなたは本来自由であるが故に、恐れそのものにもなれるし、自由にもなれます。恐れそのものにもなれる自由すら持っている自由な存在なのです。ということは、当然、元の自由にも戻れるはずです。どちらの生き方も可能です。でも、もうそろそろ恐れそのものになるのはやめてもいい時期かもしれません。自由に生きてもいいのですよ。恐れを手離し、大空に羽ばたいてみるのもいいものですよ。すべてあなた次第です。ホームワーク [恐怖] 2 へ続く
2006.01.22
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今日の屋久島は曇っている。少し寒い。昨日、部屋のレイアウトを大幅に変更した。パソコンの設置場所も変えた。ほとんど大掃除だった。デスクトップのパソコンを動かすのは大変だ。コードが網の目のようになっている。しかし、いろいろ変えてみたが、結局、パソコンの状態は変わらなかった。画面が暗く、時々、点滅したり、画面が小さくなったりする。モニターの寿命だろうか。毎日、すごく使っているので、そうであっても驚きはしない。むしろよくやっていると感謝してもいいくらいだ。値段の割には超活躍してくれた。このままでは新しいのを買うしかないようだ。今年の秋にXPの次の機種が出たら買い換えようと思っていた。しかし、予定が少し早まるかもしれない。せっかく買うなら、これまでのものとは違うものにしたい。今、いろんなモデルを検討し始めている。買うとなれば、支払いは夏のボーナス一括払いだろう。8月までに働いて稼げばいい。最近は、このパターンが多い。お金のストックは、ほとんどないに等しい。むしろクレジットカードのローンが常にある状態だ。それでもなんとかなっている。不思議だ・・・自己保存の本能である恐怖については、何も問題はない。では、何が問題をつくり出すのだろうか。その犯人は、思考だ。思考が過去の恐怖体験を基に、未来の恐怖を必要以上に煽(あお)り立てる。それが自由な行動を制限する。過去の恐怖体験は貴重な財産だ。それは自分の身を守るのに役に立つ。実際、動物はそのようにして生きている。ところが、人間は?人間は恐怖体験を生かしきれていない。むしろ、恐怖体験に縛られて生きている。未来の恐怖を考えすぎるあまり、身動きがとれなくなっている場合が多い。それでは、何のための恐怖体験だったのかわからなくなってしまう。経験は生かすためにある。自分を縛るためにあるのではない。失恋を経験する。そうすると、新しい恋に慎重になる。それはいい。同じ過ちを繰り返していたのでは何の進歩もない。学習したことは生かして使えばいいだけだ。しかし、失恋の恐怖のために新しい恋ができなくなっては本末転倒だ。慎重であるのはいい。しかし、慎重すぎては新しいことは何もできない。過去の恐怖体験は、黄信号。しかし、赤信号ではない。注意して進めではあっても、けっしてストップではない。それは失恋に限らない。事業の失敗。受験の失敗。結婚の失敗。就職の失敗。数え上げればきりがない。ありとあらゆる失敗は、同じ過ちを繰り返すなという注意信号。その経験から学び、それを生かして使えばいいだけだ。ところが、あまりにも失敗を恐れると、それがいつの間にか赤信号に変わってしまう。新しいことに何もチャレンジできなくなる。世間を狭くし、自分の中に閉じ籠もるようになる。経験を生かすのではなくて、経験に縛られるようになる。恐怖は生かして使うものだ。せっかく備わっている自己保存の本能だ。それを適切に活用することなのだ。必要以上に思考で恐怖を増幅しない。過去の経験は記憶の片隅に置いておいて、今にチャレンジする。過去の経験は生かす。しかし、過去の経験に支配はさせない。そこのところを肝に銘じて自覚する必要がある。思考がつくり出す恐怖から自由になる必要があるのだ。本能が感じる恐怖は実在のものだ。しかし、思考がつくり出す恐怖は幻だ。事実と共に生きる。本能的な恐怖は尊重する。しかし、思考がつくり出す幻の恐怖には支配されない。過去の恐怖体験を、けっして赤信号にはしない。黄信号として、注意して進む。人は死を恐れる。まだ死んだことがないのに恐れるのはヘンな話だ。まだ自分は未経験なのに、なぜ死を恐れるのだろうか。それは身の回りの人の死から、思考が自分の死を類推するからだろうか。死にそうな目に遭うことはある。しかし、死んではいない。死に直面した時に本能的な恐怖はある。それは何も問題はない。しかし、まったく死の危険性がないのに死を恐れる必要はない。それは思考がつくり出す罠だ。人はいつかは死ぬ。しかし、死ぬまでは生きている。今を生きればいい。先のことを思い煩う必要はない。それは思考の空回りだ。今を注意深く生きればいいのだ。未来のあらゆる可能性を冷静に検討するのはいい。しかし、それはあくまで可能性に過ぎない。考えすぎて恐怖に支配されないことだ。未来は自分でクリエイトすればいい。過去の恐怖に支配されないで、自由に思い描けばいい。そうすれば、それが未来からやって来る。もういつまでも恐怖に支配されている時代ではない。思考がつくり出す恐怖のカラクリに気づく時。思考がつくり出す恐怖から自由になる時なのだ。注意して進めば、何も恐れることはない。思考がつくり出す恐怖の幻想に支配されない。事実と共に生きる。思考に幻惑されないで、しっかりとグランディングして進む。注意深さが、あらゆる幻想を吹き払う。思考に支配されない。思考を使いこなす。しっかりと主体性を持ち、注意深く生きる。『完全に 自由になれる 恐怖から 思考に負けず 注意すること』『幻想の 恐怖にいつも 支配され 自由に生きる 道を忘れる』『本能の 恐怖を超えて つくり出す 思考の罠に 気づくしかない』『目の前の 事実かどうか もう一度 恐怖を見つめ 確かめてみる』これが386日目の心境です。
2006.01.22
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今日も屋久島は雨。それほど寒くはない。昨日の午後からパソコンの調子がおかしい。深夜3時までいろいろ調整してみたが、まだ回復していない。画面が暗くなったり、ちらついたり、あるいは消えたり・・・目が痛い。でも、まだ辛うじて日記は書ける。プロバイダーのサポートも土日は休み。しばらく短めの日記になるかも。昨日のコメント欄に次のような書き込みがあった。「深い心で生きようとすると、善い悪いや、個体との感覚が薄らいでくるということなのですよね。私自身、深く、愛の中では、怒りや憎しみまでもやわらげる感覚は体感しました。実際、深い宇宙のような心では、絶対に、どんなことでも大丈夫であると。自分を傷つけられるのは、自分以外何もないとも思っています。でも、現在、精神だけではなく、実際は肉体を持っている人間です。たとえば、肉体を傷つけられて、それが致命傷になれば生命を終えます。首に手をかけられれば、深い心よりも、まず、個体としての維持のため、反応にでます。 これは間違っていないですよね?全体としての深い心と、個を守るための術、どこで境界線があるのでしょうか。たとえば、肉体を傷つけられるのと同じくらい、その一言が、致命傷になることもあります。でも、心に受けるものは直接個体がなくなることとは関係ないからいいのでしょうか。 全ての人が深い心で、生きるとき、もう、自己保存の力は要らなくなると思います。でも、そこまでたどり着く間、個として保つ力と、全体を深く愛する力、そのバランスはとても難しい、現実の世界では。とてもとても難しい。たとえば、相手が体を傷つけて、だまって、静かにいると、相手は落ち着くでしょう。 相手が何かを言って、静かに見守っていれば落ち着くでしょう。こちらが怒りと恐怖で戦う気持ちを持たなければ。でも、生命ある者には限りがあります。深い心には限りがないですが。見守りの中で、自己保存の力を使えばいいのでしょうか。・・・ごめんなさい。また考えすぎですね。ちょっと怒りからズレてしまいましたね。」殺されそうになったら自分の命を守る?そういう場合もあれば、そのまま殺される場合もあるようだ。それなりの深い境地になった人の場合、過去世のカルマで殺されそうになったら、それを精算するために静かに殺されたという話は何度か聞いたことがある。歴史上のかなり有名な人たち。いずれも仏教に関わる人たち。肉体の命よりも更に深いものを見ていたのだろうか。もちろん、殺されないために逃げることもできただろう。他の方法もあったに違いない。でも、彼等は従容(しょうよう)として死を受け入れた。それも一つの生き方。自分の肉体の命を守るのも大切なこと。自分であれ他人であれ、命を守ることに変わりはない。そのために相手の命を奪うのでは、あまり意味はないが、お互いの命を尊重するのは意味があるだろう。どちらでも可能。選択可能。決めつけることもない。その時、その場の状況で決めればいい。心が傷つくことに関しては、もう少し深く見る必要があるかもしれない。致命傷?ある人にとっては致命傷になるものも、別の人にとってはどうということもない場合もある。普段であれば何ともないものも、ある状況では致命傷になることもある。肉体の場合は単純。傷つくとは、くっついている細胞が切り裂かれること。では、心の場合は?傷つくとはどういうことだろうか。肉体の場合は心臓を深く刺されれば、たいていの人は死ぬ。ところが、心の場合は、どこが致命傷になるか一定していない。致命傷とは何だろう?心が傷つくとはどういうことだろう?これもまたホームワークにちょうどいい。昨日出たばかりなのに?パソコンの画面が薄くなり、もう字が消えそう。これ以上は無理なので、やはりホームワークということにしよう。24日の午前10時までにBBSに書き込んでください。参加は自由です。誰でも参加できます。自分はどんな時に傷つくのか。何に傷つくのか。何が致命傷になりそうか。自分を見ながら、心が傷つくとはどういうことか、もう一度深く見つめてみてください。『身を守る いのちもあれば 身を捨てて 永久(とわ)のいのちを 生きるいのちも』これが385日目の心境です。
2006.01.21
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今日も屋久島は雨が降っている。目の前の山は、上半分くらいが雲に隠れて見えない。連日の雨で、落(おとす)の滝が増水しているのがわかる。今日は恐怖について書く。恐怖は多くの人の心の中で大きなウエイトを占めている。恐怖に占領され、身動きがとれない人すらいる。潔癖性、然り。神経症も同じようなものだろうか。恐怖とは何だろう?道を歩いていて、交差点でスピードを出した自転車が突然現れて怖い思いをしたことのある人もいるかもしれない。自転車やバイクに乗っていて、自動車とニアミスをした経験のある人もいるだろう。犬に吠えられたり、追いかけられたりしても怖い。屋久島では雄ザルに威嚇された人もいるかもしれない。これは迫力があって、男でもビビってしまう。いろんな恐怖がある。しかし、これらは肉体的・本能的な恐怖。それは自己保存の本能から来る。それがなければ自分の身を守ることはできない。それは必要な恐怖なのだ。動物にも人間にも自分の安全を確保するために、本能として恐怖というものがインプットされている。それは必要なものであり、何も問題はない。では、恐怖は何も問題はないのだろうか。そんなことはない。失恋の恐怖のために、自由に恋愛できない人もいる。太るのが怖くて、拒食症になる人もいる。周りの目を恐れて、自閉症になる子供もいる。失敗の恐怖のために、新しいことにチャレンジできない人も多い。ミスを恐れ、ミスを犯す人も後を絶たない。幼い頃からの失敗の積み重ねは、大きな恐怖を潜在意識の中に育てている。身の安全を守るための恐怖が、どうして自分を縛るものに変わってしまったのだろうか。何が恐怖を問題にしているのだろうか。ここまで書いて、この先を書くのを躊躇した。もちろん、この先も書くことは用意してある。しかし、みんなこちらが書いてしまったのでは、あまり意味をなさない。ここは手抜きといこう。そう、読んでいる人に答を書いてもらおう。少なくとも一度は自分で考えてみる方がいい。正面から恐怖に対峙した方がいいのだ。そうしない限り、一生恐怖に怯えながら過ごすことになる。それでは人生を思う存分謳歌できない。身を守るための本能として存在する恐怖が、なぜこんなにも問題のあるものになってしまったのだろうか。これが本日のホームワークです。1月22日の午前10時までにBBSに書き込んでください。自分自身の中にある恐怖をよーく見つめて答えてほしい。何を恐れているのか。何が怖いのか。どうしてそんなに恐れるのか・・・・わーい、ラクチン!でも、このやり方が読んでいる人の理解を最も深めることができる。人が書いたものをただ読むのではなく、自分自身で自分の中の恐怖を見つめてみるといい。そこから気づきや発見がある。大切なことは、書かれていることを記憶することではない。恐怖から自由になることだ。そのためにはフィールドワークが必要なのだ。自分自身の内面というフィールドで、静かに深く見つめてみるといい。細やかに自分の中の恐怖をチェックし、どうして怖がっているのか理解するといい。何も怖いものがない人は幸せだ。そういう人は、どうして人類は恐怖に縛られているのかよーく考察してみるといい。恐怖から自由になる!ここ数日中に完全に恐怖から自由になる!ハイ、その気があれば可能です。それはあなたの人生において画期的なことになるでしょう。その結果、人生の可能性が幾百万倍にも膨らむことでしょう。参加費は?なんと、タダ!信じられない価格!ハー、そんなところが他にある?少なくとも、ここにはある。まあ、気が向いたら参加してください。参加は自由です。『恐怖から 完全自由に なることは 心豊かに 生きる前提』これが384日目の心境です。
2006.01.20
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雨の屋久島が続いている。暖かい屋久島も続いている。このまま春?は、怪しいが、そんなに寒くはない日々。この程度であれば、ヒーターはいらない。怒りに対して怒りで応じれば、火に油を注ぐようなもの。相手が怒ると、ついこちらもつられて反応してしまう。ほとんどオートマチックに怒りで反応しようとする。あるいは、恐怖で反応する人もいる。はたまた、始めに恐怖が、次に怒りが出てくる人もいる。プラスかマイナスか形は違っても、自動的に反応することに違いはない。こちらが怒りで返せば、相手は更なる怒りで返してくる。こちらが恐怖で反応すれば、相手は更に嵩(かさ)にかかってくる。相手の怒りに対して、こちらはどのように対応したらいいのだろうか。まず、冷静に聞く。相手がどうして怒っているのか。相手をわかろうとするスタンスが、相手の怒りを静める。いずれにしても、相手につられて感情的に反応しないこと。つまり、普段の自分を見失わないこと。冷静に、静かに対応すること。相手が怒ると、普通は身構える。相手が自分を攻撃していると思い、自動的に自分を守ろうとする。それは自己保存の本能に近い。それはそれでいい。しかし、それだけでは足りない。身を守るために反撃することも、身を守るために頑(かたく)なになることも、適切な対応とは言い難い。静かに状況を見守る。静かに相手の気持ちをわかろうとする。自分の心が動揺しないことが何よりも肝要。心が動揺していては、何をやっても的外れになる。自分で墓穴を掘るか、相手の怒りを増幅させる結果に終わる。まず心を静める。そして、何が起こっているのか状況を見極める。冷静であれば、対応のしようもある。心が動揺していては、的確に動くことはできない。表面の心は動揺し、自動的に反応しようとする。しかし、それに負けない。ぐっと踏ん張って、表面の心を見守る。怒りに怒りで対応しようとしていないか。怒りに恐怖で対応しようとしていないか。怒りに、ひたすら身を守るためだけに反応しようとしていないか。保身のために自動的に自己弁護しようとしていないか。よーく見極める。自動的に反応しないで、よーく自身を見守る。そして、冷静になってから対応する。それでも遅くはない。怒りとは、元々、自己保存の本能に源を持つものではないだろうか。自分の身が危なくなりそうな時、人は怒るのではないだろうか。自分が気に入らない時や自分が無視された時にも怒る。それらも元をたどれば、自身の立場が危なくなることに起因する。自分の身を守ろうとするところから、怒りが沸く。自分の立場が危ないと思い込むところから、怒りは起きる。大切なことは、相手の安全を脅かすつもりはないことを伝えることではないだろうか。相手の立場を極力尊重することを知らせれば、怒りは収まる。安全が確保されれば、怒る理由はない。まず相手の気持ちをわかろうと努める。そして、相手の気持ちがわかったら、相手の安全を保証する。相手の気持ちがわかるまでは、静かにしている。けっして慌てない。落ち着いて静かに対応すれば、事態は変わる。怒りに対して動揺した状態で反応しても、エネルギー状態は変わらない。それでは怒りの連鎖反応が起きるだけ。場のエネルギーを転換する必要がある。それには静かさがいる。自分自身が静かでない限り、場の転換はできない。怒りという火を鎮めてしまうほどの静かさが必要なのだ。自分の静かさで相手の怒りの火を消す。そのくらいの心の深さがあれば言うことはない。相手をわかろうとする深い心。自分をわかろうとする深い心。その心の深さが怒りを鎮める。表面の波立つ心で生きるのか、それとも深い心で生きるのか。どちらでも可能。だが、結果はおのずと異なる。表面の心で生きることは、都会の喧噪の中で生きるようなものだろうか。深い心で生きることは、静かな森の中で生きるようなものだろうか。騒音と喧噪の中で生きたいのか。静かな自然の中で生きたいのか。人それぞれの人生。深く、深く生きる時、その静けさは周りにも影響を与える。周りの人たちも、いつの間にか深く生きるようになる。自分自身のエネルギーが周りの環境を創り出す。環境のせいにして生きるのも人生。環境を変化させて生きるのも人生。どちらも、この地球での人生。怒りは自己保存から生まれる。怒りに対する怒りも自己保存から生まれる。自己保存と自己保存がぶつかり合う。それでは動物と変わらない。思考が介在する分、厄介になる。怒りに怒りで反応しない。自己保存に自己保存で反応しない。怒りを包み込み、自己保存を包み込む。それだけが怒りを鎮める。静かに見守り、ゆっくりと対応する。怒りと同じ次元の意識で対応しない。深い意識だけが包み込むことができる。すべてを包み込み、見守る。そういう意識だけが、怒りを鎮められる。『静かさに 怒りも消えて 表面の 波立つ心 深く静まる』これが383日目の心境です。
2006.01.19
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雨模様の一日だった。久しぶりに水晶のネットサーフィンをした。透明な水晶のクラスターが目に止まったが、買うには至らなかった。意外なことに、ゴールドルチルクオーツのクラスターもあった。新しいストーンショップを数軒お気に入りに追加した。執着というのは、人を地上に縛りつけるものだろうか。執着があるために、人は再び地上に生まれて来るのだろうか。執着がなければ、また生まれることもないのだろうか。逆に言うと、執着があるということは、それだけ地球に興味があるということだろうか。興味があるから、また生まれて来るのだろうか。元々、人は肉体の中にありながらも、自分の大きな意識ともつながっていたらしい。ところが、輪廻転生を繰り返す間に、いつの間にかそのつながりが途絶えてしまった。それはあまりにも物質に囚われてしまったからだろうか。興味や関心のレベルを超えて、虜(とりこ)になってしまったのだろうか。物質が持つ魅力。肉体の快感。食欲と性欲。そして、所有欲。人は、いつの間にか、それらの中に浸りきってしまった。意識が物質化し、精神の深みを忘れてしまった。別にそれが悪いと言うわけではない。単なる事実。精神よりも物質の方に惹かれてしまったのだ。正確に言うと、純粋な精神よりも物質的精神の方に惹かれてしまった。欲望は物質にまつわる精神。しかし、十分に物質を楽しんだ魂は、そろそろ物質地球を卒業しようとしている。物質を思う存分体験し、心から味わい尽くし、深く理解すれば、次のステップへ行くしかない。物質にまつわる様々な人間関係も楽しい。一喜一憂。喜怒哀楽。悲喜こもごもの世界。まるで映画のようにドラマチック。そこでは常に自分が主役。まさに地球劇場。楽しい楽しい地球発ドラマ。しかし、それもクライマックスを迎えようとしている。どんなクライマックスが待っているのか、みんなが注目している。人は自分のクライマックスを自分で設定している。誰かがプログラムしたものではない。自分で自分のために決めている。物質地球でのクライマックス。これから最後の幕が開こうとしている。但し、執着をクリアーしてないと、物質地球を卒業することはできない。執着することは、地球に取り込まれること。自分の自由を失うこと。物質は、十分に堪能し、味わうもの。遠慮はいらない。思い残すことのないように、物質地球を思いっきり体験するといい。自分を抑えている観念や思い込みを外し、自由に生きてみるといい。一切の執着が残らないように完全燃焼する。執着とは不完全燃焼。まだ燻(くすぶ)っている燃え滓(かす)。そういう残滓が残らないように燃え尽きるといい。執着がなければ、人は自由。人は本来自由。ただ執着が人を縛っているだけ。執着が人を物質地球に縛りつけている。一つ一つのことを完了させ、執着を残さない。いつも何もない軽やかな状態でいる。心の引っかかりがあると不自由。心はしなやかに動けない。できるだけ心のこだわりをつくらないようにする。サラサラと流れる心がいい。何の滞(とどこお)りもない心は、常にさわやかだ。ゆったりと味わって、何の執着も残さずに生きよう。体験し、感謝し、そして、手離す。後に何も残さない。それがこれからの生き方だろうか。『サラサラと 流れる心の 潔(いさぎよ)さ 心残りを 何も残さず』これが382日目の心境です。
2006.01.18
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今日の屋久島は暖かい。まるで春のようだ。車を走らせていても、窓を開けないと暑いくらい。自宅に帰ってからも、あまりにも暖かいので、日記を書く前に洗濯をしてしまった。このまま春になるのだろうか・・・今日で3泊4日の旅が終わった。お客さんは、13時25分発の飛行機で鹿児島へ飛び立った。鹿児島から羽田、羽田から埼玉まで、かなり時間がかかりそう。今日は最初に、いつも水晶を浄化するところへ行った。ほとんど快晴で、海の色が美しかった。まず海で浄化し、次に川の流れに浸し、最後に太陽に当てた。お日様カンカンでよかった。ほぼパーフェクトの浄化。浄化したのは、彼女の水晶のネックレスとブレスレット。とてもきれいになった。水晶を川にひたしている間、彼女は川縁でお昼寝したり、両手を川に浸けたりしていた。こちらはススキを逆光で撮りまくっていた。金色にキラキラ光って美しかった。彼女は両手が軽くなったとのこと。彼女は屋久島の白い線の入った石も拾った。屋久島で彼女が拾ったものは、貝とサンゴと石。いずれも純粋な屋久島パワーに満ちている。誰も触っていない自然そのもの。どんなお土産よりもピュアーなエネルギーを持っている。しかも、タダ。これに屋久島の水を加えると、ほぼ自然のお土産パーフェクトバージョン。次に、屋久杉のストラップを買いに行く。目当ては木霊のストラップ。木工屋さんはお休みのため、ストラップが置いてあるお茶屋さんへ行く。いろんな形の木霊のストラップを7個購入。絶対に喜ばれそうなお土産と、彼女も嬉しそう。(確かに、これは超お薦め)その他に、無農薬のお茶も購入。お腹いっぱいで、抹茶のソフトクリームはパス。それから、益救(やく)神社へ行く。本当は初日に行った方がいいのだが、最終日になる場合が多い。お礼参り?帰り際、珍しく団体さんがやって来た。いつから観光名所になったの?屋久島産のものだけを扱っているお土産屋さんにも寄る。職場の人たちに、お菓子を購入。そして、屋久島ラーメンへ。いつもなら行列ができているのだが、今日は空いていた。さすがに冬場は行列はできないようだ。とても美味しかったようだが、ボリュームがありすぎて、ぜんぶは食べられなかった様子。お腹いっぱいで苦しそうだったので、宮之浦川の川沿いを散歩する。春のような陽気で、山々も霞がち。ちょうど1時頃に空港着。彼女を迎えに来た飛行機も15人ぐらいしか乗っていなかった。搭乗する人もそのくらいだった。もう少し便数を減らせばいいのに?と思ってしまう。どう考えても赤字だろう。余計なお世話?昨日は、白谷雲水峡のもののけ姫の森と木霊の森へ行った。いつもより緑が美しかった。目が気持ちいい。普段より水量も多かった。至るところにミニ滝ができていた。もののけ姫の森では長い時間、ゆったり休憩した。その間、7組ぐらいの観光客に出会った。この時期にしては多い。ガイドを付けているグループがほとんどだった。沢で写真を撮っている時、彼女はその日に買ったインスタントカメラを落としてしまった。なんとか拾い上げたが、既に冠水状態だった。とても使えるような状態ではなく、写真撮影は諦めるしかなかった。彼女の場合、もう一度来る必要のあるところでは写真撮影ができないらしい。今回も旅行前日にデジカメが壊れているのを発見。インスタントカメラも水没し、また来るしかないという結論に。今回の旅は突然思い立ったらしい。ネットサーフィンをしていたら 「いのちの島=屋久島」 に出会い、そこから 「屋久島ナチュラルヒーリング」 のHPへ飛び、どうしても屋久島に行きたくなったとのこと。暖かくなるまで待てなかったようだ。しかし、結果オーライ。彼女がいた4日間は、ほとんど3月下旬と変わらない気温だった。その上、3月下旬には見られない雪の屋久島まで見ることができた。木霊の森では、遂に携帯の写真もメモリーオーバーになってしまった。彼女は晴れ女らしく、木霊ちゃんの写真は撮れなかったようだ。もう一度、友達を連れて来るしかない。そう、雨男か雨女と一緒に・・・彼女もそのつもりらしい。今回はあまり時間がなかったので、木霊の森にいたのは1時間半ぐらいだった。彼女は一日中でもいたいみたいだった。大川の滝や永田いなか浜にも、もっといたかったかもしれない。水晶を浄化した場所も、とても気に入っていた。なにしろ屋久島全体が気に入ってしまったようだ。そういう人は多い。そういう人はリピーターになる。屋久島はリピーターが多いところだ。特に山が好きな人には、たまらないところだろう。いくらでも登るところがある。少し体力があれば、普通の人でも山に登れる。森や海もすばらしい。滝も温泉も、星も熱帯魚も揃っている。ないものはないと言ってもいいくらいだ。自然に関しては世界有数の恵まれたところだろう。しかも、生命力に充ち満ちている。3泊4日では短すぎるくらいだ。特に冬場は日が短いので、なおさらそう感じる。下見なら、ちょうどいいかもしれない。次回は更に楽しくなること間違いなし。もう3月・4月の予約が入りつつある。今年はかなり忙しそう。春になれば、屋久島へ来て4回目のシーズンとなる。回数を重ねる毎に内容も充実している。年々、屋久島の自然に同化できている感じがする。まだ屋久島の魅力は色褪せない。当分、屋久島暮らしが続きそうだ。『屋久島の 自然に抱かれ ゆったりと 自然の中で 自然に生きる』これが381日目の心境です。
2006.01.17
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昨日はヤクスギランドの150分コースへ行った。途中、誰にも会わなかった。森の中ではアクビが出る。里の暮らしで溜まっていたものを解放している感じ。アクビが出るたびに体に生気が満ちるのがわかる。森を歩いている間、ひっきりなしにアクビが出た。それはいつものことなので驚かなかった。でも、昨日は新しい発見が二つあった。一つは、思考が止まった時の森の感じ。その時、自分は完全になかった。ただ、目の前の森がリアリティを持って迫ってきた。まるで立体映画を見ているようだった。その色、その鮮度、その存在感、リアリティそのものだった。迫力がぜんぜん違った。思考がない世界は、森そのものだ。ただ森があるだけ。強烈に存在しているだけ。それは自分のない世界だった。ただ目の前に景色が写っているだけ。まるで映画を見ているようだった。とてもクリアーだった。しかし、一人ではないので、そんなに長くはその世界に浸れなかった。一応、ガイドなのだから。もう一つは、鳥の声。何種類もの鳥たちが遠くで繊細に鳴いていた。それをしばらく立ち止まって聞いていた。かなり長い間、じっと立っていた。その間も思考は停止していた。そうすると、鳥の声が頭の中でこだまする。頭のあちこちが微調整される感じがあった。とても心地よい。まるでヒーリングだった。自然そのもの。バードウォッチングではなく、バードヒヤリング?新しいヒーリングの分野?なにしろ心地よい。何も考えないで、ただ鳥の声だけを聞いている。聞いているというより、聴き入っている感じだろうか。いいなぁーとか、すばらしいなぁーとかもなく、ただ聴いている。そうすると鳥の声が頭の中に響く。あるのは鳥の声だけ。もっとも、沢のせせらぎとかも聞こえてはいる。しかし、鳥の微妙な声を聴いていると、あまり気にならない。頭の中がクリーニングされる感覚。ブレイン・クリーニング?冬場はあまり鳥は鳴かない。春先の方が大きな声で鳴いている。それが森の中に響き渡る。それも人の意識をクリアーにしてくれる。でも、冬の鳥たちの繊細な鳴き声もいい。脳が微妙に調整される。いずれにしても、新しいヒーリングの分野だ。バードヒーリング?バードリスニング?バードヒヤリング?但し、人が多いと、これは成り立たない。夏場にはたくさんの人が森に入るので、意外とうるさい。自然はうるさくないが、人はうるさい。若者たちは大声で話しながら森へやって来るし、最悪はラジオを聞きながら森へ入る人もいる。そんなものは里で聞いてほしい。自然の中に俗世を持って来てどうするの?何のために自然の中に入るの?まあ、いろんな人がいるので、それはそれ。事実を認めるしかない。バードヒーリングをやるなら、人の来ない森へ行ってやるしかない。だーれもいない森がいい。ただ木々と鳥たちと水があるところ。そんなところは屋久島にはいくらでもある。但し、一般ルートからは外れるので、多少危険もある。ガイドなしではお薦めできないが、ガイドが付いていれば大丈夫だろう。判断も、解釈も、好き嫌いもなく、ただありのままの自然と一緒にいる。一切思考を動かさない。木々を見、鳥の声を聴き、風を感じ、雲の動きを追う。ただ自然があるだけ。世俗の垢に染まったものは何もない。真に自然と一緒にいることを体験するには、人のいないところへ行くしかない。観光客もガイドもうるさい。ただ自然だけがうるさくない。屋久島の森には世俗はいらない。純粋な自然があればいい。何も考えないで自然の中に入るといい。思考では味わえないものがある。言葉にできないもの。言葉を超えたもの。静かに自然と共にあるといい。エコガイドは、屋久島の自然と文化を紹介するもの。それはそれでいい。でも、自分がやりたいのは、それではないようだ。里の文化に興味はない。関心があるのは、思考を超えた自然。自然そのもの。解説はいらない。解説は人間サイドの見方。そうではなくて、自然そのものを実感する。自然の持つ大きさ。畏敬の念さえ起こさせる自然のすばらしさ。そういう自然を共に体験したい。そういうガイドをやってみたいと思う。屋久島の一般のガイドに興味はない。そういう意味では、オリジナルコースを更に増やす必要がある。もっと森へ入り、人のいない安全なところを確保する必要がある。春になったら、探しに行こう。150分コースを歩いた後、紀元杉を見に行った。周りには雪がたくさん残っていた。紀元杉から先は除雪してなく、車では行けなかった。歩いて川上杉を見に行こうとしたが、雪に足が埋もれそうになったのでやめた。ちょうど夕陽が当たって美しそうだったので、見せてあげたかったのだが・・・太忠岳の天柱石も雲に隠れがちだった。次回来た時のお楽しみということだろうか。次回は天柱石まで登ろう・・・最後に湯泊の温泉へ行く。さすがに冬場は温度が低い。1時間半ほど入っていたが、十分にあたたまった感じはしなかった。地元の人も冬場は入りに来ない。ところが・・・自宅に帰ってみると、何かが違っていた。1時間半の温泉入浴は、やはり何かをもたらすようだ。頭の中が普段と違っていた。ボーッとしているような、頭の中に空間ができているような・・・頭がより自然になっている感じがした。自然はすごい!改めて感じた一日だった。自分が本当にしたいことを改めて気づかされた一日でもあった。『屋久島の 鳥のさえずり 木々の色 言葉を超えた 次元に誘(いざな)う』『繊細に 鳥の鳴き声 こだまして 脳のあちこち 自然調整』これが380日目の心境です。
2006.01.16
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昨日は午後1時に、お客さんが空港に到着。60人は乗れる飛行機から降りてきたのは、7~8人。こんなに乗客が少ないのは初めて。これでは赤字だろう。手荷物を預けたのは3人ほど。アッという間に手荷物が出てきた。普段では考えられないスピード。今の時期は一番観光客が少ない。どこのホテルもガラガラ。レンタカーも車庫で満車状態。2月末までは、この感じが続く。観光屋久島も、冬場はなかなか大変なのだ。しかし、乗客が少なかったせいか、飛行機はものすごく揺れたらしい。昨日から強風が吹きまくっていた。海も白波がたくさん。でも、寒くはない。なんとなく梅雨みたいに蒸し暑い。暖かいので、永田いなか浜に行くことにする。冬場の永田いなか浜は寒い。暖かい日に行っておくに限る。いなか浜には観光客はいなかった。その代わり、巨大な波が打ち寄せていた。それはそれはダイナミックな風景。波が崩れる時のブルーが、とても美しい。何回も何回もシャッターを切る。彼女は裸足になって波打ち際を歩く。波のしぶきを思う存分浴びている。雄大ないなか浜を独り占め。そんな彼女の遠景と打ち寄せる大波を写真に撮る。まるで映画のポスターみたい。途中から陽が射してきて、それがまたサーチライトかカクテル光線のよう。ファインダーから目が離せない。彼女は一人で波と戯れ、こちらは一人でカメラと戯れ・・・ガイドは?フリータイム?遠くから見守っていればいい?それがベストガイド?彼女は体が軽くなったと言った。1時間も経っていないが、足の裏から溜まっていたものが抜けたのだろう。溜まっている時は、裸足で波打ち際を歩くに限る。海はすべてを浄化してくれる。もちろんガイドも浄化される。いい仕事だ。それからゆっくり西部林道を回る。いつものようにサルたちが道路の中央でノミ取りをしていた。彼等は車が近づいてもなかなか逃げない。わざと彼等の方へ車を進める。渋々立ち上がる。サルたちをからかっていたら、そんなことをするものではないと注意された。どっちがガイド?シカは雄が数頭いたが、すぐに姿を消してしまった。西部林道のシカは、特に雄は、あまり人慣れしていない。しかし、自然の中にいるシカを見るのは嬉しい。自然そのものを感じられるから。途中で、湧き水を汲む。その時、自然の香りがすると彼女が言った。確かに自然の強い香りがした。気温が上がって、湿度が高かったせいだろうか。むせるような自然の香り?とまではいかなかったが、ちょうどいい新鮮な香りだった。道のあちこちに赤い実が見えた。まるで赤いブドウの房のようだった。前回来た時は、まだ葉がたくさんあったが、今は葉が落ちて、赤い実だけが際立っていた。それが夕陽に当たってあまりにも美しいので、車を止めて写真を撮る。こちらが言う前に「写真を撮りますか」と彼女の方から言われた。どっちがガイド?大川の滝は、ものすごい水量。一昨日、南の方は大雨だったらしい。普段はあまり水量のない右側の滝も、たくさんの水が流れていた。左側は水量が多すぎて圧倒される感じ。右側の方が、ちょうどよくて美しかった。しかし、水量がありすぎて滝壺の前へは近づけなかった。そこまで行けば、びしょ濡れになってしまう。やむなく滝壺の上から滝を見る。それでも滝のミストがすごくて、カメラはレンズがすぐに水滴でいっぱいになった。でも、その結果、彼女は更に浄化された。とても気持ちが良さそうだった。それは隣で見ていてもよくわかった。しばらく滝のミストを浴びている間、誰も来なかった。普段なら考えられないこと。ここは観光バスのコースになっており、いつもたくさんの人がいることが多い。貸切は極めて珍しい。滝でさわやかな気分になって、栗生の青少年旅行村へ向かう。ここの海岸でサンゴを拾う。ここも波が大きく、新しいサンゴも打ち上げられていた。透明な美しい海を見て、また夏に来たいとのこと。ドライブしている間も、「屋久島は良いところですね」を連発。彼女は初日から屋久島の虜になってしまったようだ。熱い温泉は苦手とのことで、ぬるいJRホテルの温泉へ向かう。その間も、夕陽を気にしながらのドライブとなる。西部林道を走っている時から、太陽と海がすばらしい光のページェントを展開していた。天使の階段ができるかな?途中では、なんとなくできかかったのだが・・・残念なことに、ホテルに近づくにつれて雲が多くなった。結果、日没は雲の中となった。また明日のお楽しみ?温泉に1時間ほど浸かって、宿の天然村へ向かう。途中で満月が顔を出した。空中に浮かぶ満月を見て、「どうして空中に浮かんでいるんだろう?」「不思議だね?」と、しばらく重力や引力の話をする。物はどうして下へ落ちるのか。どうして上へ落ちないのか。すべてが上へ落ちたら?地上には何も存在しなくなる。ハー、それでは地球が成り立たない。当たり前と思っていることも、もう一度見直してみると、なかなか面白い。なぜ重力というものがあるのだろうか。質量があるものには引力もある?もし地球が回転していなかったら、引力によって太陽に吸収されてしまう。回転の遠心力と太陽の引力とのバランスで、今の地球の位置が定まっている。興味は尽きない。そんな話をしているうちに天然村に着いた。お客は他には誰もいなかった。この時期では当然か。普段でさえ、あまりお客はいない。最近、お客が減っているので、やっとホームページを立ち上げる気になったらしい。新しいデルのコンピューターが届いていた。しかし、もう何週間にもなるのに、まだ梱包されたまま。ホームページビルダーのソフトを貸してあるが、帰って来るのはいつのことか・・・別にこちらは急ぎはしないが、春までにはホームページを立ち上げた方がいいのでは?つい老婆心がよぎる。午後の1時から、わずか数時間で、彼女は見違えるように浄化された。でも、まだ第1弾。これから森が待っている。海の浄化、滝の浄化、森の浄化・・・昨夜は満月や星の浄化も受けられただろうか。こちらは目が強烈に痛かった。自然の中に入ると、いつも痛くなる。痛さと共に溜まっていたものが解放される感じ。森の中でも、それは起きる。時々は自然の中に入った方がいい。いくら精神的なことをやっていても、やはり自然は必要だ。自然の中で心身は本来の状態に調整される。自然は偉大だ。自然の前では人は子供に過ぎない。自然に抱かれて幸せな子供に還る。自然の中で人は活き活きとする。自然の中で人は復活するのだ。『屋久島の 深い自然に 抱(いだ)かれて 人は自然な 自分に還る』『ゆったりと 自然の中で くつろげば 人本来の 自然に還る』これが379日目の心境です。
2006.01.15
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今日の屋久島は暖かい。午前9時の時点で、既に室温は20度近い。これでは春だ。今日から3泊4日の屋久島の旅を体験される方が見える。1月の寒い時に、わざわざ来なくても?と、普通は思うのだが、思い立ったが吉日ということもある。結果は、来てみないとわからない。天気予報では、この4日間は暖かそうだ。屋久島は梅雨時には大量の雨が降る。そのため、一般的には観光客は少ない。ところが、梅雨の真っ盛りに来ても、あまり雨に遭わない人もいる。天気はわからない。こちらも、例年であれば・・・としか答えようがない。しかも、最近の天気は異常なので、あまり例年が通用しない。これからは更にその傾向がひどくなる可能性がある。だから、思い立ったが吉日という生き方の方がいいのかもしれない。すべてはタイミングなのだから・・・自分から何かをしたいと思う以外に、他にタイミングというものがあるのだろうか。自分の感性を大切にするしかない。結果ではない。今の自分に正直に生きることが、人生を展開させる。うじうじしていては、人生は開かない。時代は急速に変化している。昨日、自我についての最初のホームワークを見ていた。本当は、それに対するコメントを書くつもりだった。ところが、読んでいるうちに書く気が失せてしまった。既に自我については十分書き尽くしており、これ以上書き加えることはない気がした。今更という感じだった。「自我は何のためにあるのか」というホームワークが出たのは、1月8日。今日は14日。まだ正味6日も経っていない。しかし、8日の時点と今の時点では、精神状態はどうだろうか。まるで違っていないだろうか。自我について見つめ、その結果を書き込み、自我についての日記や回答のコメントを読んで、今はどんなだろうか。8日の時点の精神状態と同じだろうか。もうぜんぜん違っているのではないだろうか。わずか一週間も経っていないのに、精神は劇的に変化している。もう一週間前の精神状態には戻れない。今の時代の速さを感じる。特に劇的に変化したのは、せきせきさんだろうか。せきせきさんの一週間前と今とでは、まるで別人のようだ。それは彼女のコメントを読めばわかる。暗く重たいものに覆われていたのが、今ではいのちの煌めきが感じられる。まるで萌え出づる双葉のような勢いすらある。初々しく新鮮ないのちだ。これまでの静脈のようないのちが、動脈に変わったような感がある。生気に満ち始めている。人は変わる。わずかの期間でも変わる。問題は時間ではない。生きる質なのだ。その時の自分に一番マッチしたことに出会うと、劇的に変化する。それは人との出会いにも当てはまる。まるで夢のようなロマンチックな出会いをする人もいる。そして、劇的に生活環境が変わる。すべてはタイミング・・・そういう意味では、思い立ったが吉日という感性を大切にした方がいいだろう。その感性に添って生きていると、すべてが流れる。とんでもないと思うような閃(ひらめ)きが起きることもあるが、それに従ってみるといい。これまでの人生を転換するような出会いが待っているかもしれない。従来どうりの生き方は、安全第一。過去ベースの生き方は、面白味に欠ける。夢も希望もない。少なくとも若い人が採るべき生き方ではない。心に若さが残っていたら、新しいことにチャレンジしてみるといい。そうすれば、精神の新しい地平が開く可能性がある。今の時代は、これまでの生き方から脱皮する時。まったく新しい生き方を始める時。従来の生き方にこだわらず、本当の自分を生きる時。社会的な規範が崩れ、自分自身の規範を創り出す時。自分のオリジナルな生き方を追求する時。それが新しい時代を創る。別にみんなが屋久島に来る必要はない。それぞれが、それぞれの場所で自分の生き方を追求すればいい。自分に一番ふさわしい生き方を自分にプレゼントしてあげるといい。自分が一番望む生き方をする。それしか指針はない。それ以外に客観的な指針などはない。自分の感性を大切にする。自分の深い心が望んでいることをやってみる。本当に本当にやりたいことをやってみる・・・将来のことや収入のことを、あまり考える必要はない。将来は不確定だし、収入も時代が変わればどうなるかわからない。そんな表面的なことではなくて、もっと自分の深いところで生きた方がいい。それが幸せに通じる。見かけの幸せではなくて、真の幸せに。そのような生き方をする人が、だんだん増えている。世間体ではなく、自分の真の願いを生きる。それが人としての真の生き方だろう。少なくとも後悔のない生き方ではある。一度限りの人生だ。思いっきり生きるといい。過去世も未来世もあるが、実在しているのは目の前の今だけ。今を真実に生きるしかない。今を真実に生きない限り、過去世も未来世も意味をなさない。今を真実に生きる時、過去世も未来世も真実となる。慌てることも、焦ることもない。自分のペースで生きればいい。でも、自分の感性だけは大切にした方がいい。自分の内なる本心だけは誤魔化さない方がいい。それだけが唯一の人生の羅針盤なのだから。『荒海に 船出する身の 羅針盤 心の奥で 方向示す』『人生の 方向示す 羅針盤 心の奥に 設置してあり』これが378日目の心境です。* 藍&aiさん以外の方は、二回目のホームワークも提出されたので、初回の分の回答をしなくても、ほとんど問題はないと思います。ただ、藍&aiさんだけは、初めてのホームワークで、しかも一回だけだったので、少し気になっています。睡蓮のご指摘も、そのとおりでした。蓮には紫色はないので、睡蓮を掲載してみたのです。結果は、せきせきさんの夢に現れたのは、下の方から逆光気味に見た蓮の色でした。それは普通では存在しない色です。少し写真を加工して、それらしいのをトップに掲載しました。藍&aiさん、また気が向いたら、ホームワークに参加してください。参加すれば、自分を見つめる機会になります。気楽にどうぞ。待ってます。
2006.01.14
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今日の屋久島は雨。でも、昨夜から暴風が吹いている。海はそれほど波は立っていない。山はほとんど見えない。三月下旬並みの暖かさらしい。今日で、アクセス数が10万を越えそうだ。一つの山を越えたかもしれない。10万アクセスとなれば、このサイトのエネルギーが地上に定着したと言えるだろう。ベースができた感じだろうか。今年は本気で日記に取り組んでいる。できれば365日書きたいと思っている。ガイドの仕事も軌道に乗り、今年もたくさんの方に屋久島で会えるだろう。そういう意味では、ガイドの方はあまり心配はない。今年は日記をメインの仕事と位置づけて、書いていきたいと思っている。別に先生をやりたいわけではない。精神世界においては、教えてもあまり意味がないことは十分承知している。一人一人が自分で実感していくしかない世界。お互いのコミュニケーションの中で、気づきが起き、新しい地平が開けばいいと思っている。読んだり書いたりする中でエネルギーの交流も起きる。そうやって、このサイト上に透明な光のエネルギー場を生み出せたらと願っている。一人一人が真実の自分自身に気づけるエネルギー場。共に創る光のエネルギー場。10万アクセスに心から感謝!第一チャクラは、生命のチャクラ。第二チャクラは、感情のチャクラ。第三チャクラは、思考のチャクラ。今の人類は、ここまで使っている。しかし、まだ第三チャクラの使い方を完全にマスターできているとは言い難い。その証拠に、思考がつくり出した自我という幻に翻弄されている。自我と自我がぶつかり合って、争いが絶えない。科学や技術の分野においては、思考はすばらしい働きをしている。今のコンピューター社会は思考の産物だ。思考なくして今の社会はあり得ない。それは問題ない。問題なのは、私的思考。主観的、精神的思考の分野だ。こちらは、はなはだ心もとない。まだ思考がつくり出す恐怖や不安に駆られる人も多い。考えすぎて苦しんだり自殺する人も後を絶たない。人類は思考に支配されていると言っても過言ではない。けっして思考を自由に使いこなしてはいない。科学技術の分野では思考を縦横に使っている。しかし、私的・主観的分野では思考に翻弄されている。思考に支配され、思考に使われ、本来の自分を見失っている。今の人類は、まだまだ思考を完全に使える状態とは言えない。未熟としか言いようがない。では、思考を成熟させるにはどうすればいいのだろうか。それは、思考を見守ること。注意深く見守って、思考の働きを理解すること。真に理解されれば、思考に翻弄されることもなくなる。よくよく注意深く見守る必要がある。思考が成熟に近づくと、第四チャクラが活性化し始める。第四チャクラは、ハートのチャクラ。それは愛のチャクラであり、魂のチャクラでもある。人体内の七つのチャクラの中心に位置し、上下三つのチャクラを繋ぎ合わせる役目も担っている。調和、バランス。天と地を繋ぐものであり、調和させるもの。上の三つのチャクラが持つ宇宙的エネルギーと下の三つのチャクラが持つ地上的エネルギーを結び合わせ、調和させる。愛とは、結びつける力。一つに統合するエネルギー。ハートのチャクラが開けば、愛があふれる。すべてが愛おしくなる。すべてが愛に満ちているのがわかる。それは自分の中にあるものであり、自分の外にあるものでもある。愛が愛に共感する。愛と愛が共振する。ハートのチャクラが開ききれば、愛の世界となる。ハートの奥には魂も宿っている。ハートのチャクラが開くことは、自分の深い意識が開くことでもある。今生だけの意識ではなく、過去や未来の意識も開く。魂の中に存在する永遠の意識が開く。地上で輪廻転生してきた記憶が甦る。今だけの人生は終わる。第四チャクラは、次の時代のチャクラ。アセンションした後は、ここがベースチャクラとなる。ハートを中心とした愛の世界が花開く。それはそんなに遠い未来ではない。今はハートを開くために、宇宙からいろんなエネルギーが来ている。それによってハートが開く人もたくさん出始めている。ハートの時代は近づいている。静かに静かに思考を見守っているといい。思考に翻弄されないで、思考を見守る。そして、ハートで行動する。ハートの感じを大切にする。ハートが喜んでいるか、悲しんでいるか。その感覚を尊重する。選択するのは自分自身。しかし、ハートの感覚を大切にしていると、やがてハートのエネルギーが自分に満ちる。そうなれば、自然にハートをベースに行動するようになる。それが新しい時代の生き方となる。アセンションするには、それが必要条件になる。思考に翻弄されなくなれば、必要十分条件となる。急ぐことはない。ゆっくり自分のペースでやればいい。自分自身を見守りつつやればいい。こちらも一緒に見守っているから・・・『天と地を つなぐ柱は 真っ直ぐの 一筋の道 迷うことなし』これが377日目の心境です。
2006.01.13
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ホームワーク [自我] -1の続き次は、優しい気持ち2005さんですね。「自我とは、この現世に生身の肉体を持って生まれて以降、 細胞の成長とともに育った意識、心身の自衛・保全の ための知恵を主体とする思考全般のことだと思います。 また仮に、高次元の世界が、すべて1つの光、ということを 認識しているような世界であれば、 自我はこの3次元世界で自分と自分以外のものの境界線を 自分に認識させるものだと思います。 また、いのちからのメッセージを受け取るための器、 本質の自分を希求し磨き上げるためのツールだと思います。 まだよく理解できていませんが、前世の記憶やカルマと いったものに現世の人間が影響されているということが あるとすれば、その記憶がこのたんぱく質の脳みそに そもそもあるでしょうか。 自我はこの脳とともに育った思考回路のことであって 肉体の消滅とともにその思考回路が消滅するもの、 そのように考えてしまうこともあります。」肉体の自己保存の本能と思考とのドッキング、それが自我です。でも、それは知恵と呼ぶには、少しお粗末かもしれませんね。まだまだ未熟な思考といった感じでしょうか。ひとつの世界の対極にあるのは、肉体です。そして、肉体と自己同一化した自我でもあります。それは孤立し、分離の極を体験しているとも言えます。実際は分離などないのですが、肉体と自己同一化することによって幻の分離を味わっているのです。それにどんな意味があるのか・・・分離し、再結合するというゲームでしょうか。確かに自我というのは、思考回路ですよね。一つの思考パターン。それは肉体の死後、消えてしまう?とも限らないかもしれませんね。消えてしまえば、幽霊は存在しないことになります。幽霊とは、思考回路の残滓でしょう。残像みたいなものでしょうか。実体のあるものではありません。自我も、それと似たようなものでしょう。肉体の自己保存の本能と一体化した思考回路です。しかし、必ずしも、そういう思考回路を持つ必要はありません。別の思考回路でもいいのですね。やがて、自我という思考回路は無用の長物となることでしょう。それもそんなに遠い未来のことではなく・・・次は、やちよさんですね。「先生!キビシーです!スパルタです!見つめて見つめて...といっても思考かなぁ...頭から煙出そうです。まず、『主観的に見た自我』・・・存在。色。虚構。個。拠所。次に、『客観的に見た自我』・・・ひとつ。分離。識別。追伸:煙も出ましたけど、内側を見つめていると、自然に感謝のような感情(?)が溢れてきているような、そんな気がしています。」スパルタ?これが?どこが?スパルタ教育など、逆立ちしてもできそうにありません。それができたら、どんなに楽だろう・・・頭から煙が出そう?すばらしい。いっぱい煙が出るといいね。たぶん、出るのは必要のない煙でしょうから。煙がいっぱいあると、目は開けられないし、呼吸は苦しいし、頭も視界もクリアーではないでしょう。普段あまり自分を見るということをしていないからかな?慣れないことをすると頭から煙が出るのかな?人類の多くが自分を見るということを、これまではしてこなかったのですよ。でも、自分を見守ることで新しい世界が開くのですね。その前に少し煙が出るかもしれませんが・・・どうぞ、これからも自分を見守っていてください。これからの新しい時代には極めて必要なことですから。自我とは、個であり、拠り所であり、虚構です。それは分離であり、識別でもあります。識別し、区別し、分離し、個として生きる。全体から離れて孤独を体験する期間とも言えないことはありません。孤独になって、初めて全体の温(ぬく)もりを知る?更に愛を深く感じる?自我にはそういう意味があるのかな?見守る中で、人はあたたかいものを感じるようになります。見守ること自体が、あたたかい行為だからです。人の愛を超えた無条件の愛だから・・・次は、たろうくんですね。「『自我とは何でしょうか』 生きてきた中で培われた、良い・悪いと自分だけが判断する意識。 『自分にとっての自我とは、いかなるものでしょうか』 自分を正当化して、認めて欲しいと思っていたもの。」確かに自我は、良い・悪いと判断しますね。しかも、自我の基準で。その基準自体も自我ですよね。価値基準を持ち、価値判断する意識。それはどこから生まれたのでしょうか。自我は常に自分を正当化し、認めてほしいと思っています。それは変わらない自我の思いです。自分の安全確保が自我の根底にはあります。価値判断も自己正当化も認めてほしいのも、すべてそこからきています。自己保存。それが自我のベースです。自我の正体は、本能と一体になった思考です。問題は本能の方ではなく、思考の方にあります。そのメカニズムを深く理解することでしょうか。次は、ぴあのさんですね。「☆私にとって自我とはいかなるものか・・・ 私にとって自我は ひとつの意識からの分離。 でも、その分離も大局の中のひとつ。 自我も、捉えかた次第でどうにでもなるもの。 たくさんの自我を纏って 『私』 ができているわけだけれども 誰かに纏わされたわけではない、すべて自分で創りあげてきたもの。 表面意識だけで生きていた頃は、自我に翻弄されていました。 不自由な世界、狭い囲いの中、制限の数々、思い込み、『私』。 その結果、たくさんの苦しみ、苛立ち、怒り、不自由が私の中にありました。 今は、表面意識で波立つ自我を見て 自我を見守り、認め、 深い部分で自我を包み込みます。 自我を抱き参らせます。 自我を愛の中へ還してあげる。 自分で創りあげてきたもの 愛から孤立、分離してしまったものを もう一度愛の中へ・・・ 自我も、私のかわいい子供。 ときどき手を焼くけれども、愛しい子供。*『私にとって自我とは』を見つめるのにこの二日 せいいっぱいでした。 それでも時間切れ・・・o( _ _ )o 『自我とは何か』の方は、先日のホームワークで見つめたので こちらも精一杯です。 先日書き込みしたものをそのまま使わせていただきます。 よろしくお願いいたします。」自我とは、全体から孤立している意識です。肉体という個体と自己同一化することによって独立しています。自己分断している意識なんですね。自ら全体とのつながりを切ってしまっている。なぜ?なぜかはわからないけれども、個を体験していることは間違いない。個を体験することはいいのだけれども、個になりきっているところに問題があるのですね。全体とのつながりが断絶している。個であり全体であるという意識が必要なのですね。肉体という個別化された場で、全体とつながって生きる。それがこれからの人類の課題でしょうか。どうして全体と切断されてしまったのでしょうか。それは思考が発達する途上にあったから?まだまだ成熟した思考ではなかったから?まだエネルギーが足りなかったから?思考のエネルギーが成熟する時、次のものが開く?それらについては明日のお楽しみということで・・・* まだ、前回のホームワークが残っていますが、それは次回に回すことにします。というのは、既にクリアーな状態で読める分量を遙かに超えているからです。
2006.01.12
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1月10日のホームワークを見ていきましょう。課題は次のようなものでした。「自我とは何でしょうか」「自分にとっての自我とは、いかなるものでしょうか」主観と客観の両方の視点から、自我というものを見つめてみてください。まず、陽風3812さんの回答から。「自我とは自分を守る為、生きる為に必要だと思い創ってきたもの。自分にとっての自我は自分が傷付かないようにする為の防衣服。みんなに『あのこはいい子だね』って褒められたり必要とされ、自分の存在を認めてもらう為に本当の自分を偽る偽善者?」自分を守るためですね。自分が生きるために必要だと思っていたのですね。それは肉体の自己保存の本能からくるものですね。自己保存の本能と思考が合体したのですね。自分が傷つくことを恐れるのですね。褒められたり、必要とされたり、認められたいのですね。傷つくことは不安につながり、褒められたり、必要とされたり、認められることは安心につながるのですね。そこでも、安心=自己の安全という図式が見て取れます。自分を安全にキープしたい。それが自我でしょうか。それはまさに自己保存の本能そのものです。自分の存在を維持したい。種族を保存したい。本能の思考版なのですね。それは必然的に自己中心的にならざるを得ません。それが今の社会です。動物としては、自己保存の本能は必要です。それなくしては自分の生命を維持することはできません。ですから、それ自体は問題ありません。それに思考が絡まると問題が起きてきます。欲望もそこから生まれます。自己保存の必要性を遙かに超える欲望が、逆に自己を危うくします。自己保存と思考との関係を理解する必要があるのです。それなくしては、今の人類の危機を乗り越えることはできないのです。自分自身が深く理解される時、自我を乗り越える可能性が生まれます。次は、えっちゃんですね。「国語辞書が手許にないけれど、言葉の意味だけで言えば、自分という存在の認識。他とは違う存在であるという認識。肉体でなく、心の自分自身。ということでしょうか?けれど、私が「自我」と思っているのは、自我の主張、自我の意識というところまで含んでしまってます。また、より自分自身、自分への想い、自分本位的自分・・・といった、自分自身を強烈に意識する自分という風にも捉えています。」他とは違う存在、心の自分自身・・・自我とは、他の人とは違うというイメージでしょうか。自分自身を強烈に意識する自分ということでしょうか。自分、自分、自分・・・何でも自分中心ですね。それが良い悪いはともかく、いずれにしても自己中心的なものが自我です。その自己中心的なものと自己中心的なものがぶつかり合っているのが、世界の現状です。 それは強烈な思い込みから生まれるのでしょうか。イメージとイメージのぶつかり合いでしょうか。自己保存の本能を越えて、プライドや面子がぶつかり合っているでしょうか。負けたくない、勝たねばならない。職場でも、地域でも、自己保存の本能の領域を越えて拡大しているでしょうか。出世、マイホーム、貯金、財産、学歴、名誉・・・・それらのものを獲得するために血眼になっているでしょうか。自己保存の本能が、いつの間にか果てしない欲望と化しているでしょうか。それが自我の実態でしょうか。自分を守ることから出発した自我は、欲望となって果てしなく膨張しています。 元々は肉体の自己保存の本能と思考が合体したことから始まりました。ところが、思考は自己保存の本能を超え、欲望として一人歩きを始めてしまったのです。 自己保存の本能を見極め、欲望と化す思考を見極める必要があります。見極めきれなければ、人類に未来はないのです。次は、せきせきさんですね。かなり長い回答です。「私の『何故自我はあるの?』という問いは、自我があってはじめて成り立つ問いでした。うぅスミマセン。なので、主観的にみた、自我とは何か?は前回のワークが答えです。私が私として、何世代も経験してきた中で、自我の中で出した答えです。客観的に見た自我は、自我というものがない世界なのです。理由を求めることのない、良い悪いもない、区別のない世界。昨日から日記もワークも難しすぎて、思考がパンクしたのです。その状態で、過ごしてきました。お味噌汁を作っていた時、何も考えませんでした。正確にいえば、手順や動きは、メモリが作動してますが、それ以外は考えませんでした。 豆腐と、わかめと、白菜の中に味噌を溶かして入れている時、私は豆腐であり、わかめであり、白菜であり、味噌です。この感覚は今までの私です。(食材までいつもはこんな細かい感覚はありませんが)でも、思考を止めた私は「味は大丈夫かな」「体痛いな」「寒いな」とかを何も考えません。味噌汁を作ることを私という存在を意識しないで行いました。ただただ作っていた。そこでは、私は豆腐であり、白菜でもあるけど、豆腐でも白菜でもない。私は全てであるけど全てでない。白菜やわかめは食べ物や植物や、海草だし、私は人間で、料理している人だけれど、もうそんな感覚は一切ありませんでした。私はなかった。あったけど、なかった。思考が出来なくなった時、私はあまりにも思考の世界になれすぎて、怖かったです。思考と自我と自分が全く同じ意味か、まだわかりませんが、近いのかな?私達は私(自分)を意識するとき「どうして?」と問います。その答えを求めて出し続けてきたのが今までの世界です。それが、私の前回の質問を生みました。アセンションや、今の世界を見て、意味を見出さずにはいられない世界にいるから。じゃあ答えがないなら考えなくたってボーっと生きればいいジャン、と昨日また考えました。本当に自然に、考えることなしに木のように生きることができたらいいのかもです。ひょっとしたら、そんな世界では、子供は自我を持たずに、自然に大人になるのかも??でも今はそういう世界じゃないし・・・。うーーん??でも、皆さんのホームワークを見ていて、すごく愛を感じました。嬉しかったです。(偉そうですね^^;)自我に向きあう時私はとても苦しかったし投げ出したかった。でも皆さんの愛で頑張れました。自分に向き合うことは愛なのだと思いました。自分に向き合うことは宇宙に向き合っていることなのかなと。だから私はこれからも考えるし、感じたいし、質問もしたいです。アセンションは、この愛が沢山あるといいのかな???ちなみに、自分の巨大自我壁が少しだけ愛おしくなりました。壁がでかかろうが、どうでもいい。オイオイ泣けるほど、フフフと笑えるほど愛おしいです。」思考がないと、極めてシンプルな世界になりますね。でも、そうなると今の社会は成り立ちません。今の社会は思考で成り立っています。コンピューターがなければ、この日記さえ存在しません。このようなコミュニケーションは成り立たないのですね。そういう意味では思考は必要です。必要という以前に、厳然とて存在しています。思考には思考の役割があるのです。問題は、そのような科学的な思考ではありません。問題は、客観的な思考ではなくて、主観的な思考の方です。その自己イメージや果てしない欲望です。それらをよく理解し、誰もが客観的に思考を使えるようになれば問題は解決します。 私的思考を使わないということでしょうか。自分のために思考を使わない。私利私欲のために思考を使わない。食欲や性欲という本能のためだけに思考を使わない。もっと全体を考えるということでしょうか。思考の視野が狭いということでしょうか。それが結果的に自分で自分の首を絞めることになっているのでしょうか。肉体という個別化したものと思考がドッキングしてしまい、大きな視点が欠落してしまったということでしょうか。個別化した肉体と思考との結合。これが問題の根本のように思います。自己保存の本能だけであれば、果てしない欲望とはなりません。本能を果てしなく増殖させるのは思考です。そのメカニズムをクリアーに理解することでしょうか。そして、自我という幻から自由になることでしょうか。ホームワーク [自我] -2へ続く
2006.01.12
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屋久島は暖かい日が続いている。それに少しずつ日も長くなってきている。なんとなく春が近づいているのだろうか・・・自我とは何だろう?主観的に見れば、それは自分が掴まえているものだろうか。執着であり、囚われであり、こだわりだろうか。自分がしっかりと握って放さないもの。それが自我だろうか。自分はカッコいいとか、カッコ悪いとか。自分はリッチとか、プアーとか。自分は学歴があるとか、無学歴とか。自分は幸せとか、不幸とか。自分は友達に恵まれているとか、孤独とか。自分は将来性があるとか、夢も希望もないとか。自分は歌がうまいとか、音痴とか。自分は有名とか、まったく無名とか。要は、自分に対するイメージ。自分についての思い込み。それが自我ではないのだろうか。それ以外に自我=「私」というものが存在するだろうか。自分が自分について持っているイメージ。それが自我ではないのだろうか。そういうイメージがなければ、自我もない。そういう思い込みがなければ、「私」もない。あるのは、透明な意識だけということになる。客観的には、人は生まれ落ちて肉体と共に成長する。やがて肉体と同化していく。肉体と自己同一化していくのだ。肉体には自己保存の本能がある。それは自動的に働く。やがて思考力が発達する思春期になると、自分に対してイメージを抱くようになる。それは必然的に自己保存の本能に沿ったものになる。つまり、自己中心的なイメージとなりやすい。自分は成績が良いとか、成績が悪いとか。自分は異性にモテるとか、モテてないとか。自分はスゴいとか、自分はダメだとか。自分は何でもうまくできるとか、いつも失敗ばかりするとか。幼児期には思ってもみなかったような自分に対するイメージを持つようになる。それが自意識と呼ばれるもの。つまり、自我。幼児の頃には人前で歌ったり踊ったり平気でできたものが、自意識が発達するにつれて、恥ずかしくてできなくなる。恥ずかしいという感情は、自意識から生まれる。自意識過剰になれば、自由が縛られる。他の人から自分がどう見られるか、それが一番重要になる。つまり、自分のイメージが最重要課題となるのだ。それがプライドというもの。それがアイデンティティというもの。小さな子供にはアイデンティティなどというものはない。自意識も自己イメージも薄い。それは思考力が発達していないから。まだ自分に対する複雑な思考ができないのだ。傷つくということは、自己イメージを傷つけられるということ。別に体を傷つけられたり、衣服を傷つけられたりするわけではない。自分が傷つく。自分とは、自分に対して自分が持っているイメージ。ブスと言われたり、みんなに嫌われていると告げられると、簡単に傷ついてしまう。それは、そんな自分ではないと思っているから。少なくとも、そんな自分ではありたくないと思っているから。人を傷つけるのは簡単だ。その人が劣等感を抱いている部分をストレートに言えばいいだけ。いや、間接的に言うだけでも効果がある。劣等感とは、まさに自分に対する思い込み。それは事実というより、思い過ごしに近い。まったくのイメージでしかない。その劣等感も、また自我の一部に他ならない。自我とは、成長過程で思考力が発達する時、自分について持つイメージ。その自分のイメージとの自己同一化。それが自我だ。自分とは、肉体でも感情でも思考でもない。それは自分が自分に対して持つイメージなのだ。それが自我の正体ではないのだろうか。正体が明らかになる時、なぜ自我が存在するのかという疑問は自(おの)ずから消える。ただそういう事実があるのみ。自我の存在理由も、また思考の産物なのだ。事実として、人は自己イメージを持っている。それが自我と呼ばれるものである。そういうシンプルな事実だけが残る。どこにも自我の存在理由はない。そもそも自我などというものは存在しない。それはイメージ。つまり、幻なのだ。刻々と移ろいゆく幻想。どこにも実在することのない思い込み。それが自我の実体ではないのだろうか。意識はある。しかし、自我という実体はない。ただ自分にまつわる思い込みがあるだけだ。そのイメージに基づいて、思ったり行動したりする。自己保存の本能と思考が一体化して、自己中心的に動いているだけだ。しかし、それは極めて短絡的な思慮の足りない思考に他ならない。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉がある。暗いところで見ると、枯れた花が幽霊に見えてしまう。ところが、明るいところでゆっくり見れば、ただの枯れた花。単なる思い込みなのだ。自我というのも、そういうものではないのだろうか。光を当ててみれば、何も実体はないもの。ただの思い込み。それが真に理解される時、自我は力をなくす。自我ではない、別の生が始まる。第一チャクラは、生命力のチャクラ。生まれて自分の肉体をコントロールできるようになる過程で、肉体感覚が発達する。第二チャクラは、感情のチャクラ。肉体を自分のものにすると、快・不快という感覚から徐々に複雑な感情が発達してくる。第三チャクラは、思考のチャクラ。感覚、感情と発達してきた意識は、次に思考力を発達させる。その思考力が自分を肉体や感情と自己同一化させていく。思考力が自己イメージをつくり出す。それが自我。第一チャクラから第三チャクラまでが一つになったもの、それが自我の実体なのだ。意識の成長過程の中で生み出された自己イメージ。その自己イメージに基づいて生きているのが、今の人類の現状なのだ。それは意識の肉体における発達過程の産物。良いも悪いもない。ただの事実。まだ深く理解されていない事実。理解されていないために、人類が振り回されている事実。事実は理解するしかない。理解されれば翻弄されることもない。注意して見ないから、枯れた花が幽霊に見えてしまう。事実と共に生きる。事実を見極める。それがシンプルに生きることに通じる。以上のことは、本からの知識でも、誰かに教えてもらったのでも、もちろんチャネリングでもない。自分自身で見極めたこと。だから、正しいという保証はない。人生のどこにも正しいという保証はない。事実を見極めきる。それが人を自由にする。元々、人は自由なのだが、自分で自分を縛っている。肉体と共に生きる中で、思考力が発達する中で、周りからの影響も受け、自我という幻をつくり出してしまう。そして、それに基づいて生きるようになる。そのプロセスを自分自身を通して理解してほしい。ここに書かれていることは、みんな忘れていい。知識はいらない。理解することだ。自分自身を。自分自身の実態を。自分自身の行動原理を。そうすれば、本来の自由に戻れる。ひとたび不自由になって、真の自由を知る。人は新しい次元へ進む。地球の人類は、今、第三チャクラから第四チャクラへ移動しようとしている。これまでの自我を中心とした文明から、次の文明へ移行しようとしている。それはどういうものだろうか。第四チャクラとは、いかなるものだろうか。それは明日のお楽しみに。今日は、まだホームワークを見る必要がある。先へ行きすぎると、ホームワークがつまらなくなってしまう。ゆっくり進もう。『自我という 自分を縛る 思い込み 光を当てて 理解するのみ』『縛られて 解(ほど)いてみれば 初めから 自分で自分を 縛っていただけ』これが376日目の心境です。
2006.01.12
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もしあなたが宇宙の真実を知りたかったら夜空の星を見上げてごらん無数の星々を宇宙空間が包み込んでいる星々は色宇宙空間は空無数の色とひとつの空無数の色をひとつの空が包んでいるそれが宇宙の真実なんだよあなたは無数の色でありあなたはひとつの空でもある万感の愛をもって無数の色を見守る大きな大きな愛ですべてのすべてを見守るそれが宇宙の心なんだよいのちの限り輝く星々個性の限り煌(きら)めく星々それが個としての自然な姿なんだよもしあなたが究極の究極を知りたかったら夜空の星を見上げてごらん色とりどりの星々が輝いている無数の星々が星座を形作っているそれを無条件に包み込む宇宙空間無限に生かされる有限有限として輝く無限それが宇宙の真実なんだよ色は空であり空は色なんだよ限りなく広がる銀河そのまた向こうまで広がる宇宙無限の広がりの中で無数の星々が生まれては消える無限の空が無限の色を生み出す無限の色が無限の空から生まれる空は色であり色は空なんだよ宇宙はひとつのプラネタリウム漆黒の闇から生まれる星々閃(ひらめ)く光の光芒宇宙という舞台の上で煌めき消える無数の星々それを見守る無限の空間黙って何も言わないでただ静かに見守っているいのちの煌めきを見守っているそれが宇宙の真実なんだよただ万感の愛と共にすべての星々を見守っているんだよ星はあなたであり宇宙もあなたである色はあなたであり空もあなたである人は色であり空であり個であり全体である『漆黒の 宇宙(やみ)に抱(いだ)かれ 星々は おのがいのちの 限り輝く』『自(みずか)らを 見守り育て はぐくんで いのちの花を 咲かせる宇宙』これが375日目の心境です
2006.01.11
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今朝は久しぶりに、すばらしい快晴だった。しかし、時間が経つにつれて雲が多くなってきた。せっかく水晶を外に出したのに・・・冬場になって、めっきり太陽に当てるチャンスが少なくなった。冬場以外は、こんなことはないのだが。そんな時、少し東京が恋しくなる。東京の冬は晴天が続く。気温が低くても太陽光線があると暖かく感じる。南向きの大きな窓があったので、昼間はヒーターはいらなかった。屋久島も南の方に住めばそうなのかもしれない。早く転居したいものだ・・・木は、どこを指して木と呼ぶのだろうか。葉だろうか。それとも、枝だろうか。あるいは、幹だろうか。いや、根だろうか。そうではなくて、それら全体だろうか。答は明らかだ。葉と枝と幹と根の総体が木と呼ばれるものだろう。ところが、冬になると葉は落ちてしまう。大風が吹くと枝は飛ばされる。幹は台風で折られたり、雷でやられることもある。根は大雨で土が流され、空気中に露出して枯れることもある。葉がみんな落ちてしまった木は、同じ木だろうか。枝が折れてなくなった木は、同じ木だろうか。幹が折れた木も、同じ木だろうか。根が一部死んでしまっても、同じ木だろうか。花が咲く時もあれば、実が実る時もある。花が散る時もあれば、実が熟して落ちる時もある。それでも同じ木だろうか。別の木とも言えないが、同じ木とも言いにくい。変わらない部分もあるが、変わってしまった部分もある。正確に言えば、以前と同じ木ではない。厳密に言えば、刻々に木は変わっている。瞬間・瞬間別の木と言えば言えないこともない。しかし、同じ木が変化しているとも言える。木の変化を見ながら言えることは、木は一定ではないということ。常に変化しているということ。それだけは確かだ。ところが、それはこの世のすべてのことについても言える。人も刻々変化している。周りの状況も変化していないものはない。無常というのが、この世の真理に他ならない。では、常に変わらないものはないのだろうか。そんなものはどこにも見当たらない。石でさえ、長い年月の間には変化している。山も海も変化を免(まぬが)れはしない。現象世界は、すべて無常だ。しかし、木は葉と枝と幹と根だけで成り立っているのだろうか。葉が落ちても、また次の春が来れば新しい葉が出てくる。古い枝が落ちれば、新しい枝が生長する。その新しいものを生み出すものは何だろうか。形として見える木ではない。その中にあるものだ。それは木の中に宿るいのちだろうか。いのちが新しい葉や枝を生み出しているのだろうか。いのちが花を咲かせ、実を実らせているのだろうか。そのいのちこそが木の本質だろうか。形の奥にあるいのちが、すべての形を創り出しているのだろうか。そして、いのちこそが常に変わることのないものだろうか。いのちは木だけでなく、動物の中にも、植物の中にも、人間の中にも存在している。いのちは万物共通なのだろうか。すべてを生かすものが、いのちなのだろうか。永遠に生き続けるものが、いのちなのだろうか。しかし、木もやがては朽ち果てる。動物もやがて死ぬ。人間でさえ死は避けることができない。形あるものは、やがて死す。現象の世界で永続するものはない。その時、いのちは?いのちはどこへ行ってしまうのだろうか。生きとし生けるものから、いのちは去ってしまうのだろうか。去ってどこへ行くのだろうか。どこかにいのちのストックがあるのだろうか。ひとつのいのちが、万象万物を生かしている。ひとつのいのちが、万象万物の中に入っている。万象万物だけでは存在することはできない。いのちがなければ、すべては存在できない。すべてを存在させているもの、それがいのちだ。いのちに固有名詞はない。宇宙にひとつあるだけのもの。それがすべてを生かしている。あなたのいのちも、私のいのちも、いのちはいのち。いのちに変わりはない。宇宙にひとつのいのちがあるだけ。すべてを生かすいのちがあるだけ。『目に映る 万象万物 異なれど 生かすいのちは 宇宙にひとつ』『木も花も 動物鉱物 人までも 生かし続ける いのちはひとつ』これが374日目の心境です。* 今回のホームワークの回答に対するコメントは、もう少し先にします。というのは、その前にもう一つホームワークをやってほしいのです。それは、「自我とは何でしょうか」「自分にとっての自我とは、いかなるものでしょうか」主観と客観の両方の視点から、自我というものを見つめてみてください。これが今回のホームワークの課題です。これが解明されないことには、前回出したホームワークも明確にはならないでしょう。1月12日の午前10時までにBBSに書き込んでください。今回参加された方には申し訳ありませんが、もう一段深く自分を見つめてみてください。
2006.01.10
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今日の屋久島は、明るい曇。午後からは晴れるかもしれない。天気予報では、明日以降は晴れが続くらしい。思考が止まる時、人は大気圏を抜ける。人類の想念が渦巻く大気圏を抜けると、クリアーな世界が広がっている。そこには分離感はなく、ひとつの宇宙があるだけ。もちろん自分の意識もある。但し、自分という感じはない。地球は業想念に取り囲まれている。なんとなく重たい。宇宙空間の中では特殊な感じがする。思いが渦巻く世界。思いによって成り立つ世界。それぞれが思いを持ち、生きている。その思いと思いがぶつかり合う。混乱と変化に富んだ世界だ。なかなかダイナミックな世界でもある。その大気圏から離れると、意識は静まる。どこまでも透き通る。想念の煩わしさから解放され、意識は極めてシンプルになる。肉体に縛られることもないので、食欲や性欲に翻弄されることもない。どこまでもクリアーな意識があるだけ。熟睡した後で目覚めた時のような、さわやかさ。いや、それ以上の透明感。意識とは本来そのようなものだ。ところが、様々な思いがクリアーであることを妨げる。あれこれ考えることが、いつの間にか常態化し、脳が静まることがなくなった。頭が静まるのは寝ている間だけ。いや、寝ている間も夢を見ている。頭が休まる時はないに等しい。そのような頭では大気圏外に出ることはできない。思考が沈黙し、頭が静まる時にだけ、大気圏を離れる可能性が出てくる。意識は肉体や地球から解放され、宇宙に羽ばたく。本来の宇宙的な意識に戻る。人の意識は本来、地球だけに限定されたものではない。それは宇宙に開かれている。ただ、地球での生活の中で、そのことを忘れてしまったようだ。物質に囲まれた生活の中で、意識までもが物質化してしまった。意識は完全に地球ナイズされている。意識は思考化し、思考ですべてを処理するようになった。思考は過去のデータを元に、いろいろ考えるだけ。それは極めてコンピューターに似ている。コンピューターに自由があるだろうか。無限の宇宙に飛び出す自由があるだろうか。コンピューターにできるのは、インプットされたデーターをプログラムに基づいて処理することだけ。それらを組み合わせて、何かを作り出すことだけ。未知のものに対しては、まったく無力だ。人の意識の中には無限の可能性が宿っている。無限に広がり、無限に深まる。まさに宇宙そのもの。コンピューター思考に支配されていては、自己の本来の可能性を閉ざしてしまう。真にクリエイティブなのは、思考ではなくて、その奥にあるもの。それはインスピレーション。思考を超えたもの。思考よりも更に深いところにあるもの。思考は思考。それはコンピューターのように使えばいい。それはとても有能で、役に立つ。コンピューターがそうであるように。しかし、思考に使われてしまうと、自分を見失う。考えればいいというものではない。考えることも必要だが、それだけでは足りない。考えることが止んだ時の静けさも必要なのだ。その静かな時にインスピレーションはやって来る。直覚というものが起きる。何の理由もなくわかってしまう。思考のように論理をたどることなくダイレクトにわかってしまう。思考もわかるための一つの方法ではある。一つずつ論理をたどり、丁寧に類推する。それにはそれなりの使い方がある。しかし、すべてを思考だけで決めるのは危険だ。それは自分の限られた経験だけで、人生のすべてを決めることに他ならない。思考だけが理解するための方法ではない。直観やインスピレーションというのも理解するための別の方法だ。しかし、直観やインスピレーションだけに頼ることにも別の危険性が潜んでいる。直観やインスピレーションには、今の三次元のベースがない。その上、それだけに頼ると自分の主体性を見失ってしまう。やはり、地上の経験をベースにした思考で検証する必要がある。直観やインスピレーションを思考で再検討し、その上で実行に移す。地上で生きるためには、その両方を主体性を持って使う必要があるのだ。けっして使われてはならない。思考には思考の役割がある。その役割分担を理解することだろうか。思考に自分のすべてを支配させない。人生の一部だけを担わせる。意識は思考を遙かに超えている。そのことをはっきりと自覚する必要がある。思考がその役割分担に落ち着けば、思考は静まる。思考が静まった時、人は大気圏内だけの存在ではなくなる。無限の宇宙に広がることが可能となる。その時、人は霊止(ひと)となる。無限の霊(ひ)が、その本来の無限性を取り戻す。『人類の 業に包まれ 幾星霜 越え去りゆかば 大気圏外』これが373日目の心境です。
2006.01.09
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今日の屋久島も寒い。毎日寒い日が続いている。でも、天気は回復して、曇っている。今日はサイトの構成に少し手を入れてみた。まずプロフィールに写真を追加。それから、トップにこのサイトの主旨を挿入。ついでに、蓮の花を一輪。その結果、とてもカラフルできれいになった。ところが、『無色透明』からは程遠くなってしまった。写真なしの方がいいのだろうか。しかし、よくよく考えてみると、ここは三次元だった。そう、色の世界だった。ここは無色透明は無理な世界。それは意識の中だけ。現実は色に取り囲まれていた。そこで思ったのは、サイトのタイトルは『無色透明』でいい。しかし、日記のタイトルが必要ではないのだろうか。無色でも透明でもないタイトル。そう、色の付いたタイトルが。『うす紫の蓮の萼(うてな)の光のエネルギー場』ちょっと長い?まだ確定できないので、しばらくこのままにしておく。ところで、せきせきさんへ質問がある。うす紫の蓮の花の形は?トップの写真のような形だったのだろうか。しかし、この形では紫色というのは見たことがない。別の形ならある。次にアップするようなもの。 こちらの形だったのだろうか。よかったら夢を思い出して教えてほしい。ちなみに、今回掲載したものは天然村の「誠蓮」という名の蓮。それを少し明るめにして掲載した。そう、光の蓮になってもらう必要があるので。今朝、明け方に夢を見た。夢と呼ぶには、あまりにもリアリティがあった。意識は極めてクリアーだった。その夢は、教室のようなところで、周りを見ると、みんながフリーズしていた。そう、ストップモーションのように止まっていた。しばらくして気がつくと、今度は普通に動いていた。そして、また気がつくと、みんなは止まっていた。みんなが止まっている間、こちらは自由に動くことができた。しかし、他のみんなはストップしたまま。それは明らかに時間の密度の違いだった。こちらが超緻密な時間で動いている時、他の人は普通の時間の中にいた。他の人の0.1秒間に、こちらは5~10分ぐらいの時間があった。時間とは、そういうものだ。けっして一定しているものではない。波動領域によって異なる。波動が速くなればなるほど、時間の密度は濃くなる。よく聞く話がある。交通事故で車にはねられた瞬間、これまでの人生のすべてを見たと。生まれて今日までの自分の姿を一瞬のうちに垣間見る。それは超高速の走馬燈のようなものだ。普通ではあり得ないことなのだが、危機的状況では間々起きることがある。時間は、時計の時間だけではない。それを遙かに超えた時間の世界もある。波動が細やかになればなるほど、意識の世界は速く、広くなる。交通事故のケースは、肉体から抜け出た瞬間に自分の一生を垣間見たのだろう。肉体から離れれば離れるほど、すべての波動が速くなる。肉体に戻ると、肉体の世界で生きるしかなくなるが、それだけが宇宙ではない。三次元だけに囚われていると、やがて取り残されてしまう。三次元を楽しむのもいい。でも、意識を三次元だけに限定する必要はない。多次元宇宙にも心を開いておいた方がいい。少なくとも、その可能性を閉ざさない方がいい。やがて必要があれば、直に体験するだろう。その時に、頭から否定しないように、意識をゆるめておこう。闇雲に信じる必要もないが、端(はな)から否定する必要もない。ニュートラルな、おおらかな意識を常にキープしておこう。それこそが新しい事態に対応できる意識だから。これから時間に対する考え方も変わっていくだろう。時間は一定していない。時間は固定したものではない。波動に応じた時間がある。そのことに多くの人が気づくようになっていく。三次元の時間ではないものが徐々に加わっている。地球は三次元から五次元へ向けて、ゆっくりとテイク・オフしようとしている。コメント欄に次のような書き込みがあった。「自我ってなんのためにあるのだろう。そういう中でしか生きていけないと思っていた私達の作り上げたもの??必要のないものだったら、自我は生まれてこない気もするのだけれど。人は何で、わざわざ一度沢山の荷物を抱え込んでから、そして捨てる作業をするのでしょうか。一度持ったものを捨てる作業が「全ての何か」が深くなるために必要なのでしょうか。もともと深かったら、沢山荷物を抱え込むこと、「自我」を作る必要なさそうなのに。「その深いもの」も私達と一緒にさらに深くなりたいから???意味不明ですね。宇宙プログラムのバグ(私達の業)で生まれてしまったのかな。それとも私達の業も、必要なシステムとして入っていたのかな。変な所に疑問がいってしまいました。」さてさて、自我は何のためにあるのでしょうか。これは今日のホームワークということにしましょう。今回もかなり難しそうですね。おなもみ君に聞いてみる?それはカンニングというものかも?まあ、ゆっくり自分自身に問いかけてみてください。今回も正解は期待していませんので、気楽にやってください。自分自身で深ーく見つめてみてください。そして、何か気づいたことがあったらBBS欄に記入してください。締切は、10日の午前10時とします。さあ、たくさんの方の参加を待っていますよ。参加するといいことある?それは参加してみるとわかります。超超ラッキーなことが起きるかも?かも・・・『無始私終 永久(とわ)の宇宙の 中なれど 区切りをつけて 時間を生きる』これが372日目の心境です。
2006.01.08
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1月5日のホームワークを検討してみましょう。課題は、「自分とは、何だろう?」というものでしたね。ちょっと難しかったかな?提出された順番に見ていきましょう。まず、えっちゃんから。えっちゃんの回答は次のとおり。「私が自分だと思っているものは我だし、感情だし、思考だし、肉体です。けれどそれは借り物というなら、自分はない。自分とは・・・無なもの?そうではなくて、なんら他と分けられないもの。単なる、我なり、感情なり、思考なり、肉体をひとつのセットにまとめるキャンバスのようなもの。それは自分という識別するものではなく、聞きかじりの「ひとつ」というものの一片。そのキャンバスに借り物をくっつけ合わせたら、えっちゃんという自分らしきものになった。」人は普通は、これまでの思考や感情や感覚でイメージしたものを自分だと思っています。それが自我=「私」ですね。でも、それは一定しておらず、「私」というのも、とても曖昧なものです。えっちゃんはキャンバスという表現を使っていますね。いろんなものが集まったところ。それが自分らしきもの。でも、本当は「ひとつ」の一片であり、他と分けられないもの。それらのことが自分の実感として深くわかるといいよね。まだ少し借りものくさい感じですね。次は、やちよさんですね。「昨夜から何も見ずに自分に問うて出てきた言葉です。自信無いけど最初の一歩で最後の一歩だ。魂のひとしずくになる事を決めて、選んだ器(肉体)に満たされている水。が自分。静かな時もあるし、波立っている時もある。透明にもなれるし、ヘドロにもなれちゃう。満ち満ちているときもあるし、枯渇するときもある。」まず、何も見ないで自分に問うという姿勢がいいですね。姿勢だけは百点満天。では、その内容は、こちらもなかなかすばらしい。水というのは、昔から霊の象徴として使われていますよね。透明にもなれるし、ヘドロにもなれる。静かであることも波立つこともできる。要は、何にでもなれるのですね。水(霊)自体は色がないのですね。自分がないとも言えます。その水の状態を深く深く体験できるといいですね。そうすると、また人生が変わってくるでしょう。次は、たろうくんですね。「自分とは。。。巡り巡ってこの時代に生まれ、他の誰でもなく今を生きる存在が自分です。宇宙でいえば、目に見えないほどの小さな小さな星だけど、自分の星を命いっぱい輝かせるのが、自分だと感じます。」そうだね。自分の星を極限まで輝かせるといいね。そのために地上に降りてきたのだから。でも、自分の星って何だろう?更に深く見つめてみるといいかもね。次は、せきせきさんですね。「私が今まで思ってきた自分は、周りにある悲しみ、苦しみ、恨み、妬みなどの闇シリーズを持っている物、人、全て。なので、「この人は自分だ」「この子は自分だ。」「この汚れた川は自分だ」自分は数え切れない程この世界にいました。最近は、暖かいものも「自分」だと思えます。だから、この世の全て、生命あるものも、ないものも何もかも、自分でいっぱいです。この世界は私です。欲張りだなあ。ちょっと自意識過剰かなあ。もともと自分と何かの境界線がなくって、国境みたいにラインがあればわかりやすいのだけど。あ、でも、自分をすごく感じる時はあります。嫉妬とか怒りとか侮辱と優越とかが出てきた時。やっぱ暗いなあ。そして私の本当の出てきた場所故郷があります。そこも自分です。リアルなふるさとじゃなくって、自分を分けてくれたところ。名前はわからない。私達をみつめていてくれる、無限のもの。私は私に助けてもらいたい!とこの前思ったことは、このふるさとを思い出したかったのだと思います。現在の「せきせき」を作り出すこの体や心や魂(魂の意味がわかりませんが)を使わせてもらい、生きている中で、このふるさとを深く感じることができます。せきせきという狭い枠自分の中に、無限の深い深いふるさと自分がいます。この深いふるさとと、せきせきが一緒にいると、陽風さんのコメントのように、知らずに微笑んでしまいました。(全然感覚がちがうのかもですが)現在生きている「せきせき」も幸せ「ふるさと自分」もすごく幸せ。これを感じることがまだ沢山できませんが。「せきせき」という自分、世界にあるたくさんの自分、深い深いところにある、本当に生まれてきたふるさと、どれも、自分。あ、おまけに過去に何回も生まれたのも自分。代々の先祖も自分。ありすぎ?でも、自分がバラバラな気はしません。難しかったです。ホームワーク。これからも考えます。」みんな自分なんだね。そういうふうに言えば、そういうふうにも言えるかもね。ふるさとの意識。そして、そのふるさとから分かれた様々な意識。そのすべてが自分。「ひとつ」の意識も自分。「私」に分離した意識も自分。他の人の意識まで自分。すべてが自分。そのすべての自分を、よくよく感じてみるといいよね。深く理解するといい。次は、おなもみ君ですね。「ぼくは、「自分とは」なんて そんなこと考えません。kimiさんは、アリンコでしょ?」kimiさんは、最近、透明人間になってるよ。時々、アリンコやってる時もあるけどね。おなもみ君は、「自分とは」なんて考えないんだ。すばらしい!考えないで、素直に生きているのかな?小さい子は、みんなそうだよね。考えないで、ただ生きてる。自我がなければ、それもいいよね。何も考えないで、何の抵抗もなくスーッと生きていけたら・・・このまま思春期になっても自分というものを意識しないで、素のままで生きれたら本当にすばらしいね。さあー、どうなるだろう?楽しみだね。最後は、ぴあのさんですね。「今回のホームワークは 全くわからず、加えて私の精神状態が最悪であったためお手上げ。もうこのホームワークはパスするんだ。ねよう。 と思っても 自分とは 自分とは ってずっと気になって眠れない・・・う~~ん私があまりに真剣な顔をしているので 息子のおなもみが 「おかあさん どうしたの?」と聞いてきました。そうだ。こうなったらおなもみに参加してもらおう。「あのね、考えてくれる?ホームワークなのよ。」 と、言うと、「うん!」そして、ホームワークをおなもみに読み上げていっていたら・・・おなもみが もうおかしくてたまらないという様子で 突然ケタケタ笑い出しました。そして、「kimiさんっておもしろーい。そんなこと考えてるの?」「じゃあ、おなもみは自分って何だと思う?」 と聞くと、下の答え。でした・・・(~_~;)そこで ハタと思ったのですが、私が今回 最悪な精神状態で苦しんで (という言葉はちょっと当てはまらないのですが)いるのは”こうありたい” という自分ではないから。自分が 自分本来の姿であるとき、自分を認識する術など全くなく比較、対照を持ち出した途端、自分 というものが現れる。そんな気がしました。無邪気な子供は 自分なんていう言葉の中に入らない素を生きているんだなあ・・・と思いました。『自分の実態とは』 の答えにはなっていないような気がしますが・・・少なくとも いつも私はそう。こんな自分はいやだ。もっと自分はこうでありたい。そういうときに 自分 という存在に すごく支配されてしまうようです。沈没の中で見つめてみた自分でした。」「負うた子に教えられ」という世界だね。無邪気というのは、すばらしいね。そういう意味では、自分を意識することは、邪気かもね。無邪気な時は、自分というものは意識しないものかもしれない。自分なく、ただ生きているんだね。縁によって、様々に反応して生きるだけかもしれないね。それでは自分の主体性は?自分は必要ないのかもしれない。自分がない時に、すべてに適切に対応できるのかもしれないね。さてさて、自我がない状態を深く体験できるでしょうか。無邪気に戻れるでしょうか。おなもみ君をよーく観察して学ぶことだね。今回のホームワークは、期待した以上の回答があったように思います。別に何も期待してはいなかったけど、それ以上のものがあった感じがします。みなさん、かなりいい線いってますね。この感じが更に深まればいいのかな。やっぱりホームワークはいいですね。みんな苦しんだかもしれないけど、それだけのものはあったでしょう。なかなかすばらしい。ハイ、これからもホームワークを楽しみましょうね。ハーイ、今回参加しなかった人も、次回は参加しましょうね。楽しいよ。
2006.01.07
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今日の屋久島は寒い。この冬一番の寒さ。目の前の山々は雪化粧。遠くの山は姿さえ見えない。人は十二単(ひとえ)を着ている平安時代の女性のようなものだろうか。一番外側の着物は肉体。次が感情の着物で、その次が思考の着物。その奥には魂や直観という着物も着ている。では、最後の着物の内側は?ヌード?誰の?自分の?それはどんな形?それはどんな姿?なに?見えない?あるようで、ないような・・・そんな曖昧な?でも、はっきりしない。ヘンだな?そんなことってあるの?最後の着物の内側は、何もない。少なくとも色は付いていない。無色透明。無色透明?それじゃ、このサイトのタイトルと同じじゃない?そんな・・・サイトの宣伝をしているの?そうではない。でも、本当に無色透明。敢えて言えば、無色透明の意識がある。どうしても名前を付けたかったら、純粋意識とでも呼ぶ?別に名前はいらないけど。自分は?自分はどこにあるの?自分?自分はどこにあるんだろう?辺りを見渡しても、自分はどこにもない。エッ!自分はどこへ行ったの?自分が行方不明?自分さーん!どこにいるのーッ!いない。ここにはいない。自分さんは、ここにはいない。自分さんはどこへ行ってしまったのだろう?アッ!いた!ずーっと下の方にいるみたい。どれどれ?あーん、小さいな。もうほとんど見えない。でも、きれいだね。まるで星のように輝いている。ホントだ!いろんな色に変わる。一定していない。本当に星の光みたいだね。ワァー、自分さんて、星だったの?十二単の奥は無色透明の意識。そこには自分はない。十二単を重ねるにつれて、色がだんだん濃くなっていく。個性という色が付いていく。十二単の着物の色も人それぞれ。それらが重なると、千変万化の個性となる。その個性を、敢えて自分と呼べば呼べるかもしれない。しかし、その個性も瞬間・瞬間変わっている。では、自分はどこにあるのだろうか。それとも、自分はないのだろうか。無色透明の意識の周りを、直観や魂意識や思考や感情や肉体の五感が取り巻いている。無色透明の意識は、空。空の意識が直観以下のものに取り巻かれて、色となって現れている。自分は、どこ?どこを指して自分と言うのだろうか。直観? それとも魂?思考? それとも感情?あるいは肉体だろうか。しかし、いずれも固定していないし、一部でしかない。では、それらが現れる心が自分だろうか。心は意識場。様々な意識が現れるところ。五感の感覚が現れ、感情が現れる。思考は自我を主張し、魂は魂意識を送る。直観は時に稲妻のように閃き、心を震わせる。心は意識のエネルギー場。いろいろなものが現れるところ。一時(ひととき)も一定せず、常に揺れ動いているところ。それが自分だろうか。そこは人として生きるための意識場。変化してやまないところ。それを自分と呼びたければ呼んでもいいが、それは一定してはいない。それでも自分だろうか。自分とは「私」だろうか。「私」こそが自分だろうか。では、「私」とは何だろう?どこかに「私」という一定したものがあるというのだろうか。そんなものはどこにもない。どこにも固定した「私」など存在しない。「私」の実体はないのだ。それは記憶であり、イメージなのだ。すべて過去のものに過ぎない。「私」は過去の残滓からつくり出されたイメージ。今この瞬間に「私」はない。どこを探しても「私」を見つけることはできない。それは単なる思い込み。つまり、幻想なのだ。「私」が幻であれば、自分も幻なのだろうか。一つのエネルギー場であることは間違いない。肉体という器の中に展開されるエネルギー場。心という意識場に展開されるエネルギー場。しかし、どこにも自分という実体はない。魂こそが自分?そう言いたければ言うこともできるが、魂でさえ衣の一つに過ぎない。肉体が命がなくなれば分解するように、魂でさえ、いつの日かは分解する。それもまた心と同じように刻々に変化している意識場に過ぎない。肉体は死して大地に還る。魂も死して、その次元の質量に還る。有限のものは、すべてそうなる。巨大な星々でさえ、いつかは宇宙の灰燼と帰す。無限のものだけが、常に変わることなく存在し続ける。無色透明という意識には、自分はない。ただ無色であり透明なだけだ。それはいのちのようなものであり、愛のようなものだ。いのちや愛を分割することはできない。それはひとつのものだ。始まりも終わりもない、ひとつのものなのだ。「私」もなく、自分もなく、ただ無色透明の意識があるだけ・・・『真実を 求め求めて 来てみれば 自分自身は 無色透明』『何もない ところにすべてが 満ちている 愛といのちと 無限の光』『始まりも 終わりもなくて 今ここに すべてのすべてが 存在している』これが371日目の心境です。
2006.01.07
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「自滅プログラム[1]」よりの続き[返信メール]体の具合はいかがですか。最近のコメントを読むと、かなりきつそうですね。この前いただいたメールの返事を書きます。今の状態は、なぜ起きているのでしょうか。それは子供の頃の「自滅プログラム」の結果でしょうか。小さい頃の訓練や祈りの結果が、体に現れているだけでしょうか。それは原因があって結果があるという、極めて単純なことでしょうか。もしそうなら、今の状態が終わるのは、その「自滅プログラム」の効力が消える時ということになりますね。どれだけの時間、どれほど真剣にやったかによって結果は異なります。もうすぐ終わるのか、まだまだ続くのか・・・でも、まだ死もわからないような子供が、どうして自分の体が消えてしまうことを願うのでしょうか。それにはそれなりの理由があるでしょう。今生の理由が思い出せますか。もし何か気がつくことがあったら、思い出してみるといいでしょう。でも、何も思いつくことがなかったら、それはそれでもいいと思います。今生の子供の頃にやることは、過去世のリピートが多いものです。私達は今生では過去世を超えようとしています。そのために過去世と似たような状況をつくり出し、それを再体験しようとします。そして、その経験を元に、それを超えていくのです。つまり、子供の頃に自分に「自滅プログラム」をかけたということは、過去世でも同じようなことをしていたということです。なぜ、自分で自分を滅ぼすようなことをするのでしょうか。それにはいろんな訳があるでしょう。拷問にあったのかもしれないし、火あぶりにあったのかもしれない。ライ病に罹ったのかもしれないし、不治の病になったのかもしれない。人を裏切ったのかもしれないし、自分を裏切ったのかもしれない。みんなのために命を捧げたのかもしれないし、虐殺されたのかもしれない。レイプされたのかもしれないし、人間の残虐さを目の当たりにしたのかもしれない。呪い、呪われ、ありとあらゆる悲劇を体験してきたのかもしれない。人類の業を体験してきたのですね。それは人類の業であり、先祖の業であり、自分の業でもあります。そういう業の結果、「自滅プログラム」が生まれたのではないでしょうか。自分が自分でいることを許さない。自分の存在を消してしまいたい。今の自分を許せないのですね。今の自分を認めたくない。早く消してしまいたい。その思いが強かったのですね。何生にも何生にも渡る思いだったのでしょう。過去世において何度も何度も似たような状況を体験してきたのですね。だから、その思いがとても強くなってしまった。それが今生にも引き継がれているのですね。それは取りも直さず、そういう過去世の重たいものを今生に持ってきたということです。なぜ?それはもちろん、それを乗り超えるために。もう同じことを繰り返さないために。今回で終わりにするために。過去世の、そして先祖代々の、人類の業を背負って生まれてきた。それらを今生で精算するために。すべてを光に転換するために。一気に光に変換するために。なかなかハードな仕事ですね。光に転換するためには、もう一度再体験しなければならない。なぜなら、それがどういうものかわからなければ、それを光に転換することはできないから。しかし、それを再体験する中で、あまりの苦しさに自分を見失いそうになる。それが今の現状でしょうか。では、本題に戻りましょう。人は生きる力はどこからもらっているのか。そもそも生きるとはどういうことでしょうか。生まれたての赤ちゃんを見ると、みんな元気よく泣いています。生命力にあふれています。それは動物の赤ちゃんも同じです。それは理屈を超えています。どこから生きる力をもらっているのか?というより、存在そのものが生命力そのものです。生きようとする意志です。いのちとは、そういうものでしょう。いのちとは、本来、生きようとする意志ではないでしょうか。いのちがあるとは、変化していること、動いていることです。死とは、動かないこと、自ら変化しないことです。生きることは動くこと、変化することです。生命力とは変化の力なのです。活き活きと未来へ向かって動く、変化する。それが生命力というものではないでしょうか。では、今のあなたの状態はどうでしょうか。体が動きません。積極的に変化しようとしていません。新陳代謝が不活発です。あなたの体は新たに生きようとする意欲に欠けています。なぜ?それは生きようとする意志を疎外するものがあるからです。生命の変化を妨害する何かがあるのです。それは子供の頃にかけられた魔法。つまり、「自滅プログラム」です。それは呪いのようなものでしょうか。呪詛、自分自身に対する呪詛ですね。その呪いが解けるまで、生命力は疎外され続けるでしょう。つまり、苦しみは続くということです。しかし、その呪いは苦しみという結果によって徐々に解(ほど)けています。現象化したものは消えていくのです。ですから、やがて苦しみは終わります。呪いの効果が消える時、苦しみも消えます。まさに自縄自縛です。誰のせいでもありません。自分で播いた種を自分で刈り取っているだけです。大切なことは、その中で何を学ぶかということです。そのプロセスを通して何に気づくかということです。痛みや苦しみ自体は、それほど意味のあることではありません。それよりも、痛みや苦しみを通して何かに気づくことなのです。何かとは?それは自分の本質でしょうか。自分の真の姿。苦しみの中で忘れてしまった自分の真の姿に目覚めることです。そのための痛みであり苦しみです。苦しみのための苦しみでも、痛みのための痛みでもない。それは自分の真実に目覚めるための苦しみであり痛みなのです。過去世において魔女だったのかもしれない。その結果、無実であるにもかかわらず、火あぶりになったのかもしれない。過去世においてキリスト教徒だったのかもしれない。ローマ帝国の弾圧によって、ライオンに食べられたのかもしれない。もっと古い時代、部族のために生きたまま生贄(いけにえ)になったこともあるのかもしれない。それはあなた一人の過去世ではなくて、多くの人が体験してきたことです。無実であるにもかかわらず、身の潔白を証明する手段さえ奪われ、多くの人の前で辱められ、最後に虐殺された。その無念さ。その恨み、その憎しみ、その怒り・・・それら積もり積もった人類の業は、いつか誰かが祓わなければなりません。誰が祓うのでしょうか?それは実際にその過去世を生きた人以外の誰でもありません。自分の闇は自分で晴らすしかないのです。多くの人が、今という時代に過去の総決算をしようとしています。古い時代を精算して、新しい生き方を始めようとしているのです。そのために、これまで積み残してきたものを、すべて今生に持ってきているのです。それは苦しい、そして厳しいプロセスです。でも、やるしかありません。新しい時代に生きるには、古いものは整理するしかないのです。いのちをいのちとして輝かせるためには、その輝きを疎外しているものを取り除く必要があります。それらを取り除けば、後は何もしなくても、いのちはひとりでに輝きます。いのちとはそういうものでしょう。いのちとは輝きです。ただ、雲があると太陽が遮(さえぎ)られるように、他の何かによって光が封じ込められているだけです。その遮るものを取り払えば、いのちはひとりでに輝きます。生きる力をどこからかもらう必要はないのです。あなたはいのちであり、生きることそのものなのですから。あなたは、生であり、動であり、変化です。それが本来のあなたです。今はただ靄(もや)がかかっているだけです。その靄もやがて晴れます。苦しみと共に消えていきます。それをじっと待っていてもいいし、もっと積極的に動くことも可能です。ネガティブなものと逆のものを自分に入れれば、マイナスはプラスによって打ち消されます。光と一緒にいることでしょうか。エネルギーのあるものと一緒にいることです。それは植物を育てることでもいいし、動物を飼うことでもいい。温泉に入ることでもいいし、美しい景色を見ることでもいい。この日記を読み続けるのもいいでしょう。そうやってプラスのエネルギーを自分に入れ続ければ、やがてマイナスは消えていきます。重要なことは、痛みや苦しみが出てきた時に、更にマイナスを追加しないことです。天を恨み、地を呪い、神を否定し、自分を責めないことです。それをやると更にマイナスが増えてしまいます。せっかく現象となって消えつつあるのに、わざわざ補充しているようなものです。それもまた過去世でやったパターンでしょう。それらのパターンを乗り超えることです。今生は同じことは繰り返さない。新しい光の道を歩む。それが今生の課題でしょう。長々と書いてきましたが、要は、光は光、いのちはいのちなのです。それらは本来、穢(けが)れることも、汚れることもありません。それらは最初から最後まで、光であり、いのちであり、純粋に輝いているものです。それは今もあなたの奥で燦然と光を放っています。ただ、遮る黒雲があるだけです。その黒雲も、また動いています。「自滅プログラム」という呪縛でさえ変化しています。徐々に効力をなくしているのです。すべて変化します。変化しないものはこの世にはありません。何も恐れることはないのです。やがて雲は消え、光に変わります。その時は、晴れて心身共に光り輝くことでしょう。時代のエネルギーは加速しています。変化はこれから更に早くなります。自分自身の本質を信頼して、前へ進んでください。霧は晴れます。今は先が見えないかもしれませんが、やがて見えるようになります。すべてを静かに見守りながら進んでください。見守ることは光です。光は黒雲を消していきます。何も心配はいりません。あなたの本質は、光であり、愛であり、いのちなのですから。これが質問に対する回答です。これでいいでしょうか。何かわからないことがありましたら、またメールしてください。[感想]厳しい人生だなと思う。辛い人生でもあるだろう。でも、乗り超えるしかない。後戻りは許されない。今生で過去世のすべての闇をクリアーするしかない。なぜなら、それが今生の課題だから。それは一人、彼女だけではない。多くの人が挑戦していること。だから、敢えてプライベートな質問を公開させてほしいとお願いした。若い女性にとっては知られたくないことかもしれない。でも、それ以上に、彼女の経験は他の人の役に立つのではないだろうか。似たような苦しい状況にいる人への励ましになるだろう。それもまた彼女が望んだ役割かもしれない。彼女がこのハードルを乗り超えれば、更に多くの人が同じようにハードルを突破するだろう。エネルギーの連鎖が起きる。そのためのネットであり、ブログ日記なのだ。光へみんなで向かおうとしている。一人だけではない。そのことをみんなに知ってほしい。そういう時代なのだ。共に光へ進む時代。それが今だ。『人類の 幾千万の 苦しみを 超えて光へ 進む曙(あけぼの)』これが370日目の心境です。
2006.01.06
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今日も屋久島は寒い。山の方は雪が降っているようだ。ところが、ブレーキ修理のために車を引き取りに来た修理工場の人によると、南の方は陽が射して暖かいらしい。いつものこととはいえ、考え込んでしまう。表日本と裏日本ほどの違いがある。こんな小さな屋久島なのに・・・先日、次のようなメールをいただいた。年末で忙しかったので、返事が今になった。今が返事のタイミングのような気がした。ご本人の了解の下に、質問と返事を掲載する。[質問メール]暮れの忙しい時期にメールごめんなさい。返事はいつでもかまいませんし、必要なかったら、なくても全然かまいませんので、駄目もとで、ごめんなさい。このメールは私の個人的な質問です。体のことでわかりたいことがあります。私の体の中のあちらこちらに、「自滅プログラミング」がかかっています。うまくいえませんが、まだ、死もわからない小さい頃から、ありったけの力をこめて、「体が消えてしまうように、明日になったら、あさってになったら、来年までには体がすべて消えてしまうように」と訓練や祈りを真剣に毎日、何年もあげていました。その癖は病気になるまで日常になり、続いた気がします。しょーもない癖ですし、この癖が関係しているかもわかりませんが、体に鎖のように頑丈なものがかかっていてとれません。少し状態がよくなると、ものすごい強さで前よりも強く引き戻す感じで、それは精神には現れなくて、肉体に目に見える形で現れます。その繰り返しを6年してきました。最近の体の状態も強烈にそんな感じです。特に、口や排泄器官、生殖器官系が、膿む、痛むで歯が抜けそうになるなど、実際、食事や排泄が困難になる形で現れます。原因はわからないのです。免疫系はとても弱いのですが、ここまでなる人はあまりいないそうです。私がお聞きしたいのは、ひとつ、生きるということは何に繋がっているかということです。どこからエネルギーをもらっているかです。周りをみれば、当たり前のように、呼吸し、病から生きたいと望み、死んでも、なお自分があり続けたいと思う・・・その力はどこからもらっているのですか?生きる意味がわからない、ということではありません。生きる意味を問う前に、既に「生きている」そのこと、そのものがどこから力を得ているか、イメージできないし、全くわからないのです。私には、当たり前に生きる力がないと気がついたのは3年前位で、その時、体の臓器ひとつひとつに、「生きるためのプログラミング」みたいなものをしようと、生きることに繋がるような、言葉、「勇気」「たくましさ」など、思いつく限りイメージして、体にいれていきました。自分では思いつかないので、他の方にもお聞きしたり、写真やアフリカとかなんか、力のありそうなものを沢山取り入れました。でも、自分自身がつかみきれていなくて、体の状態は悪く進む一方でした。元気なときも、生きることが何に繋がっているかわからなくて、食事や排泄が肉体的に困難になることがありました。でも、介護の仕事をしていて、力強い食事や排泄の一連をお手伝いして、自分も真似ることができました。今も土をはだしで触ったりして、大地から何かイメージがつかめないかなあ、何か教えてもらえないだろうか、って思うのですが、・・・わからない。体が滅んでいくことは当然のこと、でも、ドミノ倒しのように、必要以上に進んでいくことをストップさせたい。自然の姿に戻したい。でも、自然の姿がわからないのです。早く、リミットになる前に。今はそう思います。「生きる」選択を、どうか体がしてくれるように願うのですが。1つからうまれ、それぞれの魂が、ビジョンをもって、この生を成し遂げ、ひとつにかえっていく・・・それを教えていただき、そのことをかけらぐらいだけど、体が思い出した時、胸があたたかくなりました。「幸せ」と感じました。喜びをかんじました。でも、まだ、足がふわふわしたままなのです。うまくいえませんが、足元に力がない。イメージをつかみたい、かけらでもいいから。周りの人に聞いても、「そんな当たり前のこと」「考えすぎ」で終わってしまう。でも、体が悪くなってく私には早くつかみたい。そんなことを3年考えてきました。だから、多くの人に聞きたい、生きる力はどこからもらっているのか。kimiさんの感覚ではどう感じますか?すでに日記で書いていらっしゃるのかな、私がキャッチできないだけかも。。。。そういうわけでメールいたしました。読んでくださってありがとうございました。いつも沢山パワーいただいているのに、わがままさんでごめんなさい。* このメールへの返事は「自滅プログラム[2]」にあります。
2006.01.06
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今日の屋久島は寒い。年末年始は暖かかったが、また真冬に逆戻り。屋久島は今日が成人式。みんな島の外から里帰りしている。雨が降らなくて、振り袖が濡れなくてよかった。自分とは、何だろう?自分は肉体だろうか。ケガをすれば痛いし、美味しい物を食べれば満足する。脳の働きこそが自分だろうか。ところが、風邪は引きたくないのに、頭痛がする。花粉症の季節には、意に反して涙や鼻水が止まらない。肉体は自分の言うことを聞かない。肉体は自分とは違うのだろうか。自分とは、何だろう?自分は感情だろうか。嬉しい時は喜び、悲しい時は泣く。喜怒哀楽が自分だろうか。しかし、怒りを抑えたいのに、怒りがふつふつと沸いてくる。笑ってはいけない場面なのに、笑いが止まらない。もう悲しみから抜け出したいのに、いつまでも悲しみから抜け出せない。自分の感情なのに自分でコントロールできない。はたして感情は自分だろうか。自分とは、何だろう?自分は思考だろうか。いろいろ考えて決断する。人間は考える葦である。考えることこそが自分だろうか。しかし、必要もないのに先のことを考えて心配する。悲観的なことは考えないようにしようと思うのに、どうにも考えが止まらない。 思考がひとりでに空回りする。それでも思考が自分なのだろうか。自分の思うとおりにならない思考が自分とはヘンな話だ。自分とは、何だろう?自分は意志だろうか。意志こそが自分だろうか。しかし、いったん決めたことが持続できない。途中で諦めてしまう。意志も継続しているとは限らない。そんな非連続のものが自分と呼べるのだろうか。自分とは、何だろう?自分は第六感だろうか。五感を超えた感覚こそが真の自分だろうか。超能力こそが真の自分の証(あかし)だろうか。しかし、超能力は不安定だ。いつも一定しているとは限らない。第六感が100%確実とも言えない。そんな不安定なものが自分だろうか。いつ閃くともわからないものが自分と言えるのだろうか。自分とは、何だろう?肉体でもない。感情でもない。思考でも、意志でも第六感でもない。では、自分とは何だろう?そうだ!自分は魂だ。永遠の魂だ。今度こそ正解だろう。精神世界の本には、人は輪廻転生する魂と書いてある。では、聞こう。魂とは、何だろう?輪廻転生する魂の実体はどこにあるのだろうか。あったら目の前に見せてほしい。たぶん、誰も見せられる人はいない。それは目に見えるものではないから。では、魂とは何だろう?答は人によって異なる。まだ共通の一般化された答はない。自分自身で魂の実体がわかっている人が、どれほどいるだろうか。もしわかっているのなら、自分は魂であると言うのもいいかもしれない。しかし、もしその実体がわかっていないのなら、そう言うのには無理がある。心が静まった時、ハートの奥から魂の声が聞こえることがあるかもしれない。しかし、よく考えてほしい。魂の声が聞こえるということは、魂は自分とは別の存在ということではないだろうか。 ハイアーセルフというのは、セルフである自分とは異なる。では、自分とは何だろう?そうだ!もう一つ残っていた。自分は直観だ。そうだ!今度こそ正しい。直観こそは高い次元からやって来る自分だ。直観はある。直観でわかることもある。しかし、それが絶えずあるとは限らない。絶えずあれば、それは直観ではない。それは通常の意識だ。あったり、なかったりするものが自分?自分とは、そんな曖昧なものだろうか。さてさて、困った。自分とは、何だろう?すべて否定されては立つ瀬がない。消え入りたい心境だ。自分とは、何?自分とは肉体であり、肉体そのものではない。自分とは感情であり、感情そのものではない。自分とは思考であり、思考そのものではない。自分とは意志であり、意志そのものではない。自分とは第六感であり、第六感そのものではない。自分とは魂であり、魂そのものではない。自分とは直観であり、直観そのものではない。それぞれが自分の一部であり、自分そのものではない。では、自分とは何か。自分は心だろうか。肉体の五感、感情、思考、意志、第六感、魂、それに直観が総合された心が自分だろうか。しかし、心はコロコロ変わる。そんな不安定なものが自分だろうか。自分はコロコロ変わるものなのだろうか。しかし、自分が一定不変というのも何かヘンだ。では、自分とはいったい何だろう?心は器だろうか。心は意識場だろうか。五感や感情や思考や意志や第六感や魂や直観が現れる意識場だろうか。それはそうかもしれない。しかし、それでは自分の説明にはなっていない。自分とは、何だろう?もしかして自分の実体はないのだろうか。そんなバカな?ここにちゃんと自分がいるではないか。それなのに実体がないとは・・・では、自分の実体とは、何だろう?実は、この先も書こうと思ったが、ここでやめておく。これから先はホームワークということにしておく。自分とは、何だろう?これがホームワークの課題。すべての答を書いてしまっては面白くも可笑しくもない。少しは自分で考えてもらう必要がある。別に正解を期待しているわけではない。大切なのは、自分自身というものを、もう一度正面から見直すことだ。これまで日記に書かれていたことは忘れてほしい。これまで読んだ本の内容も忘れてほしい。すべてを白紙にして、自分自身で自分自身を見出してほしい。なぜなら、他でもない、あなた自身の人生だから。この世で一番大切な、あなた自身のことだから。他の人に聞かないで、自分で発見してほしい。明後日(7日)の朝9時までにBBSに書き込んでほしい。自分の正直な気持ちや感性で書いてほしい。もう一度念を押すけれども、正解は期待していない。数学の答ではないので、客観的な正解というものは存在しない。もちろん、こちらの見解は述べる。でも、それは参考にすぎない。真理は一人一人が自分自身で見出すしかないものだから。『自(みずか)らに 静かに問えば 自らの 裡に答は 湧きいずるもの』これが369日目の心境です。
2006.01.05
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今日の屋久島は曇っている。太陽が顔を出した時、水を汲みに行った。湧水はあたたかい。水道の水は冷たいが、湧水は寒くなればなるほど、あたたかくなる。物は大切に使う。でも、執着はしない。物は生かして使う。でも、必要でなくなったら、必要な人に回す。必要のない物を、いつまでも仕舞い込まない。今必要なものを今使う。使い終わったら、次へ回す。川の流れのように流す。死蔵しない。そうすると、シンプルな暮らしができる。できるだけ物は整理整頓する。置き場所がわからないようになったら、大掃除。もう一度整理し直して、きちんと整頓する。自分の把握できる範囲で物は所有する。それで十分生きていける。それ以上は必要ない。必要な物は新たに求めればいい。いつまでも古い物をストックしておく必要はない。巨大な倉庫はいらない。ほどほどの物があればいい。物をたくさん所有していればしているほど、波動は遅くなる。物に縛りつけられ、地球に縛りつけられる。アセンションなど夢のまた夢。物をできるだけ少なくして生きることが、軽やかな人生につながる。シンプルに生きることが、自由につながる。物だけではない。体も軽い方がいい。必要以上に重たい体は、不自由。必要以上に食べ過ぎると、動きが鈍くなる。脳の働きも悪くなり、体も動かなくなる。それでますます太る悪循環に陥ってしまう。体はできるだけ動かした方がいい。動かし過ぎては壊れてしまうが、動かさないと退化してしまう。物も動いている方がいい。体も動いている方がいい。止まった時は死ぬ時。ほどほどに流れている方がいい。人間関係も大切にする。でも、執着はしない。自分の心も人の心も大切にする。でも、それを引きずらない。その場で完結させる。いくら楽しいことでも、終わってしまえば過去のこと。その時点で完了させる。いつまでも過去に囚われない。嫌なことも、その時点で完了させる。いつまでも悔いない。終わったことは、終わったこと。今を生きる。瞬間・瞬間、完了させる。後に思いを残さない。その場、その場で完結する。その時、その場で十分に楽しんで、終わらせる。後に何も残さない。すべては流れている。流れているのが自然。生きているとは、そういうこと。止まってしまえば、死あるのみ。物も体も心も、すべて流す。囚われない。執着しない。すべて流す。自分のものはない。すべて一時(ひととき)の借りもの。物も体も心も。すべてが借りもの。その上に乗っかって生きているだけ。それらのものに取り囲まれて暮らしているだけ。それらのもののおかけで楽しませてもらっているだけ。物も体も心も、自分ではない。自分と一緒にいてくれるもの。自分と共に生きるもの。人生のパートナー。それらのものは大切にする。でも、執着はしない。それらのものに囚われて自分を見失わない。物も体も心も大事なものだけれども、でも、それは人生のパートナー。自分自身ではない。一緒にこの地球での人生を過ごすもの。感謝をして共に生きるもの。物を理解し、体を理解し、心を理解する。理解しなければ、それらを生かして使うことはできない。理解しない限り、それらに使われてしまう。理解し、それらを最大限に活用する。理解し、それらに支配されない。使い過ぎることも、使わな過ぎることもなく、それらと共に生きる。意識は光。物も体も心も、光の乗り舟。乗り舟も大切にする。でも、自分自身と間違えない。乗り船を自分と誤解しない。舟は舟。自分ではない。大切に、しかし、執着しないで使う。共に生きる人生のパートナーを心から愛おしむ。大事に、大切に、かつ、軽やかに。深く理解し、すべてを流して使う。流れるままに生きる。『移りゆく 物も体も 心さえ 囚われないで 大事に使う』これが368日目の心境です。
2006.01.04
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昨日、屋久島の知り合いが訪ねてきた。「年賀メールをもらったけど、アセンションて何?」と聞かれた。少しアセンションの話をする。しかし、話をするまでもなかった。彼女は、できるだけ物を手放すようにしているとのこと。物がない方がスッキリして、気分がいいらしい。物には執着しない人だった。そうであれば、アセンションするのは間違いないだろうと話す。物に対する執着がなければ、軽い。何ものにも執着しなければ、アセンションするしかない。地球の波動が上がるにつれて、自然に自分の波動も上がっていく。殊更(ことさら)に何かをしなくても、無理なくアセンションできる。執着がなければ、何も問題はない。あらゆることに執着しないこと。もちろん、アセンションにも。執着とは、固定。本来無常のものを固定させることが執着。元々無理があるのだ。だから苦しくなる。現実と自分の望むこととの間にギャップが生じる。執着すればするほど、自分が苦しくなる。自業自得としか言いようがない。自業とは、執着すること。自得とは、その結果自分が苦しむこと。まさにカルマそのもの。自業の業とは、カルマという意味。自ら播いた種を自分で刈り取っているだけ。作用と反作用。自由に動いているものを止めてしまうことが執着。自然な動きを縛ることが執着。縛ってしまえば不自由になる。縛ったつもりが自分が縛られている。執着とは不自由と同義語であり、自由の反対語である。何ものにも執着しなければ、淡々と生きていける。楽なものだ。事実を事実として見て、その事実と共に生きる。何も問題はない。アセンションしても、しなくても、何も問題はない。日々、軽やかに生きていけばいいだけ。何をやるのも自由。何をやらないのも自由。自分で決められる。何もかも決まっていて自分では何も決められないと思っている人は、幸せとは言えない。どこにも自由がない。何もない空間には、何の束縛もない。カルマ?そんなものがどこにあるの?あったら見せてほしい。それはある次元にある。作用と反作用として存在している。しかし、それがどうしたの?特段恐れることもない。自分が播いた種は、自分が刈り取ればいいだけ。嬉しい芽が出る時もあれば、嬉しくない芽が出る時もある。それぞれを楽しめばいい。嬉しくない芽でさえ、嬉しくないと思わなければ、別にどうということもない。単なる事実と思えば、それで済んでしまう。嬉しくないと受け止めるパターンを改めればいいだけ。どんな事態が起きても、冷静に対応していれば、そんなに動揺しないようになっていく。まあ、一呼吸置いて、落ち着いてやればいい。物にも地位や名誉にも、プライドや自分自身にも執着しない。執着している自分にも、執着しない。執着している自分に気づいても、自分を責めない。自分を批判したり非難したりしない。自分を批判したり非難したりすること自体が、既に自分に執着している証拠。執着している自分に気づいたら、ただその執着を手放す。ただ握り締めている指を離せばいいだけ。離せば自然に落ちていく。意識的に放下するまでもない。手離せばいいだけ。何もない無色透明の空間は、自由。束縛するものは何もない。執着するものがないから。執着するが故に不自由になる。何も執着しなければ、自由は元々そこにある。執着が人を不自由にする。何も持たないから、何でもできる。何かに囚われると、その途端に不自由になる。肉体や記憶やカルマや、様々な制約はある。それらも、そのまま認める。それでも人は自由。何も束縛するものはない。ただ肉体があり、記憶があり、カルマがあるだけ。それらのものに囚われることはない。ただ事実を事実として認めれば、人は自由に生きられる。執着がない方が楽に生きられる。でも、執着しないことに執着したら、元も子もない。執着があったら、それをそのまま認める。まだ持っていたかったら、持っていてもいい。手放したかったら、手放せばいい。どちらでもいい。それが自由だ。何もない絶対自由の空間がある。そこには自由というもの自体が存在しない。自由以外にはない空間では、自由はないに等しい。その絶対自由の空間から相対自由が生まれる。選択肢が発生する。執着する自由と、しない自由。いったん執着しまくって、それから解放されて徐々に自由になる。比較による自由は、相対的な自由。絶対的な自由は、自由という言葉さえ存在しない次元。その絶対的な自由の中にいて、相対的な自由の世界を生きる。空の中にあって、色の世界を生きる。自由も不自由もまたよし、という世界を生きる。『執着を してもいいよと 認めれば 半分ぐらいは 執着も消える』『執着を 見守りおれば 執着の 心もゆるみ 消えてゆくのみ』『絶対の 境地に立てば 相対は 海の波間に 浮かぶ白波』これが367日目の心境です。
2006.01.03
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今日は4泊5日の旅の最終日。ヤクスギランドへ行き、80分コース+三根杉、母子杉、天柱杉を回った。最後に空港で別れる時、ハグの方が感動するからと言われて、ハグした。普段は握手する程度なので、ハグは久しぶり。しかし、ハグしてよかった。本当に感動してしまった。胸が熱くなり、全身が熱くなった。もう少しで涙が出そうになった。今日は56回目の誕生日。誕生日自体は別に嬉しくもないが、お祝いのメッセージは嬉しかった。その気持ちが嬉しかった。同時に、今日はこの日記をつけ始めてから満一年が経った日。自分の誕生日にスタートすると、忘れることはない。最初のタイトルは「光で生きる公開実験」だった。途中から「光で生きる」だけになった。それは無食が少し延期になったから。当初は、無食がこの日記の目的だった。しかし、書いていくにつれて方向が変わってきた。今では無食というより、アセンションへ向けたエネルギー場を創ることがメインとなった。うす紫の蓮の萼(うてな)のエネルギー場。それをネット上に創り出すことが、この日記の目的になっている。一年目は手探りだった。まだ方向性がはっきりしなかった。しかし、一年間の試行錯誤の結果、方向性ははっきりした。このサイト上にアセンションのための光のエネルギー場を創る。二年目は、そういう方向性の下で日記を書いていく。たぶん、それが2012年までの自分の仕事になるだろう。地球での最後の仕事になるだろう。泥沼から咲く蓮の花のように、濁世の中から見事にアセンションという花を咲かせることができるだろうか。光の茎を伝って、スーッと真空の中を上昇するエレベーターのようにアセンションできるだろうか。今必要なのは、三次元の泥沼の中に透明な空間を創ること。そこに入れば自動的にアセンションできるようなエネルギー場を創ること。地上ギリギリのところを浄化してクリアーにすれば、後は楽に五次元へ行ける。天と地をつなぐ光の柱。透明な透き通るような光の柱。その中は真空。ネット上に光のエネルギー場を創る。ネット上に透明なエネルギー場を創る。ネット上に真空のエネルギー場を創る。それがこの日記の目的。アセンションは目的ではない。アセンションは結果でしかない。透明なエネルギー場ができれば、アセンションは黙っていてもできる。そういうエネルギー場を創ることが大切なのだ。それは、ここに関わる人が透明になっていくこと。心身を浄化し、光になっていくこと。それが光のエネルギー場。これは自分の仕事だから、全力を尽くすのは当たり前。お金のためでも、地位や名誉のためでもなく、ただそうする。そうするために生まれてきたのだから。そのために長い永い転生を重ねてきたのだから。この時のために。今この時のために。二年目を期して、サイトの名称を「光で生きる」から「無色透明」に変更します。今は、その方が自分の気持ちにぴったりくるから。何もないことの、言葉を超えたすばらしさ。何もなくても、すべてがあるすばらしさ。この上ない、無上のすばらしさ。日記の名称も「無食透明への道」から別のものへ変更したいのですが、まだピッタシくるものがありません。「光のエネルギー場」「うす紫の蓮の萼の・・・」「アセンションへの道」・・・まだ確定できませんので、しばらく空白にしておきます。この日記でやろうとしていることは、はっきりしています。透明のエネルギー場を創ることです。五次元へ続く真空のエネルギー場。地上からスッとアセンションできるようなエネルギー場を創るのです。今日はサイトの名称だけ変更します。無色透明のエネルギーが満ちるサイトにするつもりです。何もない、でも、すべてがある。それは、空であり色でありということです。何もないというのは空であり、すべてがあるというのは色です。色即是空、空即是色。今は色から空へのエネルギー転換の場を、この三次元の中に創り出す時なのです。できる限りのことをやります。何か縁を感じられたら、関わってみてください。よろしかったら、コメントしてみてください。いかなる権利も義務も生じません。そういう三次元的なものは一切存在しません。五次元レベルのエネルギー場をめざします。『何もない 境地に立てば 万感の 愛があふるる 無色透明』これが366日目の心境です。
2006.01.02
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新しい年に切り替わる頃・・・日記のコメントへの返事を書いた余韻に浸っていた。「最初の一歩が最後の一歩」これはクリシュナムルティの有名な言葉。見守ることは、まさにそのとおりなのだ。二歩目というのはない。最初の一歩が永遠への一歩。永遠という世界は、一や二という次元ではない。増減や比較のない絶対の世界。その最初の一歩が見守るということであり、それが最後の一歩でもあるのだ。屋久島の夜明けは、曇り空だった。年賀メールを作成して、アドレスのある人へ送る。12月30日に太鼓岩で撮ったばかりの写真を貼付する。背後の宮之浦岳の雪景色がすばらしい。それから、天然村にお客さんを迎えに行く。お屠蘇と甘酒をふるまわれた。元旦早々、飲酒運転となった。屋久島一周のスタートは、お客さんの希望で益救(やく)神社へ。屋久島で初詣に行くのは初めて。拝殿に立つと、いつものように大地が動き出した。まず左回りに上昇。それはUFOにでも乗っているかのように上がっていく。やがて回転が止まり、今度は右回りに回転しながら下降する。そして、元の位置に戻った時に回転が止む。左回転で浄化され、右回転で充電される。つまり、神様からお祓いを受け、神様のエネルギーを授かる。まさに本来の神社そのもの。益救神社に行くと、いつもこのパターン。ちゃんと神様がいる証拠。神のエネルギーが来ている神社なのだ。ここは屋久島にある神社の総元締め。益救(やく)とは、益々救われるという意味らしい。屋久の当て字だろうが、御利益のある神社なのだろう。屋久島には竜宮伝説があり、屋久島こそが竜宮であると言う。それほど神々の住む島であり、神秘に満ちた島なのだ。益救神社で登山と交通安全のお守りを求める。別になくてもいいのだが、なんとなく買ってみたい気分だった。益救神社には地元の人が三々五々お参りに来ていた。境内に、たこ焼きと焼き鳥を売る店が出ていた。これはない方がいい。神聖な気を乱す。我々が行った時、ちょうど神主さんと出会った。島のエライ人たちがお祓いを受けるべく拝殿に集まっていた。少し神主さんの祝詞(のりと)を聞いた。しかし、既に神様から直接お祓いしてもらっていたので、改めてお祓いしてもらうまでもなかった。その後、ガジュマル園を見て、永田いなか浜へ。美しい貝がたくさん打ち上げられていた。お年玉?かなり長い時間、貝拾いに興じる。それから裸足になって波打ち際を歩く。少しも寒くなかった。足の裏から毒素が抜けて、スッキリ!神社でお浄めされ、また海岸でも浄められる。正月から浄化の連続?実際は、年末年始の仕事で森を歩く間もアクビが止まらなかった。森でも海でも車の中でも・・・新しい年に備え、浄化しまくっている感じだった。西部林道では、サルやシカ達がいるところで車を降りる。暖かい。まるで早春のような陽気。これから春になるのかと錯覚してしまう。これから真冬が来るとは、とても信じられない。サルやシカ達も、のんびりしていた。大川の滝でマイナスイオンのミストを浴び、青少年旅行村へ。ここでサンゴを拾う。サンゴは室内を浄化してくれる。それだけでなく、水を浄化し、電磁波も中和してくれる。屋久島のサンゴはエネルギーが高い。しかも、タダ!尾之間温泉であたたまり、千尋の滝へ。龍神の滝も覗いて、天然村へ戻る。お客さんたちの朝食には、おせち料理が出たらしい。この時期はタンカンも食べ放題。毎日食べて黄色くなりそうと冗談が出る。温泉に入って帰ると、夕食後はすぐに眠くなる。年賀状を見る間もなく眠ってしまった。今年は元旦から屋久島の神様に直接お浄めしてもらった。なかなか縁起の良い一年になりそう。少なくとも仕事は順調だろう。なぜなら、正月から仕事をしているから・・・今年のメインテーマは、ブログ日記を更に充実させること。ネット上に透明なエネルギー場を創り出すこと。そして、仕事も順調に多くの人と出会うこと。たぶん、そうなるだろう。そうなるしかないのだから・・・『見守れば 永久(とわ)の宇宙の 始まりも 終わりも消えて 深まりゆくだけ』これが365日目の心境です。
2006.01.01
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