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2013.01.26
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カテゴリ: カテゴリ未分類
月1回の史談会講座に参加して来ました。

今回の議題は戦国時代九州地方で大きな転機となった沖田畷の戦いについてでした。

沖田畷とは島原市の北部に広がる湿地帯でしたが、現在は開発が進み量販店や自動車販売店
が軒を並べて賑やかな地域になっています。

沖田畷の戦い等言っても知らない人が多いと思いますが、戦国時代の九州は守護大名の
薩摩と同じく守護大名の大友氏が角突き合わせていました。

鎌倉時代の九州地方守護職少弐氏や中国地方の守護職大内氏の没落で九州は群雄割拠状態
でした。

その中で生き残ったのが島津氏・大友氏・龍造寺氏・有馬氏等でした。


島津は此の大友と龍造寺と三つ巴状態でした。

有馬氏が全盛の頃は肥前の一部を領有していました、次第に侵犯され、龍造寺に最後の一城まで
と追い詰められ有馬は島津に援軍を頼みます。

島津は時の太守義久が末弟の家久を総大将にして形ばかりの兵を送ります。

そして沖田畷で一大決戦となりました。

有馬・島津連合軍3万人に対し龍造寺軍は10万人を上る軍兵です。

勝負は初めから決まって居た様なものですが、戦いはやってみないと判らないもので、
結果は意外に龍造寺軍が大敗し、島津が隆造寺隆信のクビを挙げました。

勝因はまず龍造寺軍を沼地の沖田畷に誘い込み南蛮銃で狙い撃ちの作戦勝ちと言う処です。

今回の講座ではこの時有馬軍に加勢したイエズス会の「フスタ船の大砲」が威力を発揮した
と新説が出て来た事を明らかにされました。


との事でした。

沖田畷は有明海に面し海上から大砲を龍造寺軍に向けて撃ち込む事は有りうる事です。

有馬の藩主はイエズス会の洗礼を受けて居ましたので、要請があれば当然協力したと
思います。

ただ此は残念ながら日本の資料には一行の記録もなく誰も知らない事だ云う。



今回はこの沖田畷の戦後処理として、八代や島原・神代に島津から来た上井覚兼(うわい
かくけん)と云う人の日記の解読でした。

上井覚兼と云う人は宮崎のある領主で記録係みたいな書記と云う身分らしい。

龍造寺の生首を検視して佐賀に返しに行ったが受け取って貰えず持ち帰って居たら国境の
川の手前で急に重くなったので敵地には行きたくないのではと川に中に放り出した事等が
書かれて居ます。

また人質を連れて行った事佐賀に100艘余りの船で攻め入り敵を潰滅させた事等や
温泉神社が破壊されて居るので修復する事等を話し合っています。

処が島津軍は余り得する事がなかったので、次々と引き上げて来ます。

図に乗った島津軍は大友氏と本格的戦争を始めます。

負け続けの大友氏は秀吉に援軍を頼みます。

そこで島津征伐の大義が見えたと九州征伐へ大軍を差し向けて、秀吉も陣頭に立って二手に
分かれ島津を攻め立てます。

これには流石の島津も降参し頭を剃って恭順の意を示し領土を安堵して貰います。

此は先の話ですが、兎に角この上井覚兼日記(伊勢守日記)には注目すべき事が沢山
書かれて居るとの事でした。

上・中・下巻の3冊で県立図書館で希望者には貸し出して居るとか。

判り難い「原文」。普通の文体に直した「釈文」。古文的な書き方に直した「書き下し文」
其れに現代文に書き直した「現代文」があるそうですが何れも難しくて我々シロウトの手に
負えない厄介な物の様です。







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Last updated  2013.01.27 07:09:49


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