わたしの金光教の信心道

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2010.09.21
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カテゴリ: カテゴリ未分類
>金光教のお結界では、生神金光大神取次が行なわれていますので、基本的には、誰でも、お取次を頂けば、おかげが現われるのです。ただ、実際には、誰が座るかによって、おかげが違うところがあります。何が違うのでしょうか。神様への向かい方と、氏子を思う思いの強さです。
それは、祈りになって現れます。ですから、祈りが強いほど、そして、強い祈りをどれほど積み重ねているかによって、違いが現われるのです。この違いはごまかしが聞きません。
その人の実力でもあります。ですから、日頃の精進が大切なのです。そうした祈りを重ねた人が、お結界に座ることによって、本当の生神金光大神取次が表わされるのだと思います。
ですから、取次者は、精進が必要です。そして、氏子は、又、誰が座っておられても、金光様が座っておられるとして、お取次を頂かれれば、そのようなおかげが頂けます。そこでは、取次者の徳は関係ありません。ですから、氏子には、先生がどなたでも、おかげが頂ける道が開かれてあるのです。<

ーーーーーーーー

誰が座るかによって、お陰が違うところが有る。
氏子には、先生がどなだても、お陰が頂ける道が開かれる。
取次者の徳は関係ない。

話に矛盾を感じます。

その先生とは関係なく氏子はお陰を頂ける。
関係無いのであれば、精進する目的が狂ってしまいます。

患者が病院で先生に助けてもらいますが、やぶ医者であれば、助からない事もあります。
難儀な氏子が救われる確立が多くなるのは、取次者の才覚に成ります。

取次者に関係無く氏子がお陰を頂けると言う事で有れば、やぶ医者に関係無く患者は救われると言う理屈に成りますが、道理に適う信心を説く金光教の先生の説教としては如何なものか?

本件とは別の問題として、道理にに適う信心をどのように理解するか。
宗教を卒業するとか、信心して神に成り信心の自立を考えるような話は金光教の信心では無いと言う意見が有りますが、この世の道理を観れば、子が成長して一人前の大人になるのが道理であり、草花も種を蒔けば芽が出て植物が成長して木に成り花を咲かせ実がなり種となって、その種をまいて芽が出る。
一生芽のままでは道理に適わない。

氏子が信心して成長して行く道が信心の道であり、神の子で有る氏子が成長すれば大人の神となるは道理です。
死ぬまで修行、求め続けるので有れば、成長と言う言葉が無くなる。

信心の道の稽古を重ね、信心が成長して悟りが開かれ自己が確立されて神となり、神が創造したこの世の物の道理を説いて人間の正しい生きる道を説くのが道理なんだ。


人間に創造されたモノ達は、己の道理を説く事が出来るだろうか。
自動車は、運転手がみんな知っている。
車体は道理を説く事は出来ない。
車体は運転手の意思に従う事で道理は適う。

宗教を人間の世界に説くには、氏子が成長して神となる必要がある。


誰でも信心すれば神に成れる。
しかし誰も神に成れない。
それは教師がその道を体験しないから、その道を説く事が出来なくて、その宗教に世間から指摘が寄せられる。

道理を説く宗教行為が道理に適っていない。

説教者が自己を確立すれば、説教者は説教者に成れる。
神の話は、神でなければ出来ない。
道理に適えば、難しいと言う事が無くなる。

カメ








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Last updated  2010.09.21 21:35:56
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