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人間が戦争して、都市を破壊したり人と人とが殺し合いする事は、運転手が車体を壊したり、道路を破壊したり運転手の命を奪い合いしたりする事と同じなんだ。運転手はそんな愚かな事はしません。 交通社会にも交通戦争と言うモノがありますが、それは事故によって起きるもので、運転手同士が対立して起きるモノではありません。運転手と車体が一体と成った姿を自動車と言います。そして個々の自動車が沢山集まって交通社会システムが完備されます。 その社会に問題があれば改善されて行きます。 社会から問題を無くして、自動車が安心安全な走りが出来れば、運転手は喜びます。 自動車にはタイヤが必要なんです。ハンドルが必要なんです、エンジンが必要なんです、ガソリンが必要なんです。不要な物は何もついていません。道も社会も環境もみんな必要なんです。 その自動車から運転手が降りれば、自動車は走れません。走らない自動車は路肩で永遠に定まり続けます。走らない自動車は取り除かれて処分されて無くなります。 車体を放棄した運転手は、運転手では無くなり、人間の世界で生きています。車体と縁が切れた人間にとって、交通社会は別世界と成り、その世界に捉われる事が無くなります。 自己を確立して人間の運転手に成ると、人間の世界がよく見えます。その自己が気を失って意識が無くなると、人間の世界とは縁が切れます。気が付いて意識が戻れば、自己は人間として人間の世界で生きられます。 自己は車体から縁が切れれば、交通世界とは一切関係ありません。自己は肉体から縁が切れれば、人間世界とは一切関係ありません。自己はパソコンと縁が切れれば、ブログの世界とは一切関係ありません。 交通世界で人間世界を説いても意味成しません。人間世界で交通世界を説いても意味成しません。ブログの仮想空間で自己確立を説いても、人間世界にはあまり意味成しません。 自動車には自動車の社会の法が説かれルールが敷かれ義務が課せられます。人間に道交法は適用されない、運転手に適用されます。 人間には人間の社会の法ルール義務があります。 車体は創造された物であり、その物を生かしているのが運転手です。生かすモノと生かされる物が一体となってこの世に姿を現した自動車とその社会。 この世の現実に生きる人間の世界で、あの世の話を説く宗教思想団体。物を説かず心を説く行為が、動物の生きる道を破壊してしまった。人間の街や道が破壊されて人の命が肉体ら離れてしまう。 自分とは精神的なモノなんだ。肉体は自分ではなくて、自分の肉体なんだ。車体は運転手ではなくて、運転手の所有物なんだ。パソコンの機体は自分の所有する物なんだ。 自分とは、そう言う物ではなくて、その物を生かす主なんだ。その主の考えが主観と成る。そしてその物として観る事を客観となる。 客観的に自分の姿を見ると、その姿は人間であり、この世の現実で自分は人間として生きている事が分かる。運転手が客観的に自分の姿を見ると、その姿は自動車の姿であり、交通世界で自分はマイカーのドライバーとして生きている事が分かる。 創造された物の世界が宇宙であり、自己を確立して物の世界で道理に沿って生きれば、人は人と人との衝突を無くする事が出来ます。自分とは何であるかを知らないで生きていれば、物としての道理が分からない。 だから人それぞれが自分勝手に走り出して衝突事故を起こし、又あの世を説き非現実論を説く宗教思想に洗脳されて、この世の現実を見ようとしない人間に成ってしまう。 人間よ、信心して神に成れ、仏に成れ。神に成れば人間を生かす主と成る。神に成らなければ、運転手不在の自動車と成る。道理がつぶれて、人間の世界から争いが無くならない。 何故世界の人間同士が争い苦しめ合うのか。知恵者の人間、人間の世界に宗教思想は悪魔を呼ぶ。宗教は麻薬だ、アヘンだ、悪魔だ、ウンコだ、ゴミだ。 マイ宗教は太陽だ、ダイヤモンドだ、自ら光を発する幸せの玉手箱だ。 自分で運転しなければ、マイカーのドライバーにはなれないよ。外部情報に惑わされないで、自分の五感で確り情報処理をしましょう。 カメさんでした。まる
2011.10.25
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金光様はこの世の道理を観て、それに適う信心をするようにと説かれています。例えば自然界の姿、滝は上から下に向かって落ち、その水は川を伝って大海へと注がれて、一つに成ります。元々は一滴の雨露が自然の道理に従って川を下り一つに成る。これが金光教の信心なんだ。しかし難儀な氏子が助かりすればよいと言う信心には、このような道理が観られない。何故難儀になるのか、その訳を説いて二度と難義にならないように信心の道を迷わず失わず末の末まで教え伝えて行く信心、自らが神となり自立した信心が出来るようになるのが道理に適う信心だと思う。個々の信心は、人それぞれ自由な信心でよいと思うのですが、世界の信心、つまり宗教界の姿は、大海のように纏まって行く筋道が観られません。それでは共に生きる人々が心一つに和合できなくなります。道理に適う信心の道とは、水のごとく下へ下へと流れて人それぞれの心が一つに成る事だと思いますが、多くの宗派も信者も一つに纏まる事は先ず無いでしょう。信心の稽古の道は、頂上を目指す登山道のような道で、頂上に立って御来光が拝めることの有り難い道でありますが、そこでは人間の生活は出来ないので、再び下山して裾野に広がる日々の生活現場に戻り、何時ものように生きて行きます。日に日に生きるが信心なんだ。特別なモノを求めて修行するような信心は一時の迷い信心なんだ。組織に依存しないで、個々の信心が自立して行く自然界の道理に適った信心を広めないと、命の水が一つになって信心の大海が実現しないでしょう。大海の水は蒸発して天に昇り、再び一滴の雨露となって個々の生き物を生かす事に成ります。水の流れは人生のごとく、様々にその様相を変えて流れて行きます。激流のような人生からなだらかな浅瀬のゆったりした人生もあり、最終的には、みんな大海へ注がれて一つに纏まる。己を信じて流れ続けて行く道理に適った信心を金光教から発信して行きたいモノです。カメ
2011.09.17
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久しぶりに更新して観ます。金光教の道理に適う信心をひも解いて行けば、組織は商売に成らなくなってしまう恐れがあります。つまりカメさんのような自己確立で自らの意志で生きられるように成れば、教会も病院も気功治療も先生もみんないらなくなってしまうからです。日に日に生きるが信心だ。信心に連れはいらない。一人黙って静かに信心しなさい。道理に適う信心とは、教えを頂いて御取次で難儀な氏子が救われる教団組織の仕組みと、救われた氏子が自立して行く筋道は、続いて行くモノであり、それは決して留まるモノではない。病人が健康に成れば、退院します。病人で無い人が病院で生活するりゆうはありません。苦しい時の神頼み、苦しみが無くなれば神は無用となる。この恩知らず目と叱られるかも知れないが、神様は難儀な氏子が救われて元気を取り戻して元の生活が出来るようになるのが楽しみなんだ。教会へ参らなくても良い。神様を忘れてしまっても良い。自分がその信心を頂いて自己消化して行けばよいのだよ。健全な社会とは、みんな健康で生きられる社会と成ります。自分で健康管理が出来て正しく生きられるようになるのが理想です。苦しんでいる人が沢山いるから病院を建てよう、教会を建てよう。人気が出てくると、病人や信者が増えて、組織が貼ってして行きます。苦しんでいる人が多くいないと組織は発展しない。集まってくる人がいなく成れば商売に成りません。病院も教会も寺も、無くする事は出来ないが、社会システムとしては、健全な姿が一番望ましい姿に成ります。つまりみんな健康に成れば、救済システムはいらなくなる。教えと現実の矛盾をどう解決すればよいのか。道理に適う信心で悟りを開きましょう。つまり宗教も学校法人として登録し、義務教育のように教え育てて卒業して行く筋書きを作る事なんだ。病院には退院があり、学校には卒業がある。教会には退院も卒業も無い。それが道理に適うものなのか。カメさんは、道理に適う信心を頂いて自己を確立して宗教を卒業する事に決めた。卒業して社会人としての信心生活を実現しています。卒業出来ない信者や会員達が社会生活でみんなと普通に暮らす事が出来なくなっている。信者は普通の人ではない。無神論者も普通ではない。卒業すればみんな普通の社会人として自立して行きます。みんな信心してこの世の道理を悟り、自己を確立して社会人としての生き方を定めましょう。金光教の信心は実に分かりやすい教えです。教会の先生も、難儀な氏子である信者もみんな信心すれば誰でも神に成れると教祖様が説かれているが、誰も神に成った話が聞こえてこない。それが一番の問題なんだ。カメさんでした。まる
2011.06.11
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金光様の信心を頂いて、自己が神である事を気付かせて頂きました。それはあくまでも私個人の思いでありまして、その気持ち、心境をYahooのブログ(カメさんの日記)で書き続けています。誰でも信心すれば神に成れると言う金光様の教えが、どう言う事で有るのか理解するのがとても難しい。人間は人間の世界で人間の両親から生まれて、その子が育ち大人になって社会人として生活を終えて一生を終えます。その人間が神に成るとは、どう言う事であるのか。先ず私は金光教の信心の稽古を積み重ねて、自己を確立しました。それは自分とは何であるかと言う問いに答える事が出来るようになったと言う事です。自分は人間なんだと思っていた事が思い違いである事に気が付きました。人間と言う実体が信心の心から消えてしまいました。人間と言う名は、総称であり、それは自分の名ではない。自分の名は人の名である。その名を人名と言います。人は死んでも名を残しますが、人間が死んだら消えて無くなります。一心に願え、お陰は我が心にあり。金光教の信者として、金光様に対する気持ちを一つにして、その教え通りに生きる稽古を重ねて行く内に、自己確立のお陰が現れました。自分とは、物では無い、精神なんだ。だからその人間の姿を自分なんだと思っている事が間違いなんだ。その間違いに気付いて、気持ちを改めて信心を見直す事に成りました。そして自動車の比喩が浮かんで、自分は車体を生かす運転手のような存在なんだと言う気持ちが定められました。運転手としての生き甲斐を感じられるようになって、心眼が開きこの世の道理が見えるようになり、職場で働く物としての気持ちが整えられました。生き方が定まってくると、信頼されるようになります。気持ちが人それぞれで生き方が定まらないと、信用を失います。こう言う筋道は、特別のモノではなくてみんな当たり前の規則正しい生き方に成ります。被災者も救援隊も国民も世界の人々もみんな心一つにして頑張っています。時間がかかりますが、必ず復興は遂げられます。それは、この世の道理なんだと言う事に成ります。そう言う道理に適う信心をせよと金光様が説かれています。この世の道理に適う信心とは、現実的な生き方であり、この現実にいるものは神でも無く仏でも無く自己でも無く運転手でも無く魂でも無く心でも無く、存在しているのは人間です。人間が人間の世界で生活しています。その人間が神の世界を説いて宗教は特別視されるようになりました。神も仏も特別なモノなんだ、だから思想集団の信者さん達は、特別な思いで活動するようになります。この現実を無視して人間に愛や思いやりの精神論を説き、肉体を物としてその生き方を定める事をしない。人間の難儀は、生きる物として、働く物として、動く物として、子孫を産み育てる物としての生き方を定めないところから生まれて来ます。形有る物はみんな定められています。創造されて生かされています。精神は人それぞれ自由で有るから、物としてその気持ちを定める事が出来ません。金光様はこの世の道理に適う信心の道の稽古を説かれています。肉体が無く成れば生きられません。その肉体を物と認識し、自分は物ではないと認識すると、人と神とのあいよかけよの主従関係が確立されます。車体と運転手もあいよかけよの関係です。肉体と精神(自己)もあいよかけよで生かされていると説かれています。信心して神に成れば、肉体を生かす運転手として自己が確立されます。運転手の気持ちに成れば、この世で生きる訳が分かり、心配事が無くなります。難義が消えて、気が楽になり、気楽に生きられるようになる。そこで金光様の道理に適う信心が分かっていないと、この大震災の教訓が分からないと思います。そして復興しても、又人それぞれの生き方が改められる事は無く、一つになった復興の気が又バラバラになってしまう事でしょう。戦後0から立ち上がった国民の一つにまとまった気持ちが、人それぞればらばらになって社会の人としての気持ちが消えてしまって、自分勝手に生きて統制が取れなくなってしまいました。そうした気の乱れが、地球の気の乱れに成ってくると考えられます。信心して神に成れ。それは人間を正しく生かす運転手に成れと言う教えです。運転手は今を常に正しく運転します。復興の道も、復興を遂げた後の道も、運転手は何時も正しく安全運転を心掛けます。神とは物を定める意志なんだ。それは人の気持ちなんだ。その気が有れば、人間は信心して神に成れる。神の気持ちに成れる。金光教の信心は、難儀な氏子が助かりさえすればよい信心ではなくて、難儀な氏子が救われて元の生活が出来るようになり、信心を頂いて信心生活が出来る気持ちに改める事なんだ。みんな信心生活が出来るように成れば、世界の人々が信じ合えるようになる。この素晴らしい金光教の道理に適う信心が、広がりません。その原因は、信心しても神に成れないからです。教えを実践しないからです。教えを稽古すれば、神様の気を頂けるようになり、その気を持つ事を気持ちと言います。カメさんは信心して自己を確立して神に成りましたと書くと、自己満足であり、そんな信心を他者のブログで書いて意見を押し付けられると迷惑だと言われます。難儀な氏子が救われさえすればよいのだ。一生神信心の修行なんだから、神に成るなんて思い上がってはいけないと言う。それは個人である人それぞれの心ですから、どうにも成りませんが、道理に適う信心と言うものがどう言う信心で有るのか、毎日地獄絵巻を見る思いでテレビを観て、この世に神も仏も無い事が良く分かったと思います。この現実に生きているのは、自分しかいない。その自分とは何かを気付かせて頂けたのが、金光教の信心です。神の氏子が信心して神に成るのは当然の事です。人間は現実の世で生かされています。自分はその人間の肉体の心の中の運転席で人間を正しく生かしている主なんだ。それは物ではなくて精神なんだ。神に成らなければ、そう言う気付きは生まれません。運転手に成って正しく生きられるように成れば、復興を遂げて元の生活が蘇っても人それぞれ勝手に生きる事は無くなります。どんな事情があろうとも、運転手は常に安全運転を心掛けています。信心生活には衝突事故は起きません。かメ
2011.04.10
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ドライバーはみんな自己が確立されている。だから車体を正しくコントロール出来るんだ。自動車を物として観るから、道理適う運転が出来る。人間を物と観ないのがそもそも道理に適った生き方が出来ない原因なんだ。物はそれぞれ自由に生きようとはしない。道理が有るから常に物は今に定められる。定まり無い物であれば、全て物に依存する生活設計は建てられない。物のお陰で生活が出来る。人間も物として心を定めれば、物としての生きる意見も一つに定められるでしょう。人それぞれの定まり無い心が世界を乱してしまう。定まり無い人の心、誰も人を信じられなくなる。 カメ
2011.01.09
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カメさん今度こう言う仕事が入ったので、こう言う部品を大量に作らなければならないから、その方法を考えてくれ。アイデアが得意とするカメさんとしては、水を得た魚のように会社の中を泳ぎ回っています。 何度か試作品を作り改造しながら加工機を完成させて行くそのプロセスが実に楽しい。アイデアが閃くと、夜も寝られない事もある。寝不足で疲れがたまってくるが、機械が完成すれば疲れも吹っ飛んでしまって、達成感が満ち溢れてくる。 そこには信心生活が有る。信心して自己が確立されて、肉体が生きる原点が定められ、その物が職場でどう言う部署に配属されるかと言う事に成り、機械の部品のように定められた位置でその役目を発揮する。物の道理に適う生き方が出来るようになって、人間として生きる悟りが開かれてくる。 ところが毎月の給料明細の成果手当の欄には何も書かれていない。契約社員の決められた時給が計算されて、毎月支給されるだけ。自己確立以前の話で有れば、成果を出しても評価されない会社なんかでバカバカしくて働けるかとすぐに止めてしまう。 自己確立の世界は、肉体を物として認識する事によって物の道理に適う人生哲学が浮かんでくる。物達はどのように存在しているのかを観ます。便利な生活が出来るようになったのは、物のお陰。その物を創造して物質文明が発展して、人間達は自分が働かなくても物に全てを依存して好き勝手に生きられるようになった。 いらなく成れば物は捨てられてしまう。物達は何も言わずに、ただただ人間達の奴隷と成り、物として定まり続けている。この肉体を物と認識すると、物の道理が観えてくる。物として己の心を定めるのが信心の道となり、物が物として生きる道が開かれてくる。 自己は肉体ではなくて精神であり、その物を生かす主なんだ。物で無いから、物の道理は無く自由でいられるが、肉体は毎日物の道理が定められた道を生きる事に成る。 信心の道は宗教によって開かれる。宗教は道標、教えを信じて生きる稽古を重ねて行く内に迷いが無くなり、安心して生きられるようになる。そして自分は何であるかが観えてくる。 信心すれば神に成れる。神に成れるのではなくて、元々から神であった事が分かる。人間にはこう言う筋書きは理解できない。それは信心を実践して観なければ分からない世界なんだ。 自分は肉体では無い、精神だと気付くのも信心の積み重ねによるモノ、この分別論が物の道理に適う。物で無いモノが、物を創造してその物モノを生かす立場に立てば、相対論が適用される。 物は物から生まれるモノではない。物は想像力から生まれてくる。 部品の加工機は、設計理論を組み立てるアイデア能力からそのプロセスは始まるのだ。人間がこの世に生まれて生きるとはどういう事であろうか、その訳が分からずに生きるとどう言う事に成るか。それが人間世界の実体ではないか。 訳が分かれば、人間の苦は解消します。苦を滅する宗教は、道理を説かない。私のブログには愛や思いやりや優しさが欠けていると宗教論者から指摘を受けます。精神疾患の苦しみは、そんな屁理屈では治らないと叱られます。鬱や自殺が増えて、宗教界がますます発展して行きます。苦しい時の神頼み、宗教はただ神に、仏にすがりなさいと説く。苦しみの人のために命がけで祈りを捧げている先生方にはカメさんのブログは屁理屈にしか見えないようだ。 苦しい時の神頼み、神に頼んで苦を救って頂いた恩は忘れない。苦を救ってい頂いて苦が無くなった。自己を確立して、この世の道理を悟り哲学が生まれて子が親から乳離れして一人で自立して生きられるようになった。道理が分かれば、迷いが無くなり、当然苦は生まれない。 苦の無い所には神は無用。親から離れて子が自立して一人で生きられるようになるのが道理なんだ。宗教がその道理を説けば、信者が自立して組織が潰れてしまうから、思想宗教は道理は説かない。それが人間の不幸の原因と成る。自分は物では無くて精神だと分かり、神の氏子が自分であり、その氏子が成長して行くのが信心の道なんだと言う事に成る。 道理とは、筋道であり、筋の通る話をして、人間を納得させれば信じなければ成り立たない宗教の問題は解けてくる。人間は考える動物なんだ。その人間の世界が苦しんでいる。 苦しい時の神頼み、自己が救われたが、人間が救われない。人間が道理を悟れば救われる。信じる人と信じない人がいる人間の世界で、精神論に偏った救済的な宗教を説いても道理は適わない。 道無くば人は生きられない信心の道を説く道理に適った宗教、それは個の確立であり、他と議論しても何も生まれないマイ宗教なんだ。ブログはマイ宗教に適した世界だと言える。カメ
2011.01.08
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哲学の哲とは、道理に明るく、知恵がある徳や知恵のある人。才能・識見のすぐれた人。哲人と辞書にある。道理に適う信心を求め続けて、哲学が書けるようになった。 ただこれが哲学であるのか、哲学とはこう言うものであるのか、分からないが、心境を書くと哲学らしき文が出来上がったと言う事に成る。 人間的には、こう言う心境は一切理解できない。書いて観れば、何一つ特別なストーリでは無く、読んでみればみんな当たり前の事ばかり、哲学が書けるようになったとしても、日常は何も変わり無く、毎日が過ぎて行く。 そう言う事で有るが、何故人間は問題を抱えて苦しんでいるのか、その訳を宗教や哲学や占いなどで解き明かせられないのか、それらの事についての情報は色々あるが、人間の世界から問題が無くならない。とみんなが思っている。 自己を確立すると、問題意識が消える。自己が確立されると、先ず自分の生きる原点を定める事がいの一番にする心定めなんだ。 自己が確立されるまでの道のりは十年、二十年と長い。何も分からず、宗教を信じて信心の稽古を積み重ねて行く内に心は一つに定められてくる。そしてどんなにあがいても、もがき苦しんでもどうにもならない事に気がついて、思考が停止する。 何も考えないで、何も思わないで、毎日の務めを果たしていれば生きられる。ロボットのように、歯車のように、そして運転手に生かされて走る自動車のように、ただ走り続け、生き続けて、無我の境地を悟る事に成る。 朝目覚ましのベルで目が覚める。起きてトイレを済ませ、顔を洗い、神前にお水を供え祈りを捧げ朝食に成る。毎朝の決められてストーリがそこにある。そして出勤時間と成り、職場でその日の務を働いて、定時と成れば出社して家に帰り、風呂に入って食事してテレビを観て寝床につく。 この一日のスケジュールが一生続けられる訳です。その訳が分からないので、心はその生き方に定まらなくなり、色々な生き方を模索して、そしてもがき苦しんで、再び元の生き方に戻る事に成る。 生き方を変えたとしても、結局毎日同じパターンに成る。何故そう言う事に成るのか。その訳を知る事が出来たのが、分別論による自己確立なんだ。 自分とは何であるか。自分とは肉体ではなくて、精神なんだ。人間は神様に生かされて生きていると説かれている。 自分は人間だと認識していると、毎日生かされるがままに生きれば道理は適う。がそれは無理なんだ。自分とは物では無い、精神だと認識すれば、人間を生かす立場に立つ事に成る。 そこに自動車の比喩が浮かんでくる。肉体は科学的に完全に解明されている。物には道理が有るから、求めれば訳は分かる。精神は物では無いので、求めても何も答えは見えてこない。 それは信じるしかない存在だと言える。肉体から切り離された自意識には思考が働かず、思考は物としての肉体に自動的に働いて、車体が運転手の意志で走るように、肉体は無意識で生きるようになる。 人間的にはとても信じられない生き方が実現する。 ただそこに哲学が生まれてくるんだ。形ある物としての生き方が哲学なんだ。その物を生かす命が、自己と成り、物意識が消えて無我と成り、人体を生かす立場に立ち、マイカーのドライバー人生哲学が書きあげられる。 どんな生き方を模索しても、生きるには道が必要なんだ。その道の理を悟れば、今その道の上に心は定められる。運転手は何を考えたとしても、今走っている道を踏み外せば苦を招く。 道に沿って走り続けていれば、何れ目的地に着く。それが道理と言うモノなんだ。この世の道理を観て、それに合う信心の稽古をせよ。誰でも信心すれば神に成れる。神とは人間を生かす運転手なんだ。 誰でも稽古すれば運転手に成れる。と言うのが自動車の宗教と成る。 自分は人間の運転手だった。その事を知ってから、哲学が書けるようになった。運転手は誰でも交通の哲学が書ける。みんな当たり前の事。難しいモノは何も無い。 カメさんでした。まる
2011.01.06
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今日12月28日は仕事納め、一年の締めくくりと成ります。そしてまた新しい年が元日の空に明けます。 自己確立の世界には、何も無い。無我と成れば、今しかない哲学が書きあげられます。今を納得して生きれば、その積み重ねが一日、一月、一年、一生となり、一つの流れ、一本の道と成り、道理は適えられる。 その道には癒しの哲学は無い。 あけましておめでとうとは言うが、暮れましておめでとうとは言わないが、自己確立の思いの中では、今年も無事務めを終える事が出来て有り難い、おめでとうと自らに感謝を捧げます。 むしろ新年に対するめでたい気持ちは平常心でいられる。 自己確立は、集団思想では無くて、個の思想です。一人一人が生き方を定めて行く思想です。社会人には適用されない個人の自分勝手な思想ですが、その個が確立されていないから、そう言う人々が集まって生まれる社会は纏まり無く秩序が乱される事に成る。 一年の仕事納め、会社は休みと成る。個人の自由な思想では、休みでも仕事をしたいと言う気持ちになれますが、会社へ行っても門が閉ざされて入れないので、仕事は出来ません。この当たり前の理屈が分からずに生きています。 つまり個と集団の生き方が区別されていないと言う事です。 自由な個々の人々の存在を重視する思想が集団思想の社会に問題を投げかけます。社会人は共に生きていますから、社会人としての務めを果たさなければ生きられません。仕事をしない人は、会社から解雇されます。 社会人には務めが有る。それは共に生きる人々の使命なんだ。共に働き合って共に生きるシステムが社会なんだ。 それは物の道理によって毎日が営まれて行く。物や金が無いと社会システムは成立しない。人の真心だけでは物のシステムは作動しない。 人とは、全ての物を生かす命だと言える。人は物では無い。物で無いから、社会の物の道理が適用されない自由な心がある。 自分は何故毎日決められた生き方をしなければならないの。もっと自由に生きたいよ。 でも社会人にはその思いは通じない。仕事もしないで、と叱られます。 働くのが辛い、しんどい、金をためて楽に自由に生きたい。しかしそれは願望であって、共に生きる社会では与えられた務めを果たさなければ生きられない。 その生きる訳が分からないから、人は道理を踏み外し不幸を招く。 物と成れ。そうすれば道理が開かれる。道が開かれると、人は安心できる。道が閉ざされると、不安に成る。 人は物ではないから、物の道理を説かないでくれと宗教界からクレームが付きそうなカメさんの哲学、自己確立と相成ります。 常に今を生きる。その先に年末年始がくるが、それも今通る道なんだ。何れ死にますが、その瞬間も今なんだ。無我と成れば、生死観も消えて今を生きる自分の姿を観る事に成る。車体を生かすマイカーのドライバーのような人生哲学、物としてその物を如何に正しく生かす事が出来るか、そんな哲学も必要になって来た時代である。 癒しを求める現代人の心は、物の道理に適う生き方が出来なくなった人の姿です。カメ
2010.12.28
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我情我欲を捨てて、信心生活をするようになると、全て神と同根である事が分かります。色々あって四苦八苦して来た人生、今振り返って思えば全て神と同根であったと思います。これから先死ぬまでも神と同根なんだ。死んだら神として祀られる。(
2010.12.27
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金光様は、誰でも信心すれば神に成れると説かれています。自己確立は神に成る話です。自分とは何であるかを求めると、肉体は細胞であるから、その精神が自分なんだと認識すると道理が適えられる。精神とは人間を生かす運転手なんだ。車体を生かす運転手のように、精神が運転手に成れば人間を生かす訳が分かるようになる。訳が分かれば、人間は納得でき苦が消える。訳が分からないから四苦八苦して、人生結局訳が分からないまま死んでしまう。そこで教団のモノ申す。取次者が信心して神に成らなければ、信心の訳が分からないから、真実を難儀な氏子に説く事が出来ない。プロの教師は、信心して神になった人でなければ、取次業で銭が取れなくなる。ノンプロの教師が多くいるのではないか。取次場所を放棄している取次者が多くいるのではないか。宗教が組織化される事がそもそも間違いの元。教団が自動車学校のように、人に道理を教えて学校を卒業させて社会に信者を放出するシステムと成れば、日に日に生きるが信心だと言う金光様の教えが日常生活で生かされる事に成る。教会へ日参して神徳を積む話は、道理には適っていない。組織から信者を解放して一般社会人としての生き方を説くのが道理に適う社会人の信心なんだ。信者がお参りしても取次場所に取次者がいないでは、金光教が社会システムの一部に定められ事が無く成る。そう言う信心は道理に適うモノではない。難儀な氏子を救う働きよりか、教団の務めの方が優先される信心で取次場所には留守番しかいない。理由は何でもあるが、日に日に生きるが信心だと言う教えには有っていない。筋を通す教団の意識改革を求めたい。
2010.12.25
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信仰は個々の人々の心の中にあるマイ宗教だと言えます。その宗教心が思想に染められて、個々の自由な信仰が出来なくなってしまった。 問題の無い宗教を求めて、自己確立を果たし、マイ宗教が蘇った。問題の無い宗教とは、己の確立された心を信じて一人静かに暮らせば人間社会に問題を起こす事は無い。 そう言う事で宗教に対する問題意識が完全に消えた。 排他的な宗教思想、世界の人々がその国の思想に染まり、思想集団となって信じ合って生活しています。その生活を否定する事は出来ません。 ただ人間世界の平和を目的とする宗教によって人間同士が対立する問題は、解決されなければ世界は滅びる恐れがあります。問題が有る以上、その解決策を考えなければならない。 そこで自己確立の提言と成ります。一人一人が自分とは何であるか? その答えを確立して行く事は可能です。宗教を信じる事によって、私は自己を確立した。 何故宗教で神に成れ、仏に成れと説かれているのか、自己を確立してその訳が分かった。自己確立は無思想だと言えます。無に成る、それも思想なんだ。 確立された個々の人々の思い、その思いを信じられるようになる自己。その自己が信仰の対象と成り、我が心の神に目覚め、その心を信じ生きる稽古を積み重ねて、氏子が神に成長して行く、それが人間の大人、そして社会の一員としての心構えが生まれてくる。 一人一人が運転の稽古をして、マイカーのドライバーに成るるように、一人一人に人間が信心の稽古をして自己を確立すれば、一人の人間の神に成れる。神とは特別な存在では無くて、肉体を生かす運転手(自意識)なんだ。自分が今日一日をどうのように生きて行くかを毎日考えています。 運転手は今日は何処を走ろうかと考えています。 社会人としては、毎日定められた道を生きる事に成ります。道理が有るから、好き勝手に自分の道を生きる訳にはいかない。仕事の無い日は、自由にドライブが楽しめる。 自己が確立されると、マイカー人生哲学が生まれます。自分は人間の運転手なんだ。運転手である事の意識改革、そこから宗教改革も生まれマイ宗教と成り、神に頼り仏に頼る依頼心も無くなり、執着も消えて自らの意志で生きられるようになる。 でも自由には生きられない。物の道理に従えば、問題は生まれない。一人静かに生きれば道理は適う。 運転手に生かされて走っている自動車の車体は物が確立された存在となる。物は創造されて主に生かされ、主の目的を果たす為に働いている。その心に主観が有ると言えます。その主観が人間同士の対立と成り、生かされている身が自らが生きようとして衝突事故に成る。 車体が運転手の言う事を聞かない自動車の姿と成れば、筋道は通らない。信心して神に成れ。信心して運転手に成れ。 自己が確立される信心の道をカメさんは開拓したのです。 カメ
2010.12.23
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カメさんの今年の重大ニュース。問題の無い宗教を求め続けて、自己確立によってその問題意識が消えて、人生哲学が完成した事。 昔、卒業の時先生から贈られた言葉を何時も思いだす。カメは遅くとも、最後に勝利の旗を手にする。と言われた事。 干支は午年で、仕事は手っ取り早いが、悟りは遅かった。定年過ぎてから人生哲学が完成しても、どうにも成らない。しかし高齢化社会が始まっているので、一人一人が社会やモノに頼らなくても生きられる人生哲学が役に立つでしょう。 仕事意識は、金儲けの為に働くのではなくて、それは社会の仕組みとして我情我欲を消して観ると、システムの歯車に成るのが、自己確立の目的だと言える。肉体を物と認識する事で、物の道理が分かり、道理に適う思考が芽生えて筋道が生まれ哲学が完成する。 マイ宗教が生まれた。一人一人の心の中に、信仰心、宗教心が有る。信心の道の稽古を重ねて、一人前の信者に成れば、肉体の運転手として自己が確立され、道理が見えて正しく生きられるようになる。 運転手に成れば、みんな訳を知っているので、人間は安心して生きられるようになる。精神が苦しむ事が無くなる。 人間が苦しむのは、人間の判断が間違っているからだ。人間が対立し、衝突し、怪我をし、お互いが肉体を傷付け合い、命を落とし、命を奪い合い、戦争で多くの犠牲者を出し、宗教が思想となって排他的に成り、洗脳されてしまうのは、人間の判断が間違っているからだ。 自己を確立して、人間と言う乗り物の運転手で有ると言う判断を下せば、人間は正しく生きられるようになる。 その答えは「無」であるから、人間は考える事は出来ない。理解も出来ない。人間的には「無」と言う答えは存在しない。「無」を説明する言葉は無い。 何も考えずに毎日与えられた使命、務めを果たす事が信心だと理解して宗教を実践して来た事がお陰となった。 どうすれば問題の無い宗教が説けるかと言う事に挑戦し続けて、辻褄の合わないストーリを書き続けて、自己を確立してその辻褄が合い、さ迷い続けて来た人生の道が一本の筋道となって目の前に開けた来た。 世界の人間が自分と言う意識体に生かされている姿を観て、自分は人間だと判断している事が間違いだと気付けば、世界から問題は消えて無くなる。気付かないと問題が蓄積して子孫達がその問題の爆発で全滅する。 今、一時も早く自己を確立すれば、私達大人の自己責任が果たされる事に成る。 信心して神になろう。悟りを開いて仏になろう。その宗教を実践して信心を完成させよう。全て自己責任の問題だ。 思想集団は、早く脱退しょう。カメ
2010.12.22
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自分とは一体何であるのか、その判断が間違っていると当たり前に生きられないと言う事が分かった。自分とは人間だと言う判断が間違っているので、人間は当たり前に生きられなくて問題を起こし、苦を招く。 信心すれば、正しい判断が出来るようになる。 自分とは「無」であると言う判断が、正しい判断に成るから、無に成れば人間は当たり前に生きられるようになる。世界の人間がみんな当たり前に生きられるように成れば、秩序が保たれて平和が訪れる。 人間は自分を「無」だと判断する事は無い、姿形の無いモノを自分だと判断しない。肉眼で見て物事の判断を下します。 その人間が精神的な行き詰まりで苦に成り、神仏に救いを求め、その教えを信じて信心の道の稽古が始まる。日に日に生きる事が信心だ。人間は神に創造され生かされて生きている。 無我と成り、神と成り、仏と成れ、そう言う教えを信じる事によって、自分とは肉体的なモノでは無くて、精神的なモノなんだと判断する。 ヨチヨチ歩きの小さな子供が、ウサギのぬいぐるみを着ている人を観て、ウサギだと判断します。その判断は間違っている訳ですが、子供にはウサギだと言う判断に成ります。私達は自分の姿を見て、自分は人間だと判断します。 その判断が正しければ、人間は当たり前に生きられる。その判断が間違っているから、人間は正しく生きられなくなり、問題を抱えて四苦八苦している。 信心すれば、肉眼で見る事の判断が無くなり、その心の思う事が正しい判断と成り、物の道理と言う道が見えて、人間としての当たり前な生き方が出来るようになる。自分はぬいぐるみでは無い、その中身の人の姿が自分なんだ。 自分は自動車では無い、その車体の中に自分がいる。 自分の姿は、人間と言うぬいぐるみを着て生きている姿なんだ。 その自分は、見て判断する事が出来ない。肉体から抜け出した魂、肉眼で見えない人の心、精神とは肉体では無く、精しい神と書く。信心して神に成れば、精しく知る事が出来、正しく判断が下せるようになる。 私達は人間の親から生まれて、子が成長して大人に成り、人間社会で社会人として生きている事は当たり前の事実です。その判断は正しい。 しかし自分は人間だと言う判断は間違っている。自分は自分だと言う判断は正しい。自分は人間では無くて、自分は自分と言う個人なんだ。個人の世界と言うものは存在しないが、人間の世界は存在する。 自らが分かれると書いて、自分と成ります。肉体と精神を分けたのが、分別論と成り、自己が確立された。自分とは精神的なモノだと判断を下した事が正しかった。 その事によって人間と言う乗り物の運転手に成れた。運転手はみんな精しく訳を知っている。だから人間として当たり前に生きられるようになった。 人間が問題を抱えて対立し、殺し合いをしているのは、自分が何であるかと言う事に対しての判断が間違っているからだ。信心して神に成れ。 神に成れば正しく判断できる人に成る。人間に創造された自動車は、自分が何であるか、その判断を下す事は出来ない。運転手で有れば、正しく判断する。
2010.12.21
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今、言うべきか、言わざるべきか、その判断を迷っている事が有ります。自己確立して、自分は何であるかを知ってから、仕事に対する気持ちが変わりました。 昔は子育てや家を建てたりする生活費が必要であったので、仕事をして儲ける必要があり、仕事に対する評価が低いと文句を言ったりしていましたが、定年過ぎて信心生活に成ると、色々悟りが開かれて、仕事に対しても、社会人と言う事に対しても、物の道理に沿う生き方が哲学として生まれて来ます。 使い捨てのシルバー社員、文句を言えば即座に解雇の運命、黙って言われるままに毎日の仕事を務め、契約した時給の賃金をもらって一月一月が過ぎて行きます。 初めはプレス加工の仕事でしたが、カメさん、扉が壊れているから治してくれと言われたのが営繕の仕事をするようになり、アイデアの好きなカメさんは、毎日一人で問題の解決策を練り、結果を出せる仕事が出来、カメさんは何でも出来るねと言われて気分良くして毎日を過ごせるようになった。植え木の剪定もした。 鉄を切断するドイツ製の切断機の刃の目立て機が四台、ギャーやシャフトが減って使えなくなり、その機械を買いたくでも、その物が製造されていな、部品もそろわない、どうするか社長が困っている。そこでカメさんが呼ばれて、なんとかならないかと言う事になった。 なんとかして観ます。そしてなんとかなって、業者に出していた目立てが、自社で出来るようになり、カメさんの高い鼻が一段と高くなてきた。エッヘン 倉庫も一人で立てた。 新商品の部品加工機も考案して設計から製造まで一人でやった。 そう言う一年が終わる十二月、ボーナスが期待される。ところが正社員でも無いシルバーにはボーナスが出ないと言う。不況で収益が落ち込んでいるのが、その理由なんだ。 だから少しでも経費節約を考えて、カメさんが智恵を絞りだして会社に貢献して来たのよ。業者に発注すれば、一千万ぐらいの仕事をして来たのに、契約社員の決められた給料が支払われるだけで、結果に対する評価が無い。 アイデアは個人の財産、そのアイデアを練って奉仕して来たのよ。何故かというと、不況で会社が困っているから経費節約を考えて助けようと頑張って来たのよ。我情我欲を捨て、奉仕の心で頑張って、結果を出し、信頼されて生き甲斐を感じている。だから会社で働かせて頂く事を有り難いと感謝している。 ボーナスが出ない、仕方ないですねと言えばすみますが、道理に適う信心生活を生きているカメさんとしては、仕事の評価は一切無く、シルバーで有るからと言う理由で判断が下された事に納得がいかない。 どのような言葉でその不満をぶちまけようか、今そのストーリを考えています。言うか言わないか、それは分かりません。そのストーリを披露します。 社長さん、カメさんが止めても別に支障が無ければ、私は自己主張はしません。いつものように働かせて頂きます。私がいなくなっても、代わりに誰がしますから、会社に影響しない。 しかしカメさんが止めると困るのであれば、金額は問わないが、ボーナスは出して下さい。個人個人の社員の評価が問われている会社は発展しますが、経営哲学の無い会社は不況で持ちこたえる力は無いでしょう。 理念、真心、哲学、道理、を説きたくなる今のカメさんの心境です。これも生きる信心の道楽です。(^^♪これも金光教の道理に適う信心の道の話です。カメ
2010.12.18
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宗教によって人は癒されても、人間が人間社会で秩序正しく生きられません。人間社会で、宗教法人として許可を受け登録されている団体が思想集団となって活躍する事が社会の秩序を乱す事に成る。 社会の道理に適う信心とは、宗教法人、学校法人、法律に基づいて社会共同システムの一部として法が定められいると言えます。 法人手続きが許可されないと、社会での宗教活動は違法と成ります。法を説く者が法を犯す思想集団は、宗教とは言えない。 選挙活動に違法意識が無い。赤信号、みんなで渡れば怖くないと言うのは、思想集団の事であります。信じる者は救われる。個人としては救われる事が有りますが、信じなければ成り立たない話で社会の秩序が保たれません。 この世の道理を観て信心をせよ。社会の道理に適う信心をせよ。道理に適う宗教を説き、教えを実践すれば、人間社会の秩序が保たれるようになる。 道理に適う信心とは、心身ともにバランスのとれた信心なんだ。精神論に偏った宗教思想では、生きるバランスが狂ってしまいます。 物には道理が有ると言われています。つまり筋道のはっきりした、人間に理解できる宗教は、道理に適った辻褄の合う話でなければならない。それには信心して神に成り、人間が生きる訳を説く事なんだ。 神にも仏にも成れない人間が、宗教を説く行為が道理から外れてしまい、道の秩序を乱します。 神に成るとは、自己が確立される事です。自分とは何であるかを求めると、神である事が分かる。つまり精神的なモノなんだと言う事です。肉体は物であるから、神に生かされる生き方をすれば道理に適う。つまり人間に生かされているロボットのような生き方、自分の意志を消し無我となって自然に有るがままに毎日の務めを果たす生き方です。 自動車の運転手は、車体を生かしています。信心して神に成れば、人間を生かす運転手に成ります。運転手は社会の道理をみんな知っていますから、安全運手を心掛け衝突事故を起こさないように、迷惑運転しないように、秩序第一、みんなが共に生きられるよう心がけます。 そう言う道理を説くのが宗教なんだ。思想集団から脱退するには、洗脳から目覚めなければ成りません。宗教は大切な教えですから、脱退しても教えに基づく生き方を社会生活に生かせば、信心生活が出来るようになり、おかげが生まれて来ます。 人と人間は違う。人とは車体の運転手であり、人に生かされているのが肉体であり、車体なんだと知る。その姿を人間と言い、自動車と言う。その姿を観て自分なんだと思っている事が間違っている訳です。無我と成れ、神と成れ、仏と成れ、そして宗教を説け。そうすれば道理は適えられる。 カメさんでした。まる
2010.12.17
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これまでは、楽天ブログには書く気のりがしなかったのですが、教会のブログで書かせて頂いてお客さんも増えて来た様子ですので、本腰を入れて書いてみようかなと思います。YahOOのブログでは、毎日自己確立の心境を書き続けていますが、最近はほとんどコメントも入らなくなってきました。信心は一人黙ってするモノだから、毎日日記を綴るようにアクセスが0になったとしても、信心道は貫いて行く事に成ります。誰のための信心では無くて、自分の信心の道ですから、自己確立のお陰を発信し続けて行きます。人それぞれ信心のお陰は色々な形で受けていると思いますが、難儀な氏子が救われる金光教のお取次、先生の御働きが実に有り難いモノです。ですから私もなんとか自分のお陰話をして、お道のお役に立ちたいと言う思いが込み上げて来ます。しかし世界の宗教界の姿を観ると、私が頂いた自己確立の世界とは相当の開きがあります。確立された自己とは、信心すれば神に成れると言う教えの神であります。その神は精神であり、信じの道は心の中の道であり、その思いの中に自分がいる事に気付き、信心すれば神に成れると言う教えが理解できました。自分は人間だと思って生きて来た事が、道理を踏み外していたのです。神に成るとは、人間と言う乗り物の運転手になると言う事です。自分は運転手なんだと脳に認識させる事によって、その思考が道理に適う事に成り、運転手に生かされて生きている自動車のように、マイカーのドライバーのように、人生哲学が書きあげられて、信心の道が開かれて来ました。私達は人間では無くて、神の氏子です。子が成長して大人に成り、社会人としてその使命を果たす信心の道。日に日に生きるのが、人間の世界の信心なんだ。日に日に走るが、自動車の世界の信心なんだ。運転手はみんな訳を知っているから、苦しむ事は無く、安全運転で社会の秩序を乱さないように生きています。それがまことの信心、金光教の道理に適う信心だと気付かせて頂きました。カメ
2010.12.16
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カメさんの分別論と言うものは、肉体と精神を一旦分けて、それぞれを論じ、再び一体化して人間とする哲学です。私達は自動車を観て、運転手と車体を別々に論じる事は無くて、見たままを語ります。自動車は自動車であり、それは運転手でも車体でも無く、自動車であります。 その自動車の世界で問題が無ければ、自動車を分解する必要はありません。交通社会で正しく自動車を運転すれば、何か特別な事を論じる必要は無いと言えます。 そこに問題が有れば、その問題の原因を突き止めて解決策を練ります。交差点が出来れば、衝突事故が起きるので、信号機を付けて、交互に交差点を渡る順番を決めれば、衝突事故は起きません。 カーブで見通しが悪いところには、カーブミラーを設置します。 車体に原因が有れば、改造します。運転手に原因が有れば、教育します。 人間の世界に問題が無ければ、分別論は必要でなく、人間がみんな正しく生きられるように成れば、余分な論説はいらない。 問題が有るから、分別論を試みると言う事に成ります。 肉体と精神を分別して問題の原因を追及した結果、人間同士が衝突して苦を招くと言う問題の解決策が生まれた。 自分が自動車だと思っていたら、交通社会の問題解決策が生まれるだろうか。自動車は人間によって創造されたものであるから、自動車の問題を解決するのは創造主である人間であり、その人間が自動車を運転している人であり、その人と車が一体となって走る姿を自動車と言う。この道理が人間の問題を解くカギになる事を分別論によって見つけたと言う事です。 私達は神でも仏でも無く、人間ですと語り合っているのが人間達です。私達は運転手では無くて、自動車ですと語り合うのが自動車達です。 その人間が生きる訳を知らない。自動車は走る訳をみんな知っています。自分は運転手である事を知っているので、私達は運転する訳を知る事は当たり前になります。 人間が神になる。仏に成ると言う事が、どう言う事であるのか、この世の道理を観れば分かる。つまり人間と言う生き物を創造した主が神であり、信心して自分を精神的なモノと認識できるように成れば、肉体を物として分別論が生まれて来ます。 そして一体的な人間の姿の内面が見えるように成る。車体の中の運転手の姿が見えるように、肉体の中の心の存在が見えるように成る。 人は人の姿を観て判断するモノではないと言われます。見た目では無くて、その中身なんだ。 自動車の姿は色々ですが、その中身の運転手はみんな人間なんだ。みんな同じ人間なんだ。車種が違っても、みんな人間が運転しているんだ。 人種が違っても、みんな神が人間を生かしているんだ。神に差別は無い。人の心に差別は無い。 みんな創造主の子であり、兄弟なんだ。車体の生みの親は、自動車メーカ。その車体と一体になって走っている人間は、神の氏子に成る。 子が肉体を授かって生きる姿を人間と言う。子が車体を授かって走る姿を自動車と言う。 自分とは何かを求めると、無我と成り神に成る。自己が確立されて、生きる訳が分かり正しく人の道を生きられるように成る。安全運転で、人と人との衝突事故を回避して、社会の秩序が保たれる。 自分とは何であるか。誰もその答えを持っていない。何故ならば、答えは「無」であるから、人間には分からないのだ。人間が信心して精神が整えられれば、無に成れる。無に成る事で答えられる事に成る。それは人間の世界の話では無くて、個々の人の思いの中の自問自答の世界の話なんだ。カメ
2010.12.06
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まず、カメ信心さんの職場でのお働き、ご信心の求道というものは、【偉いな!】と素直に思っています。それを一番に伝えておきます!>先生も一生求め続けるモノだと思いでしょうか。今から書かせて頂くことは私個人の思いなので、他の先生方、金光教としての公的な考え方ではない!ということを理解して下さい。私のプロとしての完成形(心境)は教祖さまが【生神金光大神さま】とご神格を頂いたところです。だから、そういった意味で、できるだけ早く、生神にならせて頂きたいと【心行】もし、【お祈り】もさせて頂いています。私が求め続けているものは、質問から少しそれますが、【真の平和】です。そういった意味では、カメ信心さんが毎日のブログでよく書かれておられる、宗教の壁をとる、区別をとるということには共鳴するところがありますね。そして大変、おこがましいとは思いますが、私は、この天地自然(宇宙)は日々、【生成発展】しているという【道理】がありますので、もし【生神金光大神さま】の境地の向こうというものがあるならば、その【境地】を求め続けたいという思いがあります。私の求め続けているというところは、そういところにあります。すごく・・批判を受けるかもしれませんけどね(笑)私は、他の方の信心は全然、気になりせん。自分が究めたいところしか、眼に入りませんから!そこに懸命ですね!答えになったでしょうか?ーーーーーーー何時もお祈り頂いてありがとうございます。又先生方に対して私の行為、大変申し訳なく思っています。それでも私は金光教の信心で自己を確立して生き甲斐を見出していますので、書きたくてしょうがないのです。さて難儀な氏子が助かりさえすれば、それでよいのだと言うのが、金光教の先生方の一致した思いだと思います。そんな先生方に私のようなモノの意見を押し付けがましく書くと言う事がどんなに愚かな行為であるか、分かっているのですが、先生も仰せのように、この信心の向こうに何が有るのか、その答えも私には見えています。ブログで無ければこう言う話は出来ませんので、仮想世界の空論として観て下さい。神や仏にはいろいろ名前が有りますが、みんな神であり仏であると言う事、その神から難儀な氏子を取次助けってやってくれと言われたのが生き神金光大神だと理解します。ですからこの求道の向こうには神がいると言う事に成り、神は姿も声もありませんから、表現する言葉は「無」の一字と成ります。つまりなんにも無いと言う事です。求めても何も無い。そこに至って自己が「無」であると結論したのです。自分にとって有るのは、今です。今自分の生活を成り立たせている物は何であるか。今日生きれば簡単に分かります。そして悟りを開いたとしても、そこには今と同じ今が有ります。信心は止める事は可能ですが、仕事は自分勝手に止めれません。日に日に生きる事を止める事が出来ない。どうして生きているのか、それが仕事です。その仕事をしているのが、肉体です。肉体を働かせて、毎日の務めを果たしています。その姿が人間の姿です。プロの役者は、与えられた役をこなす。その物に成り切る為の修業、稽古、そして体験を重ねてプロに成長して行きます。そう言う筋道は、常識であり、みんな知っています。その道理が人間に物として存在している事を悟るのが、日に日に生きる信心の稽古だと金光様が説かれたと理解します。取次者は、取り次ぐ者としてお結界へ身を定めれば、道理は適います。しかしその舞台にその役者がいない事が多々あります。用事が有るから、座ってばかりいられない。し方なんではないか。そんな道理は自分勝手な言い訳にしか成りません。神に成れば、自然と自分に与えられた仕事、役所が出来るように成り、心は役者の心に成って己の演じる舞台に定まります。私の仕事は、取次者ではないのだ、職場で与えられた役をこなしています。その信心が道理にかない、役者のセリフのように決められて筋書き通りの結果が出て来ます。そうすすると、プロの人気のような世界が生まれて、生き甲斐を感じられるように成ります。この今を金光教の道理に適う信心で生かされて生きて、そしてお陰をブログで発信するように成りました。その私の目には、教会の先生の姿が気になるのです。御結界にいない教師。私が教会の先生方のブログで口を挟むのは、その姿は求め続けている姿であるから、私の悟りを聞いて頂きたいと言う思いなんです。求めても何も無いですよ。今に定まれば道理は適えられます。いの自分は教師であるならば、取次者として取次場所に定まればそれで済む話です。何一つ難しいモノは無い。誰でも理解できる筋書きです。人間にはその当たり前の生き方が出来ません。いろいろ用事が有ります。信心して神に成れば、自然と道理に適う生き方が出来るように成り、取次場所に定まります。自己確立とは、そう言う話が出来る人間の頂いた信心のお陰なんです。カメ
2010.11.29
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金光教の教会の先生のブログへお参りさせて頂いて思う事は、私個人の金光教の信心とは違いを感じます。自己を確立して絶対的な自分の思いを書くと、どうしてもコメントが押し付けになってしまうようで、人間的には先生に自分の意見を言う事が行為的には間違いだと思うのですが、信心となると我が心の神に目覚め、その思いと成りますのでブログに限定して自由に書かせて頂いています。私が目指したい信心は、問題の無い宗教活動です。その願いを適えられたのが、金光教の道理に適う信心であり、その信心によって自己が確立されて、教えにあるように、誰でも信心して神に成れると言う事を実現できたと思います。結論を言えば、神に成らなければ宗教の問題は解けないと言う事に成ります。そこで教団に意見申したいと言う思いが生まれて来ます。教師のブログを読んでいると、完成された信心だとはとても見えません。死ぬまで求め続けるモノなんだと言うのが大方の先生の意見のように見えます。その事を追及してもどうにもならないモノですが、人間社会では不完全なモノは通用しないと言う事を考えて頂きたい。信心も道理に適うと完成度の高い信心と成ります。迷いの無いぶれない一心となる信心が出来るように成れば、人間社会で活動しても疑問や矛盾を感じる事が無くなると言うのが筋です。カメさん、信心して自己を確立して神に成り一人で生きられるようになったなんて、そんな信心は自己満足の思い上がりだよって言われます。又無神論者の生き方は信心では無いと言う意見もあります。無神論者でも社会人としての務めを果たし、世のため人のために働いている人もいます。むしろ道理に適う信心をしているのではないだろうか。宗教に洗脳されてしまった教師に信者、そんな信心ではこの世の道理に適う信心をする事は無理だと思う。どう言う事で有ろうと、人間を差別するような言葉は宗教者には無いと観ます。人はみんな神の氏子だと説かれていますから、無神論者も信心する者も親は神であり、氏子は兄弟になる。兄弟仲良く暮らす地球家族、この世の道理に適う信心をせよと言う金光様の教えが世に広がりを見せれば、世界の秩序が整うでしょう。その教えを説く教師が、難儀な氏子が自立する事への意見を否定する。信心を完成させて自分の意志で生きられるように成る事を認めない。そう言う意見は社会の道理に適わないと言う事が分かっていない。社会人はプロとして生きる生き方を絶賛します。プロ根性、プロの魅力、人気者に成ります。商品も不完全なモノは売り物に成らない。全て完成度の高いモノが求められます。人間社会へ説く宗教も、完成度の高い話で無ければ通用しない。通じ無いから洗脳と言うテクニックになると考えられる。信じなければどうにもならない信心の話が完成度の高い宗教であるとは考えられない。人間社会で問題の無い宗教とは、一生求め続けるようなモノであっては成らないのだ。そこで自己確立の信心を教師に対して説きたくなってしまう。自分は信心して神に成り、絶対的な神の氏子としての話を説くのだと言う自信に満ちた教師はいるだろうか。難儀な氏子に処方箋を書くような信心で有れば、教団で教育を受ければ誰でも話は出来る。そんな姿を完成された信心だと言えるのだろうか。信心して神に成れと説いて教祖様の思いとはどういう事であろうか。自己を確立して思う事は、自己は氏子なんだと言う事。子が成長して神になる。神になるとは、一人前の大人になると言う事。それが道理に適う信心であり、神になる事は当然の事なんだ。よちよち歩きの子供が親に手を引かれて一人で歩けるように成れば親の手から離れて一人で歩けるようになって成長して行きます。それがこの世の道理なんだ。信心も信心の道を神に手を引かれて歩く稽古を積み重ねて一人で歩けるようになって自己も確立されて一人前の信心が出来るように成り、社会の道理が分かるように成り、我情我欲を消して働いて務めを果たし結果を出して信頼される人間に成長する体験をしています。その体験が無ければ、教師に意見を書くような愚かな事はしない。金光教の道理に適う信心を説きたい一心でブログで書かせて頂くこ無礼をお許し願いたい。カメ
2010.11.27
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自動車の世界では、毎日自動車が走っています。自動車に悩み事が有るだろうか。 何故自分は今この道を走っているのだろうと、思う運転手はいない。みんな訳を知っているので、運転について悩んでいる人はいない。 運転手が年取って、肉体機能が衰えてくれば、車体は車庫で寝ている時間が増えてくる。 車体は運転手の事情によって、走る姿も変わる。 何故安全運転をしなければいけないの。そんな事を考える運転手はいない。みんな訳が分かっているから、みんな当たり前の事をわざわざ思い考え訴えるようなバカはいない。自動車は自己(運転手)が確立されている。 自己確立して、人間の運転手に成れば、精神的な悩み事は消えてしまう。信心して神に成れと、何故宗教に書かれているのか。その訳が分かるようになる。神に成って当たり前に生きられるようになると、自分はどうして今生きているのかなんて問い掛ける事も無くなり、毎日車体が走り続けているように、肉体は生き続けいる事が分かる。 自動車にとっては、人間は神様だ。人間のお陰で、自動車は走る事が出来る。自動車の歴史をひも解けば、車体がどんどん進化し、現代ではエコカーとなって来た。何故進化したのか、その訳を知る事に問題は無い。自動車は人間によって創造されて動物なんだと誰でも知っている。 時代の要望に答えて、車体も道も社会も進化を遂げ、未来に向かって進化は止まる事は無い。無公害エンジンで走る自動車がこれからの世界を形成して行く事でしょう。この世の道理に適う信心をして、人間の姿の中に運転手がいる事を知った。それが神であり、自分なんだと気付いた。 そうすると、生きる道理が見えて来た。訳が分かり、生きる事が当たり前になった。日に日に生きるが信心だ。その教えが宗教だ。 悟りを開いて仏に成れ。信心して神に成れ。 神にも成れず、仏にも成れず、宗教を説くバカ人間がいる。運転手の資格を取って初めて車体を運転する事が出来る自動車の話。しかしペーパードライバーが運転の理屈を説けても、実際道を走ると経験不足で不安定な走りとなる。とっさの判断、機転が利かず、衝突事故につながる。 宗教は口伝されて来た。口伝には、神になる必要は無い。自動車を語るのは、運転手で無くても誰でも語る事が出来る。 しかし車体を生かす事は、誰にでも出来るモノではない。運転手と成れば、誰でも運転する事が出来る。道交法を学んで運転手に成れ。誰でも運転手に成れる。 信心の教えを実践すれば、誰でも神に成れる。我情我欲を捨てよ。無我と成れ。この教えを実践すれば、誰でも神と成り、自己が何であるか、その答えを確立できる。 自動車も人間も創造された物が創造主に生かされている姿なんだ。その姿を人間は自分だと思っている。運転手が自動車の姿を自分だと思うだろうか。そんなバカな運転手はいない。 自分は神だと思っていたら、人間の世界で人間に宗教を説くような真似はしない。運転手にわざわざ道交法を説かなければならないような交通社会になったら交通システムは破綻するでしょう。 宗教によって人間の頭脳が洗脳されてしまって、人間社会が秩序が乱れて共同システムが破綻している。誰がその秩序を取り戻す事が出来るのか。 秩序を破壊するのも、整えるのも、みんな宗教に頼るしかないと知る。自己を確立して人間の運転手に成れば、人間の世界の秩序が瞬時にして整えられるでしょう。自分は神でも仏でもない、人間の運転手なんだ。と誰でも思う事は出来る。神の氏子が親から肉体を授かり、その動物を生かしているんだ。だから誰でも信心すれば、氏子である事を悟り、信心が成長して氏子が大人に成れる。大人の氏子が神となる。肉体は人間の姿をしているので、何も変わらない。氏子は人間では無くて、人間の運転手なんだ。人間は神と言う運転手に生かされているのだ。その神に成れると、金光様が説かれている。そして神に成り、この世の道理を説いて難儀な氏子を救う事が出来るようになる。しかし現実はどうだろう。神に成らずして宗教を説く人間は、道理から外れてしまい、宗教が人間の頭を混乱させてしまう。宗教は神の教えであるから、人間には理解が難しくなる。人間が信心して神に成れば、宗教は容易く理解できる。口伝によって伝えられてきた宗教が、中身の無い姿になってしまった。弟子達は神に成らずして教えだけを口伝した。運転手に成らずして、道交法を説く人間は、実際の運転が出来ない。だから人間としての生き方が出来上がっていない信者達、伝えているのは口伝ばかりない。信心して神に成らなければ、宗教は説けないと知れ。 カメさんでした。まる
2010.11.08
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金光教の教えの中に、この世の道理に適う信心をせよと説かれています。又誰でも信心すれば神に成れると説かれています。ところが信心は死ぬまで、死んでからも求め続けるモノだと教師は言います。神になるなんて思い上がってはいけないと言われます。中には道理を重んじる先生もいるようで、先生も人の子、人それぞれの信心と言う事になる。神を信じる人は、無神論者を非難します。しかし教えには日に日に生きるが信心であり、人は皆神の氏子だと言われています。無神論者でも人である以上、日に日に生きていれば信心になる。無神論者でも、神の氏子になる。教会は信者が沢山参れば、発展し、先生も有名になるが、信者が減ってさびしくなる教会もある訳で、一概に信心の道と一口に言えるモノでは無いような。信者は信じる者であり、信じない者は信者とは言わない。そう言う宗教の組織化された姿を教祖の教えに照らしてみれば、どうも矛盾を感じづにはいられない。神に成らずして宗教が語れるのだろうか。カメ
2010.11.07
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>神と人との関係 カメさんが、盛んにコメントして下さいますが、よく分からなくて困っています。私が頭が悪いのかもしれませんが、言葉の定義が、全く違っているので、理解不能なのだと思います。例えば、神ですが、どのような概念なのでしょう。私は、宇宙そのものが神であり、教祖は、太陽、月、地球を御神体の一部であると認識されていました。そして、太陽や月や地球の物質的なものが神ではなく、それらを包み込み、命が躍動しているエネルギー体のようなものが神である、という認識なのです。そして、その大神霊が、人間に分け御霊を与えられた。ですから、人間も神と同質のものをもったものなのです。ですから、意識を宇宙大にまで広げられます。宇宙即我という意識は、そういう意識なのです。ですから、人間は、既に神であるとも言えるのです。カメさんが、神になったと言われるのは、どういう状態になったということなのでしょうか。自己確立と言われますが、自分が神である、ということが自覚できる状態なのでしょうか。阿部敏郎の「いまここ塾」というブログがあります。1日に2万アクセスに近いアクセスがある、人気のあるブログですが、そこで語られているのは、自分はもっと偉大な存在で、自分が自分の物語を作っている、映画監督のようなものである、つまり、神のようなものであることに気づくことがいるし、今、気づきつつある時代である、と述べられています。教祖が言われた、「世界は我が心にあり」という認識だと思うのですが、カメさんが、そこまで分かられての言葉なのかどうか分かりませんが、ただ、今のような表現では、多くの人に理解してもらえないと思います。<ーーーーーーーーヒロサト先生のコメントをこちらへ張り付けさせて頂いて、少し思うところを書かせて頂きます。>例えば、神ですが、どのような概念なのでしょう。私は、宇宙そのものが神であり、教祖は、太陽、月、地球を御神体の一部であると認識されていました。そして、太陽や月や地球の物質的なものが神ではなく、それらを包み込み、命が躍動しているエネルギー体のようなものが神である、という認識なのです。<ーーーーーー私もだいたいそのように理解していますが、創造主の想像力と人間の想像力と言うエネルギーに違いは無いと思います。思考力と言う力が有りますが、思う力と考える力があり、信心の力は思う力だと思います。力には弱い力と強い力が有りますが、道理に適う信心の稽古を積み重ねて力強い信心が出来るようになりました。その力が溢れ出して他者のブログへ書き込むように成ってしまった。だからその行為が私の意見を押し付ける結果に成ったのかなと思います。信心の力が強くなると、思いが溢れ出してしまう。それも物の道理として考えられます。プロの選手、力が弱いと勝てません。信心も力強く成れば、信心対決を挑みたくなる。それも道理に適う信心です。でも現実的な話では無いですね。昨晩亀山教会へ月の初めのお礼参りをしてきました。夜の御祈念が8時からですが、1時間の道のりをかけてお参りしています。教会では先生に信心対決なんて言葉を発する訳にはいきません。若い先生でも金光大神の言葉として承る事に成ります。ブログの世界では、そう言う人間的な素性は一切問われる事が無いので、平等な立場で信心に対する思いを書く事が許されると思いますので、頂いたお陰話を書きたい一心で御迷惑をおかけする事に成りました。宇宙の始まりも、何かが生まれてからの説明は科学で出来ますが、その何かがどうして生まれて来たのかは誰も知りません。科学力の及ばない、情報として成立しない事でしょう。ですから人間には理解不可能だとも考えられます。ところが想像力と言うエネルギーの話になると、人間も発明が有るように想像力と言うエネルギーを認める事が出来ます。その力はその結果を見て初めて分かるモノです。宇宙の姿を見て、そのエネルギーを感じる事は自然だと思います。道理が無ければエネルギーも感じられないと思います。そこに至るプロセス、筋道が無ければ結果は生まれない。その元の力と言うモノの存在は元々から有るもので、その力が物事の始まりと言う事でしょう。力はその力そのモノを見る事は出来ません。人間は見えない力を感じる事が出来ます。そこに創造主としての神の存在が有ると信じます。神とはエネルギーの元なんだ。それが人間の精神力だと理解しします。>カメさんが、神になったと言われるのは、どういう状態になったということなのでしょうか。<ーーーーーー全部神様にお任せして生きる稽古をしなさいと教えられます。何が起きようとも、神様にお任せしてあるのだからおきた事を全て受け止めさせて頂く信心、生かされるがままとは成り行きに従う生き方です。我情我欲を捨てよと説かれています。それは人間としての生き方を説いたモノでしょう。人間は神様に生かされているのであるから、神様の御意志に従わなければならない。その信心の道が先生方の説かれる道理に適う信心だと思います。生かされるがままに生きて見ると、生かしている主の存在を感じるように成ります。そして物に対する意識が変わり、自分とは物では無くて精神的なモノなんだと言う心境の変化が生まれます。そうなると当然はっきりした答えが出せるようになる。そして自動車の比喩が浮かんで、自分とは人間の運転手的存在なんだと、その運転手の姿が見えないので=「無」と言う答えが確立されたのです。神に成るとは完全な自然体の心に成ると言う事です。神と言う文字を書くと、その神なるモノは神では無くなります。神は見えないからこの世の現実にはいないと言うのが、人間的な理屈です。だから人間としてこの現実に生きるには、そんな神や仏に執着するモノではない。道理に沿って人間として正しく生きる事に成ります。自分とは肉体と言うモノでは無くて、そのモノを生かす(運転する)主なんだ、それを神と説明する事に成ります。神思う心に神は生まれ、思わなければ神は何処にもいない。自分と言う存在も、そう言うもので、思わなければ普段は自分はいません。道理とは物事の筋道、話の筋道、筋道を書き上げる事でドラマが生まれて来ます。映画監督のようなモノだと捉える人もいるでしょう。私は人間を乗り物と捉え、その乗り物を生かす運転手に成る事が道理にかない、物の道理という道に沿って生きる事が神様の御意志に沿う生き方であり、その道の訳を知る事で人間と言う乗り物を正しく生かす事が出来るようになる。そうなれば難儀な氏子が救われて力強い信心が出来るようになる。その道理に適う信心をせよとなぜ金光様が説かれたのか、その心が分からせて頂きました。自己確立も神に成る話も、みんな人それぞれの心の中の世界観であり、運転手は車体から降りて自動車の世界の道を歩き出せば、自動車の理屈は壊れます。神に成ったと人間の世界で吹聴する行為は、人間の世界の人間の道を神の理屈が通る話でそれは道理から外れる行為と成り、宗教が社会に問題を投げかける事に成る。そう言う物事の道理を発信したいと思っています。カメ
2010.10.02
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神徳を引き入れるには 金光教祖は、「神に会おうと思えば、外へ出てみよ。上が神、下が神」とも、「神の中を分けて通っているようなものじゃ」とも言っておられます。つまり、私たちは、神様に包まれているようなものなのです。それは、私たちは、神徳の中にいるようなものでもあります。神徳の中にいても、その神徳を頂くことはできません。その神徳を頂くには、神様に心を向けて、祈りをしなければならないのです。祈ることで、パイプが通じて、神徳が流れ込んでくるのです。ですから、神前拝詞100巻とか、1000人の祈りとか言っていますが、そのような祈りでもいいですし、静かに神様に向かう、瞑想のような祈りでもいいと思うのです。とにかく、神様に心を向けることが大切なのです。それで、エネルギーが充電できるのです。それをしなければ、徳切れになります。エネルギー切れになります。ガス欠になるのです。車もガス欠では走りません。そうならないためには、信心しかないと思うのです。ーーーーーー私も外の神様に向かって信心していましたが、内なる神に目覚めて自己が確立されました。金光様の信心をすれば、誰でも内なる神に成れると思います。信心には知の限界があります。信心は学ぶ事では無くて、実践する事なんだ。日に日に生きて信心の稽古を積んで実体験すれば、悟りが開かれると思います。神は人間の目には見えません。心眼を開けば、見えないモノが見えます。心の目は、内なる神を見る事が出来る。その姿が自分であった。それを氏子だと金光様が説かれた。カメ
2010.09.26
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>カメ信心さん人間の社会で社会人として生きている氏子に説く信心の話を読ませていただきました。社会人全部に分かる信心の話は、おかげが現われないのではないだろうかと思います。神様はいないと信じている人にも分かる話では、神様の力を頂くことは難しいです。いくら考えても、難しいです。そんな無心論者に感心してもらえるような文章は書きたくありませんので、そちらの方はお任せいたします。よろしくお願いいたします。<ーーーーー本音を書きますので、ご無礼をお許しください。m(__)mこの世の道理に適う信心とは、人間にとっては人間社会の事だと理解します。社会人も無神論者も神の氏子です。社会人に分かる信心の話は、出来るか、出来ないかを考える事自体、信心の道の稽古とは関係ない事で、道理に適う信心とは、人はそれぞれどうであっても、信心の道を自らが悟れば済む話。その道はこの世の道理であり、人間が考えて建設した道では無くて、神様が建設した道だと言えます。人間もそう言う物の道理に沿って物を作り、事を成している訳です。道理が無ければ、社会も存在しない。道が無ければ、交通社会も存在しない。飛行機も飛ばない、船も浮かない。話の筋道が完成して、物事が存在するようになる。この道理が、人間の頭では分からないと言えます。>神様の力を頂くことは難しいです<神様の力を頂かなければ生きられないと言う信心は、道理に適うモノではありません。思考力、想像力、精神力、その力は人間誰でも持っています。その力を神様から授かっています。その力に自信を持てば、神様が親として喜ぶでしょう。>神様はいないと信じている人にも分かる話では<ーーーーー神様はいらないと信じている人には説教する必要は無いです。それは自分の意思で力強く生きている人だと思います。人間は力のある人は立派な人で、力の無い人はダメ人間です。苦労して努力して時代の先端を力強く己の道を切り開いて行く人間に、説教は必要でしょうか。力が無くて難儀している氏子を救うのが、取次の業であり、その氏子を救う目的はなんでしょう。個々の氏子が信心してこの世の道理を悟り、力強く生きて行けるようにとの願いではないのでしょうか。>そんな無心論者に感心してもらえるような文章は書きたくありませんので、そちらの方はお任せいたします。<ーーーーーー神にも成れず、道理も分からないでは、書きたくても書けません。ただ先生の話を信じている信者さん達が心癒されて救われて行く信心の道と言う事で有れば、私の口はさむモノは何も無いのですが、尖閣諸島のような問題とか、検察が検察を裁くような事件だとか、政治不信、依然として無くならない戦争、経済、環境、汚染、虐待、差別、離婚、少子高齢化、温暖化、秩序の乱れ、などなど、限が無いほどの多くの問題を人間が抱えて難儀している現実の世を如何にして生きて行けばよいのか、そこにこの世の道理を説く金光教の信心の道が有る事を知りました。誰でも信心すれば神に成れると金光様は何故説かれたのか。自己確立のお陰を頂いて、その金光様の思いが伝わって来ます。この世の道理は、この世を創造した天地の神様でなければ分からないと言う事です。その神様の氏子として私達が今ここに存在しています。その氏子が肉体を授かり、人間の世界で人間として生きています。宗教を社会に広めようとすれば、法人手続きが必要になります。その法人が、社会人に通用しない宗教を説く行為は、この世の道理に適わない。氏子に説く信心の話は、先生の仰る通りだと思います。全て金光様の言葉として頂けばお陰に成ると思います。それは個人個人の自由な信心の道だと思います。それはとても大切な心だと思います。その氏子が人間社会共同体で生きる道が人間の人生道です。信心の道と、人生の道が有ります。人の道と車の道が有るように、金光教では道の話として道理が説かれていると理解します。氏子の難儀には氏子の道の話を説き、人間の難儀には人間の道を説くと言う事で、あいよかけよの一体的な信心の道となり、氏子も人間も共に助かる金光教の教えとなる。善人、悪人、一般人に信者に無神論者。みんな人間の姿をしていれば、その姿の中身はみんな神の氏子なんだ。道理に適う親の愛は、子に通じます。余計な一言ですが、ご本部の教学研究所の職員の先生方の思いが気になります。人間社会の法人としての金光教団、であって頂きたいと祈りたい。カメ
2010.09.24
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>取次者とは 氏子の願いを神に取次ぎ、神の願いを氏子に取次ぐ取次者は、神徳があるにこしたことはありませんが、たとえ、神徳はなくても、おかげは頂けるのです。それは、誰が座っていても、金光様と頂けば、金光様のおかげが現われるのだ、と言われているからです。これは、人間の理屈には合いません。神様と金光大神様の間で、暗黙のうちに了解せられたことなのです。神様の思いと言っていいかもしれません。ですから、たとえ、お結界に子供が座っていても、同じようにおかげが頂けますし、たとえ、わら人形が置いてあっても、同じおかげが頂ける、とさえ言われているのです。それは、お結界の場の力、と言われているものであります。ただ、お取次を頂く人は、どうしても、取次者を見てしまいます。そして、あんな人が座っているのでは、と思ってしまいます。それが、おかげを頂きにくくしている理由です。ですから、取次者は、諸事に身を慎み、修行をして、それなりの神徳を積ませていただかなければならないのですが、一方では、誰が座っておられても、頂く側が、心から頂く気になれば、おかげが現われる、というのが真実なのです。ここのところは、人間の理屈を放れなければ、分かりません。<ーーーーーーー先生の言われる事はよく分かります。ようは自分の信心の姿勢なんだと言う事でしょう。取次者が誰であろうと、どんな矛盾する言葉を発しようとも、全て金光様と頂けばお陰につながる。私もそう思います。相手では無い、自分なんだ、自分が金光大神の信心をさせて頂いているんだ、イワシの頭一つでも受け取りようでお陰に成る。ですから私は信仰は個々の人の心の中に在る。その信仰が組織化してしまうところに人間の都合で語られる信心の話となってしまう。一方で、金光様はこの世の道理に適う信心をするように説かれています。これは個人の信心では無くて、信心を話すにはその信心が道理に適うものでなければ社会に通用しないと言う事です。矛盾しない筋道の通った分かりやすい信心の話が説かれれば、宗教について互いに議論し合う事も無くなるでしょう。ブログで書くと言う事は、不特定多数の人が読む訳ですから、取次者が誰であってもと言う説は社会性が無いと言えます。先生は神の理屈、私は人間の理屈であるから意見が合わないと言う事に成りますが、この世の道理に適う信心とは、人間が理解できる信心に成ります。神の世界はあの世であり、あの世で人間は生きられませんから、日に日に生きるが信心だと言う教えも人間に説かれたモノであり、肉体が無くなれば人間はこの世で生きられなくなり御霊として祭られます。御霊に道理を説いても意味が有りません。先生の説教は、難儀な氏子が救われる信心であり、人間の理屈は関係無く、親神様を信じればそれで心は癒されて救われるでしょう。個々の人の思い、心境を語れば相手は誰でもよい、己が金光大神を信じ神様に生かされて生きている事に感謝申し、難儀な人がいればこのお道に誘い助ける。しかしその氏子を救う話を、人間の世界で人間に説くと言うのは、この世の道理に適うものか疑問です。物には道理が有る。乗り物にはみんな道があり、その道には理由がある。何故今道を走っているのかその訳が分かっていれば難儀する事は無く、道が分からないから迷い難儀する。難義とは、意味内容が難しいこと。氏子が肉体を授かりこの世の人の道を生きている意味内容が難しくて難儀している。肉体が無ければ、人の道を生きる事は無く、氏子は氏子の世界で難儀しないで存在している事でしょう。生から死までの人生の道を氏子は肉体と共に生きる姿を人間と言う。人間がその道を生きているんだ。自動車の社会も理屈は同じで、人と車が一体となり、あいよかけよで走っています。道を踏み外せば事故を起こし、怪我したり命を落としたり他に迷惑を掛けたりします。人体も車体もそれは創造されたモノなんだ。だから存在する理屈は同じなんだ。この世の道理を観れと言う事がどう言う事であろうか。説教者はその訳を知る必要があります。お結界に誰が座っていても、関係無い、難儀な氏子はただひたすらに取次者の言葉を信じ、一心となって金光大神の御教えを頂けばそれでみんなお陰が頂ける。なんて説教に説教者がどれだけ自己責任を持てるのか、責任の持ちようが有りません。なぜならば宗教は信じなければ成り立たない世界であるから。そんな世界観を人間の考える頭に情報として植え付ける、それを洗脳と言う。タリバンの話をテレビで聞きました。戒律が政治に取り入れられて法律となったとか。女性は家から出てはならない。ですから外で働けなくなってしまった。これは話の一部ですが、宗教が人間社会に説かれると言う事は、人間の理屈に合わない事が沢山出て来ます。信心をどのように理解するかは、人それぞれ自由です。その信心が、組織信仰に成ってしまうと、取次者の話が絶対的なモノに成り、先生は神と崇められるようになる。ブログでは、先生にコメント書いていますが、現実の世では恐れ多いい事であり、取次者がどんな人であっても神様と頂く事でお陰に成る。在籍の教会長は、私の息子の年と同じです。でも教会の先生ですから、なれなれしい言葉づかいは出来ません。先生何時もお取次頂いてありがとうございます。今月もよろしくお願いします。お結界で、毎月のお礼参りに同じ言葉で感謝を捧げています。御大祭のお供えは、ハマグリと決まっています。そしておのうらいのお刺身の料理を家内と受け持っています。金光様の信心、実に有り難い。その有り難い信心の道の稽古を積んで、自己を確立し、この世の道理に適う信心をブログで発信しているのです。難儀な氏子では無くて、絶対的な自己を確立した金光教の信者の心境なんです。カメ
2010.09.22
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>金光教のお結界では、生神金光大神取次が行なわれていますので、基本的には、誰でも、お取次を頂けば、おかげが現われるのです。ただ、実際には、誰が座るかによって、おかげが違うところがあります。何が違うのでしょうか。神様への向かい方と、氏子を思う思いの強さです。それは、祈りになって現れます。ですから、祈りが強いほど、そして、強い祈りをどれほど積み重ねているかによって、違いが現われるのです。この違いはごまかしが聞きません。その人の実力でもあります。ですから、日頃の精進が大切なのです。そうした祈りを重ねた人が、お結界に座ることによって、本当の生神金光大神取次が表わされるのだと思います。ですから、取次者は、精進が必要です。そして、氏子は、又、誰が座っておられても、金光様が座っておられるとして、お取次を頂かれれば、そのようなおかげが頂けます。そこでは、取次者の徳は関係ありません。ですから、氏子には、先生がどなたでも、おかげが頂ける道が開かれてあるのです。<ーーーーーーーー誰が座るかによって、お陰が違うところが有る。氏子には、先生がどなだても、お陰が頂ける道が開かれる。取次者の徳は関係ない。話に矛盾を感じます。取次者はなんの為に精進し、神徳を積むのか。その先生とは関係なく氏子はお陰を頂ける。関係無いのであれば、精進する目的が狂ってしまいます。患者が病院で先生に助けてもらいますが、やぶ医者であれば、助からない事もあります。難儀な氏子が救われる確立が多くなるのは、取次者の才覚に成ります。取次者に関係無く氏子がお陰を頂けると言う事で有れば、やぶ医者に関係無く患者は救われると言う理屈に成りますが、道理に適う信心を説く金光教の先生の説教としては如何なものか?本件とは別の問題として、道理にに適う信心をどのように理解するか。宗教を卒業するとか、信心して神に成り信心の自立を考えるような話は金光教の信心では無いと言う意見が有りますが、この世の道理を観れば、子が成長して一人前の大人になるのが道理であり、草花も種を蒔けば芽が出て植物が成長して木に成り花を咲かせ実がなり種となって、その種をまいて芽が出る。一生芽のままでは道理に適わない。氏子が信心して成長して行く道が信心の道であり、神の子で有る氏子が成長すれば大人の神となるは道理です。死ぬまで修行、求め続けるので有れば、成長と言う言葉が無くなる。信心の道の稽古を重ね、信心が成長して悟りが開かれ自己が確立されて神となり、神が創造したこの世の物の道理を説いて人間の正しい生きる道を説くのが道理なんだ。創造主で無ければこの世の道理は説けない。人間に創造されたモノ達は、己の道理を説く事が出来るだろうか。自動車は、運転手がみんな知っている。車体は道理を説く事は出来ない。車体は運転手の意思に従う事で道理は適う。宗教を人間の世界に説くには、氏子が成長して神となる必要がある。生き神金光大神様は、その道理を貫いた。誰でも信心すれば神に成れる。しかし誰も神に成れない。それは教師がその道を体験しないから、その道を説く事が出来なくて、その宗教に世間から指摘が寄せられる。道理を説く宗教行為が道理に適っていない。説教者が自己を確立すれば、説教者は説教者に成れる。神の話は、神でなければ出来ない。道理に適えば、難しいと言う事が無くなる。カメ
2010.09.21
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信心が組織化してしまうと、マイカーのドライバーの信心、つまり個々の人の心の中の自由な信心が消えてしまいます。個人のマイカーでは無くて、大型の乗合バスの信心に成ってしまう。運転手が一人いて、その運転手が運転するバスに乗せてもらって信心の道を旅する事に成る。運転手は責任を持つ事に成るので、社会の法人手続きが必要になります。乗客は、運転免許はいらないので、信心の道の稽古をする必要が無く、ただ乗せてもらって生きて行けばよい訳です。道理も悟りも修行も何も要らない、乗り物に乗ればそれで目的地へ着く。マイカーの運転手は、バスの乗客のようにはいかない。交通社会の道理を全て分かっていなければ、一台の自動車を生かす事が出来ないのだ。一人の人生もそう言う事で、一人一人の心の中に信心の道が有る。その訳知らずして、人間が生きるところに問題の種が有る。金光教はその訳を説いていますが、組織化されて大型乗合バスに成ってしまった。運転手を信じて乗っている乗客は気楽なもんだ。その社会、その世界がどんな世界に成ろうとも問題意識は生まれない。ただ乗せられて生きている。マイカーの運転手はそんな気楽な生き方は出来ないのだ。社会の問題を解決しなければ、安心して運転が出来ないのだ。カメ
2010.09.18
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金光教の教えには、この世の道理を観て其れに適う信心をせよと有ります。私の信心を書くと、押し付けがましく伝わるようですが、道理に適う信心とは、人それぞれ十人十色の思いでは無くて、そのモノの道理は一つと観ます。つまり乗り物の道は、乗り物の道であり、その道は人の道では無い。だから乗り物に乗れば、みんなその道を通る事に成る。ただ乗り物にも種類が有るから、飛行機と船と自動車は違うが、みんな乗り物の道の道理に従って生きている事に成る。その理屈で観ると、人間の人それぞれの意見を交わし、みんな理解し合えば仲良く生きられるが、私のように押し付けがましい書き込みをすると、意見が分かれ思いが通じ合わなくなる。ブログは日記だと言う。ブログの世界は通信ネットの世界で、やはりこの世界にはこの世界の道理が有る。お互いの意見が合わないから、書かないでくれと言われる事が有りますが、それは人それぞれで仕方ないが、お互いの思いを多くの人が観ていると言う事で、それぞれの情報として流れると言う道理に従うならば、それぞれの情報を見せる事が出来なくなる。それは日記なんだ。それは人それぞれの思いなんだ。人それぞれの思いが書き込まれて、人それぞれの思いが情報化しているんだと言うネットの道理を悟れば、相手が何を書いてもそれは相手の思いであり、その思いが自分の思いに合わないから通信は止めようと成れば、ネットの情報としての書き込みが無くなる。お互いの対立する情報を流す事で、第三者が又違った角度でその情報を捉え、そこから新たな発想も生まれると思います。自己を確立してその思いを書くと言うそこにも道理が有る。金光教の信心についても、私の思いを書く事で、今まで観た事も無い信心の情報が流れる訳で、何か問題解決のヒントになるかもしれない。そんな自己満足な信心の話なんて迷惑だと断るのは、勝手であるが、先生のブログで書けなくなると言う事は、人それぞれの信心の情報として流れなくなると言う事に成る。教祖様がどんな思いで道理に適う信心を説かれたのか、その教えを頂いて人それぞれが道理に適う信心を求めたとしても、この世で生かされて生きる人間の道理は、人間が人間として生きる道なんだと言う事に成れば、世界の人間が生きる道は、人それぞれの道では無くて、その道は人間が生かされて生きる道なんだと言う事に成る。そして信心の道も、人それぞれの道では無くて、神様に生かされて生きる神ありての氏子、氏子ありての神、あいよかけよで生きられる道なんだと、それぞれの人が心一つに成る事がその道の道理を理解して仲良く生きられる事に成る。信心の道は一つ、人の道は一つ、人間の道は一つ、乗り物の道は一つ、社会人の道は一つ、宇宙自然界の道も一つ、この全て一つの道に適う信心をせよと言うのが教祖様の思いではないだろうか。歩道を車が知れば大変な事故に成るから、それぞれの道を通らなければならない。道はそれぞれみんな違うが、道理はどんな道でも同じなんだ。その道理を悟り、みんなそれぞれの道を踏み外さないように、お互いが衝突事故を起こさないように、理解し合い助け合って道を仲良く生きて行きましょうと金光教組様が教えを説かれたと思います。ブログの道は、何でもあり。道が無くても自由に思いを書いて発信できる。迷惑メールも多く入ってくるが、この世界には自由が有ると言う事に成る。善人も悪人も自由にその思いを発信する事が出来る。自由が有るから、わいせつ情報も飛び交っている。カメさんもう書かないでくれと言うのではなくて、私の思いが迷惑になるので有れば、削除すればよいと言う事に成ります。人情は分かるが、道理に適う通信の世界、匿名が通用する通信の世界、その世界と日常の生活現場とは道が違うんだと言う事も知る必要があります。いやなら断るのではなくて削除するのがブログの道理と考えれば、感情的に傷付け合う事も無くなるでしょうね。自己を確立して、神に成れば、この世の道理が見えて、人生哲学もこの世の道理に沿って書きあげられて来ます。この世の創造主である神に成らなければ、この世の道理は分からない。金光教組の信心も、教えを実践して誰でも信心して神に成れば、お互いの信心を指摘し合う事も無くなるでしょう。道理に適う信心、先ず自己を確立して説いて頂きたいと願っています。カメ
2010.09.13
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信心は個々の人の思いですから、その人の信心に対して意見を言うと言う事は正しい行為ではないが、物の道理は筋の通る話であり、その人の信心が道理に適うものかどうかと言う事について、それはちょっと違うのではないかと言う意見が出て来ます。金光様は、誰でも信心すれば神に成れると説かれています。この世の道理を観て、それに合う信心をせよと説かれています。この教えを頂いて、信心の道の稽古を重ねて頂いたお陰が自己確立。確立された自己は神であった。ただそれは人の思いであり、こうして自己を表明すれば神と言う文字を使用する事に成るが、道理として観れば、神なんてものは何処にもいない。その心は0に成ると言うのが道理であります。神に成れとは無我に成れと言う事です。無我に成れば、原点に自分の存在が有ると言う事であり、ゼロに成って1からスタートしてゴールへ向かう。その筋道が道理であり、我が人生道であり、道を悟る事で人生哲学が書きあげられる。そこで言いたい。プロの教師がいなのではないか。金光教の先生のブログを観ていると、絶対的な自信を持って書いている人がいない。又一生死ぬまで修行なんだと言う。自立して自分で生きられるように成るなんて思い上がりはいけないと言う。道理に適う信心とは、プロ意識でなければ出来ない事なんだ。神に成るとはプロに成る事なんだ。プロ選手は人気者に成ります。それは日ごろの厳しい訓練、稽古を積み重ねて成し遂げられる業であり、その道の教えが宗教なんだ。又社会は共同体で有るから、みんなが安心して使用出来るモノを商品としなければならない。つまり完成品でなければ売り物に成らないのだ。道理に適う信心とは、完成された話で無ければならないのだ。確立される自己とは、絶対的な存在となります。神に不完全は無い。自然の道理に不完全な道は無い。因果律、原因を作れば必ず結果が現れる。金光の町がすたれてしまう。その原因は、神に成らずして金光様の信心を説いてきたからだと思う。神に成らなければ神を説く事は出来ない。私は自己を確立したので、自分の思いを説く事が出来る。それは金光教の道理に適う信心の稽古を積み重ねた結果です。難儀な氏子を救う取次者が自らの信心が完成しないので難儀しています。藪医者が患者を救おうとしている姿に見える。取次者が自己を確立すれば、ただただ取次場所へ定まる姿に成る。難儀する事は何も無い。何事も定まる心が有れば、プロ意識が芽生えてくるんだ。自信の無いプロはいない。絶対的な存在がプロなんだ。みんな自らの生きる稽古を積み重ねれば、人間のプロとして自らの業(仕事)、得意とする働きが出来るように成り、信頼される人に成る。その姿が神の姿なんだ。特別な神なんて何処にもいない。神は我が心にあり。自己を確立して取次の座に自らの心を定めて頂きたいものです。教祖様は、生き神に成られて、定まり続けられた。だから世界の信者さんに信頼されるようになった。人間はみんなプロに成れるんだ。カメ
2010.09.10
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本当に信心は人それぞれだなぁと思います。テープのコピーを読んで頂いて、筋が通り纏まっていると言うコメントを頂き、安堵しているのですが、一方で抽象的でさっぱり訳が分からないと言うコメントも頂いています。これは誰が正しくて、間違いかと言う議論には成りません。みんなが正しいんだ。つまり心の世界には道理が無いので、決められた筋道が無く、人それぞれなんだと言う事です。その心をリセットして、ゼロにすると、人それぞれの心が無色透明の水の如し、一つにまとまります。差別も区別も無い無我の境地、その境地に至れば自己は確立される。自分は元々から神なんだと言う事を知る。神を特別視すると、神に成る話は通じないし、理解も出来ない。無我であるから、何も無いんだ。何も無いから、みんな平等なんだ。何も無いから、みんな自由なんだ。ところが人間の世界は、何も無いと言う理屈は意味も価値も何も無くなって生きようが死のうが関係ねぇやって言う事に成る。何も無い自分が、肉体が有るから生きられるんだと言う事です。その肉体を神様が生かしていると、人間は語る。だから人間として生きるには、自然に生かされるがままに社会生活をすれば、日に日に生きる信心の道の稽古が積まれて、自分とは何であるかが分かり、自己が「無」と言う答えで確立される。確りとその思いを打ち立てる事に成る。絶対的な自己の誕生。それが我が心の神なんだ。心は、人間スーパーロボットの操縦席なんだ。その席に自己が座って自らの肉体をコントロールしている。車体を運転してぶっつけ合うドライバーはいるでしょうか。中には無謀な運転をする人もいますが、車体と車体を傷付け合うような人はいません。みんな安全運転を心掛けます。人間は自分は神で肉体の運転手だと認識する人は先ずいない。ですから人と車の分別論は語られない。神に成る、仏に成るとは、人間の思いが肉体から分別する事に成ります。分別する事によって、神と人、人と車の一体論が生まれ、肉体は自己の意思でコントロールされている。つまり生かされていると言う話が浮かんで来ます。運転手であると自覚すれば、意見が衝突して主張が対立して喧嘩に成り、戦争に成り、身を滅ぼし合う事が無くなる。みんな神の氏子なんだ。肉体は氏子が運転して生かされているんだ。見た目で自分は人間なんだと言う判断は間違っているんだ。その事に気付けば、宗教問題も解けてくるでしょう。マイカーのドライバーは、一人一台の車を運転して道を走ります。大量輸送に成れば、一人の運転手が沢山の人を一緒に運ぶ事が出来ます。生かされて生きるとは、大量輸送の乗客の生きる姿。生かされるのではなくて、自らが生きるとは、マイカーのドライバー、人間でいえば自立心でしょう。宗教は教え、だから卒業して自立して生きれば、親神に世話をかけなくても済む。世話のかからない子が一番の親孝行なんだ。カメ
2010.09.09
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皆さん、今日は。金光教の信心について、思うところを話してみたいと思います。よろしくお願いします。最近になって、先生から信心について何か書くように言われまして、またこうしてテープに吹き込むようにいわれまして、これも信心の稽古をさせて頂くと言う事で、初めての挑戦でどうなりますか分かりませんが、お聞きください。子供のころから母に連れられて金光教の教会へ参っていましたので、ご縁があったと思いますが、信心についてはただ有難いものとして、神信心をしていましたが、金光様の教えを頂いて信心の道の稽古を積み重ねて行くうちに自己確立というお陰を頂けるようになりました。誰でも信心すれば神になれると言う金光様の教えがどういう事であるのか訳が分からないのですが、自己を確立してその訳を悟らせて頂く事が出来たように思います。その自己が確立された私の信心を聞いて頂きたいと思います。自己確立とは、自分とは何であるか、その答えが確立される話であります。何事もなく平穏無事に生きていられる間は、自分とは何かを問うようなことは無くて、欲望のままに生きていますが、人生いろいろ山あり谷あり、難儀になって氏子が苦しんで、教会へお参りしてお結界で先生に御取次頂いて難儀な氏子が親神様に救われ幸せに暮らせるようになります。何事も御取次頂いて神様に救われるのが信心の道なんだと聞きます。一心に願え、お陰は我が心にあり。日参すればそれだけお徳が積まれる。神様に生かされているのであるから、一生信心の稽古を重ねて信心を広めていく働きが求められています。そう言う事で有難い信心、神様に感謝する生き方を実践して来ますが、なかなか一心になる事が出来なくて、救われても救われても、また難儀になり御取次を頂いて迷い心が改まる信心であります。また宗教についても、いろいろ問題があり、人間にとっては精神的な問題は厄介なもので、世界の人間の生きる姿もいろいろ問題を抱えて難儀しています。地球環境破壊、人口問題、自然の生き物たちの共存、そして人生の真の目的が分からない。信心についても、訳が分からないまま、信心の道を進ませて頂いていると言う事かと思います。そこで一体何がどうなっているのだろうかと思うようになり、四苦八苦している自分とは何であるかを求めて見ました。自分は人間なんだと思って生きています。その人間が信心して神になれると金光様が説かれています。人は神の氏子であると説かれています。しかし信じない人にとっては、教えは絵に描いた餅でしかない。この有難い信心の教えが自分にとっては大切な思いでありますが、人間の世界では問題を投げかけているものもあります。宗派が違って神仏に対する理解のあり方が人それぞれ違います。金光教の信者が仏教を信じる理由はありません。難儀を救って頂く御取次の信心の道は、他の宗派にはありません。反対に他の宗派の信者さんたちが金光教の信心をする理由が無いと言えます。しかし世界の人間が平和になるには、世界の人間の心が一つにならなければその願いは達成される事はない。思想的な宗教団体が一つにまとまる筋道は多分無いと思います。では宗教って一体何でしょうかと言う疑問が生まれてきます。自分にとって有難い宗教の教えが、人間の世界では難儀な厄介な問題を投げかけています。沢山の問題が蓄積して、人間の頭では分からない事ばかり、そこで金光様の教えを信じて信心の道の稽古をする事でこの世の道理に適う信心を求めて見ました。信心とは日に日に生きるが信心だと説かれています。毎日生きて生活する事全てが信心の対象なんだ。神と人とはあいよかけよの関係なんだ、人間は神に生かされて生きている。神様を否定して信心は成り立たない。神様の存在を信じると言う事が信心であり、何事も神様に御取次頂いて分からない事を教えてもらう、そう言う御取次の信心をさせて頂いて、毎日朝晩我が家の神前でご祈念を重ねて、我が心の中で金光様に御取次を願って信心をさせて頂きました。御取次は、教会のお結界で成されるものでありますが、日に日に生きるが信心だと言う事でありますから、毎日の生活の筋道の中に御取次を頂く事を考えて、教会へは日参できる環境では無いので、月一の御礼参りをさせて頂いて、我が家で我が心の神に御取次を願い、一心となれる信心を求め続けてきました。その心にいろいろな思いが浮かんで来るようになり、自分とは肉体的なものではなくて、精神的なモノなんだと言う思いが浮かんできました。人間は見た目で判断しますから、自分とは人間の姿だと思っていますが、信心の稽古を重ねて行くと心眼が開くようになり、肉眼では見えないモノが心で観えるようになります。そこに見えてきたのが自分の存在でありました。自分は人間だと思っていた事が、勘違いであったと思います。自分の肉体は人間の両親から生まれてくるものです。その肉体を親神様が授けて下さると説かれています。神の氏子が肉体を授かって、この世へ人間として生まれて生きるようになる。この世の道理を観てそれに合う信心をするように説かれています。他のモノが生かされている姿を観て、その物の道理を悟り、自分もその物たちと同じように生きれば、道理は適えられる。何年か前に、あいよかけよ誌に、自動車の例えを投稿して採用して頂いた事がありますが、車体の中に隠れて見えない運転手のような存在が、肉体の中に隠れて見えない自分の存在なんだと言う事です。自分の思いの中では、自分しかいません。肉体が無くなっても、自分はいます。つまり手足が大けがで無くなっても、自分は何も変わらず存在しています。臓器移植で肉体が他の人の肉体と取り換えられる。そこに物の道理があります。機械の部品のように、壊れた部品が取り換えられて元の生き方が出来るようになる。病気して怪我をして苦しんでいる自分がいます。健康になって喜んでいる自分がいます。車体が故障して運転できなくて困っている運転手、正常に走れるようになって喜んでいる運転手、車体と運転手は同一のものではなくて、人と車が一体となって走っているのが自動車の姿です。自動車の世界では道が無いと運転する事が出来ません。車体があっても道が観えていなければ正しく運転する事が出来ません。その道で自動車は毎日走っています。走らない自動車は、道のお役には立てない。そして車体は運転手に生かされて生きています。このように自動車の世界のモノの道理を悟らせて頂けば、人間の生き方が分かるようになります。自分とは自動車の姿ではなくて、毎日走っているその姿の中の運転手なんだと言う事です。今までは、人間だと思っていたので、生きる道理が分からなかった。神に生かされて生きていると聞かされても、都合良く生きようとしてしまいます。思うように生きたいと思っても、人間は自分勝手に思うように自由に生きる事が出来ません。毎日自然の恵みを頂いて、他の生き物たちのように自然に生かされて生きれば道理が適う。道理に適う信心をするように説かれています。このように自己を確立した私の心にさまざまな思いが浮かんで来るようになり、金光様の道理に適う信心が有難くなり心から感謝できるようになりました。信心の話は、物や金ではない、心なんだと言われています。子は親の愛情が無いとまともに育たないと言われます。宗教も精神論に偏った教えが多く観られます。そんな中で、金光様はこの世の道理に適う信心をするように説かれています。そして信心すれば誰でも神になれると説かれています。人一人助ければ一人の神となる。神は我が心の親である。私達は神の氏子なんだ。神思う心に神は生まれる。我思う心に我は在り。信心に連れはいらない。信心は自ら練りだす事も必要なんだ。難儀な氏子が救われて、信心の有難い話を聞き、日に日に生きて生きる稽古を積み重ねて、信心を完成させていく事が道理、つまり筋道の通る話と成ります。信心すれば、心眼が開いて肉体の中に隠れて観えない心の世界が見えるようになり、そこに神も自分も存在している事を知ります。神は姿もなく声もないので、人間の頭では理解する事が難しくなります。自分が人間なんだと思っていたら、心の目は開かないでしょう。我情我欲を捨て、無我と成れ。仏教では悟りを開いて仏になれと説かれています。神になる、仏になるとはどういう事であるのか。自己が確立されると、その訳が分かります。自分は肉体の姿ではなくて、肉体の中に隠れて観えない精神的な存在なんだ。物で無いものが精神であり、その精神的なモノが自分なんだ。そう言う思いで、私は自分とは人間を生かしている精神、それは人間の運転手なんだと言う事を認識したのです。私達は神の氏子だと説かれています。神の氏子は姿が無い精神であります。分け御霊の教えは、肉体に宿る運転手だと思います。死んで御霊として祭られる話も、信心して神になればその訳が分かる。自動車は寿命が尽きて死んでも、運転手は死にません。新しい車体に乗って再び交通の世界へ蘇ります。第二部へ続く
2010.09.07
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永遠の命ってなんでしょう。自分とは人間の運転手だと言う事になれば、肉体が死んでも魂は死ぬ事は無い。再び新しい命と成ってこの世に生まれてくる。この世の道理を観て生きる術を悟りなさい。金光様の教えがなんと素晴らしい宗教でありましょう。私の信心は、難儀な氏子を救う信心ではなくて、救われた氏子が金光教の信心の道で生かされて生きる稽古を積んで、自己が確立されて行く信心の道であります。自分とは何であるかが分かりました。自分とは神の氏子であり、自分の肉体の親が人間の両親であります。ですから氏子が信心の道で人間として生きる稽古を積み重ねて、人間を生かす運転手になって人生の道が観えるようになり、人間と言う乗り物を正しく生かす事が出来るようになって信心のお陰が生まれてきます。世界の自動車はみんな人間と言う運転手が車体と一体になり、その乗り物を生かしています。自動車には車種があって構造もスタイルも大型から小型まで、目的も走る道もそれぞれですが、みんな創造主の人間に生かされて走っています。人間にも人種があり、人それぞれは生きる道も働く目的もみんな違いますが、みんな人間は、その肉体は神に創造されて生かされて生きています。その肉体にはみんな精神が宿ります。精神のいない人間はいません。人はそれぞれですが、精神は差別できるものではありません。どんな人間でも、精神は心であり、心の自由は何人足りとも犯す事が出来ない。しかしその肉体は人間として人間の世界で生きています。日に日に生きるが信心だ。日に日に走るが自動車にとっての信心だ。その道を生きるのが信心の稽古なんだ。誰でも自動車の運転の稽古をすれば運転手になれます。誰でも生きる稽古、つまり信心の道の稽古をすれば神になれます。神になって人間と言う乗り物を正しく生かす事が出来るようになります。自己が確立されると、誰でも神になり人間の精神が運転手なんだとその訳が分かります。そんな金光教の道理に適う信心を語りたいと思っています。私達は神の氏子でありますから、誰でも信心して生きる稽古を積めば、自己が確立されて容易い信心生活が出来るようになると信じています。生き神金光大神天地金の神一心に願えお陰は我が心にあり今月今日でたのめい。我が心の外にはお陰はありません。精神世界は人の思いの中にあると思います。自己確立は、その自分とは何であるかを求める信心の道の話です。自分は自分なんだ、自分は他の何物でもない。ただそれだけの簡単な事が人間には分からない。自分が信心して神になれる金光教の信心の道が示されれば、この世の人間が生きる姿は定まり世界の平和も実現すると思います。自分次第でどうにでもなる、信心の道が金光教の道だと思います。最後に少し整理してみます。自分とは精神的なもので、自動車で言えば車体の中の運転手何だと言えます。そう言う物と精神の一体関係が人間の生きる姿だと言う事です。信心して神様に生かされて生きる稽古を積み重ねれば、自己が確立されて自分は元々から神である事を知る。つまり自動車の運転の稽古を積めば、運転手として自動車を正しく生かす事が出来るようになり、信心して神になると言う事は、生きる稽古をすれば、人間として正しく生きられるようになると言う事です。自分とは人間の姿なんだと思っていた事が間違いであった。自分は人間を生かしている精神なんだ。肉体を操作している運転手なんだ。自動車は運転手に生かされて生きていますが、運転手になれば自動車を生かす事が出来るようになる。それは人間が自立して生きられるようになると言う事です。人間は動物としてその生き方が物の道理に適っていれば問題は生まれてこない。運転する事が当たり前のように、生きる事が当たり前なんだ。その当たり前な生き方が出来ないのは、自分を姿その物だと思っているからなんだ。この肉体の中身の思いの世界に存在している自己、その自己の潜在意識を掘り起こせば真実が見えてくる。人間には信心の話は難しく理解できませんが、自己が確立されると信心はとても優しく、当たり前に生きられるようになります。神や仏や精神とか心とか、また愛も癒しも人間には観えないものを理解する事が難しく、信心して神になる話や心眼が開く話もさっぱり訳が分かりませんが、自己が確立されると自然と心の思いに浮かんでくる言葉があります。その信心が何故難しくなるのでしょう。つまり教えを実践しないらであります。神になれるという教えを実践すれば私達は神になれる。神に成るなんて、とんでもない思い上がりだと指摘されてその教えを実践しないのが、間違っているのです。教えを実践して信心の稽古を積み重ねて行くと、自己が確立されてきたのが私の金光教の道理に適う信心の道であります。どうか皆さんも信心して自己を確立して頂きたいと願っています。最後にもう少し付け加えさせて頂きます。ここに話をさせて頂いた事は、私の思いですので、自由に思う事を述べさせて頂きましたが、自己が確立されても、信心して神になっても、物の道理を悟らせて頂いても、私達は今人間の世界で人間として生きているこの事実は変える事は出来ません。思いは自由ですが、人間として毎日の社会生活をすると言う事が、信心の目的であります。日に日に生きるが信心なんだ。生きると言う事について、それぞれがどんな思いで生きているか、そこに金光教の道理に適う信心の道が示されています。人間が正しく生きるための信心なんだと言う事を心得て日に日に生きる信心の道の稽古を励んで生きたいと思います。自己確立は個人の思いですので、個人個人が自らの信心の稽古を積まなければ自己は確立されないと思います。自分の事は自分でしなさい。御取次を願い、自分がその信心を頂いて日に日に生きる稽古を重ねて行くと言う事が重要なんだと思います。ご清聴有難うございました。
2010.09.07
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金光教では道理に適う信心をするように説かれています。つまり筋の通る話をせよと言う事でしょう。誰でも信心すれば神になれると言う教えを説くには、神に成らなければその教えを説く事が出来ない。神に成らずして神を説く道理は無い。神徳もその徳を得る事によってその徳を説く事が出来る。神徳も無いのに、徳が解ける道理は無い。学徳も同じであり、知識ばかりが優先しても徳に成らず、学んで徳するモノはなんであるか、徳が無ければその徳がなんであるかを説く事が出来ない。信じなければ成り立たない宗教界にあって、金光教の道理に適う信心が好きだ。その信心で自己を確立して、神になった。神になったので、神とは何であるかを説く事が出来る。筋を通せば、理解できない不思議な話にはならず、あぅなるほどそう言う事であるのかと自分で納得できる。自分の意識から物意識が消えて、無我となる。我は無い。姿形声も無い神と同化してしまった。宇宙に溶け込んでしまった。何も無い自分が神の氏子となり、肉体は神からの授かりもの。物を正しく扱うのが道理に適う生き方なんだと知る。自分を人間だと認識していると、信心しても神になる事は出来ない。誰でも神になれると言う教えが何を意味するものか、この世の道理を観ればその意味が分かるようになる。自己確立が全ての問題の原点となり、言葉が噴き出してきた。物の道理には、寿命が尽きて無くなってしまう事がある。物でないモノに道理は無く、尽き果てる道も無い。だから自己は永遠なんだ。肉体は死して果てるなり。それも道理、道理が分かれば死に対しての恐怖心も無くなり、道理を知る事によって永遠なる心の安らぎを得られる事になる。金光教の道理に適う信心をもっともっと世界に広め、神願成就となるように祈る。カメ
2010.09.05
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金光教の信心をする事によって自己が確立された私の信心は、あくまでも個人の思いの確立であり、教団としてのあり方とはいささか筋違いな道のように思います。ですから教会のブログへコメントを書いても、通じない。説教を聞いていると、人が助かる信心、人を助ける信心、精神的に偏った話ばかりで、物の道理というモノが観られない。肉体は物としてこの世に存在していますから、金光教の道理に適う信心をすれば人間としての存在理由がわかり、納得できる人生となるが、人の心のあり方ばかり説いていては、道理に適う信心が果たして出来るだろうか。誰でも信心すれば神に成れる。信心は容易く、遊び心ですればよいなんて、教えを説かれてもさっぱり訳が分からない。訳を知る事が、道理に適う信心なんだ。一人一人が自己を確立して、神となれば訳が分かる。組織信奉では、道理に適う信心は無理でしょう。お取次頂いて、個々に個々の自立した思いで金光様に直に接する信心は、個々の人の心の中にあり。内部からの情報を頂いて、自ら練りだす信心をする事によって自己が確立された。神を杖として頼りなさいと言う教えは、道理に適うモノでは無い。杖はいらない。神様から授かった二本の足がある。自分の足で歩いて進む信心の道。救済的な信心は医療行為も同じであり、本来健康で生きられる信心が信心の姿なんだ。神に成れば、その道理が適うなり。カメ
2010.08.16
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>内に改まり正しければ外に現れる事正しい自分の徳が神と同根なり人の上に立つ人は絶えざる批判にさらされそこからよくなる<金光教の御理解をちょっと張り付けして、思いを書きます。内なる改まりとは、心を改める事であり、道理に適わぬ心を適う心に改めれば、そとの生活にその結果が現れてくる。外の世界は、物の道理の世界であるから、心がその生活現場の道理に適う生き方をすれば、人間が人間としての生きる筋道が通る事になる。しかし金光教の教団としては、難儀な氏子を救う事が信心だと説かれているので、物の道理を説くと言う筋道がなかなか理解されない。道理に適うとは、1+1=2 と言うように、誰が考えても同じ筋道と答えが決まっていると言う事であり、1+1=3になったり4になったりする、人それぞれの自由な信心は、道理に適っているとは言えない。全国の金光教の教会のお結界で、1日の務めとして座り、その場に定まり続けている教師がいるだろうか。いろいろ用事があって、祭り日以外の日は、外の御用に飛び回り、お結界は留守になる。普通、社会人の務めは、仕事であり、自分の持ち場を留守にしていたら、直ちに解雇される。お取次を頂きたくて、お参りしてもお結界には仕事人がいないような信心が、道理に適う信心とは言えない。信者が減って、暇を持て余すような職場になってしまった。だからパートでもして稼がなければ生きて行けない。教団の御用で、いろいろ忙しくてお結界を留守にするのは病む負えないではないか。それぞれ言い訳があるが、道理に適う信心とは、人間の都合で語れるモノではない。教祖様は、座りきり手の生涯で有られたようで、信心して神に成れば、誰でも己の職場に勤めて、与えられた使命を果たすモノだ。それが道理だ。金光教の信心は、取次の業であり、その要が改まっていない。何時参っても先生は、取次場所におられる。それが当たり前の姿なんだ。だから難儀な氏子を救われて行くのだ。そして氏子が救われて、難儀から脱し、健康な体と健康な心を蘇らせて、一人前に生きて行けるように成れば、道理に適う信心も一人前になる。宗派の信者に成ってしまっては、道理に適う信心は出来ない。教団も意識改革で、現代社会に生かせる道理に適う教えを解く必要が出て来ました。カメ
2010.07.28
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難儀な氏子が救われて、生きる訳が分かり、難儀しなくなる。難儀無く普通に当たり前に生きられるように成れば、難儀な氏子がいなくなり、取次の業がお客さんが減り、仕事が無くなり不景気になります。宗教も物事の理屈と同じで、お客が沢山いれば組織は発展するし、過疎の村ではお客さんがいなくなって教会やお寺が廃業になる。組織宗教は経営目的になり、お客サービスが良くなる。お客を勧誘し、洗脳して組織を拡大させていく。そんな宗教思想で世界の人が心一つになって平和を実現するとはとても考えられない。信者には自立心が無い。神に依存する生き方が説かれて、物の道理を踏み外してしまう。神様の厳しい愛が親心、人間に試練を与えて自立心を養います。一人で生きられるように強い信念を持てと説く。組織はそんな信者の自立を認めない。宗教は教えですから、教え通りに生きて信心の道で生きる稽古を積み重ねて、自己を確立すればマイ宗教が個々の宗教心や信仰心を目覚めさせて、宇宙真理と一体になり、堂々とおおらかに生きられ、人と人との対立も解消してみんな仲良く生きられる。カメ
2010.07.19
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一人暮らしの老人が、突然急病になり、教会へ電話をかけてお取次頂いて救われた話があります。それは事実だと思います。私の母も、大病を信心のお陰で救われたのを目の当たりに観ています。不思議なお陰話が沢山あります。しかしそう言う話の根拠がなんであるか、謎です。宗教の世界は宗教の世界として、それは必要な存在だと思いますが、人間の世界では根拠の無い話を如何にも真実で有るかのように説くのは、物の道理に適っているのか。百人が百人その話を信じてお取次頂いて、全ての人が不思議なお陰を頂ける保証は何もない。お陰にならないのは、信心が足りないからだと言われて、言い返す事も出来ない。先生に逆らう事が出来ない。神を疑う事無かれ。疑えば罰が当たる。怖いですよう神様は。なんて無神論者にはなんにも関係ねぇう話、そんな宗教に心奪われた難儀な氏子達よ。自己を確立して洗脳から目覚め、道理に適う信心の道で生きる稽古を積み重ねましょう。
2010.07.16
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こう言う宗教論者がいるから世の中ダメになってしまったのだと言いたくなるブログ、そこへ書き込みしたいが他者のブログへは指摘レスは書けない。又書いたとしても、その先生には通じない。その先生には先生の信心の道が有る訳ですから、神様の理解の仕方も違い、意見も違い、どうにもならない話になります。指摘すれば、相手も指摘してくる。だいたい宗教論争は纏まりの無い話になります。つまりそこには物の道理が無いから、人それぞれ自由に信心が出来る。それはそれで信仰は個人にとっては大切なモノであるが、人間社会共同体では、物の道理を説かなければ意見がまとまり共に理解しあえる筋道は、個人の自由な心の中には無いのである。人間としての生き方が正せるように宗教心がある。その心は誰でも持っているんだ。わが心の中の神を見つける事だ。そしてその神を信じる事が、個々の人の宗教心なんだ。道理に適う信心を説く金光教の信心が、教師によって筋の通らない話が説かれている。信心してお陰を頂けるのは難しい、だから日参して徳を積めと言う。教組は信心は見易くせよと言っているのに、信心は難しいモノだと説く教師。誰でも神に成れると教組は言っているのに、神になったと言うと、自己満足の思い上がりだと指摘される。教えと行為のアンバランス、そんな道理はない。親子の道理は、心安らぐ見易い安心の信心なんだ。それを人に説こうとするから難しくなる。信心に連れはいらない、一人で黙って静かに生きる稽古をすれば、何一つ問題の無い宗教になる。道理に適う信心、なんて素晴らしい金光様のお道でありましょう。カメ
2010.07.15
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1 天地の大神様は親神なり。人は氏子なり。神人は、親子むつまじくするごとく。 金神様を恐れるは違いなり。親子の間柄ゆえ、氏子と仰せられる。信心するは、親子仲良く する道理。何事も心安くするがよろし。 ----- その宗教が組織化されてしまっては、何事も心安くとは行きません。 自己を確立して、マイ宗教を確立すれば、心安くなる。
2010.07.14
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神国の人に生まれて神と皇上との大恩を知らぬこと。ーーーーー自然と国や社会が有るから、毎日の生活が出来る訳ですから、毎日感謝して生きる事なんだ。
2010.07.13
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29 一つ、朝暮ご祈念いたすとも、わがことは捨ておきても、ご神歌に、心だに真の道にかないな ば 祈らずとも神や守らん とのたまいしかば、天下泰平、宝祚動きなく、御知事様ご武運長久、五穀成就、万民安く平ら けく、穏やか安心、祈念すべし。これ、他のことのようにあれども、わがことなり。 祈らずとても、わがことはしぜんおかげをこうむるなり。 力を入れて信心いたさるべし。信心届く時は、世界中のこと、しぜんに知れるように相なり、 諸人も慕い願い来り、病気、何によらず助ける時は、その人のためには生神なり。 時の氏子ならずや。初心の人は知らずとも、お道にはあまたあり。ご信心家と申すが、これな り。だれにても、慢心出やすし。御戒めなり。慎むべし。おいおいお道に入り、信仰の人、か ほどありがたきお道とも知らず、信仰延引のことを後悔する人多し。余は、小子ごときの愚か なる筆紙には尽くしがたし。詳しきことは、お道に入り、ご信心して知るべし。 ------- お陰を頂いても詳しきことは道の稽古を積んで生きて観なければその訳は分からない。
2010.07.12
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28 一つ、諸人いずれの神仏様へ参詣いたしても、先祖より続きて、度ごとに願かけのみして 御礼届けということせず、たとえば神仏様へ借銭に相なりおる道理にては、これ、ご無礼 罪科と相なりおるとの、のたまい、諸人ご拝奉りても、まず、このお断りを申し奉り、朝は 夜前無事の御礼申し上げ奉り、暮れには、その日の無事の御礼届け奉るべし。 あるいは、わが子が患う時には、屋床に離れて(家屋敷を手放して)も彼さえまめになれば よしと申し、病気全快すると、言うたことは忘れた顔をして、長の患いに物がいたったの、 いろいろ申しならべ立て、肝心のお礼も延引に相なりがちの者ままあり、不埒のことなり。 忘るべからず。病気も再返ることあり。また後々お願い、お礼不足の障りということあり。 願うより、とかく御礼届け肝要なり。 そのうえ、お祓いをあげ経巻を読誦するとも、捧げ物は供えようと供えまいと、気任せ。 供える志あらば、四つ足の類を除けば世界中の品物何なりとも、人界の用ゆるほどの物は苦 しいからず。供うべし。何よりも、このお道を助け助けお広めいたすが第一のごちそうなり。 初穂なくて信心ならぬものなら、貧窮なる者は、病気、何によらず助かることできぬとのご 理解なり。 まことにありがたき神様なるかな。信ずべし、仰ぐべし。 ------- 願い事の心有るが、御礼する心忘れるべからず。 ーーーーーーー
2010.07.11
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27 一つ、お道は人に罪科とならぬよう心配かけぬよう、さしつかえのなきよう腹を立てさせぬよ う、喜ばすよう助けるよういたせとのご神教なり。お道広まりたる所の者御本社へ参詣いたす と、だれにても、「わざわざ遠方のところ参らずとも、そこもとにご信心家あり。これへ参り ておかげをとられよ」と、いつもご辞退なり。ご信心家はどこにても御本社に変わることなし。 初心の人参詣いたしても、何によらず心安く、心配いたさるまじ。 ------ お陰は我が心にあり。 わざわざ遠方のところへ参らなくても、今ここに自らの心の中にお陰はある。 それが信心する者の心なんだ。 常に神様に生かされて生きているのであるから、今を信じて己の務めを果たす事が道理に適う 信心なんだ。
2010.07.10
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26 一つ、御本社には近来、御本社ご造営のご普請中なれども、ご勧化ご無心筋等、そのほか 平生にも、お初穂、さい銭等にいたるまで、むさぼりがましきことは毛頭なさせられず候 えども、緒方よりご寄進集まり、いかほどご寄付いたしても、飾りがましき板札かけたく 願われ候えども、それにては、彼、なにほど寄進いたさば、われはなにほどいたすべしと、 かせぎになりて表を飾り、身分不相応の寄付し、後で心配いたすようのことありては、か えって信心にならず。 志ある者は、ただなにほどなりとも己の気安に、心任せにいたすべし。心のほどは、神は みな承知なりとのたまい、ご普請も、できしだい、急がず時を待つとのゆるゆるたる、あ りがたきおぼしめしなり。 ------- 普請は気持ちをお供えするモノなんだ。
2010.07.09
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25 一つ、御ぬ宜、御神子、修験者、お医者、易者等の多き中には、もし、その道のさまだげとも ならんかと思う人ありとも、さにあらず、広大のお道にして、みな氏子とのたまいしかば、な んぞ氏子のさまたげをなさらんや。信心いたせば、その道々の業、繁盛ご守護との御誓いなり。 ----- どのような者にも、この道は一つなり。
2010.07.08
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24 一つ、お道には、病人、何によらず、いかなることにもご祈祷ということなく、それゆえ、 身に付きたる着物、木綿切れ、白米のと、何にても、捧げ物入用ということなし。事ある 時は、お願いに参詣いたしても、お初穂の多少にもよらず、有るも無きもお変わりなくご祈 念なしくだされ、日を限りて、ご栽伝、ご理解あり。謹みて聴聞いたすべし。 お札、守りは、出で申さず。暦は諸人知るとおり元日より大晦日まで日月金神様の御事のみ。 おまつりいたすは、暦をご神体に用ゆべし。暦を見てもだれも信心せずとのたまい。神儒仏 かたくなに何宗かに宗のと分けへだつるよう申せども、暦は別にあらず、世界中一つにして みな氏子なり。この広大無辺のお道、志あらば己が帰依するところをもって信心いたすべし とのたまいしなり。 まっすぐな広きお道のあるものをよこしまに行き迷いぬるかな。 ------- このお道を悟れば、あれこれ理屈をつけることなく、ただ信心を貫いて行けばよい。
2010.07.07
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23 一つ、金神様には、世界一統だれかれとなく氏子のたまい、おかげは、日月様のてらしたまう かげのごとく充満のおかげを御授け、御助けたきおぼしめし。信心はし得、おかげは取り勝ち なるを、人によりては、私はおかげがないの、なにほど信心しても同じことのと、捨ててしまう 者あり。大きな誤りなり。これ、疑う心あるゆえなり。 たとえば、この方角へ普請作事、何によらずいたしては悪いと思い、また、子の品を飲食してもあ たりはせぬかと、己が心が濁るゆえお障りもでき、飲食も毒とならんか。 この疑念をさっぱり廃し。すでに、さるご信心家に、普請いたすにつき、まずお断り申し上げ 奉り、かからんとせしに、他より人々来りて口々に故障申すにつき、少し迷い、再応お願いもう され候のところ、人界のいうことを用い、神の申すことを疑う。神はうそを言わず。勝手にせよ 以後、おくじもやらん、とのたまいしかば、ふと心づき、大いに誤れり。ようやくお断り申し上 げ奉り、はじめのごとくいたして、今ますます繁栄なり。人は何を言おうとも、神に空言はなし。 汚れ不浄はご免なされて、普請作事、何によらず、方角日柄は勝手しだい、何病気にも毒忌みな し。自由自在、ありがたきこのお道、おかげを取りはずしてはならず。取り勝ちのおかげを得取 らずしては、わが心を人に察しられ、恥辱なりと、われを捨て、神に身を任して、日天四 月天 四 金神様と一心決定する時は、目前におかげは顕然たり。力を入れて信心あるべし。 金言耳に逆らうの習い、このありがたきお道のわけを知らぬ人の多き中には、疑うて狐狸の類に あざける者あり。愚かにも、もったいなき次第なり。 天地の神にいつわりなきものを疑うならば何がまことぞ。 大氏神運勢第一大吉神、金乃御神様、愚かなる者嘲弄し、もしお気障りとも相なりて、おさえを 受くることある時は、運勢にかかわり左回りとなり、ついに患いの端ともならんか。 諸人知るとおり、御激しき時は七代七殺、なお、にわかに日の暮れたるように身上をもばたばた にしまい、跡には青草の生え。また畳牢の病人、いかなる良医良薬を用ゆるとも効なし。 いずれの神仏様のおかげも受けがたし。何方においてご祈祷いたしても、金神様お障りある時、 御筋立てご納受なくては祈祷成就せず。また諸人も、おとがめをこうむらざる者は少なし、慎む べし。 新たに家蔵堅固に建てしも一度に崩し、微塵になしたまい、日天四様お気障りは旱魃、暴風、月 天四様お気障りは暴風、洪水、金神様お気障りは地震なり。この三つの難は人力をもって防ぐこ とあたわず。世界中を震動なさしめ。一時にくつがえしたまうほどのことなり。また、おかげの 大きこともかくのごとし。 ------- ・・・・・・・・
2010.07.06
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22 一つ、寿命なき者には寿命お授けくださるなり。それに、当世の人、六十ぐらいになると先ぐり をして、頭を丸めて隠居姿になり、また多きなかには、死ねばくつろぐに、お迎えが来らぬなど、 わが身として覚悟をし、命を縮めるようなことを申す。愚かならずや。死なねばくつろげぬくらい の人なら、後世とても、安楽のほど、おぼつかなし。くつろぐ考えでいたすことが自業自得、不慮 に死する者嘆き悲しみ、祟ることあるを見て、よくわきまうべし。 改めて生くる覚悟をし、六十七十はさておき、八十九十にも限らず長命する気になり、陰気を廃し 陽気を含み、朝は日天四様に起き負けず、時のはやりかぜ、何病気にも、のまれぬよう押し勝つべ し。善事を尽くし、ご信心なる時は、死なぬうち、目前におかげを受けてくつろぎ、その身ばかり か子々孫々末代にいたるまでくつろぐなり。 ------- 死ぬ瞬間まで、生を全うする事。 真剣に生きる事が道理に適う信心であり、陽気に余生を生きられれば我は幸せなんでしょう。
2010.07.03
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21 一つ、お道には何病気にも、毒忌み毒養生ということなく、己が好物、何なりとも飲食し 体を丈夫にいたすべし。御地に生ずる物に毒はなしとのたまいしなり。 ------ 全て神からの授かりモノに毒はなし。
2010.07.02
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20 一つ、御氏子、信仰なして、盲の目の明き、いざりの足の立ちたのは珍しからず。 いかなる難病たりとも、日を限りて平癒なさしめたまうなり。途中にて、けが過ちして血の 出る時、お洗米でもあらばよし、なき時は、その所の草にても土でも、ご拝奉りて用ゆる時 は、血速やかにとまるなり。このほか難舟を助かり盗難を逃れ、おかげのことは書き記す にいとまあらず。なすところの願いとして、成就せずということなし。 ------ いろいろなお陰を頂いて有り難いと言う事でしょう。
2010.07.01
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