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秋田のお盆行事神奈川大学教授 山本 志乃秋田の日本海沿岸に、お盆の行事を見に出かけた。鳥海山を望む象潟海岸の砂浜に小屋を建て、ご先祖様を迎え送る行事だ。小屋の大きさは一間四方ほど。掘っ建て柱に蓆や藁束を巻き付けた簡易なものだが、ほおずき、カボチャ、梨、素麵などで奇麗に飾られた祭壇の片側に、二~三人が入れそうなちょっとした部屋がある。昔はもっと大きくて、地区の子供たちがここに籠って夜明かしした。その子供たちが、家々を回って賽銭をもらう習慣もあったようだ。集めた賽銭で花火を買い、小屋ごとに競い合ったりもしたという。盆小屋は、子供にとって自治と自立を学ぶ場であったのだろう。八月一五日の夕刻、海に日が沈む頃になると提灯を手にした人々が三々五々海岸の小屋にやってくる。提灯のろうそくを祭壇にお返しし、線香に火をつけ海岸に立てる。ろうそくは、一二日の迎え盆に小屋からもらってきたもの。ろうそくに灯した火で海からご先祖様をお迎えし、再びその火で海の彼方に送る。水際の砂に立てた線香に手を合わせ、海に向かって「またね」とつぶやく人もいた。旅立っていった大切な人への思いが、線香の煙とともに海に流れていく。行事の最後、壊した小屋の材に火をつける。大きな焚火を囲んだ子供たちが「じぃだ、ばんばぁだ、この火の明かりでいとうね、いとうね(おかえりください)」と、声を揃えて唄う。この世にやってきたばかりの子供たちは、あの世との交信を担う使者でもある。この小さな命こそ、ご先祖様が残してくれた宝物だ。日本の盆は、終戦の日とも重なる。失われたたくさんの命の上に、今の世がある。ご先祖様が穏やかに去来できる平和な日々を守る責務が、我々にはある。 【すなどけい】公明新聞2025.8.29
May 18, 2026
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作品や人物像を知る人は少ないライター 関 真弓名誉ある文学賞の一つ、直木賞。名前の由来となった直木三十五は大阪中央区空堀で生まれ育った作家で、同地区の複合文化施設の中に「直木三十五記念館」があります。1891年(明治24年)に生まれた直木は、新聞連載小説『南国太平記』を発表し、流行作家としての地位を確立しました。1934年(昭和9年)に死去。翌年、友人の菊池寛が功績をたたえ、その名を冠した文学賞を創設しました。賞に比べ作品や人物像を知る人が少なく、もっと知ってもらいたいと地元有志が2005年(平成17年)に記念館を設立。ゆかりの品や自筆原稿などを展示しており、原稿を寝ながら書いたという事実に基づき、畳敷きスペースがあります。(大阪メトロ長堀鶴見緑地線「谷町6丁目」から徒歩2分) 【関西の名所を訪ねて】聖教新聞2025.8.28
May 17, 2026
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個性に向き合う励ましこそZ世代の〝褒め方〟に思う現在、プロ野球パ・リーグで首位争いを広げる北海道日本ハムファイターズ。昨年はリーグ2位となり、6年ぶりにクライマックスシリーズに出場した。近年、低迷していたチームの好調の鍵の一つは、指揮官・新庄剛志監督と選手の信頼関係であろう。新庄監督の就任当時、レギュラーに定着している選手は少なく、大半が経験の浅いZ世代の選手だった。まず監督が意識したことは、選手一人一人の個性に合わせた育成だ。例えば、インスタグラムを駆使し、けがに苦しむ選手には励ましの言葉を、2軍の選手には1群昇格への目標数字をDM(ダイレクトメッセージ)で送る。ここの性格や状況に合わせ、具体的な改善点やエールの言葉を伝える。その積み重ねの中で、選手たちは〝監督が見てくれている〟と、張り合いをもてるようになった。このZ世代への接し方は、私たちの日常でも参考になる。生まれた時からインターネットが身近にあるZ世代は、SNSなどで他者から承認されることに慣れている人が多い。「すごいね」「ガンバTELね」のような言葉はもちろん大切だが、「あなたの説明は上手でわかりやすい」「いつも斬新なアイデアで感心する」と、その人の個性や強みを具体的に褒めた方が伝わりやすい。さらに、一口に「Z世代」と言っても、大勢の前で褒められたい人、一対一の場で褒められたい人など、百人百様の特性がある。それを「今の若者は△△がない」「○○世代は××だ」などと、安易に先入観で評価してしまう人が時折見られる。一人一人をよく見ていないからこそ、こうした発言が無意識に出てしまうのだろう。相手に合わせた接し方——それにはまず〝この世代は……〟といった先入観をして、真摯に「一人」と向き合うことだ。さらに、相手の人柄や個性をよく知ることが大切である。(略)目の前の一人を思う真剣さ。それは相手にかける言葉や姿勢に現れる。「この人は私のことを思ってくれている」「理解してくれている」——この心の交流から信頼が生まれ、前進の力となる。 【社説】聖教新聞2025.8.28
May 16, 2026
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世界に広がる日本の定食今 柊二(定食評論家)アジア諸国に色濃く残る現地に合わせて微妙に変化韓国で定着したたくあん定食好きが高じて定食評論家となった私だが、最近しばしば海外に行く。ここでは、訪問したアジア諸国から、韓国と台湾の定食関連の事情、そして日本の定食が与えた影響を紹介したいと思う。日本の定食は、明治の開国以降、世界へ広がった。日清戦争を経て、日本はアジアで植民地支配を進めたが、それに伴い日本の食文化と定食も伝わり、根付いていった。1910年の韓国併合と前後した.日本人の往来が盛んになり、日本料理の店が多数でき、韓国内(当時は朝鮮半島内)に日本料理が浸透した。45年にアジア太平洋戦争での日本の敗戦により、植民地支配は終了したが、日本との交流は色濃く継続したこともあり、日本料理は定着し続けた。そして65年の国交正常化以降は日本ではやった食べ物が韓国内でも受け入れられる流れが加速した。ちなみに文化は相互交流。韓国の食べ物も日本に多く流入している。では日本の影響を受けた定食関連の食べ物を三つ紹介しよう。韓国の食堂では「キムチ食べ放題」が多い。食べ放題でなくても、大体キムチは副菜として付く。そしてキムチほどではないが、普及しているのが「たくあん」だ。2007年にソウルを訪問し、子どもたちとロッテワールドに行った際、洋食プレートにもたくあんが付いていた。今年5月にソウルを訪問し、梨泰院の食堂でキムパブ(のり巻き)とおでんなどを食べたが、たくあんが付いていた。他の場所でも頻繁にたくあんが登場し、韓国での定着がよく分かった。キムパブはカルグクス(うどん)や前述のおでんとともに食されることが多く、定食の一種型と私は考える。つまりご飯、おかず(キムパブの具)、おでんやカルグクスのおつゆ汁ということだ。キムパブは植民地時代に日本からデンバしたが(別説もある)、現地で改良された。まず、酢飯ではなく白飯で、ごま油を使用する。具も卵焼きは日本と共通だが、前述のたくあんやニンジンなどの野菜、ハム、そしてカニカマが入る。日本発祥のカニカマはアジアに限らず、世界各地に食材として広がった。韓国のスーパーでは、のり巻き用の細長いカニカマも販売されている。また欧米ではすしの貴重な弘材として活躍している。日本でインスタント麺は自宅用のイメージだが、アジアでは外食産業でも活躍。日本でも人気のブデ(部隊)チゲという鍋料理がある。名前のごとく軍隊近くで食べられた鍋で、キムチ、野菜、ランチョンミート(この食材は戦後アメリカ軍が駐留した国々に普及させ、日本では沖縄で定着)、そしてインスタント麺も入れる。近年は日本でもカララーメンをはじめ韓国ラーメンは人気だが、インスタント麺を自分で調理して食べる店がソウルでは流行っていた。弘材は大体用意され、いれ放題。大体ご飯も追加でき、定食的に食べることができる。 台湾で目立つ弁当文化台湾の台北は、昨秋と今春の2度訪問した。いつも色濃い日本の食文化の影響を感じる。韓国より長い間の日本の統治があり(1895~1945年)、韓国同様、戦前、戦後にわたり濃厚に日本の影響を受け続けているためだ。その一つが駅弁文化。駅弁は定職の一形態と私は考える。弁当に汁はないが、代わりにお茶や水で食べるからだ(やや苦しいかも)。昨秋に訪台した際は、台北の駅弁は、日本の駅弁文化を継承している。いくつか異なる点もある。まず挙げられるのは「温かさ」。台北駅で見ていると、乗客は新幹線などに乗り込む直前に弁当を買う。弁当は作りたてで温かい。実は台湾では冷たいご飯は敬遠される傾向が強く、駅弁も温かいことが求められる。そしてもう一つが量。日本の駅弁より小さめ。台湾の駅弁は、日本の駅弁より軽食としての意味合いが強いのだ(小さいので安価傾向)。韓国、台湾とともに日本の定食や食の影響を受けてはいるが、現地で変化しているところに面白みがある。こん・とうじ 1967年、愛媛県生まれ。定食評論家。著書に『定食バンザイ!』『かながわ定食紀行』『ファミリーレストラン』『昭和平成令和定食紀行』など。最近は雑誌などへの寄稿も多い。 【文化culture】聖教新聞2025.8.28
May 15, 2026
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分断深まる国際社会東京大学大学院 遠藤 乾教授排外的な勢力に屈せず欧州などと連携強化を ——現下の交際情勢をどう見るか遠藤乾・東京大学大学院教授 ロシアのウクライナ侵攻やガザでの紛争に象徴されるように「法の支配」や「自由で開かれた国際秩序」がなし崩しになる中、先進民主国においては国内で反自由主義的な勢力の脅威に晒されるという二つの挑戦を同時に受けている。国内の政治状況は外交政策に連動し、影響を与える。ポピュリズムの波にのまれた英国のEU離脱(ブレグジット)や、米国のトランプ大統領による中東政策などは典型だ。 ——ポピュリズム勢力が台頭する背景は。遠藤 経済と文化の二つの要因があり、経済面では、実質賃金の伸び悩みや雇用の不安定化が進み、親世代のように家の購入や結婚ができなくなっていること。文化面では、身の回りに外国人が増えて「このままでは自分たちの国ではなくなる」という不安があり、人々は焦燥感や、いら立ちを募らせている。こうした人々が政治エリートや既得権益、既存政党に対する反乱を引き起こし、「上下」の対立を生み出す。西洋諸国では、下の部分が「左右」に分かれ、極右、極左の両方が勢力を伸ばしてきた。こうした「上下」「左右」の力学の中で政党が断片化し、穏健な政党が沈んでいる。安定した政治勢力もつくられにくくなっている。 下層中産階級に配慮が必要 ——こうした傾向に歯止めをかけるには。遠藤 グローバル化や能力主義が広がり、自分の力で自由に国境を越えて稼ぐことできる人はいいが、例えば、郊外など「そこにとどめ置かれる人たち」がいる。そうした、定食はあって納税はしているが実質賃金が上がらない「ロウアーミドル層は、税金を収めない貧困層や外国人への支援に自分たちが納めた税金が使われることに不満を持つ。ロウアーミドルを加えた三つ巴で政策を講じることが必要だ。 ——分断が進む国際社会の中で日本が取るべき針路は。遠藤 魔法のような解決策はない。同盟国の米国が不安定な状況にあるからと言って、米国との関係を認めるべきではない。自国のダメージを最小化しながら、日米同盟のクレディピリティ(信頼性)を守りつつ、オーストラリアや欧州、韓国などの連携を強化し、経済、安全保障の面でリスク分散を図っていくことが求められる。中国とも戦争が起こらないように外交力を続けていくべきだ。進路に迷ったときには原則に立ち戻ることだ。日本の領土・領海・領空を守り、自由と民主主義の価値を維持し、国民の安寧が保たれるように経済を運営して繁栄を築く。原則に根差し、排外的な反自由主義勢力に屈せず、自分たちの庭を荒れ放題にしないことが大事だ。 【岐路に立つ日本 針路を問う】公明新聞2025.8.28
May 14, 2026
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「人の気持ちは変えられる」という錯覚人の気持ちを変えるというのは、大変なことです。これは私たちのようなプロの精神科医でさえ、本当に苦労するわけです。昔にヒットした「101回目のプロポーズ」のように、どうしても好きになってほしい相手に、アタックにアタックを重ねているうちに、相手がポロッとこちらを振り向いてくれて、好きになってくれるということはあるかもしれません。しかし、これが成功することがあるのは、こちらが頑張ったからではなく、相手がその時に、失恋したとか、たまたま相手の事情が変わったことのほうが多いものです。 説得で人の気持ちは変えられないもちろん、人間の気持ちに原則はあります。金子みすゞの詩「こだまでしょうか」のように、「好きになれば、好きになられる」「嫌えば嫌われる」ということは確かにあります。よっぽどストーカーのようなことをしない限りは、好かれて嫌がる人は少ないでしょう。という点では、こちらが好きになれば、相手が好きになってくれるかもしれないし、こちらが嫌えば相手が嫌う、ということはあります。しかし、説得で相手の気持ちを変えられるというのは、非常に難しいことです。 思うようにならない相手と口げんかや議論をして、相手を言い負かしてしまうようなことがあります。しかし、議論に負けたから納得する人など、ほとんどいません。逆に、ムカついて、よけい嫌いになるといったことのほうが多いわけです。反対に、相手にものすごく気を使って、すべて相手の思い通りに行動して、嫌われないように努力したら、それで相手がよく思ってくれるかというと、それも難しいでしょう。嫌われないように、一生懸命こびへつらったのに、かえって「あいつはいうなりになるやつだ」と増長させてしまったり、さらにサディスティックにさせてしまう可能性だってあります。相手の反応というのは分からないものです。「ものすごく気を使ったから、嫌われないはずだ」というのも、謙虚なように見えて、実は思い上がりでもあるのです。 相手は変えられない、それを認めれば突破口が見つかる相手の性格や考え方は、簡単には変えられません。しかし、それを認めて「心は変えられない」といった前提に立てば、やり方がないわけではありません。 例えば、自分が上司になって、部下のモチベーションアップをしなければならない、というのはとても難しいことです。特に、やる気のない部下をやる気にさせるということは、相当に困難なことでしょう。ただしここで「人間の心は変わらない」「その人の動機体系(何がモチベーションになるか)も変えられない」という原則に立てば、やりようがないわけではないのです。人によって「やる気になる理由」は違います。要するに、お金が理由になる人は、お金で働く。仕事が面白いからやる、と言う人は面白い仕事だと思えば一生懸命になる。人からの評価っや人間関係が動機になる人もいる。人間は一人一人、別な動機体系をもっていて、それは変わらないと考えるのです。 例えば50人の部下がいたとして、そこで会社が成果主義を導入したとします。すると現実には、そのうちの一部の人しか「一生懸命になろう」とは思えません。成果主義でやる気になる人が10人なら、残りの40人は「なんだ、金で動くと思っているのか」としらけてしまいます。ここで有能な上司になろうとするなら「10人が成果主義のままで行こう」「残りの40人に対しては、一人一人に声をかけてみよう」といった発想で当たることができます。「おまえに期待しているんだよな」とか「結果だけで見て評価しるような会社のやり方もひどいよな」と声をかけたら、ついてくる部下が8人増えた、といったことになるでしょう。動機体系は人それぞれで変わらないと認められれば、このように対処の使用が出てくるのです。「性格は変えられない」「変えられないなら、それに合わせて対処する」と考えたら、割とリーダーショップというのはうまくいくものです。しかし、「相手の気持ちは変えられる」という前提で考えてしまうと、成果主義で動かない人に「成果主義はいいぞ」と一生懸命説得するようなことをしてしまいます。「変えられることと変えられないことを見分ける」という発想を持たないと、それこそ成果につながらないような動きをしてしまう可能性があるのです。 【悩みの作法】和田秀樹/ディスカヴァー携書
May 13, 2026
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家事の負担を軽減しよう㊦介護者メンタルケア協会 代表 橋中 今日子さん十分頑張っているから、サービスを使って 罪悪感との戦い介護の中でも大きな負担となりやすい「排せつケア」ですが、その内容は、排せつ物の処理やおむつ交換だけではありません。着替えの選択・準備・匂い対策、脱着しやすい服の工夫など、さまざまな苦労があります。また、要介護者が施設や病院にいても、衣類やおむつを家族が用意し、森帰らなければならないケースもあります。私の知るあるご家族は、毎週、施設へ届け物や持ち帰りをしていました。しかし、仕事が忙しくなり、それすらも困難になって悩んでいました。その方に、私が提案したのが、「忙しい時だけ宅配を利用する」方法でした。着替えを送り、使用済みのものは箱を用意して着払いで返送してもらう形です。頭書は、「せめて、これくらいは自分でやらなきゃ」「こんなことでお金を使っていいのかしら」と、申し訳なさや罪悪感を口されました。そこで私は「忙しい時だけでいいんですよ。余裕ができたら、また会いにいけばいい」と伝えました。もちろん郵送の費用や受け取りの調整、施設へのお願いなどは必要です。けれど、月4回言っていたのを1回だけ宅配にするだけで、その週末は休むことができます。現在も忙しい時にはこの方法を続けており、「やってみたら本当に楽になった」と話されています。 家族は〝ラスボス〟きょうだいや親族を頼ることもあると思いますが、お願いすること自体、とてもエネルギーを使います。私も、ショートステイへの送り出しをきょうだいにお願いした際、荷物の準備を設寧していなかったために、「なぜ準備ができていないの」と怒られてしまったことがあります。お願いするときには、細かく手順を分けて説明する必要があるのだと、反省した出来事です。私の場合は、その後も協力をお願いできたので良かったのですが、勇気を出してお願いしたのに、もし、むげに断られたら2度目はお願いする気持ちになれないと思います。ですから、私は家族へのお願いを最終手段、いわば〝ラスボス〟だと考えています。期待過ぎず、手伝ってくれたらラッキーくらいの気持ちでいることが大事です。最初はプロにお願いして、心に余裕ができた時に、家族に小出しに頼んでいくのがよいと思います。 小さな一歩を体験新しいサービスを紹介する時、必死に説得すればするほど、相手は身構えてしまうものです。もし断られても、まずは「いやなんだね」と受け止め、何が嫌だと思ったのかを一緒に確認するにとどめましょう。大事なのは、次の機会にまた話してみようと思えるような、明るいやりとりです。説明は最小限にして、「試しに1回」やってもらうのが効果的です。例えば、食事の宅配なら「今度の水曜日、お弁当が届くから受け取ってね」とシンプルに伝えるだけで十分です。私の知り合いの母親も老々介護をしていましたが、最初はサービスの導入を拒否していました。しかし、水回りの掃除を週1回だけ外注することから始めたところ、母親の負担が軽くなり、精神的にも安定。夫にきつく当たることも減ったそうです。その後は、冷凍弁当や総菜も利用するようになり、結果的に介護全体の負担がずいぶん軽くなったといいます。小さな一歩を体験して慣れることが、次のサービス導入にもつながります。 自分を休ませる介護が行き詰り、生活そのものが崩れてしまうケースもあります。介護に関する痛ましいニュースも報じられています。私もその苦しさを実感している一人です。1回の食事介助だけでも1,2時間かかる日々で、頭が真っ白になって食事を食べさせられなくなる。疲れ果てて「もう嫌だ、見たくない」と思ってしまう。相談する気力もなくなり、昨年までできていたことが突然できなくなってしまうのです。こうした状況では、家事なんて手につきません。家はぐちゃぐちゃです。家族以外の人が、家の中に入る機会も大切です。人の目があることで、「もう無理です」といえるようになる。そうやって気持ちを言葉にできるだけでも救われます。多くの介護者は「家事は自分がやらなければ」と思ってしまいます。しかし、介護を続けている皆さんは、もう十分頑張っています。家事を外に託すことは手抜きでも、ぜいたくでもありません。まずは自分を休ませる時間を取り戻してください。そのためにサービスを使ってほしいと思います。 【介護】聖教新聞2025.8.27
May 12, 2026
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自らのルーツを探る旅北方四島・元島民の肖像を撮る山田 淳子さん 戦後80年 100人の祖父母の姿が語る忘れるべきではない故郷への思い 今の私につなぐ島の暮らし■北方四島の一つ、色丹島で墓標の脇に立つ得能宏さんを撮影したのが1019年6月です。それが元島民のみなさんを撮影する一つのきっかけでしたが、どれだけの方を撮影するのか、その時はっきりと私の中にはありませんでした。けれども、皆さんにお会いするなか、戦後80年、〝昭和100年〟という節目に100人の方からお話しお聞き、写真を残すことが、私にとっても、皆さんにとっても大切なことではないかと思うようになっていました。戦後、島からひきあげてこられた皆さんも年齢を重ね、島の記憶を語ることが難しくなっています。お話を聞ける時間はもう限られていると思いもありました。得能さんの撮影から6年が過ぎましたが、100人の私の「祖父母」の撮影を終えたことに、今はほっとしたというか、私の中にあった責任を果たせたという思いがしています。◇「おじいちゃんは北方領土にいた」——それは私が小学生の頃、父から聞いた言葉でした。〝なぜ祖父は北方領土にいたのだろう〟という疑問は、それからもずっと頭の隅にあったのですが、その後、私の曾祖母が北方領土の島に渡り、コンブ漁で生計を立て、5人の子どもを育て上げたことを知りました。その祖祖母の末の子が私の祖父でした。命をつなげることは決して当たり前にできることではないでしょう。曾祖母の志発島での暮らしがあったからこそ、今の私まで命がつながったことを知りました。2017年には、釧路に住む父の従兄弟の山田光夫さんに会いに行きました。志発島で生まれた光夫さんは、曾祖母や祖父の島での暮らしについて話し、「自分は島に行きたいとは思わない。今の若い人たちの目で見てほしい」と語りました。その言葉は私のルーツを探す旅を後押ししてくれる言葉になっています。 特別な出会いを詰め込む■一瞬の出会いかもしれませんが、皆さんとの出会いを通し、100人の祖父母の島での暮らしや思い出に触れることができました。昨年10月、お会いした平間節さん(当時90歳)は志発島で子ども時代を過ごし、富山の人が持ってくる水飴や笹飴が楽しみだったことを話してくれました。その話を聞き、私の祖父が戦後、富山から釧路に向かう際にも飴を買って持って行ったという父の話を思い出しました。それは黒部で製造されていた飴で、今は作られていない飴ですが、平間さんのお話に触れ、記憶の中の祖父に出会ったような思いになりました。「また来ますね」とお別れした平間さんも今年6月に亡くなられたことを聞きました。ご高齢のみなさんには、この一年、一年が特別な一年ではないでしょうか。今でなければ、叶えることのできない特別な出会いが一枚一枚の写真には詰め込まれています。◇自信のルーツに辿り着けたのか。正直なところ、まだ分かりませんが、皆さんのお話と写真を残すことで多くの人に島のことを知ってもらう材料は提供できたのではないかと思います。色丹島で撮影した得能さん以外の写真はモノクロでプリントしていますが、いつか皆さんと一緒に帰島し、島を背景にカラーでプリントしたいと思っています。9月に発刊する写真集に解説を寄せてくれた小泉悠さんは、「彼らと経験したこと、喪ったもの、抱え続けてきた思い出までもが記憶の彼方に忘れていくべきではない」という一文を綴っています。薄れる記憶、離れる心には抗えない。でも島民が抱え続けてきた故郷への思いまでもが忘れ去られるべきではないのです。やまだ・じゅんこ 富山県生まれ。歯舞群島志発島元島民3世。2015年から写真家として活動。19年から元島民のポートレートを撮影。9月に写真集『わたしの百人の祖父母たち』を発刊する。 【社会・文化】聖教新聞2025.8.26
May 11, 2026
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生命の理解か、究極の優生思想実現化科学文明論研究者 橳島 次郎ゲノムを書く計画今年6月、英国有数の研究助成組織が、ヒトゲノムを人工的に合成する選旧計画を始めると発表した。オックスフォード大などの大学間の共同研究に、5年間で1000万㍀の予算をつけるという。大規模なゲノム合成を可能にする先端技術を駆使して、ゲノムのサリたちと人体の働きの関係を解明し、医学に応用できる成果を出そうというのだ。生物のゲノムを人の手で作る研究は、合成生物学の一分野として手がけられ、2008年に米国の研究チームが、世界で初めて最近の人工ゲノムの合成に成功したと発表している。さらに16年には、菌類に加え、動植物のゲノムの合成を目指す「ゲノムを書く計画」が始められた。米国の非営利研究機関がハブとなり、17カ国から300人の研究者が参加した。さまざまにデザインのしたゲノムをミニ臓器や細胞の中で働かせ、生物現象の理解を深めようというプロジェクトだった。このとき、25人の研究者が共同で科学誌に「ヒトゲノムを書く計画を提案する」と宣言した論説を出し、話題になった。今回発表された英国の計画は、こうした先行研究を受け継ぐものだ。さらにその前提となったのは、人間のDNA配列をすべて明らかにする国際共同研究・ヒトゲノム計画だ。同計画は03年の配列を解読した完成版を公開して一段落した。それを受けて、今度はゲノムを「読む」研究から「書く」研究に進もうというのである。1990年にヒトゲノム計画が始まる際には、DNAが全てを決めていると受け取られると人の尊厳が損なわれるとか、明らかにされた遺伝子情報に基づく差別を招くといった懸念が出され、倫理的問題への対応が研究計画に組み込まれた。今回の英国の計画でも、倫理的・社会的問題を検討するチームを設けるという。ヒトゲノムを人工合成する研究では、誰かの遺伝子を調べ操作するわけではないので、故人にリスクや被害が及ぶことは想定しにくい。ただ合成した人口下の句を生きた細胞に移植し働かせる技術も進んでいるので、将来は特定の意図をもってデザインしたゲノムを備えたヒトの細胞や組織をつくれるようになるかもしれない。先の研究者らの論説では、感染や眼科への抵抗性を高める劣化要因の排除した「極超安全ウルトラセーフ」細胞」をつくる案が出された。ヒトゲノムを各研究は、より優れた人間を人の手でつくる究極の優生思想の実現につながるだろうか。今後の行く末を見守りたい。 【先端技術は何をもたらすか—50—】聖教新聞2025.8.26
May 10, 2026
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曇りなき眼で開く 人間主義の連帯——池田大作先生の「如実知見」原田会長の講演(趣旨)マレーシア国際イスラム大学思想・文明研究所での宗教間交流行事一、8月24日は、創価学会の第3代会長であり、私たちの師である池田大作先生が1947年、19歳で信仰の道、師弟の道を歩み始めた記念すべき日でもあり、深い感慨を覚えずにいられません。本日は死・池田先生から学んだ人間主義の哲学の一端をお話しさせていただきます。一、法華経では、釈尊が今世で初めて仏になったのではなく、無限の過去から無限の未来まで常に存在する「永遠の仏」であることが明かされました。のみならず、一切衆生——あらゆる人、この世に生きとし生けるものすべてに仏の生命があることが説かれています。その法華経28章(品)の中でも最重要と位置付けられる寿量品第16には「如来如実知見三界之相」という経文があります。「如来」すなわち仏は、「三界」——迷いと苦悩に満ちた現実世界を、曇りなき眼で、ありのままに知見していると説かれています。この経文について、私どもが信奉する日蓮大聖人は、ここでいう如来とは、釈尊だけでなく衆生のことである。また如来が知見している三界とは「生老病死」という現実の苦悩ある社会である。その生死の苦しみや恐怖から逃れようとすることを「迷い」といい、永遠の生命に備わる働きとしての生死を知見することを「悟り」というのである、と仰せになりました。この現実世界に在っては、誰人の生老病死から逃れることはできません。しかしそれも、過去・現在・未来を貫く法華経の三世の生命感からすれば、本年的に生命に備わった働きがあり、「士」はすなわち「終わり」を示すものではない。夜に睡眠をとって翌日の活力とするように、詩は次の生への充電期間のようなものである。ゆえに、「永遠の過去」から「永遠の未来」の連続性の中で、「今」から目を背けることなく、責任を持った生き方を選び取っていく——これが私どもの人生観となっています。 青年こそ宝一、こうした日蓮大聖人による法華経の解釈は「御義口伝」と題する書に記されています。法華経を身読したがゆえに、経典通りの数々の難を受け、それでも民衆救済の信念を貫き通した法華経の神髄を、大聖人は晩年、弟子たちに壊れて抗議されました。この日蓮仏法の核心ともいうべき「御義口伝」を、池田先生は3代会長に就任して2年後という、多忙を極めた1962年から5年の歳月をかけ、講義してくださいました。相手は学生たちであり、実は、そのうちの一人が私でした。先生の講義は、大学で受けていた講義とは全く違いました。信仰者として経典を学ぶ姿勢、尊き求道心を峻厳に指導してくださいました。その上で、深遠ゆえに難解な仏法の哲理を、自分の命、自分の生活、自分の人生に照らして拝していけるよう、つねに、具体的に、明解に講義してくださいました。のみならず、貧乏学生が多かった受講者の生活や食事、交通費のことまで心配してくださいました。講義の内容だけでなく、また慈父慈母のごとき先生の振舞こそが、私を含めた受講者の思想、信仰、生き方の原点となりました。貴国のマハティール元首相と池田先生が2000年に会見した際、はじめに話題とし、完全に一致を見たのも「青年こそ宝」という一点でした。人類の未来を担う青年を、どこまでも愛し、守り、育む——この先生の行動はだしへ受けつがれ、年間テーマに「青年学会」を掲げる私どもの行動原理になじみます。これからも私どもは、貴国はもとより世界中で、未来の担う青年の育成に全力を挙げていく決心です。 世界の良識と共に人類の平和を築く 万人が尊厳の存在一、とともに、私どもは世界の平和と相互理解への貢献を、いっそう力強く果たしていきたい。そのための鍵も、「如実知見」であると確信しています。池田先生は1968年9月8日、平和と共存の未来を見据え、日本と中国の国交正常化を提言されました。当時は米中ソの対立が激化し、日本国内では中国寄りの発言をしただけで猛烈な批判を浴び、命の危険まであるような時代でした。しかし先生は友好の信念を堂々と語られました。提言を披露されたのはこの時も学生たちの前でした。4年後には、さまざまな困難を乗り越えて日中の国交が結ばれ、74年5月に池田先生は初めて中国を訪問されることになりました。私も派遣団の一員となり懸命に事前準備に当たりました。関係者から話を聞き、難解な本や資料を買い集めては山のように積み上げました。その準備室に、ある日突然。池田先生が来られました。「よくやっているな」と褒めていただけるかと思いきや、先生は語気鋭く「何をやっているかと思えば案の定だ。資料ばかり集めても、真実の中国が分かるわけではない。かえって先入観に左右され、真実の姿を把握できない。大事なことは、仏法者として『如実知見』していくことである。集めた資料は全部、机からどけなさい」——こう言われ、机の上の本はバサっと床に下ろされてしまいました。私は目の覚めるような思いでした。この初訪問から一貫して池田先生は「如実知見」で中国と向き合われました。万人が仏の生命を備えた尊厳無比の存在と説く仏法の実践者として、人と会い、語り、友情を結び、信頼を築く。何のてらいもなく市井の人々にも声をかけられました。一人の少女から「おじさんは、何をしに中国に来たのですか?」と問われた際、先生は「あなたに会いに来たのです」と即答された場面もありました。政治的な信条や立場を超えた、この人間主義の行動に、同年12月の2度目の訪中で、重篤な病の床にあった周恩来総理は、周囲の反対を押し切って会見するという信義で応えてくださいました。周総理の命がけの信義に池田先生も信義で応え、生涯、両国友好への貢献を続けました。振り返れば、バカ―ル学長が池田先生を知るきっかけとなったトインビー博士との対談や、貴大学出版社からマレーシア語版を刊行していただいたインドネシアのワヒド元大統領との対談等、先生の1600回以上となった世界の指導者・識者との語らいは一回一回が「如実知見」の実践でありました。実りある語らいのためには、前提となる知識や教養が不可欠であることは当然です。しかし、いくら情報を頭に詰め込んでも、相手をどこまでも尊敬し、深く知り合おうとする開かれた心がなければ真の友情は築けません。差異へのこだわりを乗り越え、同じ人間としての共通項、一致点を見いだす作業には、根幹となる哲学が不可欠です。仏法の哲学を根本として、人間を、社会を、世界を「如実知見」してきたからこそ、池田先生の語らいには、新たな価値創造があった——数々の生命と姓名の触発の対話に同席させていただいた一人として、こう確信しています。これほどグローバリズムの広がった世界にあって、イスラムと仏教の間には、いまだ深い相互理解が築かれているとは言えません。日本にあってもイスラムに対するステレオタイプに囚われた誤解や偏見が渦巻いているのが実情であるといわざるを得ません。だからこそ貴研究所が、両者の共通点を見いだし、平和と共存、人類共通の課題解決への貢献を果たされようとする尊き姿勢には、深い共感と尊敬を抱かずにはいられません。私どもも、一層の曇りなき眼でイスラムの叡智を「如実知見」し、人類の未来のために、貴研究所との連帯をさらに強固にいていきたいと心から念願しています。 共通の価値一、ベルグート前所長は6月の会談の折、イスラムの中核をなす四つの価値を教えてくださいました。第一に「慈悲」。「御義口伝」でも「自他ともに智慧と慈悲と有るを、『喜』と云うなり」(新1061・全761)と仰せの通り、仏法でも慈悲は根幹となる価値観です。第二は「名誉ある代理人」としての倫理観であり、その使命が神、自分自身、さまざまな世界観を持つ他者、そして宇宙との関係を築くことにあると教えてくださいました。一方、私どもは法華経に登場する末法の民衆救済のために出現した無数の菩薩である「地涌の菩薩」と自らを捉え、大聖人が「地涌の菩薩の出現にあらずんば唱えがたき題目なり」(新1791・全1360)と仰せになった、宇宙の根源の方である南無妙法蓮華経を朗々と唱えながら、「良き市民、良き国民」として模範の人生を生き、自他供の幸福を目指しています。第三は「平和」。〝一人を殺したものは全人類を殺したのと同じ〟とのコーランの倫理観は、「不殺生戒と申すは一切の諸戒の中の第一なり」(新1463・全1075)、「命と申すは物は一身第一の珍宝なり」(新1308・全986)と大聖人が仰せになられた仏法の生命尊厳の教えと深く共鳴しています。第四は「正義」。大聖人が天変地異や飢饉、疫病など、塗炭の苦しみを味わう民衆のために、時の最高権力者に送ったのが「立正安国論」——正法正義を立てて国を安穏ならしめる諌暁の書でした。正義によって立ち、正義によって民衆の幸福を実現することこそ私どもの永遠の信念です。語り合えば語り合うほど、学べば学ぶほど、イスラムの教えへの共感は、いっそう深まります。それは、次代を越えて多くの民衆に師事されてきた世界宗教が、本質的に「人間の幸福」「世界の平和」という共通の価値を志向するゆえではないかと推察します。中国初訪問の74年、池田先生はアメリカも訪れ、青年たちとの懇談で、こう言われました。「宗教があって人間が存在するのではなく、人間のために宗教があるのです。宗教が人間から完全に遊離してしまったところに現代文明の行き詰まりがある」と。そして、同行していた私たちに向かって、「今、話したことは非常に重要なことだよ。よく覚えておきなさい」と念を押すように言われました。貴国のことわざに「木は実をつけるために生き、人は社会に貢献するために生きる」との素晴らしい言葉があると伺いました。信仰も、人生も、対話も、友情も、根本の目的を見失わないところに真の充実があり、価値創造がある。地道であっても、目の前の一人への誠心誠意の行動の先に、人として為し得る社会への貢献、世界平和という果実があると信じます。池田先生の小説『人間革命』『新・人間革命』の根幹のテーマは「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換を成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」でした。今、人類は共に立ち向かわざるを得ない諸問題を抱えています。私どもは無限の可能性をもつ「一人の人間」として、世界の同志と共に、師である池田先生の理想を受け継ぎ、思想を体現し、行動を永遠に共にして、曇りなき眼で21世紀を如実知見して、この解決に挑んでいきたい。そして貴大学・研究所に代表される真の理性と知性を持つ世界中の良識と善の連帯を広げ、人類の平和と幸福の未来に貢献しゆく決意です。 聖教新聞2025.8.25
May 9, 2026
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命と命で向き合う大切さ『最初の一夜』という小説がある。筆者は18歳でハンセン病と宣告された北條民雄。作家の川端康成は『この小説を読むと、まず大概の小説が何となくヘナチョコに思われる』と評した▼物語は、自殺を試みた青年がハンセン病の重症病棟に入所した一夜を描く。鼻のつぶれた男性、口のゆがんだ女性……。目を背ける場所すらない中、一人の患者が周囲の人々を眺めながら青年に言う。〝ここにいる人たちは、いのちそのものなんです〟見た目で差別するのではなく、命と命で向き合う大切さを教えた。やがて小説は『いのちの初夜』と改題された▼本紙の取材中、ハンセン病を患った女性は記者に言った。「もう話すことはないで」。ノートを開かれるもカメラを向けられるのも嫌。「仕事ではなく普通に遊びに来て」と▼その後は〝元患者と記者〟の立場ではなく、〝命と命〟の恐竜を重ねた。7回目の訪問で女性は口を開いた。「13歳で入所してな。両親は帰ってしまった……」。その言葉を編んだ連載『いのちの翼を ハンセン病を生きる』には多くの反響がった▼きょうは「聖教新聞原点の日」。これからも一人一人と人間として向き合い、声なき声に耳を傾け、生きる希望を届けたい。(子) 【名字の言】聖教新聞2025.8.24
May 8, 2026
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国家の誕生時からあった膨張主義というような形でやっと国家体制ができるのは、明治二十年代の初めごろです。憲法が出ぉ。議会ができ、内閣ができたという形で、日本の国家は一方に軍事国家、片方に自由民権主義で天皇を中心とする官僚主義国家というもので走っていく。そして、よく見ると明治の初めの五箇条の御誓文に「智識ヲ世界ニモトメ大ニ皇基ヲ振起スベシ」という言葉があるように、どうやら日本の拡張主義というものが早くから見えてきます。その最初の起こりが征韓論ですけれども、征韓論にあれほど反対した岩倉具視や大久保利通が、西郷さんが野に下ると同時に台湾征伐をやるんです。それから、清国と大交渉をやるわけです。だから、膨張主義の大国意識というのは、どうやら日本にはスタート時点からあったと思います。日本人というのは、国家をつくり出して、また植民地になる危険性があるときから、すでに外に膨張していこうというものすごい意欲をもっていた。積極的なんです。不思議ですね。これが基本にあるから、その後の日本がだんだんおかしくなっていく。だから、司馬さんの『坂の上の雲』の時代は、国民が一致団結したよき時代そのあとから悪くなったということではなくて、最初から悪くなる要素は持っていたと思います。それに国民にこれほどすごい犠牲を強いた国もないと思います。国民もよく我慢しましたね。この点では、司馬さんが『坂の上の雲』で、こんなに小さな東洋の島国が世界の列強に伍して負けないような国家になったのが奇跡なら、重税に耐えて頑張ってきた国民の方はもっと軌跡であるといっていますね。そう思いますね。その後、日露戦争に勝って、まさに独立国というものを完成させるわけです。それが明治三十八年(一九〇五年)です。慶応元年が一八六五年ですから、ちょうど四十年間で国家をつくったというのがわたくしの四十年興亡観です。慶応元年からいきなり新しい近代国家の道を開いたわけではなくて、右往左往しながら、やっと国家と国民を一つにまとめて国家作りに成功した。これはいろんな理屈をいうことができるんですね。要するに、江戸時代からの日本の民衆のレベルがかなり高かったからだと思います。それは明らかに高い。読み書きソロバンを徹底的にやっていた。幕府というのはさんざん悪口をいわれますけれども、ものすごく優秀な人材をたくさん抱えていたと思います。それまで、旧来の弊習というか、むしろ封建制によって芽が出なかった人たちがたくさんいた。私塾などですごく勉強していた連中が多いから、それらが新しい国家作りのときにたいへん役立ったと思います。たとえば、海軍でいいますと、明治の日本海軍の大将は薩摩と長州。あとは宮さまだけです。ところが中将や少将になると、静岡県出身者がずらっとそろう。彼らはみんな旧幕臣で、造船とか機械とか造機とか通信お技術者なんです。技術者は対象になれなくて、中将にしかなれない。でも、日本の海軍は旧幕臣たちのものすごい勉強が基礎になっています。そういうことがあって、短い間にうまく国づくりができたと思います。やはり奇跡ですね。しかし、残念ながら、いそうで坂の上の雲を駆け上がったばっかりに、本当は経穴していかなければならない問題が鉄活だった。自由民権主義がいつのまにか押さえられてしまう形で、議会で話し合うということになりました。しかし、歴代内閣を見ればわかりますが、薩長で全部閉めていますから、そんなにうまきいきませんでした。でも、一応発言の機会を持てました。新聞などジャーナリズムにどんどん人が行くという形で自由民権運動はすぐにはつぶれなかったけれども、やがてつぶされていくことになります。大きな未解決な問題として、国家の軍隊をつくったとして、それをどう運営していくのかということがありました。軍隊の指揮権に対する同意がなかったんです。伊藤博文と山縣有朋は下級武士出身で、もともと侍なんて嫌いな人間です。侍を全部つぶしてしまって自分たちが天下を取ったときには同志的な総合状態にあった。その点で明治の初めごろはもめなかったんです。本当はこの時期に統帥権についてもきちっと解決しておかなければならなかったと思います。日露戦争後の明治末期から大正、昭和へと、そのツケが全部回ってきました。四十年史観からいうと、まさに日露戦争後の、国民がうぬぼれのぼせて膨張主義、大国主義で昭和に突入していって、軍が政治に介入し、世界中を相手にして戦って国を滅ぼしてしまう。その根本原因となったものに、統帥権があるわけです。幕末から明治にかけてこの時代に国家を滅ぼすための種は全部あったと思います。ですから、維新、維新などといって明るい面ばかり見ないで、あの時代をもう少し丁寧に考えないといけません。 【いま戦争と平和を語る 半藤一利 井上亮編】日経ビジネス人文庫
May 7, 2026
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40代からの認知症対策㊤米・マウントサイナイ医科大学アシスタントプロデューサー山田 悠史さんやまだ・ゆうじ 医学博士、米国老年医学・内科専門医、慶応義塾大学医学部卒業。勤務するマウントサイナイ医科大学の老年医学専門部門は全米の病院ランキングで5年連続1位。細心の老年医学を発信する第一人者として、WEBマガジン「ミモレ」、ニュースメディア「NewsPicks」などで医療・健康情報を紹介する。著書多数。 お金をかけずに生活習慣を見直す国内の認知症患者の約6割を占めるのがアルツハイマー型認知症です。この原因は、完全に証拠がそろっていませんが、「ATN仮説」が最も支持されています。タンパク質「アミロイドβ」(A)が加齢や生活習慣などの影響で脳内に沈着します。これをきっかけにとして脳の神経細胞に栄養などを運搬するタンパク質「タウ」(T)が異常リン酸化します。その結果、神経細胞に栄養が行き渡らくなり、神経変性(N)を起こして記憶力や判断能力などの認知機能が低下してしまうものです。アルツハイマー型の次に多いのが「血管性認知症」です。動脈硬化により脳の血管が詰まると脳梗塞になり、その後に認知症を発症します。この二つの認知症が認知症の7~8割を占めています。さらに「レピー小体型認知症」と「前頭側頭型認知症」、最近知られるようになった「LATE」があります。LATEは、アルツハイマー型と症状が似ているものの、アミロノイドβとことなるタンパク質の蓄積が原因と考えられています。民知症患者のほとんどはこの五つに分類できますが、一人に複数の要因(アミロノイドβもあり、脳梗塞もあるなど)が混在している実態も分かっています。そして最新の研究によると、認知症の約45%までは予防できるといわれ、今後、予防可能な数値(%)はさらに上がると考えています。発症リスクを高める原因の多くが、普段の生活習慣にあることが明らかになっているからです。特に40代以降からの生活習慣が影響を与えており、この年代からライフスタイルを見直すことで、認知症予備軍の方であっても、その約半数は自力で認知症の発症を防げる可能性があります。具体的には「過度の飲酒」や「高血圧」「肥満」「運動不足」「聴力や視力の低下」や「社会的孤立」「部屋の換気不足」などがリスクを高めることが分かっており、これらの期間分子を取り除く生活習慣の改善を心がけることが大切です。一方、現在は認知症予防に有用として広まっているものに十分な科学的エビデンスがそろっていない者が少なくありません。認知症患者が増え続ける中で、その予防の分野は大きなビジネスチャンスでもあるからでしょう。〝誤った情報〟に、みなさんの貴重な時間とお金を費やさないでほしいというのが私の率直な思いです。私が勧める生活習慣の見直しは、お金がかかるものではなく、むしろお金が貯まるものも少なくありません。今回は「室内乾期」「聴力と資力の維持」「交友関係の大切さ」について紹介します。(次回は食生活と運動習慣など)。 定期的に室内の乾期を室内の寒気は脳を守るためにも大切です。家の中は室外よりも有毒なガスが充満しやすい場所と考えてください。ガスコンロなどで調理した際PM2.5(微笑粒子状物質)などの有毒ガスが発生しています。換気扇を回さなかった場合、大気汚染で安全と考えられるレベルの100倍を超えるような濃度まで上がるというデータもあります。PM2.5は非常に小さいため、肺から血管まで簡単に入り込むことができます。鼻から直接、脳に入り込むこともできます。脳内の細胞が侵入したPM2.5に反応し、炎症を起こすことで認知症のリスクを高めるのです。有害物質による汚染は一般的に外気より室内の方がひどく、多くの物質が外気に比べて2~5倍に上ると考えられています。だからこそ、窓を開けて定期的に換気することが重要です。自宅の周辺が交通量の多い環境であれば、交通量の少ない時間を狙って換気するといいでしょう。換気と同等の効果は得られませんが、空気清浄器の使用も有効な可能性があります。また、調理時には換気扇を回すことも心がけましょう。 聴力と視力を保つ音や声は、聴力を失わない限り、自然と聞こえてくるもので、耳の健康に普段から気にかけている人は少ないかもしれません。しかし、難聴は認知症リスクを高める主要なものでもあります。例えば1㍍付近で聴くピアノの音はおよそ80デシベルで、これ以上の音を長時間聴き続けると聴力低下につながります。90デシベルであれば1日約2時間、100デシベルでは1日約15分までが許容範囲といわれています。耳への負担を軽減させるためには耳栓やノイズキャンセリングがついたイヤホンを使用するなどの工夫が大切です。なぜ難聴が認知症のリスクとなるのでしょうか。家族や友人とのコミュニケーション、職場での会話など耳から得る情報量は多く、そこが塞がれてしまえば、脳で処理される情報量は急激に落ちてしまいます。脳は筋肉と同じで、使わないと衰えることが影響していると考えられているのです。同じく多くの情報を得ている視力の低下も認知症のリスク要因です。白内障の方が手術すると、認知症リスクが低減することが分かっています。 交友関係を大切に家族や友人とのコミュニケーションや社会的活動など、孤立しない環境自体が、脳の健康を保つことにつながります。一人で過ごす時間が長くなり、脳にインプットされる情報量が減るほど、脳が萎縮し、認知症リスクを高めます。普段の人間関係は、通勤時の徒歩運動と同じようなものです。足腰が筋力を維持荘と思っているわけではなくても筋力は維持されています。普段の何げない家族とのコミュニケーションなども脳を鍛えることを目的にしていませんが、脳の健康を保つことに直結しています。脳を刺激するためにも、何歳からでも新たなことに挑戦したり、新たな友人をつくったり、近所付き合いや地域活動を大切にしたりすることは認知症予防につながっていきます。普段の生活習慣を見直すことこそ、未来のあなたの脳を守る大切な一歩になるはずです。 【健康PLUS+】聖教新聞2025.8.23
May 6, 2026
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年長者の知識 経験の継承日本野鳥の会 自然保護室長 田尻 浩伸お盆に帰省した折、庭のミョウガを調理した。母の指導を受けて何とか食べ慣れた卵とじが完成し、いわゆる「おふくろの味」を受け継いだのだが、野生動物でも年長個体の知識や経験の継承が生物学的に重要であることが分かってきた。たとえば、ヨーロッパからアフリカ大陸北部まで数千キロを渡るオニアジサシ。若鳥が生まれた年の秋に行う最初の渡りでは、親鳥についていった個体は渡りに成功した。しかも、若鳥を連れた親は単独で渡っているものより飛行速度を1割ほど遅くし、さらに一度にわたる距離を短くして中継地での休息を増やしていた。まるで初めて命がけの旅をしているわが子を気遣っているかのようだ。一方、途中で親とはぐれたものは捕食されてしまったという。また、独立した若鳥が2回目の渡りをする際。前年に親鳥と滞在した中継地を高い割合で利用していた。こうすることで渡りの成功率を高めているのだろう。彼らにとって、世代を超えて渡りに関する知識やっ情報を継承していくことは生存上不可欠なのだ。魚類や哺乳類、爬虫類などでは、体が大きく経験豊かな長年の個体は人にとって価値ある場合が多く、意図的に狙われるため減少していることが知られている。その結果、年長の個体が少ない状況が普通になっており、彼らの生態系における重要性をこれまで十分に理解することができなかったと考えられている。戦後80年の節目を迎えた今年、戦争の記憶が薄れゆくことへの危機感とその解決のためになされている努力の数々を耳にした。戦時を生き抜いた方々の知識や経験、平和への願いを正しく理解し次世代に伝え、これからの世界を築く道標としていくことは、我々の生存にとって不可欠だ。 【すなどけい】公明新聞2025.8.22
May 5, 2026
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近世日本の最大規模の私塾『咸宜園』大分県日田市咸宜園教育研究センター廣瀬淡窓が考案豊後日田(大分県日田市)は、北部九州の中心に位置し、古くから交通の要衝であった。江戸時代には、九州の幕府領を治める代官所が置かれ、各地から人々が往来し、幕府の公金の取扱いを認められた掛屋と呼ばれる豪商を中心に発展した。咸宜園を創設した廣瀬淡窓(一七八二~一八五六)は、日田豆田町の豪商の廣瀬家の長男として生まれたが、幼い頃から体が弱く、家業は弟の久兵衛が次、自らは学問教授の道に進み、青年期に筑前福岡の亀井塾に学んだ。文化二年(一八〇五)、淡窓は、豆田町の長福寺の学寮を借りて教授をはじめ、その後、「成章舎」から「桂林園」へと名前や場所の変遷を経て、文化一四年(一八一七)に「咸宜園」を開いた。現在、咸宜園跡は国指定史跡となっている。「咸宜」とは、「ことごとくよろしい」という意味で、淡窓は個性を尊重する教育理念を塾名に込めた。塾では、入門時に身分・年齢・学歴の三つを奪う「三奪法」により、公平・台頭に接する平等主義の教育及び毎月学力評価を行い月の初めに公表する「月旦評」による客観的に評価に基づく実力主義の教育が行われ、塾生たちが切磋琢磨して学ぶことにつながった。この仕組みが教育熱の高まっていた江戸時代後期に全国的な評判となった。 平等主義の教育理念と画期的システムで評判 また、淡窓は、学ぶ姿勢・態度を先に身につけることを重要視、「教える」だけで、生活面を自由放任していれば、学問の質が向上しないことから、まず「治める」ことが必要だと考えた。塾の規模が大きくなると、厳しい塾則・規約を設け、塾生全員に塾の運営に関わる職務を分担させて(職任制)、社会性を身につけさせた。このほけ、漢詩人としても著名な淡窓は、塾において漢詩の詩作を奨励した。これは、漢詩を作ることは、単に知識だけでなく心の豊かさを育むと考え、門下生の漢詩の優秀なものを収録した詩集(『宜園百家詩』)を出版した。咸宜園は特定の思想に偏らず、漢学の素養を身につけるのに適した塾だった。門下生全体の約三分の一が僧侶で、漢文で書かれた仏典を理解するため、漢学の知識が必要とされた。後に内閣総理大臣となった肥後(熊本県)出身の清浦圭吾も浄土真宗寺院の出身である。当時、漢学は蘭学を学ぶためにも必要とされ、後に西洋兵学者として倒幕運動に活躍した長州(山口県)出身の大村益次郎も大坂の適塾で蘭学を治める前に、咸宜園で漢学を学んでいる。咸宜園で学んだ後、藩校の教授や私塾を開くなど子弟の教育に尽力した者も多く、日本全体の教育水準の向上に咸宜園の果たした役割は大きい。淡窓が考案した咸宜園の画期的な教育システムは、歴代十人の塾生により、塾は明治三十年まで存続し、全国六十カ国以上から五千人を超える門下生が学ぶ近世日本最大の私塾となった。 【文化】公明新聞2025.8.22
May 4, 2026
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多くの作品が映画や舞台にライター 関 真弓今東光資料館大阪府の八尾市立八尾図書館の3階に、八百をこよなく愛した作家・今東光の資料館があります。1898年(明治31年)、横浜で生まれた今東光は、船乗りだった父の影響で転居を重ねるうちに文学の道を志し、「新感覚派」と呼ばれるようになりました。1951年(昭和26年)から八尾市西山本町にある天台院の特命住職として赴任、第36回直木賞受賞作『お吟さま』や『闘鶏』『悪名』など河内・八尾野文化や歴史、人々の暮らしを題材にした作品を発表。それらの多くが映画化、舞台化されています。資料館では書籍や直筆原稿の他、谷崎潤一郎や司馬遼太郎、瀬戸内寂聴などの多くの文化人や経済人と交流した今東光の生涯とその素顔を知ることができます。(近鉄大阪線・近鉄八尾駅から徒歩7分) 【関西の名所を訪ねて】聖教新聞2025.8.21
May 3, 2026
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時代や社会の需要に応じて変化を受け入れる世界最高峰の経営大学院の一つ、ハーバード・ビジネス・スクールでは、世界の様々な国や企業事例について議論が行われる。在学する2年間で学ぶ事例は約500件にも及ぶそうだ▼授業で取り上げる対象は、学生たちの評価を重視して決められる。そのため、ずっと〝生き残る〟事例は少ないが、長く学ばれている企業の中には、創業500年の伝統を誇る和菓子屋「虎屋」などもある▼取り上げられる日本企業には、二つの共通点があるという。一つは、製品への愛着とこだわり。もう一つが、変化に機敏に対応する能力である(佐藤智恵著『なぜハーバードは虎屋に学ぶのか』中公新書クラレ)。つまり同じ製品を同じ方法で作り続けるから伝統が守られるわけではない、ということだ▼伝統とは、後を継ぐ人が、時代や社会の需要に応じて変化を受け入れ、新しい価値を加えていくことで伝統となるのだろう。絶えざる自己革新の挑戦があるところが勝ち栄える——その事実を歴史は厳然と証明している▼人も団体も、漫然とした歩み繰り返しているだけでは新たな前進はない。守るべきは守り抜き、変えるべきは大胆に変えていく。歴史から学び、未来のために、今できることから始めよう。(誼) 【名字の言】聖教新聞2025.8.21
May 2, 2026
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海の安全願う古代祭祀の中心地旅行ライター 小林 克己「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群沖ノ島は、九州本土から約60㌔㍍離れた玄界灘に浮かぶ、周囲4㌔㍍の小さな孤島です。古代から大陸への航路の目印として重要な役割を果たし、4世紀後半から約600年間にわたって、高炉の安全と外交の成功を願う国際的な祭祀が盛んに行われてきました。この神聖な島からは、新羅製の金銀の指輪や遣隋使や遣唐使が持ち帰ったとされる陶器の唐三彩、ペルシャからシルクロードを経て伝来したカットグラスのわん片など、出土した奉納品約3万点は国宝に指定されています。これらは当時の国際交流の様子を今に伝えていることから、沖ノ島は『海の正倉院』ともいわれています。中世になると、同島は海の守護神とされる宗像三女神への信仰の中心地となりました。宗像三女神のうち沖津宮(沖ノ島)と中津宮(大島)の神霊を本土の辺津宮に迎え入れ、年に一度三女神が一堂に会する「みあれ祭」は、数百隻の漁船が航海安全や大漁祈願を込めて参加する神事として、現在も続いています。沖ノ島は神秘性を保ち続ける島として、1600年以上にわたり、「女人禁制」「男性も一般人は立ち入り禁止」「島で見たこと、聞いたことは一切口外しない」といった厳しい禁忌が守られてきました。神職も上陸前には海で身を清める、みそぎが義務付けられています。一般の人は沖ノ島に参拝する場合、本土から約10㌔㍍離れた大島の「宗像大社興津宮遥拝所」から拝みます。天気の良い日は沖合に沖ノ島を一望できます。本土の福岡県宗像市にある宗像大社辺津宮の神宝館には、沖ノ島から出土した三角縁神獣鏡や勾玉などの国宝約8万点が収蔵されており、古代祭祀の様子を間近で感じられます。また、祭祀をつかさどった古代豪族の宗像氏の墳墓群「新原・奴山古墳群」も、沖ノ島や宗像大社中津宮などとともに世界遺産の構成遺産になっています。 【日本の世界遺産—19—】公明新聞2025.8.21
May 1, 2026
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ながい坂山本周五郎の『ながい坂』(新潮文庫)を読んだきっかけは、読売新聞特別編集委員の橋本五郎さんだった。もう10年以上前意になるが、打ちひしがれた時など手に取り、20回近く読んだと紹介する記事を見たからだ。(略)◆『ながい坂』江戸時代を舞台にした長編小説。下級の子に生まれた男が主人公で、子どもの頃に身分の差を痛感する屈辱的な経験をしたことから立身出世を志し、不条理にひたむきに立ち向かっていく半生が描かれている◆作品の序盤、人より抜きん出ようと焦る主人公を諭す師の言葉が味わい深い。「人の一生は長いものだ、一足飛びに山の頂点に上がるも、一歩、一歩としっかり登ってゆくもの、結局は同じことになるんだ、(中略)一歩、一歩を慥(たし)かめてきた、という自信をつかむことのほうが強い力にもなるのだ〈略〉 【北斗七星】公明新聞2025.8.21
April 30, 2026
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家事の負担を軽減しよう㊤介護メンタルケア協会 代表 橋中 今日子さんはしなか・きょうこ 理学療法士。公認心理士。リハビリの専門家として病院に勤務する傍ら、家族3人の在宅介護を21年間続けた。自身の介護疲れを機に、心理学やコーチングを学ぶ。現在は、介護メンタルケア協会代表として、介護と仕事の両立で悩む人、介護に不安を感じている人に「がんばらない介護」を伝える活動を全国で展開している。 身体介護と生活支援介護の負担を軽減するには、介護全体を「身体介護」と「生活支援」に分けて考えることが大切です。食事や入浴の介助、排せつ物ケアなどの身体介護は、介護としてとらえやすいと思います。一方で、介護者を取り巻く環境を整える掃除や洗濯、買い物といった生活支援も介護なのです。身体介護については、多くの人が介護保険サービスを利用します。しかし、生活支援のサービスを利用しようとする人は、まだまだ少なく感じます。生活支援は、介護保険サービスだけでは限界があり、民間や地域の支援を組み合わせることが大切です。食事、掃除、家の中の雑用など、生活周りのサポートについて相談したい時は、各自治体の社会福祉協議会やシルバー人材センターの窓口が頼りになります。例えば、「食事を届けてくれるサービスはありますか」など、具体的に相談することで、必要な情報を提供してくれると思います。 手作りにこだわらない私が家族の介護に向き合っていたとき、一番つらかったのは食事の準備でした。おかゆ一つとっても、のみ込みやすい濃度に調整するのが難しく、時間がたつと、とろみが強くなってしまいます。祖母は鉱物の煮物もむせて食べられず、何をつくればいいのか、分からなくなりました。魔異色そんな悩みを抱えていると、それだけで疲れてしまいます。そこで大事なのは、〝手作りにこだわらなくていい〟と思い切ることです。スーパーのお惣菜にも、コロッケやハンバーグなど、小さくするだけで食べやすく、カロリーもとれる食品がたくさんあります。一度多面してみると、想像以上に職も進み、驚くかもしれません。最近では、減塩職や腎臓病用の冷凍食品も増えてきました。ネットスーパーを活用すれば、買い物の負担も減らせます。宅配弁当のサービスもさまざまあります。これを活用し、介護が楽になった方はたくさんいます。費用を心配される方も多いですが、毎食でなくて一日一食取り入れるだけでも、負担の変化を感じられると思います。 自分にできることを人に任せる デイサービスに頼る要介護者が「食事をとらない」「準備しても食べない」という悩みは珍しくありません。また、夏場は水分不足が深刻で、こまめに水分を提供する手間も重なり、負担が大きくなります。そんな時は、デイサービスに頼りましょう。デイサービスでは、食事やおやつの時間に加え、お茶やコーヒーをもむ機会もあり、自然に栄養・水分が補旧跡ます。「家では好きなものを食べ、栄養バランスはデイサービスで補う」という考え方でもいいと思います。他の利用者と一緒に食べたり飲んだりすることで食欲が沸くこともありますし、外出するだけでも運動になります。私の祖母もデイサービスにかよい、人と会うことで、遮光性も高まり、足腰も保たれ、元気に過ごすことができました。 週に1回の家事代行食事をすれば、当然、洗い物が出ます。ただでさえたいへんな介護生活の中で、貯まった洗い物を目にすると、負担感は増してしまいます。ヘルパーさんにお願いしたいところですが、そうもいきません。家族が同居している場合。協働スペースの掃除は対象外なのです。つまり、食器の荒いものはもちろん、トイレやお風呂周りの掃除などは、家族がしなければなりません。排せつの失敗のある場合、その負担は、通常の何倍にもなるでしょう。そういう時な、民間の家事代行サービスを利用するのも一つの手です。ある友人は、週1回だけ、水回りの掃除を依頼したところ、介護生活全体が楽になったといっていました。「やれることを人に任せるのはぜいたく」と考えてしまうかもしれませんが、そうではありません。「自分にできることを人に任せる」ことこそ、介護負担の軽減になるのです。多忙を極める介護生活の中で、綱に家族に優しくできる人なんでいません。だからこそ、介護の総量を減らす工夫が必要です。家事を減らすことで、少しでもやさしくいられる。そんな心のゆとりをつくってほしいと思います。 【介護】聖教新聞2025.8.20
April 29, 2026
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つながりは生命を強めるあの過酷なナチス収容所の中で、なぜ生き抜くことができたのか。生存者の一人が証言している。「私たちのグループはすべてのものをみんなで共有していました」。飢餓状態のあっても互いを思いやり、配給品なども分け合い、助け合っていたということだろう(ジュリアンス・シーガル著『生き抜く力』小此木啓吾訳、フォー・ユー)▼想像を絶する極限下の振舞について、軽々しく論じることはできない。だが、それほど多い事実だからこそ、大事な教訓として受け止めたい▼孤立は生命を弱め、つながり合えば生命が強まる——これは、今を生きる私たちにも通じる。災害、事故、病気、大切な人との別れ……。人生の途上、予期せぬ試練や悩みに直面することもある。その時、支え合う存在が要ることが、どれほど大切か▼御書に「人の力をませば我らがちからまさり、人のいのちをのぶれば我がいのちののぶなり」(新150※新規収録)と。(略))▼悩んでいる人、つらい思いをしている人はいないか。きょうも、身近なところから励ましの輪を広げよう。この歩みが、困難の時代を照らす希望の光になる。(実) 【名字の言】聖教新聞2025.8.19
April 28, 2026
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急性膵炎〝おなかのやけど〟と呼ばれる激痛今日のポイント重症例は20%前後の死亡率真弓副院長突然、激しい痛みに襲われる急性膵炎。この疾患の診療ガイドライン作成に、第1版から20年以上携わっている。JCOH中京病院(愛知)の真弓俊彦副院長に聞きました。 原因 消化液が活性化 膵臓を溶かす——どんな病気ですか?膵臓は胃の後ろにある臓器です。突然、みぞおちの奥や背中の痛み、嘔吐、発熱などが起き、長時間続きます。痛みは〝おなかのやけど〟と呼ばれる激しく、患者の多くは、エビのように背中を丸めて来院します。 ——なぜ起こるのでしょうか。膵臓が作る消化酵素が活性化し、膵臓自体を溶かしてしまうことで炎症が生じ、痛みが起きます。最も多い要因は、アルコール(全体の約32%)です。アルコールが酵素を活性化させるからだと考えられています。次に多いのが胆石(26%)です。何らかの原因で生まれた胆石が、膵臓の出口に流れ落ちると、膵液の流れが滞り、急性膵炎が起こります。急性膵炎は、原因不明(19%)と合わせて、大きくは三つに分類されます。その上で、この三つに当てはまらない膵炎(膵管の居常や損傷など)もあります。 患者 多くは警鐘だが亡くなる場合も——患者数は?高齢化に伴って患者数は増えています。2011年の患者数は約6万3千人(推計)でしたが、16年の患者数は7万8千人、24%増えています。全体として、男性に多い疾患です。その上で、男性はアルコール性が最も割合が高く(43%)、中年に多く発症します。女性は胆石性が最も高く(38%)、高齢者に多く発症します。 ——診断はどのように?腹痛の出方や、手で押した時の痛み(圧痛)があるか、血液や尿の中の酵素量、腹部CT検査の画像などから診断します。同様の激痛を起こすほかの疾患(腸閉塞や大動脈解離など)でないことも確認します。大事なのは重症度や重篤に陥る可能性の判断です。診断から48時間以内に、繰り返し評価を行います。 ——なぜですか?この病は数日で自然に治る軽症例が多い一方、膵臓が壊死しかけているケースもある、集中治療しても亡くなる重症患者がいます。重症度によって必要な検査や治療が異なるため、早い段階で重症度を見極めることがとても大切です。患者が命を落とす割合(地名率)は近年、改善しているものの、「CT検査で膵臓の情況」と「全身状態」ともに重症の場合には、5人に1人が亡くなっています。急性膵炎は、がんなどの悪性疾患ではありませんが、そうでない病としては致命率が高いとされています。 治療法 十分な点滴 絶飲絶食——治療法を教えてください。急性膵炎は、十分な輸液(点滴)治療と沈痛です。初期には炎症により水分が血管のそと(同質)に漏れるため、血管内は脱水となってしまいます。そのため、十分な輸液が必要です。また、痛みが激烈なため、鎮痛薬を注射や座薬などで投与して押さえます。以前は、絶飲接触が基本でしたが、近年は48時間以内に絶飲絶食を切り上げ、早く栄養素を腸に送って吸収させること(経腸栄養)が、とても重要だといわれています。また、継承の場合は、早期に口から食べ物を取らせるようになりつつあります。 ——なぜでしょうか。長官は使わないと粘膜が萎縮し、町内の細菌が前身をめぐったり、壊死した膵臓やその周囲に感染したりして、致命傷となることがあるからです。一方、胆石によって水煙を生じ、黄疸や短観の炎症を伴った場合には、内視鏡を入れて、原因の胆石を除去します。また、膵炎が治った後に、胆石が残っている胆嚢をを腹腔鏡で摘出します。 注意点 痛みが伴わないケースもある以前は皮膚から針を刺したり、手術をしたりして感染層を取り除いていました。しかし、近年は、より患者の体の負担が少ない内視鏡や腹腔鏡で、感染層を除くようになっています。 ——膵がんは発症する可能性は高くなりますか。膵がんの危険因子と衣イルカは、研究者の間でも見解が分かれています。その上で、治療後に膵がんを発症する患者はいます。なお、明確には証明されていませんが、同じアルコールが要因となって起こる肝硬変と膵炎とは合併しないように感じています。 ——予防はできますか。予防法はありませんが、健康診断の追加検査などでアミラーゼ(膵臓や唾液腺から出る消化酵素)の値が高いといわれた方は、速やかに病院を受診してください。急性膵炎は痛みが出ないケースが約8%あり、自覚していない方がいます。 【医療MedicalTreatment】聖教新聞2025.8.18
April 27, 2026
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第2編「地人相関の媒介としての自然」を終えて東京学芸大学名誉教授 斎藤 毅▶「地人相関」の現在今では、あまり聞きなれない『地人相関の媒介としての自然「のテーマに、はて?と思われた向きも。とりわけ、「大気」だの「植物」などがそのまま章のタイトルとして出てくるので、戸惑われた方も。ただ、読み進まれると、これらが「媒介(橋渡し)としての自然」なのだと一応、納得されたことでしょう。「地人相関」とは、自然と人生(人間生活)との相互の関りのこと。人びとは多かれ少なかれ、取り巻く自然環境の恩恵や影響を受けながら暮らしています。古い時代には、周囲の自然環境に、ほとんど逆らうことなく暮らしてきた人類は、人知の発達に伴って自然環境を、ある程度、都合のいいようにコントロールして生活。それどころか。文明の発達で、時に十分拡幅できないほどの負荷を自然環境にかけてもきました。その結果、人類の生存のために、今では逆に人類が自然をいたわり、保護や保全に乗り出すまでになりました。 ▶戦後の地理教育の解体大2次世界大戦後の教育改革が行われて80年近く経過した今日、多くの問題が浮上してきました。不登校の児童・生徒の増大、いじめ問題なども深刻です。効率がっ国の不人気や、教員のなり手不足も無視できない問題です。これらの諸問題に対する個別的な解決はある程度、試みられてはいますが、経か教育の再検討を含めた抜本的な経穴までには程遠い感じです。中でも教科の再編、とりわけ戦後教育の目玉の一つとされた社会化教育導入の功罪をめぐる諸問題については、なぜか、あまり議論が深まらないのは不思議です。戦前、牧口師が力を注がれた地理教育は、特に地人相関思想の教育的展開ともいえるもの。しかし、その地理教育が第2次世界停戦後、目的も方法も異なる社会化の中へ潜り込まされ、「這いまわる社会科」との陰口の中で、漠然と授業が進められてきたことは何とも不可解なことです。小・中学校におけるこの問題については本連載⑬(3月16日付10面)でも触れましたが、実は高校教育では、もっと深刻な問題が起きているのです。戦前の旧姓中学校の「地理」は解体され、「人文地理」が社会科に、地形や地質などの「自然地理」と、それに天文学を合わせて「地学」として理科に編入、。これによって教科としての「地理」の持つ「地人相関」の思想が根本から失われてしまいました。その後、さらに「ゆとり教育」とかで、「日本史」か「地理」か、どちらかを選ぶ選択制が取られ、「地理」の選択者は著しく減少。これは容易に取り返しがつかない誤りでした。ようやく近年、高校教育では社会科から「地理歴史科」が分離独立し、「地理総合」は必須化されたのは一歩前進です。しかし、専門委員の決定的不足など、問題は山積しているのです。 ▶東京地学協会の活動こうした中にあって、地理学や地学の信仰に積極的に取り組む民間団体があります。東京にあるJR中央・総武線の市ヶ谷駅に程近い「地学刊」。ここを拠点に活動している「公益社団法人 東京地学協会」をご存じでしょうか。機関誌「地学雑誌」を刊行しているこの教会は、実は1879年(明治12年)に英国の「王立地理学協会(Loyal Geographical Society)」を範として創建されました。英語名は「Tokyogeographical sSociety」。創立には、政治家やの榎本武揚や、同じく政治家で王立地理学協会の会員だった鍋島直大らが関わっています。近代国家の建設には、地理学の研究成果が不可欠と考えたためでした。英語名に「地理学(ジオグラフィー)」とあるのに、あえて「地学」としたのは、歴史学を格調高く文語的に「詩学」としたり、法律学を「法学」とするのと同じ。江戸時代から使われていた「地理」が「国めぐり」のようなイメージを与えかねないとすることから、あえて「地学」となったようです。それはともかく、この協会では地理学や地学(地球科学)に関わる講演会や見学会、フィールとワークを開催。「地学雑誌」を隔月で刊行するなど、地理学や地球科学の進行を目指す地道な活層を続けています。地理学や地球科学にご関心のある方は、ぜひアプローチすることをおすすめします。きっと、新しい世界との出会いがあるはずです。 ▶地人相関への回帰を「地人相関」は、ひとつの思想であり、考え方ですが、それを知の体系として組み立てたのが地理学です。東京地学協会などが主催するフィールドワークでは、いわば、その生々しい環境——例えば、断層地形や陸地の内奥にある海食地形などと人々の生活との関係に接することができます。今まで無言のように思われいた自然環境が、親しげに話しかけてくることでしょう。あなたが建っているこの大地が、実は中生代の湖底で、もしかすると恐竜の化石が出るかもしてないとか、富士山ろくの人たちが冷蔵庫代わりに昔から使っている自然のほら穴が、かつて溶岩流が造り出した地形で、細かい穴からの空気が断熱膨張で……という説明に、思わず身を乗り出して聞き入るなど、フィールドワークへの参加で、楽しい知的体験が得られるはずです。さらに、全国各地に認定された「ジオパーク(大地の公園)」の説明が楽しめるようになること請け合いです。こうしたことは、確かに人生を知的に豊かにしてくれますが、地理学で地球科学の処置式は、それだけではありません。あなたや、あなたのご家族を水害などの自然災害から守ってもくれます。例えば、地形を観察する目を養えば、水害の起こりそうなところに家を建てるのは容易に避けることはできるはず。2万5000分の1の地形図が読め、その地域の洪水伝承などを知れば、ハザードマップ(災害予測地図)は自分でも作ることもできます。万一、水害に遭っても、安全な避難路が見えてくるでしょう。とかく、地名や特産品の暗記を「地理」と思い込んでいる向きは、たまたま学校の授業で「地理」の専門の先生に出会わなかったためかも!前述のジオパークや東京地学協会は、地理学や地球科学の楽しい学び直しの機会を与えてくれるに違いありません。 【環境】聖教新聞2025.8.17
April 26, 2026
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全盲の国学者・塙保己一大東文化大学教授 宮瀧 交二群書類従消滅危機だった古典資料を 収集・編纂して666冊刊行来年、2026年は国学者・塙保己一(1746年~1821年)の生誕280周年に当たる。保己一は7歳にして視力を失ったにもかかわらず、その人並み外れた記憶力と、多くの門人を育てた指導力、そして古典の宝庫である「群書類従」をはじめとする多くの書物の編纂・刊行を実現した事業化としての能力を十二分に発揮した人物として広く知られている。武蔵国児玉郡保木野村(現埼玉県本庄市)に生まれた保己一は、埼玉県では現深谷市生まれの実業家渋沢栄一、現熊谷市生まれの公認第一号女医・萩野吟子とともに、「埼玉県の3偉人」に数えられており、高等学校の日本史教科書にも必ず登場する人物である。本庄市にある実家は1944年に国指定史跡となって公開されており、市内には、保己一の業績を伝える本庄市塙保己一記念館も存在している。さて、保己一が、その目が不自由であったにもかかわらず、多くの事業を成し遂げたことだけでも、十分称賛に値することは言うまでもないが、今なお、我国の古典文学や歴史学の研究を志す者なら、誰でもその恩恵にあずかっている。『群書類従』の編纂・刊行に取り組んだことは、彼の最大の業績である。15歳で勉学を志して江戸に出た保己一は、全国にある古代以来の貴重な記録・文学作品等の古典籍が、広く活用されることなく各所に放置され散逸して消滅していくという当時の実態を知り、これを公刊し普及させることの意義を認めたのであった。そこで保己一は、門人の手を借りて、この世に一冊しかない原本・写本を収集(書写)するとともに調査・製本して刊行するという、気の遠くなるような大事業に着手したのである。保己一が『群書類従』の刊行を決意したのは1779年、34歳の時であったが、実際の刊行が始まったのは、85年、そして、670冊(現在は整理されて666冊)の『群書類従』が完結したのは、1819年、保己一が74歳のときであった。実に41年刊を費やした空前の大事業であり、まさに保己一にとっては生涯をかけたライフワークであった。『群書類従』には、皆さまもおなじみの『竹取物語』や『伊勢物語』なども収められいるが、実際に保己一が危惧したように、『群書類従』の刊行後に、貴重な原本・写本が失われてしまったものも少なくない。なお、この『群書類従』66冊の印刷に用いられた貴重な版木1万7244枚は、すべて存在しており、1927年に建設された東京・渋谷区の(公社)恩顧学会の建物に永久保存されている。57年には国の重要文化財にも指定された。1937年に来日した、アメリカの社会活動かのヘレン・ケラーも、保己一のことを聞き知っており、同学会を訪れて保己一の遺徳を偲んだという。生涯をかけて社会のために何を成し得るのか…。今、私たちも保己一から学んでいきたい。塙保己一の生涯に御興味を持たれた方には、まずお近くの図書館に足を運ぶことをおすすめしたい。おそらく保己一の生涯を知ることができる幾つかの本が、必ずあなたの訪問を待ち受けており、また、彼が生涯をかけて刊行した『群書類従』も手にすることができるだろう。今なお、保己一は私たちのすぐ傍らにいるのである。(みやきた・こうじ) 【文化】公明新聞2025.8.17
April 25, 2026
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失敗や敗北の経験から学ぶ失敗や敗北の経験から学ぶことは大切だ。『戦国武将の叡智』(小野田哲男著)の中に、越前・朝倉氏の軍師として活躍した朝倉宗滴の「功者の大将と申すは、一度大事の後に合たるを申す可く候」(名将といえるのは、一度大敗北を喫した者をいう)との言葉が解説されていた◆「どうして負けてしまったのかを反省することで、『次の戦いに負けないようにしよう』と作戦をレベルアップさせることができるし、いわゆる負けじ魂が培われる」と。その一人として徳川家康が挙げられていた。武田信玄と三方ヶ原の戦いで多くの家臣を失ったことで「家臣こそわが宝」と強く意識することになり、この経験が名将にしたという(略) 【北斗七星】公明新聞2025.8.16
April 24, 2026
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ささやかなご褒美作家 藤岡 陽子8月に入ってすぐ、高校3年生の長男と1泊2日の旅に出た。といっても観光ではなく、来年の大学受験のために志願校のオープンキャンパスへ参加する予定だった。第一志望の大学は遠方にあるので、前日から現地入りすることにしたのだ。志望校がある県までは飛行機で行ったのだが、夏休みだからか、たくさんのお子さんたちが乗っていた。中にはまだご両親の膝の上にすわっているような乳幼児もいて、機内は子どもたちのぐずる声が絶えず響いていた。小さな子どもを連れて飛行機に乗るのは大変よね……。子どもは「大きな荷物」。落とすことも置き忘れることも決してできない、たいそう世話のかかる荷物——。機内に響き渡る鳴き声を聞きながら、私は十数年前の自分がそんなふうに感じていたことを思い出した。すまし顔で隣の席に座っている長男も、幼い頃は機内でおとなしくするのが苦手だった。おもちゃや絵本を与えても、ジュースを飲ませても泣きやまず、途方に暮れたことが何度もあった。赤ちゃんたちの鳴き声をBGMに、やがて飛行機は目的地の空港に到着した。シートベルト着用のサインが消えると、長男がすっくと立ち上がり、座席上の収納棚からスーツケースを下ろしてくれた。そしてそのままスーツケースを手に、出口に向かって歩いていく。かつて「大きな荷物」だと思っていたわが子が、今は大きな荷物を運んでくれている。こんな日が来ることを数十年前の自分は想像もしていなかった。子育ては苦労も多いけれど、やりきった先にはささやかなご褒美が待っている。そう思わせてくれた、ひと夏の出来事である。 【すなどけい】公明新聞2025.8.15
April 23, 2026
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『鋼鉄の要塞 ヤマトブジンスイス』発刊に寄せて著者、作家 伊藤 潤製造大国につながる英知と努力今年は尊後80年という節目の年だ。この80年、日本は平和国家として国際社会に確固たる地位を築いてきた。しかしバブル崩壊後、日本経済の不振は著しく、国内総生産(GDP)でもドイツとインドに抜かれ、今年は5位に後退するという。GDPだけが経済の広布長を表す指標ではないとはいえ、この凋落ぶりには暗澹としてしまう。そんな日本だが、バブル崩壊までは製造大国として世界に冠たる地位を築いていた。それを支えたのが、戦前・戦中の造船業などの軍需産業に携わった人々だ。彼らは試行錯誤を繰り返しつつも多くの難関を乗り越え、画期的な兵器をつくり出していった。その不断の努力が、戦後の平和産業で実を結んだのだ。とくに戦艦「大和」と同型艦「武蔵」の技術的革新性には、瞠目すべきものがある。軍艦に詳しくない方にとっては、それまでの戦艦を大きくしたものという認識しかないだろう。だが、世界一の46㌢砲を九門装備し、それらが一斉に火を吹くことも想定した戦艦を造るということは、それまでの常識を大きく覆す必要がある。さらに軍令部の様々な要求を実現しるには、多くの技術的難題が横たわっていた。それらを次々とクリアし、あれだけのものを造り上げた当時の技術者たちの英知と努力には、頭が下がる思いだ。そんな「大和」型の製造プロセスを、小説としていかに描いていくかが本作の課題だ。「大和」型の建造に関する文献はあるにはあるが、それらを読む方がどれほどいるだろう。それゆえ建造過程をストーリーとして楽しみながら、気づくと「大和」型の技術的革新性を理解しているという構成にしたいと思った。また建造過程だけを描くと、どうしても単調な物語となってしまう。それゆえかサイドストーリーをいかにちりばめるかが鍵になる。そこで五人の新人造船士官たちの青春群像劇という趣向を思いついた。彼らの中には、道ならぬ恋に苦悩する者もいれば、ある陰謀に巻き込まれていく者もいる。そうした複数のサイドストーリーを並行して描きながら、大和が次第にその姿を現してくるという構成だ。日本人にとって「大和」とは何だったのか。時代遅れの大艦巨砲手記の象徴だったのか。確かに冬至の候空兵器の進歩は著しく、一年後だったら造られることはなかっただろう。だが日本人は「大和」は大日本帝国とともに葬り去られた。未来は誰にも分らない。誰もが手探りで道の未来に向かって進んでいくしかない。「大和」建造に携わった造船士官たちも、それは同じだ。しかも彼らの造り上げたものは、敗戦によって軍隊がなくなったことで水泡に帰したかに見える。しかしその情熱が、戦後日本を製造大国へと導き、高度経済成長時代を築いたことを忘れてはならない。あの日、「大和」は三千余人の英霊とともに南溟に消えた。だがわれわれ日本人は、あれだけのものを造り上げたのだ。その自信を胸に刻んで、これからも人類の発展に寄与していかねばならない。(いとう・じゅん) 【文化】公明新聞2025.8.15
April 22, 2026
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3層吹き抜けの大書架ライター 関 真弓司馬遼太郎記念館『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『燃えよ剣』などの作品で知られる作家・司馬遼太郎。1923年(大正12年)、現在大阪市浪速区塩草で生まれ、産経新聞記者時代に発表した『梟の城』で直木賞を受賞、終生大阪の地で暮らしました。晩年を過ごした東大阪市の住宅街にある司馬遼太郎記念館は、自宅と安藤忠雄設計による建物と庭から構成されています。雑木林をイメージした自然豊かな庭を抜け、右側に書斎を見ながら進むと、緩やかな曲線を描く記念館エントランスに。圧巻は、高さ11㍍、3層吹き抜けの大書架です。約2万冊の蔵書の世界がイメージ展示され、司馬遼太郎の精神が感じられる空間となっています。静寂の中で「感じ」「考える」ことができる記念館です。(近鉄奈良線・八戸ノ里駅から徒歩約8分) 【関西の名所を訪ねて】聖教新聞2025.8.14
April 21, 2026
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増えている謝らない人榎本 博明(心理学者) 謝罪の一言が雰囲気を良くする日本は間柄の文化 周囲とギスギスした関係にどう考えても本人に非があるのに、「すみません」の一言を言わない人が増えています。苦しい言い訳をして、ごまかそうとする。「すみません」と謝罪の言葉を口にすれば、物事はスムーズに進むはずなのに、自己正当化しようとして、周りとの関係がギスギスしてしまうことに。そんな人はいないでしょ、と思う人は、友人に恵まれているのかもしれません。実は、経営者と話をしていると、「うちにもいますよ」との声が次々に上がるほどなのです。例えば、ミスを指摘して、次はこうやってくれと話しても、「あ、そうですか」とひとごとのように淡々としている。また、注意するたびにムッとした表情を見せ、ミスを繰り返す。それを注意すると「あなたはミスをしたことがないんですか」と攻撃的な反応をされる。さらには、いくら注意しても、指示されたことと違ったことをやり、「教えられていないから」と開き直る。こんな、絶対に謝らない人たちは、なぜ謝らないのでしょうか。どうしてそこまで自己正当化にこだわるのでしょうか。そんな、人達の心理について、近著『絶対に「謝らない人」』(思想社新書)で紹介しています。謝らない理由を知っていれば、対処に困ることもなくなるはずです。 自己主張をして這い上がるアメリカでも交通事故を起こしても、絶対に謝ってはいけないといわれます。こうした海外の〝謝らない文化〟に感化され、一度謝ってしまうと、生涯、ひどいことになるんじゃないかと思っている人がいます。でも、欧米と日本の文化は違うのです。それを近著では、自己主張の文化と、間柄の文化として紹介しています。海外の場合は、誠意ではなく強さなんです。力が全てだから、うまくいったら褒める、だめならすぐにクビにされます。自己主張をして、自分を売り込んで、結果が出せなかったらそこで終わりなのです。でも日本では、力がなくても大目に見られることが多い。そんな文化の違いを踏まえなければ、うまくいくはずがありません。ただ、グローバル化で障壁がなくなる中、そんな日本の文化も壊されているのが現状です。それなら、自己主張型にすればいいじゃないかと思う人もいるかもしれません。でも、日本が間柄を大切にする文化だからこそ、おもてなしが得意なんです。一部の学生たちは、大学で、おもてなしの方法について学んでいます。外国人客が何を望んでいるのか、そのニーズをとらえ、そこに日本人の感覚と合わせていく。でも、それによって何が起きるでしょう。例えば温泉旅館。他人に裸を見られたくないと言われ、大欲法を仕切って個別のお風呂にしてしまう。それまでは、大露天風呂と雄大な景色が自慢だったのに、それが損なわれてしまったのです。相手に合わせておもてなしをすることで、本来の良さが壊れてしまう。大切なのは、相手に合わせたおもてなしとともに、日本流の良さを主張して理解してもらうことだと思います。 理解できていないタイプももう一つの、困ったタイプは、注意される理由が理解できない人。何かミスをしたときに、先輩が注意しても、話の内容を理解できないから、意地悪をされたという各勘定だけが残ってしまうのです。社会人だから、そんなことあり得ないと思うかもしれません。でも、今の学生は二極化していて、優秀な人は非常に優秀。でも、できない学生は中学の補修をしなければいけないレベルなんです。以前、大学の授業で性格テストをしたときに、「内気」って何ですかと質問されました。友だち同士でそういう単語は使わないし、LINEでも使わないから、意味が分からないと。ある調査では、中学生の半数以上が教科書を読んでも意味が分からないと言います。その理由の一つとして、読書をしないことがあると考えています。読書によって、論理能力と語彙力が身に付きます。それが両輪となって文章を読み解く力になり、相手の言っていることが理解できるようになるのです。理解してくれない相手の場合、ミスを指摘しても、何を言われているかわからず、くりかえすことに。それどころか、自分のミスを棚上げにいて、悪質なクレームを受けている、先輩や上司に意地悪された、いじめられた、と考えてしまう人も。この場合、もっとできるようになってほしいから注意するのだと、はっきり伝える必要があります。その上で、取引先のフォロー等は必要ですが、場合によっては、当人が困ればわかるだろうと、突き放すことも考えるべきでしょう。=談 えのもと・ひろあき 1955年、東京都生まれ。川村短期大学講師。カルフォルニア大学客員研究員、大阪大学大学院助教授等を経て、MP人間科学研究所代表。著書に『「指示通り」ができない人たち』『「上から目線」の構造』など多数。 【文化culture】聖教新聞2025.8.14
April 20, 2026
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1万年の時を超え輝く平和社会旅行ライター 小林 克己北海道・北東北の縄文遺跡群世界遺産の北海道・北東北の縄文遺跡群は、約1万年以上前から狩りや魚捕り、木の実などを集めながら、自然と共に暮らしていた縄文時代の平和な社会を示すものです。北海道と青森・岩手・秋田の三つの県にわたる12の遺跡で構成されています。特に青森県の三内丸山遺跡は、32㍍ある大きな竪穴の家や貯蔵施設、祭祀場なども見られ、縄文人の豊かな社会生活と信仰の姿を物語っています。東京ドーム1個分に当たる壮大な集落の跡は、新幹線の車窓からもうかがい知れます。また、同県がつがる市にある亀ヶ岡石器時代遺跡は「遮光器土偶」が見つかった場所で有名です。大きな目をした土偶は、多産を願う女性像とされています。最寄りのJR五能線木造駅の駅舎外壁には、巨大な遮光土偶が設けられ、観光客を楽しませています。本物は東京国立博物館で見られます。この補家、同県の大平山元遺跡や田小屋野貝塚、二ツ森貝塚、小牧野遺跡、大森勝山遺跡、是川石器時代遺跡、岩手県の御所野遺跡は世界遺産の構成資産です。石を丸めて作った大型ストーンサークル遺跡として知られているのは、秋田県鹿角市の大湯環状列石です。その中の「万座環状列石」は直径52㍍、「の中堂環状列石」は銅44㍍もあります。先祖を大事にするための共同墓地です。同県の伊勢堂岳遺跡でも、同様の環状列石が見られます。縄文時代で最大級の共同墓地は、北海道千歳市のキウス周提墓群です。直径約83㍍の大きな墓は、ドーナッツ型に土を盛った独特の形状で、その中に複数の墓を配置しています。縄文文化の精神性の高さや複雑な社会組織、先祖崇拝の考え方を反映したものといわれています。このほか、道内にある大船遺跡や垣ノ島遺跡、入江貝塚、高砂貝塚、北黄金貝塚でも、当時の暮らしや文化に触れられます。 【日本の世界遺産—18—】公明新聞2025.8.14
April 19, 2026
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国家の基軸として持ち出された天皇それではどういう国づくりをするかというのを、本当はもう少し考えればよかったんですが、とにかく急いでやらなければいけなかった。ただ、インフラの面では鉄道とか通信など西洋文明はどんどん取り入れていますから、格好としては文明開化をしてくんです。でも、人間の精神や考え方、思想などは依然として昔どおりですよ。明治維新、明治維新と簡単にいいますが、明治維新というカッコいい言葉を同時代人は使わなかった。当時は「ご一新」といったんです。これは明らかです。明治維新という言葉をつくったのはどなたか知りませんけれども、明治十三年ぐらいのある文章でポコッと出てきて、それから「維新」という言葉をやたらに使うようになった。維新というのは「これ新たなり」というだけの話ですけれども、言葉としては「ご一新」なんかよりはるかに重々しく聞こえますから、その後「明治維新」として使われるようになる。「幕末維新」といって、すぐ維新が来たようなことがいわれますが、あれは過大評価です。あくまで単なる「ご一新」だというふうに考えてみれば、新しい国づくりは明治十一年ぐらいから始まっている。国づくりの方向としては、山縣有朋が先頭を切る軍事大国をひたすら目指すというものが一つありました。ただ、それだけじゃまずい、政府というものをどのように動かしていいかわからない。またここで新国家像をめぐって大隈重信と伊藤博文の新たな権力争いが起きるんですが、ハードの面での文明開化だけは進んでいきます。ともあれ当初は、民政の方ではどういう国をつくっていいのかわからない状態のまま、軍事国家への道だけが着々と進んでいったんですね。そして、明治十年代の新たな権力争いに敗北した連中がみんな自由民権運動に走るわけです。その一方で山縣有朋を中心とする連中は、何とか国を強くしなければならないということで軍事国家への道を着々と進めます。参謀本部をつくって、参謀本部条例もつくって、統帥権を独立させる。帷幄上奏権といって、軍のトップが天皇にじかに上奏できるシステムをつくり、軍事大国への道を突っ走っていきました。伊東博文を中心にして国内政治の方は相変わらず、すったもんだやっているんですが、自由民権運動に押されて、結局、憲法による立憲君主国家をつくるということになった。これは伊藤博文の決断だと思います。とにかく新しい国づくりのためには国の基軸いうものを定めなければいけない。伊藤博文が諸外国へ憲法の勉強に行っている間に学んできたことです。しかし、西洋の場合は国の基軸としてキリスト教などいろいろあるんですが、日本の場合はそれがない。かといって、八百万の神の神道というわけにもいかないし、もちろん仏教というわけにもいかない。ということで、天皇家というものを持ち出すわけです。国家の基軸に天皇家を置いて、官僚国家、立憲君主国家をつくり、官僚によって国家を運営していこうということにした。もちろん伊藤博文だけではなくて、そう考えた知恵者がたくさんいた。立憲君主国家をつくるというのは、自由民権運動に押しまくられて、自由民権運動の人たちをなだめるためでもありました。とにかく議会をつくるから、お前たちの議員になって出てこいという形にしたわけです。国会開設ということが決まり、憲法ができると同時に、自由民権運動もパタッと終わってしまいます。そして議会がすぐ開かれます。 【いま戦争と平和を語る 半藤一利 井上亮編】日経ビジネス人文庫
April 18, 2026
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維新の実態は権力闘争——幕末時のお話をもう少し聞かせてください。特にこの頃の日本人について、どうお考えですか。繰り返していいますが、わたくしは慶応元年が近代日本のスタートだったと思います。なぜそういうことをいうのかというと、それまでは郷との調停は少なくとも上位だった。ところが、幕府の方は開国の思いがあって条約を結んでしまったため、大もめになった。兵庫沖に米、英、仏、蘭の四カ国が軍艦を持ってきて京都に大砲を向け、「早く約束を守れ、神戸港を開港せよ」と迫ってきた。それまではごまかしていたけれども、結果的には郷との調停も追い詰められて、もはやだめだと観念した。徳川慶喜が仕方なしに出した攘夷の命令に従って長州は四カ国の連合艦隊と戦争をやり、薩摩も薩英戦争でイギリスと戦ってコテンパンにやられたわけですね。したがって、攘夷はできないということがわかった。大砲を持ってきて京都の方へ向けられて開港を迫られたときに、経との調停もやむを得ぬということで承認するわけです。これが慶応元年十月です。その瞬間から、幕府も朝廷も一致して、国策として開港ということになった。裏側では長州も薩摩も、いずれ攘夷をするけれども今はできないから、攘夷をするためにとりあえず開国するのだといって、いきり立つ攘夷の志士たちをなだめたんです。この時から国策が一致したというわけですから、近代国家というのはそこからスタートしたと考えています。したがって、くり返しますが、わたくしが勝手にいっていることですが、日本の近代国家のスタートは慶応元年ということになります。途端にそこからパッ変わったのが薩摩と長州です。とくに西郷隆盛と大久保利通を中心とする連中が「尊王攘夷」という合言葉を「尊王倒幕」と変えて、チャンスだから幕府を倒すという方向に変わります。そこまではごちゃごちゃでやっていったんですが、あそこから急に倒幕に変え割って、倒幕論がガーッと表にでてくる。当時の人たちは本当に討幕をやろうなんて考えてなかったと思います。ただ、西郷と大久保は考えていました。木戸孝允(桂小五郎)は考えていたかな、と思って彼の手紙などをよく読んでみたんですが、それほど倒幕論者ではないんですね。どちらかというと慶喜を別につぶさなくても、使えばいいんじゃないかというところがあった人だと思います。それと岩倉具視です。この公卿出身の人も骨の髄からの倒幕論者でした。岩倉具視と西郷、大久保の三人が、断固とした倒幕論者になって、あそこから急に動きが変わってくるんですね。とにかく幕府を倒さないと新しい国が作れないと。慶応元年の十月に開国と決まって、慶応四年一月の鳥羽・伏見の戦いで幕府が敗走するわけですから、二年ちょっとで一気に変わってしまうわけです。いずれにしろ、あそこから近代日本はスタートして。つまり、開国により世界の仲間入りをして、新しい国づくりが始まったと考えると、勝海舟がいうように本当はあのとき一致して、早く共和制なら共和制を考えて国づくりを始めていたら、余計な国内戦争をする必要はなかったんです。恨みを百年残すようなことはなかった。薩摩はイギリス、幕府はフランスという大国の代理戦争などをやる必要はなかった。でも、そうはいかなかったところはありますね。それは時代の流れというものでしょう。やっぱりっ革命には、若干の国内戦争が起こるわけです。その国内戦争も英仏の代理戦争という大々的なものにならず、奥州だけが犠牲になった形で鎮まって、いよいよ新しい明治国家が始まるわけですが、今度は勝者たちの間での権力争いが続きました。慶応元年以降の幕末というのは、血胸句は、わたくしにいわせれば、一致した国策とは関係ない権力闘争でしかないんですよ。その権力争いというのは明治十年の西南戦争において西郷隆盛という一方の雄がつぶれるまで続いたと思います。明治維新という言葉でわたしたちはすぐに新しい国家が始まったように思いますが、わたくしはどうも違うと思いますね。サムライをどんどん排除していって、西南戦争で十年の秋に西郷さんが死んで、木戸孝允はその年の五月に病死しています。翌年の春には大久保利通が暗殺される。コレデサムライの時代が終わり、権力闘争がバシッと終わってしまうんです。やっと幕末が終幕した。そして、本当にと言っていいぐらい、大久保の跡継ぎ伊東博文、西郷の跡継ぎが山縣有朋というような形で後継者が天下を取る。でも、西郷や大久保ほどの力がない人たちですから、最初のうちは力を合わせてやったわけです。そして、ここから「この国をどのような国にするか」ということで、明治の国家作りが始まったと思います。ほんとうの意味での近代日本はそこから第一歩を踏みだしたのですよ。 【いま戦争と平和を語る 半藤一利】井上亮編/日経ビジネス文庫
April 17, 2026
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日本は四十年ごとに興亡を繰り返してきた ——半藤さんは近代日本興亡四十年周期説を唱えていらっしゃいますね。それはどういうことですか。以前出版した『昭和史』(平凡社)の中でも書いた説なんです。学説として認められるような堂々としたものではないんです。仮説でしかないんですが、四十年で日本史を区切っていくと、うまく説明できるので唱えています。嘉永六年(一八五三)のぺーリー来航以来、日本は開国か攘夷かということで国論が二分しました。いわゆる変革が訪れたわけです。幕府は当時、列強との力の差はどうしようもないことをさとって開国を朝廷の勅許なしに決めた。それがけsからんということで攘夷運動が起きました。朝廷は当時、ものすごい攘夷ですからね。とくに孝明天皇という人は攘夷の塊なんですな。そこで幕府が勝手に開国を決めたということで尊王攘夷運動が起きる。しかし、、下関戦争と薩英戦争で外国列強にはとてもかなわないということがわかった。そこで、「開国やむなし、ただこれは将来攘夷をするための開国だ」と朝廷が決めたのが慶応元年です。一八六五年ですね。つまり開国ということで一つになったときです。近代日本はここからスタートして、と考えていいのです。ですから、国内戦争なんて起きなくてもいいのに、変革の働きが激しくなるとそうはいかなくなった。今度は尊王攘夷ではなく尊王倒幕運動に代わって、余計な国内戦争が起き、結果的に幕府は倒れるわけです。そうなんですが、近代日本というのは慶応元年に開国という国策が決まったときから、建国が始まったとみた方がいいと思います。そして明治となりどういう国家を目指したかというと、富国強兵という目標を押し立てて、国家を動かす基軸として立憲君主制を選択した。明治憲法下で国民が一致して、司馬遼太郎さんの言葉を借りれば、〝坂の上の雲〟を目指して走りあがっていった。そして日清戦争、日露戦争に飼って、世界の強国の仲間入りをした。独立日本というものを世界に堂々と示して、国家作りを完成させた。それが日露戦争が終わった明治三十八年、一九〇五年ですね。一八六五年からちょうど四十年です。しかし、日露戦争に飼って強国の仲間入りをしたと同時に勝ったことが良くない方向にいった。少しうぬぼれたといいますか、「われわれはすごいのだ」と思い込んで国力を考えない大理想を描きました。国民も同様に過剰な自信を持った。こんどは国家目標を富国強兵というような地味なものではなくて、アジアの盟主として立とうということにした。そして立憲君主制というより、日本独特の天皇は現人神なんだということを押し出しました。世界に冠たる国民だということでうぬぼれておのれを見失い、かえって世界を相手にけんかを売るような形になって、国際連盟から脱退する。孤立してしまったのに「栄光ある孤立」と唱え、世界を相手に戦争をはじめてしまう。そしてせっかくつくった大日本帝国を滅ぼしてしまう。それが昭和二十年、一九四五年です。日露戦争から数えてこれも四十年です。国をつくるのに四十年、滅ぼすのに四十年かかった。戦後になり六年間は占領下で独立ではなかった。昭和二十七年、一九五二年からサンフランシスコ講和条約が発効して敗戦日本は独立国家として新しい国づくりを始めた。これは廃墟からの再生ということで始まったんですが、それが間もなく復興になり繁栄となる。経済大国を目指す形の国家作りを始めた。このとき国家目標は軽武装の通商国家としての繁栄でした。国家の基軸は新憲法=平和憲法だったと思います。という形で戦後の国家作りを始めまして、それが見事に成功ました。その最高の時が平成元年です。一九八九年です。この年の暮れに株価が最高値をつけましたね。東京証券取引所の平均株価は、実に三万八九一五円をつけたのです。史上最高のときです。しかし、三年後の九二年にバブルがはじけます。それも一九五二年の独立から四十年たったことになる。つまり四十年史観にぴったりです。ここから先は好そうですが、その九二年から勘定して四十年後の二〇三二年の日本を考えるとき、かなり心配ですね。少子高齢化の流れがこのままだと、働く人がどんどんいなくなる。この国はすでに国内需給などは危なくなっている。そんな形でどういう国家になるか、ものすごく心配です。わたくしは日本が再び滅びるとは思っていません。ただ、もし選択を誤れば、ちょうど昭和の日本が次々へと選択を誤って、とうとう国を滅ぼしてしまったように、またこの国はおかしくなってしまうのではないかということを考えるんです。 【いま戦争と平和を語る 半藤一利 井上亮編】日経ビジネス文庫
April 16, 2026
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戦後日本を代表する旋律と響作曲家武満徹が残したものギタリスト 鈴木 大介さんに聞くすずき・だいすけ 1970年、神奈川県生まれ。ギターを市村員章、福田進一、尾尻雅弘の各氏に、作曲を川上哲夫、中村良史の両氏に師事。92年にマリア・カナルス国際コンクール(スペイン)第3位、93年にアレックサンドリア市国際ギター・コンクール(イタリア)で優勝。池辺晋一郎、猿谷紀郎、、西村明、伊佐治直、林光、酒井健治の各氏ら現代音楽の作曲家による新作の初演も多い。胃で御稜威音楽賞、芸術選奨文部科学大臣新人賞。洗足学園音楽大学客員教授。 武満徹さん(1930~96年)は、「弦楽のためのレクイエム」(57年)や「ノヴェンバー・ステップス」(67年)などの作品で世界的に高く評価されている作曲家。その原点は、14歳だった80年前の戦時中に聞いたシャンソンだった。戦後日本を代表する国際的作曲家・武満さんの音楽について、「森のなかで」(95年)や「スペクトル・カンティクル」(同)の世界初録音の数々の武満作品を演奏し、アルバムも発表している。ギタリスト・鈴木大介さんに聞いた。 1本のデモテープ鈴木大介さんは、ルネサンスおよびバロックから現代まで、幅広いレパートリーを持ち、作・編曲も手掛けるギタリスト。「武満徹=ギター作品集成」や「どですかでん 武満徹」肇武満作品を収録したCDアルバムも数多く発表している。このほか、ギター編曲作品集「武満徹 映画とテレビ・ドラマのための音楽」(日本ショット)など楽譜の出版も多い。その鈴木さんを、武満さんは「今までに聴いたことのないようなギタリスト」と評した。きっかけは1本のテープだという。鈴木さんは、オーストリアのザルツブルク・モーツァルテウム音楽院に留学中だった1995年、武満さんが国内外のポピュラーソングを経編曲した77年の作品「ギターのための12の歌」から4曲を自主録音した。 「そのデモテープをお聞きになった丹家美津さんが、〝この人に自分の曲を全部、録音してもらいたい〟と水田してくださったのです。95年の11月でした。『ギターのための12の歌』は77年の作品ですが、この頃は、ほとんど弾かれておらず、楽譜も絶版の状態でした。全曲を1冊に集約した楽譜の出版と録音が企画されている時に〝若いギタリストのテープがあります〟という話になり、武満さんの手に渡ったそうです」「プロジェクトが始まって間もない96年2月に武満さんはお亡くなりになったのですが、最後にお書きになった作品『森のなかで』も収録して97年1月に発表したCDアルバムが『武満徹=ギター作品集成 1961~1995』です」 シャンソンの歌声重い結核を患い、自身の死を意識する中で書いた「弦楽のためのレクイエム」がストラビンスキーに評価され、武満さんの名前は世界にも知られるようになった。60年代から70年代にかけては現代作曲家として前衛的な活躍をしつつ、映画やテレビドラマの音楽を手がけ、80年前後からは印象に深く残る美しい音楽を書くようになる。その個性的な響きは「タケミツ・トーン」とも称され、作品は世界各地で演奏されている。武満さんが音楽に「出会った」と振り返るのは、終戦間際の中学生の時。14歳だった。勤労動員で親元を離れ、埼玉県の山中で食糧基地を造る、つらい日々。ある日、大学の学業半ばで徴収された一人の見習士官がレコードを、こっそり聞かせてくれた。フランスの歌手リュシエンヌ・ポワイエが歌うシャンソンの名曲「パレル・モア・ダム―ル(聞かせてよ、愛の歌を)」だった。武満さんはこの時、「一生、音楽と関わっていたい」と思ったという。 「14歳といえば最も多感の頃でしょう。シャンソンを聴いた時に、国境みたいなものは武満さんの中でなくなったのかもしれません。80年前後から武満さんの音楽は、どんどん美しくなっていきました。『有名になったから』とか『厳しさを忘れたのでは』などという揶揄もありましたが、そうではないと僕は思います。どんなに大変な状況に直面しても、夢とか理想とか愛とか、ご自分が求める人間の理想の姿に向かって音楽を書き続けたのだろうと感じるのです。自分が美しいと思っている者、『こうあるべき』と思っているもののために芸術を突き詰めていきたい、と。そのような意味で、武満さんがなさっていたのは、ある種の戦後史のように思います。 原点は戦時中の音楽経験人間の普遍的価値を表現 再評価すべき時期人間の普遍的な価値を表現した武満さん。今年は生誕95年、明年は没後30年になる。鈴木さんは武満さんが残した仕事について、これまでは〝現代音楽は前衛でなければならない〟というフィルター越しに見られすぎたため不当な評価を受けていた部分がある、と言う。 「後期というか、80年代以降は〝どの曲も同じ手法で書かれている〟とされるほど、必ずしも正当に評価されているとは言えない時代もあります。偏って見るから、曲の解釈も、本当はやわらかなニュアンスで書いてある所を厳しく演奏してしまうことも起こり得る。けれども、そういう曲を聴けば聞くほど、ヨーロッパの音楽の語法やアメリカのジャズの語法に精通して自在に使っていることが分かります。当時、それができたのは武満さんだけだったでしょう。しかも、欧米のメチエ(表現技法)を使っているのに〝日本が聞こえる〟というのか、欧米にはない、日本人的な感性が聞き取れる。そういうことを評価すべき時代になったのではないかと思います」「21世紀の現在の音楽状況から武満さんの仕事の全体を俯瞰した上でそれぞれの時季を見ていくと、まったく違う意見を持つ人も出てくると思うのです。初めてジャズ的な手法からアプローチする人も出てきました。 「音の河」の流れに「武満さんの曲は、まだまだ計名士きれていません。作品の再評価はますます進むでしょうし、武満さんの音楽に対する光の当たり方も、今後、どんどん変わっていくと思います」 自分は武満さん世代の末っ子であり、その次の世代の先頭でもある——。その責任感を早くからもっていたと話す鈴木さん自身も、8弦ギターによるアプローチを続ける。また、武満さんの自筆譜からさまざまな示唆を与えられているという。 「〝ここまでが1フレーズ〟という時は、断を変えずに書き終えられるよう、ご自分で五線譜を書き足しています。そこで改行することに強い抵抗感をお持ちだったのでしょう。障害の最後の作品『森のなか』の自筆譜がそうなのですから、集成ずっとそうだったのではと思うのです。いわゆる西洋的な様式、ひな形はまったく気にしていないように感じました」ギターは、音色の豊かさから「小さなオーケストラ」ともいわれる。武満さんもギターを愛し、ピアノ、オーケストラと並んで数多くの名作を残した。また武満さんは、しばしば「音の河」という表現とはすべてのものの周囲を流れる「音の河」のようなもの、と。この夏、その流れに耳を澄まし、手を浸してみたい。 【文化】聖教新聞2025.8.11
April 15, 2026
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多様性を力にした虹の国アナリーズ・シュローダー 駐日臨時代理大使きょう南アフリカ「女性の日」きょう8月9日は南アフリカ共和国の「女性の日」。1956年の同日、約2万人の女性たちが人種の壁を越えて連帯し、アパルトヘイト(人種隔離政策)の一つである「バス法」に抗議する大規模なデモを行ったことを淵源とする。茂田本年は、同国の人権の投資で本大町領のネルソン・マンデラ氏が池田大作先生と90年10月31日に初会見してから35年の節を刻む。中日南アフリカ共和国大使館のアナリーズ・シュローダー臨時代理大使に、「女性の日」の意義をはじめ、多様性と尊厳の実現を目指して歩んできた同国の歴史について聞いた。(聞き手=レイモンド・アレックス) 開発した核兵器の自主的撤廃を世界で唯一実現 ——1956年8月9日、白人を優遇するアパルトヘイト体制下で黒人の移動を厳しく制限した「バス法」に抗議するため、約2万人の女性たちが首都プレトリアのユニオンビルまで行進しました。 黒人に身分証の形態を強制した「バス法」は、移動の自由という基本的な人権を奪う、アパルトヘイトノ中でも極めて非人道的な政策の一つでした。こうした不当な制度に対し、人種の垣根を越えて約2万人の女性たちが毅然と立ちあがり、大規模なデモを決行したのです。その確固たる信念と行動は、世界中で大きく報道されました。彼女たちの勇気ある行動が、南アフリカにおける女性の社会的地位の向上へと確かにつながっていったのです。 ——アパルトヘイトが撤廃され、94年に初の全人種参加による民主的選挙が実施されて男女平等の推進において大きく前進してきました。 現在、国会議員の約4割を女性が占めています。94年にはわずか2人しか女性裁判官がいませんでしたが、今では最高裁長官の座に女性が就いています。あらゆる分野で女性の社会進出が進んでいます。 万人の尊厳を守る思潮を家庭から社会へ 他者の存在が〝私〟の可能性を引き出すアフリカに伝わる「ウブントゥ」の精神 その上で、誰もが尊厳を持って暮らせる包摂的な社会を築くためには、制度や社会構造の変化だけでなく、家庭や教室など、価値観が形づくられていく日常の場の重要性も忘れてはなりません。私自身、自分の子どもたちには、家事の役割は性別で決まるのではなく、分担するのが当たり前だと考える環境で育ってほしいと願っています。そして、平等を尊重し、ヒトを敬い、ジェンダーに関する固定観念に縛られない人間に成長してもらいたい。私たちが何を考え、どのような姿を示すか——その日々の積み重ねこそが、方や制度だけでは決してもたらせない、本質的な社会変革の土台になるのだと信じています。 ——南アフリカでは、人種隔離体制からの転換の過程で人種や文化の多様性を尊重する社会の象徴として、「虹の国」という愛称が広く定着しました。 94年以前、南アフリカは法律と監修によって分断され、アパルトヘイトのもと、人々は肌の色によって通う学校や、住む地域が分けられていました。こうした制度は、物理的な隔たりにとどまらず、深い世界的な溝をも生みだしました。アパルトヘイトの撤廃により、国民的な〝癒し〟のプロセスが始まります。ちょうどその頃、著名な人権活動家であるデズモンド・ツツ大主教が「虹の国」という言葉を提唱しました。それは、多様性は分断や対立の原因ではなく、団結と調和の力になりうる——そんなビジョンを示す力強いメッセージが込められていました。違いを尊重し合いながら、豊で多様な文化に彩られた社会を築いていけるとの希望と可能性を、私たちはそこに感じたのです。その理念は、〝あなたがいて、私がいる〟という、アフリカに伝わる「ウブンドゥ」の精神に通じています。ウブントゥは、私たちが互いに結ばれていることを教えてくれる哲学です。つまり、〝あなたの存在は私の可能性を引き出してくれる〟〝あなたの文かは私の世界への理解を豊かにしてくれる〟といった考え方ともいえるでしょう。こうした価値観の転換は、国としての新たなアイデンティティーと、一人一人のつながりの意識を育みました。 挫折を越えて民主的選挙へ】——アパルトヘイト廃止後は、癒しと和解を促進する上で、対話が重要な役割を果たしました。 対話こそが、南アフリカを真の民主主義へと導いた原動力です。91年、新憲法制定に向けたCODESA(民主アフリカ会議)の交渉が始まった時、かつて分断されていた人々が一つのテーブルに着きました。それは決して容易なことではなく、挫折もありましたが、対話を続けるという意志と粘り強さが、94年の初の民主主義的選挙への道を開いたものです。そして現在も、対話は南アフリカ社会の中で重視されています。本年6月、ラマポーザ大統領は、政治指導者、市民社会、企業、宗教界、スポーツ団体など多様な分野の代表が集い、国の諸問題に向き合う、〝国民対話〟の場を設ける計画を発表しました。これを契機に、全国各地でも、地域やコミュニティー単位での継続的な対話が呼びかけられています。私自身も外交官として対話の重要性を痛感しています。特に「相手を信頼する」「相手の思いを聴く」ことを大切にしています。 ——本年は、ネルソン・マンデラ元大統領と池田先生が初めての出会いを刻んでから35年の節目に当たります。 はるか離れた地に生きながらも、二人は、教育と思いやり、そして対話を通じてこそ平和は開かれるという共通のビジョンを抱いていました。 「対話を続けると粘り強さが南アを真の民主主義に導いた」臨時代理大使 マンデラ大統領の逝去後、池田博士は〝あの笑顔をもう見られないと思うと、胸が痛んでなりません〟と述べました。そこには、両者が分かち合った熱き友情と、尊敬の念が凝縮されていると思えてなりません。二人はいずれも、人間を深く信頼していました。青年を大切にし、女性を尊重し、〝尊厳のない人はいない〟と信じて行動していました。マンデラ大統領は、南アフリカの国民を〝ダイヤモンドよりも美しく、かけがえのない存在〟とたたえました。池田博士もまた、人間の尊厳と可能性を信じぬく精神において、同じ信念を共有されていたのではないかと推察します。また、両者は文化と芸術の力を知悉しています多。マンデラ大統領はスポーツが人々の心を結びつける大きな力となることを確信していました。95年、南アフリカがラグビーワールドカップで初優勝を果たした際、大統領自らがフィールドに降り立ち、白人のチームキャプテンに優勝トロフィーを手渡した光景は、単なるスポーツの勝利を超え、国民の和解の象徴として、今なお語り継がれています。池田博士もまた、相互理解を促進し、永続的な信頼を築くうえで文化の果たす役割を一貫して強調してこられました。 広島・長崎の犠牲を振り返るべき時】——南アフリカは、開発した核兵器を自主的に廃棄した、世界で唯一の国です。 93年、政府は核兵器プログラムを91年までに廃止していたことを発表しました。そして、その事実の透明性を確保するため、国際原子力機関(IAEA)による査察を受け入れました。当時、私は外務省の軍縮部門に勤務しており、そのポロセスの一端に携わっていました。核廃絶の普及のシンボルの一つが、核兵器開発に使用された素材から作られた記念作人です。これは現在、オーストラリア・ウィーンにあるIAEA本部に展示され、殺りくの象徴であった兵器を、平和のために用いるという、南アフリカの決意を世界に伝えています。今日、国際情勢は不安定さを増し、軍拡や核保有を正当化するかのような言説も目立っています。しかし、それは強さの表れではなく、深い不安と不信の表出にほかなりません。今年は、広島・長崎に原爆が投下されて80年という節目の年でもあり、核兵器が人類にもたらした壊滅的な擬制を、改めて厳粛に振り返るべき時です。さらに本年、G20サミットが初めてアフリカ大陸で開催され、南アフリカが議長を務めています。これは、武力ではなく対話、圧力ではなく協力を選択するという、倫理に根差したリーダーシップの意義を、改めて世界に示す機会になると考えています。核兵器の傷跡を直接的に背負ってきた日本のような国と連携しつつ、私たちもまた、自らの経験と視点を生かして、世界平和への意思を新たにするための一助になれると確信します。 【インタビュー】聖教新聞2025.8.9
April 14, 2026
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差別と人権機関関西大学特任教授 深澤 真紀25年ほど編集者として働き、その後大学で教えるようになって10あまり。学生から「なぜ教員になったのですか」と聞かれるので、「人権と平和を伝えたいから」と答えると、「変な人だね」と思われてしまいます。そんななか、参院選では外国人や女性や高齢者などへの差別を正当化する主張が、一定の支持をされてしまいました。アメリカをはじめ、ヨーロッパなどでもこういった差別は増えていますが、大きな違いは欧米では人権重視の法律などが準備されてきた結果、それに反発する人も出てきたのですが、日本ではそれ以前の状態で差別する人が勢いづいてしまっていることです。旧ジャニーズ事務所の問題でも、国連人権理事会から問題視されたのは、多くの国には政府から独立した人権救済と仁経緯保証をする機関があるのに、日本にはそういった「人権機関」がないことです。そして男女差別、LGBT差別、人種差別、障がい者差別などに対して、日本では、「表現の自由」などの問題もあるとはいえ、「差別禁止」や「差別撤廃」という法律ではなく、「差別解消」や「理解増進」という、罰則のない法案を作ることが多いのです。そしてSNSなどで「弱者が同じように人権を求めるのは迷惑だ」と声高に叫ぶ人がいると、「なるほどそれは正論だ」と思ってしまう人もいるのですが、これはただの暴言でしかありません。さらには「差別をする自由も多様性だ」などの暴言すら、一部の人には受け入れられてしまう状況です。学生に伝えているのは「どんな差別であっても、私たちは被害者にも加害者にもなりうるからこそ、他人事と思わずに向き合うことが大事」ということです。 【すなどけい】公明新聞2025.8.8
April 13, 2026
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遺品など約400点を展示茨木市立川端康成文学館『伊豆の踊子』『雪国』などの作品で知られる作家・川端康成、彼の故郷、大阪・茨木市にある「茨木市率川端康成岐南間」は1985年(昭和60年)に開館。日本人として初めてノーベル賞を受賞するなど大きな足跡を残した川端康成の生い立ちと業績を伝え、「川端文学」に親しんでもらうための拠点となっています。1899年(明治32年)、大阪・天満で生まれた康成は幼くして両親と死別、3歳から茨城の祖父母の下で育てられ、18歳で上京するまで、この地で暮らしました。館内では著書や遺品、直筆原稿や書簡などの約400点を展示している他、亡くなるまで暮らした鎌倉・長谷の川端邸の書斎を再現。仕事机に向かって〝作家体験〟もできます。(JR総持寺駅から徒歩16分) 関西の名所を訪ねて ライター関 真弓 聖教新聞2025.8.7
April 12, 2026
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戦争の悲惨さ 狂気を伝えたい映画「ぼくは風船爆弾」が完成 皆さんは、風船爆弾を知っているだろうか。敗戦間際、日本軍が進めた秘密作戦で、巨大な風船に爆弾を付けて飛ばし、偏西風に乗せてアメリカ本土を攻撃しようというもの。この風船爆弾をつくっていたのは10代の女学生たちだった。そんな知られざる〝戦争秘史〟を伝える「ぼくは風船爆弾」が上映される。監督の松村克弥さんに、制作の思いなどを聞いた。 間違うと怖い同調圧力これまで、数々の戦争映画を作ってきましたが、風船爆弾については、聞いたことがあっても、実際にどのようなものか、詳しくは知らなかった。最初は、アドバルーンのようなものを想像していました。実際には直径10㍍、熱気球のような大きさ。北茨城にある記念館に模型が飾ってあるんですが、本物はその10倍もある。当時の写真を見ると、作業している女学生たちが、ミニチュアのおもちゃのような感じで映っています。物資もない中、こんなものをつくって8000㌔先のアメリカ本土を攻撃しようとしたんです。アメリカが原爆をつくっている時、日本は風船爆弾だった。その違いからしても、およそ勝てる見込みのない戦争だった。でも、それよりも衝撃的だったのは、それをつくっていたのが、学徒動員された女学生たちだったこと。女学生といえば、当時のお嬢様たちです。それが、こんにゃく糊で紙を張り合わせるために、指の指紋がなくなるほど擦って、中には血が出て、骨が見えた人もいた。戦時中の悲劇はあるんですが、そうさせてしまった、戦争の狂気を描きたかったんです。映画中、壁に掲げられたスローガンがあります。「汗の化粧で健康美」「何のこれしき戦地を思へ」など。今の時代からすると、とんでもない内容ですが、当時は皆が受け入れていた。それが普通だったんです。ある意味、これは日本の怖さではないでしょうか。同調圧力ではないですが、多くの人と違った行動をとることを避ける。それは、一面では日本の素晴らしさでもあります。でも、一歩間違えると、人と違った行動をしたことで非国民扱いされることに。壁のスローガンは、そんな怖さを表しているんです。 現実を見た言葉の重み原作者の高橋光子さんがインタビューで語っていたことが印象的でした。それは「私たちの爆弾によって、子どもたちが死んだんです。それを、ふとした瞬間に思い出すんです」と。普通の女学生たちを軍国主義に駆り立てて、当人が知らないうちに、戦争加害者にまでさせてしまう。その後悔の念はいつまでも消えない。そこに、戦時教育の怖さと、戦争の狂気があるのではないでしょうか。これまで、いくつもの戦争映画を作ってきて思うのは、「事実は映画より奇なり」ということです。脚本家や監督が考えることは、たかが知れている。それよりも取材を通して得られた言葉の方が、どれだけ重みをもっていることか。戦後生まれが9割を超える中、10年後、20年後には、当時のことを語れる人は、ほとんどなくなっているかもしれません。だからこそ、今のうちに歴史の真実を残しておかなければいけない。そして、次の世代に、私たちが伝えていかなければいけないと思っています。そのためにも、1時間、2時間程度で見られる映画は、理解しやすいのではないでしょうか。 【文化culture】聖教新聞2025.8.7
April 11, 2026
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戦争の悲惨さ 狂気を伝えたい映画「ぼくは風船爆弾」が完成 皆さんは、風船爆弾を知っているだろうか。敗戦間際、日本軍が進めた秘密作戦で、巨大な風船に爆弾を付けて飛ばし、偏西風に乗せてアメリカ本土を攻撃しようというもの。この風船爆弾をつくっていたのは10代の女学生たちだった。そんな知られざる〝戦争秘史〟を伝える「ぼくは風船爆弾」が上映される。監督の松村克弥さんに、制作の思いなどを聞いた。 間違うと怖い同調圧力これまで、数々の戦争映画を作ってきましたが、風船爆弾については、聞いたことがあっても、実際にどのようなものか、詳しくは知らなかった。最初は、アドバルーンのようなものを想像していました。実際には直径10㍍、熱気球のような大きさ。北茨城にある記念館に模型が飾ってあるんですが、本物はその10倍もある。当時の写真を見ると、作業している女学生たちが、ミニチュアのおもちゃのような感じで映っています。物資もない中、こんなものをつくって8000㌔先のアメリカ本土を攻撃しようとしたんです。アメリカが原爆をつくっている時、日本は風船爆弾だった。その違いからしても、およそ勝てる見込みのない戦争だった。でも、それよりも衝撃的だったのは、それをつくっていたのが、学徒動員された女学生たちだったこと。女学生といえば、当時のお嬢様たちです。それが、こんにゃく糊で紙を張り合わせるために、指の指紋がなくなるほど擦って、中には血が出て、骨が見えた人もいた。戦時中の悲劇はあるんですが、そうさせてしまった、戦争の狂気を描きたかったんです。映画中、壁に掲げられたスローガンがあります。「汗の化粧で健康美」「何のこれしき戦地を思へ」など。今の時代からすると、とんでもない内容ですが、当時は皆が受け入れていた。それが普通だったんです。ある意味、これは日本の怖さではないでしょうか。同調圧力ではないですが、多くの人と違った行動をとることを避ける。それは、一面では日本の素晴らしさでもあります。でも、一歩間違えると、人と違った行動をしたことで非国民扱いされることに。壁のスローガンは、そんな怖さを表しているんです。 現実を見た言葉の重み原作者の高橋光子さんがインタビューで語っていたことが印象的でした。それは「私たちの爆弾によって、子どもたちが死んだんです。それを、ふとした瞬間に思い出すんです」と。普通の女学生たちを軍国主義に駆り立てて、当人が知らないうちに、戦争加害者にまでさせてしまう。その後悔の念はいつまでも消えない。そこに、戦時教育の怖さと、戦争の狂気があるのではないでしょうか。これまで、いくつもの戦争映画を作ってきて思うのは、「事実は映画より奇なり」ということです。脚本家や監督が考えることは、たかが知れている。それよりも取材を通して得られた言葉の方が、どれだけ重みをもっていることか。戦後生まれが9割を超える中、10年後、20年後には、当時のことを語れる人は、ほとんどなくなっているかもしれません。だからこそ、今のうちに歴史の真実を残しておかなければいけない。そして、次の世代に、私たちが伝えていかなければいけないと思っています。そのためにも、1時間、2時間程度で見られる映画は、理解しやすいのではないでしょうか。 【文化culture】聖教新聞2025.8.7
April 11, 2026
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戸田先生「思想の混乱」(1958年4月)㊦情報化社会やAIを巡る課題と向き合い人間の幸福につながる「知」の開拓作業を戦時中に子どもたちが学校で受けてきた教育は、終戦を機に一変することになった。新しい教科書作りも進められたが、紙不足の影響で用意が思うように進まず、従来の教科書の軍国主義的な個所を墨で塗りつぶす形で流用するという、急場の措置がとられた。この〝黒塗りの教科書〟のことは、池田先生の小説『人間革命』の第2巻で、終戦直後に各地の学校でみられた象徴的な出来事として言及していた。軍国主義的な教育によって子どもたちに植えつけられた知識の多くは、意味を失ったのである。次元は異なるが、人間と知識との関係を巡って、戸田先生が「思想の混乱」と題する文章で紹介していた逸話がある。——医学を学ぶために長崎に行った人が、講義の内容を書き留めたものを荷物に詰め込み、船で帰京しようとした。しかし瀬戸内海で大波に遭い、すべてを失った。講義録が手元にあれば、故郷でりっぱな医者として通用すると考えていたために、自分の頭の中には何も残っていなかった——という話である。牧口先生も戸田先生も、知識の習得は価値を想像する土台になるものと位置付けていた。ただし、知識のなかには、他の国や別の時代において通用しないものがあったり、自分の血肉のようになっていなければ、いざという時に役に立たなかったりするものも少なくない。この知識に対する認識を人びとが改める必要性を痛感し、教育はもとより、出版の事業にも力を入れてきた戸田先生であればこそ、障がいで最期の文章となった「思想の混乱」において、次のような警句を残したのだ。「知式は智慧を誘導し、智慧を開く門にはなるが、決して知識自体が智慧ではない」と。◇この文章が「大白蓮華」に掲載されたのは、1958年4月1日。戸田先生が58歳で逝去する前日であった。戸田先生がその中で、〝知識と智慧の混同〟に加えて問題視したのが、〝健康の意味と生命の意味が同じであるかのようにみなす錯覚〟に対してである。——確かに「健康」は、日常生活を楽しむ土台で相当の役割を占めるといえるであろう。しかし、人間の幸福にとって本当に大切になるのは、自分が生まれてきた意味を見つめながら、人生を輝変えていく「強気生命力」ではないか——と訴えたのだ。なくなる最後の最後まで生命力を振り絞って、すべての願業を果し抜いた戸田先生。その跡を継いで、1960年に第3代会長に就任した池田先生は、学生部など特に若い世代に向けて、〝知識と智慧との混同〟を正す必要性を指賭けたのだ。また、仏法者として社会的な発信を重ねる中で、この問題に何度も言及。1984年8月に教育部(現在の教育本部)の総会に寄せて発表した「教育の目指すべき道——私の所感」では、次のような主張を行った。——近代科学は〝知識のための知識の追求〟をしてきた面があるが、一方で、核兵器の出現や有害物質をまき散らす公害も招いた。教育現場に即して、この問題を考えるならば、古典や名作と向き合うことがなく、内容を簡略的にまとめた知識だけを求め、「それ以上は知らないし、知ろうともしない」という状況にも通じているのではないか。「自分だけがよければ、どういう小さなエゴイストではなく、『知識の全体性』を問いながら、自分の生き方を人類の運命にまで連動させ行く「全体人間」ともいうべき俊逸の育成こそ、教育の本義であることを、私は信じてやまない」——と。◇その後も池田先生は、インターネットが急速に普及した時期に、ハワイの東西センターでの講演(1995年1月)で、改めてこう問題提起した。「空前の高度情報社会を迎えた今、膨大な知識や情報を正しく使いこなしていく『智慧』の開発は、いよいよ重大な眼目となっている」その上で、「発達した通信技術は、民衆の『恐怖』と「憎悪」を煽るために悪用される場合もある。その一方で、教育の機会を世界に拡充するために活用することもできます。それを分かつのは、人間の『智慧』と『慈愛』の深さなのであります」と呼びかけたのである。また21世紀に入ってからも、この問題を取り上げて注意を喚起し続けた。「ネットで検索すれば、どんな知識もたちどころに似閲覧できるようになったのは便利に違いありませんが、そうしたデータの多くは玉石混交であり、場合によってはミスリードを目的にした悪意に基づくものさえあります」「どれだけ情報を集めても、かえって自分の考える力を埋没させたり、悪意の情報に流されてしまえば、本末転倒になってしまう」と。池田先生がこう訴えたのは、現在の生成AI(人工知能)の発達につながる礎の一つとなった研究が発表された時期(2014年)でもあった。インターネットによる情報検索の時代を経て、生成AIが多くの分野で活用され始めるようになった今、人間の幸福につながる「里」の在り方を見つめ直す重要性は、ますます高まっているのではないだろうか。 連 載三代会長の精神に学ぶ歴史を創るはこの船たしか第40回 聖教新聞2025.8.5
April 10, 2026
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明治時代の博覧会歴史作家 河合 敦大阪・関西万博が開催されているが、江戸時代にも珍しい品を展示する物産会があった。平賀源内がしの田村藍水を会主に宝暦七年(一七五七)に江戸で開いたのが始まりだとされる。遅れること約四十年、パリで博覧会が始まり、一八五一年にはロンドンで第一回万国博覧会が開催された。慶応三年(一八六七)年、パリで第二回万国博覧会が開催されたが、このとき日本(幕府と薩摩藩、佐賀藩)も初めて参加した。準備のための現地に来た幕臣の田中芳男と薩摩藩士の町田久成が、明治初期の万博を担うことになった。二人は維新後、大学南校の物産局の役人となり、明治四年(一八七二)五月から一週間、物産会を開催した。鉱物、植物、動物などに千数百点が展示されたが、ホロホロ鳥など珍獣もあり、物珍しさに多数が来場した。同年、大学南校は文部省の所管となり、同省博物局に属した町田と田中は、全国に出品を呼びかけ、明治五年三月から湯島聖堂を会場に大規模な文部省博覧会を開いた。名古屋城の金の鯱や水槽に入ったオオサンショウウオが話題となり、好評につき会期は二十日から五十日間に延長され、十九万人が訪れた。この博覧会は翌年のウィーン万博の準備を兼ねており、陳列品の一部はウィーンに展示された。新政府が初めて参加する国際万博なので、各省庁から優秀な人材が集められた。トップの事務総裁が大隈重信、副総裁は同じ佐賀出身の佐野常民、そして文部省からは町田と田中が出向した。展示した日本庭園は人気となり、日本ブームが起こるほどだった。京都府でも近代化を進める大参事・槇村正直の意向で、明治四年十月、京都の豪商が主催し博覧会が開かれた。国内外の品・三百六十点が西本願寺大書院に陳列され、一万人以上の見学者が訪れた。博覧会に関しては、日本には長い歴史があるのだ。 【言葉の遠近法】公明新聞2025.8.6
April 9, 2026
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記憶と物—モニュメント・ミュージアム・アーカイブー広島市現代美術館 被爆80周年記念広島市現代美術館 主幹学芸員 松岡 剛過去と向き合い、対話する場現在、広島市現代美術館では、被爆80周年を記念する特別展「記憶と物—モニュメント・ミュージアム・アーカイブ—」を開催しています。町中や講演で目にする野外彫刻、そして美術館に飾られる美術作品も含む「物」が、戦争や原爆の記憶とどのよう寝関係を持ち、そこに美術館がどのようにかかわることができるか、と言ったことをテーマにした展覧会です。本展は、当館のすぐそばにある「空の台座」をめぐるエピソードから始まります。かつてそこには、加藤友三郎(1861~1923)という人物の銅像がそびえ、台座を含めると9.6mもの大きさだったことが分かっています。海軍将校であり、後に内閣総理大臣となったこの人物の蔵は1935年に建設されましたが、太平洋戦争末期の1943年には金属回収令に応じて撤去されました。21世紀に入ると、加藤友三郎の銅像を再建する動きがみられます。ただし、設置された蔵は2体あり、ひとつは広島市内に、もう一つは呉市に置かれました。そして興味深いことに、この3体の加藤友三郎の像は、すべて異なる姿をしています。この事例は、ある人物が記憶に留められようとするとき、どのような記憶として残されるのか。それと象の姿はどのような記憶として残されるのか、それと象の姿はどのように関係しているのか、といった事柄を物語っているようです。そして、展示品というものの存在を通して過去を意味づける私たちミュージアム(武術間や博物館)もまた、同じように記憶を形作ることに関わるものとして見つめなおすことができます。例えば、当館はこれまで、多数のアーティストに「ヒロシマ」をテーマとした作品制作を依頼し収集してきました、それらの作品は広島という地で現代美術を扱ってきた当館のコレクションを特徴づけるものであり、現代アートの視点から原爆や戦争を記憶し、多くの人々に発信し後世に残すための働きかけでもあります。これらに加え、モニュメント、ミュージアム、アーカイブといった記憶の形成に関わる物や制度に関心を寄せ、作品を発表している作家を招き、今日的な視座から過去に向き合う表現を紹介しています。彼・彼女らの政策は過去の事象とその主題としながら、例えば過去と現在、加害と被害といった立場の違いによる隔たりを認めながらも、時にはその両者に通じる理路や響きあい、あるいはそれぞれの立場の中で生じる揺らぎを見出し、詩的な関連を紡ぎます。このような作品や資料を組み合わせ、4つの章「残す、忘れる、思い出す」「過去に触れる」「こちら側/あちら側」「誰が、どうやって、記憶を担うか」を通して、ご覧いただきます。美術鑑賞とは、時には作品が作られた時代や環境から離れて、鑑賞者とである契機にもなります。こうした隔たりを超える対話の場が美術館であり、展覧会ということができるのではないでしょうか。この展覧会をとおして、美術に向き合うことが過去との豊かな対話の可能性をもたらし、それぞれがこの80年について思い考える場となることを願っています。(まつおか・たけし) 【文化】公明新聞2025.8.6
April 8, 2026
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安楽死法—欧州の動向から問い直す市野川 容孝無視できない規模の反対の声がドイツ国内では膠着状態が続く仏・英の下院で可決、上院へ◢二〇二一年に『〈反延命〉主義の時代』(現代書館)という本を共編で出した。そこで批判的に論じたことの一つは、ヨーロッパ諸国で進む安楽死合法化だった。「尊厳死」は積極的な延命措置等をせず、患者を死ぬに任せるものだが、「安楽死」はそうではなく、医師等の補助によって患者を積極的に死に至らしめる行為であり、自殺補助に相当するものとの嘱託殺人のものの二つがある。今年に限っても、まず五月末にフランスの下院で、終末期の患者が医師から処方された致死薬で自死することを合法とする法律が、賛成三〇五名、反対一九九で可決、現大統領の幕論は二〇一七年の大統領選で安楽死法制化を公約に掲げており、コロナ禍際中の二〇二一年四月に一度、安楽死法案が下院に提出されたが、審議未了。四年後の今年、可決され、九月以降に上院で審議される予定だ。(フランスに続き)翌六月下旬、今度はイギリス下院で同様の法律が、賛成三一四、反対二九一で可決。こちらも貴族院での審議が残っている。そして、人口二百万人強の小国だが、中欧スロベニア下院でも七月一八日、末期患者が医師の補助によって自死することを認める法案が、賛成五〇、反対三四、棄権三で可決された。スロベニアではこれに先立って昨年、安楽死合法化について国民投票が実施され、賛成票が五五%だったが、七月三日、上院で否決され、議論は元に戻った。 容認度の高さと合法化◢安楽死については、スイスで一九八○代から医師や看護師による自殺補助が認められ、さらにオランダ(二〇〇一年)、ベルギー(〇二年)、ルクセンブルグ(〇九年)では嘱託殺人に相当するものまで認める法律が制定されたが、これらに続く国はしばらくなかった。しかし、最近になってカトリックの国であるオーストラリア(二二年)で医師による自殺ほう助が、また嘱託殺人に相当する積極的安楽死がスペイン(二一年)、ポルトガル(二三年)、でそれぞれ合法化された。二〇一七年から二二年にかけて計九二カ国・地域で実施されたヨーロッパ世界価値観調査は、各国・地域、約千人から四千人を対象に「安楽死(euthanasia)について「一〇」(全く正しい」から「一」(全く認められない)までのどれかでその是非を問うた。グラフはその各国の平均値を著したもので、スコアが高い国ほど安楽死に関する人々の容認度は高いと考えられる。この中ではデンマーク(七・六)が最も高く、中国(三・九)が最も低い。容認度が高い国々で総じて安楽死の合法化が進んでいるが、北欧のデンマーク、フィンランド、スウェーデン、ノルウェーは嘱託殺人に余相当するものはもちろん、医師による自殺ほう助も認められていないのも事実だ。 背景の一つに高齢化の影響 繰り返されるプロパガンダ◢ヨーロッパ諸国での安楽死合法化の背景の一つに高齢化があることは事実だ。日本でも高齢者医療のための工費削減とセットで「尊厳死」法制化を公約し掲げる政党が出てきた。ヨーロッパで安楽死合法化が進んでいると書いてきたけれども、しかし、前述のフランスやイギリス、またスロベニアのいずれにおいても、安楽死合法化について賛否は分かれた。つまり、賛成が過半数を占めたものの、反対の声も依然、無視できない規模で存在するということだ。フランスやイギリスは上院での審議が残っている。写真は、郵政政策(強制不妊手術)の必要性を訴えたナチ時代のプロパガンダ(一九三六年)で、「君もともに担っている」「遺伝病者が60歳まで生きれば、平均で5万マルクかかる」と書かれている。「遺伝病者」を高齢者に塗り替えたプロパガンダを、今の日本の私たちも繰り返し見せられているということに注目しよう。(東京大学教授)いちのかわ・やすたか 1964年、東京都生まれ。専門は医療の歴史社会学。著書に『身体/生命』『社会』、『優生学と人間社会』(共著)、『生命倫理とは何か』(編著)などがある。 【社会・文化】聖教新聞2025.8.5
April 7, 2026
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命を育む生理の基礎研究に期待科学文明論研究者 橳島 次郎進むミニ臓器作成研究連載12回で取り上げた、幹細胞から立体的なミニ臓器(オルガノイド)を作成する研究に、新たな進展が出てきた。昨年2月、日本の大学の研究チームが、世界で初めてヒトの胎盤のオルガノイド作製に成功したと発表した。胎盤は母体と対峙をへその緒に繋いで酸素や栄養を届け二酸化炭素や老廃物を排出する重要な機関だが、これまでのほとんどの研究と理解が進んでいなかったという。今回の成果は、その欠を埋め、新しい命を育む生理の基本を解明しる基礎研究に道を開く意義深いものだ。応用面でも、人歩が摂取しても胎児に影響の少ない薬剤の開発などに役立てられているという。胎盤オルガノイドはさらに、連載第11回で取り上げた、人工子宮の開発にも寄与するかもしれない。一昨年、米国で開発された人口子宮は、胎児につなぐ血液循環装置が人工のもので、血栓ができやすいリスクがあった。それを胎盤オルガノイドに置き換えれば、より自然の母体に近い環境を再現できると期待される。今年7月にはやはり日本の研究チームが、マウスの子宮内膜を大概培養して受精卵を着床させることに成功したとの発表があった。幹細胞からの作成ではないが、オルガノイド技術の延長と見ることができる。これがヒトでも実現できれば、胎児よりもさらに命のはじまりに遡った受精卵から子を育める人口子宮の開発につながる可能性がある。人工素材のバッグに人工羊水を満たし、生体素材で作られた胎盤と子宮内膜を備えたハイブリッドの子宮で、新たな命を誕生させる未来が訪れるかもしれない。同じく生殖系では今年5月、フランスの研究所のチームが、ヒトの卵巣のオルガノイド作製に成功したと学会で発表した。卵巣の機能不全による性発達障害や不妊症の解明と治療法の開発、生殖腺での薬物動態の解析などに道を開く成果だという。胎盤同様、ヒトで生きた資料を得るのが難しい卵巣を作れた意義は大きい。このようにミニ臓器を作るオルガノイド研究は、体の個々の器官の働きを調べるだけでなく、新たな命がどう伝えられ育まれていくかを理解する手立てをもたらすことにまで広がってきている。ここでも、いつも言うように、その科学的意義を進めることが第一だ。子を産むことにつながる生殖分野では、臨床応用は特に慎重に医学的・倫理的検討を重ねる必要がある。期待は膨らむが、性急な成果を求めることは現に戒めなければならない。 【先端技術は何をもたらすか—49—】聖教新聞2025.8.5
April 6, 2026
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依存症㊤ギャンブル賭けたい衝動を抑えられない松下センター長特定の物事に依存し、それがないと平常を保てなくなる「依存症」。㊤では、依存症の種類や「ギャンブル障害」について、依存症対策全国センターの松下幸生センター長(久里浜医療センター院長)に聞きました。〈㊦は「アルコール依存症」について。9月8日付に掲載予定〉今日のポイント医師や説得でやめるのは困難「依存症」と聞くと、アルコールや薬物への依存を連想する人が多いかもしれません。ニュースで近年話題になっている、スマートフォンやオンラインゲームへの依存症を思い浮かべる人もいるでしょう。精神医学では、依存症を大きく二つに分類します。アルコールやニコチン、薬物などの〝物質〟を対象とした依存症を「物質依存」と呼びます。快感をもたらす作用のある物質を繰り返し使用することで、新進や家族・社会の問題を引き起こしてしまいます。一方、ギャンブルやゲームといった〝行動〟への依存を「行動嗜癖」と言います。友情であれば楽しいはずの活動が、コントロールしがたい欲求や衝動によって繰り返され、その結果、悪影響を及ぼします。 特徴 周囲へのうそや隠し事「ギャンブル依存症」は、ギャンブルに傾倒し、人生に大きな損害が生じているにもかかわらず、続けたい衝動が抑えられない病で、行動嗜癖の一種です。病気になると、際限なく掛け金をつぎ込んでしまったり、金銭にまつわる問題が生じたりすることが多くなります。周囲への隠し事、うそといった行動も見られ、違法行為や家族との離別につながるケースもあります。病気の対象となるのは、金銭や物などをかけて、他のものを手に入れようとする行為全般です。競馬、競艇、競輪、オートレースといった公営ギャンブルに加え、パチンコ、スロット、麻雀、宝くじ、投機的金融取引(株式、FX)などがあります。違法ギャンブルも含まれます。近年、こうしたギャンブルは、オンラインでもできるようになってきており、利用する患者が増えてきています。どこでも賭けられ、家族にも知られにくいため、より依存しやすく、歯止めが利かなくなる恐れがあります。いっそう気を付ける必要があるでしょう。それでは、ギャンブルがシュッ身の人と、ギャンブル障害の人は、どのように見分ければいいのでしょうか。〈趣味の人〉楽しみの範囲で賭け、生活に支障をきたさない。小遣いの範囲で楽しむ。賭け事をしたくても、状況によっては、賭けないで済ませられる。ギャンブル以外で、仕事や家庭生活など大切にしている活動がいくつもある。〈ギャンブル障害の人〉賭け方をコントロールできず、エスカレートする。賭け金が増える。歯止めが効かない。借金を繰り返す。賭けてはいけない状況でも我慢できない。賭け始めるとやめられない。負けるとギャンブルで取り返そうとする。ギャンブルが生活の最優先事項。ギャンブル中心の生活。◇ギャンブル障害の当事者の特徴は、治療が必要なのにそれを求めない傾向が強いということです。周囲からも「意思が弱い人だから」と、性格や気持ちの問題ととらえがちです。しかし、本人の意思や周囲の説得では、ギャンブル漬けの状態から脱することは難しいでしょう。依存状態になると、ギャンブルを連想させるものを見聞きするだけで、脳の一部が強く反応し、強い欲求に襲われるようになります。また、この病気は、脳内のいわゆる「報酬系」などの機能異常が関係していると考えられています。ギャンブル障害の原因については、まだはっきりしたことは分かっていません。ですが、リスクを高める要因として、幼少・青年期のギャンブル体験、始めた初期の大勝ちした経験、ギャンブルにアクセスしやすい環境などが指摘されています。 【医療MedicalTreatment】聖教新聞2025.8.4
April 5, 2026
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戦後80年曖昧さを抱えて出発した日本は何を得て、何を失ったのか〈上〉佐伯 啓思 京都大学名誉教授に聞くさえき・けいし 1949年、奈良県生まれ。東京大学経済学部卒。同大学院経済学研究科博士課程単位取得。広島修道大学講師、滋賀大学助教授・教授、京都大学大学院教授などを経て現職。『隠された思考』(筑摩書房)でサントリー学芸員、『「アメリカニズム」の終焉』(TBSブリタニカ)でNIRA政策研究・東畑記念賞、『現代日本のリベラリズム』(講談社)で読売論壇賞を受賞。近著に『神なき時代の「終末論」』(2024年、PHP新書)、『さらば、欲望』(2022年、幻冬舎新書)、『近代の虚妄』(2020年、東洋経済新報社) 大変な犠牲払った末に深刻な敗北その事実を整理できないでいる あの戦争は何だったのか——「戦後80年」という時代区分はどのような意義を持つか。日本人の9割が戦後生まれであり、戦争体験者がいなくなる時代が近づいている。その意味で今年は、戦後70年とも90年とも違う節目だと思うが。佐伯 欧米諸国を見ると、戦勝記念日を設ける国はありが、80年の節目に合わせ、あの戦争を振り返る動きをあまり知らない。ということは、こうした時代区分を意識するのは、日本人の特殊な何かが作用していると考えられる。実感的に言うと、あの戦争が一体何だったのか、それが日本人にずっと引っかかっている。日本の場合の特殊性とは、おそらく東洋において唯一、主体的な意味での戦争当事者であり、相手が英米という当時の二大大国であったことだ。大変な犠牲を払った末に深刻な敗北を喫したが、死者は一体何と戦い、何をしたのかといったことが整理できないでいる。果たして整理できるのかもわからない。少なくとも、日本が片方の主役であった戦争について納得できないでいる。それは決定的な問題だと思う。戦争に行ったり、被害に遭ったり、身内を亡くしたりした人たちが身近にいるギリギリの時期であるというのは、その通りだろう。また、戦後の混乱、戦争の傷口がある中で育ってきた私たち団塊の世代は、戦争そのものは経験していないが、〝関節戦争体験者〟〝準戦争体験者〟とも言える。今年で全員が75歳以上の後期高齢者になる。その立場から云えば、30、40代の若い人たちが戦争をどういうふうに考えているのか、そもそも関心があるのかという点はやはり気になる。戦争に関するさまざまな経験や言説の継承がどこかで途切れてしまって、ちゃんと受け継がれないかという危機感は広く社会で共有されていると思う。だから60,70,80年と、10年ごとの節目を利用して、あの戦争について改めて論じるのは意味があることだ。さらに言えば、戦争が終わってゼロから出発した日本が、世界で一、二を争う経済大国となった。現行憲法の下で平和主義が定着したかどうかは不明だが、少なくとも戦争当事国にはなっていない。もっともその「平和」の背景には日米安全保障の下で米国による安全保障があるので、事態は少し複雑である。日本の場合はそうした〝流れ〟として戦後80年を理解することが大切だ。この流れを若い人たちがどういうふうに理解しているのかも気になるところである。 終戦か敗戦か——8月15日は「終戦の日」と呼ばれるが、「敗戦の日」とはあまり聞かない。「敗戦」という言葉が避けられているのか。佐伯 先に述べたように、日本人が戦争に敗れた事実を整理できていない表れだろう。この点は文芸評論家の加藤典洋氏ら多くの人が論じてきたが、焦点が絞り切れず、何やらゴマカシが付きまとっていると感じる言説すらある。例えば、戦後はいつ始まったのか。つまり戦争がいつ終結したのかという問題だが、国際法上では、サンフランシスコ講和条約(日本との平和条約)が発行した1952年4月28日である。同条約には「連合国は、日本国およびその量水に対する日本国民の完全な主権を承認する」と書かれている。しかし不思議なのは「完全な主権」との表現である。そもそも主権に完全・不完全の概念があり得るか、法学者や政治学者から明快な答えをこれまで聞いたことがない。 占領期間どう見るか議論避ける平和を築いた要因は憲法9条か それは約7年に及んだ占領期間をどう見るかということに関わってくる。米国側からすれば、主権を全面的に奪ったわけではないと言いたいのだろう。現に日本政府は残存したので、それをサポートしたのが米国だと。しかし事実上、主権は米国に移っており、誰もがそれをわかっているはずだ。国家の形態として、戦力期間は一体何だったのかという点についての議論を政治家も学者も避けてきた。45年8月15日は、ポツダム宣言を受諾し、戦争終結を決定したことを昭和天皇自らが国民に伝えるラジオ放送、いわゆる「玉音放送」が正午に行われた日だ。ポツダム宣言の受諾決定そのものは前日14日の御前会議で決定されている。その後9月2日に東京湾の米国軍艦ミズリー号で、連合国に対する降伏文書の調印式が行われ、楚辺手の戦闘が獅子気に終了した。日ソ中立条約に違反して対日参戦していたソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も攻撃を続け、北方四島を占領した、日本はすでに降伏し、事実上、戦争は終わっていたわけだから、ソ連の侵略行為は事実上国際法違反である。しかしこの問題も専門家の間で議論が終結しない。戦後、新しい憲法が制定され、政治体制も変わった。それは「革命」だという人もいたくらいだ。そのタイミングで自らの手瀬戦争や占領について考えるべきだった。少なくとも52年以降、数年かけて、政治家を中心に学者やジャーナリストも交えて日本人の手で戦争の意味を検証できたはずだ。政治家が嫌がって避けたのか、過去と向き合わない国民性のせいか、残念ながらそれは行われなかった。強いて考えられる理由は、当時すでに冷戦体制に入っており、日本が米陣営に組み込まれていたことだ。52年に日本が国際社会へ復帰するのに際し、全面講和論と単独講和論で世論が二分されたが、吉田茂内閣は単独講和の形で押し切った。同時に日米安保条約が締結された。そうして日本は、米国の立場からしか物事を見られなくなっていた。確かに日本の復興は米国抜きには考えられない。日米安保で国防を米国に委ね、政治的にも文化的にも米国の影響下にあった日本で、米国を相手にした戦争についての意味のある総括は、難しかったかもしれない。繰り返すが、日本は事実上、敗北を喫した。ポツダム宣言には「無条件降伏」と書いてあるが、読み方によっては、条件付き降伏ともいえる。ポツダム宣言で行っているのはあくまで「軍隊の無条件降伏」である。実際には、少なくとも国体の五字、つまり天皇制の維持を条件にした降伏だった。日本の配線は決定的だったが、その前に周旋する〝一種の手打ち〟がポツダム宣言受諾だったとみれば、ドイツのような政府崩壊という完全な敗戦ではなく、「戦闘の終了」という「終戦」だったとも考えられる。そのあたりが結局、曖昧なままであった。 「憲法」と「日米安保」——戦後日本は当初から、微妙で慎重を要する問題を抱えていたと。佐伯 そういうことになる。非常に残念なことだが、総括できないまま、変則的な形で戦後がスタートした。その影響で曖昧さが今も付きまとっている。それを象徴しているのが「憲法」と「日米安保」を巡る問題だ。憲法については、米国占領下の46年11月3日に公布され、翌年47年5月3日に施行された。主権国家ではない日本が自分たちの憲法を持てるのかという根本的な問題がある。本来なら、52年の主権回復のタイミングで新たな憲法をつくるべきだったと思う。しかし日本にそんな力がないことは当時の吉田首相自身が分かっていたし、そうであるなら、この憲法を改めて承認するかどうか位は国民投票にかければよかったが、そういう動きもなかった。今日に至っては、憲法の内容自体は良いのだから、あるいは現行憲法の下で80年間、平和が続いたのだから、といった理由で憲法が正当化され、多数の国民も受け入れてしまっている。平和についても、80年間、われわれは本当に平和だったと言い切れるのかという問題である。例えば、沖縄はベトナム戦争のさなかの72年に日本に復帰したわけだが、ベトナム戦争で米軍の重要な前線基地だった。その意味では、日本もベトナム戦争に間接的にかかわっている。今でも沖縄県を中心に日本各地に米軍基地があり、米国のどこかと戦争を行えば、日本も無関係ではいられない。戦後の平和を守ったのは憲法9条か、それとも米軍基地かという長年の議論もあるが、米安保で日本は守られていると考えるべきだと思う。 公明新聞2025.8.4
April 4, 2026
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従軍作家だった火野葦平と林芙美子作品に滲む戦争への思いや葛藤北九州市立文学館館長 今川 英子「敵」「味方」問わず一人ひとりを見つめる眼差し本年は戦後80年の節目の年である。当館では、北九州ゆかりの作家である火野葦平と林芙美子が、奇しくも戦時下の代表的な従軍作家としても知られていることから、ふたりに焦点を当てて「文学と戦争」をテーマに展覧会を開催することにした。1937年(昭和12年)12月14日、東京陥落の翌日、すでに陸軍伍長として杭州湾上陸作戦に応召していた火野足兵は部隊とともに入城した。葦平から父親あての手紙(同年12月15日付)には、杭州湾から南京までの町の様子を記している。中国の景色が日本と少しも変わらず、「顔立ちも、日本人と同じです。変な気持ちのすることがあります」とある。その後杭州に駐在中に、応召前に書いた「糞尿譚」の第六回芥川賞受賞が決まり、陣中授与式がここで行われた。葦平は陸軍報道部に転じ、この時からアジア・太平洋戦争末期まで七年余り、前線に立って手帳に文字を綴り従軍記や小説を発表することになる。一方、林芙美子は東京日日新聞社・大阪毎日新聞社の派遣員として、12月31日に南京入城。「女流一番乗り」として報道され、この時から芙美子は戦争報道に取り込まれることになる。南京を舞台にした小説「黄鶴」については、「私は先日南京まで行き、つぶさに戦場の跡をみて何だか人生観がかわった気持ちになりました。暫くは口も利けないほどぼんやりしておりましたが、とにかく、巻頭の『黄鶴』を書い」たと述べている(『氷河』あとがき1938年3月)。葦平の徐州作戦従軍記「麦と兵隊」がベストセラーとなり、内閣情報部は38年8月「ペン部隊」を結成、作家たちを武漢に向かわせた。芙美子は朝日新聞の記者らと前線に加わり、「漢口一番乗り」を果たし一躍注目を浴びる。各地で従軍報告講演会や続いて刊行された従軍記『戦線』『北部部隊』はラジオで放送され、レコードになり、舞台でも上演された。アジア・太平洋戦争でも、葦平はフィリピンへ、芙美子はオランダ領インドネシアへと徴用された。葦平は最後まで軍とともに在り、芙美子は半年後帰国、信州へ疎開。次第に言葉少なくなっていく。戦時下では文学も戦争遂行の一翼を担った。葦平や芙美子も例外ではない。しかし、ふたりの文章はときに、「敵」「味方」に関わらず一人ひとりの〈顔〉を見つめていたことに気付かされる。そうした眼差しには、戦争という巨大で圧倒的な暴力に抗う一つの可能性が潜んでいるように思われる。現在においても世界各地で戦争や武力紛争が絶えることはない。特にここ数年は、世界が再び戦争の大きな危機に直面していることを実感させられている。日本が戦争の当事国にならずに受け継いだ80年にわたる〈戦後〉をより長く保つためには、まず戦争の真実を知ることではないだろうか。この企画展では、葦平や芙美子それぞれの原稿や従軍手帳などの自筆資料、書画、書簡のほか、書籍、印刷物などおよそ170点を展示している。これらの資料をご覧いただき、ふたりの戦争への思いや葛藤、複雑な心情から何を書き、何を書けなかったかを想像しておきたい。日本国民の約9割が戦後生まれとなった今日、文学という側面から戦争を見つめる本展が、戦争を再考する静かな入り口となり、記憶と想像力の懸け橋となることを願うものである。(いまがわ・ひでこ) 【文化】公明新聞2025.8.3
April 3, 2026
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特別対談㊦ 作家 佐藤 優氏×歴史小説家 安部 龍太郎氏戦後80年人類の生存脅かす危機の克服へ「生命の尊厳」を貫く宗教の使命 ——シリーズ『対決! 日本史』で、お二人は、「新しい戦前」ともいわれる時代を、「新しい船中」にしてはならないとの、信念と覚悟を共有されています。対談㊦では、不戦社会を築くための鍵は、思想や宗教の角度から窺っていきます。 安部龍太郎 そのためにも、アジア・太平洋戦争へと転がり落ちた当時の日本に、どのような思想がまん延していたかを見ておく必要があります。日本は1931年の満州事変で中国東北部の満州全域を支配下におさめ、さらに37年、中国軍と衝突し、日中戦争を起こします。こうした侵略や戦争の思想役根拠の一つとなった石原莞爾の「世界最終戦論」です。彼の考えは、世界各国がトーナメント形式のように戦い、決勝戦となる最終戦争の末に平和が訪れるというものです。石原にとっては、最終戦争に向けた日本の強化の他面、死幻視あふれた満州の地が必要でした。 佐藤優 「戦争によって恒久平和を実現する」と言うが、そこには、相手国だけでなく時刻にも、深刻な被害がもたらされるというリアリティーが欠如しています。「平和のための戦争」はヒトラーも用いた詭弁ですが、実態は、為政者の都合による「戦争のための戦争」です。しかし、ではなぜ、石原にそんな発想が生まれたのか。㊤でも述べたように、日蓮主義者であった田中智学を仏教の師と仰いだ石原は、いつしか間違った法華経の読み方をしていました。 安部 講演「世界最終戦論」の中で、石原は、〝日蓮は、大戦争によって日本を中心に世界が統一されると予言した。その時は仏の神通力によって現れる〟と述べ、最終戦争を正当化しています。しかし、そんな理屈が成り立つはずがないのです。 佐藤 それでも、石原の演説は国民の心をかき立てて、ファンクラブのようなものができるほどの人気でした。平和の種と称して戦争を正当化する根底に横たわるのは、生命を軽視する風潮です。日米開戦時に陸軍省軍務局長だった武藤章の理屈は、こうでした。国力の差でアメリカに負けても、戦わずに譲歩しても、満州、朝鮮、台湾はとられてしまう。そうであるならば、最後まで戦い切り、後世の青年に千五の復興を託そう——と。そこには命の重みは感じられられません。 明治維新の反省——挙国一致体制をアジア・太平洋戦争の要因とする見方とは別に、安部さんは、明治維新まで立ち返って考えるべきだともいわれています。 安部 はい。〝明治維新の根本的な血管が、アジア・太平洋戦争につながった〟というのが、私の解釈です。 佐藤 帝国主義的な発展の基本は、幕末思想家の吉田松陰にあったのではないか、との視点ですね。対談でも語り合いました。吉田松陰が主宰し、幕末の志士を育てた松下村塾は、おおむね肯定的な歴史として捉えられることが多い。しかしそこにも疑義を呈していくのが、根源的に歴史を見ていく態度です。 安部 明治維新を肯定的に読み捉えてしまう背景には、学校教育の影響があると思います。明治維新後の近代史にはあまり重きが置かれず、そのため、満州事変以降の10年間に何が起こったのか、石原莞爾の「世界最終戦論」とは何なのかなど、学校では多くを学びません。吉田松陰の思想は明治維新を主導したと評価されていますが、一方で、獄中で彼が書いた『幽閉録』には、〝朝鮮や満州、ルソン島などを支配すべき〟との一文もあります。後のアジア侵攻の思想につながるような内容です。さらに、明治維新の「失敗の本質」として見失ってはならない点は、明治政府によって、国家神道(注1)が臣民の慣習であるとされ、事実上の国境の地位を与えられたことです。これによって、天皇の神格化が進みました。大日本帝国憲法では天皇の下に陸軍と海軍を置くという統帥権が定められ、軍国主義化がすすめられます。 佐藤 アジア・太平洋戦争の敗北は、思想の敗北であったともいえるでしょう。神道については、池田大作先生とイギリスの歴史家トインビー博士の対談でも話題になりました。東洋と西洋、仏教とキリスト教という異なる背景を持つ二人は、多くのテーマを巡って意見が一致しましたが、トインビー博士の神道観に対しては、池田先生は強く反論しています。神道には、多民族に対する閉鎖性を帯びた、極めてナショナリスティックな一面がある。その思想と結びついた軍部政府が、創価学会の初代会長である牧口先生を獄死させ、第2代会長の戸田先生を同じく獄中で衰弱させた。国家神道の危険性を語ることについては、池田先生には絶対に譲れない信念があったのだと思います。 畏敬の念を育む——現代における宗教の役割については、どう考えておられますか。 佐藤 私の友人であるフランスの人口統計学者エマニュエル・トッドしは、西洋の危機は突き詰めれば宗教に危機だと言っています。キリスト教徒が教会に行かなくなり、それでも自分はキリスト教徒だと自称し、宗教の儀式面だけが残っていく。それを彼は宗教の「ゾンビ化」と呼びます。さらに宗教が力を失った結果、ヨーロッパはニヒリズムに覆われ、今日の混乱の原因になっている、と。ドイツのメルケル元首相は、自身のキリスト教信仰を前面に出す指導者でした。ベルリンの壁による分断の苦しみを知る彼女にとって、どれだけ東と西が対立し、相手を批判しようとも、紙を信じる点においては東も西もなかった。宗教に支えられたその実感が、生命への畏敬の念を育んだのだと思います。だからこそ、国民の反対に遭おうとも、多くの難民をドイツは受け入れるという決断ができたのではないか。 安部 私は長年、小説家としてテーマとしてきたのも、人間はなぜ敵意やエゴイズムを克服できないのかということです。人類学の学説では、敵意とエゴイズムが、人類を今の地位まで押し上げたともいわれますが、今では、それらが弱点になっているのは明確です。体を大きくすることで地球上の王者として君臨した恐竜は、大型化が非膣の原因となってほろんだともいわれる。同じルートをたどっているとするならば、人間は今、絶滅の危機に瀕しています。人類の存続を脅かす敵意とエゴイズムを、どう克服していくか。その鍵は、信仰にあると私も思います。日本で親しみがあるのは仏教思想ですが、ヨーロッパにおいてはキリスト教やイスラム教かもしれません。宗教が力を失ってしまえば、自分の国が一番だ、自分が一番だという情動が、ますます力を得てしまう。そうした風潮に打ち克つための、見方や考え方、信念を、どのように磨き上げていくのかが問われています。 佐藤 いくら素晴らしい学説が出てきても、それだけでは解決策を提示できないことは明白です。自分の頭で考え、価値観をつくっていく。それが未来のモデルとなります。その途上で、AI(人工知能)のあり方はよく考えねばなりません。 安部 生来的に日本人はお同調するのが好きですよね。「恥」の文化も根深く、他人の評価を気にして生きることにも慣れている。そうした国民性が、アジア・太平洋戦争を無批判に支持してしまった原因でもあります。翻って現代は、盛り上がっている事象を見つけてはSNSで「いいね」が押されることを、多くの若者が生きがいとしている。これは大変に怖いことです。「自分の頭で考える」と、佐藤さんは言われましたが、同調してしまいたい欲求は、人間だれしもあるわけですね。ですから、自分にそんな欲求はないなどと切り捨てるよりも、そうした欲求を持つ自分を受け入れて見つめる方がよほど人間的ですし、その地点に立った時に初めて、「自分で考える」ことが可能になるのだと思います。 佐藤 ウクライナ危機にあっても、中東情勢においても、創価学会は『生命は何よりも大切である』という価値観がぶれていません。どちらか一方に肩入れするのが容易な風潮の中にあって、自分たちの信念を貫きました。そして、その中道の価値を、公明党を取.通じて政治の世界でも具現化させてきました。学会員のみなさんは、自分の力を過小評価してほしくないと願っています。 安部 自分がよければいい。他者を犠牲にしてもいい、そうした思想に打ち克つために、宗教が大事な役割を果たすときですね。法華経は「人間はありのままで尊い」という教えから出発した宗教です。私も若い頃から、そうした考え方に親和性を感じていました。歴史的に見ても、紫式部(注2)や長谷川等伯(注3)ら著名な文化人が、法華経に影響を受けて名作を生み出しています。私が特に好きなのは「常不軽菩薩」(注4)です。すべての人にかけがえのない仏性を見いだし、どんな人をも軽んじない。その姿には、今の世界で必要とされる、慈悲や平和共存、人間尊重の精神が現れていると思うのです。創価学会の皆さんは、誠実に世界平和を追求している方々です。人間の命は何より尊いとの仏教思想に基づくからこそ、この国を戦争の方向に向かわせない、〝重し〟の存在になっています。もちろん、その道を貫き通すことには困難もあるでしょう。しかし私も、文筆の人生を掛けようと腹が決まったからこそ、あらゆる苦難を寧ろ喜びとして捉え、これまで書き続けてきました。同じように、創価学会の皆さんも、自ら決めた平和の道を貫き通してほしいと願っています。 注1=国家神道 明治期以降に形成された一種の宗教。神社神道と皇室神道とが結びついて成立した国家の祭祀であり、国民に天皇崇拝と神社信仰を義務付け、アジア・太平洋戦争中には戦争遂行の精神的支柱となった。戦後、国家神道廃止令によって解体された。注2=紫式部 生没未詳。平安中期の女性作家。日本古典の最高峰とされる『源氏物語』、『紫式部日記』などを著した。注3=長谷川等伯 1539年~1610年。桃山時代の画家。日本独自の水墨画様式を確立。華麗な金碧障壁画も手掛け、狩野派に並ぶ長谷川派を形成した。作品に国宝「松林図屏風」など。注4=常不軽菩薩 法華経常不軽菩薩品第二十に説かれる菩薩のこと。一切衆生に仏性があるとして、会うひとごとに二十四文字の法華経を唱えて衆生を礼拝した。無知な衆生から、悪口罵詈や杖で撃たれるなど迫害に遭うが、実践を貫いた。 聖教新聞2025.8.3
April 2, 2026
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特別対談㊤ 作家 佐藤 優氏×歴史小説家 安部 龍太郎氏戦後80年二度と戦争を起こさせない。歴史を学び未来への教訓に日本と連合国による「アジア・太平洋戦争」の終結から80年。歴史小説家の安部龍太郎氏と、作家の佐藤優氏が、世界における日本史をひもとく『対決! 日本史』シリーズ(潮新書)では、このほど第6巻「アジア・太平洋戦争篇」が発刊されました。「新しい戦前」とも指摘される今、戦争の教訓に何を学ぶべきか——。安部氏と佐藤氏が語り合いました。 ——『対決! 日本史』シリーズの最初の対談が行われたのは、2019年です。6年間にわたって、世界における日本史を振り返ってこられました。改めて、歴史を学ぶ意義はどこにあるとお考えですか。 安部龍太郎 「温故知新」という言葉がありますね。「古きをたずねて新しきを知る」、つまり、過去の事例や先人の知恵に学び、目の前の問題の解決に生かしていく姿勢を表す言葉です。歴史を学ぶ上でも、出来事や人名をただ暗記するのではなく、現在や未来を考えるための指標を得ようとする姿勢が大事だと思います。人間には約37兆の細胞があるとされ、一つ一つの細胞が遺伝子の情報に基づいて機能しています。そして遺伝子の中に、遺伝情報として人類の進化の痕跡が残されている。今を生きているすべての人に親がいて、その親もまた親がいることを考えれば、私たちには、〝j人類誕生以来の歴史〟が刻み込まれているともいえると思うのです。歴史を学ぶことは、自分自身を知り、人類が生きてきた行動原理を理解することでもあると思います。 佐藤優 安部さんの歴史館には、歴史を民主に取り戻すという視点が一貫しています。シリーズを通じて、私はその姿勢に多い機関名を受けてきました。「温故知新」と聞いて思い起こすのは、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマス氏が述べた、「未来としての過去」という考え方です。冷戦後の世界ではそれまでの秩序が崩壊し、理想とすべきモデルが同時代には見当たらない。ゆえに、現代社会が目指すべき未来のモデルを、過去の中から見つけてくればいいと彼は言いました。過去をどう記憶し、解釈し、継承するかによって、未来の在り方は決定づけられるということです。ただし、そこには危険性もあることを、ハーバーマス氏は理解しています。過去のナショナリズム的な歴史を選択的に取り入れてしまえば、〝われわれは偉大な民族であるが、他の民族によって権利を侵害されてきた〟というような排外主義が通ずる物語が、現代によみがえる可能性が高くなるからです。そして事実、今日の世界でこうした思想が台頭してしまっていることは、憂うべき事態です。 安部 ヒトラーは、偉大なドイツの復活を叫び、純潔のアーリア人種の優位性を唱えました。それが、ユダヤ人の大量虐殺につながりました。また、日本では、初代天皇の即位2600年に当たるとされた1940年、記念行事を盛大に行い、天皇の下に全世界を一つの家とする「八紘一宇」というスローガンが広がりました。「神の国・日本が東アジアの盟主になる」との大義名分をつくり出し、それが、悲惨な戦争につながったのです。 佐藤 為政者らによって、何度も歴史が悪用されたことを忘れてはいけません。最近の日本でも、耳を疑うような歴史解釈をしている政治家が見受けられます。差別や偏見と闘ってきたような人物であったとしても、気づかぬうちに偏った歴史認識に陥っているのです。歴史を学ぶ重要性は、誰もが賛同するものです。書店に行けば、歴史に関する書籍がずらりと並んでいます。しかし重要なのは、「何を」「同」学ぶんのかなのです。この点を、私たちの対談でも繰り返し認識してきました。 価値が点灯する「新しい戦前」座談と対話こそ平和への直道 ——歴史を捉える際に、お二人が大切にしているのはどのような視点ですか。 安部 定説や常識にとらわれ須、時に疑問も持ちながら、冷静に歴史を見つめることです。例えば、戦前の日本とアメリカの間に、圧倒的な弘飯地力の差があったのは確かです。しかし、「アメリカ相手に無謀な戦争を挑んだ」「日本はバカなことをした」と片付けるだけで、思考停止してもいいのか。対談に向けて資料を踏み込むうちに、、私は、日本は正常な判断を失って軍国主義に好き進んだわけではないと思うようになりました。に届く五産後毱同盟や日ソ中立条約など、連合国軍との対決に備えて、着々と準備をしていたことが分かったのです。私の父は南京戦に従軍していますが、その父が、「大東亜解放の使命によって戦う」といった詩を書き残していたのですね。その考え方が正しいとは言いませんが、少なくとも、父をはじめ軍人たちには勝算があった。でなくては、この意識は成り立ちません。このように考えることで、戦争に熱狂した日本人の心情に迫ることができると思うのです。 佐藤 アジア・太平洋戦争を見る上で考えることも重要です。イギリスはインドを植民地とし、さらにインドの兵隊を中国人と戦わせ、権益を拡大していた。アジア同志で戦わせ、自らは利を得ていたのです。そして、アメリカは、帝国主義で発展していくヨーロッパを見て、戦争を起こし、フィリピンを植民地化していきます。すると「欧米に挑み、アジアを植民地支配から解放する」との考えが、日本にとって理屈が通っていたとみることも可能です。侵略や戦争を肯定し得ないものですが、歴史を正確に把握するためには、俯瞰的な視点が必要です。私の乳も日本軍に徴兵され、陸軍航空隊として南京にいました。私の乳も安部さんのお父様も、凄惨な戦争現場を目の当たりにしました、多くの軍人たちの一部です。 安部 ほとんどの兵隊は、好んで㌢に来たわけではなかったのです。赤紙(召集令状)を受け取り、絶望する気持ちで戦場に向かった。 佐藤 「殺すか殺されるか」という状況に追い込まれた兵士たちの心情は、想像を絶します。彼らは、加害者であると同時に被害者でもある。そうした状況を生み出すのが、戦争です。だからこそ、戦争を二度と起こさせてはいけない。この点に何度も立ち返るのが、歴史を振り返る一番の眼目なのです。 小説は心を描く——対談では、さまざまな「歴史のif(もしも)」を巡って語り合われています。 安部 例えば、ドイツ軍がソ連に侵攻した時(1941年5月22日)が、日米開戦を避けるチャンスでした。近衛文麿首相がルーズベルト米大統領との直接会談に臨めば、日米戦争は回避できたはずだというのが私の考えです。 佐藤 盧溝橋事件(37年7月、注1)が起きた後、この絵が蒋介石(注2)とのトップ会談に臨んでいれば、大規模戦争は防ぐことができたという「if」も語り合いました。会談が実現すれば、日中戦争も、その後のアジア・太平洋戦争も、広島・長崎への原爆投下もなかったかもしれない。この点に学ぶ教訓は、たとえ国家間の関係が不安定であろうとも、トップ同士が会談に臨むチャンネルを、つねに維持していくことの大切さです。こうした想像力を働かせるのも、戦争を二度と繰り返せるのも、二度と戦争を起こさせないためです。 安部 私は歴史小説家ですので、創造を広げながら歴史を書きます。その中心にあるのは、人間に対する興味です。それぞれの時代で、興味深い生き方をしている人物を掘り下げてきました。すると、2000年ほどの時代の隔たりは、大きな意味はないという感覚にもなります。ソクラテスは鋭い議論をしていたな、今の私では太刀打ちできないな、と思いをはせる時、私はソクラテスと同時代に生きている感覚になるわけですね。人類が常に進歩してきたというのは、錯覚なのかもしれない。私たちは、昔も今も同じように暮らしているのではないか。そう考えるようになりました。 佐藤 非常に興味深いです。事実を追うだけの歴史家には、人間の心は描けません。小説家だからこそ、描ける歴史があるわけです。池田大作先生は、小説『新・人間革命』がを書き起こす際、「私の足跡を記せる人はいても、私の心を描けない」とつづられました。『人間革命』「新・人間革命」が、小説という形をとっている意義の一つは、この点にあるのでしょう。小説という文学形態を、カノン(正典)たる精神の正史に位置づけている教壇を、私は他に知りません。そこには物語があり、過去との対話、自分との対話が繰り広げられます。心揺さぶる人間への着目は、やはり小説でないとできないと思うのですね。 安部 今まで存在していたものが、突然崩れ去ってしまうことがあります。まさしく私たちは、コロナ禍やウクライナ危機、中東情勢などに直面し、当たり前だった価値観をもう一度つくり直さなければならない状況の中で、戦後80年を迎えています。どう生きればいいのかと苦悩もしますが、それまで小説を舞台にしてきたどんな時代にも、現代に示唆を与える人物がいました。小説を通して、そうした人物の物語に向き合うことができます。 佐藤 先日、創価学会の沖縄県周道場で、「億那和船の絵」をみました。若い女性がスパイの容疑を掛けられ、日本軍に暴行されている絵などがありました。これまで、沖縄戦の資料として残っていたのは、日本軍や米国の戦争記録であり、不都合な真実は残されていませんでした。「沖縄戦の絵」は、そこから抜け落ちてしまう事実を描いています。それは、歴史の実証性や正確性とは別次元において、心で見た情景を描いた「真実」です。こうした一人一人に気残こまれた歴史を、丁寧に掘り返していく作業は大切だと感じています。 根本の価値観——平和と共生の姿勢とは対極にあるような、排外主義的な主張が強まる昨今の風潮に、私たちはどう向き合うべきでしょうか。 佐藤 初代会長の牧口常三郎先生と同時代を生きた人物に、日蓮主義者の田中智学(注3)がいます。「八紘一宇」という言葉は田中によって造語されました。その田中を仏教の師と仰いだ石原莞爾(注4)は、いつしか日蓮主義を捻じ曲げて解釈し、海外侵略を正当化するイデオロギーを生み出しました。同じく日蓮の思想を深めた牧口会長が、軍国主義にこうして投獄されたがらも、平和の信念を貫いた一方で、石原のように極論を唱えた人物もいたのです。もっとも正しい心理のすぐ横に、最も危険なものが潜んでいる。私が信奉するキリスト教でも、そう説きます。しかしそれは、他者の尊厳を踏みにじろうとする勢力が強いのであれば、他者の幸福に尽くす人たちの輪も大きいということです。そう信じて行動することが肝要です。 安部 対談の中で私は、日本がアジア・太平洋戦争でへと破滅の道を突き進んだ要因を、端的に四つ、上げています。①天皇を理由とした同調圧力、②権威・権力に弱い国民性、③正義を貫く信仰と信念の欠如、④正義を貫く歴史観の欠如です。これらは現代にも通底するものであり、紛争、温暖化、食糧難、水不足などの地球的危機となって姿を現しています。私たちはまだ、これらを克服する道半ばです。 佐藤 ウクライナ危機が勃発した際、当事国の一報を非難するのではなく、双方の人々の命を守るために、即時停止を訴えたのが「聖教新聞」『潮』「第三文明」などの新聞や雑誌です。「命は何より尊い」という当たり前の心理を、建前だけでなく根本の価値観として、創価学会は掲げてきました。危機の時代には、価値観の転倒が起こります。アジア・太平洋戦争では「平和のために戦争に勝ち抜く」という言説が、真理のようにまかり通った。それは、人々を高揚させ、先導するような説法によって広まったわけです。歴史を学べば、そうした船頭による群衆動員が、極めて危険な方向に向かいがちであることが分かります。目立たなくとも、座談や対話こそが、平和をつくる法則です。それを地道に広げていくことが、今の時代に求められています。 「新しい戦前」を「新しい戦中」にしないために——。㊦では、思想と宗教の役割などを語っていただきました。 注1=露教皇事件 1937年7月7日の夜、北京郊外の露教皇付近で日中両軍の間におこった衝突事件。日中全面戦争の発火点となった。注2=蒋介石 1887年~1975年。1911年、中国の辛亥革命に参加後、軍人として台頭し、28年、南京国民政府の主席に就任。一次は中国の統治者となるが、大戦後、共産党との内戦に敗れ、台湾に退いた。注3=田中智学 1861年~1939年。日蓮宗(美延は)の寺院で得度するが、後に件属して立正安国会、国柱会などを組織。日蓮主義の思想を国家主義に結びつけた。『宗門之維新』などの著作は、日蓮系の僧俗に影響を与えた。注4=石原莞爾 1889年~1949年。軍人。満州事変を主導した。国柱会に入り、田中智学の影響を受ける。著書に『最終戦争論』など。 さとう・まさる 1960年、東京都生まれ。同志社大学大学院神学研究科終了後、外務省に入省。在イギリス大使館を経て、外務省国際情報局で主任分析官として活躍。『国家の罠』『自壊する帝国』など著書多数。あべ・りゅうたろう 1955年、福岡県生まれ。久留米工業高等専門学校機械工学科卒業。東京都大田区役所に勤務し、図書館司書として働きながら小説を執筆。90年に『血の日本史』で作家デビュー。2013年に『等伯』で直木賞受賞。 聖教新聞2025.8.2
April 1, 2026
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予 祝「予祝」という言葉がある。苦境にあっても目標達成の前祝をすることで、気持ちを軽くし、夢に向かって現実を引き寄せ夢をつかむ方法だという◆1959年、当時スランプが続いていた長嶋茂雄選手は巨人・阪神戦の天覧試合の前、たくさんのスポーツ紙を買い込み、さまざまな色のペンで「長嶋サヨナラ本塁打」「天覧試合でサヨナラ打」と書いて祝杯を挙げた。勝利を誓い「必ず打てる」と自己暗示をかけたのだ◆実際の試合は4対4の同点で迎えた9回の裏、同選手がサヨナラホームランを放ち、劇的な勝利をつかんだ。「実践! 世界一ふざけた夢の叶え方」(ひすいこうたろう/菅野一勢/柳田厚志著・フォレスト出版)で知った◆「人間が虎になった小説を書いたよ」。作家・中島敦氏が『山月記』を執筆した際に妻に語った言葉だ。『山月記』には詩人としてなおなそうとした主人公が目標を果たせず人生に絶望して虎になってしまった理由の一端が記されている。それは「進んで師に就いたり、求めて詩友と交わって、切磋琢磨に努めたりすることをしなかった」からだと◆夢をつかむか、つかめないか。先が見えない時代だからこそ、絶望ではなく、心を明るく前向きにして進みたい。(鷲) 【北斗七星】公明新聞2025.8.2
March 31, 2026
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