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ミミズのいる畑に金子 信博(福島大学教授)持続可能とは言い難い皆さんは、「畑は耕すものだ」と思っていないでしょうか。これまで森林生態学を学んできた身からすると、農業で行われていることは不自然なことが多いと感じます。例えば、森林では、畑のように耕さなくても、肥料をやらなくても、立派な大木が育ちます。実は「耕す」という行為は、作物を育てるために必要なわけではなく、雑草を制御するために行われているもの。耕すことで物理的に草を取り除いてきたわけです。でも、耕すことで、さまざまな不都合が起きてしまいます。例えばミミズ。ざっくり掘り返す程度であれば、生き残ることができるかもしれません。しかし、現代のように機械で細かく耕してしまうと、まさにこま切れ状態に。また、菌類にしても菌糸が伸ばせなくなり、いなくなってしまいます。つまり、残るのは小さなバクテリアだけ。彼らが頑張るから、土壌の有機物がどんどん分解され、減ってしまうことになるのです。農地の雑草は、畑に特化して成長しやすいように進化してきました。そのため、地面を耕かされると発芽を始め、たくさんの肥料を吸って、いち早く成長していきます。つまり雑草が生える理由は農作業にあるのです。 耕さない農業を推進地面を裸にせず雑草を抑制 土は生き物とワンセット土地は、植物、微生物、動物が支えています。よく「土づくり」という言葉を聞きますが、多くの場合は、堆肥を入れようか、〇〇菌を加えましょうというように、土地に何かを加えようとします。しかし、土を作るというのは大変おこがましい言い方で、地球が数億年単位の時間をかけて作り上げたものを、ちょっと手を入れた程度で人間が作れるはずはありません。土は単独で存在しているわけではありません。必ず植物とワンセット。植物が生えているから、土としての働きが生まれます。では土と植物だけでいいのかというと、そこには微生物もいますよね。しかし、微生物と植物を一緒にして実験系で育成しても、植物はあまり育ちません。植物と微生物の間で養分の取り合いが起き、微生物が勝ってしまうのです。実は、植物と微生物は、あまり助け合っているわけではないのです。しかし、そこに微生物を食べる戦中などの動物を入れると、植物の成長が格段に良くなります。植物と微生物だけでは足りず、ミミズや戦中などの動物が必要なのです。このバランスによって成り立っているのが土なのです。 不自然なシステムを転換不耕起栽培のポイントは、耕さない、地面を裸にしない、地中に根っこがたくさんある状態にすること。この条件が達成できれば、どんな作物でも栽培可能です。そこで考えられたのが、冬にライ麦を育てて、春先に刈り取らず倒してマルチとして利用する方法です。マルチというのは、地面の表面を覆って日光を遮り、雑草の成長を抑えるもの。ライ麦が2㍍ぐらいに育ったところを、ローラーで倒していく。この時、わざと刈り取らずに倒すのが秘訣です。すると願アンカーになって固定され、トラクターの車輪に絡まなくなります。さらに、倒れたライ麦の間の地面を円盤状にカッターで切り裂き、そこにタネをまいていきます。どうしてこのような方法がよいのか、生物学的には理屈がわかっています。例えば、ライ麦は1平方㍍当たり1㌔ぐらい茂らさないと、マルチの効果がありません。しかも、倒したときに立ち上がってこないように、実が柔らかい乳塾期を狙って倒します。早いうちに倒してしまうと、頑張って立ち上がろうとしてしまうのです。また刈り取らないで根がついているとアンカーにもなり、枯れるまでに光合成で作られた養分は糖類として根から土にしみ出すのです。これが微生物の餌になります。耕さないのでミミズが増え、土壌の物理構造を豊かなものにします。耕さないほうがよい土になるのです。耕す農地という不自然なシステムに帰る。そのためにもミミズがすめる畑を増やしていきたいものです。 【文化Culture】聖教新聞2024.2.15
February 18, 2025
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大坂に花開いた女性画家たち大坂中之島芸術館 学芸員 小川 知子 島成園、木谷千種、生田花朝……活力と熱意にあふれ、華やかに多くの国や地域と同様に、日本でも古来、芸術という職業は男性のものであった。手仕事として創作に関わるものは多かったが、女性という性別ゆえに本格的な絵画を治める機会は限られ、後世に名を遺す女性はごく一部だった。芸術家の親族(妻や娘)でもない限り、女性が芸術の道へ進むには困難な時代が長く続いたのである。そうしたなか、上村松園(一八七五-一九四九)が道を切り拓き、池田蕉園(一八八六-一九一七)なども続いて、明治末頃から助成日本画家の活躍が注目され始める。そして大正元年(一九一二)、大阪から島成園(一八九二-一九七〇)が二十歳の若さで文部省Ⓑ述展覧会(文展)に入選した。先輩格だった京都の村上松園と東京の池田蕉園に、大阪の島成園が加わり、雅号にいずれも「園」の字が就く女性がそろったことで「三都の三園」と並び称されるようになる。毎年開かれる文展に向けて誰が何を描くのか、新聞や雑誌でも盛んに写真入りで紹介され、今日でいう俳優やタレントのように取りざたされた。島成園の文展人選で沸き立ったのが大阪だった。若くて無名な女性であっても絵筆ひとつで才能を認められる可能性に発奮して、画家として名をあげる若い女性が次々と登場したのである。木谷千種(一八四〇―一九四九)をはじめ、成園と同世代の女性が二十代前半で文展に相次いで入選し、女性だけのグループ展を開催するなど、大正デモクラシーの時代を生きる新しい女性像を示した。彼女からの門下生からも官展に入選する画家が続々と誕生し、大正時代の大阪は、日本じゅうで最も多くの女性画家が活躍する都市として知られるようになったのである。浮世絵の流れをくむ美人画などの人物店に加えて、江戸時代から盛んだった文人画(南画)を描く女性も大阪には数多くいた。跡見学園の創始者で画家だった跡見花蹊(一八四〇-一九二六)と、帝室技芸員として名声を博した野口小頻(一八四七-一九一七)は、いずれも大阪出身である。河邉青欄(一八六八-一九三一)は近代大阪を代表する女性南画家で、多くのパトロンに恵まれた。郷土大坂の歴史風俗を描き続けてきた生田花朝(一八八九-一九七八)は大正十五年、女性として初めて帝展で特選となる快挙を遂げて、大阪の女性画家の存在感をさらに強めた。大坂中之島美術館で開催中の「決定版! 女性画家たちの大阪」は近代大阪ゆかりの助成日本画家五十九名による珠玉の作品群を紹介する、かつてない規模と稀有なテーマの天来会である。二十六歳の島成園による自画像《無題》をはじめ、大阪の女性たちは人間としての内面に迫る女性像を描いたことでも知られる。多くの女性画家は結婚を機に制作から遠ざかり、封建的な社会通念や世界大戦を乗り越えて画業を貫いたものは少ない。それでも彼女たちが確かに当時の美術界の一員であったことは、展示された作品群からも一目瞭然である。女性アーチストの先駆けだけだった彼女たちの創作に込められた想いとパワーを是非ご覧いただきたい。(おがわ・ともこ) 【文化】公明新聞2024.2.14
February 18, 2025
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時代の波に翻弄される人々作家 村上 政彦プラムディヤ・アナンタ・トゥール「ゲリラの家族」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、プラムディヤ・アナンタ・トゥールの『ゲリラの家族』です。プラムディヤは、インドネシアの作家です。彼の祖国は、350年の長きにわたってオランダの植民地でした。それが第2次世界大戦で日本国が侵攻し、オランダ軍を退けて全土を占領します。短い日本時代が終わると、イギリス軍の後押しを受けて、オランダ軍が戻ってきますが、インドネシアの人々は、独立のために戦いを起こしました。作家もその兵士の一人でした。その独立革命は、政治的な駆け引きによって、〝部分的な独立〟という、不完全な結果に終わる。失望したプラムディヤは軍を除隊し、ジャーナリストに。その後、反オランダ運動をした疑いで投獄されます。刑務所は、そのころのインドネシア社会の縮図でした。彼は、さまざまな人間と出会い、自らが生きる現実を知る。そして、小説を書き始めたのです。本作は、1949年、ダエラ・ムルデカ(解放区・独立地帯)と呼ばれる土地に住む、アミーラ家の日々を描いています。アミーラは、読み書きができない女性で、子だくさん。貧しい暮らしを支えるのは、長男のサアマンです。もとは管理をしていたのですが、植民者に奉仕することが耐えられず、ベチャ屋(輪タク=自転車タクシー)になります。そして、ある夜、憲兵隊に逮捕され、どこかへ連れていかれた。彼の嫌疑は、反政府活動をしていたことです。すでに弟の2人は、ゲリラとして戦いの最前線にいる。彼らが家にいたころ、父がオランダ軍に入隊し、これで老後は楽に暮らせると自慢するが、3人の兄弟が、上機嫌で酔っ払った父を連れ出し、銃で撃った。祖国の裏切り者を葬ったのです。 稼ぎ頭で、頼りにしていた息子サアマンが逮捕されてから3カ月。アミーラは狂い始め、長女のサラマが幼い弟や妹を世話する。彼女には官吏の婚約者がいて、家計の助けになってくれている。アミーラはじめ家族はみな、サアマンの帰りに望みを託し、つらい暮らしに耐えます。しかしゲリラ部隊の2人は戦死。サアマンも銃殺刑に。彼は刑務所の所長に言い残します。「祖国を守ろうとして、ひとつの家族がどうやって崩壊したか、あんたは知るまい」。英雄然と処刑に臨むサアマンは「俺は後悔している……(中略)なぜなら、俺は人間だから……」とも。他国に奪われた主権や土地は、国家の要素であるとともに、人間の生きるよすがとも同義だといえます。それを失った時、人間は命がけで取り戻そうとする(これは現在も同じ)。本作には、時代の波に翻弄される〝家族の物語〟が描かれています。[参考文献]『プラムディヤ選集1 ゲリラの家族』 押川典昭訳 めこん 【ぶら~り文学の旅㊸海外編】聖教新聞2024.2.14
February 17, 2025
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第二十五話 過去を引きずらない輪廻と業は、仏教の思想だと思っている人は多いが、そうではない。紀元前六、七世紀のウパニシャッド(奥義書)に登場した。それをバラモン教が、バラモン(司祭者)階級を絶対的優位とするカースト制度の意義づけのために利用した。バラモンと生まれるも、シュードラ(奴隷)や不可触民のチャンダーラ(旃陀羅)と生まれるのも過去世の業の善悪によるものと一方的に決めつけた。インドの社会通念となっていた輪廻と業を、釈尊は倫理的な意味に読み替え、現在は未来へ向けて善い行いと努力なすように強調した。原始仏教では、人の貴賤は「生まれ」ではなく現在の「行い」によって決まると説き、「バラモンと言われる人であっても、心の中は汚物にまみれ欺瞞にとらわれている」「チャンダーラや汚物処理人であれ、努力精進に励み、常に確固として行動する人は、再興の清らかさを得る。このような人たちこそバラモンである」とバラモン階級を無条件に上位とする差別思想を批判した。原始仏教には、次のような言葉がある。 過去を追わざれ。未来を願わざれ。過ぎ去ったものは、すでに捨てられた。未来は未だ到達せず。現在のことがらを各自の状況において観察し、動揺せず、それを見極めて、その境地を拡大させよ。ただ今日なすべきことをひたむきになせ。(『マッジマ・ニカーヤ』) 前世のことなど言われても誰を分かりはしない。そんな過去のことにくよくよして生きるのは愚かである。仏教は現在を重視した。現在の自分は、遥かな過去からの行いの総決算としてある。けれども、その内容は知る由もなし、過去にあった事実は変えようがない。しかし、現在の生き方によって過去は変えようがない。しかし、現在の生き方によって過去の〝意味〟は変えられる。極端に言えば、過去をどのように見るかは、解釈にすぎないのだ。バラモン教はカースト制度を正当化するために過去を悪用したが、仏教も過去を利用したところがある。それは、『ジャータカ』(本生譚)と呼ばれる過去世物語である。とくに佛教が盛んになったガンダーラには釈尊が来たことはなく、釈尊との接点を欲しがった。それは、過去世にさかのぼって「過去の釈尊がここで飢えた虎の親子を助けるためにわが身を投じたところだ」などといって物語を作った。あるいは、『法華経』提婆達多品は、とくに小乗仏教で極悪人とされた提婆達多の名誉回復を図るものだが、その手法は過去世にさかのぼって師弟関係を逆転させ、『法華経』を釈尊に説いて聞かせたのは提婆達多だとしてなされた。いずれも、過去世についての解釈であるが、悪用とはいえないだろう。過去に対するこのような態度も認められるが、仏教は、基本的に現在から過去と未来を捉えることを説いた。忌まわしい過去を引きずって現在を生きるのか、あの過去があったからこそ現在こうなれたとするかは、現在の生き方次第である。大乗仏教徒が、「自らの各号は、悪業に苦しむ人々を救済するために自ら願って身に受けた(願兼於業)と主張したのも過去の〝意味〟の主体的転換であった。『維摩経』に登場する天女が、不退転の菩薩の境地に達していて、女性の姿をしているのは、世間で蔑まされている女性を救済するために、自ら願ってのことであるということが、主人公の在家の菩薩によって明かされる。女性として生まれたがゆえに女性の苦しみを理解できる。だからこそ、女性を救済できるのだと主張した。大乗仏教徒は、現在の身に受けている悪条件を受け止め、他者救済の原動力に転じたのである。日蓮の著作とされる『諸法実相抄』に、過去・未来・現在についての仏教の視点を踏まえて書かれた文章がある。日蓮が書いたかどうかは別にして、格調の高さに感銘する。 日蓮は、其の座には住し候はねども、経文を見候にすこしもくもりなし、又其の座にもありやけん。凡夫なれば過去を知らず。現在は見へて法華経の行者なり。又未来は決定として当詣道場なるべし。過去をも是を以て推するに、虚空会にもやありつらん。 『法華経』の中心のテーマが展開される虚空(空中)での儀式(虚空会)に日蓮がいたかどうかを自問する場面である。そこで日蓮は最初に、「日蓮は凡夫であるから過去のことは分かりません」と切り出す。この書が書かれたのは、伊豆流罪を経験し、龍口刑場での斬首を免れ、ついには佐渡に流罪されている最中のことである。その事実を見れば、「現在は目に見えて法華経の行者である」ことは間違いないと断ずる。そうであるならば、未来は必ず覚りの座(bodhi-manda、道場と漢訳)に赴いて覚りに至ることは間違いないであろう。現在と未来がそうであるならば、過去に虚空会にもいたのであろう——と、過去は最後に出てくる。それも、「ありつらん」と遠慮深げな言葉で締めくくっておる。「私は釈尊の生まれ変わりだる」などと過去から現在の自分を意義づけようとする人たちとは格段の違いである。大事なのは、過去においてだれであったかということではない。現在、何をやっているのか、どのような生き方を貫いているのかである。それは、原始仏典の『サンユッタ・ニカーヤ』で『生まれを尋ねてはいけない。行いを尋ねよ』(中村元訳)と釈尊自身が語っていたことである。 【今を生きるための仏教100話】植木雅俊著/平凡社新書
February 16, 2025
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「進化論」が現代に伝えるものきょう2月12日は、イギリスの自然科学者チャールズ・ダーウィンの生誕215年に当たる。池田先生はダーウィンについて、モスクワ大学のログノフ総長や、米国デューイ協会の首脳など、数多くの指揮者と対談集で言及している。また、2006年の最高会議では、ダーウィンの主著『種の起源』に触れ、「10代のころに読んで、ノートに書き留めた、思い出深い一書だった」「彼の学説は、科学史上、最も革命的な思想として評価されている」と述べている。その上で、残念ながらダーウィンの学説「進化論」が人々に正しく認識されてきたとは言いがたい。例えば「『種の起源』では、人間はサルとの共通祖先から、より高等な動物へと進化し、今や地球上で〝頂点に立つ生物〟になったと論じられている」——というように。臣下生物学者の長谷川眞理子氏は、こうした理解は間違いだという。進化論は、階段を一段一段上る〝進歩〟のプロセスではなく、共通の祖先から、それぞれ生存のために環境に適応した〝枝分かれ〟の歴史である。それゆえ「生きものには高等も下等もなく、すべての生きものは横並びにある」「人間もサルもミミズも、サクラもタンポポも菌類も、現在この世で生きているあらゆる生き物は、進化の最前線に立っている、と彼は考えたのです」(『NHK 100分de名著『種の起源』長谷川眞理子』と。さらにダーウィンは、すべての動植物の祖先をさかのぼれば、一つの生命に行き着くと推察する。「地球上にかつて生息したすべての生物はおそらく、最初に生命が吹き込まれたある一種類の原始的な生物から由来していると判断するほかない」(渡辺政隆訳『種の起源』光文社)思えば、現代の人類が直面する環境破壊や地球温暖化などの問題の根底には、〝人間が世界の支配者であり、所有者である〟とのおごりがあった。自らの快適さのために自然を意のままに利用し、改変してきたのである。地球上の生き物は全てつながっている。そこに上下の別はなく、多様であるから素晴らしい——ダーウィンの訴えは、「持続可能性」を求めて生きる21世紀の私たちに重要な示唆を与えてくれる。 【社説「ダーウィン生誕から215年」】聖教新聞2024.2.12
February 16, 2025
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『創価学会教学要綱』についての私見 『創価学会教学要綱』(池田大作先生監修、創価学会発行、2023年11月18日)について私見をまとめました。参考になれば幸甚です。 2024年1月13日 中 野 毅 1991年に日蓮正宗と決別し、以来30数年にわたり、創価学会はその教学の刷新を模索していたが、それが結実したものが、この『教学要綱』と言える。個人的感想を交えてさらに記せば、1977年に第一次宗門問題が起こり、その際は準備不足や一部の首脳の裏切りなどによって短期間で敗北した。その際、片や頑固な僧侶中心主義の正宗と、在家信徒運動体の創価学会という、性質も権威の由来も異なった両者の対立は構造的に不可避であり、次に備えた準備の必要性を痛感した。東洋哲学研究所に関連する分野の研究者に集まってもらい、日蓮研究、宗門研究、仏教学、宗教学・宗教社会学などの研究部門を設置した。そこに集った方々が第二次宗門問題の際に活躍した。この教学要綱の編纂へも幾分かの貢献があったではないかと推察する。それを考えると、約半世紀46年かかって、ここまで辿り着いたかと感無量である。1.教義変更のプロセス 2002年の創価学会会則変更で日蓮正宗との関係を削除し、2014年に会則の教義条項を改訂して、「この会は、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰ぎ、根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ、御本尊に自行化他にわたる題目を唱え、御書根本に、各人が人間革命を成就し、日蓮大聖人の御遺命である世界広宣流布を実現することを大願とする」(第1章第2条)とし、新しい教義の骨格を示した。創価学会教学部による解説では、「末法の衆生のために日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、すべて根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたもの」であり、等しく「本門の本尊」である」とされた。従来の弘安二年板曼荼羅本尊が唯一の「本門の本尊」であることを否定したのである。 2021年の『日蓮大聖人御書全集(新版)』においては、『百六箇抄』『本因妙抄』は日蓮正宗で重要視される『身延相承書』『池上相承書』(二箇相承)とともに、「伝承類」に格下げとなり、代わりに『美作房御返事』『原殿御返事』が「日興上人文書」として付加された。日興の系譜は尊重するが、室町、江戸時代の大石寺教学は尊重しない姿勢をはっきりさせたのである。『百六箇抄』『本因妙抄』を日蓮真撰でないと明示したことにより、日蓮の本尊論は大きく変化することになった。また「三大秘法抄」も「教理書」ではなく、門下への手紙類としてあるのも興味深い。 このような経緯を経て、今回、『教学要綱』が池田大作先生監修として2023年11月18日付けで発刊された。しかし同日に、池田名誉会長が同月15日に逝去されたことが発表された。2017年のSGI規約の改正、2018年の創価学会会憲の制定、2021年の創価学会社会憲章の制定など、海外の組織も日本の創価学会のもとでコントロールしていく体制を確立したことを含めると、日蓮正宗と分かれた後の創価学会の教学から海外組織におよぶ新体制を全て整備し終えて亡くなられたことは、まことに感慨深い。2.学問的仏教史研究の活用=脱神秘化 仏教は人間主義の教えこの教学要綱は学問的な仏教研究、日蓮研究の実証的な成果を可能な限り取り入れ、一般の学者、他の仏教団体にとっても説得力のある教学の確立、後世の学問的批判に耐えられるレベルのものにすることを目指したと聞き及んでいる。必然的に、日蓮の真筆であることが明白な論書を基に、この教学体系は構築されたと考える。 その点が冒頭から明確に示されている。仏教の歴史を、インドで誕生した釈迦から始まるとした点である(第1章)。従来の日蓮正宗の教学、特に日寛教学では、久遠元初自受用報身如来の再誕が日蓮という意義付けで、日蓮がインドの釈迦の遥か以前に存在する本仏であり、釈迦を迹仏とみなすなど、歴史学的には全く根拠のない論理で、日蓮から仏教は始まると主張していた。そのような奇想天外な論理をよく構築したと感心するし、そのインパクトが大きかったことも事実である。しかし、学術界や海外においては受け入れがたい主張であった。 釈迦が目指したのは、生老病死などの苦からの解放であり、その道筋として四諦説、十二因縁を説いたとした。また当時の支配的思想であったバラモン教がカルマと輪廻を強調して聖職者バラモン階級の優位と身分制の固定を図っていたのに対し、釈迦はカルマとは日常生活における行為であり、社会的な身分や地位にかかわらず、誰もがその行いによって自身の境涯が定まるという「自業自得」説を説いたとする。これは一個の人間に無限の可能性を認める「人間の尊厳」「生命の尊厳」思想であり、身分などに関わりなく全ての人を尊敬する「万人の尊敬」の思想であるという。 これら釈迦が展開した「生命の尊厳」「万人の尊敬」の思想を、創価学会は「仏法の人間主義」と捉え、その人間主義の仏教が「法華経」、日蓮を介して創価学会に継承されたと強調する。2.三大秘法論の新解釈 脱呪物化および内心倫理化日蓮の法門の骨格をなすのが三大秘法であるが、「末法の衆生が『南無妙法蓮華経』を自身の内に確立し、さらにその環境にまで働きかけていく実践方法として、日蓮が創唱した」とした(74頁~)。 ①本門の本尊:「南無妙法蓮華経」を「本門の本尊」とする(3頁)。これは新たな展開である。そして、それを文字で表現したものが文字曼荼羅本尊とする。それは大聖人の内面に確立された仏の覚りの境地を顕したもの(77頁)、唱題のための「対境」であり、本質的には本尊は法華経、または南無妙法蓮華経そのものと考えている。本尊を信じて「南無妙法蓮華経」を唱えることで、仏界の働きが顕現する。 仏像などは本尊とせず、日蓮正宗が唱え、創価学会もかつて採用していた、「弘安二年の戒壇本尊」を人法一箇で唯一の「本門の本尊」とする説も否定した。その上で、日興が「富士一跡門徒存知の事」で記した「御筆のご本尊」という記述に依って、日蓮が顕した本尊と、それを書写した本尊をすべて「本門の本尊」として拝するとした。なお、創価学会員が信仰の対象とするのは、創価学会が受持の対象として認定した本尊に限るとした(82頁)。宗教学的には、曼荼羅本尊を「象徴」として捉えたのであり、従来の本尊論からの脱呪物化(物体を特殊な超越的力をもったものと捉える発想からの脱皮)と言える。②本門の戒壇:戒壇とは一般に出家した僧侶に守るべき戒律を授ける儀式および施設であるが、日蓮が末法には保つべき戒はなく、法華経を持つことを持戒とすると記したことを根拠に、本尊を信受し「南無妙法蓮華経」を唱える実践そのものに戒が充足されており、その場が「本門の戒壇」の意義を有するとして、会員各自が家庭で本尊に向かって題目を唱える場、および総本部の広宣流布大誓堂はじめ国内外の各会館も、「本門の戒壇」の意義を持つとしている(86~87頁)。 なお日蓮も伝教が比叡山に建立した戒壇を大乗戒壇として評価しているが、それはあくまで「迹門の戒壇」との位置づけだったこと、宗祖滅後に日蓮門下の一部が建造物としての戒壇建立をめざす運動が現れ、日蓮正宗の影響を受けて創価学会も「本門戒壇の建立」を一時目指したが、本教学要綱では、そのような戒壇論は日蓮自身の本意ではないとして廃棄している。 ちなみに、日蓮自身は戒壇建立について余り論究しておらず、「三大秘法抄」も学問的には後世の作であることが現在では明白となっている。日蓮正宗は戦前に田中智学の影響を受けて「本門の戒壇」を「国立戒壇」とし、その建立を教義として掲げていた。その影響で二代会長・戸田城聖は創価学会が広宣流布を成し遂げ、国立戒壇を建立すると決意して、政界進出の目的の一つしたことも事実である。しかし創価学会における国立戒壇の主張は、公明党を結成した1964年段階で廃棄され、言論出版問題を受けた1970年5月の本部総会で池田大作会長(当時)は改めて否定している。創価学会が「本門の戒壇」の意義を含む正本堂を1972年10月に建立寄進したが、会員の寄付による「民衆立」として建立された。③本門の題目:日蓮は『法華経』の題目である「南無妙法蓮華経」こそ『法華経』の肝心であり、末法の衆生が成仏するための法であると覚知し、立宗の時点で「南無妙法蓮華経」を唱える唱題行を打ち立てた。自行化他にわたって「南無妙法蓮華経」を唱え弘めることが、成仏を可能にする「本門の題目」である(86,90頁)。3.相対的な日蓮本仏論に立脚 釈迦・日蓮の人間化 凡夫本仏論 日蓮を「末法の本仏」とする表現は、本教学要綱でも継承されている。しかし、その内容は従来の日蓮正宗における日蓮本仏論からは大きく脱皮した。それを明示した点も、今回の重要な点であろう。従来の本仏論は、既に述べたように、インドで誕生した釈迦をも過去世において教導した超越的存在=久遠元初自受用報身如来が、法滅尽の末法に再誕したのが日蓮という位置づけであった。日寛教学の中心とも言える、この本仏論を「絶対的本仏論」と言うこともある。 それに対し、日蓮は末法において全ての人々が成道できる万人成仏の方途を三大秘法として明らかにした「教主」という意味において、「末法の本仏」と仰ぎ、「大聖人」と尊称するとした(95頁)。開目抄に「日蓮は日本国の諸人にしゅうし父母なり」と記し、日蓮は末法の日本で唯一の「法華経の行者」であり、人々を成仏に導く主師親三徳具備の仏であること、その慈悲心は広大であると自身で明言していることなどから、「末法の本仏」と言える。 このように、ある時代、ある場所に出現し、そこの状況に応じた成仏の方途を自ら顕す仏を「本仏」と捉える論を「相対的本仏論」と言うこともできる。その意味で、釈迦はあの時代のインドにおける本仏であり、天台智顗は当時(像法時代)の中国における本仏であったとも言える。このような新たな本仏論に、本要綱は立脚していると考えられる。 さらに「日蓮は凡夫なり」(選時抄)、「日蓮は名字の凡夫」(顕仏未来記)と記すなど、日蓮は凡夫の身を捨てることなく成仏の姿を現じたという点で、われわれ末法の凡夫全ての万人成仏の道を示したという意味でも、「末法の本仏」と言える。この視点は、日蓮の人間化とも評価できる。釈迦も後世に、次第に超人的な存在にされていったが、本来、歴史上の釈迦は他の人々と変わらぬ一人の人間であり、異なるのは、修行の結果として得た真理への洞察と慈悲が卓越していたことにあった(117頁)。釈迦をあくまで人間として捉えているのと同様に、日蓮も久遠元初仏の再誕とか、上行菩薩の再誕などと神秘化せず、『法華経』の肝心を「南無妙法蓮華経」という根本法として提示し、万人が修行して覚知できるよう、三大秘法を表した「末法の教主」として「末法の本仏」としたことは説得力に富むと言える。4.一生成仏・人間革命と広宣流布・立正安国 第三章では、日蓮思想の重要な点を、まず「一生成仏」または「即身成仏」に見いだし、死後や来世ではなく、現世において万人がその身のままで成仏できるとしていることを強調する。「成仏」も、特殊な能力をもった超人的存在になることではなく、釈迦が到達したような、苦悩からの解放と揺るぎない智慧と慈悲の獲得を意味する。この一生成仏、即身成仏の実践を、創価学会は現代的に「人間革命」と呼ぶと、日蓮思想と創価学会の理念との関連を明らかにした。 また日蓮は、末法における法華経の行者として、または釈迦から末法弘通の付属を受けた上行菩薩を己の役割と捉えて、万人成仏の教えである「法華経」を、その肝心の「南無妙法蓮華経」を広く流布することを自身の使命とした。その日蓮の使命を現代に受け継いで実践しているのが創価学会であると、「日蓮直結」を強調している(124頁)。 さらに日蓮が「立正安国論」を鎌倉幕府に提出して強調したように、災難を鎮め、国土・社会を安穏の地にするのが、日蓮仏法の目的でもある。人々の苦難は、天災であるとともに、時の為政者が有効な予防策や救援策を講じずに被害を大きくする人災でもある。日蓮は為政者も法華経を信奉し、そこに説かれた平和で安穏に暮らせる社会を建設するように促した。これが「立正安国」の思想であり、広宣流布とは正法を拡げるとともに国土・社会を安穏にすることでもある。創価学会が日蓮仏法を弘めるだけでなく、様々な文化・教育・社会活動を展開するのは、この社会や国土を安泰にするためである。公明党への支援など政治活動を展開する理由の一端も示している。5.在家による万人救済の民衆仏法の確立と展開 最後の章は、釈迦、法華経、日蓮と展開する仏教の重要な点は、出家者のみでなく在家も平等に成仏することを説いたことと捉え、この根本理念を踏まえて、現代社会で在家者主体の信仰活動を実践してきたのが、創価学会であり、世界192カ国・地域に展開していることを論じている。 日蓮が在家者の信心を重視したことは、弘安二年に起きた農民信徒三名の殉教(熱原の法難)を「ひとえに只事にあらず」と述べ、彼らを「法華経の行者」として最大に称賛したことに表れている(136頁)。それは日蓮が説く仏法が、広範な民衆に深く定着したことの証しであり、自らの仏法の永続性を確信した事件であった。そこに、日蓮は己の「出世の本懐」を確信したと捉える。この点も、「弘安二年戒壇本尊の建立」を「出世の本懐」とみなす日蓮正宗の主張と決定的に決別した重要な点である。 創価学会の歴史も、三大会長を中心に「宗教改革の歴史」としてまとめている。日蓮没後の日蓮系教団は僧侶中心主義になり、かつ政治権力への対峙姿勢も失っていった。牧口常三郎は日蓮正宗を通して日蓮仏法に出会ったが、戦時下に宗門合同や神宮大麻授受に反対したため、戸田と共に治安維持法違反と不敬罪の容疑で逮捕投獄された。正宗は彼らを登山禁止処分にした。牧口は獄死し、戸田は生き延びて、戦後、創価教育学会を創価学会として再建した。牧口、戸田は宗門興隆に一方では尽力したが、他方で宗門との対決の連続であった。池田も多数の寺院を建立寄進し、戸田時代に創価学会所有だった寺院も正宗に寄贈した。1972年には「本門の戒壇」となるべき正本堂まで建立したが、結局、創価学会は宗門から破門通告をうけ、正本堂は破壊された。こうした宗門との緊張・対立の歴史をたどっている。 正本堂建立は、その後の方向転換を決定づけた出来事であったと、筆者は推測している。おそらく戒壇本尊への疑義を生じさせ、宗門への貢献はほどほどにして、広布第二章へ進むことを決意させたと思われる。1977年1月の第9回教学部大会で、池田会長は「仏教史観を語る」と題する講演を行い、「宗教のための人間」から「人間のための宗教」への転換こそ仏教の本義であることを強調し、本来の仏法は、在家・出家の別なく、世間の地位や身分も関係なく、万人が仏になる道を説いたものであると強調した(144頁)。この講演を皮切りに宗門改革を目指したが、激しい抵抗に遭い、宗門との対立は決定的になった。その後の第2次対立をへて、創価学会は日蓮正宗と決別し、「御書根本」「大聖人直結」の主張を掲げて、日蓮の万人に開かれた仏法を、在家の教団として現代に蘇らせる運動をさらに展開していこうとしていると述べている。 なお本章では、創価学会の三宝論についても改めて明確にしている。仏宝は日蓮大聖人、法宝は南無妙法蓮華経、僧宝は創価学会とした(同書156頁)。かつては、仏宝は日蓮大聖人、法宝は戒壇本尊、僧宝は日興上人(『教学の基礎』1988年)としていたことを考えると、これも日蓮正宗と明確に決別したことを表している。ちなみに日蓮宗では三宝として、「仏宝とは法華経寿量品の久遠実成の釈尊であり、法宝とは法華経、更にはその肝心たる妙法五字であり、僧宝とは日蓮および日蓮の意に順ずる僧団である。」となっており、日蓮を筆頭とする僧侶中心主義に立っている(宮崎英修編『日蓮辞典』)。本章最後に「宗教の五綱」について述べ、日蓮の折伏思想を再解釈して、創価学会は日蓮のように「慈悲の発露としての折伏精神を堅持し、弘教においては、仏法の寛容の精神に基づき、相手の立場や思想を尊重しつつ、智慧を発揮して、共感と納得の対話を貫く・・・それは入会のみを目的とした行為ではなく、自他共の幸福を求め、互いに啓発し合い高め合っていく実践である」(169-170頁)と結んでいる。この折伏論は、従来は摂受とも言われた実践であるが、ともかく、そうあって欲しいと願うところである。おわりに:感想と課題 以上、筆者の見解や情報を少々交えながら、本要綱の意図したであろうこと、重要と思われる点を纏めてみた。各章で重複している記述もあるが、全体として創価学会の新しい「合理主義的立場に立つ教学」の骨格は示せたと評価する。 疑問点としては、「南無妙法蓮華経」を全ての根幹として強調しているが、それが鳩摩羅什訳の「妙法蓮華経」の表題への帰依以上に、如何なるものであるのかが判然としない。宇宙を支配する超自然的な法則など、超越的な存在や法などを想定しているならば、ある種の神秘主義への退行であり、残念なことである。ただ会員の実践に近いものである点では了解する。 日蓮本仏論は、この相対的なもので良いと考えるが、日蓮も凡夫であることを強調し、故に在家も含め全ての人間が現世で成仏が可能という、ある種の凡夫本仏論に立っている。類似の主張も既にあるが、それとの相違点は何か不明である。また日蓮も凡夫とするが、彼は出家者であり、在家とは明らかに異なる。その点は、どのように考えるのであろうか。 創価学会を僧宝とするのは良いが、創価学会を批判する者は、即、破仏法者として過度に批判する対象となる危険性も孕む。寛容で自他共の幸福を追求する教団として、そういう事態は避けなればならないことは言うまでもない。その歯止めをしっかり掛けて欲しい。また僧宝たる創価学会の三名の「永遠の師匠」を仏法上はどのように意義づけるのかも、今後の課題であろう。 立正安国を掲げる教団として、文化社会活動、政治支援活動に積極的であることはよいが、具体的には、普通の国民政党となった公明党を選挙支援する理由や根拠を、個々の政策が良いからというだけでは不十分である。ましてや自民党をはじめ他党の候補者を支援する場合、創価学会としては、どのような基準で人物を判断し、支援するのか、創価学会の教義や宗教理念に即しての支援基準をさらに明確にしていく必要がある。また選挙支援活動だけでなく、社会問題や政治問題に創価学会としての意見表明が、もっとあってよいと考える。その場合も、どのように判断するのか、その基準も明確にして欲しいと考える。 なかの・つよし 宗教社会学者。創価大学名誉教授。(公財)国際宗教研究所顧問。国家・政治、ナショナリズム、グローバル化と宗教との関係に関心。大災害や危機に宗教学や社会科学が、宗教がいかなる役割を果たせるのか考えています。
February 15, 2025
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▶ネット右翼の台頭が示唆するもの島薗 ここまで、国家と社会と宗教の関りを見てきて、読者の方にもこの問題の複雑さ、根の深さが伝わってきたと思います。戦前のように国家と宗教がダイレクトに結ばれないようにするには、どうすればよいのかという問いには、そうそう単純な答えはなさそうです。中島さんが全勝でいわれたように、全体主義体制を招いてしまったり、社会が空洞化しないようにするために、宗教的な中間共同体の意義を見直しする必要性があることは私も同意します。しかし、そういう議論をする場合はつねに、国家の宗教性というものをしつこいくらいに踏まえておく必要があります。日本における国家の宗教性の問題は、言うまでもなく、ここまで議論してきた国家神道の問題と関わります。戦前の国家神道のように、特定の宗教が(戦前では国家神道は宗教ではないと定義されたわけですが)、国家の権力と結びついて、交響的な空間を独占してしまう危険性のあるのではないか。事実、戦前では、各地の神社が中間共同体として支えていました。しかし、宗教組織だけではない。その上に、学校や軍隊も国家神道を支えていました。別の言い方をすれば、国家神道が戦前の日本の公共空間を覆っていたともいえると思います。私たちが、現在の自民党政権と日本会議や神道政治連盟のような団体との結びつきに懸念をもつのも、そういった戦前の経験があるからです。しかしそういった動きと呼応するかのように、ネット右翼と呼ばれるような排外主義的な人たちの存在感を強めています。そこで、まず日本の足元で進んでいる具体的な宗教ナショナリズムの状況を整理しておきたいのです。たとえば、ネット右翼のような現象を中島さんはどのように捉えていますか。 中島 ネット右翼の参加者は誰なのかという問題に対しては、いくつか異なる見方が提出されています。有力なのは、不安型ナショナリズムとして分析する見方です。一九九〇年大以降、社会が流動化してきた中で、周囲とのコミュニケーションがうまくいかず、実存の底が抜けてしまった若者が、アイデンティティを獲得する場としてナショナリズムに依処するわけです。しかし、その一方で、ネット右翼の中心層は、若者とは限らず、私よりもやや上の世代、四〇代ぐらいの男性が中心になっているという調査結果も出ています。しかも、彼らは社会からはじかれた低所得者なのかというと、必ずしもそうではないんですね。もちろん、そういう人もいるんですが、年収を見ると、およそ平均よりも少し高いくらいで、高年収の人も案外たくさんいる。学歴的にも、大学卒が多かったりする。 島薗 属性という点では、あまり共通性が見いだせないということですね。 中島 大括りの共通性を指摘できなくもないですが、やはりはっきりとした属性を示すことはできない。では、何が共通項なのかというと、彼らの言葉には「レジスタンス」や「本音」という言葉が頻出するんです。つまり、既得権に対する強烈な反発が彼らのなかには強くあります。ネット右翼の代表的な存在とされる在特会について考える時に、在特会の正式名称に注目する必要があります。「在日特権を許さない市民の会」というんですね。みんなは「在日」にばかり注目しているのですが、本当に重要なのは「特権」と「市民」という部分です。彼らは、特権というものに対して強烈に反発しています。彼らがデモを仕掛けているのは、在日コリアンに対してのみではないのです。実は部落解放同盟にもしかけたりしている。ですから、彼らは、ある集団の人々が特権を握り、自分たちはそこから除外されている「市民」だという認識を持っている。そのいら立ちは、マス・メディアに対しても同じように激しく向けられています。自分たちの主張が大手メディアからは排除されている、だから『朝日新聞はけしからん』となるんですね。自分たちは常に「理プリ前途(代表)」されていないという認識が強くあり、一部の建前の世界の人間が特権を享受しているという思いが強くある。ネット右翼は、それに対する抵抗運動、レジスタンスだという感覚なのですね。 【愛国と信仰の構造「全体主義はよみがえるのか」】中島岳志・島薗進著/集英社新書
February 14, 2025
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「対話」で大切にしたい「同意なき共感」とは——現代は価値観が多様化する中で、「他者への共感」が難しくなっていると、評論家の與那覇潤さんは語ります。そんな社会への処方箋は「対話」にあり、そこでは「同意なき共感」が求められると言います。多様な人と関わる時に、相手を否定せず、対話を続けるヒントを聞きます。(聞き手=掛川俊明、村上進) インタビュー 與那覇 潤さん自身と信頼は一体——近著のタイトルは、『危機のいま古典を読む』(而立書房)です。與那覇さんは、「今」という時代の危機を、どのように見ていますか? 思い出すのは1979年7月、アメリカでジミー・カーター大統領(当時)が行った「コンフィデンスの危機」という演説です。東寺は、イラン革命によって起きた第2次石油危機(オイルショック)の最中です。政治的な要因から資源高になり、物価上昇が国民生活を直撃しました。この構図は、ウクライナ戦争がインフレを加速させる現在にも通じます。カーターの演説が優れていたのは、エネルギー危機や物価高騰など個別の問題の背後に、より深刻な危機の本質があると指摘したことです。根本的な危機は、米国社会が「コンフィデンス」を失ったことだと訴えたのです。コンフィデンスは、「自信」とも「信頼」とも訳せます。日本語だと、自身とは自分の心の「内側の問題」、信頼は他者と関係する「外側の問題」だと分けられがちですが、その二つの意味が一語に含まれている点が重要です。実は「自信がないと信頼関係は築けない」し、「信頼がないと自信も生まれない」のです。自信を持てず、「周りの人は私を嫌っているのではないか?」という不安のなかでは、他の人を信頼できません。逆に、周囲を信頼でき、自分が排除されることはないと思えば、自信がわきます。「自信と信頼」は、一体の存在なのです。日本もまた、コンフィデンスの喪失に直面していることは、近日の危機への対応のあり方を比較するとわかります。2011年の東日本大震災の際には、「絆」がスローガンとなり、お互いを信頼し、助け合おうと励まし合ったはずでした。しかし、20年からの新型コロナウイルス禍では、感染を広げているのではないかと、お互いを「お互いを疑いの目で見合おう」とする態度が広まりました。 強まる人間不信——自信や信頼が失われると、どのような影響があるのでしょうか。 他者へのケア(配慮)や共感が消えてしまいます。コロナ禍の際には、時分とは生活スタイルが異なるという理由だけで、そんなものは「不要不急だ」と切り捨てる風潮が高まりました。自分と違う相手には配慮しなくていい、と唱える発想が強まっています。そうした態度の根底にあるのは「ニヒリズム(虚無主義)」です。平成期には長期不況のもとで雇用が流動化する一方、インターネットが普及して交際する人の範囲が広がりました。その副作用として、「世の中には話が通じないやつが元にいる」「だから他人は信用できず、自分しか頼りにならない」と考える人が増えているのではないでしょうか。もともと、日本の社会では、他人に「迷惑をかける」のが悪いことのように言われ、過度の自助志向が前提とされがちです。それが人間不信と結びついた結果、誰もが自分の「ネガティブ(否定的)」な部分を見せづらくなっています。もし、そういった部分を見せれば、付け込まれたり、攻撃されたりするのでは、と恐れがちです。だからSNSのプロフィル欄でも、自分の明るくポジティブ(肯定的)な要素ばかりを強調してつながりを作ろうとする。しかしネガティブさを「隠した」状態では、本当に安心できる居場所は見つかりません。私は大学教員として働いていた時、双極性障害に伴う重度のうつ状態になりました。休職中、社会復帰のために病気の人同士が通う精神科のリワークデイケアを体験したことで、社会と居場所の問題がよく見えるようになりました。大学は、ある意味では民間企業以上に、「能力主義」を掲げる場所です。しかし、祖pレは有能な、つまり「ポジティブな存在」でなければ受け入れないお場所にもなっています。そして実際のところ、観心の「能力」の判定すら、十分にフェア(公平)な形でなされてはいません。逆にデイケアに集まる人は皆、類似の病気に悩んでおり、その意味で「ネガティブさを伴っている」ことが前提です。それでも居ていいんだよという、ポジティブさを求めない「無条件の承認」があることで、人は初めて安心し、互いに心を開くことができます。近年、メンタルヘルスへの注目が高まっているのは良いことですが、心配なのは、「病気でも活躍できます!」といったポジティブな取り上げ方ばかりが目立つことです。私がうつ状態だった時期を振り返っても、見ていて励まされたのは、ポジティブな人が「大活躍」するストーリーではなく、むしろダメさを抱えたネガティブな人でも「最後は何とかなるよ」という物語でした。メディアのなかにも、ネガティブさの「居場所」を確保していくことが大事だと思います。 炎上より寛容を——最近は、インターネットなどでニュースが流れると、特定の人に激しい罵声が浴びせられるのを目にします。 テレビのワイドショーの話題をなぞる形で、インターネットで目下〝炎上〟している組織や人を、集団で〝たたく〟構図が多いですよね。当事者や関係者なら、つい非難の言葉が強くなり之も仕方ないかもしれません。しかし、もともとは何の興味関心も持っていなかった部外者ほど、炎上の構図が定まった後から入ってきて、一番ひどい罵倒を浴びせたりします。そうした行為は、社会正義とは、なんの関係もありません。単に周囲と同じ行動をすることで、「自分はマジョリティー(多数派)だ」と確認するための儀式にすぎないからです。ここまでメディアでたたかれている相手なら、自分がたたく側に加わっても、決して言い返されないだろう——。そうした「ワンサイドゲーム(一方的な試合)を楽しもう」とする欲求が強まっています。近年、よく「多様性」が大切だと言われています。しかし、本当の意味での多様性には、時分とは意見が違う相手とも、その関係を破綻させずに接し続ける「寛容さ」が求められます。かんようさとは、悪だと思う相手を「批判しない」という意味ではありません。批判はするし、必要なら法的な手続きを踏んでも罰も課します。けれど、彼らはどういう理屈や背景で、その悪を行ったのか。寛容さとは、そうした事情を理解しようと試みることです。再び同じような悪を生まないため、つまり再発防止のためにこそ、そうした寛容さは、むしろ必要になります。この時大切なのは、「同意」と「共感」を区別することです。非難されている人の理屈にも耳を貸そうというと、「あんなやつに同意するのか」といきり立つ人が多いのですが、相手を理解するのと同意するのとは全く違います。カウンセリングの原則として知られる、同意なき共感」という概念があります。メンタルヘルスに不調がある状態では、だれしも「自殺したい」「怒りの対象に危害を加えたい」など、同意してはいけない内容を口にすることがあります。しかし、その場合も共感を通じて、「あなたがそう考えるに至った事情は理解したい」という姿勢を保つことが、カウンセラーと当事者とが関係を続けていくためには不可欠です。「自分は多数派である」「だから、自分と異なる意見は出てこない」と思い込んでいる人には、そうした共感は生まれません。結果として、本人もまた、少しでもネガティブな失敗をしたら、誰にも理解されず、一方的に攻撃されるだろうという恐怖感に取りつかれ、相互不信が深まってきます。そうした悪循環を続ける限り、コンフィデンスは回復しません。炎上した事案が出るたびに不毛な「勝利を積み重ねても、その快感は一瞬で終わり、「自信と信頼」は得られないのです。 「対面」で気遣い合うことで「無限のケア」を生み出せる 〝会う〟ことが基盤——寛容さと共感を通じて、「自信」と「信頼」を取り戻すには、どんなことが必要でしょうか。 コロナ禍では「不要不急」だと見なされがちだった、「対面」の意義を再認識することが第一歩です。同じ場所で目の前にいる人に対して、私たちは「意見が違うから」という理由だけで、いきなり殴ることはありません。「もう少し、こうしてほしいな」と思っても、その伝え方は相手が傷つかないように工夫しますよね。物理的に一緒にいると、おのずと相手に配慮する。「対面」には空間的な制約が強い半面、そうした「無限のケア」をつくり出す力があります。昨年、小野卓也氏との共著で刊行した『ボードゲームで社会が変わる』(河出新書)では、私がそう考えるようになった給食中の体験を紹介しています。リワークデイケアには、利用者同士で「ボードゲーム(盤上ゲーム)」をプレーするプログラムがありました。単に遊びで気をまぎらわしていたのではなく、それが病気から回復する一番の基礎になったと、実感として思っています。デイケアではSNSとは異なり、勤務先などのプロフィルを名乗らないので、自分の「能力や実績」を誇示する機会は、あまりありません。病気の前に送ってきた人生もバラバラですから、遊んでいるゲームに「すぐなじむ人」「うまくできない人」という差も出てきます。けれど対面しながらプレーすることで、誰もが「自分だけでなく、みんなで一緒に楽しみたい」と思うようになります。ゲームが得意でルールを熟知している人も、その知識を「他人に勝つ」ためではなく、「相手にアドバイスする」ために使い始めます。そこにこそ、日本社会からコンフィデンスを失わせてきた、相互不信や能力主義を乗り越えるヒントがあるのではないでしょうか。同署では、「寛容」で「共感」のある社会を取り戻すために鍵となる概念を二つ紹介しています。一つ目は「ノット・フォー・ミー(私には向かない)」。ボードゲームのファン同士で議論する際には、相手が薦めるゲームを「つまらない」と否定せず、「自分には向かない」という言い方をします。お互いの好みの違いに配慮するわけです。自分の感覚を絶対視しない姿勢は、人間不信からマジョリティーに交じって安心しようとする焦りにストップをかけ、寛容さを養ってくれるでしょう。二つ目は「グラデーション(濃淡をもつ連続性)」。多くのボードゲームでは、「完全な実力」ないし「完全な運」だけで勝敗が決まることが少なく、実力と運の間にグラデーションがあることを教えてくれます。世の中には「実力だけ」だと考えすぎると、競争に敗れた人を「能力が低かった」と切り捨てがちです。逆にどうせ「運だけ」だとあきらめてしまったら、すべてに投げやりな自暴自棄に陥ります。どちらでもない「中庸」の感覚を回復することを、ボードゲームは助けてくれるのです。1979年、米国大統領だったカーターは、コンフィデンス(自信と信頼)を取り戻さない限り、社会が行き着く先は「断片化と利己主義」だと警告しました。相互不信の結果、「自分さえ良ければいい」と皆が心を閉ざせば、他人に共感すること自体が不可能になってしまいます。これに対し、自分が楽しむためにこそ「周りの人も楽しませたい」という形でなら、李ことり太は、いつでも両立できます。私もボードゲームの体験を通じて、うつの中で失った他者への信頼を取り戻し、能力主義を乗り越える糸口をつかむことができました。対面での対話を重視する創価学会のコミュニティーは、そうした形でコンフィデンスを取り戻す基盤にもなり得るはずです。いきなり社会全体は変えられなくても、目の前の人への態度を「不信から共感へ」と変えることなら、私たちはできる。そうした「ささやかな変革」の積み重ねこそが、今、求められていると思います。 よなは・じゅん 1979年、神奈川県生まれ。東京大学大学院博士課程修了。公立大学准教授として日本近代史を教えた後、2017年に病気離職し、評論家に。20年に『心を病んだらいけないの?』(斎藤環と共著、新潮選書)で小林秀雄賞受賞。他に『中国化する日本』(文春文庫)、『平成史』(文藝春秋)など著書多数。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2024.2.10
February 14, 2025
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秀吉の戦果自賛で困惑か信長側近による返書を発見兵庫県立歴史博物館と東京大資料館編纂所の村井祐樹准教授は8日、織田信長側近から羽柴(豊臣)秀吉に当てられた返書など5点が見つかったと発表した。秀吉は主君・信長の歓心を買おうと、側近に戦果を逐一送って、自賛していたとみられる。そのたびに「さすがの御手柄」「天下で大変な評判」などと持ち上げの返書を出しながらも信長側近らが困惑していた様子がうかがえるという。発見された書状などから村井准教授は、信長を「部下に常に報告などを求める中小企業の社長」、秀吉を「聞いてもいない手柄を自慢する嫌な同僚」と両者の性格を分析している。村井准教授によると、21点は秀吉宛ての返書。書状からは、現在の兵庫県三木市で織田信長と、信長から離反した別所長治が戦った三木合戦(1578~80年)や、鳥取城(鳥取市)の兵糧攻め(81年)の詳細が明らかになるとともに、秀吉が信長へ逐一戦況を報告していたと推測される。側近に功績を持参する書状を大量に送ることで、信長の耳にも入ることを狙った工作とみられるという。秀吉の戦功自賛に信長側近8人が連名で「さすがの御手柄と存じます。天下で大変な評判ですので三木の落城に時間はかからないでしょう。別所は羽でも生えて旅立つよりほかに脱出する方法はないと、みな感じ入っております」と秀吉をおだてる内容で変身していた。 【トピックス】聖教新聞2024.2.10
February 13, 2025
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希望を抱き続ける人は永遠に青年感傷に囚われるな池田先生の『完本 若き日の読書』の一節に「神田に出かけることの多かった私も、一時は西田哲学にひかれたものである。また当時、敗戦の年の九月に哲学者=三木清が獄中死を遂げたこともあって、彼の著作はベストセラーになった。私も『哲学ノート』や『人生論ノート』、それに『読書と人生』などを買って読んだ記憶がある」とある(「宇宙生命との対話」の章)。今回のテーマは三木清。三木と同郷の出身である哲学者・国語教師の玉田龍太朗さんと、『読書ノート』に記された三木の五つの言葉を手掛かりに、時を超えた「師弟の道」を読み解く。 第13回 哲学者・国語教師 玉田 龍太朗 ——玉田さんは、哲学者・三木清(1,897~1940年)と同郷で同じ高校のご出身です。三木清やフィヒテの研究で知られる哲学者であり、高校の国語化の現役教員でもあるという立場から、哲学や教育についてうかがいます。創価大学・創立者の池田先生も、若き日から、三木清の作品を愛読しておられます。 玉田 私も創立者である池田先生が18,19歳の頃に記されたという「読書ノート」(『完本若き日の読書』収録)を拝見しましたが、その中には、三木清の『人生論ノート』からの抜粋が五つありました。三木清が亡くなってから2年ほどの時期に、創立者は、生きる指針を求め思想を熟読していたようです。結論として、私が申しあげたいことは、「人は、良書の読書によって、よき人格を形成することができる」ということです。高校で教壇に立っていますのでよくわかるのですが、現在の高校生も決して読書をしないわけではありません。ただ、その読書の内容は、物語の面白さに熱中して読む、「エンタメ(インターテインメント)読書』ともいうべきものが中心でしょう。 ——ある創価大学の教員が、創価学園で講義をした時に、学園性が「創立者の『若き日の読書』を読んで、エンタメに終わらないプラスアルファの読書を知った」と感想を寄せてくれたそうです。古典などの良書を通じて、教養や人格を高める読書と、今の若者の読書とは、違うかもせれませんね。 玉田 読書の姿勢の転換が教育上の課題になっていると思います。教養や人格を高める種の読書の習慣づけが必要です。そのためには、私たち養育者が語りかけながら、生徒を導く必要があるといえます。みきの「語られざる哲学」に、こうあります。「私が根本的に求むるものは哲学を知ることではなくして哲学を生きることである」三木の哲学は、知識としてのものではありません。ただ哲学を「知ること」ではなく、哲学を『生きること』を希求する立場から、問いを立て、思索し、そして語っているのです。比較思想学会の名誉会長を務められた中村元博士が、著書『比較思想の軌跡』のなかで、創価学会の牧口常三郎初代会長について言及しておられます。私も同じ比較思想哲学の会員です。中村博士は〝日本の学問は、外国の学者の研究に「注釈」をつけてきただけであり自分で考えることをしなかった。その意味で、精神的には自立しておらず、自信がない。「奴隷の学問」である〟と指摘しています。日本の学者たちは、西洋哲学を知識として飲み、受け入れていたという批判です。 「奴隷の学問」と「利他」の精神——中村博士といえば、仏教学を中心とした東洋思想の世界的権威ですね。昨年(2023年)11月の本部幹部会で、池田先生が中村博士の著作に言及された映像を拝見しました。 玉田 中村博士は、知識人が、「奴隷の学問」に囚われる中で、「民衆に根差して生きていた人」「迫害にも抗した人」は、違う立場をとっていたと分析しています。「西洋思想に呈して批判的であった一つの例としてわたくしが感じるのは、牧口先生である」「なぜわたくしが注意するようになったかというと、わたくしの学生時代(昭和初期)から、哲学とは新カント派の『真善美』、あるいは『聖』を付け加えて、価値の体系を立てる。どの(日本の)哲学者も体系を立てる。同(日本の)哲学者もそのとおり講義していて異論をはさむもの者がいなかった。で、私は密かに考えてみたのである。これらの諸々の価値は矛盾することがある。日本の古典を見ても、これらの価値が矛盾するというような場合はいくらでもある。ところが、大学の哲学の先生は、そういうことにはまったく関係なく、ただヴィンデルバンドとリッケルトとかの(西洋哲学者の)言われたことをずうっと述べている。それに対して反撃をくらわしたのは牧口常三郎一人だけなのである」 ——机上の学問に終始していた「大学の哲学の先生」と、民衆のために行動した牧口先生を、対比して論じていますね。牧口先生の「価値論」では、「利」の価値を重んじていいることに独自性があります。 玉田 その「利」の価値こそ、仏教に通じるものだと中村博士は見抜いています。「『理』というと利益を連想されるけれども、しかしこれは、案外、東洋哲学の核心に迫るものだと思われる。仏教ではいちばん大事にするものは何だというと、結局、『人のためになる』ということである」「利他」、いわば菩薩の精神ですね。「わたくしは牧口常三郎の思想を特に研究したこともなく、また評価することもできないが、『人のためを図る』ということは仏教の基本精神であり、大切なことであると思う。ところが、日本の西洋哲学研究者は、そこまで思いをはせることができなかったのではないか」中村博士が言うように、牧口初代会長の哲学は東洋思想の主体性を失っていません。穂頃があり、気骨があります。牧口会長の「自分で考える態度」こそ、三木清の言う「哲学を生きる」ことに通じるのではないかと思います。 ——池田先生が『読書ノート』に記した三木清の言葉の一つ目は、「感傷には常に何らかの虚栄がある」(『人生論ノート』感傷について)という言葉です。池田先生は、「信心は感傷ではない。信心は勇気です」と常々、教えてこられました。 玉田 特に青年は、感傷と虚栄に囚われないことが大切です。センチメンタルになって、思い出話を語ることもあるでしょうが、それがただの虚栄からの自慢話になってはいけませんよね。次に向けてどういう戦いを始めていくのか常に考えないといけません。実は、今回の取材がちょうど(2023年)11月18日でしたので、私は創立者の逝去の報に接したまさにその日に、信濃町を訪れています。創価学会本部にいらっしゃる皆さんが、どのような様子なのかを拝見したのですが、任務に就いている方々は、みなが指名を感じて普段通りの対応をされているように見えました。これこそ創立者の望まれている姿なのだろうと。参照に耽るのではない。常在戦場の精神です。「行動的な人間は感傷的ではない。思想家は行動人としてのごとく思索しなければならぬ。勤勉が思想家の徳であるといふのは、彼が感傷的になる誘惑の多いためである」(同)行動する人間は感傷的ではありません。動いているからこそ、センチにならない。創立者は、まさに行動する思想家でした。若き日から、身体が弱かったのですから、人生をはかなんで感傷的になってもおかしくないのですが、そんな様子は見受けられません。 ——池田先生にお会いして、涙を流す学園性に『泣くんじゃない。すべて、分かっているよ』と先生が声をかけられた場面がありました。負けてはいけない。前進するんだというのが、何度も繰り返されてきた先生のメッセージです。 悲哀を乗り越えて玉田 三木清は、師匠である西田幾多郎に行動する思想家の姿を見ています。西田は5人の子どもに先立たれるなど、幾度も不孝に襲われています。ところが、西田は悲哀のなかで学問に撃ち込み、光を見いだしていくのです。三木清も、33歳の妻に先立たれました。母を亡くした娘のために、「幼き者の為に」という一文を残していますが、三木も行動することで悲哀を乗り越えていきました。師匠の姿を学び取っているのです。ドイツの鉄学者ショーペンハウアーは言います。「虚栄心は人を饒舌にし、自尊心は沈黙する」(『パレルガ・ウント・パラリポメナ「(余禄と補遺」)青年は、おしゃべりな評論家になってはいけません。新年を貫くことができず、と龍でやめてしまう人は、概しておしゃべりです。自分ができなかったことに理由をつけて、批判ばかりしています。行動で示すことはできません。青年は、そうであってはならないと思います。若くありたければ、行動しよう、ということです。国語教師の立場から言うと、日本人の文化は「反実仮想」の文化という側面があるように感じます。「反実仮想」とは、「もし…ならば、…だろうに」といいうことですね。心の中で「現実とは反対のことを、ついつい仮に想像してしまう」ようなメンタルティーが日本人にはあるように思われます。このメンタルティーをネガティブなものではなく、ポジティブなものに転換していこうということです。 ——「読書ノート」の二つ目と三つ目の三木の言葉は、「噂」についてでした。「歴史は不確定なものから出てきている。噂というものはその最も不確定なものである。而し歴史は最も確定的なものではないのか」(『人生論ノート』噂について)「噂するやうに批評する評論家は多い、けれども批評を歴史的確率の問題として取り上げる批評家は稀である」(同) 玉田 近視眼的な視点ではなく歴史的な広い視点から、不確定なものを確定的なものに転じていくことが、行動する思想家の課題となります。確定的な歴史を築いていくことが大切です。噂や批評など問題ではなく、歴史的確率(=蓋然性)を高める具体的な行動を起こせるかどうかということが問題なのです。実質がわかっていない表面的な批評など、気にすることはありません。青年は、感傷や思い出にふけったり、人生を虚栄や虚飾で彩ったりすることなど求めていません。哲学を胸に抱いて確かな歴史を築こうという生き方、未来志向で行動する思想家の人生を求めることが鍵になります。池田青年にとっては、それが創価学会においての広宣流布への行動であって、歴史的確率を高める生涯を送られました。創立者が創価学会を日本最大の教壇に成長させたのですから、それを継承する創価学会の皆さんは世界人としての大きな視野に立って未来を開いていただきたいと思います。 「本因妙」こそ未来志向——「噂」というものが「不確定なもの」というのは、納得できます。創価学会への批判は、「噂」をもとにした根拠のないものが数多くあります。最近も、「光文社」が、「時移民評異動」なる「噂」を書籍として出版しましたが、デマであったことを認めて謝罪しました(23年12月)。 玉田 真実が見えていないちまたの噂などというものは、気にする必要がありません。「もし、…であったら」という「反実仮想」は、往々にしてネガティブな「過去志向」です。日蓮仏法では「本果妙」ではなく、「本因妙」を説きますね。「これから」「今から」を大切にしている。この考え方こそ、ポジティブな「未来志向」です。創価大学の伊藤貴雄教授によると、創立者が「読書ノート」を書いたのは、ちょうど戸田情勢第2代会長と出会う直前か、あるいは直後の時期のようです。三木清の『人生論ノート』を読み、内的対話をしていたのだろうと思います。三木清と西田幾多郎の師弟は、間違いなく創立者の師弟観に影響しているでしょう。そのころに、戸田城聖という人物をロールモデル(模範)として、創価学会の侵攻を使命として引き受けることとなった。『人生論ノート』の読書は、「池田大作が池田大作になるために必要だった」のだと思います。 ——「読書ノート」では、『人生論ノート』の五つの言葉が、前半と後半に分かれています。これまで引用した三つの言葉が前半になり、その後に、ソクラテスの言葉が引用されています。この配置は、『人生論ノート』を池田先生が熟読していたことを読み取れる一つの根拠でないでしょうか。 玉田 創立者は、ただ単に一冊の本を読んで、気に入った言葉を抜き額しているのではないようです。『人生論ノート』を読み、プラトンの本を読み、そしてまた『人生論ノート』を読み直す。そうした思索を続けていたと考えられます。しかも、ソクラテスとプラトンといえば、世界で最も有名な師弟でしょう。創立者は次の言葉を「読書ノート」に抜き出しています。ソクラテス「ところが有益なのは智者の意見ではあるまいか」(プラトン『クリトン』より)ソクラテス「また善く生きることゝ美しく生きることにただしくいきることゝは同じだといふこと、これにも変わりがないが、それともあるのか」(同)「智者の意見」が有益であり、「無智者の意見」が有害だというのは、仏教でいえば、「善知識」と「悪知識」という言葉でも表現できそうです。弟子プラトンは、師ソクラテスの言葉に「善のイデアと美のイデア」という自分の根本思想を仮託しました。 「師弟」の道を求め抜く日々 ——池田先生は『青春対話』で、「人間にも善人・悪人があるのと同じように、本にも良書・悪書がある」と言われています。戸田先生も週刊誌のような「悪書」を青年が読んでいると、烈火のごとく激怒されたそうです。 玉田 良書と悪書を見極める力が必要です。一見とっつきにくい本も、読み方によっては、自身にとっての良書に生えていくことはできます。世界中の思想は、すべてが歴史の制約の中で生きています。文字をそのまま額面通りに受け取るような読み方ではなく、その一分が書かれた根本の精神がなんだったのかと、一歩引いて全体観に立つ読み方を心がけましょう。そうして、自分の中で思索を重ね、肉化していくのです。わたしも、『新・人間革命』を読ませていただきました。感銘を受けたのは、創立者が宗教学者のブライアン・ウィルソン博士と対談を直面です。とくに「隋方毘尼」——仏法の本義にたがわない限り、各地域の文化、風俗、習慣や、時代の風習に従うべきだという考え方に立つというくだりに、重要な意義があると思います。創価学会は、原理主義と決別し、世界宗教へ飛躍するという宣言でしょう。宗門が創価学会を「破門」した折、私はまだ高校生でしたが、シラーの『群盗』を愛読しておりました。宗門がシラーの作詞した「歓喜の歌」を「外道礼賛」と批判したことが報道されており、シラーを認められない宗教など教条主義以外の何ものでもないと痛感したものです。 ——西田幾多郎の『善の研究』を、若き日の池田先生が熟読していたことからも、三木清と西田幾多郎の師弟のドラマは、池田先生の師弟観に大きな影響を与えていそうです。 玉田 「読書ノート」の出店交渉にあたった伊藤教授によると、創立者が戸田城聖会長と出会う直前から、戸田会長の会社に入社するころまでの時期に読まれていますね。三木清が、自分にとっての師匠として西田を求めたように、創立者も自分にとっての師匠を求めた。戸田城聖という人物を求めたのです。戸田城聖と池田大作の師弟関係はどうだったか。ここで私は、その問いを立てるにとどめていたのです。旧強者の戸田城聖が書いた「人間革命」と、創立者の『人間革命』『新・人間革命』に訂通するヒューマニズム思想を、幹也に死だといった哲学者の師弟関係にみられる諸々の寒天を参照しながら考察していくことが、これからの比較思想研究の課題となるでしょう。 大事なのは人格形成今は何もなくてもいい——創立者が「読書ノート」に記した四つ目の言葉は、「幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるやうにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることができる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じやうに彼自身と一つもものである。この幸福をもつて彼はあらゆる困難と闘ふのである。幸福を武器として闘ふ者のみが斃れてもなほ幸福である」(『人生論ノート』幸福について)というものです。降伏には二つあるというのが、戸田会長の分析でした、相対的幸福と絶対的幸福です。 玉田 干渉や虚栄にふけっている時にも、幸せを感じています。ですが、そういった相対的幸福は、「ひとが外套を脱ぎすてる」ように取り換え可能です。名聞名利も幸せですが、真の幸福を確立しないというのが三木の思想です。 ——「読書ノート」に引用された三木の最後の言葉を紹介します。「希望に生きる者はつねに若い、いな生命そのものが本質的に若さを意味してゐる」(『人生論ノート』希望について) 玉田 希望を抱き続ける人は永遠に青年である——この言葉を象徴する人物こそ、創立者ではないでしょうか。三木清は、希望をどう考えたのか?「我々は生きてゐるかぎり希望をもつてゐるといふのは、生きることが形成することがあるためである。希望は生命の形成力であり、我々の存在は希望によつて完成に達する」(同)大事なのは、人格形成です。今は、何もなくてもいいんです。法華経では、何もない台地から、地涌の菩薩が湧き出てきます。同じように、何もないところから、いかにして個性を発揮していくか。理想や理念に向かって、人格を形成していく力が希望です。創価学会の皆さんは、「私こそは地涌の菩薩である」という誇りに満ちています。創立者の偉大さは、あとに続く創価学会の皆さんのなかから、どれだけの人格が出てくるか、そのことによって証明されていくものと私は期待しております。 【読書は人生を開く扉 創価大学「池田文庫」をひもとく】Soka SINPO2024.1.17
February 12, 2025
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ペリー来航の真意作家 穂高 健一昨年の『妻女たちの幕末』の連載を通して、ペリーの来航の目的が学術開国にあったことを描いた。多くの読者から、「初めて知った事実だ」と驚きをもって受け入れていただく一方、「学校で習った砲艦外交に間違いはない。小説とはいえ創作が過ぎる……」との批判があったことも、また事実。こうした批判の払拭に努めるべく、私はオランダ・ライデン市のシーボルト記念館を訪ねた。 日本遠征で学術開国迫る副館長の女性学者が、同館の休館日にもかかわらず対応してくれた。「私は作品で、ペリー提督の履行の主目的は学術開国だった、と展開しています。オランダ側の見解を聴きに来ました」と来意を述べてから、アメリカ側から得た資料を説明した。十九世紀は科学発展の世紀である。蒸気船の発達で地球が狭くなり、先進国はこぞって世界各地に出向き、新種発見競争になった。五十八歳のペリー提督は、「日本遠征の出発時から、学術調査を決心していた。任務遂行が科学的発展に役立つ」と報告書で強調する。植物学に造詣がふかいペリーは、シーボルトたちオランダの日本の学術独占を打破し、全世界の学者に役立つ開国をなせば、アメリカのフロンティア精神が世界に示せると燃えた。人生最後の大仕事だと記す。ペリーは一八五四年に日米和親条約を締結した。そして三五〇種の植物を採取して持ち帰った。アメリカ政府はペリーに続いて一八五四年から五五年にかけて、リンゴールド隊長、ロジャース隊長が率いる黒船艦隊を送り出した。琉球、奄美大島、下田、小笠原、函館をまわり、より大規模な学術調査を行っている。「いかがでしょうか」「まちがいはありません。ペリー来航はオランダつぶしです。独立戦争前まで、ニューヨーク州はオランダの植民地でした。そんな遠因もあったのでしょう。アメリカはカルフォルニアの金鉱が発見から勢い乗りました。オランダを叩けば、英仏にならび、世界に国威高揚を示す絶好の機会だったのです」副館長は根拠として、オランダの歴史を説明してくれた。十六世紀の大航海時代は、ハーレムの黄金期でした。十七世紀に入ると、イギリスは産業革命の成功から、富裕の国家になり、大英帝国として君臨した。十八世紀末には、ナポレオンがオランダに侵攻してきた。「このオランダは亡国となったのです。長崎出島の様子が変だと、幕府首脳はそれに気づいていたのです」亡国から脱したオランダから、幕府へペリー来航が、一年前に知らされた。「開国するなら植民地時代の歴史を持つアメリカだと、幕府首脳は決めていたのでしょう。ペリーは大砲をうつでもなく、条文を見ても公平・平等な和親条約です」ペリーによる学術開国が欧州に伝わった。学術が盛んなプロシアは通商条約交渉の軍艦に、ドイツ人学者たち大勢を乗船させて来日した。それも傍証だという。このたびシーボルト記念館を訪ねたことで、「妻女たちの幕末」をもって歴史の真実を世に発信する機会になった、と私は確信を持てた。 (ほだか・けんいち) 【文化】公明新聞2024.2.9
February 12, 2025
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能力発揮のコツ一般財団法人日本集中力育成協会代表理事 森 健次朗心身を緊張から安静状態へ私は、子どもの頃からスポーツが大好きで、野球や陸上などを体験してきました。また、スポーツメーカーの会社員時代、高校生から日本代表選手レベルまでの練習や試合に接してきました。この経験を踏まえ、選手の能力発揮につながる指導方法について紹介します。一昔前、昭和の時代であれば、「水は飲むな!」「苦あれば楽あり!」「根性だ!」といったような、とにかく自分自身を厳しく追い込み、苦しんだ分だけしか結果は出ないというのが一般的な指導方法でした。ところが現在は、全く逆です。「水はしっかり飲もう」「楽しくやろう」という指導を受けている選手やチームの方が、公式戦で、全国優勝などの良い結果を残せています。ここまで指導法が変わってきた理由は、近年、脳波の研究が進んだことにあります。人間の脳がどのような状態であれば、能力を発揮できるか、科学的に明らかになってきました。人間の脳波は8~13㌹で、アルファ波が出てリラックスした状態になります。それ以上の13~30㌹で、ベータ派が現れると緊張状態に変化し、30㌹以上に達するとガンマはが発生して、興奮した強いストレス状態にあるといいます。優れた結果を出す選手の脳波は、心身ともにリラックスした安静状態にあることが分かっています。いわゆる昭和時代の〝厳しさが一番〟のような指導をすれば、選手はかえって緊張してしまい、実力を発揮できません。この脳波の研究はスポーツだけでなく、仕事をはじめ日常にも通じる事実だと思いますので、ぜひ押さえておきましょう。*今月のお勧めワーク*あなたや周りの方が、できるだけリラックスした状態を保てるよう、雰囲気が明るくなり、笑顔を作りやすい言葉掛けや励ましを送り合ってみてください。きっと、目標達成へのスピードが加速していくと思います。 【集中力アップ心技体の実践法《14》】公明新聞2024.2.8
February 11, 2025
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源氏物語の時代の装束と色京都ノートルダム女子大学名誉教授 鳥居本 幸代季節の草花の色をまとう優雅さ昭和のお正月、家々の和室では『百人一首』に興じる光景が見られたものです。『百人一首』は紫式部をはじめ、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔など藤原彰子に仕えた女房たちの和歌が収められ、その絵札(読み札)には、まっすぐで黒い長い髪をまとった姿でえらかれています。それは、貴人に仕える女性たちの正装である唐衣裳装束(後世、十二単とも呼ばれる)と称されるもので、最上衣である唐衣(上半身)と裳(下半身)からきています。唐衣と嘗の下には現在のキモノを全体的に大きくしたような袿(うちき)を着重ねるのですが、平安時代中期までは、特別な儀式に際しては18枚から20枚もの袿を重ねたこともありました(その後、5枚と規定されました)。同じ形態をした袿を着重ねるのに際して、もっとも重視されたのが「重色目」と呼ばれるカラーコーディネートでした。ファッションセンスの善し悪しが「重色目」で判断されたため、お洒落な女性たちが執心するのも無理はありません。さて、平安時代は「色の黄金時代」といわれるほど多彩な色目(色合い)が展開しました。とくに中間色が増加したため、微妙な色合いを適切な色名で表現する工夫がなされました。自然の移り変わりに敏感であった王朝人は、身近な草花になぞらえて命名することにしたのです。たとえば、彼女たちがこよなく愛した紫色は濃紫、薄紫のほか、赤身のあるものは「杜若」、青みがかったものは、「桔梗」、少し青みがかった薄い紫色ならば「紫苑」という具合です。このような風情のある色目の装束を、これらの草花が開花する時季に身にまとっていたのですから、何とも優雅ではありませんか。加えて、着用時季も分るというきわめて合理的な命名であったといえるでしょう。「重色目」の色の取り合わせには3つの解釈があり、1つ目は織物の経(たて)糸と緯(ぬき)糸〈ヨコ糸〉の関係、2つ目は表地と裏地の関係、3つ目は装束全体の配色という視点からとらえられました。一例をあげますと、大変人気のあった「紅梅」という色目は、糸の経緯の関係では経は「紅」、緯は「白」(紫という説もある)ですが、表裏の関係では表地は「紅」、裏地は「蘇芳〈紫紅色〉」あるいは「紫」という配色にあります。さらに、「紅梅襲」といって装束全体をさすときは、「紅」・「蒲萄(えび)染〈赤みの紫〉」・「萌黄」を用いたトータル・コーディネートとなりました。この「紅梅」は本来、初冬から早春にかけて着用する色目で、この時季から外れるとファッションセンスが悪いと評され、『枕草子』の「すさまじきもの(興ざめするもの)」の段でも、これを3月や4月に着ることは、面白みがないばかりか、不快感さえ抱くと痛烈に批評しています。このように、王朝人の季節感に重きを置く精神は、ファッションにおいても季節外れの色目の着用を容認しないというこだわりのある美意識となってあらわれました。とりいもと・ゆきよ 1953年、京都府生まれ。75年、同志社女子大学卒業。77年、京都女子大学大学院修了。家政学修士。著書に『紫式部と清少納言が語る平安女子の暮らし』『お守りを読む』『千年の都 平安京のくらし』『雅楽 時空を超えた遥かな調べ』『平安朝のファッション』(いずれも春秋社) 【文化】公明新聞2024.2.7
February 11, 2025
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生成AI 生産性革命のカギ握る2024年も生成AI(人工知能)に熱い視線が注がれそうだ。米オープンAIの「チャットGPT」の登場で企業活動や生活に浸透しつつあり、米マッキンゼー・アンド・カンパニーは活用次第で年間最大600兆円超の経済効果が生まれると推計する。一方で偽情報の発信などに悪用される懸念もあり、利用と規制の両立を図りながら、いかにAIと共生するかが問われる一年となる。(ニューヨーク時事) 多くの業種に裾野広げる従来のAIは規則内的な繰り返しを自動化するかすることを目的とし、活用領域が自動運転などに限られた。これに対し、大量のデータ学習から自律的に文章や画像を作成する生成AIは「事務職や情報を担う全業種」(第一生命経済研究所の柏村佑主席研究員)に普及する可能性を認める。柏村氏は、煩雑な作業から解放され、自由な思考に時間を割けるようになることを「革命的」と強調。賃上げの原資を確保するためにも、「生成AI投資を進めるべきだ」と話す。「手ごたえを感じる」と語るのは、生成AIを使いSNS上で利用者の好みに合った商品を紹介する「チャットコマース」の新興企業、ジールス(東京)の清水正大・最高経営責任者(CEO)。2022年に米国進出を実現、取引先のアパレル通販サイトの売れ行きも上々という。巨大市場である米国に「チャンスがある」とみて事業を強化する。行き先を入力すれば、旅行計画を立ててくれる米サイトも注目を集める。ニューヨーク市在住で日本文化が好きな20代男性は「これならガイドブック要らず」と感心しきり。米金融大手モルガン・スタンレーの行員が資産形成の助言を行う際に生成AIを使うなど、すそ野が広がっている。 年間600兆円超の経済効果も利用と規制の両立図り共生へ 偽情報の拡散防ぐ対策も警戒すべきは偽情報を拡散し、敵対国の政治・経済などに打撃を与える「認知戦」の脅威で、先進国はルール整備へ対応を急ぐ。23年8月の米ハワイ州の山火事を巡っては、米国が開発した兵器が原因だとする偽情報の拡散に中国が関与した疑い浮上した。安全保障にくわしい兼原信克・元官房副長官補は「認知戦は平時から移管して行われ、有事になると規模が大きくなる」と警告する。日本も無縁ではいられないとし、兼原氏は「偽情報に反論する〝毒消し情報〟を即座にながす部隊が必要」などと提言した。 米メディア著作権侵害に対応——規約違反の罰則も生成AIを巡り、米メディア業界では制限と活用の両にらみの対応が進む。新聞大手ニューヨーク・タイムズはAI開発者による記事の無断転用を禁じる措置を導入。一方、画像配給会社ゲッティ・イメージスは生成AIを活用した画像作成サービスを打ち出した。ニューヨーク・タイムズは、無断利用が著作権侵害にあたるとの指摘や経営への影響を考慮した。規約違反にはペナルティーを科す。米誌ウォール・ストーリーと・ジャーナルを傘下に持つニューズ・コーポレーションは、AI学習に記事を使う開発者からの対価徴収を検討している。報道によると、ゲッティが提供するサービスでは、信頼性を高めるための有害な偽画像の精製を防ぐ仕組みを構築した。チャットGPTを開発したオープンAIと提携したAP通信は「記者の役割は変わらない」と予想。公開する記事の作成には生成AIを使わない方針だ。 【社会・文化】聖教新聞2024.2.6
February 10, 2025
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費用等の問題から倫理的懸念も社会文明論研究者 橳島 次郎ゲノム編集使う遺伝子治療昨年11月と12月に英国と米国で、ゲノム編集技術を使った遺伝子治療が、世界で初めて条件付きで認可された。近くEUでも認可される見込みである。ゲノム編集は、特定の遺伝子配列を取り除いたり加えたりする技術で、今回認可されたのは、2020年にノーベル賞を受賞した「CRISPR/Cas9」というツールを使ったものだ。米国とスイスの企業が共同で開発した。治療の対象が鎌状赤血球症とβサラセミアという、重い貧血や手足の痛み、臓器不全などを起こす病気だ。血液中で酸素を運搬する赤血球内のヘモグロビンを作る遺伝子に異常があって、貧血などが起こる。そこで赤血球のもとになる造血幹細胞を患者の骨髄から採取し、酸素を運ぶ機能の高い特殊なヘモグロビンが作られるように遺伝子改変をして患者の体に戻す。1回目の治療で生涯続く効果が得られるとされている。ただこの治療法式は安全性と有効性がまだ十分に認められたわけではなく、今後さらにdデータの提出を求め、確証が得られてから本承認するという条件付きで認可された。遺伝子組み換えの影響により、とくに狙った箇所以外で変異が生じて、白血球が減少し感染リスクが高まったり、がんが生じたりする有害事象が危惧される。治療を受けた患者は長期間。追跡調査される。倫理的な問題としては、非常に高額であることが懸念される。現状では患者一人当たり3億円かかるという。この治療を施す患者の選び方の妥当性、公平性が問われるだろう。また、実用化されたゲノム編集技術を病気の治療ではなく、心身の能力の向上に使おうという動きが出ることも危惧される。中国ではゲノム編集によって警察権の筋肉を増強する研究が行われているという。人間に応用されれば、優性思想の実現につながる恐れがある。今回治療対象となった病気はアフリカや中東などの出身者にみられる遺伝性疾患で、日本人ではほとんど発症例がないため、国内で承認申請はされていない。また、今回承認された方式で治療できる病気は限られると予想されている。そのため、別のやり方の研究も進んでいる。今後特に期待されるのは、病気の原因となる細胞を患者の体内で直接ゲノム編集して治療する試みだ。2021年に米国の企業が、神経や心筋などを侵すアミロイドーシスという難病に適用できる体内遺伝子治療方式を開発した。ゲノム編集の可能性を広げる進展につながるか、見守りたい。 【先端技術は何をもたらすか―14-】聖教新聞2024.2.6
February 9, 2025
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ホモ・サピエンスの宗教史竹沢 尚一郎著「枢軸の時代」以前を中心とした定型的叙述東京大学名誉教授 島薗 進評現在、「世界宗教」という科目を教えようとすると、キリスト教、仏教、イスラームのような「世界宗教」を軸として、加えてユダヤ教、ヒンドゥー教、同協、神道、他に世界各故智の民族宗教、そして新宗教などを取り上げる。このような既説書はいくつもあるが、人類の宗教史を体系的に述べようとした書物はほとんどない。本書はこの欠落を補うべく、人類の宗教史を体系的に述べようとしたものだ。序章と結論の間に6章が並ぶが、「世界宗教の誕生——「枢軸の時代」は第5章に据えられ、キリスト教と仏教の成立について論じられている。続いて第6章「宗教改革の光と影」が来て、西洋の宗教改革とともにイスラームや日本の鎌倉仏教が取り上げられている。ふつう古代と呼ばれる時代から現代までの叙述は短く、およそ3分の2が古代以前、つまり世界宗教の成立以前に当てられている。ヒンドゥー教や神道、道教には触れられていない。この攻勢からも分かるように、本書が人類宗教史は、紀元前1千年紀とされる「枢軸の時代」以前、国家や文字文明以前の時代に力点がある。とくに分厚く描かれているのは狩猟採集民、農耕民、牧畜民の宗教で、現代では新たな経験的研究が出にくい分野だ。参照されているのは19世紀末から20世紀後半までの宗教人類学の研究成果と、その後の考古学や先史時代の文化研究である。著者は70年代から80年代にかけて西アフリカのフィールド経験を踏まえてフランスで学位を取得しているが、当時、身につけた宗教人類学と先史学の成果が豊かに生かされた書物である。なかでも読み応えがあるのは第1章「宗教の起源」で、現在の類人猿研究と先史学の成果を踏まえて宗教の起源が論じられている。人類はその生物的特性から、生命を守るために集団を構成するとともに、弱い子どもを長時間守り育てることが必要で、共同性を育てることになり、これが宗教の基礎を作ったとする。20世紀にはまだかなり接することができた狩猟採集民の文化の研究を基礎に置き、儀礼こそが宗教の基礎だとする。農耕民・牧畜民も儀礼に基づく宗教世界という基盤を維持していった。世界宗教以後の宗教史は、その儀礼による宗教の豊かさを失わせる結果を招くことになり、そのために現代人は宗教欠如に苦しむことになっているとするが、ここはデッサン的な叙述だ。狩猟採集民、農耕民、牧畜民の宗教の論述が大変充実しており、関連書額の成果を掘間得た社会進化論的な説明と、デュルケム以来の最盛期宗教人類学の成果の儀礼的再構成とを結びつけ、歴史的展望のもとに総合し、一貫した「人類宗教史」を構成している。その理企業に感銘を受けるとともに、今後、人類宗教史の洗練・深化を進めていくための基礎作業と位置づける意義深い著作と思う。◇たけざわ・しょういちろう 国立民族学博物館名誉教授。1951年、福井県生まれ。76年、東京大学文学部卒業。85年、フランス社会科学高等研究院社会人類学専攻博士課程修了。専攻は、宗教人類学、アフリカ史。 【読書】公明新聞2024.2.5
February 9, 2025
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沸き立つホンネに現状打開の力ビートルズの〝熱〟に学ぶ昨年11月、イギリスの伝説的なロックバンド・ビートルズが、27年ぶりとなる新曲を発表した。楽曲制作は、すでに亡くなっているメンバーの歌声を、AI(人工知能)で生前のテープから抽出することで実現。60年前、世界中に旋風を巻き起こした四人は、科学力の力で〝よみがえる音楽〟を通し、今を生きる人々に、再び驚きと感動をもたらした。以外にも、ビートルズの活動期間は、デビューからおよそ7年半と決して長くはなかった。それでも、彼らが生み出した数々の楽曲は世代を超え、なおも聴衆の心を揺さぶってやまない。それまでになかった楽器の演奏法や、外国音楽のエッセンスなどを次々に取り込み、既成概念を打ち破る、新たな表現の可能性を開拓し続けた。その挑戦的な姿勢には、音楽に対する純粋な情熱がほとばしっている。彼らが追及したロックンロールのルーツは、黒人・白人音楽の融合に端を発する。四人が育ったリバプールもまた、多様な人種が交わる港町。その生い立ちから、時に差別的な視線を向けられたこともあったという。身近に感じていた人種のカベ。その閉塞感への反骨精神が、彼らの音楽の〝熱源〟だったのではないだろうか。ベトナム戦争、アパルトヘイト(人種隔離政策)、学生運動……美とる図が駆け抜けた1960年代は、人類の根深い断絶が浮き彫りになった時でもあった。彼らはアメリカでのコンサート(64年)で、各席が人種別に分けられていたことに抗議し、その〝境界〟を取り払った。やがて四人の音楽は、〝自由の象徴〟として受け入れられていく。文化・技術の発展とは裏腹に、なおも続く暴力や分断の連鎖。時として、やはり人間は無力なのかと嘆きたくもなる。だが、明日を信じる〝平和への声〟は、決して鳴りやまない。青年意識調査に取り組み、3月の「未来アクションフェス」へと走る若者がいる。「青年の真心と情熱が、人を動かさないはずはない」——かつて池田先生は訴えた。一人の思いは小さくとも、腹から沸き立つ〝ホンネ〟にこそ、現状を打開する力が秘められている。清新な発想と挑戦が、新たな時代を開く。今こそ、差異を超え、生命尊厳の哲学を携えた青年がたち、声を上げる時だ。 【社説】聖教新聞2024.2.5
February 8, 2025
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前衛短歌の旗手岡井 隆華々しい功績に隠れた挫折や苦悩歌の調べを愛し心情を託し続けた歌人 大辻 隆弘岡井隆(一九二八~二〇二〇)の障害は栄耀にみているように見える。慶応大学医学部卒業という学歴。国立病院の医長、大学教授という職歴。宮中歌会始選者、宮内庁和歌御用掛、学術院会員、文化功労者などの要職を担い、歌壇のありとあらゆる賞を受賞した。現代詩の賞も授与された。結社「未来」を率い、優秀な歌人を多く育てあげた感のある一生である。が、本人の心の中に分け入って考えるとき、その栄耀はあくまでも表面的なものだったことが分かる。むしろ彼は多くの挫折や悲傷を抱えてきた人間であった。旧制中学時代と慶応大学医学部時代の二度の留年、大学進学時の浪人生活。医師試験を取得するのも他の人より一年遅れている。社会人になったときは三十を超えていた。四度の結婚を経験し、三人の妻と五人の子どもとの離別を経験している。エリートコースから外れ、家庭生活は暗澹としていた。彼は多くの悲傷を胸に刻み込んでいたのである。そのようなお買いにとって短歌の調べは救いだった。岡井は自分の絶望や懊悩を短歌の調べに載せることによって昇華していたのではないか、と私は思う。 號泣をして済むならばよからむ花群るるくらき外に挿されて『天河庭園集』 二人目の妻との家庭生活が破綻しつつあったころの歌だ。号泣をして済むのならいいのだろうが、そうはいかない。絶望感の中で夜の庭に立ち尽くす。そんな暗澹とした場面を歌った歌である。が、韻律は美しい。上句の「済む」「よからむ」における「む」の反復。下句の凛とした硬質な音韻。きびきびとした調べの中で絶望という心情の輪郭が明確になってゆく。 生きがたき此の生のはて桃植ゑて死も明かうせむそのはなざかり『鵞卵亭』 一九七〇年、岡井はあらゆる社会的地位を捨て、三人目の妻となる女性たちとともに九州へ逃亡する。死を決意した流浪であった。生きがたいこの世。せめて人生人生の最後に桃の花を植え、死を明るく照らそう。そんな希死念慮を岡井はこのような柔らかな調べで歌う。死への願望が短歌の調べに添って歌われるとき、言葉はかくも甘やかになる。 恩寵のごとひっそりと陽が差して愛してはならないと言ひたり『宮殿』 一九九〇年、岡井は最後の妻となる女性と出会う。彼女への愛は築き上げてきた安寧を破壊する可能性がある。神の恵みのようにひそやかな陽光のなかで、岡井は内心から湧き上がってくる「愛してはならない」という声を心に耳に聴くのである。この歌も「ひつそり」と「陽」という頭韻や「挿して」と「愛して」という脚韻が美しく響きあっている。人は決して癒しを求めて歌を作るわけではない。が、長く歌にたずさわっていると、歌の調べが自分の生を慰撫し、鼓舞してくれることに気づく瞬間がある。岡井もきっとそうだったのだろう。岡井隆は前衛短歌の旗手であった。口語や記号を駆使した先鋭的な作品を晩年まで作り続けた。彼は、常に自らを革新した歌人であった。が、そのような表面的な仮面の根底には、歌の調べを愛し、それに心情を託し続けた純な「うたびと」の素顔があった。彼はなによりもまず「調べのうたびと」だった。昨年出版した私の『岡井隆の百首』は、そんな観点から、岡井隆の全三十数冊の歌集を読み直し、百首を批評した一冊である。(おおつじ・たかひろ) 【文化】公明新聞2034.2.4
February 7, 2025
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報恩抄創価学会教学部編建治2年(1276年)7月、日蓮大聖人は出家の際の師匠であった道善房の死去の知らせを受け、その報恩と追善供養(死者の冥福のための祈念・仏事)のために、「報恩抄」を著されます。 「報恩抄」を御執筆同抄の冒頭、報恩の道理を明かし、「仏教をなら(習)わん者の、父母・師匠・国恩をわす(忘)るべしや」(新212・全293)と、仏教者は恩を知り、恩を報じなければならないことが示され後、報恩を行うために仏法を徹底的に学んで「智者」となることが重要であることを明かされます。そして、仏法を学んだ結果として、釈尊が生涯にわたって説いた諸経の勝劣を判定し、法華経が最も優れていると示されます。ところが、諸宗の祖師は法華経を誹謗するという謗法を犯し、「諸仏の大怨敵」となってしまっていると指摘し、その諸宗の謗法について、詳しく論じられていきます。法華経が最も優れていることを否定する謗法を犯す者は仏の大敵だということが、仏法の「第一の大事」なことだと示されます。このため、釈尊の時代から大聖人御在世の当時に至るまでインド・中国・日本の三国にわたる仏教を略述し、法華経が最高の経典であることを示した釈尊・天台大師(智顗)・伝教大師(最澄)の実践と、それによって起こった難を示されています。 慈覚・智証を破折この後、真言(密教)の謗法の破折へと進まれます。真言破折の分量は本抄全体の半分に及びます。弘法(空海)を開祖とする真言宗の破折とともに、密教化した天台宗を徹底して破折されます。師である伝教大師に敵対したものとして、その直弟子である第3代座主の慈覚(円仁)やその孫弟子である第5代座主の智証(円珍)を取り上げられています。伝教大師は、大日経は法華経に劣る教えであると判定し、真言を独立した宗として認めませんでした。一方、弘法は真言宗を立て、「第一真言・大日経、第二華厳・第三は法華・涅槃」(新229・全305)という誤った主張をします。大聖人は、慈覚・智証が「真言の方が優れている」と言ったり、「法華経の方が優れている」、あるいは『法華経に対して大日経は理同事勝〈注1〉である』と言ったりしていると記されます。また、「二宗の勝劣を論ずる人は勅宣(=天皇の命令)に背く者である」と言っていることから、「これらは、みな自語相違と言うほかない」(新231・全307、通解)と述べ、彼らの師である伝教大師の教えに背いていると指摘されています。慈覚と智証は、天台宗の座主として日本仏教界で大きな影響力を持っていました。大聖人は、このような慈覚・智証の主張と行動の結果、日本中の人々が法華経よりも密教を重んじて謗法に陥ったと糾弾されています。 天台・伝教が弘めなかった教え 三大秘法を明かすこのように、謗法の人々が不幸と社会の災難の根源であることを示し、「このひと、仁保国の中にただ日蓮一人ばかりし(知)れり」(新251・全321)と宣言されています。これは「報恩抄」の冒頭に言及されたように、「仏法をなら(習)いきわ(極)め智者と」(新212・全239)なったことを示されるものです。続いて大聖人は、末法に法華弘通を行えば為政者から迫害があると覚悟し、不惜身命で弘教を開始された御心境を述懐されます。伊豆流罪、さらに竜の口の法難、佐渡流罪へ至る大難の日々を回想されるとともに、その行動は、「父母のオン・師匠のオン・三法の恩・国の恩をほう(報)ぜんがため」(新253・全323)であったことを明かされます。そして、法華経の肝心は題目(経典の題名)の南無妙法蓮華経であり、それは、法華経の肝心であるとともに、釈尊が説いたあらゆる経典(一切経)の肝心でもあり、一切経の功徳の力用を全て具え、諸経の題目とは比較にならないほど優れていることを示していかれます。その上で、「天台・伝教の弘通し給わざる正法ありや」(新260・全328)との問いを立て、「有り」(同)とされ、末法の一切衆生のために初めて弘通される、未曽有の大法たる三大秘法を説示されます。すまわち、天台・伝教が弘通しなかった正法、三大秘法の具体的な形を次のように明かされます。「一には、日本乃至一閻浮提一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし〈注2〉。いわゆる宝塔の内の釈迦・多宝、ほかの諸仏ならびに上行等の四菩薩、脇士となるべし。二には、日本乃至漢土・月氏・一閻浮提に、人ごとに有智・無智をきら(嫌)わず一同に多事をす(捨)てて南無妙法蓮華経と唱なうべし」(新261・全328)と。大聖人は、この三大秘法は「いまだひろ(広)まらず」、しかも「一閻浮提の内に仏の滅後二千二百二十五年が間、一人も唱えず」(同)と、弘通もされず、実践する人もいなかったと指摘されます。だからこそ、「日蓮一人、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もお(惜)しまず唱うるなり」(同)と、大難を覚悟で、ただ一人、大法弘通に立ち上がったと仰せです。そして、「日蓮が慈悲嚝大ならば、南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながる(流)べし。日本国の一切衆生の盲目をひら(開)ける功徳あり。無間地獄の道をふさ(塞)ぎぬ」(新261・全329)と断言し、日蓮大聖人こそが、末法の全ての人を救う教主であることを明かされます。 「花はね(根)にか(帰)えり、真味は土にとど(留)まる。この功徳は故道善房の聖霊の御身にあつ(集)まるべし」 さらに、広宣流布の「時」の到来は必然であり、必ず実現して、日本国の人々は一致して南無妙法蓮華経と唱えると宣言されます。最後に、大聖人が法華経を忍難弘通する功徳、また未来に広宣流布して人々を救っていく功徳の全てが、師匠である道善房に帰していくと結ばれています。「花はね(根)にか(帰)えり、真味は土にとど(留)まる。この功徳は故道善房の聖霊の御身にあつ(集)まるべし」(新262・全329)と。——このように大聖人が、仏法の正邪を人々に示そうとされる中、これまで、大聖人を敵視し迫害の糸を引いてきた極楽寺良観(忍性)が、今度は大聖人門下の信心を破ろうと狙ってきます。 弟子たちが言論戦を展開 退転者たちの動き日蓮大聖人が身延に入られてしばらくした頃のことです。鎌倉の四条金吾が「名越のこと」(新1546・全1137)について、何らかの報告をしたようです。「名越のこと」とは「名越の尼のこと」とも考えられます。名越の尼は、文永8年(1271年)の竜の口の法難・佐渡流罪の時期に退転したと考えられていますが、大聖人は「おお(多)くの人をおと(落)とせしなり」(新1867・全1539)と、自らが信仰の道から退転しただけでなく、多くの人を退転させた者として記されています。四条金吾が「間越えのこと」を話題にしたのも、退転者たちに何らかの動きがあったかもしれません。 門下が狙われるその他にも門下を狙った動きがありました。その背後に、黒幕の一人として、良観がいたと大聖人は推測されています(新1583・全1163等、参照)。大聖人が佐渡から無事帰還し、他国侵逼難の予言が的中して、世間の注目の高まる中、日蓮門下の動向は、良観のみならず、諸宗にとって目障りなものであったと考えられます。文永12年(1275年)に鎌倉の極楽寺から出火し、堂舎が炎上します。また、良観を講演していた鎌倉幕府でも御所(将軍の住居)で火災が起きたようです(建治2年〈1276年〉に起きた火災とする見方もあります)。報告を聞かれた大聖人は、「良観房」を、二つの火災(両火)の元凶となったとして、発音の似た「両火房」(新1546・全1137等)と呼び、糾弾されています。一方、この頃、大聖人の門下たちが、果敢に言論戦を展開しています。再びお連ランを未然に回避するため、師匠の立正安国の闘争に連なろうとしたと考えられます。建治元年(1275年。4月25日改元)7月の「四条金吾殿御返事(法論心得の事)」によれば、金吾が他宗、おそらく天台宗の僧と「諸法実相」の法門について議論しています(新1548・全1139、参照)。金吾は、大聖人が鎌倉に帰還された文永11年(1274年)には、良観と関係が深かった主君の江間氏を折伏し、不興を買っています。その後も、同僚による主君への讒言(事実無根の告げ口)もあり、金吾は苦境に立たされ続けていました。そうした中で、大聖人の正義を訴えるため、在家でありながら他宗の層との法論に挑んでいたのです。建治2年(1276年)には、武蔵国の千束鴻池池上(現在の東京都大田区池上とその周辺)の門下である池上兄弟の兄・宗仲が、やはり良観と関係の深かった父・左衛門大夫から勘当されています。この時の感動の理由は定かではありませんが、良観による策謀の可能性も考えられます。さらには、日興上人が中心となって弘教を展開していた駿河国(静岡県中央部)でも、熱原郷(富士市厚原とその周辺)を中心に弾圧の手が伸びていました。門下たちが迫害に遭い、その報告を受けた大聖人が多くの書簡を身延に送り、激励を重ねられる中、建治3年(1277年)を迎えます。この年、四条金吾、池上兄弟ら、有力な弟子たちが、正法弘通のためにさらなる難を呼び起こしていくのです。(続く) 池田先生の講義から大聖人の修学時代の師である道善房は、最終的に念仏に対する執着を捨てきれず、また、大聖人が迫害されたときにも守ろうとしなかった臆病な人物ではありました。しかし大聖人は、そのような師匠であったとしても、師恩を感じ、大切にされました。道善房の死去の報を聞くや、追善と報恩感謝のために「報恩抄」を認められたのです。大聖人自らが「師恩」に報じ抜くお姿を示してくださいました。そして、まことの報恩の道とは、全人類救済のために末法の大仏法を確立することであり、その大功徳は師匠に帰ることを断言されています。日蓮仏法における指定とは、かくも深く峻厳なものです。反対に、報恩の人生を外れて恩を仇で返すような不知恩のものに対しては、厳格なる因果の理法を教えられます。(知恩・報恩は、人間を人間たらしめる極理といってよいでしょう(「わが愛する青年に贈る」) 〈注1〉 法華経と大日経を比較すると、理(説かれている法理)は同一であるが、事(修行における実践など)においては大日経が法華経に優れているとする説。〈注2〉 本尊の具体的な姿として、続く文の説明によれば、文字曼荼羅の相貌を指すことは明白である。「本尊問答抄」には、「法華経の題目をもって本尊とすべし」(新302・全365)とある。ここで「本門の教主釈尊」を本尊とするとの意は、南無妙法蓮華経の文字曼荼羅を本尊とすることであると解される。 [関連御書]「報恩抄」「上野殿御返事(梵諦御計らいの事)」、「四条金吾御返事(法論心得の事)」 [参考]「池田大作全集」第33巻](「御書の世界〔下〕」第十四章、第十八章)、同第28巻(「報恩抄}講義)、「世界広宣流布新時代の指針」(「師弟」の章、「報恩抄」を講義)、『わが愛する青年に送る』(「人間学}の章、「報恩抄」を講義」、「勝利の経典『御書』に学ぶ」第22巻(「報恩抄」講義) 【日蓮大聖人「誓願と大慈悲の御生涯」】大白蓮華2024年2月号
February 7, 2025
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タコツボ化の弊害3・11いらいこの国は行き先の見えない混沌の中にあります。どこを見ても明るくはない。しかも、活目を開いてみると、過去にすでに体験したことがある、いわゆる既視感(デジャビュ―)、のあるものがやたらに目につきます。戦前日本にもあったリーダーたちの独善性と硬直性と不勉強と情報無視が、現在に通じているのではないか、そう思えてくるのです。何度も反芻しますが、大本営陸海軍部は危機に際して、「今起きているは困ることは起きるはずはない。いや、ゼッタイに起きない」と独断的に判断する通弊がありました。今日の日本にも同じことがくり返されている。東日本大震災という国民の生命と健康と日々の生活にかかる一大事において、こうした通弊がそっくりそのまま出ています。とくに昔も今も共通してあるのは、エリート集団による情報の遮断と独占と知らんぷりではないでしょうか。つまりタコツボ化の弊害です。しかも、3・11の場合は、総理官邸、原子力安全・保安院、それに東京電力というエリート集団の間で、意思の疎通がまったくできていませんでした。由々しきことでした。そのバラバラさは、昔の、仲間である情報課からの情報さえ入れることがなかった参謀本部作戦課そのままです。作戦課の部屋は、入口に番兵が立っていて、部外者は何人たりとも入れないことになっており、あからさまに〝聖域〟を誇っていました。東電の原発部門も聞くところによれば、作戦課のように他の部署とは全く関係なく、独歩独往した組織になっていたというじゃありませんか。そして国民に伝えられる情報は、このバラバラの集団それぞれから発信されるものでした。それで事故発生当初は、ガセネタや風紋と事実の区別もつかず、何を信じたらいいのか、国民はふり回されるだけ。この国の危機管理体制は根本からできとらんと、しみじみと恐ろしく感じました。現場とトップにおける情報の落差は本当にひどかった。原発の現場の人たちは、当時から、「これは深刻きわまりない一大事」という危機感に震え上がったことでしょう。それが東京の本社や艦艇に情報が上がっていく過程で、「大変だけれどなんとか大丈夫らしい」という話にねじ曲がっていたフシがある。これなどもいくつかの戦争中の具体例が否応なく思い出されてきます。それに東電の会長は海外、社長は奈良で遊山と、最初の時点でトップが焦点のところにいなかった。現場の吉田所長が「やってられねえ」と朔分ほど、中央はゴタゴタ。その危機意識はたるんだものがあったのです。また、情報の過小評価と表裏の関係ですが、「情報の隠蔽」という重大な問題もありました。原発事故から二カ月もたってから「最初の段階でメルトダウンが起きていた」と、新事実が明らかになった。電源が喪失すれば冷却水が亡くなって、燃料棒が露出することはもう目に見えていました。燃料棒が露出すれば、メルトダウンあるいは水素爆発が起こる。世界中の専門家にとってそれは自明の理だったのです。ところが、東電も経産省も燃料棒は部分的に露出しているが、冷却され続けているとひたすら主張しとおした。真実を隠すのに一生懸命でした。原子炉を冷やすのに、ヘリコプター、それから機動隊の放水車が行って、東京消防庁のハイパーレスキューが行って、さながら中成る等の「戦力逐次投入」そのままでした。これ以外にも、共通点を挙げたらキリがないくらいいっぱいあります。そして、あれから一年半たっていまは、福島第一原発の処理、そして放射能やガレキとの〝戦争〟がまだ終わっていないのに、ついに責任をとるものがひとりもいないままに、何か終戦処理といったような雰囲気になっています。再興、再興の掛け声だけになってしまいます。そしていま、強いリーダーシップが声高に求められている。まさか、かつてのリーダーのように、組織をきちんとするよりも支配することを重視し、説得よりも服従を求め、人々を変革するよりも抑圧することに努める、そんな力のあるリーダーを日本人が求めているのではないと思いますが、とにかく今の政官財の無責任体制はほとんど昭和戦前と変わらないようです。「想定外」という言葉は、「無責任」の代名詞なのです。このことに対する根本的な反省のない限り、3・11以後の日本の再建はありえないと思います。国家が危機に直面したとき、その瞬間に、危機の大きさと真の意味を知ることは容易ではないのです。しかも、人間には「損失」「不確実」「危険」をなんとか避けようとする本能というか心理があるといいます。ですから、この三つとは直面したくない、考えまいとするのが人の常です。そこで今退治なのは、この三つから逃げ出そうとせず、起きてしまった機器を、失敗を徹底的に検証して、知恵をふりしぼって、次なる危機に備え、起きた場合にはそれを乗り切るだけの研究と才覚と核ごとをきちんと身につけておくことです。そのためにも、過去の戦争のときに身をもって学んだ「死を鴻毛よりも軽し」とする考え方、根拠のない自己過信、無智蒙昧、逃避癖、底知れぬ無責任など、私たち日本人の愚劣さ、見たくない本質を正しく見つめ直すことが大切だと思うのです。わたくしが忘れてしまいたい昔話を長々と語ったのは、あの戦争のあれほど多い犠牲者のためにも、「人間は歴史から何も学ばない」と簡単に諦めるわけにはいかないからです。今度こそ歴史から少し学んでほしい。日本人がもう一度、この眼で見た悲惨を「歴史の教訓」としてできるかどうか、問われていると思うのです。 【日本型リーダーはなぜ失敗するのか】半藤一利著/文春新書
February 6, 2025
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紫式部の人物像に迫る京都戦端科学大学教授 山本 淳子氏今年1月から紫式部の生涯を描いたNHK大河ドラマが始まりました。私は紫式部の「源氏物語」をはじめ、平安文学を専門としています。研究のきっかけは高校で国語教員をしていた時、生徒から質問が文学や歴史よりも、生活史に関することが多く「紫式部はいつ起きたのか、何を食べていたのか」などに対して満足に答えられなかったので、一度、教壇を離れて学び直すことにしたのです。京都大学大学院の人間・環境学研究科に所属し、紫式部の私生活と内面に迫る中で、彼女は常に二つの世界観を抱いていた、ということが分かってきました。「紫式部集」は晩年の紫式部が残した自伝的な和歌集といわれていますが、そこには、華やかな世界に生きる喜びと、それを拒絶する心の機微が表現されています。例えば、〝正月の内裏の華やかさにつけても、気持ちが落ち込んでしまうもの〟とか。彼女は幼い頃に母親を亡くし、姉や友人に先立たれた挙句、結婚3年で夫と死別しています。〝人生とは無常で苦しいもの〟と思い詰めた紫式部は「源氏物語」の作者として、恋をくり返す華やかな光源氏に対しても、同じようなつらい経験をさせています。しかし、「紫式部集」の最後には、〝つらいことも承知のうえで、生きながらえていく〟という趣旨の和歌が収められており、このメッセージが、一度は仏教に救いを求めた彼女が、最終的にたどり着いた答えだったのかもしれません。現代でいう専業主婦、キャリアウーマンを経験し、シングルマザーでもあった紫式部は、〝困難をはね返す強さ〟というより〝困難を受け入れる強さ〟を備えた彼女だったと想像しています。そんな彼女は、千年前に、「源氏物語」に自身の世界観を結晶させた。時代の人々はきっと、紫式部と自らの心を重ね合わせるようにして読み伝えてきたことでしょう。また、格式高い和歌の教科書としても重宝し、大切に伝承してきたものと思われます。紫式部が活きた平安時代は、和歌で意思疎通を図るような「心」が重視された時代でした。当時の文化に触れることで、繊細な心を持つ私たち現代人も、よりよく生きるヒントを得られるのではないでしょうか。 【共生の未来〈26〉】聖教新聞2024.2.2
February 6, 2025
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出版事業で世界各地に散在する法華経原典写本の全貌が明らかに佛教大学仏教学部 松田和信 教授このたび、創価学会と公益財団法人・東洋哲学研究所より『梵文法華経写本(C4)校訂本——ネパール・ギルギット・中央アジア系写本異読対照』(ケンブリッジ大学図書館所蔵 ADD.1683〈C4〉校訂本)が刊行された。本書は、1997年のシリーズ1『旅順博物館所蔵 梵文法華経断簡——写真版及びローマ字版』の観光から始まった『法華経写本シリーズ』18の最新刊であり、序文を入れて800ページを超える大冊である。本書の出版をもって、世界各地に散在する法華経の原典写本の存亡が明らかになった。まずもって、この機の遠くなる湯女出版事業のもととなる法華経写本の解読に携わった羽田方と、このような巨大な学術的貢献を支えていただいた関係機関に、同じ仏教者本研究の一研究者として感謝したい。法華経が紀元前後の古代インドに誕生したことは論を待たない。現在では、紀元1世紀にさかのぼる般若経や他の大乗経典のガンダーラ語写本が発見されているが、法華経のガンダーラ語写本は未発見であり、原初の法華経が一体どのようなインド語で記されていたかは現代でもはっきりしない。オウギヤシの葉(貝葉)や紙に書かれた法華経のインド語写本は数多く発見されているが、いずれも、散文(長行)部分はインド語の基準となる梵語(サンスクリット語)で、韻文(偈)部分は崩れた梵語で書かれている。法華経写本は、ギルギット系写本(6世紀ごろにさかのぼる)やネパール系写本(10世紀以降に書かれた)と、中央アジア系写本(古いものでは6世紀ごろにさかのぼる)に分けられるが、いずれも同じスタイルで書かれている。ただ、個々の写本を見ると、細部にはさまざまなバリエーションが認められている。研究者は、現存する梵語写本に書かれた本文を比較検討し、そこから法華経の原初の姿に迫っていくほかはないのである。本書には、ケンブリッジ大学と書簡が所蔵するネパール系写本(C4)全文のローマ自転車が掲載され、他のギルギット・ネパール系写本と中央アジア系写本の相違点が、それぞれの文書について詳細に注記されている。本書一冊をひもとけば、研究者は現存する法華経写本の重要なバリエーションのほぼすべて簡単に確認することができるようになったのである。本書の編著者は東洋哲学研究所の委嘱研究員の小槻晴明氏である。法華経者本研究の毛会的権威であった故・戸田宏文徳島大学脇侍の薫陶を受けた市と、法華経写本シリーズの立ち上げから、それに関わるさまざまな仕事に全力を注いでこられた同じく委嘱研究員の水船教義氏を、私に紹介してくださったのは戸田宏文先生であった。今から40年近く前のことである。私は、もっぱら梵語やガンダーラ語等のインド語で書かれた仏教写本の解読を主として自分の研究を行ってきたが、今に至るお二人との長い付き合いの中で、法華経について様々なことを学んできた。旧友の一人として本書の出版を大いに喜ぶとともに、本書が法華経の原点研究、ひいては仏教研究の歴史に残り、わが国と世界の仏教研究者に広く受け入れられることを願ってやまない。 聖教新聞2024.2.2
February 5, 2025
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従軍経験に苦しむ人々の証言作家 村上 政彦アレクシエーヴィッチ『戦争は女の顔をしていない』本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』です。アレクシエーヴィッチが、世界で広く知られるようになったのは、2015年のノーベル文学賞を受けてからでしょう。本作は、その作家の最初の作品です。彼女はウクライナで生まれ、白ロシアとも呼ばれたベラルーシで育ちました。第2次世界大戦では、両方の国土がソ連とドイツの戦場となり、多くの人々が亡くなった。作家の家族も、ソフト、父の二人の兄弟が戦死、パルチザン活動に加わった祖母は病死。もともと戦争への関心を持ったアレクシエーヴィッチは、一冊の本を手にします。そこには、彼女が町やカフェ、家庭、トロリー―バスの中で聞いた人々の声が詰まっていました。「探していたものを見つけた」と思ったそうです。アレクシエーヴィッチは考えます。これまで戦争は、全て男性が、男性の言葉で書いてきた。しかし彼女が女性たちから聞いた戦争は「それなりの色、においがあり、光があり、気持ちが入っていた。(中略)そこでは人間たちだけが苦しんでいるのではなく、土も、小鳥たちも、木々も苦しんでいる。地上に生きているもののすべてが、言葉もなく苦しんでいる、だからなお恐ろしい……」。そして、作家は決意する。「その戦争の物語を書きたい。女たちのものがたりを」と。本作の主人公はすべて女性たちです。彼女は500人以上の女性を取材し、それは数百本のテープと膨大なタイプ原稿に姿を変えました。看護師、狙撃兵、機関銃射手、高射砲隊長、工兵、料理係、洗濯係、自動車整備工、郵便配達員、理容師、パン焼き係、書記(カメラマン)、土木係、運送係など、女性兵が就いた任務が網羅されている。戦場の惨劇は、至る所で語られます。看護師が捕虜になった。翌日、その村を解放した時、仲間は見つかった。「杭に突き刺してありました……(中略)十九だったのに。/背嚢の中には家からの手紙と緑色のおもちゃの鳥が入っていました……」それでも女性たちは語る。「思い出すのは恐ろしいことだけど、思い出さないってことほど恐ろしいことはないからね」。戦場の現実を語る言葉は「私の息を詰まらせるものと同じに、痙攣で息が詰まってくるような、そういう言葉……(中略)詩人が必要……ダンテのような……」。女性兵は10代半ばから30歳。彼女たちは、敵の機銃掃射の際、顔が傷つかないよう手で覆った。また、きれいな花を銃剣に飾った。祖国のために戦った彼女たちは戦後、男女の双方から差別を受けます。男性たちの物語に抗う女性たちの証言——今こそ読まれるべき一冊です。[参考文献]『戦争は女の顔をしていない』 三浦みどり訳 岩波現代文庫 【ぶら~り文学の旅㊷海外編】聖教新聞2024.1.31
February 4, 2025
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「核兵器の先制不使用」宣言を巡ってインタビュージョージ・ワシントン大学エリオット国際関係学部・大学院 マイク・モチヅキ准教授「垂直拡散」が深刻化——核兵器に関するリスクが冷戦後で最も高まっているといわれています。その中、昨年11月から12月にかけて、核兵器禁止条約(核禁条約)の第2回締約国会議が開催されました。 会議の最後に採択された政治宣言で、核兵器がもたらす壊滅手に名人道的被害に光を当て、「核抑止論」を明確に否定したことは、評価に値します。一方、「核の抑止力」を重視する核保有国の反発が強まることが懸念されます。核保有国と、核抑止力に依存する各依存国は、核禁条約ではなく核兵器不拡散条約(NPT)の枠組みの中で、核軍縮を推し進めるべきだと主張しています。NPTは、核兵器国に核軍縮の交渉を誠実に行う義務を課す代わりに、他国が新たに核兵器を保有することを防ぐ条約です。1980年代、私がハーバード大学に博士研究員として在籍していた時、この分野で最高峰の専門家たちが、核保有黄河増加し、15~20カ国になるだろうと予測していました。核保有国が増加する「水平拡散」を、予想以上に抑えることができたのは、このNPTによるところが大きい。翻って、核保有国が核兵器の数を増やしたり、近代化させたりすることを「垂直拡散」と呼びます。こちらの問題の方が、より深刻になってきています。冷戦後、米国とロシアの核弾頭数は格段に減りましたが、今、そのトレンドが逆転しているからです。なぜそうなったのかは、学者や専門家の間で意見が割れています。核大国が核兵器の近代化、防衛能力の強化を図ったことによって、相手国に自国の報復能力の低下を恐れさせたことが原因の一つであると私は考えます。 ——核軍縮と逆行し、「安全保障のジレンマ」に陥っているということですね。 ええ。米国では、以前はロシアとの競争でしたが、今は中国も核弾頭数を増やしているため、自国の核兵器関連の予算を増額すべきだと真剣に議論されています。 ——モチヅキ准教授は、こうした緊迫する情勢を緩和するために、日本政府は「核兵器先制不使用」を、核保有国に宣言する用の求めるべきだと提言されていますね。 はい。米国のオバマ政権と現在のバイデン政権で、「核兵器の先制不使用」が検討されていた時期がありました。さまざまな理由で反対され、採用されませんでしたが、重要な要因は、米国の「核の傘」に頼る同盟国からの反対意見でした。たしかに、日本は非常に厳しい安全保障環境に置かれています。米国の核兵器が、他国による日本への核攻撃を抑止する力となっているのは、おそらく事実でしょう。一方、通常兵器による攻撃さえも抑止しているかと言えば、その可能性は極めて低い。仮に他国が日本を通常兵器で攻撃しても、米国が同盟国・日本のために核兵器を使うなど考えられません。双方に壊滅的な被害をもたらす核兵器が、通常兵器の攻撃に対する反撃に使われる可能性は、極めて低いのです。さまざまなシナリオを考慮した時、核兵器で日本が攻撃されるというのは非現実的なのです。 軍縮義務果たす第一歩——「核兵器の先制不使用」宣言について、「全ての核兵器国が検証可能な形で同時に行わなければ有意義ではない」との意見もあります。 もちろん、すべての核兵器国が同時に宣言できるのが理想的でしょう。しかし、中国は既に「核兵器の先制不使用」を宣言しています。もしアメリカも宣言すれば、英国とフランスもその方向に動くよう強いプレッシャーがかかるでしょう。核軍縮競争を阻止するためには、どこかの国が行動を起こさないといけない。その国とは、「核兵器の先制不使用」や核攻撃の抑止と反撃を「唯一の目的」とすべきだと検討していた米国だと私は考えます。 ——池田SGI会長は、G7サミットへの提言で、「核兵器の先制不使用」は、「『核兵器のない世界』を実現するための両輪ともいうべきNPTと核兵器禁止条約をつなぎ、力強く回転させる〝車軸〟となりうる」と主張しました。 池田氏の提言に完全に同意します。氏の主張は、「核兵器の先制不使用」を支持する米国の学者たちの見解と、軌を一にするものです。またそれは、(共同論文「核兵器なき世界」を発表した「4賢人」の一人であり、オバマ元大統領に影響を与えた)ウィリアム・ペリー元米国国防長官の意見に近いものがあります。ですから、氏がこのような主張をされたのは重要なことですし、もっと多くの非政府主体が同じように主張すべきであると、私は考えます。創価学会、またSGIには、ネットワークを通じて、ほかの諸団体と協力し、国境を超えた幅広い連帯を築いてもらいたいと願っています。NPTの問題点は、「水平拡散」の防止ばかり焦点が当たっていることです。私たちが直面する、より深刻な課題は「垂直拡散」です。NPTが課す核軍縮交渉の義務を、核兵器国は果たしていません。「核兵器の先制不使用」は、その責務を果たす第一歩となる点で、池田氏が主張したように、NPTと核禁止条約をつなぐ〝車軸〟であるといえます。 G7広島サミットの池田氏の提言に賛同諸問題の経穴へ国境を越えた市民社会の活動・連帯の強化を SGIの役割に期待——モチヅキ准教授は長年、日本の社会や政治について研究されてきました。創価学会、また昨年逝去した池田SGI会長のことを、どうご覧になってきましたか。 70年代に東京大学で研究していた際、宗教団体が日本の政治に与える影響について調査しました。当然、創価学会についても研究し、牧口初代会長がご駆使し、戸田2代会長が出獄した後、創価学会を発展させていった歴史に感銘を受けました。そして、池田第3代会長が創価学会を数百万世帯にまで拡大させたのは、信じがたい偉業であったと思います。池田氏が公明党を創立した点も評価します。私がハーバード大学の博士課程で選んだ研究論文のテーマの一つは、公明党の外交政策であり、池田氏と公明党が日中国交正常化に果たした役割でした。これは、非政府主体が、一国の外交政策に大きな影響を与えた実例といえます。公明党は現在、与党の一角であり、創価学会は、日本社会に強い影響を及ぼす団体であり続けています。その役割は、重要な転換点を迎える日本社会、そして日本外交にとって、極めて重要です。公明党が、軍国主義的な政策を推し進めたい勢力の〝ブレーキ役〟を担ってきたことを、私は評価しています。しかし、〝ブレーキ役〟だけではなく、教育・福祉政策などの分野においても、政府の方針を変えてきたことは、米国ではあまり知られていません。ですから、公明党の広報戦略が強化され、国家主義的ではない側面が日本にはあるということが、もっと広く知られることを願っています。 ——人類の存族を脅かす核兵器の問題、そして気候変動の解決に向けて、「多国間主義」が強化されるべきことは論を待ちません。本年9月には、「多国間主義」を再活性化させるための「未来サミット」が国連で開催されます。 核戦争の阻止、気候変動の緩和といった、人類の存続をかけた課題解決のためには、国家間の協調が不可欠です。ですが、それぞれに国内事情があり、力強い行動を起こすことができていない。国連の機能にも限界があります。各国政府や国際機関だけでは、問題は解決できないのです。したがって、市民社会の力、国家の枠組みを超えた非政府主体による活動、そしてネットワークが極めて重要です。その意味で、SGIが、そういった地域でも、核兵器廃絶や気候変動緩和のために、市民社会による活動が活発になっています。そうした活動が、国際的なネットワークとつながり、強化されていけば、各国政府や国連を後押しする大きな力になるのではないでしょうか。 【インタビュー】聖教新聞2024.1.30
February 4, 2025
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「はずがない」を当てにする帝国陸海軍においては、「あるはずだ」のみならず「あろうはずがない」も幅を利かせていました。なぜか説得力をもつのです。破竹の勢いで勝ち進むナチス・ドイツがイギリスに負ける「はずがない」。ソ連はドイツにけん制されてしまうから攻勢を日本にしかける「はずがない」。欧州・太平洋と二正面に力を引き裂かれたアメリカは繊維を失う「はず」だから、有利な条件で講和にもちこめばいいと、要するにドイツの勝利を当てにして開戦へとどんどんと歩みを進めていったのです。参謀本部第二部(情報課)ロシア班から、関東軍特種大演習(十六年七月)のさいの情報判断が示すように、「ドイツ軍は勝てそうもない」との分析情報が作戦課にきちんととどけられていたのです。にもかかわらず、作戦課はそれを無視する。当時、ロシア課にいた林三郎大佐に聞いたことがあります。『戦争への突き進みで石油問題にまさるとも劣らない弱点が、『ドイツは勝つはず』という陸軍首脳の根拠もない判断ではなかったか、と私は思います。こんな他力本願的な判断の基礎になっていたのは、ドイツの力に対する過大評価とアメリカに対する過小評価でした』と。敗戦が決定的となった段階でも、なおソ連の侵攻は「あろうはずがない」と決めてかかっていたのは関東軍でした。昭和二十年(一九四五年)四月にソ連は日ソ中立条約の延長を求めていないことを日本政府に通告しました。前年十一月六日、スターリンは大演説をして、「日本は侵略国家である」と初めて決めつけ、敵視をあらわにした。ドイツ降伏後はシベリア鉄道をつかって満州国卿に兵力・火力をどんどん送り込み、極東ソ連軍の強化に大わらわとなっています。それに米ソ間、英ソ間で、相互援助条約が結ばれていることも承知している。アメリカが戦時中にソ連に送ったのは、自動車四千万台、大砲九千六百門、飛行機一万八千七百機、戦車一万八百台、ソ連がドイツに勝てたのはこのためであることも情報でわかっていました。これでもソ連は既に米英と組しているとわかっていなかったのでしょうかね。 【日本型リーダーはなぜ失敗するのか】半藤一利著/文春新書
February 3, 2025
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実験の民主主義宇野 重規 著、聞き手 若林 恵楽観的であることが不可欠同志社大学 吉田 徹評政治的な概念は、理念としてだけでなく、実践としてもとらえなければならない。この点、「民主主義」という言葉は、日本では余りにも理念的な響きを持ち過ぎているのではないか。本書に登場する主人公の1人、トクヴィルならばこの状況を見て大いに歎いたかもしれない。こうして、背景は異なれども現状を憂う2人の対談が展開されていく。思想史が専門の宇野に対して、デジタル・テクノロジーに強い若林が、現代の位置付けを問うていく。それぞれ用いる武器は異なれども、向いている方向は同じだ。たとえば、哲学におけるプラグマティズム、あるいはデジタル世界におけるファンダリズムは、何れも、民主主義のより広範で、平等で、魅惑的な実践の導き手となる可能性を秘めているという。彼らの思考の導き手となっているのは、これからは、より個人の生活に近い、試行錯誤を許容する民主主義をつくり出していかなければならないという確信であり、そこから生まれる躍動感への期待だ。結社、推し活、アソシエーション、ポピュリズムからケアなどといって言葉が投下をもって縦横無尽に語られるのも、理想の民主主義と生活空間にある民主主義(本書の言葉を借りれば『手の民主主義』)とはどう線状に論じなければならず、またそれが可能であるとの信念からくるものだろう。政党はなぜ必要なのか、保守主義とは何なのか、選挙でなぜ物事が解決しないのかなど、素朴な疑問に丁寧な答えが用意されているのも特徴だ。宇野と若林ともに、それぞれの理由から、これからの民主主義の展望について楽観的であるかにみえる。ただ、日本の民主主義の状況に照らし合わせればなおのこと、評者からすれば、2人とも過度に楽観主義的にみえる。しかし、読了した後に気付くのだ。民主主義という実験にとっては、楽観的であることが欠かせない条件であるのだ、と。そのことを2人の対談は見事に証明しているようにも思える。◇うの・しげき 1967年生まれ。東京大学社会学科学研究所教授。専門は、政治思想史、政治哲学。わかばやし・けい 1971年生まれ。フリー編集者。著書に『GDX 行政府における理念と実践』ほか。 【読書】公明新聞2024.1.29
February 3, 2025
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▶石原莞爾の満州国と宮沢賢治のイーハトーブ中島 私には、石原莞爾の満州国と宮沢賢治が「グリコープドリの伝記」で描いた理想郷イーハトーブが重なって見えます。唐突に聞こえるかもしれませんが、石原莞爾とほぼ同じ時期に、国中会に入会したのが宮沢賢治で、この作品は満州事変の頃に執筆されました。 島薗 どちらも時代の閉塞難を超える理想郷を想像していたという点ではそうかもしれませんね。 中島 あるいは、こうも言えるかもしれません。宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』の物語の構造は、同時代の血盟団事件のような昭和維新テロと同じだと。物語の中で、主人公のグスコーブドリは、冷害や火山の噴火などで、両親を亡くし、妹とも生き別れになる。苦しい人生を送るわけですが、その後、学問を治めて、イーハトーブの火山局の技師となり、高い技術力でイーハトーブの危機を救っていくわけです。ところが、またしても未曽有の冷害に見舞われてしまう。危機をまぬがれるためには、誰か一人が犠牲になって、火山を爆発させなければならない。グスコーブドリは自ら志願して、命と引き換えに、イーハトーブを救うわけです。つまり、本来はユートピアがある。しかしそのユートピアは何らかの形で汚染されていて、うまくいっていない。そのユートピアを取り戻すために自己犠牲を払わなければならないという物語構造になるわけです。血盟団事件の場合、自己犠牲とは「一人一殺」で象徴されるものです。「君側の奸」を自分がひとり殺した後、そのあと自分はどうなろうとも構わない。「君側の奸」によって汚されたユートピアを自己犠牲によって回復しなければならないのだと。 島薗 確かに賢治は、「農民芸術概論要綱」ではユートピア的な願望を表出していますね。 中島 「世界がぜんぜん幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」という一節ですね。 島薗 ええ。『グスコーブドリの伝記』も、学問の力で危機的な例外を解決するという意味で、大変ユートピア主義的ですから、宮沢賢治にそういう面があることは否定しません。しかし一方で、賢治の場合は、同時に、「慢」の自覚によるヘリ下りを強調して、ユートピア主義に傾きかける自分を戒める面を持っています。「慢」とは慢心の「慢」です。つまり、おごり高ぶることへの慎みがあるので、改革のリーダーになることを避けるような論理を持っている人だと思うのです。同和の中でも、そういう謙虚な信仰による事故覚醒という理念が強調されています。そして、彼自身はずっと田舎に住み続けて、地域で生きるということを選んだ。ですから、宮沢賢治も危うい面は持っているにせよ、軍隊で兵士たちのリーダーとなる自分をなんとかして立て直すことを必死にやりながら、法華経信仰にたどり着いた石原莞爾とは少し違う感じがします。 中島 先生のおっしゃることはよくわかります。ただ、ユートピア主義という点に着目すると、賢治にも国柱会の影響は強く感じられます。石原莞爾のような急進的だったかどうかと言うと、もちろん違うとは思うのですが、石原莞爾の論理は、社会進化論、日蓮主義、国体論を統合したユートピア主義でした。 ▶「変革への思考」でつながる日蓮主義と革新右翼中島 石原莞爾は世界統一という理想社会を想定して、そのユートピア実現に向けた闘争を説きました。彼にとって、統一された世界とは「透明な共同体」でした。そこでは他社と一体化し、世界と一体化することで、実存的な苦しみから解放される。すべては天皇のもとで一体となり、心と心でつながりあうことができるという理屈になる。 島薗 その理念だけを見ると、親鸞主義の三井甲之や蓑田胸喜ら「原理日本」グループとも共通している部分はありますね。 中島 ええ。世界と一体化したいというユートピア主義は共有していると思います。しかし、親鸞主義の場合、「絶対他力」ですから、理想に向けて自力で世の中を変革するという理念は出てこないんです。一方、日蓮主義の場合、明らかに変革への思考があるのが大きな違いです。このように見ると、日蓮主義は右翼の中でも、「革新右翼」と呼ばれる人たちと非常に親和性が高いことが説明できるわけです。代表的な革新右翼は、北一輝や大川周明ですが、彼らははっきりとした設計主義者でした。つまり、あるヴィジョンに基づけば、いい社会ができるという発想を共有している。実際、大川周明は北一輝と一緒に「猶存社」という政治結社を作るわけですが、自分たちの思想は革新勢力だと位置づけているのです。ちなみに大川周明はとくに日蓮に対する信仰を持っていたわけではありません。 【愛国と信仰の構造「全体主義はよみがえるのか」】中島岳志・島薗進/集英社
February 2, 2025
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ディープフェイクへの対応明治大学 教授 湯淺 墾道救済方法や実効性で課題多数昨年の話題穂一つは、生成AIであった。生成AIを利用すれば、ディープフェイク(動画像等を実際の動画像から変造したり、新規に偽造巣たりして、あたかも事実であるかのように流通させるもの)も簡単に作成することができる。ディープフェイクにはさまざまな使途があるが、各国で問題視されているのは世論誘導や選挙への利用だ。日本でも、昨年11月に岸田史を首相のディープフェイクがインターネットで拡散して話題なった。アメリカでは、これまでもオバマ元大統領などのディープフェイクが大量にインターネットに出回ってきた。現在話題になっているのは、2023年4月に共和党全国委員会がyYouTube上で公開した「Beat Biden」という動画である。これはバイデン大統領の再選阻止を訴えるものだが、登場するバイデン大統領やハリス副大統領の動画像は人為的に生成されているのである。このような世論誘導や選挙を目的としたディープフェイクへの規制の動きは、アメリカの州法が先行しており、これまでにカルフォルニア、テキサス、ワシントン、ミネソタ、ミシガンの各州で選挙に関するディープフェイクを規制する州法が制定された。しかし連邦レベルでは規制には賛否両論あり、法規制に至っていない。その背景には、とくに政治や選挙では表現の自由が重視されるべき、フェイクであるとしても有権者に知る権利がある、パロディも規制かねない、「修正」と「偽造・変造」との間に一線を引くことは難しい、等の理由がある。 放置すべきでない規制には慎重な検討 一方で日本の公職選挙法には、インターネット広告規制、ポスター規制、ビラ規制、選挙カー規制など、選挙運動や政治活動の場所や態様、使用する道具や機器類については多くの規制が存在する。しかし表現の内容の事実性・真実性についての具体的な規制はほとんど存在せず、虚偽事項の公表罪(235条)、選挙に関するインターネト等の適正な利用の努力義務(142条の7)が定められている程度である。また近年、ソーシャルメディア等のプラットフォーマー(インターネット状で大規模サービスやその基盤を提供する企業)に対する規制が強化される方向にあるが、ディープフェイクに関してプラットフォーマーの自主的な対策強化を求める声もある。しかしプラットフォーマーによる対策は、フェイクの定義や判断方法が明確になっていないと、特定の候補者や政党に関する情報が一方的にフェイクを放置すべきではないが、法規制にあたっては慎重な検討が必要である。誰がどのようにしてフェイクであることを認定するか、選挙運動・政治活動だけに規制を限定すべきか、ディープフェイクを作成するAI技術の開発や提供への規制の是非、プラットフォーマーに何を求めるか、被害者の救済方法、海外の事業者への規制の実効性など、課題は多い。政党や議員、選挙管理の関係者だけでなく、有権者もディープフェイク規制の在り方を考える必要があろう。(ゆあさ・はるみち) 【文化】公明新聞2024.1.26
February 2, 2025
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気象を知ると空がより美しく荒木 健太郎(雲研究者)ダイナミックに変化する最近、空を見上げることがありますか——。空には、どんな雲があったでしょうか。私の好きなのは積乱雲です。研究対象にしていることもありますが、ダイナミックに変化していく姿がいい。寿命は30分から1時間程度。積雲から発達して雄大積雲、さらに積乱雲へと変化していきます。どこまでも大きく発達しそうなものですが、雲には成長できる限界の高度があります。それを見せてくれるのが、かなとこ雲。積乱雲の上部が成長限界高度に達し、平たく広がったもの。普段は見えない境界線を、可視化してくれるのです。積乱雲は大気の状態が不安定であることを教えてくれます。積雲から雄大積雲へと、すごい勢いで発達すると、天気が急変する目安です。積乱雲というと、夏の入道雲のイメージが強いかもしれません。しかし、冬の日本海側では、たくさんの積乱雲が発達します。北陸では冬の雷が有名ですが、発達した積乱雲によるものです。日本海の海面水温は冬でも5~15度。冬の強い寒気によって上空が冷えると温度差が生じ、積乱雲が発達して雪を降らせるのです。特に、JPCZ(日本海寒帯気団収束帯)ができると要注意。雪雲が帯状に列をなして発生。日本の沿岸にかかると、短時間で集中的な大雪になります。2020年12月には、この影響で大雪となり、関越道で大規模な2100台も立ち往生が発生しました。 大気の影響を姿形に雲を見ていると、非常に素直だなと感じます雲は、大気の影響を、そのまま姿形に反映します。ということは、私たちは雲の形を観察することで、空で何が起きているのかを知ることができるのです。例えば、積乱雲が発達していたら大気の状態は不安定だし、霧のような見た目の層雲が低い場所にたまっていたら、そこの大気は安定しています。また、かぜの動きによって雲が波打ったり、渦を巻いたりすることも。そうやって、目に見えない空気の流れを理解することができるのです。天気が変わるときの兆候にもなります。天気が下り坂になると、まず上空の空気が湿ってきます。すると、飛行機雲が変化します。ふつうはすっとできて消えてしまうのに、太く成長して長く空に残るのです。そんな飛行機雲から見えたら、西から天気が下り坂と分かるわけです。前線や低気圧が近づいてくると、巻雲や巻層雲などの薄雲が広がります。すると、太陽や月の周りに光の輪っか(ハロ)が見られるようになります。昔から、「太陽や月に光の輪がかかると雨になる」と言われますが、科学的根拠がはっきりした観天望気の一つです。 いざという時の防災にも役立つ 美しい現象を狙って見るハロや逆さ虹(環天頂アーク)のようなきれいな現象を、見てみたいと思いませんか。実は天気予報を上手に利用すると、狙って見ることが可能です。今まで偶然でしかなかったきれいな現象に、格段に出合えるようになるのです。西から天気が下り坂というときに、気を付けて空を見ていると、薄い雲が這ってきたタイミングでは路や環天頂アークなどに出合える可能性が高いのです。実は、普段から雲や空に注意することが防災にもつながります。例えば、「明日は大気の状態が非常に不安定」というとき、あなただったらどうしますか。もしハザードマップで水害の危険地域にいるとしたら、大雨による洪水や土砂災害が起き、大きな被害が出るかもしれません。そう考えると、避難する準備を始めませんか。もちろん、避難するタイミングは人によって異なります。高齢者や子ども、障がいのある人は早めに。特別警報が発表されてからでは、すでに災害が起こっていることもあるため、警報などにも気を配りたいものです。想定外のことが起きると、避難できずに被災することになりかねません。時分のみを守るために、自分の関係する情報はしっかり見るように気を付けることが大切。講演などを聴いて、一時的にモチベーションが上がっても、それを維持するのは大変。負担なく楽しみながら気象情報を使っていれば、いざというときにも気象情報をアクセスしやすいはずです。昨年11月、関東でUFOのような形の、吊るし雲が見られました。天気が下り坂のときに現れますが、こんな雲を見つけるのも面白い。空の情報を知るトレーニングになります。そこから、気象情報にも触れていってもらえればいいのではないでしょうか。=談 あらき・けんたろう 1984年、茨城県生まれ。雲研究者。気象庁研究所主任研究員。地方気象台で予報・観測業務に従事した後、現職に。映画「天気の子」気象監修。著書に『読み終えた瞬間、空が美しく見える気象のはなし』(ダイヤモンド社)、『すごすぎる天気の図鑑』(KADAKAWA)など多数。 【文化Culture】聖教新聞2024.1.25
February 1, 2025
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大伴家持と万葉集高岡市万葉歴史館長 藤原 茂樹波乱の生涯で、没後、光り輝く大伴氏は、祖先神が天孫の伴をしてきた誇り高き一族である。五世紀後半の雄略天皇の代から政治の中枢を担っていたが、六世紀半ば、大伴金村の対外政策失敗以降、力を落とした。六七二年、壬申の乱での活躍により息を吹き返したが、奈良時代になると藤原氏の権勢におされていく。大伴家持(七一八~七八五)の代になり、頼みにしていた橘諸兄も亡くなり(七五七年)、諸兄の子の奈良麻呂の謀反(七五七年、同族の大伴古麿も加担)は、家持の心をいよいよ空虚なものにした。大伴氏は段々に衰えて十世紀半ばに歴史から姿を消す。家持の空虚感は、一族の遠い先の末路の予感にみえるのであった。七五八年、家持は因幡守に任じられ、翌年元旦に、新しき年のはじめの初春の今日降る雪のいやしけよごと(『万葉集』巻二十・四千五百十六)と詠んだが、『万葉集』終焉歌となっている。当日は朔旦立春(元日と立春が約三〇年目に重なるめでたい日)で、加えて雪が祝福するように降る。元旦、立春、雪の要素が合わさりすばらしいことが起きている。こんな風にめでたいことが重なるようにと慶びと希望をこめた至上の歌である。新年の起点である元日の歌を歌集の終結に用いている。早くに契沖(一六四〇~一七〇一)は、「万葉集」の編纂者を大伴家持とし、その構成は二部に分かれていると説き、巻一~十六は部立(雑歌、相聞、挽歌、寄物陳思、正述心著など)により整理されている(巻十五を除く)が、十四巻は家持の歌日誌の姿であり、歌集全体は同一視点で作られてはいない。編纂の痕跡が多様性を持ち、家持に至ってはほぼ完結したとするのが現在の説である(他説もある)。因幡から帰京した家持は信部大輔(中務大輔)の地位に衝き、六十三年頃、藤原良継、・石上宅嗣らと藤原仲麻呂暗殺を謀るが未遂に終わり、七百六十四年、薩摩守に左降される。その後、参議に復帰。七百八十二年、氷上川嗣(母は聖武天皇の娘)の変に連座し、京外に移される。七八五年、中納言従三位兼春宮大夫陸奥或按祭使鎮守府荘厳として、同八月没(六八歳)。死後二十日過ぎ、藤原種継暗殺事件に早良皇太子(桓武天皇の弟)とともに連座し、屍を葬られぬまま官位剝奪除籍される。子の永主は配流。不幸な死後である。手元にあった『万葉集』は没収され、官蔵に眠ることになる。乙訓寺(京都府長岡京市)に幽閉された早良は飲食を絶つこと十余日、淡路島配流途次で憤死する。亡骸は淡路の塚に収められた。それからである。餓死の親王霊は怨霊となり、天皇と新皇太子(後の平城天皇)父子に祟るようになる。周囲の女性たちが次々に命を失い、皇太子の体に異変が生じる。七九二年、卜占の結果、早良の祟りと判明し、朝廷は淡路の墓に使者を遣り慰撫するが祟りはやまず、桓武は早良に崇道天皇の号を与え、淡路墓を山陵とした。早良の春宮大夫であり官位正明を剥奪された家持は八〇六年復位された。この時、官庫に眠っていた『万葉集』が家持の名誉とともに目覚めのときを迎えた。家持没後二十一年、万葉集終焉歌から四十七年後の音量蠢く時代の底から宝石のような価値を現ずる事になる。 ふじわら・しげき 1951年、東京まれ。81年、慶應義塾大学大学院文学研究課程単位取得退学。神戸山手女子短期大学教授、大谷女子大学教授、慶應義塾大学教授等を経て現在、慶應義塾大学名誉教授。 【文化】公明新聞2024.1.24
February 1, 2025
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食肉を培養する科学文明論研究者 橳島 次郎環境問題の解決に寄与も昨年6月、ニワトリの細胞から人工的に作られた鶏肉の販売が、米国で初めて認可された。これより前の2020年にはシンガポールで、同じく鶏の「培養肉」の市販が認可されている。本連載ではこれまで、幹細胞からさまざまな臓器や体組織をつくる技術が、再生医療だけでなく、西寧の始まりや生体内の働きを再現し調べるモデル胚やモデル臓器の研究にも使われていることを紹介した。この先端的な細胞培養技術がさらに活躍の場を広げ、食肉を作ることにも応用されているのである。ニワトリの外ウシや、酒などの魚肉の培養の開発も進んでいる。昨年10月にはペットフード用の培養肉がEUで認可されている。私たちが食べる家畜や魚肉は、筋肉の組織である。だから動物から筋肉になる細胞を採取し、酸素と栄養を与えて培養に成形すれば、立派な食肉を作れる。生きた動物を犠牲にせずに食料を得られるのが倫理的な利点となる。また、家畜の飼育、解体処理、輸送の家庭で消費されるエネルギーと排出される二酸化炭素などの温室効果ガスを減らすことができるのも大きな利点とされている。特に牛の商家機関唐らは大量のメタンガスが出る。世界で派出される温室効果ガスの4%が牛のゲップによるという。さらに、牧畜に必要な広大な土地の利用と水資源の消費を少なく抑えられる利点も指摘されている。漁業での乱獲による海洋生物資源の枯渇も防げる。培養肉は、人類の食糧問題と環境問題の解決に寄与できる、有望な先端技術なのだ。普通の動物の細胞を使うので安全性に問題はないとされるが、EUではまだまだ人間が食べる肉としては認可されていない。また培養肉も製造には電力と水を使うので、長期間にみて環境負荷がどれだけ少ないか、わからないともいう。製造過程に高度の技術を要しコストが非常に高いもの短所だ。現状では普通の肉の数倍の価格になるという(鶏肉450㌘で2300円という試算がある)。さらに、安全性だけでなく、畜産労働者の雇用を奪うとの懸念もあって、イタリアの国会は昨年11月に培養肉の生産、販売、輸出入を禁止する法案を採択した。日本でも開発研究を進める大手やベンチャー企業があり、日本細胞農業協会という振興団体もできている。植物性タンパク質で作る代替肉も普及するなか、培養肉を私たちの食卓に受け入れるか、受け入れるにはどのような条件が必要か、議論していく必要があるだろう。 【先端技術は何をもたらすか—13—】聖教新聞2024.1.23
January 31, 2025
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誰も置き去りにしないこの姿勢こそが今こそ必要能登半島地震の発生から3週間インタビュー 東北大学災害科学国際研究所 栗山 進一所長——東北大学災害科学国際研究所として、「令和6年能登半島地震」が発生した直後から、被災者の命を守るための情報や東日本大震災の教訓を次々と発信されていますね。 「令和念能登半島地震」の被害状況は、13年前の東日本大震災の光景と重なり、胸を痛めています。まずは東北大学災害科学国際研究所を代表し、自信で亡くなられた方々に謹んでお悔やみ申し上げるとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。私たち災害所では、地震発生直後から情報収集や情報支援を行ってきました。具体的には、工学、理学、医学、人文社会科学、情報科学、防災教育実践学など多岐にわたる分野の専門家が学外の関連機関と連携し、地震と津波のメカニズムの解明、被害状況の推計を行い、被災地への正確な情報提供に努めてきました。 低温症を防ぐ——今月9日には、災害研として、被災地調査を行う研究者の状況報告をはじめ、各分野の専門家が過去の教訓や最新の研究を踏まえ、どのような支援が必要となるかを発表する「速報会」を開催されました。正確な情報をいち早く伝えるということが、大きなポイントだと思います。 速報会には、オンラインも含めて2100人を超える方々が参加しました。〝今、被災地では何が起きているか〟〝今後、どのような事態が予想されるか〟に、大きな関心が集まっていると実感します。その上で、どのような支援を行うとしても、まずは正確な情報をもとにしなければなりません。〝東日本大震災経験した東北だからこそできる支援を〟との思いで、被災地の状況を的確に把握しつつ,過去の教訓を踏まえて、必要となる対策等をお伝えしました。中でも、発災当初から訴えてきたのは、被災地が冬の寒冷地であり、「低体温症」を防ぐことです。低体温症とは、代謝によって発生する熱と、体から逃げていく熱のバランスが取れず、体温が低くなってしまう状態のことです。最悪の場合、心肺停止となってしまう危険があります。歯がカチカチと震える譲渡委は、低体温症の初期状態ですので、注意が必要です。特に高齢者の場合は、暖房のある避難所などにいても、在宅避難をしていても、十分に食事が取れていないと、低体温症になる可能性があります。また避難所の様子などを報道で見ても、まだ床の上に直接、布団を敷いていたり、畳の上で雑魚寝をしていたりする状況があります。たとえ布団を敷いていても、冷たい床や畳によって体温は奪われてしまいます。支援が十分届いていない地域もあるでしょうが、成能なら「段ボールベッド」を活用してもらいたいと思います。断熱性能が高い段ボールベッドは、防寒に効果がありますし、高さがある分、高齢者は立ち上がりやすくなります。また、床に落ちた飛沫やホコリなどを吸い込むリスクも減るので、感染症などを防ぐことにもつながります。 デマ情報に注意——白湯を飲んだり、上着の下に新聞紙を詰めたりするだけでも低体温症の対策になると呼びかける専門家もいます。これまで聖教新聞としても、電子版などで「避難生活中の健康を守るポイント」など、被災後の生活で注意する点を紹介してきましたが、支援物資がなかなか届かない地域でも、そうした情報をもとに、一人ひとりが身近なところから対策を取ることが必要だと思います。 まずは、そうした正しい情報をもとに、自分自身の意餅を守るための行動を続けていただきたいと切に願います。その一方、正しい情報を得る上では、フェイクニュースが横行していることも認識しておかなければなりません。災害研では、能登半島地震が発生した今月1日から7日間のX(旧ツイッター)で発信された情報を分析しました。「地震」を含む発信数は250万件を超え、「津波」や「低体温」「能登+透析」「地震+薬」などに注目が集まっていることが分かりました。しかし同時に、今回の地震は〝人為的に起こされたものだ〟と不安をあおる情報も見られ、「人工地震」を含む発信数は7万6000件を超えています。こうした根拠のないデマを流したり、ほかの人と共有したりすることは、同か慎んでいただきたい。またSNSは、そうしたデマ情報が含まれていることも理解していただき、必ず「発信元」を確認し、正しい情報化を確かめていただくことが大切です。 苦しむ人に寄り添うため求められる地域社会の力 関連死への懸念——被災地については今後、どのようなことを懸念していますか。 いわゆる「災害関連死」の増加です。災害による負傷の悪化や、避難生活などによる心身の負担によって命を落としてしまうことですが、2016年に起きた熊本地震では、この災害関連死が自身による直接死の4倍を超えました。地震から助かっても、まだまだ命を落としてしまう危険性があるということです。この災害関連死が起こらないようにすることが、今後の第一の課題です。現時点で心配なのは、狭い車中などでの避難生活で血行不良を起こし、血栓が肺に詰まって肺塞栓などを発症する「エコノミークラス症候群」です。トイレに行く回数を減らすために水分補給を控えるという方もいらっしゃいますが、それでは血流が悪くなり、エコノミークラス症候群のリスクを上げてしまいます。健康を守るためにも、必要な水分は取り、こまめな運動も心がけてください。また、感染症のまん延による肺炎や下痢などの症状や、高血圧や糖尿病などの慢性疾患も心配されます。中には、日頃から服用していた薬を避難生活で中断せざるを得なくなった方もおられるでしょう。これが長期化すると、重大な健康被害を起こすことも懸念されます。「お薬手帳」を持っている方は携帯していただき、被災地を訪れている医療救急班に遠慮なく相談してください。 決して無理せず——被災者の中には、2次避難(※1)で慣れ親しんだ土地を離れることにストレスを感じたり、故郷で仕事を続けることに対し、悩みを抱えたりしている方もいます。生活の再建を急ぐあまり、自分の健康状態を顧みずに無理をする人もいるのではないでしょうか。そうした方々の心身の傾向も懸念されます。 災害関連死の過去の事例では、震災後の疲労などによって心不全や菜園などを発症したり、地震のショックや与信への恐怖が原因で急性心筋梗塞を起こしたりすることが挙げられています。被災地で暮らす方々には、決して無理をしないでいただきたいと思います。災害研では、東日本大震災の教訓のもとに、「災害後のこころの健康のための8カ条」を作成しましたが、その中で強調していることも〝自分を追い込まないようにして休みを取ること〟〝つらいことは一人で我慢しないこと〟などです。自分自身の健康を守るためにも、決して無理をせず、悩んでいることは家族や周囲の人に話し、気持ちを分かち合うことを心がけてください。また、災害が及ぼす影響は、決して一過性のものではありません。東日本大震災の被災地では、家屋の損害の程度が大きいほど、肥満や不眠、喫煙、うつ、産後高血圧症のリスクが上昇することが報告されています。家の再建や仕事のことなど、自分の将来に見通しを持てるかがメンタルヘルスに大きく影響することから、行政には生活再建も含めた一日も早い対策を期待したいと思います。そのほか、被災地の子どもたちに対する継続的な教育支援をはじめ、あらゆる分野で課題が浮き上がってくると思いますので、支援を途切れさせないことが必要となるでしょう。 苦しむ人に寄り添うため求められる地域社会の力 災害弱者に配慮——栗山所長は、速報会で〝誰も置き去りにしない〟という視点が大切だと強調されていましたね。 東日本大震災では、災害関連死の4人に1人が障がい者だったことが分かっています。これは避難生活の中で、障がい者が意見を述べる場がなく、適切な対応を受けられなかったことが原因です。その教訓を踏まえ、「仙台防災枠組2015-2030」(※2)が世界会議をきっかけに、「インクルーシブ防災」の必要性が叫ばれるようになりました。これは老若男女を問わず、生涯がある人のない人も、誰も取り残さないことを目指した防災の理念です。災害関連死を起こさないためにも、この防災のあり方が今こそ大切であると確信します。インクルーシブ防災については、徐々に理解が進んでいますが、まだまだ課題も残っています。熊本地震を経験した育児中の女性へのアンケートを見ても、小学校に避難している時に、「おにぎりを配りますので、並んでください」とアナウンスがあったが、1歳と3歳の子どもをひとりで見ている状況では並ぶことができず、食事が手に入らなかったという声がありました。また今回の能登半島地震の被災地からも、医療的ケアを必要とする方から「周囲も大変な状況の中で、支援や協力を申し出ることに申し訳なさを感じている」との声が届いています。こうした〝災害弱者〟から順番に取り残され、命を落としてしまうのが災害の現場です。まずは、自らの行動や努力だけでは、自分の命を守ることができない人がいることを、周囲の人たちが知ることが重要です。 声に耳を傾ける——そうした配慮が大切とは分かっていても、被災地の最前線では、自分や家族のことで精いっぱいで、他者のことに気を配るのが難しいという状況もあるかと思います。 そうした状況にあることも、よくわかります。だからこそ、まずは支援活動に携わる人や、2次避難先で受け入れる側の人などに〝誰も取り残さない〟との意識を持っていただき、一人一人の声に丁寧に耳を傾けていきたいと思います。私自身、これまでインクルーシブ防災を推進する上で、さまざまなケアが必要な方に、普段の生活や震災の時、何に困ったかなどを聴いてきましたが、話を聞く中で、初めて気付く課題も少なくありません。医療的ケアを必要とする必要とする仙台市在住の20代のある女性と、そのお母さんに話を聞いたときのことです。この女性は、車いす生活を余儀なくされているのですが、人工呼吸器などの必要不可欠な荷物が8個もあり、車いすを含めると90㌔もの重さになることを教えていただきました。そうした状況も踏まえ、これからの災害に備える「特別避難計画」を一緒につくってきましたが、その中で、一番困っている人を守ろうと思って考えた手段や知恵を用いれば、より軽い障がいの人はもちろん、あらゆる人を救っていけることを実感しました。今では、それが〝誰も置き去りにしない〟一番の近道だと信じていますし、そのために必要なことは、それぞれが自分のいる場所で、そうした身近な一人一人の声に耳を傾け続けてくことだと思っています。もとろん、そうしたコミュニケーションは、災害が起こる前も大切ですが、災害が起きてからの方がもっと重要で、今こそ必要になっています。 ——今後、県外でも避難者を受け入れる「広域避難」が進んでいくことが報じられています。身近な人の声に耳を傾ける姿勢は、決して被災地だけの話ではなく、他地域すむ人々にも求められるのではないでしょうか。 「広域避難」などで被災者を受け入れる地域の方々には、一人一人の多様な状況に、少しでも寄り添っていただきたい。その上で、身近な人の声に耳を傾ける姿勢というのは、たとえ被災者を受け入れている地域でなくても、また障がい者が身近にいなくても、必要なものだと思っています。例えば今回、親戚や家族が被災した人が身近にいるかもしれません。また、今回の被災地でなくても、過去の災害での経験がフラッシュバックして、心身の不調を訴える人もいます。そういった意味では、創価学会をはじめとする、様々な地域社会の力が必要です。〝誰も置き去りにしない〟〝苦しんでいる人のために尽くす〟という思想は、創価学会の考え方でもあると認識していますし、現実として人の生きる力を支えていますよね。今こそ、皆さんには、身近な人の声に耳を傾け、悩む人がいれば、気持ちを受け止めていただきたいと思います。立場や役目は異なりますが、私たち災害研としても、被災地の方々のために総力を挙げ、〝誰も置き去りにしない〟支援を続けていく決意です。 くりやま・しんいち 1962年生まれ。医学博士。専門は分祀疫学、災害公衆衛生学。東北大学理学部物理学化、大阪市立大学医学部医学科を卒業。多さは私立大学医学部付属病院第3内科医師、民間企業医師、東北大学大学院医学系研究科環境遺伝医学総合研究センター分祀疫学分野教授などを経て、2012年に東北大学災害課国際研究所災害公衆衛生分野教授に就任。2023年から同研究所所長。 (※1)被災地の避難先から、インフラの整ったホテルや旅館などの安全な場所に移ること。(※2)2015年に仙台市で行われた国連同祭世界会議で採択された、2030年までに災害の被害者数提言などを実現するための指針。 【危機の時代を生きる希望の哲学】聖教新聞2024.1.20
January 30, 2025
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スポーツウォッシングとはスポーツライター 西村 章代表例はベルリン五輪皆さんは「スポーツウォッシング」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。東京五輪を控えた2020年ごろから、日本でもちらほらと見かけるようになりました。これは、「スポーツの熱狂によって、人々の関心や意識が社会の問題からそらされている」様子を表す言葉です。簡単に言い換えると、スポーツを使って国家や政権、企業などのマイナスイメージを覆い隠そうとする行為です。皆さんは、日々、スポーツを観戦したりしていることでしょう。でも、手に汗握る勝負の楽しみや体を動かす喜びが、何か都合の悪いことをウヤムヤにするために利用されているとしたら……。そんなスポーツウォッシングについて知ってもらいたく、近著『スポーツウォッシング』(集英社新書)を出版しました。スポーツウォッシングの典型例としてよく取り上げられるのは、1936年のベルリン五輪です。ナチス政権下で、彼らが自分たちのイメージを好転させるために利用した大会として知られています。ヒトラーとナチス政権に対しては、この大会以前から厳しい批判が向けられていました。しかし、大会が始まると、「ヒトラーは胃今日の世界において、最高ではないとしても屈指の政治的指導者だ」「素晴らしい新設、細やかな思いやり、丁寧なもてなしを受けたという印象」などの記事が世界的な大新聞に掲載されるほど効果を発揮したのです。 熱狂・感動の裏に隠される不都合 プレゼンス向上と表裏一体ただ、これほど緻密で露骨でわかりやすいケースは、現実には少ないのが実情です。たとえば、W杯サッカーのカタール大会。スタジアム建設などの過酷な労働環境で、多くの出稼ぎ労働者が亡くなりました。また、地域的に女性や性的マイノリティーに対する差別も根強く、それらの批判から目をそらせるためのスポーツウォッシングではないかと指摘されました。この大会の一面として、スポーツウォッシングの作用があったのは間違いないでしょう。ただ、サッカーは彼らにとっても重要な文化で、スポーツ全般に力を入れる彼らが国際大会を招致しようと思うのも当然のこと。自国の世界的なプレゼンス(存在感、影響力)を向上させたい、という国家戦略と表裏一体なのです。だからこそ、スポーツの熱狂や華やかさのみに気を取られていると、それが覆い隠している問題を見過ごしてしまいます。カタールには、MotoGPの取材でかれこれ20年間訪れています。しかし、建設現場で働く人々がたくさん命を落としている過酷な労働環境の問題を理解したのは、初期取材から10年以上が経過した2010年代中ごろでした。日本のメディアは、中東の出稼ぎの労働者問題や性的マイノリティーの抑圧に対してもともと関心が薄く、W杯開催前から欧州メディアがスポーツウォッシングに批判的検証を行い、参加選手たちも人権抑圧に反対の声を上げていたのに対し、日本ではメディアも選手たちも目と耳と口を閉ざしているように見えました。 知らないうちに忍び寄るスポーツウォッシングの問題は、一筋縄でいかない分かりにくい問題です。でも、何かおかしいなと感じることが第一歩。「スポーツに政治を持ちこんではならない」と、よくいわれています。この言葉の理解について、日本とそれ以外の国々でかなり意識のズレがあるようです。近年、差別や平和問題などに対して、選手たちのアピールが増えています。たとえば、東京語会陰では女子サッカー選手たちが試合前に片膝をついてアピールしました。この行為は差別反対の象徴として、NFLのコリン・キャパニックが始めたものです。人種差別反対の意思表示として国歌斉唱の際に規律せず、片膝をついたのです。また、2020年の全米オープンテニスでは、大坂なおみ選手が黒いマスクで登場。マスクには、警察の人種差別的な暴力の被害に遭った犠牲者たちの名前が記され、BLM運動の支持を訴えたことは、世界的に話題になりました。日本のスポーツ報道は、「競技に感動した、楽しかった」という側面だけをいつも強調します。しかし、そんな結果に一喜一憂している私たちは、実は大事なことから目をそらされてしまっているのかもしれません。東京五輪の際、政治家の中からこんな発言が聞こえてきました。「こんな時だからこそ、五輪を開催すれば、不平不満を忘れてくれる」と。現代のスポーツはまるで古代ローマの〝パンとサーカス〟のように、娯楽で気をそらせて、市民をおとなしくさせる道具に使われているのかもしれません。スポーツウォッシングは、まるでヌエのように、その姿を見抜きにくい存在だからこそ、知らないうちに忍び寄ってきて、気付いたらそこにいるのです。 =談 【文化・社会】聖教新聞2024.1.18
January 30, 2025
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郷愁と共によみがえる幼少時代作家 村上 政彦チュット・カイ「追憶のカンボジア」本を手にして想像の旅に出よう。用意するのは一枚の世界地図。そして今日は、チュット・カイの『追憶のカンボジア』です。本をきちんと読むためには、作者の経歴を知る必要があります。彼はフランス植民地化のカンボジアに生まれ、高等教育を受けて法科経済大学長などを務める一方、小説の執筆や翻訳を精力的に行っていた。ところが、1970年代半ばにポル・ポト政権が誕生して以降、知識人であることが分かれば生命の危険があるため、偽名で過酷な強制労働に従事。その後、独四阿政権が崩壊しても、同国に表現の自由がないことからフランスに亡命して、タクシーの運転手をしながら小説を書き続けた。重要なのは、カイが本来の居場所とコミュニティーを失ったデャスボラ(離散した民)であることです。彼の出身地であるコンポンチャム州は、メコン川流域の自然に恵まれた風土を持つ。ここで過ごした子ども時代が『追憶のカンボジア』の核になっています。本書の冒頭に置かれた「寺の子ども」は、子どもが寺に住み込んで、僧侶の世話をしながら、読み書きそろばんを習う古くからのカンボジアの習慣に材を取っています。ここでカイは「私」の一人称を使って物語を進める。私と親友のチャイは、寺のタオ先生のところに寄宿している。そこでの生活が描かれるのですが、これがたっぷりノスタルジー(懐かしむ気持ち)を含んでいるたとえば雨季——。「メコン河は大きな海となり、水はありとあらゆる沼や池に流れ込む。(中略)人々はみな道の両側で、竹製の笊やら籠を漁の器具にして、麴漬け用の小魚を掬った。あっという間に大きな笊に半分ほどの小魚が獲れた。ああ、カンボジア! 豊富な魚! 水ある所に魚あり!」この作品が書かれたのは、カイがフランス国籍を得た後です。ディアスボラとなった作者にとって、子ども時代が脳未知なノスタルジーと共によみがえるのは自然なことではないか。人が懐かしいと感じる時には、過去の出来事を美しく化粧し、甘く味付ける。特に異国にあれば、なおのこと。ここでカイが「ああ、カンボジア!」と呼びかけているのは、愛国心からではなく、愛郷心でしょう。人がノスタルジーを求めるのは、現在に満足しておらず、未来の期待をもつこともできない場合ではないでしょうか。タクシーのハンドルを握ってフランスの街を走るカイの脳裏に、子どもの頃の故地が浮かんでも不思議ではない。2作目の「フランス学校の子ども」も、コンボチャムのフランス学校に通う子供たちを描いています。3作目の「かわいい水牛の子」では、ポル・ポト派が登場します。カイは、郷里を蹂躙した人間たちを、どうしても書かずにはいられなかったのでしょう。[参考文献]『追憶のカンボジア』岡田和子訳 東京外国語大学出版会 【ぶら~り文学の旅㊶海外編】聖教新聞2024.1.17
January 29, 2025
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〝共に喜ぶ〟って、とても幸せ総神奈川教育部女性部長 陸田 由喜子りくた・ゆきこ 創価大学卒業後、神奈川県川崎市内の公立小学校に勤務し、現在は校長を務め、る。1968年(昭和43年)入会。川崎市在住。支部副女性部長。 〝どの子も安心して楽しく過ごせる学校に〟——昨年4月、小学校の校長に就任するに当たって決めたスローガンです。そのために「自分にできる精一杯のことを」と強く決意して、校長として日々をスタートしました。子どもだけでなく、教員も安心して過ごせる場所にしようと、普段から、学校に関わる一人一人のことを尊重して、どこまでも励ましに徹し抜いています。とはいっても、特別なことは何もありません。まずは朝、昇降口に立って、投稿する児童たちとあいさつを交わし、〝いつも見守っているよ〟と示すところから。すべて、学級担任や、教員として勤めてきた経験の中で教わったことです。これまでの〝宝〟の日々が、今この時に生きていると深く実感しています。 価値を見いだして〝私を本物の教師にしてくれた〟と思える経験をしたのは、教員になって間もない頃。〝学級崩壊〟状態のクラス担任として、どうしていいか分からず、ひたぶるに祈る中で、ふと気付きました。〝自分の辛い状況を、何とかしたいと祈っているけれど、一番つらいのは、子どもたちじゃないか〟当時、問題行動の中心となっていた子は、家庭が複雑な事情を抱えていたのです。「自分のためだけでなくて、子どもたちの幸福のために真剣に祈り続け、なんでもやっていこうと決めたときから、問題行動はなくなっていきました。このクラスは、今でも同窓会を開くほどの深い絆に。中には、私と同じ教育の道を歩んでいる子もいます。私自身が変わり、〝一人をどこまでも大切に〟との心で行動をするようになったことが大きかったのだと思います。特別な配慮と支援を必要とする児童が、多いクラスを担当した時も、子どもの持つ可能性を信じ、励ましの声をかけ続けました。子どもの幸福を願い、関わっていく中で、わたしや保護者も、あっと驚くような成長を見せてくれたのです。時には、「言葉が届かなかった……」と思うほど手ごたえがないまま、子どもたちが卒業を迎えたクラスも。けれど後に、その子どもたちが高校を受験したタイミングで、「先生の言葉を糧に中学校では、生徒会を頑張りました」「先生に迷惑をかけちゃったから、高校にちゃんと受かったことを報告に来ました」と驚きの言葉が。〝こちらの励ましの言葉や子どもたちを信じる心は、絶対に伝わっている〟〝子どもはみんな伸びようとしている〟と確信した瞬間でした。また、子ども同士の関りも、教育においては重要です。クラスメートの関りのおかげで、教室が安心できる場所になった例も、実際に多くありました。そういう温かな人間性を育むのも、教師の声かけ一つから始まると思います。子どもは本来、本当に素晴らしい考え方や、優しい性格を持っているけれど、時分では絶対に気付いていないことが多いのです。大人の声掛けが大事なのです。校長として現在、すべての学級を訪れて授業の様子を見守ることに注力しています。子どものノートを除きながら、「これってすごく良いアイデアだから手を挙げて、発表してみたら」などと伝えると、子どもは「え、そうなの?」と言いながら、うれしそうにしています。子ども同士のやりとりの、ふとした瞬間にも、「今、〇〇ちゃんのことを考えて行動できて、えらかったね。優しかったね」と、その価値を見いだしてあげることで、自信が育まれていきます。この「ふとした瞬間」に、適切に言葉をかけてあげることは、とても難しいことです。何が一番良い言葉なのかをゆっくり考えてしまって、時を逃しては、子どもに伝わらないからです。とっさの瞬間に、子どもの気持ちを正しく捉え、一番、子どものためになる言葉をかけてあげられるよう、教師自身が常に自分の生命を磨き鍛える人間革命が欠かせないと実感しています。池田先生の「子どもにとっての最大の教育環境は教師自身」との指針の通りです。 心と心の〝橋渡し〟さらに、子どもを大きく育んでいくには、他者との心も結びつきも大事です。地域の野菜農家の方がSDGsを教えてくれる特別事業を行い、その方の作った野菜が給食に出たり、「まち探検」で商店街を訪れたり。身近な人との結びつきが強くなった分だけ、「その人のために、地域のために、何か自分の力を使いたい」と子どもは感じるようになります。実際にゴミ拾いや、小さなバザーの開催などを通して感謝の声をかけられると、とってもうれしくなって、もっと地域が好きになっていきます。〝自分も地域のために、人のために力になれる〟と自信がつきます。これって、「世界平和」の第一歩なんじゃないかと思うんです。「『喜』とは、自他共に喜ぶことなり」(新1061・全761)の御文の通りです。「自分だけでなく他者と共に喜ぶことって、とても幸せなことなんだ」と、子どもたちに感じてもらいたい——そう強く願いながら日々の挑戦を重ねています。子どもたち、教職員、保護者と地域の方々、関わる全ての人同士、〝橋渡し〟をして、人と人とのつながりを強めていくことが、校長としての私の使命です。池田先生が〝最後の事業〟と言われた教育に、長年携わらせていただいたことに感謝でいっぱいです。先生が願われた「子どもの幸福のための教育」の実践に、これからも取り組み続けていきます。 陸田さん教えて小学校生活を充実させるため、親にできることはありますか?まずは、睡眠・食事・排せつといった生活のリズムを整えることです。たっぷりと寝て、朝ご飯をしっかり食べて、排せつも終えて、学校へ。これが、お子さんのやる気や集中力、心の安定につながります。また、宿題や翌日の準備をする時間を決めるなどの習慣を身につけさせることも、学校生活の事実のためには大事です。とはいえ、今は共働きのご家庭も多く、完璧にリズムをつくるのはどうしても難しいこともあるでしょう。そういう場合も、窮屈に考えなくて大丈夫です。一番大事なのは、日常生活や学校での出来事を、親が子どもと一緒に驚き、喜び、楽しむことです。「ありがとう」「いいね」「うれしいね」「えらかったね」「おもしろいね」という〝あ・い・う・え・お〟を意識しましょう。それでも不安や心配があるときは、気軽に担任の先生に相談してみてください。 【紙上セミナー励ましの校長先生】聖教新聞2024.1.16
January 28, 2025
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死生観を問う島薗 進著日本の文芸から掘り起こす東北大学教授 佐藤 弘夫評人は死を運命付けられた存在である。時間の経過に伴って、故人の物理的な痕跡は完全に消滅する。しかし、人は死者を忘れることはない。なぜ私たちは、亡き人の面影に触れるべく虚空に指先を伸ばし続けるのであろうか。なぜ避けようのない自身の死に、これはどこまで思い悩むのであろうか。本書の著者である島薗進氏は、長年にわたって東京大学で教鞭をとってきた。我が国における死生学研究の第一人者である。本書では、古代の記紀神話・『万葉集』から、鴨長明・西行・芭蕉・夏目漱石を経て、現代の若竹千佐子にいたる、数多くの文芸作品が取り上げられる。それらの作品を素材として、作者がどのように死と向き合い、いかにして死後の安心を確立していったかを考察していく。自在に過去と現在を行き来し、時には杜甫の詩や『ルバイヤード』などの海外の作品に触れながら、伝統的な日本列島の死生観を掘り起こそうとする著者の旅は、単に時間を遡るだけの旅路ではない。著者はこれらの心の琴線に触れる作品を通じて思索を深め、内面の一番深い部分に垂直に沈み込んでいこうと試みる。その意味において、本書はみずからの「魂のふるさと」を求めて彷徨を続けた。著者自身の心の旅の軌跡である。これまで禁欲的な実証研究に徹してきた著者が、あえて封じてきた生の肉声が時おり行間から響いて、読者の内面と共鳴する。いま日本では伝統的な家の解体や単身世帯の増加など、家族の在り方が大きく変貌している。葬送儀礼と墓の形態も歴史的な大転換を迎えている。かつて人々に共有されて死後の安心を生み出していた時代の死生観が、今日失われてしまった。著者は、誰もが「自身の死生観」を探求しているところに近代という時代の特色があるとする。今私たちは、手探りで自らに安心をもたらす死生観を求めなければならない時代になった。本書はその旅を始めようとする人にとって、格好のガイドブックとなるに違いない。◇しまぞの・すすむ 1948年、東京都生まれ。主教学者。東京大学名誉教授、上智大学グリーフケア研究所前所長。NPO東京自由大学学長。主な研究領域は、近代日本宗教史、宗教理論、死生学。 【読書】公明新聞2024.1.15
January 27, 2025
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政党助成金とカルテル政党浅井 直哉著政党の利害が一致した90年代の政治改革慶應義塾大学名誉教授 小林良影 評1990年代の政治改革の際に、政党や政治家個人に対する企業・団体の政治献金を制限する代わりに公費による政党助成金が導入された。しかし、政治改革関連法案では政治家や候補者が支部長を務める政党支部への企業・団体献金を認めることになり、実質的には以前と大差ない状況である。また、企業・団体によるパーティ券購入が抜け道になるなど、90年代の政治改革の不十分さが露呈している。従来、政党については、議員や名望家から資金を調達する「幹部政党」と党員から徴収する党費と支持団体による献金が主体となる「大衆政党」に分けられ、さらに総花的な政策を掲げて幅広い支持層の獲得を目指す「包括政党」があるとみられていた。これに対し、リチャード・カッツとピーター・メアは、本来、政策が異なり対立状況にある政党同士の利害が一致することでカルテルを形成する「カルテル政党」があると指摘した。本書は、このカッツらの指摘が日本に妥当するのかどうかを政党助成金の獲得に焦点を当てて検証し、政党助成金を巡り日本の政党の利害が一致して「カルテル政党」という構図が見られることを明らかにした。具体的には、政党助成金の要件を現職国会議員5人以上か、前回の衆院選あるいは前回ないし前々回の参院選の得票率2%以上とすることで、既存政党の分裂や離島など現職議員による新規政党は政党助成の対象になっても国会外の近畿政党は対象とならない点で、既成政党の利害が一致しているさらに、政党助成による交付額を各党の将収入の3分の2までとする上限規制について、政党助成以外の収入が少ない社会党とさきがけによる規制撤廃の意向を受けた自民党が政権維持を優先して自社さ政権で撤廃したことも、政党間利害の一致による「カルテル」であると著者は指摘する。また、著者は政党助成制度導入後の各党に財務を詳細に分析し、公明党は事業収入が年間収入の大部分を占めて安定的な資金構造を有する政党であることから、自民党や民主党のように政党助成への依存度が高い政党とは区別している。なお、最近の選挙における投票率の低下が著しい。政治に対する有権者の信頼を回復するためには、政党同士が自分たちの利害のためにカルテルを結ぶのではなく、政治改革の本来の趣旨に立ち返り、お金がかからない「きれいな政治」を実現するためのカルテルを結んでもらいたい。具体的には、透明性確保のためにすべてのパーティ券購入を銀行振り込みにしたり、購入者の公開基準寄付と同じ5万円超までに引き下げたり、法令違反があれば会計責任者だけでなく連座制で政治家も罰する法改正が必要であり、そのためのカルテル実現のために、ぜひとも先頭に立って改革を進めてもらいたい。◇あさい・なおや 1990年、東京都生まれ。日本大学大学院法学研究科博士後期課程修了。博士(政治学)。日本大学法学部特別助教を経て、日本大学法学部専任講師。 【読書】公明新聞2024.1.15
January 27, 2025
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▼「八紘一宇」と日蓮主義中島 まず、昭和の全体主義に対する影響力という点で見た場合、伝統仏教の中で戦前に最も多く力を持ったのは、日蓮主義だと一般に言われています。天応崇敬を掲げる超国家主義的な変革運動の指導者の多くが、日蓮主義の影響を受けているからです。日本を中心に世界統一を目指すという、あの「八紘一宇」という言葉も日蓮主義の国柱会から出てきたものです。 島薗 「八紘一宇」は「世界を一つの家にする」という意味です。もともと「八紘」は八つの方位、すなわち世界を意味する言葉として古代中国に用いられたものですが、黒柱会の創始者・田中智学が『日本書記』から転用して、一気に広がりました。「八紘一宇」の理想のもと満州事変を起こした石原莞爾も国柱会の田中智学との関りが非常に強かった。では、この日蓮主義と超国家主義の関係を中島さんがどう見ているのか、そこから議論を始めましょう。 ▼ふたつの『超国家主義』論——丸山眞男と橋川文三中島 日蓮主義と超国家主義の関係を私が考え始めた時に、導きの意図になったのは橋川文三の議論でした。ここでは丸山眞男と橋川文三による分析を対比しながら、説明させていただきます。丸山は『超国家主義』を「極端なナショナリズム」と解釈しています。彼は明治期の健全なナショナリズムが大正デモクラシー後に帝国主義的なウルトラ・ナショナリズムへと変容したことを強く非難しました。第一章で『一君万民ナショナリズム』を説明した際にも触れましたが、健全なナショナリズムは「国家は独裁者や一部の特権的な政治家のものではなく、国民のものである」という国民主権の理念とリンクしています。国籍をもつ国民はすべて平等な主権者であるという主張は、管理要求としての「下からのナショナリズム」とつながっているわけです。しかし、丸山は言います。明治期のナショナリズムは、大正・昭和と時代が進むにつれゆがんだものに変容し、「超・国家主義」という極端な国家主義になってしまった。つまり、自由民権運動のような「下からのナショナリズム」ではなく、国家が民衆を支配する「上からのナショナリズム」が肥大化し、アジア諸国への侵略的な植民地主義へと発展したのだと。 島薗 その丸山眞男の『超国家主義』論に異を唱えたのが、橋川文三ですね。彼は丸山眞男のゼミで教えを受けていたわけですが。 中島 そうです、「長」という文字には、「極端な」という意味だけでなく、「~を超えて」と使われるように「超越する」という意味もありますよね。橋川文三の見方によれば、戦前の「超国家主義」は、「超国家・主義」つまり「国家を超える主義」「国家を超越する主張」なのです。丸山眞男が言うような「極端なナショナリズム」というだけでは理解できないと分析するのです。その橋川が「昭和維新試論」をはじめとする超閣下主義論で取り上げたのが、一九二一年に当時の財閥を代表する安田善次郎を暗殺してその場で命を断った朝日平吾、そして一九三一年に関東軍参謀として満州事変を実行した石原莞爾、一九三二年の血盟団事件を起こした井上日召、一九三六年の二・二六事件の首謀者である国家社会主義の北一輝でした。そこで橋川が指摘したことは、彼らはみな、非常に深い煩悶、悩みを持った新しい世代の青年たちだったということです。この青年たちは、宗教や文学、あるいは哲学に主体的な関心を持ち、自己の解放と結びつくと、国家を超えたなにかと一体性を求めるような思想となる。つまり、煩悶青年たちが人生論的な斑紋を乗り越えるために、国家を超えた形で宇宙と一体化するというイデオロギーとして出てきたのが超国家主義であって、昭和の全体主義もその一環として見直さなければ解けないのではないかと言ったのです。 島薗 そうした煩悶青年たちの始まりについて、私は第二章で話をしてきたわけですね。 中島 丸山眞男よりも、橋川文三の議論の方が戦前の超国家主義の本質をとらえていると私は考えています。ただ、丸山と橋川ふたりの議論を重ね合わることで、ナショナリズムと宗教の相乗効果を読み解けるのではないかと思うのです。まず、橋川が指摘するように、超国家主義の土台には、自我をめぐるナイーブな斑紋が存在しました。彼らは価値のある生き方を求めるがあまり、個を超越した存在と一体化し彼らを宗教へと導いていくわけです。 島薗 スピリチュアルな生き方を追い求めるわけですね。 中島 そうです。そのときに、国体というものが、理想的な価値をもつものだと感じられる。したがって、国家と同化するということは、自己を解放し、崇高な理想に自分自身を溶け込ませていくことになるわけです。さらに、そのような理想的な国家は、普遍的価値を浴びることになります。そこに、「国家」から「超国家」へと拡張していくロジックが生まれる。つまり、究極の国家主義は、理想的な国家によって人類を救済する「超国家主義」となるわけです。 ▼超国家的な力で国家を救済しようとする日蓮宗島薗 今のお話を伺うと、日蓮主義のほうが、橋川の言う超国家主義と親和性が高いように感じますね。外への拡張主義という意味での「超」は、幕末以降の日本が尊王攘夷から開国に転じ、西洋の白鳥主義にならって尊王植民地主義となったと考えるとしっくりすると思います。国家神道がそのまま中華思想的な拡張主義に向かうということです。しかし、それだけでは思想的に弱いので、普遍主義的な宗教思想を取り込んでいく。ちょうどキリスト教が植民地主義を後押ししたのと同じように、です。もちろん、親鸞主義も日蓮主義も、丸山的な意味での超国家主義、つまり極端な国家主義のほうへ傾斜していった側面はあります。潜在的には親鸞主義も日蓮主義も、国家主義と対立する要求はあったはずなのですが、親鸞主義の場合は、個人の内面性を尊ぶということが国体論との緊張関係をなくし、むしろ国体論に乗っていくものになっていくものになってしまった。いわば、内面中心主義的な思想が、国体論と結びついていった側面が強いと思います。一方、日蓮主義について言えば、日蓮主義にはもともと国家救済のヴィジョンがあるんですね。たとえば、日蓮自身が元寇の危機に察して、法華仏教による国家救済を唱えました。しかし、超越的な力によって国家を秀才するヴィジョンが日蓮主義にあるということは、国家をも超越する力の存在を見ているということです。つまり、橋川文三の言う「国家を超える」意味での「超国家主義」ともつながりやすい親和性がある。田中智学の「八紘一宇」は中華思想的な発想による「世界を一つの家にする」という意味だと申し上げましたが、これが日蓮仏教的な「国家を超える」と重なる。だから、橋川的な意味での超国家主義と日蓮主義はとても近いですよね。 ▼人生論的斑紋が超国家主義へと接続する回路中島 私の考えでは、評論家・高山樗牛が田中智学の日蓮主義と出会ったことによって、人生論的煩悶が超国家主義へと接続する回路が誕生したと思うのです。 島薗 高山樗牛は、煩悶青年の先駆けのような人物ですよね。 中島 はい、一八七一年生まれですから、藤村操たちよりも少し世代が上ですが、若き日の高山樗牛は、立身出世願望に突き動かされながら、一方で世俗的欲望への嫌悪に苛まれ、苦悩しながら、文学にのめり込んでいった。自我の苦悩を抱え、暗中模索する彼にとって、文学による自然との一体化こそ求めるものだったわけです。 島薗 藤村操や三井甲之と同じ思考ですね。 中島 高山樗牛は東京帝国大学に入学すると、当時、大ブームだった、ハーバード・スペンサーの社会進化論に傾倒していいます。社会進化論では、人間社会も理想的な姿にむかって進化するといふうに考えます。自然は未来に向かって進化している。自然の一部である人間も、その法則に従って進化し続ける。人間は自然と一体化することによって、世界を思想化することができるのだと。高山樗牛は、このような煩悶青年の先駆けたちは、社会進化論を通して「苦悩からの解放」と「世界の有機的統一」を重ね合わせる思考様式を作り上げていったのでしょう。彼らにとって、自己の解放は世界の解放と直結していたわけです。低大卒業後、評隣家となった高山樗牛が最後に傾斜していったのが田中智学の日蓮主義です。彼は智学の思想に同化していきます。そこで見出したのが「超国家的大理想」です。事故と背海外低下し、一つの宗教的理想のもとに世界が統合されるヴィジョンこそが、高山樗牛の至った最後の境地でした。 ▼法華経と国体の一体化を説いた田中智学島薗 高山樗牛が出会った田中智学は、近代日本の仏教史を見るうえで、最重要と言っていい人物です。二人が出会ったのは一九〇〇年頃でしたよね。 中島 実際に面会したのは一九〇一年ですね。田中智学が「宗門之維新」を広く問うた年です。 島薗 だいたい教育勅語が発布されて、一〇年がたったころですね。歴史区分の第一期の終わりにあたりますが、そのころになると、すでに国家神道は正統的なイデオロギーとして地位を確立していました。他の社会制度が整ったこの時期に、国家神道のシステムもできあがったのです。したがって、仏教は「私的な信仰」という限定的な領域だけで活動を許され、最終的には国家神道に協力するという姿勢をとらなければならなかったのです。この時期以降、宗教的信仰を国家社会の発展や変革のヴィジョンと結び付けるには、信仰を国体論と結びつけることが不可欠になります。田中智学は、まさにそうした課題に積極的に臨んだ人物でした。若き日の田中智学の主張は日蓮宗と日本仏教の革新というところにありました。彼は生ぬるい宗門の体質に失望して、還俗して在家として日蓮宗を広める運動に取り組んだ。たとえば、先ほどの『宗門之維新』では日蓮宗を変革して、世界を救済するという意気込みが語られるわけです。ところが、一九〇二年の講演会や体系的教学講義で国体論を取り入れるようになります。(『世界統一の天業』『本化妙宗式目講義録』)。そこからだんだん国家神道のほうへ向かっていき、一九一四年に法華経と国体との一体を説く「国柱会」という団体をつくる。 中島 田中智学は国体論への傾斜を強めていくわけですね。そのことの彼のイデオロギーの特徴は、法華経とか、日蓮遺文の中に国体論的なものを読み込んでいくということにありました。たとえば、末法の世に出現する上行菩薩を天皇だと言ってみたり、法華経の中の「転輪聖王」や「賢王」といった存在を天皇と同一していくわけです。こうしたイデオロギーに基づいて、田中智学が組み立てたヴィジョンにも、社会進化論的な発想が色濃く感じられます。たとえば、彼は非常に発展段階論的な思考様式をとっています。まずは在家信者によって新しいグループがつくられ、そしてそれが本体の日蓮教団を大きく揺り動かしていく。されにしれによって国民が日蓮思想へと感化され、その延長線上に天皇が日蓮主義へと改宗し、国立戒壇、つまり国家によって仏門に入るための戒律を授ける壇が建立され、日蓮主義国家が誕生する。まさに発展段階論的なヴィジョンです。 【愛国と信仰の構造「全体主義はよみがえるのか」】中島岳志・島薗進著/集英社新書
January 26, 2025
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「同和」に名を借りた血税の食い荒らし〈不可解な支援はまだある。融資返済期限の九一年、愛食は食肉卸売市場に併設して「中部食肉部分肉流通センター」を立ち上げた。総事業費は約四十五億三千万円だった。愛知県と農水省の外部団体・畜産振興事業団は事業費の六一パーセントに当たる約二十七億八千万円をこれに補助した。フジチク・愛食が二十四億円の融資を返済していないにもかかわらず、愛知県はさらに巨額の補助金を出したわけだ〉俗にいえば、「泥棒の追い銭」だが、フジチク・愛食はもちろん、県や畜産振興事業団に、顕著なのは公金意識の欠如である。推察すれば、こういう論理になろう。原資は国民の血税であり、輸入牛肉に課した関税である。担当者の懐が痛むわけでなく、うるさ型を寄こせというなら口封じや関係改善のため、くれてやる。経済的に差別を解消していく一助になるという大義名分もつくことだし、無利子融資や補助には所得の再分配といった機能がある。誰であれ、カネをつかめば使う。つまりは経済的な波及効果がある以上、誰に公金をバラ撒いてもよい。バラ撒くことの罪は少ない。他方、公金をもぎ取る側は、先祖代々差別されてきた、これまでに差別をされた分を自分の代で取り戻して何が悪い、取り戻したために、誰か被害者が出るか、どこにも被害者はいない、と考える……。おそらくはこうした論理が「逆差別」や新たな社会的不公平を生み出してきた。しかしハンナン・フジチクグループの場合、カネは還流して反社会性の強い暴力団をも養うことになった。最大の被害者は金の出し手である国民であり、県民であるわけだが、国民の多くは納税者意識が薄く、税の多額さや使途に無関心である。〈二〇〇一年六月、名古屋市は市内食肉市場の統合を図った。史には市が出資する第三セクター「名古屋食肉市場」(藤村勲社長)が別にあった。個々の社長はフジチク社長・藤村芳治の親族である。名古屋市は五十九億二千万円を支払い、フジチク系の愛食から卸売業務など営業権を買い取り、社員も一部引き受けた上、名古屋食肉市場に統合した。が、愛食は倉庫業を主に存続している。同社は依然、愛知県から引いたカネを返済していない。高度化融資が二十四億円、県と畜産振興事業団からの補助が二十七億八千万円、食肉地方卸売市場の買い取りに五十九億二千万円、計百十一億円が愛食に流れた〉こうした金はどう社会に役立てられたのか、単にフジチクを富ませたに過ぎないのではないか、と誰しも思う。ハンナングループにおける松原食肉市場の統合と同じ構図がどこにも見られる。同和に名を借りた公金のバラ撒きであり、公金の食い荒らしである。 【食肉の帝王・同和と暴力で巨富を掴んだ男】溝口 敦著/講談社+α文庫
January 25, 2025
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声を上げよう作家 伊東 潤2023年は国内外を問わず波乱の一年だったが、24年も能登半島大震災という辛い幕開けとなった。経済面でも、今年は中国経済の大減速は不可避で、日本もそのあおりを食らう公算が大だ。さらに長引くウクライナ戦争の終わりがいつ見えるのか、ガザ地区の戦争は沈静化されるのか、こうした世界的混乱が台湾海峡に波及しないかなど、心配は尽きない。こうした中、これからの日本をどうすべきか、中長期的視点から考えるべき時が来ていると思う。無力な一個人にとっては、生活防衛の方が大切かもしれない。しかし世界平和あっての生活だということを忘れてはならない。一人ひとりが世界情勢に関心を持ち、非道な権威主義国や深刻な環境問題に声を上げていくことで、政治をまっとうなものにしていくのだ。つまり一人ひとりがサイレント・マジョリティーから脱し、声を上げることで、世の中を変えていくべきなのだ。国内政治の腐敗も行き着くところまで来てしまった感がある。国民が声を上げないから派閥政治はいつまでも続き、能力重視ではなく、人間関係や派閥の論理によって大臣が決まるという不条理が、今でも罷り通っているのだ。もはや国内外に待ったなしの状態となっている。こんな時だからこそ、一人ひとりが強い意志をもち、悪いことには悪いと言える日本にしていかねばならない。残念なことだが、国内外を問わず、今年は良い年にはならないだろう。それでも一人ひとりが世界の一員という自覚をもって声を上げることで、希望ある未来が開けてくるに違いない。今こそ利他を重視していく時なのだ。今年が、そんなきっかけとなる年になることを切に願っている。 【すなどけい】公明新聞2024.1.12
January 25, 2025
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博物館経営を考える追手門学院大学教授 瀧端 真理子非営利と相いれないNPM居場所機能を強化し利用者増を昨年は国立科学博物館のクラウドファンディングで、博物館がまさかこのような経営難に陥っているとは、との声も聞かれたが、日本の博物館は世紀が変わる頃から財政的に厳しい状況に置かれていた。高度経済成長期以降の博物館の設置運営状況を概観してみよう。1970年代には日本列島改造論、第三次全国総合開発計画のもと、全国各地に博物館が建設された。86、87年度には円高不況を克服するために大型補正予算が組まれ、内需を中心に日本経済は回復し、バブル景気が発生した。88年に自治省は「ふるさと創生」の一環として、「地域総合整備事業債」の仕組みを作り、各地でこれを活用した大型の博物館が誕生した。91年のバブル経済崩壊後、95年の阪神淡路大震災による財政出動などを経て、日本の財政は主要国中最悪の水準となった。96年には行政改革会議が設置され、翌97年、「民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律(PFI法)が成立、99年には独立行政法人通則法が制定された。2001年には東京、京都、奈良の国立博物館3巻を統合した独立行政法人国立博物館が設立され、また、国立科学博物館は独立行政法人国立科学博物館となった。2003年には地方自治法改正により指定管理者制度が導入された。PDI、独立行政法人、指定管理者制度に通底するのはNew Public Management(NPM)と呼ばれる手法で、これはアングロサクソン諸国で行われた行政改革の背景理論である。日本では「官から民へ」の掛け声のもと、市場メカニズムの活用が求められた。博物館を含む大型公共施設建設の際にはPFIの導入が検討されるようになった。PFIは民間資金の主導によって効率的に公共施設を作り、運営しようとするものである。公立博物館では指定管理者制度の導入が進んでいるが、この制度は、地方公共団体が議会の議決を経て指定した団体(民間事業者を含む)に「公の施設」の管理運営を行わせるものである。21年度文部科学省「社会教育調査」によれば、公立博物館(類似施設を含む)の30%で指定管理者制度が導入されている。指定管理者制度には期間の定めがあるため、長期にわたる賃料の収集や展示企画、利用者との長期的な関係構築が保証されず、学芸員の継続雇用も困難である。一方、独立行政法人化した国立間では運営交付金が減らされ、自前で稼ぐことを求められ、光熱費の上昇に対応できない事態に追い込まれたのである。永続性と公開性を特徴とし、国際的に悲哀力感と定義される博物館の運営はNPMとは相いれない部分が多く、政策的な見直しが必要である。また数多く設置されてきた公立博物館は、人口減少と高齢化の進行中、地域での居場所機能を強化することで利用者を増やし、税金で支えられると同時に、付帯事業収入と寄付を館が直接収受できるよう、国は制度改革を行うべきである。(きたばた・まりこ) 【文化】公明新聞2024.1.12
January 24, 2025
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よみがえる廃校舎面影残し、第二の人生往時のよさを見直し児童や生徒の減少に伴い全国で廃校が相次ぐ中、リノベーションを施し第二の人生を送る「元学校」がある。かつて子どもの声が響いた学びやは、地域時移民や観光客らが集う交流の場として新たな役目を担っている。神戸市兵庫区の北部、平清盛が居を構えたとされる古くからの住宅街に2022年7月にオープンした複合施設「ネイチャースタジオ」。旧市立湊山小学校を地元企業が回想し運営する。山や川に近く、校門を抜けた先には芝生に畑、果樹を設けた庭園が広がる。後者には、児童らが使った棚が残るハーブ店や就職室を衣替えしたビール醸造所が並ぶ。体育館はカレーやタコスなどを味わえるフードホールに。保育園や就労支援施設も家移設する。理科室と図書室を改装した「みなとやま水族館」には、癒しを求め、毎週火曜人もいる。管内の生きものは約250種。大型魚はいないが、児童用の椅子に腰を下ろし、けなげに泳ぐ魚を見ていると時がたつのを忘れそうになる。親子で訪れた利用者は「懐かしさと、こぢんまりとした雰囲気でゆったり過ごせた」とほほ笑む。児童減で湊山賞が141年の歴史に幕を下ろしたのは15年。地域の拠点の再生を求める声もあり、市は19年に跡地利用の事業者を公募した。運営会社の社長は往時のにぎわいを知る卒業生。「ピカピカの商業施設をつくるのではなく、縁豊かな字住宅地の良さが見直される未来像を考えた」開業から20万人以上が来場。25年には介護デイサービス施設などが入る新館も建つ。「地域の象徴だった学校と住民の愛着を生かした生活課に取り組みたい」と意気込む。 ノスタルジー覚える千葉県南西の鋸南町に15年開業した「道の駅 保田小学校」はいたるところに残る設備や道具がノスタルジーをくすぐる。同町は人口7000人弱の約半数を光栄者が占めるが、22年度に同施設の来場者は90万人に上った。飲食店やギャラリーが軒を連ねる校舎1階。「里山食堂」は名物のアジフライを給食の食器に盛り付けた再現メニューを提供する。学習机で味わえばタイムスリップした気分に。2回は消失に泊まれる「学びの宿」。客室にある黒板では、誰にも怒られずに自由にチョークで書く餓鬼が楽しめる。体育館を改装したいちばの野菜や魚が集まる。開業を機に生産者組合が組織された。「ここへの出荷が高齢者の生きがいになっている」と住民は語る。自身も花を卸しており「また母校に通うことになるとは」と笑みがこぼれる。23年10月、隣接する幼稚園跡地を活用し施設を拡充。「校長」を務める中村康さんは「誰しもが持つ学校への思いを大切にしつつ、住民と観光客の接点の場でありたい」と話す。 宿泊施設や交流の場に 地元で愛される施設文部科学省によると、2002~20年度に廃校となった全国の公立学校は1年当たり約450校、計8580校に上る。うち3分の2ほどが、残った校舎などの施設を活用している。最も多いのは統合紅野校舎や私学への転用など学校として再利用で、スポーツ施設や公民館、高齢者施設にも使われる。注目されるのは、民間事業者などによる新たな業態での活用だ。建設コストが抑えられるほか、「慣れ親しんだ公社が残ると住民にも受け入れられやすい」(文科省の担当者)という。各地の事例を見ると、地元の原材料を使った食品工場や直売所は6次産業化や雇用創出に貢献。教室にはシェアオフィスや芸術家のアトリエなど創業・創作の場に。工程や体育館などの広い空間を生かし、ドローン開発施設や博物館、魚の養殖場へ転身した所もある。文科省は10年から「みんなの胚校プロジェクト」を開始。活用事例の紹介や事業さとのマッチングに乗り出した。担当者は「民間の柔軟な発想で住民に愛される施設が増えてほしい」と話す。 【文化Culture】聖教新聞2024.1.11
January 24, 2025
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本阿弥光悦の大宇宙東京国立博物館学芸企画部長 松嶋 雅人光悦(1558~1637)は、刀剣三事(磨礒・浄拭・鑑定〈とぎ・ぬぐい・めきき〉)を家職とする名門一族・本阿弥家に生まれ、能書として知られ、諸芸に秀でた。「光悦流」という一大潮流をつくり出した光悦の書は、巧みな筆遣いでしたためられた数多くの和歌巻や和歌色紙が知られる。大胆で奇抜な意匠の国宝「舟橋蒔絵箱」をはじめとして、いわゆる「光悦絵巻」が高く評価されている。また光悦は樂常慶、道入とも親交を深め、自ら手捏ねした楽茶碗の優品の多くが現在に伝わる。さらには光悦と角倉素庵とが出版したとされる「嵯峨本」は、料紙と装丁に意匠を凝らしたもので、なかでも「光悦謡本」は豪華な装本である。しかし光悦研究が詳細に進められていくなかで、「嵯峨本」の校閲の版下揮毫ということに対する疑念も生まれ、更に光悦絵巻の伝来品に疑問を呈する意見も出されるほどの状況となっている。現時点においては、光悦の実像は曖昧模糊となり、混迷の状況にあるといえるのである。そこで光悦の実像に少しでも肉薄するために、特別展「本阿弥光悦の大宇宙」では、光悦が厚く進行した当時の法華信仰の様相に目を向け、光悦が当時、法華信徒としてどのような活動をしたのかを踏まえ、造形上の校閲研究の成果と切り結ぼうと考えている。 法華の町衆文化から 創造の実像に迫る 光悦はと町衆の一族である本阿弥家を出自とする。町衆とは都市部において、商人や商工業者が共同体を営み、能や茶の湯といった文化の担い手となった人々のことをいう。そして彼らの多くが法華信徒であった。法華信徒は夫婦、一家、一族すべてが同信であることを日蓮教団から求められたが、本阿弥家はとくに近親との同族結婚が多い。これらの通婚形態は、専門的技術の秘匿性を高める意味をもつ。また本阿弥家は他の法華町衆とも縁戚関係を結んでいる。光悦の姉の法秀は尾形道柏に嫁いだが、その曾孫に尾形光琳、乾山の兄弟が出ている。また「京の三長者」といわれた後藤家の5代徳乗の妻が、本阿弥家10代の光室の娘である妙室である。また茶屋四郎次郎家は、朱印船貿易で富を築いたが、3代清次の娘の妙春は、光室次男である光的に嫁した。このように本阿弥家が縁戚を結んだ法華信徒は、富裕な上層町衆であった。元和元年(1615)、光悦は京都洛北の鷹峯の地を徳川家康より拝領したという。その地の様相を呈した、いわゆる「光悦町古図」が伝わっているが、光悦屋敷の周りにこの光嵯らとともに本阿弥一族、茶屋四郎次郎、緒方宗柏、蓮池常有らといった法華町衆の名が確認される。そこで留意すべきことは、光悦町に住した人々は悉く法華信徒でなければならず、また当時、荒れ果てた地であった鷹峯を新地開発することを幕府側が承知していただろうということである。鷹峯は各家の家職に即した物流の要衝ともなり、光悦の造形に必要となるさまざまな材料となる物資も、同信の人々によって占有されたであろう。そして光悦が作陶や書の揮毫に勤しむことそのものが功徳となって、この鷹峯の地が寂光土となるのである。(まつしま・まさと) 【文化】公明新聞2024.1.10
January 23, 2025
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万物の黎明 人類史を根本からくつがえすデヴィッド・クレーバー、デヴィッド・ウェングロウ著酒井 隆史訳「現代の方が進んでいる」という思い込み国立科学博物館長 篠田 謙一 評私たちホモサピエンスは二十万年ほど前にアフリカで誕生した。十万年くらい前になると、頭の形や脳の容積が私たちと同じ化石が見つかっており、今の私たちと姿形は変わらない人類となったようだ。そして六万年前にはアフリカを出て世界に拡散したこともゲノムの研究から分かっている。しかし十万年以上の歴史をもつ人類史の中で、実際に私たちが文字資料から知ることができるのは五千年ほど前からにすぎない。分かっているのは最後の五パーセントなのだ。私たちが何ものなのかという問題を考えるスタートは、人類成立の時期までさかのぼる必要がある。しかしこのような事情から、人類の本性については、こうだったはずだという仮定を置かなければならない。実際には、「人類の本性は善良な未開人だった」という立場と「野蛮な未開人だった」という立場のいずれかから出発している。一方で、今世紀になると考古学や人類学の分野で新たな研究が進んだことで、文字のない数万年前にさかのぼって社会の様相が分かるようになってきた。本書は、その知見をもとに社会の発展の様子を考察したのだ。仮定として人類の本性に萩毛布が就き、従来の社会の発展のプロセスは、すべて再考する必要があることが明らかになった。考えてみれば、出アフリカを成し遂げた集団は、今の私たちと同等の知力と体力を備えていたはずで、歴史の最初から「未開の人々」であったはずはない。私たちは「今の方が進んでいる」という思い込みから、現実を見ていなかったのだ。現代社会に閉塞感を感じている人は多いだろう。戦争の世紀だった二十世紀を経て、人類は平和な社会を構築することを目指したはずだった。しかし国連は機能不全に陥って、今や第三次世界大戦すら招きかねない状況になっている。人類全体の生存を脅かす地球の温暖化を止める合意形成すらできず、環境の悪化に対して手をこまねく状況が続いている。資本主義の行き詰まりを指摘する言説もそれなりの説得力をもって受け入れられるようになった。この閉塞した現代社会に替わる社会の有り様というのはあるのだろうか。本書の著者であるグレーバーとウェングロウは、古代社会やアメリカ大陸先住民の社会を詳細に調べ、人間社会の可能性は私たちが考える以上に多様で、歴史の中で様々な実験が繰り返されてきたことを指摘する。本書では、国家とは何かとい考察作を始めとして、農耕の発展が人口増加を促し、そこから社会のヒエラルキーが生まれるという定説を据え直し、真の人類社会の姿を描き出している。そこから明らかになった結果は衝撃的ともいえるものだ。過去の集団が行った社会的な実験の中には、これらの私たちの社会を考えるうえでのヒントもある。本書を読むと、過去を知る研究が、いかに重要かが分かるだろう。◇デヴィッド・クレーバーロンドン・スクール・オブ・エコノミクス人類学教授。2020年2月逝去。デヴィッド・ウェングロウロンドン大学考古学研究所比較考古学教授。 【読書】公明新聞2024.1.8
January 23, 2025
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『赤毛のアン』全8巻の翻訳を終えて作家・翻訳家 松本 侑子拙訳の最新刊『アンの娘リラ』が発行された。これは『赤毛のアン』シリーズの第8巻にして最終巻である。このシリーズは、アンの誕生から50代までの人生、そしてカナダの19世紀後半から20世紀の激動の時代を、作家L・M・モンゴメリが30年以上かけて書いた壮大な大河小説だ。新刊『アンの娘リラ』では、1914年に第1次大戦がはじまる。案の息子3人は志願兵としてカナダから欧州の戦場にわたり、英仏路の連合側として、敵国ドイツ軍と戦う。この小説は、カナダ東部プリンス・エドワード島の小さな村を舞台に、アンの末娘リラの視点で、第1次大戦の戦況、少しずつ戦時体制に巻き込まれていく銃後の生活、出征兵士とリラの恋と成長を描く。モンゴメリは、きれいごとではない戦争の現実を綴っている。案は兵隊の靴下を編んで戦地に送る。リラは演芸会で愛国的な詩を暗唱して、青年に出征を呼びかける。ある男は戦争を賛美する。またある男は反戦を訴えるために敵国ドイツのスパイと疑われ、家の窓に投石される。案の家政婦スーザンは、政府の軍事費になる戦時国債を買うよう演説する。案の長男は意気揚々と出征する。次男は、自分が敵兵を殺すことも、自分が殺されることも恐れ、そんな臆病な自分に絶望する。しかしドイツ軍の攻撃で女性や子供が死んでいく戦禍に義憤をおぼえ、激戦地にむかう。三男は18歳の若さで戦闘機のパイロットになる。戦場に行った村の男たちの戦死、失明や脚切断が伝えられるも、首都オワタの議会では徴兵制が可決。アンの一家はそれを支持する。そしてカナダ兵60万人が出征した対戦は5年目に入る……。今もウクライナと中東で戦闘が行われている。『アンの娘リラ』は、同じ第1次大戦を描いたレマルク『西部戦線異状なし』、ヘミングウェイ『武器よさらば』に匹敵する戦争文学だ。 戦争やアンの生涯を通じて、幸福な生き方と人間愛を描く アン・シリーズは児童書と思われがちだが、海外では20世紀カナダ文学として高く評価されている。拙訳は日本初の全文訳として、奥深い魅力に満ちた芸術的な原書に忠実に訳した。巻末には訳註を付け、小説中の257~585項目を開設した。例えばモンゴメリが各巻の冒頭に置いた英米詩、作中に引用されるシェイクスピア劇などの膨大な英文学。またカナダは移民による多民族国家であり、スコットランド系のアン、北アイルランド系の親友ダイアナなど、登場人物の民族も紹介した。一番の魅力はアンの生き方だ。アンは父母をなくして親無き子になるが、11歳でグリーン・ケイブルズ農場のマシューとリラに引きとられて降伏に育つ。シリーズ全8巻は、アンの友情、勉学、恋愛、球根と婚約、仕事、結婚、妊娠出産、育児、戦争、老い、家族との死別と、人生の喜びも悲嘆も描く。アンは不幸や苦しみを経験しても、日々の暮らしに小さな幸いを見つけて感謝して生きようとする。そこには、幸福に生きるためのモンゴメリの人生哲学、限りある命を生きている人間への愛が込められている。(まつもと・ゆうこ) 【文化】公明新聞2024.1.7
January 22, 2025
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天保山と昭和山武庫川女子大学名誉教授 丸山 健夫大阪市港区の天保山エリアは、水族館「海遊館」や大観覧車がある観光スポットだ。実はその一角に「日本一低い山」天保山がある。天保の時代、すぐ横を流れる安治川の川底をさらえる大工事があった。当時の安治川が、多くの船が行きかう大坂の海の玄関だった。そこでたまった土砂を取り除き、水深を確保したわけだ。このとき、さらえた土を盛り上げてできたのが天保山である。標高約十八㍍の頂上には灯台もでき、船の航行の目印となった。桜が植林され茶屋も建ち、江戸時代の観光地ともなる。ところが幕末の砲台建設に山が削られ、今では周辺が天保山公園になった。天保山の登山をしようと公園まで行くと、これが天保山と思ってしまう大きな丘がある。天保山の頂上は、公園北側の港を望む川岸だから注意しよう。「日本一低い山 大阪・天保山山頂4.53m」の看板が迎えてくれる。ところが大阪には、昭和時代につくられた昭和山も存在する。場所は大正区の千島公園内だ。地盤沈下で大阪市が再開発を計画した。地域の防災拠点ともなる山をつくり、周辺には区役所やスポーツ施設、高層住宅をつくろうとした。ちょうど一九七〇年の大阪万博の開催が近づく時期だった。インフラ整備で大阪市営地下鉄の新線建設工事が始まった。そこで地下鉄のトンネルを掘って出た土を、再開発に回すことができた。こうして地下鉄の土地を盛り上げ、昭和山がつくられた。標高三十三㍍のその山頂に登れば、港がきれいに見渡せる。目の前に世界最大級のトラス橋・港大橋の赤い橋脚が見える。その橋の先にある人工島・夢洲で来年、大阪万博が開催される。 【すなどけい】公明新聞2024.1.5
January 22, 2025
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龍になる、想像力の秘密帝京大学教授 濱田 陽人知超える自然の力が潜在『法華経』に八歳の龍王の娘が、並み居る高弟たちを差し置いて、仏陀の説法を聴き、その意を深く理解して成仏するという説話がある。安土桃山から江戸初期に活躍した天才絵師、長谷川等伯の手になる善女龍王の絵画が、愛らしい凛とした少女と龍の姿を描いていて印象的だ。このエピソードのせいだろうか。やがて、悩みを抱いた人間が龍に姿を変え、その後、『法華経』の功徳によって救われる、という話が多数生み出されることとなった。『今邪気物語集』には、人が、龍、あるいは龍蛇に姿を変える話が数多く収録されている。なぜ、直ちに、ありがたい晴天の力によって救われるのではなく、一度、龍に姿を変えるのだろう。それは、わたしたち人間が、ときにあまりに強い感情を胸に宿すことがあり、それを受け止めるための、龍のような器が、必要だったからではないだろうか。今日では、人が龍になる、というような想像力は、古い伝説。そして、ファンタジーの世界のなかに閉じ込められている。けれども、龍は、たんなる空想の産物ではない。その起源は、現代の考古学的成果によれば、およそ八千年前にさかのぼる。今日の中国東北部、遼河が流れる山岳地帯、採集狩猟民の文化のなかで、龍の佇まいは誕生した。夏や殷の王朝が成立する以前、黄河や長江の二つの大河のはるか北方で、比較的小規模の、多様な部族たちのなかで、龍は、人々が大切に考えていた壱岐小野の存在を取り入れながら、豊かな造形を身にまとっていった。後に、黄河文明、長江文明にも取り入れられ、やがて高句麗古墳壁画で最高の霊性をたたえる青龍が描かれる朝鮮半島に、そして、日本列島には弥生時代に伝わったが、龍の意匠の驚くべき生命力の秘術は、その起源が、採集狩猟民の小集団の文化にあることに由来する。たしかに龍は、中国皇帝や朝鮮の王、日本の天皇のシンボルにもなった。しかし、恋に悩む乙女や、我が子を思う母、道を失った男性もまた、自らを龍の姿に託すことができたのだ。つまり、龍の最古層には、帝国や王朝の権威ではない、わたしたちを守護してくれる、自然の、人知を超える力が存在している。角は鹿、頭は駱駝、目は兎、頂は蛇、腹は想像の生きものの蜃、鱗は鯉、爪は鷲、掌は虎、耳は牛の、九つの動物に似るという九似説では、龍の本質をとらえることはできない。龍は、いくつもの動物の部分を切断して接合したような、西洋にいうキメラではない。むしろ、角をもつあらゆる動物、鱗をもつあらゆる魚類や爬虫類など、様々な生きものとそれらが棲む生態がまるごと含まれており、その一部が表に表れているだけと考えればよい。そして、まさにその世界こそ、はるか旧石器時代から、わたしたちが生きてきた環境そのものであった。その一員であるからこそ、人は、龍になること、龍のメタファーを身に帯びることができたのだ。温暖化、生物多様性破壊など、日常化した環境危機に直面するなかで、今後いかに生きていくべきか。その岐路において、龍ほど、わたしたちの想像力を、深く激しく、刺激し続ける存在はない。(はまだ・よう) 【文化】公明新聞2024.1.5
January 21, 2025
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日本型リーダー像の源流は西南戦争にありこれからお話しするのは、近代日本画外へ外へと「攻勢防御」を発動する、少し前のことです。この国の中で日本人同士、最新鋭の武器を駆使した本格的な近代戦争が戦われました。明治十年(一八七七)の西南戦争です。この戦争こそが、本書の主題となる日本型リーダーシップの原型をつくったといえると思われます。それゆえに、しばらくおつきあいください。学校教育で教えられる西南戦争というのは、「鹿児島の不平士族の氾濫を明治新政府が鎮圧した」と、まあ、教科書ではせいぜい一、二行くらいしか書かれていません。そのイメージも、おそらく刀を振り回す肉弾戦というようなものではないかと思われますが、実際はぜんぜん違います。西郷軍は日本最強の軍隊でした。戊辰戦争に勝って明治維新を実質的に成し遂げたのは、薩長の軍事力ですが、中でも薩摩陸軍は圧倒的だった。明治十年の西郷軍は、薩摩を出撃当初の兵力一万三千人、章十一万一千挺、大砲六十文と、当時としては堂々たる大軍です。「不平士族の叛乱」などというレベルではない。はっきりいって戦争です。西郷が薩摩の鶴丸上の厩跡につくった私学校は、県下各所に百以上の分校があり、三万人の生徒がいたといいますから、その半数近くを引き連れていたことになります。新政府の政党軍はというと、数こそ三万七千(増派前の数)と上まっわていますが、明治六年(一八七三)からはじまった徴兵制により集められた農民や商工民の次男、三男といったところが中心です。やっとつくりあげた兵隊です。明治十年時点で、新編成の新政府軍がどれほどの練度であったかといえば、西郷軍と比較してまだ貧弱だったと言わざるを得ません。御親兵の中でも精鋭といわれた薩摩軍の半数近くが西郷さんと一緒に薩摩に引き上げましたが、その西郷軍は歴戦のつわもの、維新の戦士からとなっています。新政府軍の参謀長として参戦した長州の山形有朋が、戦況報告書で百人余の薩摩軍抜刀隊が突如、長剣を振りかざして斬り込んでくる、そのためわが軍の新兵は、驚愕して敗走する者が多いと記しています。いわば軍人対素人という構図だったのです。最強の西郷軍に対抗するためには、政府軍は最新鋭の装備を整えて抵抗するほかありません。もし負ければ、せっかくの維新政府機構は崩壊してしまうのですから。西郷軍は攻撃目標を、九州における政府の権時拠点、熊本城(熊本鎮台)に定めました。西郷らが鹿児島を発った四日後、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山形有朋など政府参議は、西郷らを賊軍として討伐することを決定、「鹿児島県逆徒征討軍」を派遣することが天皇の裁可を得ます。「総督」には有栖川宮熾仁親王が任命され、「参軍(参謀長)職」には山形有朋陸軍中将と川村純義海軍中将が就きました。山形は侍出身、といっても足軽よりももっと下の階級ですが、軍艦として騎兵隊を率いてイギリスやフランスなどの列強相手の下関戦争をやり、戊辰戦争では岡城攻防戦を戦った生粋の軍人でした。戊辰戦争のときも総大将となった有栖川宮の役どころは、「指揮官」というよりまさに「ミカドの名代」。お維新からたかだか十年、漢軍が自らの正当性を示すパフォーマンスはまだまだ重要だった。勢い総大将はおごそかなる権威があればいい、実際の指揮官たる参謀長および幕僚さえしっかりしていれば、戦さはうまくいくと考えたのです。ここに日本型リーダーシップの発祥がありました。 【日本型リーダーは、なぜ失敗するのか】半藤一利著/文藝春秋日本型リーダー像の源流は西南戦争にあり
January 21, 2025
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虫垂炎人口の1割、若者にも起こる急病今日のポイント投薬数カ月後の〝待機〟手術も〝突然の腹痛〟が起こることで有名な虫垂炎。近年、治療法も変化しているといいます。この疾患について、西京都病院外科の平島相治医師に聞きました。 虫垂内圧の上昇で細菌が増殖し発症——よく〝盲腸〟と呼ばれる疾患ですね。虫垂炎は、俗に「盲腸」といわれますが、盲腸は大腸の一部の臓器名です。「虫垂」は、この盲腸に連続する小さな管状の臓器で、ここに炎症が起こるのが虫垂炎です。 ——盲腸の炎症ではないのですね。なぜ虫垂に発症するのですか。虫垂の中が、食物の内容物やリンパの腫れ、まれにですが腫瘍によって閉塞すると、虫垂内の圧が上がり、血液の循環障害が起こります。さらに細菌が増殖するなどして、虫垂炎を発症します。現在のところ、はっきりとした予防法はありません。 ——どのくらいの人に発症しているのでしょうか。日本人のおよそ1割が経験する病気といわれています。病気といえば高齢者に多いものですが、虫垂炎は若者や子どもにもよく起こる病気です。 ——症状は?みぞおちの痛みや食欲不振、吐き気などから始まります。痛みが、徐々に右下腹部へ移動するという特徴があります。発熱を伴うという特徴も珍しくありません。 ——診断はどのように?右下腹部を中心に、おなかを押したときに痛みが強くなる「圧痛」や、逆にお腹から手を離したときの方が痛みが強く出る「反跳痛」などがあるかを確認します。ただ、こういった症状は虫垂炎以外でも見られますので、虫垂炎を疑えば、血液検査で炎症の有無を確認します。超音波検査、腹部CT検査などの画像診断も併せて行い、診断を確定します。虫垂炎は、炎症が軽い方から順に、「カタル性」「蜂窩織炎性」「壊疽性」と分類されます。重いケースでは虫垂そのものが壊死し、穴が開いてしまい、強い腹膜炎を起こします。 ——虫垂炎というと「すぐに手術が必要」「おなかに傷跡が残る」という印象があります。依然は虫垂炎と診断されたら、できるだけ即時の手術を行っていました。一方で、俗に「散らす」と呼ばれる抗生物質を用いた保存的治療(薬物療法)もありました。それでも早期の手術が行われていたのは、抗生物質の効果が十分でなければ虫垂炎の重症化すると考えられていたからです。 抗生物質の進歩約8割の症例に有効しかし、近年では画像診断や抗生物質の進歩によって、およそ8割の患者に保存的が有効であるとの報告が出ています。〝初回治療として、保存的治療は手術に劣らない〟といった欧米の論文にもあります。また、保存的治療が有用なケースに、発症から一定時間経過し、強い炎症を伴っている虫垂炎があります。炎症の強い患者では、手術時間や手術中の出血量、術後の合併症や在院日数が増えます。保存的治療で効果があれば、炎症の強い時期の手術を回避でき、即時手術が持つデメリットを解消できます。 休暇を活用して手術も受ける人も——保存的治療にデメリットはないのですか。約2割の患者には保存的治療は効きません。その場合は、途中で手術療法に切り替えることがあります。また、虫垂自体は残るため、報告にもよりますが、保存的治療の後、約2割に再発があります。さらに、壮年期以降の虫垂炎には、盲腸がんや虫垂がんが原因の場合があり、治療的手術だけでは、がんを放置してしまいます。こう言ってデメリットを最小限に抑えるため、最近は保存的治療後に、大気的に虫垂切除手術を行うことが増えています。 ——待機的手術?まず保存的治療を行い、虫垂炎が治癒してから2~3か月〝待機〟した後に、無症状であっても虫垂を切除します。述前に検査も行い、がんの有無なども調べられます。待機的な修水切除術では、おへそを”~3センチ切るだけの腹腔鏡手術が主流です。入院も3~5日間と短く、休暇を活用して手術を受ける方もいます。 ——虫垂は摘出しても問題はないのでしょうか。ヒトの虫垂は、退化した痕跡の臓器といわれています。一方、腸内細菌の正常化などに関わっているという研究もあるのですが、虫垂切除後の後遺症は少ないため、手術をためらうことはありません。 ほかの疾患の可能性も負担少ない治療法を——夜間や休日に発症を疑う症状が出たら、すぐに救急にかかった方がよいのでしょうか。虫垂炎の初期は、私たちが一時的に体調を崩したときに出るような症状の中で、すぐに虫垂炎を想像しづらいと思っています。ただし、虫垂炎は自然治癒の可能性が低い病ですので、下腹部痛や初夏を伴っている際は、少なくとも翌日までの受信をおすすめします。症状が強い場合は、救急を受診してください。 ——どの診療科に行けばよいのでしょう。同じような腹痛や発熱を伴う痛みには、他に「胆のう炎」「頚室炎」、女性であれば婦人科疾患の可能性があります。虫垂炎との診断を受けるには、内科を受診するのが最もスムーズだと思います。日本では、成人における虫垂炎治療の明確なガイドラインはありませんので、病院によって治療方針に幅があります。だれもがかかり得るありふれた病ですので、医師と相談し、できるだけ体に負担をかけない治療法を選択できるとよいと思います。 【医療Medical Treatment】聖教新聞2024.1.4
January 20, 2025
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戦争は防御から始まる急所を読み誤った帝国陸海軍部クラウゼヴィッツは、「戦争は防御から始まる」と言っていました。わたくしたちは戦争が攻撃から始まると思い込んでいます。クラウゼヴィッツの主張とは、まるであべこべ。篠田訳をちょっと引用しますと、「攻撃は逃走よりむしろ敵国の略取を絶対的目的するからである。それだから戦争の概念は、防御とともに発生するのである、防御は戦争を直接の目的とするからである。この場合に防御、即ち敵の攻撃を余資することと闘争とは同一物である」いわれてみればそのとおりなのです。いくら攻撃側が暴れまわっても、相手の抵抗がないことには戦争状態をつくりだすことはできない。たしかに戦争になるかならないか、最後の決め手を握っているのは、攻撃側よりも、攻撃を受ける側なのかもしれません。奇妙な議論にもみえますが、太平洋戦争を思い返すとその正しさを実感せざるを得ないのです。ABCD包囲陣だの石油の全面禁輸なのだと、アメリカン戦争政策による〝攻撃〟なんかどこ吹く風とばかり、柔軟な外交交渉をえんえんと続けていたら、そしてまた、あり得ないと思う人が多いかもしれませんが、春・ノートをあっさり受諾していたら、その交渉をぐたぐたと続けているうちに、電撃作品であれほどまでに好調だったナチス・ドイツが一転、ロシア戦線で敗色あらわになります。世界情勢が一変し、とるべき日本の制作は大きく変更されて戦争にならなかったかもしれないのです。 島国を守るという視点クラウゼヴィッツを読んでいてハッとさせられたのは、近代日本の戦略思想にはもともと「防御の思想」というものがなかったということです。たとえば、太平洋戦争中の航空機や軍艦の防御をみればそれが明白です。令式戦闘機は御存じのように、乗員席の後ろに鉄の防御版を置かなかった。攻撃の運動性能を上げるために期待を軽くすることを、搭乗員の命を守ることより優先させた。戦艦「大和」当時の世界一の戦艦で、大きさと攻撃力が世界一でしたが、対空防御についてはほとんど想定していません。「攻撃は最大の防御成」とは帝国海軍ともに信奉する考え方でした。満州事変から太平洋戦争にいたる政戦略の外へ外へのエスカレーションは、まさしくこの攻勢防御思想によるものでした。日本は細長い島国で、真ん中に山脈が背骨のように通っていて平野が非常に狭い。周囲が海なのでどこからでも入ってこられる。日本本土を守り抜くことなんて不可能で、地政学からいえば大きな欠点を持っています。防御上、北からの脅威に備えるために朝鮮半島をとる。その朝鮮半島を守るためには満州をとる。満州を守るためには内蒙古を、次には北支那をとる……とにかく外へ外へ、となっていきました。南方も同様です。本土防御のためにマリアナ諸島をとる。さらにマーシャル諸島をとって不沈空母の基地にして、防御態勢をしく。その防御態勢は攻撃体制でもあった。そしてラバウルからニューギニアへ、さらにオーストラリアまで……構成の限界点をまったく無視しました。思い返すにつけ、なんとばかなことを考えたものか。とにもかくにも日本軍の戦略戦術思想のなかに、クラウゼヴィッツの「戦争は防御からはじまる」という大命題はなかったのです。はじめから「攻撃は最大の防御成」でした。大本営のエリート参謀たちは、彼の『戦争論』に目を通していたのでしょうが、公正と豪魚を明確に区別するというある意味では根本的な考え方には、まったく関心を寄せなかったというほかない。明治から昭和までの近代日本の栄光を悲惨も、つまるところは「攻勢防御」の思想の産物だったのです。 【日本型リーダーは、なぜ失敗するのか】半藤一利著/文藝春秋
January 20, 2025
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