烏 森 神 社

2006年05月31日
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本日は旧暦の端午の節句、新暦の「五月五日」に当たる日です。


「端午の節<せち>」「あやめの節句」「菖蒲(しょうぶ)の節句」「とも言われます。新暦で祝われる地域が増えてきていますが、旧暦日で祝う地域も多くあります。

「端午」という意味は→ コチラ 〔「端」は初めの意、「午」は「五」。あるいは「午」<うま>の日「五月初めの五日」「五月初めの午の日」の意〕
五節句の一つ。

古くショウブ・ヨモギを軒に挿して邪気を払う風習など宮中で行われていましたが、古来おこなわれていた宮廷での端午の行事も、時が鎌倉時代の武家政治ヘと移り変わってゆくにつれ、だんだんと廃れてきました。

しかし、武士のあいだでは尚武(しょうぶ=武をたっとぶ)の気風が強く、「菖蒲」と「尚武」をかけて、端午の節句を尚武の節日として盛んに祝うようになったのです。

やがて江戸時代にはいると、5月5日は徳川幕府の重要な式日に定められ、大名や旗本が、式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、表御殿の玄関前に馬印<うましるしや幟<のぼり>を立てて祝いました。



鯉幟は本来武家出陣の際に用いる幟を起源とします。元寇の勝ち戦が5月5日、足利尊氏の天下統一の日が5月5日だったので、武家社会で幟を立てるようになったいう説もあります。

現在でも、全国地方によって様々で、鎧や兜、武者人形、馬や虎・若武者の人形、鯉のぼりや旗を飾ったり、粽<ちまき>・柏餅<かしわもち>を食べ菖蒲湯<しようぶゆ>(菖蒲の葉を入れてわかす風呂のこと。邪気を払うといういわれがあります)をたてたりします。

万葉集に名高い、額田王と大海人皇子が交わしたこの歌は、5月5日の薬草摘みのときに詠われたものです。

額田王の歌
     茜草さす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る

大海皇太子答ふる歌
     紫草のにほへる妹を憎くあらば 人嬬故に吾恋ひめやも







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最終更新日  2006年05月31日 16時03分14秒
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