烏 森 神 社

2006年06月26日
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テーマ: ■雑学王■(733)
カテゴリ: 神道豆知識
今日は「雷記念日」と呼ばれる記念日の日です。

この落雷は政治的な策略によって太宰府に左遷されそこで亡くなった菅原道真のたたりであると信じられ、道真公の学者としての名誉を回復し、学問の神とされ、またこのことで菅原道真は雷の神「天神」と同一視されるようになりました。
「天神=学問の神」として菅原道真公がお祀りされるようになったきっかけの日なのです。

ここで、菅原道真公の生い立ちをご紹介いたしますと・・・
菅原氏は、古代豪族の土師氏の出身で道真公の曾祖父古人公が、土師を菅原と改姓するとともに、文道をもって朝廷に仕える家柄となったのです。
時代は、嵯峨天皇の時代を頂点として、「文書経国」すなわち学問を盛んにして国を造るという方針のもと、唐風の文化の最盛期を迎えていました。
道真公は清公<きよきみ>公、是善<これよし>公と続く文章博士<もんじょうはかせ>(代々学者)の家系に生まれました。
母は、少納言伴(大伴)氏の出身です。

18歳で文章生(律令制度の国家公務員試験の科目のひとつ「進士」の試験に合格)、23歳で文章得業生(上級の「秀才」に合格)、26歳でついに方略式に合格し、30歳の頃、島田宣来子を妻に迎え、33歳で式部少輔、文章博士となり、学者としては最高の栄進を続けました。
一時、讃岐守という地方官へまわされましたが、そこで、むしろ慈父のごとき善政を行い住民に慕われたのです。
京へ戻ると宇多天皇の厚い信任を受け、蔵人頭などの政治の中心で活躍しました。
50歳の時には、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、中国に渡ることはありませんでした。
そして、55歳で右大臣、そして、ついに、延喜元年1月7日、藤原時平とともに従二位に叙せられましたが、そこで政治的な暗闘、学閥の抗争の黒い渦に巻き込まれてしまったのです。
道真の異例の出世が、権力者藤原氏の鼻につき、延喜元年(901)藤原時平の讒言によって失脚し、北九州の太宰府へと左遷されてしまったのです。
都を去るとき、道真は
「東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
と詠みました。
その道真の愛した梅が、あるじを慕って一夜にして京都から太宰府に飛んできたという”飛び梅”の伝説は有名です。

大宰府では、左遷というより配流に近い窮迫の日々を送りながらも、天を怨まず国家の安泰と天皇さまの御平安をお祈りし、ひたすら謹慎され、配所から一歩も出ることはなかったようです。

延喜5年、門弟によってその墓所に立てられたのが太宰府天満宮であります。

ところで、雷が鳴ると「くわばら、くわばら」と昔から言いますが、この「くわばら」という言葉を唱える所以は諸説あります。
この「菅原道真公」にも関係している説があります。
雷により菅原道真が今日(6月26日)に平安京の清涼殿に落雷を起こし、これが道真公のたたりとすることより道真公の出身地が桑原で、そこには雷は落ちないという・・・。それにあやかって「くわばら、くわばら」と呪文を唱えると、雷が落ちないという説があります。
雷は古語では「いかづち」といいました。


全国の菅原道真を祀る天満宮では、この時期に“雷除大祭”が開催され、大正中期には、全国電気工事従業者が工事安全祈願をされるようになってからは、電気関係(電カ会社等)の崇敬も篤くなり、近年では雷を避けたいゴルファーや釣り人の間でも信仰が広がっているそうです。





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最終更新日  2006年06月26日 13時51分32秒
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