経堂界隈

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January 30, 2011
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カテゴリ: 歳時記
金曜日夜の会食で、メンバーの一人が、戦争体験者の方々から伺ったお話を披露してくれた。

第二次大戦の真珠湾攻撃に加わった人がいて(ご存命の模様)、海兵60期あたりと思いますが、航空母艦加賀の分隊長。
真珠湾攻撃で、自分の隊の部下を失い
「おもやり予算だか、日米友好だか...それが本当ならば、部下の遺骨を返してほしい。真珠湾攻撃で死んだ仲間の遺骨は、誰も戻ってきていない」とおっしゃる。

悔やむのは、「くせが出て練習通りにやってしまい、部下を失った」こと。
真珠湾攻撃前、海軍が猛訓練に明け暮れたのはよく知られている。
その成果で攻撃は成功したのだが...
「我々加賀の攻撃隊は第二陣でした。第一陣は奇襲成功。第二陣となると相手も反撃するようになっているところへ、我々は先頭に続いて次々と急降下。爆撃のあと、練習通り右に反転するのだけれど、それはちょうど敵の機銃掃射に腹をさらすことになる。最初に自分が右旋回すると、後続機も次々と同じコースへ右旋回。結局五機編隊のうち三機が撃墜されることになりました。つい練習の癖が出て、右旋回したのですが、左へ行っていたら部下を死なせることはなかったのに、と悔やまれます」

真珠湾攻撃で、よく"無能な南雲長官は軍艦だけを目標にして、弾薬庫、工場などは爆撃せず、そのまま帰投した。あのとき第三次攻撃をしておけば、その後の戦局は大きく変わっていた"ということを言ったり書いたりする人がいます。


「そもそも真珠湾攻撃そのものが、世界戦史に例をみない大規模艦隊による渡洋攻撃でした。
あとからは、航空燃料も、弾薬も、余裕があったのに帰ってきて、第三次攻撃も十分可能だったように見えますけれど、実際は、全部を使い切って、帰りの途中で敵の追撃を受ければ、防御の術がありません。攻撃だけでなく、帰りのことまで考えなければ作戦は成立しません。真珠湾攻撃はあれが本当にせいいっぱいだったと思います」

「お守りには、やはり何か特別なものがあると思います。航空兵でもお守りがないと言っていた奴に限って、よくやられてしまう。遺品を整理していると、なにもなかったように、中からお守りが落ちてくる。
私も、飛行機が撃墜されて水中に投げ出されたことがあります。上も下もわかりません。たまたまお守りが向いていく方向を見て、あああちらが上だとわかり、水上に泳ぐことができて助かりました。お守りは大事にしなければならないと思いました」

「海軍と陸軍は仲が悪かったといいますけれど、前線ではそうでもなかったです。ガダルカナル戦の頃、撃墜されたパイロット途中の陸軍基地の助けで、ラバウルに帰ってこれるということもありました」

「1943年4月18日、連合艦隊山本五十六司令長官が、前線視察のため訪れていたブーゲンビル島上空で、乗機一式陸上攻撃機をアメリカ陸軍航空隊P-38戦闘機に攻撃・撃墜され戦死されるという事件がありました。
P-38は、太平洋戦争初期から中盤にかけての米軍主力機のひとつで、簡単に撃墜できるというので、日本側ではぺロハチと呼んで馬鹿にしていました。海軍中央では、ブーゲンビル島上空はまだ日本が制空権を持っていると思っていたのですが、実際はかなり米軍が押し気味でした。長官機が撃墜された当日は、長官の視察があるとは一部の人間しか知らず、パイロットたちは今日はやたらp-38が多いなと話しをしていると、ゼロ戦が一機着陸してきて、山本長官機が撃墜されたと言い、皆驚きました。
暗号が解読され、待ち伏せされたといいますけれど、撃墜されたのは、中央が現場の実態を知らず、6機の護衛だけで出掛けるような計画を立てたことが原因ではないでしょうか」

「エースパイロットと言われた 坂井三郎 の"大空のサムライ"には、アメリカがウケを狙って脚色した部分があります。戦闘中に敵の撃墜を確認することは、目の前で敵が空中分解でもすれば別ですが、煙をはいたぐらいでは撃墜かどうかわかりません。また、一機の敵を何機かで攻撃することもあり、本に書かれた基準でよければ、撃墜数はもっと多かったはずです。僕でも200機以上になるでしょう」

「1944年10月23日から同25日にかけて、日米両海軍が、フィリピン周辺海域で、史上最大規模の海戦を戦いました。いわゆる レイテ沖海戦
戦後、栗田長官は、不眠不休で疲れていましたから ポツリと漏らしたことがあるそうです」

「レイテ沖海戦で日本は初めて特攻を行います。特攻を計画したのは 大西瀧次郎中将 と言われていますが、実際は少し違うようです。大西中将は特攻出撃者たちを握手で送り出しましたが、握手した人(事情で途中で引き返した)は、それこそ人生観が変わるような感動だったと言います。
中将の副官であった門司さんという方は、中将は、御上(天皇陛下)に、日本はもはやここ(自殺攻撃)までやらねば戦いを続けることができないということをお知らせする、そのことを出撃者に託されていた。
ところが、その意思は、間に入った人たちの思惑の中でゆがめられ、ついに天皇陛下に届くことはなかった...」


特に、
特攻が「ここまでやらねば、もはや戦えぬ」ということを、天皇陛下にお知らせするためにはじめられたとは...
詭弁ではあるまい。これは、大西中将が、戦争をやめることができるのは、もはや天皇陛下(昭和天皇)だけと認識していたことを示している。
今も昔も、前線部隊は上層部の命令に従って行動することが求められる。勝手に戦うことがご法度であるだけでなく、自分だけの意思で戦うを放棄すれば、栗田に見られるごとく作戦が成り立たず、大変な犠牲を生じる。
大西の立場(第一航空艦隊司令官)は、参謀本部から特攻が命令されれば拒否できる立場にない。部下を犠牲にすることに葛藤があったことは当然であろうし、さすれば、せめて天皇陛下にこの実態が届けば、無謀な戦争をやめることができるとの考えに至ったこともやむなき道理。
戦争を始めることも、やめることも、或いは、続けることも、現場を預かる軍人の意思で決められることではない。戦争を始めるのも、続けるのも、辞めるのも、軍人(だけで)はない。軍を含む官僚、ひいては、国民(軍人を含む)=人間である。
太平洋戦争の戦争責任を、軍人だけにおしつけ、官僚、国民は口をぬぐい、自分に向き合うことをしてこなかった。
日本の借金の実態は、太平洋戦争後の状態に近づきつつある。
人々が苦しんだのは、米軍空襲だけではない。
わずか数十年前、私たちの先祖は、苦しく屈辱的な戦後を生きなければならなかった。
それは、軍人(のみ)の責任にあらず、現場を戦う人たちでなく、中央にある(軍を含む)官僚根性の責任であり、尻馬に乗って考えることをしなかった私たち国民の責任なのである。

これら伝わることの裏側を観るに、翻って今日、菅直人氏は、果たして戦争をやめる決断の出来る人だろうか?





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Last updated  January 30, 2011 08:18:42 PM
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