


「歴史はひとを賢くし、詩人は発想を豊かにし、数学は精妙にし、自然科学は深くし、道徳
は重々くし、論理学と修辞学は議論ができるようにする」の述べる。しかし「諸学はそれら
自身の使いかたを教えてはくれない。そのしかたは諸学の外にあり、諸学の上にあって、
観察によって獲得される知恵である。」
この知恵は「古来の哲学者の調和的な知恵」に対して、「相反する極端な動き」を処する
行動の知恵でもある。それは、それ以前のスコラ学的「大全」との決別の所以である。
「哲学」由来の歴史の流れを知ることは、虚妄と真実の弁別もまた確信の無い不信と疑い
の泥海を行くようにさえ思えてくる。
哲学と科学は分岐しているのだろうか。その始点はどこにあるだろうか。
泥濘の中の迷走が哲学的議論に外ならない。だからこそ、それが不毛の苦役
とも見えるし、不屈の決意を自らに課さねばならない。