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銀色の手紙@ Re:『根もとっておかないと』&『トンボ獲った』(08/18) お暑うございます。 ごぶさたしております…
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ojisan175@ 『タンパク質摂取は大変……』&『集団移動待機中か……』(02/05) ご多忙のところ、適切な情報をくださりあ…
銀色の手紙@ Re:『タンパク質摂取は大変……』&『集団移動待機中か……』(02/05) 時々にしかコメントできずに、しかも中途…
ojisan175 @ Re[1]:『お札を置きに……』&『メジロの観察……』(01/12) 銀色の手紙さんなら別の加工方法もおあり…
銀色の手紙@ Re:『お札を置きに……』&『メジロの観察……』(01/12) 小鳥と柿のお話、興味深く拝見させていた…
2007.02.24
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カテゴリ: カテゴリ未分類


競馬新聞以外の活字など読むところを見たことの無い彼女の父親が、唯一読んだ小説から付けた名前だといつか苗子に言ったことがある。
左官職人としての腕はよかったし、職人仲間からは慕われているようだったが、家庭ではギャンブル好きの酒飲み親父としか言いようがなく、苗子には父親としての思い出はまったくなかった。
そんな父親を不平不満ひとつ口にせず献身的に尽くしてきた母親は、苗子が十五歳になったある日黙って家を出て行った。いつもと変わらぬ挨拶をして学校に出かけた苗子が、帰って目にしたのは母親ではなく、下駄箱の上に綺麗に積まれたネーブルだった。
「なんで?」
当時苗子は毎日のようにそう思い母親を憎んだが、今になれば至極当然のこととして母の行為を受け止めている。自分を捨てた母ではあるが、そうでなくとも不幸せだったのだと理解できるようになっていた。
苗子と同じように捨てられた父親の生活は、それでも一見何も変わらないように見えたが、後に振り返れば、酒量は増え益々無口になっていた。外で飲んで毎晩遅く帰ってきては、また畳に座り、蹲るようにして酒を飲む。それでも、苗子が起き出す頃には黙って仕事に出かけて行くのが日常だった。当然親子の会話などない。どちらかが必要最低限の言葉を一方的に伝えるだけだが、九割は苗子からで、父親が苗子に対して口を利くことは滅多になかった。
苗子は、そんな父親が泣いているのを一度だけ目撃した。声が聞こえたので、呼ばれているのかと思い襖を開けると、酔って畳に寝てしまった父親の姿があった。電気を消そうと照明に手を伸ばした時、父親は出て行った母親の名前を寝言で繰り返し呼んだのだ。
振り返った苗子は、父親の頬を伝っていく青白い涙を見たのだ。
苗子は、目を背けた。見たくないもの、見てはいけないものを見てしまったように思い、夢中で灯りを消した。父親の青白い涙は闇に飲み込まれていったが、苗子の瞼の裏には今でも青白い涙が残っている。
苗子が十八になったとき、父親は死んだ。
あっけない死に方だった。作業場の足場から転落したのだ。
たいした高さではなかったが打ち所が悪く、担ぎ込まれた病院に苗子が駆けつけたときには、親方に看取られて死んでいた。
「苗子ちゃんごめんな。」
顔中くしゃくしゃの親方が声を詰まらせながら言った。
アルコール漬の体で仕事をする父親が悪いのだと苗子は思ったが、言葉には出来ず首を横に振った。
「苗子ちゃん、お父さん最後に苗子ちゃんの名前呼んでたよ。一目会いたかったんだろうな。ほんとにごめんな。」
作業着のままベッドに横たわった父親の顔には、すでに白い布がかけられていた。その布を見つめたまま苗子は親方に聞いてみた。
「父が名前を呼んだとき、泣いていませんでしたか?」
なんでこの子は知っているのかと、親方の顔は一瞬戸惑うように険しくなった。
父親が最後に口にしたのは自分の名前ではなく、おそらく逃げていった母親の名前だったのだろうと苗子は察していた。血の繋がった我が子以上に、十七年連れ添ってくれた女性への愛情を持ち続けた父親を、苗子はいとおしく感じた。
白い布をそっと持ち上げ、覗き込むとあの晩と同じ青白い涙が父親の顔にあった。
苗子の目から溢れ出た涙だった。






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Last updated  2007.02.24 21:23:19
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