1
“おおがねまつり”こと『洪鐘弁天大祭』を観に、北鎌倉“円覚寺”方面を徒歩で目指す。『60年に一度』しか開催しないということで、私達夫婦が生きてるうちに観られる“最初で最後”のチャンス。この日程を早くから知ってたわりに、当日は言い出しっぺのダンナが寝坊をしてしまい、慌てて“大行列”の予定ルートへと向かう。大勢の人に合流したのは好いが、既に“帰る”人達の波に押し戻され、挫けてしまいそうに。それでも、遠くに聞こえるお囃子の音を頼りに、少しずつ前に進む列に混ざる。すごくマニアックなお祭りだと思うのに、秋晴れに恵まれたせいか国内外の観光客も多く見かける。誰一人列を乱さず老若男女時々犬もみな粛々と歩みを進める様には、だいぶ感動。どのくらいそれが続いただろう。気づけばお囃子の集団の前まで辿り着き、大行列の最後の勇姿を遠巻きに見ることに成功。大行列の全容は確認できなかったが、とりあえず“雰囲気”だけ味わうのにはギリギリ間に合った。それにしても、パレード日和の気持ちの好い日だったなぁ。“午前中”から鎌倉を楽しむのも、夕方に動き出す私達にしては超珍しく、“朝活”みたいで面白かった♪正面が円覚寺。甲冑姿の人と法被の人の行列が町から寺へと進んでく(見えねー)。******そして10月を締め括るのは、これまた貴重な『天体ショー』。私の矯正視力でも見えた月と木星。下はアルデバラン?オーブ??澄んだ秋の夜の空気を全身に纏い、空を見上げると直ぐそこに!!! 青空も好いけど、夜空もやっぱ好きだなー。★ ★ ★ ★ ★今日のふたこと。「早朝突然悪寒&熱出てビックリ💧 最近ゆらぎのお年頃の症状復活で、体調が忙しい😢」
2023.10.31
閲覧総数 42
2
前にも書いた【日本縦断 こころ旅~とうちゃこ】を観てるうちに、旅人火野正平が橋が苦手なのが判った。大きな川に近づくにつれ、それまでのご機嫌な彼がだんだん無口になり、おとなしくなる。ある日の橋桁改修工事中の際には、捨てられた子犬のように渡る背中は丸まり、おどおどとして、画面から不安感が伝わってきた。やっとの思いで向こう側に渡りきった先で、真顔になり胸の辺りをさすり「気持ち悪い。ちょっと休ませて」と、地べたに座り込んだ。初回から番組を観てないので、彼にどんな理由があってのことなのか謎のまま。70にもなろうかという大人が、若い頃は様々な女性と浮名を流した色男が、なぜあんなに本気でぶるぶると震えるほど橋を怖がるのか。我が家ではそんな及び腰の彼の姿を見る度、「子供の頃にでも相当な怖い想いをしたんだねぇ」と“お約束”のような会話になる。******橋の話と言えば。藤子不二雄Ⓐ氏が、今朝インタビューで話していた内容が科学では解明できない不思議大好きな私には、とても興味深く。2013年に大腸癌を患い闘病した頃、夢を見たそうだ。一軒屋の窓から、複数の人が手を振っている。よく見るとそれは、トキワ荘の仲間たちが「こっちに来い」と言っているようだった、と。彼が「あの橋を渡ってたら・・・」と口にした時に、“あること”を思いだした。その台詞を、前にも聞いたこと。それは亡き父が、私達にしてくれた話の中で。彼が最初の大動脈瘤破裂で倒れ緊急手術をしたのは、20数年前のこと。手術後すぐに医師からは「助かる確率は10%以下」と言われ、ICUに眠る父を見に行っても「もう無理だろう」という気持ちが大きかった。それでも”奇跡”は起きた。心臓の名医も驚きを隠せず、「信じられない」と言った。主治医にとっても父の“生還”は、特別なモノになったようだ。父が復活を遂げてから定期健診で行く度に、“当時の想い”を懐かしそうに話したくらいに・・・父は手術中、生死の境を彷徨っている最中に「ラスベガスのキラキラまぶしい夜空を飛びながら眺めた」らしい。海外なんか行ったこともないのに。彼が「とにかくまぶしかった」と言ったのは、手術室の丸い照明じゃないかと私は思うようにした。その後、キレイな花畑の上を飛び、最後は川の上にかかる橋の前に立っていた、と。 暗闇の向こうに何人かの“人“がいて、みんなが片手を上げてこちらに向かい振っていた。その中に遠縁のおばさん(故人)がいるのに気づき、懐かしくなり橋を渡ろうと一歩踏み出す。手を振るおばさんの顔を見ると、ものすごく怖い顔をして顔を横に振っていた。しかも手は「おいでおいで」の形ではなく、手を真っ直ぐに止め「来るな」という風に見えた。それで父は怖くなり、後ろに急いで戻る。その後に私(娘)の「とーさん」と呼ぶ声が聴こえ、弟(息子)の声がそれに続き、「目が覚めた」とのこと。「Kちゃん(私の母)の声は?」とみんなに聞かれると、「聴こえんのじゃ」と言い、一斉に爆笑する・・・というのが親族の集まりでの“笑い話”となったのだが。【三途の川】は本当にあるのかも・・・と思いたくなる、私にとって忘れられないリアルなエピソード、である。約十年前、再び同じ症状で病院に運ばれた父。家で倒れた時にはもう息がなかったので、そんなに長くは苦しまずに逝けたのは良かった。前の時から主治医に「次は難しい。生還できたとしても、介護なしでは生きられない」と何度も言われたので、持病のある母や激務の弟の将来を案じ、今度は迷わずに“橋を渡った“んじゃないかな。先に旅立った両親や親族、愛犬びーぐ。他歴代の我が家のペットが、きっと橋の向こうに待ってくれていただろう。そう思えば、父も残された家族も寂しくは・・・ない。2年前に私自身が特殊手術を受けた時。局所麻酔なので、うつらうつらではあるが“意識”があった。大きな血管を弄るので、手術の終わり頃に一瞬だけ血圧が一気に下がり、フリーホールみたいに体の中身だけがふわっと足から抜けるような何とも言い難い初めての感覚(幽体離脱の時とも違う)を味わった。ここで先生が手を放したら、出血多量で・・・と“死“という言葉が、ぼんやりとした頭に過った。もちろん腕のいい先生で、そんな初歩的なミスはほぼありえないこと。幸い、橋は見なかったので、私が“あの場面”を見ることは、当分ないはず。90や100まで長生きしようとかっていう欲がないので、自分の長寿にはそれほど興味がない。けれど、今はまだいい。もう少し”この先の自分”を見てみたい。やっておきたいことも、それなりにある。だから今はたとえ父に呼ばれても、橋は渡らない。★ ★ ★ ★ ★今日のひとこと。「インコ爺さんより『ホームランド7』キーン大統領の政権の方が気になってる。」
2018.11.08
閲覧総数 1759