動く重力

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普通免許とフリーター(完)

普通免許とフリーター(完)

「へえ、本当に白い」
 僕が篠塚さんと話している間にシロの名前の由来を知った雪穂さんは、感心したようにシロのお腹を見つめていた。
 僕はその話を聞いた雪穂さんが、どう思ったかが気になっていた。普通の人が聞いたら、この話は作り話にしか聞こえないだろう。きっと『それは面白いジョークだね』と、気の利いた反応を返してくれるだけだろう。
 だが、雪穂さんは真剣に聞いていそうだった。この、ある意味安易な名前の付け方を、適当な生き方をしている雪穂さんは共感さえしてくれるかもしれなかった。

「帰るの?」
 雪穂さんは言った。
「はい、もう今日はこれで帰ろうかと思います」
「そう。出勤日は一週間後だからね、桐原君」
「分かってます、出勤時間の五分前には着きますよ」
 路地裏に一時間も前に到着した僕の言葉には説得力があった。
「夏美ちゃんもまたね」
「また気が向いたら来るね」
 後で聞いたのだが、夏美は雪穂さんと話すとき、同年代の友人と話すのと同じ口調で話しているらしい。


 僕と夏美は店を出て家路に着いた。そこでふと気付いた。夏美と二人きりにならなかったら気付かなかっただろう。
「なあ、夏美は何でここにいたんだ?」
「私は雪穂さんにも黒猫を探して欲しいって頼んでて、黒猫を捕まえたから見にきてって呼ばれた。ただ、それだけのことよ」
 なるほど、僕は思った。その辺にいる猫をたちどころに捕まえてくる雪穂さんは確かにシロを捕まえてくる可能性が高い。僕の他に、雪穂さんも頼まれていたのだ。しかも、本命は雪穂さんの方だったのだろう。昨日、夏美は僕にはあまり期待していないというようなことを言っていた。
「あの二人、兄ちゃんが来たから困ってたんだよ」
「困ったって、何で?」
「あの二人は私たちが兄妹だっていうことを知らなかったから、シロの飼い主が二人もいるって混乱してたのよ」
 なるほど、と僕は思った。黒猫にシロという名前を付ける人間が二人もいたらあの二人も訳が分からなくなってしまうだろう。僕は気付かなかったけど、そんなこともあったらしい。今日は本当にいろんなことが起こる日だ。

 帰り道、家が近づくに連れ、シロの落ち着きがなくなってきた。これは帰りたくないということではなく、早く帰りたいということだ。結局、シロは我が家が一番落ち着くと気付いたらしい。それに気付くために、こんなに話をややこしくするシロは、やはり頭が悪い。だが、だからといって責めるわけにもいかない。シロは僕に就職先を斡旋してくれたのだ。
 僕は複雑な心境でシロを見た。するとシロは『にゃあ』と鳴いた。それは『就職、出来て良かったね』というよりは『人間って面倒なんだね』と言っているように聞こえた。
「そうだね」
 シロの言う通りだった。猫の気まぐれで人生を左右されている姿は、動物から見ればさぞ滑稽に見えることだろう。
「何がそうなのよ?」
 夏美は急に喋りだした僕を見て不思議そうに首を傾げていた。

 さて、就職先が決まったことで、僕はこれからバイトを辞めなくてはいけなくなった。フリーターとして過ごす期間はもうすぐ終わりだ。来週からはかなり癖のあるペットショップで働くことになっている。あそこはいろんな意味で大変そうな職場だった。
 でも、だけど、だからこそ、それはそれで楽しいのかもしれない、と人間特有の楽観的な考えをしながら、僕は一週間を過ごすことになったのだった。










 仕事を始めて数日経った、ある日のことだ。
「篠塚さん、これは何ですか?」
「名刺だよ、名刺」
 僕は受け取った小さな紙に書かれた店名と、自分の名前を見た。それは紛れもなく名刺だろう。
「こんなの、使う機会があるんですか?」
「ないかもしれないけど、君は社会人だからね」
 社会人は名刺を持っているらしい。なら、名刺を持っていなければ社会人ではないのだろうか? そう思ったら、途端に欲しくなくなった。若者が嫌いなものは退屈と責任だ。
 もう一度名刺を見る。そして、僕は思った。ペットショップ『Homeless』と書かれた名刺を渡された人は困るんじゃないか、なんてことを。

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