動く重力

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価値ある双眼鏡の話(2)

価値ある双眼鏡の話(2)

 そして、僕達の共同生活が始まった。
 和泉さんは住むところがなく、僕はお金がない。この僕達の利害関係は、お互いを裏切らせる事なく、生活を円滑に進めていく事だろう。我ながら楽観的な発想だとは思うが、実は、この人とはなんとなくうまくやっていけそうな気がしていたのだ。
 大学の友達に和泉さんとの共同生活の事は話すつもりはない。話せば絶対変な顔をされるという事ぐらいはさすがの僕でも分かるし、それに何より、芋づる式に僕が十万円の無駄遣いをしてしまったという恥ずかしい過去を掘り返されるのが嫌なのだ。

 和泉さんが部屋に住み着いた次の日、僕は大学に行った。別に休もうと思えばいくらでも休めるような授業ばかりだが、僕はそこそこ真面目なので授業にはしっかり出る。
 家を出る前に「いってらっしゃい」と声を掛けられた。今のところ来てから寝る事しかしていない和泉さんを置いて僕は大学に向かった。
 僕は文学部英文学科の学生だ。だから当然、英語を使った授業が多い。
 今日のリーディングの授業は方位と磁石の話だった。地磁気というらしいが、地球の地磁気は北にS極、南にN極という配置になっているらしい。もちろんSはSouthのSでNはNorthのNである。
 この文章のテーマは『なぜ北にSouth極があり、南にNorth極があるのか?』というものだった。そして読み進めていくと答えが出てくる。
『N極とS極が互いに引っ張り合う性質を持っている事はよく知られている事だ。方位磁石の針は地磁気によって指し示す方角を決める。
 では磁石のN極が北を指し示すとき、北は何極でなくてはいけないだろうか? 答えはもちろんS極である。NとSは引き合うからだ。このN極、S極の名称は方位磁石を基準に作られたために、実際の地磁気は北にS極、南にN極となってしまったのだ』

「方位って分かりにくいよね」授業が終わった後、僕は友人の森野に話しかけた。
「分かりにくいって、何が?」森野には僕の言っている事の方がよっぽど分かりにくいようだった。
「例えばさ、いくら東に歩いたって東にはたどり着けないだろう?」
「何それ?」
「東西南北だって分かりにくいし」
「何が?」
「東、西、南、北っていう順番があるわけでもないのに、東西南北って」
「じゃあ、全部一緒に言えば久倉は納得するのか?」
「全部一緒に言うなんて無理じゃないか」
「俺もそう思う」
「でも何かこう優先順位とかをつけて言えばいいんじゃないかな」
「方位に優劣なんてないだろ」
「じゃあ、何か適当に」
「なあ、久倉。お前はただ方位に難癖を付けたいだけだろ。方位に何か恨みでもあるのか?」
「だってさあ、僕は方向音痴なんだよ?」
「ああ。それは、悲劇だな」森野はなぜか芝居がかった口調で言った「方位も久倉も悪くないのに、罵り、罵られる関係になってしまうとは」
 どうでもいい事だが、森野は一つ間違った認識をしている。僕は方位に罵られた事なんて一度もない。


 ある日、といっても僕達の共同生活が始まって三日も経たない日の事だ。
 和泉さんは朝に知らない外人を連れて部屋に帰って来た。歳は三十台か四十台くらいだろうか。僕より頭ひとつ分くらいは大きい男の人だった。
 僕はちょうど一時間目の授業に行こうと思っていたところで、時間が無かったのだが、和泉さんに「ちょっとそいつの相手をしてくれ。俺は英語が分からない、任せた」と言われてしまったので仕方がない。出席は別の方法でする事にして、今日はこの外人の相手をする事にした。
 僕は通用するかしないかの瀬戸際の英語で(ちょっとコーヒーを淹れてきます)と外人に言い、我が家の小さいキッチンに向かった。
 お湯を沸かしながら、僕は一時間目の授業に出るであろう森野にメールを送った。
『僕の単位は、君に託す』
 返事はすぐに返ってきた。
『了解』
 大学というのは面白いもので、授業に出ずとも出席した事になる。これで堂々とサボれるのだ。
 薬缶から白い湯気がもくもくと上がった。お湯が沸いたので二つのコーヒーカップにお湯を入れ、インスタントコーヒーを作る。ちなみに和泉さんの分は僕に外人を押し付けた後にすぐ寝てしまったので無い。
(どうぞ)ミルクも砂糖もなかったが、急の来客なので仕方のない事だった。
(ありがとう)
(あ、僕、久倉って言います)
(私はアランです)
 アランさんはコーヒーを眺めながら、一回大きく深呼吸をした。コーヒーは苦手なのだろうか?
(コーヒーは苦手ですか?)
(ああ、コーヒーね。コーヒーは、好きだよ。うん)
 僕の英語は意外に通じるらしい。結構、勉強を頑張ったから自信はあったのだが、やはりこんな何気ないやり取りでも話せるとうれしい。
(それで、私は道を聞きたいんだけど)アランさんは少し困った顔をして、そう言った。
(道? あなたがここに来た理由はそれだけなんですか?)
(ああ、初めはそこの、寝ている人に道を聞いたんだ。だけど、とりあえず付いて来いと言われて、言われるがままにここへ来て、ここは何処だろうと考えている間に、気付いたら君がコーヒーを淹れていたのさ)
(あ、そうなんですか。それはすみません。この辺の事なら答えられると思います。何処に行きたいんですか?)
(助かるよ。ちょっと待って)そう言うとアランさんはバッグの中を探った。中からは一枚の紙が出てきた。
(ここに行きたいんだ)アランさんはその紙をテーブルの上に広げた。その紙は手書きの地図だった。アランさんは目的の場所をごつい人差し指で指し示す。
(ああ、『ここ』ですか)僕は少し迷った。場所を教えるべきだろうかと。しかし、教えないというのも変だ。僕は仕方なくこの場所を教えた。

(ありがとう。早速そこに向かうよ)アランさんは笑顔で部屋を後にした。僕としては冷や汗をかいた出来事だったけど、いざ送り出してみればもう関係ない。彼もうまく立ち回れば無事に目的を達成させる事だろう。

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