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1979年9月私が先駆けて渡米、米国運転免許を取得して、住む住居や家具類を調達して家族が不自由なく暮らせる様に、準備するのが役目でした。1980年2月、家内と息子2人が渡米して来ましたので、サンフランシスコ空港まで出迎えに行き、市内観光等をして、駐在地のテキサス州ヒューストン市の住居へ案内しました。その後何とか、長男を小学校に入れて、日本では2年生でしたが9月新学期となる米国では小学校3年生となるので、そうはしましたが英語も理解出来ず、翌年も3年生のやり直しとなりました。次男は幼稚園でしたので、翌年小学校への入学に間に合いました。米国の学期末が5月末で3ヶ月が夏季休暇となりますが、親も滞在生活に慣れておらず、何とか休暇を満喫するべく、家族旅行を計画することにし格安のContinental AirlineのDenver行きチケットが手に入りましたので、コロラド州のRocky Mountain National Parkに訪問してみることに致しました。富士山の高さに観光道路がありますので、十分に山岳自然の素晴らしさを満喫、観光用の蒸気機関車にも乗ってみました。加えて、4300mを超える山頂まで自動車道が通じていますので登って行きましたが、夏でも気温が低く、家内の記念写真を撮って早々に退散、息子たちは車外にも出なかったのは気温が平地に比べて25℃以上低かった為で、当然のことでした。
2024.11.16
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米国滞在中、よく家族旅行を致しましたし、メキシコユカタン半島にも行ったことがありました。処で、米国滞在中には、軍人募集のCMがTVで良く流されていました。早口で「Army Navy Airforce Marine」と叫んで応募するので、よく記憶しています。Marineは海兵隊のことで、海軍が敵地に上陸する際に、海兵隊が軍事行動を担うのです。日本には未だに憲法9条2項で「戦力を保持しない」とされていますが、ロシアのウクライナ侵略等を考えますと、憲法9条2項は時代遅れで時宜を得ない条項の様です。仕方なく防衛省では憲法には何とか適合する専守防衛の名の下に、陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊とされる組織はありますが、海兵隊と言う組織は無かったのです。しかしながら軍事作戦には必要不可欠な部隊と認識されて、陸上自衛隊の傘下の一部隊として組織化されるに至り、その名称は水陸機動団と呼ばれるに至りました。水陸機動団(Amphibious Rapid Deployment Brigade)は、陸上自衛隊陸上総隊隷下の部隊で、長崎県佐世保市の相浦駐屯地に団本部が駐屯する水陸両用作戦部隊。 略称は水機団。 報道等では「日本版海兵隊」とも称される。最西端の尖閣諸島、日本海の竹島、不法占拠されている北方領土等の国土防衛には、欠かせない軍隊組織とも思われます。
2024.11.15
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Houston市での駐在生活を終えて帰国しましてから、41年が経過しました。ヒューストン市中心街の摩天楼群をネット検索して見つけました。1979~1981年は1100Milamの46階に、1981~1983年には1001Fanninの38階に事務所がありましたが、どちらのビルも建て替えられることなく残っていました。通常コンクリート建物は償却35年ですので、建て替えられていても不思議は無いのですが鉄筋コンクリートが腐食されない様な表面処理が適格で、長寿命化していると言うことなのでしょう!家族を事務所案内しましたのは多分1982年でしたので、1001Fanninビルのみで、1100Milam事務所は既に移転していましたことで、46階事務所について家族は知らないのです。
2024.11.13
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上司命令により、設計に専念するだけでなく、セールスエンジニアとして活躍するべく米国駐在を命じられましたのは、1979年夏のことでした。1979年9月に、渡米して家族を呼び寄せるべく、自家用車や、住居や所定家具類を準備することになり、何とか1980年初頭迄に整えることが出来ましたので、家族を呼び寄せることになりました。1980年2月1日、会社の皆様が家内と9才と7才の息子を、成田空港まで来てくれて盛大に見送り会を催してくれたのでした。それでも。未だ家内は運転免許を取得しておらず、出張の多い私がいないことも多いので、子供達の学校からの呼び出しがあった場合に対応できる様に、徒歩で行ける場所に処を構えたのです。1980年3月にルイジアナ州ニューオルリーンズ市で米国機械学会ガスタービン技術学会&展示会に出力タービン製品実物を展示、説明員として出席しました。実物展示は珍しいので、新聞記者から撮影されることになりました。この写真は、その記者から記念として贈呈されたものです。家内が運転免許を取得しましたのは6ヶ月後、自家用車を2台に増やして子供達を要求された処に送り届けられる様になり、漸く米国一般の生活を送れる様になりました。
2024.09.21
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ミネソタ州は「数多い湖の地(Land of 10,000 Lakes)」と呼ばれ、氷河湖が散在していることで知られています。ベミジ市(City of Bemidji)はそんな雰囲気に溢れた街で、近郊のイタスカ湖(Lake Itasca)はアメリカ最長のミシシッピ川は源流地ともされる、豊かな自然に囲まれています。此処を訪れた発端は1972年初春、米国GE社の紹介で、Great Lakes Transmissionと言う天然ガスパイプライン会社のブースタステーション(Clear Water Station)を、単独で調査見学する為でした。その後、1977年初春に同僚と再調査、1982年初夏にも圧縮機設計者を引率して見学することになりました。この写真は、1977年初春に巨人ポール・バニヤン(Paul Bunyan)と青い大牛(Babe)の記念像の前で撮ったものです。ポール・バニヤンはアメリカ入植者たちの民間伝承に登場する巨人、ベイブという巨大な大きい青いウシを連れている。アメリカにある沢山の湖や山、川などは彼が造ったとされる。五大湖を水で満たそうとして水を運んでいたとき、ベイブが桶をひっくり返したので、慌てて川をつくり、水害を食い止めたのが現在のミシシッピ川なのだという。ベミジ市にはポール・バニヤンとベイブの像が飾られている。
2024.08.29
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6月23日の夕刻、場所が立川総合斎場と言うことでしたので、多摩モノレールを使って「立川南」で下車しましたら、徒歩5分足らずで斎場に到着しました。登場した僧侶の読経を聴きますと、仏式は土光さんに私淑した影響なのかは定かではありませんが、日蓮宗でした。其処の会場で、先輩よりも1年後輩で、メキシコ事務所長をしていたNT氏を見つけましたので、隣席に腰掛けて通夜の読経を聴き続けます。このNT氏は一橋大学卒で、在学時代から山岳部に籍を置く山男だったのです。しかし、会社時代は山を封印して業務に勤しみ、凄い成果を達成して、到底日本がプロジェクト受注は無理と思われていた案件の受注に漕ぎ付けたのです。このことが城山三郎氏の企業関連小説のモデルとなる程の実業家逸材だったのです。私は1979年から1983年迄、米国やメキシコへの大型ガスタービンの輸出を目指して、テキサス州ヒューストン市に家族帯同で滞在していたのです。東京からの出張者、取扱商社「丸紅」と共に、NT氏宅に押し掛けたものでした。PEMEX(石油公社)、電力公社、民間電力社に数多くプリゼンテーションをして高い技術評価を得たのですが、最後は数多い実績を基にしたGE社の反撃に会い、政治的な圧力に敗れることとなりました。その間、最新鋭で最高熱効率を誇った大型ガスタービンは米国西海岸のカリフォルニア州で受注することとなりました。やはり、開発途上国での商売は実績重視で、最新鋭最高熱効率と言う謳い文句は通用し難いことだと実感することとなりました。
2024.06.24
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古い話ですが、1972年春、初めての海外出張はアメリカで、カリフォルニア州サンフランシスコで行われた米国機械学会ガスタービン会議での論文講演を聴講することでした。読解力が伴わず内容理解に苦労しましたが、何とか目的の多少を果しましたので、折角ですからアメリカ各地を回ることにしました。大学の先輩やその知人達と世界最大のフーバーダムとその人造湖ミード湖を訪問して、その壮大さに感嘆したものでした。先輩や知人は、別件の訪問先があった様で、其処で別れて単独行動をすることになりましたが、ユタ州の州都ソルトレイクシティ(Salt Lake City)を訪問してみることにしました。グレートソルト湖はイスラエルの死海と同様に塩分濃度が高く、体が浮いてしまう程で湖畔に耕作地利用は不可なのです。ソルトレイクシティはモルモン教が拓いた町で、1830年にジョセフ・スミス・ジュニアによって創設されたモルモン教は、キリスト教の一派とは言え、一夫多妻を認める教義等で度々周囲との衝突を余儀なくされた。1847年、グレートソルト湖南東の砂漠にヤングは都市を築くことを宣言、周辺は山岳や荒野、塩湖に囲まれた苛酷な環境であったが、1848年の人口は5000人、翌年8000人と増加し、さらにゴールドラッシュの中継地点となったことが発展を確実なものとした。モルモン教の総本山である教会に入りますと、モルモン教の教義が放送されて帰依する様にされていました。しかしながら、元来宗教に関心の低い私は感化されるには至りませんでした!
2024.06.18
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1983年9月末に4年滞在を終えて、日本へ帰国することがが許可されました。前年には、雄大なGrand Canyonに行くことが出来ましたが、米国で2大観光地と言えば、カリフォルニア州のYosemite国立公園、ニューヨーク州のナイアガラ滝国立公園となりますので、7月にはYosemite、8月にはNiagaraを訪問することにしました。ナイアガラ滝ではMaid of Mist号と言う遊覧船にも乗りましたし、地下のトンネルから滝の裏側を覗くことが出来ましたし、夜になりますと色とりどりの夜光照明に照らされるカナダ滝も観賞出来ました。折角ですから、国境を越えて、カナダ最大の都市トロントから首都オタワ、フラン文化の色濃いモントリオールに行き、Chateau Champlainホテルに宿泊して町を散策、翌日はトロントの老舗ホテルRoyal Yorkに宿泊して、当時世界1高いテレビ塔とされたCN Towerに登って5大湖の眺望を楽しむことが出来ました。Continental Airlineの無料搭乗券を使った積りでしたが、手違いで使えず、9月末の帰国時にHouston-New York JFKに充当することとなりました。
2024.05.18
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此処ノットウェイ・プランテーションハウス(Nottoway Plantation)を訪れましたのは、1981年1月のことですから、ほぼ20年前のこととなりました。当時は、アメリカは製造業の衰退が顕著で景気が悪い時でしたので、観光産業にも勢いが感じられず、訪問客も殆どいませんでした。観光産業が勃興するのはクリントン大統領2期目のことでしたから、それより10年以上経過しなければなりません。我が家でも、駐在員の私が出張多く母子家庭になっていたのですが、家内が運転免許を取得し2台目の車を使って行動が自由となり、英語が話せず1年間現地小学校に通っていた子供達も漸く慣れて来て、少しづつ英会話での意志疎通も見え始め、少し安心感が出て来た頃でした。ノットウェイ・プランテーションハウスはサトウキビ実業家が、建てた豪邸で、敷地面積2800ha、建坪5000m2、 部屋数64という南部最大のプランテーション。1859年に出来上がったこの家、寝室にはウォーキングクローゼットなどが隣接し、納戸等も含まれ、ボールルーム、書斎、ダイニング、ゲストルーム、プレイルームと様々な部屋が点在している。敷地内には42の奴隷小屋が備えられ、敷地内に共同浴場やら病院、集会場なども設置していたと言う。現在では、訪問客用に、母屋と隣接する棟の15部屋がB&Bとして宿泊できるようになっている。このプランテーションは、南北戦争時代の戦火から逃れ、ほぼ当時のままの姿で保存されているが、1889年多額の税金の支払いを課せられ結局、5万ドルにてこの屋敷を売り払った歴史があります。現在は、オーストラリアの富豪が所有、当時の栄光の姿を保管すべき同じ時代の調度品などを収集しこの屋敷に集め、それを一般公開しているそうです。
2024.05.18
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私が1979年9月に米国に入り、住居等の居住空間の準備をして、1980年2月に家族を呼び寄せ、1983年9月末迄、Texas州Houston市での3年半余の生活が始まりました。現地の小学校はRummel Creek Elementary Schoolでした。本来通うべき小学校はBentwood Elementary Schoolだったのですが、家内が自動車運転免許を未だ取得して無くて、「West Belt Streetwayを横切って行くことは難しいので・・」と学校に説明して替えて貰ったのでした。学校の行き帰りにはスクールバスが利用出来ましたので、登下校での交通事故にも安全でした。1983年9月、帰国直前には同僚駐在員のお嬢様と記念撮影させて頂きました。私の場合と違って、同僚駐在員は規定である5年駐在を果して帰国となりました。
2024.05.09
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学校英語では、オーク(Oak)を樫と訳す様に教えられましたが、不十分の様なのです。よく「ショーシャンクの空に」と言う映画を観賞するのですが、日本語字幕では「オーク(Oak)を樫の木」と訳しているのですが・・オーク(Oak)は ブナ科コナラ属植物の総称、主に落葉樹であるナラ(楢)の総称。模式種のヨーロッパナラ(コモンオーク:Common Oak)が代表的。亜熱帯から亜寒帯まで北半球に広く分布する。日本語では、コナラ属の内、落葉樹の種群はナラ(楢)、常緑樹の種群はカシ(樫)とよばれるが、オークは樫と楢を区別せず両方を包含するものである。つまり、オーク (Oak) はコナラ属を示し、楢と樫が含まれるので、すべて「樫」と訳されると不都合が生じる。明治時代の翻訳家が落葉樹のオークを樫と誤訳した例があり、現在も混同されやすい。1979年10月から1980年1月迄の4ヶ月間、Houston郊外South Voss通りにあったOakwood Gardenと言うComplexに単身居住、家族を呼び寄せる準備をしていたのですが、付近には樫の木等は全く無かったのです。そこで、治安の良いSpring Branch地区、West Belt(現 Sam Houston Parkway)沿いにあったGeorge Town Complexに居を構えることにしたのです。
2024.02.27
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ユカタン半島はカリブ海に面していて、北緯23.5°以内にある熱帯地域にありますので、常に夏の気候ですが、湿気が少ないので快適です。その先北端にあるカンクーン市は、リゾート地として開発が進んで世界中から観光客が訪れる様になりました。其処を訪れた知り合いのアメリカ人の旅行話を聞いて、我が家も家族旅行をしましたのは1983年1月のことでした。しかし、観光ビジネス的には不十分で、予約していたレンタカーは2日後のことで、それも整備の悪い車で、バッテリーが劣化しているのか、車を再始動させるのは大変だったのです。それでも、カンクーン市を南下して美しいマヤ遺跡で、海岸にあってアクセスも良いとのことで出発し、何とか見学出来ました。帰り道、車を留めてコズメル島を眺めてから出発しようとしますが、車の再始動が出来ません。すると近くにあった兵営から、何と軍人が出て寄って来てくれ、親切に再始動してくれました。本来は最大のマヤ遺跡であるチチェン・イッツァ(Chichén Itzá)を見学したかったのですが、残念ながら諦めることにしました。チチェン・イッツァは、その後1988年に世界遺産に登録されましたが、当時は「訪問客もそれ程多く無い状態で見学することが出来ましたのに!」と、40年を経た今でも悔いが残っています。
2024.02.24
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エルパソはテキサス州の西端にあり、メキシコ国境にも接する町です。高度は1200メートルの高原で、ロッキー山脈の南端となるフランクリン山脈と荒れ地砂漠に挟まれていますので、乾燥気候で常に明るい太陽が望めます。言うなればロスアンゼルスの気候をもっと極端にした気候条件なのです。7月には昼間50度にもなりますが、夜間には15度にもなり上着なしでは寒くなります。天候が良いので、冬も温暖な気候を満喫出来るので避寒地として知られています。人口は約60万人で80%がスペイン語を話す人々で構成されています。リオグランデ川の対岸はメキシコ領内でシウダー・フアレス市となって、こちらの人口は二倍の120万人あります。リオグランデ川の国境検問所はありますが、共通の文化圏でもあり国境を越えた多くの労働者が行き来しています。物価はメキシコ側が安くアメリカ人は買い物に、働く場所はアメリカ側に多いのでメキシコ人は働きに行くのです。エルパソはスペイン語で“通り道”と言う意味ですから、あまり観光スポットもありませんが、山脈の中腹まで行って眺める夜景は素晴らしいものがあります。シウダー・フアレスはメキシコで“初めての現地人大統領”フアレスに因んだ町名です。産業はあまり発達しておらず、土器、革製品等を売る店が多いようですが、品質的にはそれ程優れたものは無いようです。夕刻にはメキシコ音楽マリアッチ演奏付き、手頃な価格のレストランが数多くありますので行ってみると価値があります。そんな所ですから彼らの話す英語は聞き取りにくいのです。何か英語なのですが、一寸発音が違うようで又仏語みたいに語尾が次の単語にくっつけて発音するので良く聞き取れません。"How are you all"は"How are yawl"となりますし、"Oil Business"は"Owl Bidness"と聞こえます。エルパソには1978年6月、1979年7月、1980年1月に訪問しました。テキサス州は殆どの所が中央地区時間帯に属するのですが、エルパソ近郊は1時間遅れた山岳地区時間帯にあります。実際、ヒューストンから1300km西方に位置するのですから1時間遅れにしないと実情に即さないのです。
2024.02.22
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小さい頃から学校教科では理科が好きで、天文・地学は興味を牽くものがあり、教養学部時代でも、岩生周一教授の講義を聴講したこともありました。米国出張でも、石を販売する店に立ち寄っては購入する機会が多くあり、戸棚に残してありますので、庭に下りて、転がっている石を集めてみました。左端2個は多摩川河川敷で拾った石英片岩、その右にある渦巻の石は記憶にありません。その下は、九州指宿海岸で拾った軽石。その右は、多摩川で拾った絹雲母片岩と紅簾片岩。右端は米国化石の森国立公園で購入した水晶石(残念ながら結晶途中)滞米中に各所で買い集めた石類がありますので、飾り戸棚から数点出して並べてみました。真ん中にあるのは、1980年の家族旅行で、ロッキー山脈国立公園にて購入した水晶です。左には、1981年テキサス州オースチン市近くにある鍾乳洞Natural Cavernで購入した瑪瑙、その下には1982年グランドキャニオン訪問の際に立ち寄った化石の森(Petrified Forest)国立公園で購入した珪化木です。中央上のバイソンをもした石はデンバー空港で購入したもの、中央下は方鉛鉱ですが、買った年月は定かではありません。右の緑色の鳥頭部を模した石は、カナダ産で「Tamarack Stonecraft」と刻まれていて、Green Stoneと呼ばれるカナダ特産の石ですが、購入場所・年月は記憶から消え去っています。
2023.12.27
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先日、NHKBSでソノラ砂漠(Sonoran Desert)の自然を紹介する番組がありましたので、懐かしく拝見いたしました。多分1982年春にASMEガスタービン会議・展示会が挙行され、他メーカーとの技術比較調査を兼ねて、会社のガスタービン担当幹部も日本から参加してくれたのです。この写真は、アリゾナ州の州都フェニックス(Phoenix)から遠くない場所で、大きなサワロサボテンを横にして撮影されたもので、私が右端、横にはNew Yorkから応援に駆け付けてくれた先輩ですが、昨年長い闘病生活の後鬼籍に入られました。背景に見られる山塊はSuperstition Mountains、伝説山塊とでも訳すのでしょうか、ごつごつとした岩山です。ソノラ砂漠(Sonoran Desert)は、アメリカ合衆国アリゾナ州、カリフォルニア州及びメキシコ合衆国ソノラ州にかけて広がる砂漠である。湿った風が西から吹き込むが太平洋岸の山脈に阻まれ、雨雲は砂漠に発生しないことが1年の大半を占め、北アメリカで最も暑く広い砂漠の1つとなった。面積は311,000平方㎞で、ユマ砂漠・コロラド砂漠を含み、日本の本州がすっぽりと入る規模である。又、ソノラ砂漠は世界一大きなサボテンとされるサワロサボテンSaguaro Cactusの故郷として有名だ。
2023.11.03
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元上司が天に召されたことが、未だに尾を引いていて、親子断絶と言う状況下3年前にひっそりと亡くなった元事業部長のことも思い出して仕方が無いのです。元事業部長には大変な面倒を掛け、又一番面倒を見て頂いた方でした。彼の業務指令により米国駐在となり、1979年9月に家族を残して米国に出発、3ヶ月を掛けて住居や家具、自家用車等を揃えて、家族受け入れ準備することが必要でした。当時は、箱崎で航空機搭乗のチャックインが出来ましたので、記念撮影となりました。左端の方は総務の尾崎さん、米国の現地法人ですので、サラリーの切り替え時期などを適切にして支払いに支障が出ない様に種々の設定をしてくれていたのです。駐在中は、製品拡販を目指して活動、何とか受注に漕ぎ着けることが出来ました。本来ならば5年の任期があったのですが、4年経った時に1年残して1983年に帰国させて頂きましたのは元事業部長の温情でした。態々、米国の我が借家まで来て頂き、家内にご苦労様でしたと挨拶して頂いたのは予想外のことでした。丁度4月で、日本では花見の季節ですが、テキサス州でもBluebonnetと言うルピナス矮性種が州花となっていましたので、野原一面の咲く平原も見て頂きました。仕事だけでなく住環境から周辺地域も見てくれ、充実した駐在生活を確認してくれたのは、駐在と言う業務指令を発した責任感もあった様で、尊敬できる事業部長でした。
2023.10.19
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テキサス州ヒューストン市に通じるインターステート10号線はケイティ道路(Katy Freeway)と呼ばれ、途中26車線となって世界一広い高速道路となっている様です。ローンスター州とも呼ばれるのを自慢するテキサス州は世界で最も広いフリーウェイの本拠地で、インターステート10号線はKaty Freewayとも呼ばれ、一部26車線を計上しています。Katy Freewayの両側には6つの車線があり、更に4つのレーンがKaty Freewayの各脇をアクセス道路としており、高速道路の主要車線だけでなく、側面に沿って企業にアクセスすることもできます。世界で最も広い高速道路のアクセス道路は、世界の典型的な大型高速道路のほとんどよりも広いです。Katy Freewayは、乗り継ぎ車両と2人以上の乗客を優先的に運営する、「管理された車線」の3つをHOV車線へのKaty FreewayとしてManaged Lanesと考えています。1979~1983年の4年間、Katy Freewayのすぐ南に位置し、West Belt道路沿いにあったGeorge Town Complexと言う団地群に家族と共に居住していました。ヒューストン中心街(Downtown)にある事務所への通勤には、West Beltから混雑するKaty Freewayを使うことが当たり前の日常でしたので、26車線に拡張されたのには驚きです。その後、West BeltはNorth Beltと連結した有料道路(Toll Way)としてSam Houston Parkwayが構築され、ヒューストン空港へは環状線(インターステート610号線)やDowntown を経由することなく行ける様になりました。
2023.09.16
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CNNニュースによると 米ハワイ州マウイ郡当局は8月11日午後、同州で発生した山火事の死者が67人に上ったことを明らかにした。1960年に東部ヒロで61人が死亡した津波を上回り、州史上最悪の自然災害となった。ハワイ州グリーン知事によると、西部の観光地ラハイナでは、屋内で遺体が見つかったケースはなく死亡例は何れも炎から逃げようとした人が屋外で亡くなったものだという。グリーン氏は8月10日遅くに行われた記者会見で、「今後も死者が確認されるだろう」「数百棟の民家が破壊された。再建には多くの時間を要する」と述べた。この画像はCNNニュースサイトから拝借したものです!地球温暖化による世界的な気温上昇で、山岳地帯のUpcountry Maui Wildfireや、 South Maui Wild Fireだけでなく、中心都市ラハイナ近郊のWest Maui Wildfireも発生したことでラハイナ市が廃墟同然、海に浮かぶ島に於きましても大きな自然災害となりました。私がIHIガスタービンの拡販でマウイ島を訪問しましたのは、1980年後半、ハワイ電力庁での発電所増強計画に応じたものでした。既に、三菱重工がディーゼル発電所をマウイ島に納入稼働していましたが、容量が小さく観光客増加による電力需要に対応出来なくなるのでガスタービン発電所設立との企画案があったのです。海や緑の美しい島でしたのに、壊滅とも観え得る自然災害で、復興には相当な時間と費用が費やされることになります。
2023.08.13
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このプロジェクトでは、米国現地調達をすることにしていましたので、忙しく各地を飛び回る必要がありました。オクラホマ州Tulsa市、ニューヨーク州Watertown市、等担当者を駐在させて管理させ、その状況を時宜に応じてチェックするのです。その他、エンジニアリングを司るEnergy Services Inc.はコネチカット州Hartford市、PG本社のあるオクラホマ州Cincinnati市、据え付け現地のカリフォルニア州Oxnard市、を飛び回らねばなりません。其処で、Procter Gambleプロマネの奥様が旅行会社に臨時職員として就職、私の旅程itineraryに沿って旅券を発券してくれると言うのでした。それまでは、太平洋路線はJALやANAで、米国内は提携のあったAmerican Airlineでしたのですが、太平洋路線を含めて最大航空会社United Airlineに替えた方が便利と言うことでしたので、その助言に従うことにして、Frequent Flyer Programにも加入させてくれました。仕事の良く出来る女性で、私の旅程itineraryの急な変更に対しても、空港に行けばその変更に沿った手続きを全て整えてくれたのです。Business Class航空券でしたので、Mileageは瞬く間に溜まり、時にはFirst Classに無償でUpgradeしてくれたこともありました。長い太平洋路線でのFirst Classは快適で、足載せにゆっくりと足を伸ばして寝ることも出来ましたし、Dinnerでは、Steakの焼き方にも注文を聞いてくるのです。2年間の忙しい米国出張は、ガスタービンの据え付け運転工事が完了して終えることになりましたが、プロマネの奥様に大いに感謝することになりました。溜まったMileageで、私と家内のLos Angelesへの往復航空券を頂戴しました。家内は、米国での生活を十分しましたし、観光地への家族旅行もしましたので、あまり魅力を感じないと言うことで、この航空券は死蔵することになりまし。その後も、ガスタービン拡販の為の米国出張は続いたのですが、United Airlineから従来通りのJAL活用に切り替えることにしました。
2023.08.07
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Micro Edgeの待ち受け画面がカナダのジャスパー国立公園にあるアサバスカ滝の動画になっていましたので、懐かしく観ています。1981年8月、学校の新学期が9月に始まる迄、学期末の休みでしたので、家族旅行でカナダのブリティッシュコロンビア州とアルバータ州に行ったのでした。1980年2月に、家族はテキサス州ヒューストンに来てくれたのですが、長男は英語も分からずに現地小学校3年生に編入したのですが、不登校にも成らず何とか通い続けてくれましたし、1981年に次男は小学校入学となって、漸くアメリカ駐在生活が軌道に乗って来た時期となりましたので、丁度Continental航空社の格安航空券が発売されていたこともあり、勇躍カナダの雄大な自然を観てみようと言うことになりました。Vancouverでシェラトンホテルに一泊後市内見物してから、寝台列車に乗車してジャスパー駅に到着、レンタカーでジャスパー国立公園からバンフ国立公園迄、存分に雄大な自然を満喫することが出来ました。アサバスカ滝(Athabasca Fall)はその途中にあって、大きな滝ではありませんでしたが、清冷な水が轟音を響かせて流れ落ちる見事な滝だったのです。
2023.06.03
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単勝1・4倍と圧倒的な1番人気を背負ったリバティアイランドが圧勝で、桜花賞に続く牝馬クラシック2冠を達成しました。4コーナーの馬群ら抜け出し、異次元の差し脚で全ての牝馬を抜き去りました!しかし、リバティアイランド(Liberty Island)と言えば、ニューヨーク湾に浮かぶ自由の女神(Statue of Liberty)のある小さな島のことです。1983年9月、4年の米国駐在を終えて、ニューヨークを経て、スイス、フランスを観光旅行して日本に帰国する家族旅行、家内も含めて家族は初めてのニューヨークでした。ニューヨーク事務所にHalloran House(現在はMarriot)に予約して頂き、自由の女神、国際連合ビル、エンパイアステートビルの86階での展望を楽しみ、連絡船に乗ってリバティアイランド(Liberty Island)に上陸したのです。マンハッタンにはワールドトレードセンター(World Trade Center Building)2棟が、トレードマークとして聳えていたのです。
2023.05.21
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郷土の森博物館の駐車場に車を停め、多摩川河川敷を散策、丁度河岸の桜は見頃、家族連れもバーベキュー広場にテント等設営して、行く春を満喫していました。大丸堰も前日の雨で水量が豊富、春の勢いが清々しく感じられました。帰る際、物産館でルピナスが販売されていましたので、青いルピナスを買う積りだったのですが、売れてしまっていましたので、残っていた赤紫のルピナスの鉢植えを300円で購入して帰宅しました。テキサス州ヒューストン市には、桜並木は無いのですが、テキサス州の州花は "Bluebonnet" と呼ばれるルピナスの矮性種で、その花の群落を思い出します。開花時期は4月初旬で、日本の桜の時期と一致しています。テキサス州の公安委員会交通局が道路沿いに種を蒔くのか、先ず陽当たりの良い高速道路の土手に咲き始め、その後、草原に咲き出して、場所によっては青一面の野原と化し、湖かと見まごう程になります。日本の花見と同様に、週末には家族連れで車を使って見物にくり出します。その思い出をF15号の油彩にして、居間の壁に掛けてあるのです。
2023.03.31
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米国では、多額の現金を手元に置くことは盗難リスクもある為、直ぐに支払いはできるものは除いて、手元に現金を保管したくないとき小切手が使用されていました。現在の私は日本に居住していて、スーパーでの買い物には現金や予め現金を振り込んである買い物カードを使っていますし、その他の店舗ではクレジットカードや現金で支払いを済ませる為、小切手支払いをすることはありません。しかし、遠い昔のアメリカ在住時は、買い物では小切手を利用することが普通でした。小切手を振り出すときには、記載する金額以上の現金を当座預金に預け入れておく必要があり、なければ不渡りを出してしまうことになります。・小切手を振り出すときの方法小切手を安心してスムーズに使用できるように、銀行が交付する様式の統一された小切手用紙を使用し、振り出します。小切手用紙には必要事項が印刷されているため、次の内容を記載して銀行届出印を押せば小切手を振り出すことができます。金額振出日振出人アメリカ在住時の小切手帳には、発行銀行の住所、振出人の氏名、会社住所、が記載されていて、金額を手書きすればそれで支払い終了、毎月発行した全ての小切手が郵送されて来て、間違いが無いかチェックするのが通例でした。私が勤めていた会社事務所は、発行銀行が所有するビルの38階にありました。 銀行が破綻した場合は、日本では各銀行1000万円まで預金を保証される程度がありますが、米国ではそのような制度はなく、イェーレン財務長官が全額保証すると発言していますが、実行段階に適用されるのか否か不安となります。それでも、米国では小切手での買い物も出来ない状態となって、日本以上の弊害があったと思われます。
2023.03.28
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ヨセミテ国立公園は氷河によって削り出されたU字谷ですので、ランドマークは花崗岩900mの一枚岩エルキャピタン、逆さにしたお椀の岩を半分切り落としたハーフドームとなりますが、その他岩壁から流れ落ちる多くの滝も見どころとなります。山紫水明の場所では、レンタサイクルもありますので、綺麗な水流に沿いながら、ペダルを踏むのも楽しく国立公園の素晴らしさを満喫することが出来ます。そんな中、小さな湖でミラー湖があると言うので、自転車で行ってみましたが、訪れたのが7月中旬の乾季でしたので、小さな流れと変化していて湖は消えていました。この油彩は、後年複数の写真を観ながら描いたものですが、ハーフドーム直下となっていたのが、懐かしき思い出ですし、右上に黒く描いているのが、ハーフドームの切り落とされた絶壁です。ヨセミテ国立公園の画像は、数多くネットにアップロードされていますので、検索してみました処、ほぼ同じアングルの画像に出会いました。ハーフドーム迄の上面が写っていないのがちょっと不満ですが、ミラー湖は水豊かに撮影されていたのには、満足することが出来ました。
2023.03.05
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喪中はがきが来て、「父が12月7日に86才で永眠致しました。今までのご芳情に厚くお礼申し上げます」と綴られていました。初めてお会いしたのは、1980年3月にて、ニューオルリーンズで開催された米国機械学会(ASME)のガスタービン学会&展示会(GTI Turbo Expo)でした。その年は、会社がガスタービンのアメリカ拡販を目指して、展示ブースを積極的に確保して行くのが東京本社の戦略だったので、設営を面倒見てくれとの指令だったのでした。私はテキサス州ヒューストンが駐在赴任地だったのですが、駐在から半年で不安なことも多く困っていたのですが、先輩はニューヨークが駐在地で駐在1年半を経過していて慣れていたこともあり、親切にも態々ニューオルリーンズまで出張してくれて、展示ブースや展示品の設営、受付嬢の選定等を指導して頂いたのです。何とか、先輩の指導もあって任務を果たしたのですが、日本からタービンローター本体を海上輸送して展示したことは、現地でも注目されて現地新聞でも注目されたのです。この写真は、取材してくれた新聞記者から記念にと頂戴したものです!4年の駐在生活を終えて、帰国しても先輩との交流は続いていましたが、先輩は米国生活で得た知見を活かすべく退社して、高額な報酬を求めて米国タイヤ業者の日本駐在員に転身してしまったのです。その後も、交流は細く続いていたのですが、先輩は連れ合いに先立たれただけでなく、病を得て歩行困難に陥り、介護施設に入居せざるを得なくなりました。6年前には、お見舞いに出掛けたのですが、意気軒高は変わりませんでしたが、車椅子生活を余儀なくされてしまったことは、悲しく寂しいことでした。遂に、今回の喪中はがきで、親切にして頂いた交流が終わりを迎えてしまいました。
2022.12.21
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NHKBSの深夜放送の「美しき山々」と言うタイトルで、ヨセミテ国立公園が放映されていて懐かしく拝見していました。米国駐在が4年続き、帰国要請をしていましたらOKが出ましたので、米国屈指の観光地を訪問しようと、「ヨセミテ国立公園」と「ナイアガラ滝」を選んで、1983年7月にヨセミテ、8月にナイアガラ滝を見学、9月に日本へ帰国する計画を立てました。ヨセミテ国立公園は氷河が削って形成したU字谷を国立公園に指定した屈指の観光地で、多分人気は1、2位を争う様なのです。ヨセミテ村では、レンタサイクルを借りてハーフドーム下の夏で干上がったミラー湖を観た後、自転車を返却してGlacier Pointと呼ばれるヨセミテ村を真下に見下ろすポイントに行ってみることにしました。公園入口近くまで戻って、分かれ道に腰掛けてヨセミテ村を展望してみます。花崗岩900mの一枚岩El Capitanの断崖、 氷河にてお椀型の岩を半分に削り取られたHalf Dome等が見えて、素晴らしいU字谷となっていました。Glacier Pointでは、真下にヨセミテ村を見下ろし、種々の滝も見下ろせる絶好の観光ポイントとなっていました。
2022.12.16
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不幸な太平洋戦争は、日本軍の真珠湾襲撃で幕を開けましたが、日本では12月8日未明となっていますが、ハワイの時差は‐19時間となっていますので、12月7日午前~正午と言うことになります。「Remember Pearl Harbor & Never Forget !」との掛け声をフランクリン・ルーズベルト大統領が発して、反撃を誓ったのですが、日本軍の太平洋沿岸での戦闘には敵することが出来ませんでした。しかし、日本軍がミッドウェーで米国を迎え撃つ守備的な戦闘作戦を講じたことで、多数の航空機に拠る先制攻撃を受け形勢は逆転、それ以降は米軍が日本軍を太平洋沿岸から駆逐して行くことになりました。ミッドウェー海ではなく、ABCDラインを打ち崩すべく、より攻撃的な侵攻作戦を執っていれば形勢逆転は遅れたでしょうし、有利なまま停戦交渉を勝ち取れたのかも知れません。戦略物資不足であった日本軍は守備的な戦闘での戦争継続は不利で、長期的な見通しは展望出来なかった筈で、軍部の思いあがった作戦が災いとなりました。私は1979年9月から、家族は1980年2月から1983年9月迄、テキサス州ヒューストン市に滞在したのですが、12月7日にはテレビで真珠湾襲撃映像が流されていて、現地学校に通っていた子供達がクラスメイトに虐められるのではないかと心配しましたが、安保条約から日米同盟の推進もあって、反日感情は無くなっていましたのは幸いなことで、今では懐かしい思い出となっています。この写真は帰国直前、事務所同僚で船舶海洋担当のM 氏お嬢さんN子さんも一緒です。
2022.12.08
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ジョージ・ワシントン橋(George Washington Bridge)は、ニューヨーク市マンハッタン区ワシントン・ハイツとニュージャージー州バーゲン郡フォートリーを結ぶ吊橋。ハドソン川に架かる他の橋や川をくぐるトンネル同様、ニューヨーク・ニュージャージー港湾公社が橋の管理にあたっている。1日の車両交通量が世界一多い橋である。通行料金は東行のみ徴収で、2013年12月現在は乗用車が現金で13ドルである。1980年後半は、毎月米国出張が続き、時差に悩まされる生活もあって、部下に対してもパワハラもあったかも知れません。1989年の夏、ニューヨーク州のWatertownのDynapowerと言う会社に発注したIM5000ガスタービンの油圧(Hydraulic)スターター&ポンプの製造に部下を立会わせて品質Auditをさせました。その前にもオクラホマ州タルサでも別メーカーでも滞在管理させて後、帰国させずに続いての滞在命令でしたからパワハラと言われても仕方がありません。兎に角、マンハッタンからハドソン川北側のワシントン橋を渡って、WatertownのDynapower工場に行き、出荷前の立会検査に行き、検査も滞りなく無事完了したので、永い間ご苦労様と、セントローレンス河を渡ってカナダの首都オタワの観光をするべく、其処で一泊してから日本に帰国して貰うことにしました。セントローレンス河は無数の島(Thousand Islands)が散在し、サラダドレッシングで“サウザンド・アイランド(千の島)”はそこで考案されたドレッシングなのです。カナダの首都オタワはオンタリオ州にある小さく美しい町です。オタワ川にそって議事堂、政府建物が並び、対岸には美術館、教会等があって、静かに観光するには良い所です。国を代表する議事堂は、国内に産出する岩石を使っていますが、その石灰岩は無数の小さな動物が封じ込められた化石なのに驚かされます。内部は何となくシックな雰囲気で、美しいステンドグラスもそれを盛り立てます。
2022.11.29
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昨日は冷たい雨が一日中降り続き、晩秋の冷たさを実感しましたが、ふと40年前のアメリカ滞在中の記憶が蘇えりました。日本の雨期は6月の梅雨の季節ですが、欧米では晩秋から初冬が雨期だったのです。そう言えば、イギリスでの研修に派遣された夏目漱石も、快晴続きの日本と違って、陰鬱で寒い冬には閉口し、早々に研修を諦めて帰国したとも言われているのです。日本では雨期が終わりますと真夏となるのですが、アメリカでは緑萌える春となりますので春の喜びもひとしお大きかった様なのです。冬のBiloxiへの家族旅行では、到着まで結構な量の雨模様で、翌朝漸く上がってのPlantation House見学となりました。
2022.11.24
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この花籠磁器は1970年代にカナダ出張の際に、食卓の真ん中に置いて飾って置くのが良いかと思いつつ購入したものですが、結局は飾り戸棚の中に鎮座しているだけとなりました。多分、Commonwealthであるカナダのアルバータ州バンフ市のBanff Springs Hotelの土産物店で購入した筈です。コールポート(COALPORT)は1790年代にイギリスで創業した歴史のある窯です。 ヴィクトリア女王からの命で、ロシアのニコライ1世への贈り物となるテーブルウエアを製作する等、高いデザイン性と技術力を兼ね備えたブランドです。しかし、その名陶窯業も、1862年に頭首が引退すると、1881年に買収、1925年に売却、と平坦な歴史は踏まなかった様で、1967年、コールポートはウェッジウッド・グループの一員となり、1986年、ウォーターフォード社とウェッジウッド社が合併します。その後も、マリーアントワネットやポンパドール夫人のフィギュリンを1992年に発表するなど、合併後もコールポートとしての作品を製造しました。現在ではコールポートとしての製造は終了していますが、正確にいつ終了したかの情報は見つかりませんでしたが、2001年にミネルバ工場が閉鎖されことで、この年が最後になるのでしょう。
2022.10.10
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水中眼鏡をしてハナウマ湾を泳いだのは、もう35年も昔のこととなりました。ハワイでのガスタービン拡販の為、ワイキキビーチに近いOutriggerホテルに泊まっていたのですが、私の後任で米国駐在となっていた後輩が、とても素晴らしい海岸があると親切に紹介してくれたのです。ワイキキの浜は100%人工の海浜で、今でも砂を大量に補充しないと無くなってしまうとされています。昔はワイキキの浜付近は沼地であって、埋め立てによって海浜に改造されたのですから、自然に砂を供給する機能も無いのです。その点、ハナウマ湾ビーチではサンゴ礁もあって、水中ゴーグルとシュノーケルを付けて、泳ぎ出しますと、色とりどりの熱帯魚が目の前を泳ぎ過ぎて行きます。上記画像はネットから拝借したものです。ワイキキから少し離れてダイアモンド・ヘッド近くにあるハナウマ湾(Hanauma Bay)は砂地と珊瑚礁が入り交じった美しい自然海浜、ハワイ海浜自然の本当の姿を満喫するには、ワイキキの浜では無く、ハナウマ湾に行ってみる必要があります。ホノルルの海岸から道沿いにダイアモンド・ヘッドを越えて行った処から、美しいハナウマ湾を見渡すことが出来ます。入り江に臨む岩々は、ココクレーターと呼ばれる死火山の凝灰岩丘です。かつてこの火山がマグマ水蒸気爆発という現象を起こし、この地形ができたと考えられています。その為、観光客が押し寄せて、環境破壊が進みました。特に沿岸のサンゴ礁は、開発によって大きな被害を受け、何年も前に絶滅しました。現在ハナウマ湾は自然保護区に指定されており、環境保全措置が取られています。
2022.05.24
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子供の育て方や教育とは難しいもので、正解は無いのかも知れません。家内も私も戦後の混乱期に育ち、幼稚園にも行かずに遊び回った過去があって楽しかった記憶がありますので、学校教育や情操教育よりも、自然に親しむことを大切にしたのです。米国駐在前は、2人の息子達は水泳教室で健康を維持し、玉川上水緑道近くにあった幼稚園では字を教えずに、元気に遊ばせる教育方針に納得して通ませることにし、その緑道から井の頭公園までの散策することを、日常生活としました。家族帯同で3~5年間とされる米国駐在が業務命令として出されましたので、従うことにしましたが、英語も一切出来ない家族は大変なカルチャーショックを受けることになりましたが、1年も経ちますと何とか生活出来る様になりました。その頃は、為替は180~240円/米ドルでしたので、帰国後は米国を再訪することも難しいと考えて、あちこちと家族連れで国立公園の自然に親しむことにしたのでした。1981年には、格安航空券が入手出来ましたので、カナダのBanff/Jasper国立公園に行って、釣り竿持参で、湖や川での魚釣りに挑戦することになりました。Jasper市郊外のキチン付きバンガローに宿泊、8月初旬でしたのに陽が陰りますと、寒くなって暖炉を焚いたのは一寸驚きでした。それから1年半後の1983年1月には、メキシコのユカタン半島にあるCancunを訪れました。その半年前に家族から離れてのキャンプ生活を経験、支給されたTシャツを着て、自然に親しむ生活を満喫していました。白く見える砂浜は、サンゴの欠片ですので、少しピンク色にも見える美しい海浜だったのは記憶に残っています。1983年9月に駐在交代を申し入れ、ヨーロッパ経由で10月初旬日本へ帰国となりましたが、他企業の駐在員家族では、ピアノを習わせる等の情操教育もしいましたので、そんな情操教育をしなかったことが今でも心残りの反省事項として、心中に残ったままです!
2021.08.01
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飾り棚の中に、アメリカ各地のワンショットグラスが4個並んでいます。ウイスキーの「ワンショット」とは、アメリカで使われていた表現で、「強いお酒を一杯ひっかける」ことを、いつの間にか、“弾丸”や“発射”といった意味を持つ「ショット(shot)」という言葉で表現するようになったのだとか。「ワンショット」という表現は、すでに酒量を示す用語として定着しており、ウイスキーやテキーラ、ウォッカなどのハードリカーの1杯分を意味するようになっています。アルコールを一切飲まなくなって10年にもなりますので、無用の長物なのですが、何か懐かしさを感じてしまいます。何回となく訪れたテキサス州サンアントニオ(San Antonio)、バーボンウィスキーJack Daniel醸造所のあるテネシー州リンチバーグ(Lynchburg)、アパラチアントレイルを探しに行ったノースカロライナ州フォンタナ湖、数十回も訪れたニューヨーク州マンハッタン、土産物として認識していませんでしたので100個あるSouvenir Spoonと違って、4個しかありませんが、今では良き旅の思い出です!
2021.06.04
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昨日、NHKBASの「宝石物語採掘&研磨」と言う番組を観ていました。多分数年前に放映されたものの再放送らしく、観たことがありました。貴重な宝石やGem Stoneとされる貴重石を展示販売される様子が紹介され、採掘する人達、研磨する人々、委託販売する人々等の様子が詳細に解説されていました。原野を掘り起こして採掘する人達が一番の苦労人らしいのですが、「一攫千金」は夢で、原石は買い叩かれてしまうのか、それで家族を養う程度の収入しかないらしい。それに引き換え、研磨する人々、販売する人達は、裕福な暮らしをしているのは、一寸複雑に思えました。そう言えば、我が家では貴重石ではありませんが、滞米中に各所で買い集めた石類がありますので、飾り戸棚から数点出して並べてみました。真ん中にあるのは、1980年在米初めての家族旅行で、ロッキー山脈国立公園を訪れた際に購入した水晶です。左には、1981年テキサス州都のオースチン近くにある鍾乳洞Natural Cavernで購入した瑪瑙、その下には1982年グランドキャニオン訪問の際に立ち寄った化石の森(Petrified Forest)国立公園で購入した珪化木です。中央上のバイソンをもした石はデンバー空港で購入したもの、中央下は方鉛鉱ですが、買った年月は定かではありません。右の緑色の鳥頭部を模した石は、カナダ産で「Tamarack Stonecraft」と刻まれていますが、石の種類・購入場所・年月は記憶から消え去っていて、分かりません。
2021.03.09
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近頃は全くロックを聴かなくなりましたが、我が家には、Def Leppard、Bruce Springsteen、Bon Jovi、U2、Van Halen等がある筈ですが、収蔵の整理が悪くて、何処に仕舞ったのか判然としません。先日、Van Halenのギタリスト逝去のニュースがマスコミで報じられましたが、何かロック時代の終焉を迎えているのか、と言った感覚でしかありませんでした。先日、何気なく長男が使っていた空き部屋を観ていましたら、ラックの中に、ロック音楽カセットを見つけました。どうも、1987~1989年は、毎月米国出張していましたので、流行っていたロック音楽を聴いていた様です。SonyのWalkmanを持ち歩いていましたので、CDではなく、折に触れ、Gould演奏のクラシックだけでなくロック音楽カセットを購入して、聴いていたのでしょう!今でもBruce Springsteenは聴いてみたいとは思いますが、他のロック音楽は聴きたいとは思えなく、音楽意欲が老化してしまったと自覚することになりました。
2020.11.10
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多分、ヒューストンに駐在している時、1982年の秋頃、結構大きな蚤の市(Flea Market)があると言うので、行ってみました。其処で、綺麗に使われていたらしいマホガニーが天板の家具を見つけました。値段を聞きますと450ドルと、日本円で9~10万円相当で高価でしたので、「2個セットでなく、単体で250ドルでは如何?」と尋ねますと、「2個セットでないと、家具らしくないので売りません!」とことでしたので、言い値で買うことにしました。マホガニー(Mahogany)とはセンダン科マホガニー属 (Swietenia) に属する樹木で、木材としては導管が大きく柔らかいため加工しやすく、繊維方向に現れるリボン杢と呼ばれる立体的な見た目から高級家具や高級楽器などに使用される木材として知られる。 近年、マフィアやギャングが私有地や国立公園に自生する樹木を違法に伐採し資金源にしていることから、ワシントン条約の附属書IIに登録され、板材や原木を輸出入するには盗品ではないという生産者の証明書類が必要である。米国から帰ってから、小平の社宅を経て1985年に引っ越して来た我が家の壁際にずっと置かれていて、天板2ケ所は電話機や、小物類の置き場になっていて、中空部分には双眼鏡や重さのある器具類を籠に入れて収納、下部はIP電話機やインターネット接続器具類の置き場所になって、早や35年が経過しました。
2020.08.23
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近頃、直属の上司だった先輩が、40年前の苦労話をWordで調製してメールしてくれましたので、興味深く拝読することになりました。その開発した製品を米国に売り込んで来いと言うことで、1979~1983年の4年間、家族帯同で駐在することになりましたのは、家族にとっても大変な出来事でありました。私だけでなく、知人のいない異文化での生活ですから、家族にとっても慣れるまで大変でしたが、その頃は「アメリカ第一主義」ではなく、外国人を受け入れようとする機運もありましたので、何とか駐在生活を乗り切ることが出来たのでした。幸いなことに、業務協定していた米国企業の助けもあって輸出契約にこぎ着けて、何とか使命を果たしての帰国となり、帰国後もその輸出工事の面倒を見る立場になりましたのは致し方ありません。この写真は、工事完了後、現地に派遣した技術指導員2人と撮ったものですが、私が40才代前半、彼等が30才代後半で、働き盛りの頃でした。彼等は、契約上約束した技術指導員スーパーヴァイザーでしたが、現地の工場で労働者に溶け込み、信頼と尊敬を克ち得たのですから大成功だったのです。業務と言うものは、製品だけでなく、担当する人材に依って成否が分かれると言うことが実感出来ましたし、彼等の内一人はその後部門長となって活躍することとなりましたのは嬉しいことでした。
2020.08.21
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NHKBSを観ていましたら、屋久島の縄文杉の様子が紹介されていました。過去には樹齢7000年とされ、世界一の長寿とされていた樹でした。屋久島では樹齢1000年を越えないと「屋久杉」とは認定されない樹ですが、相当数が残されてはいますが、何か老樹と言う感じがしてなりません。其処へ行きますと、アメリカのカリフォルニア州にあるGiant Sequoia国立公園にある、巨樹の森では、壮年の樹と言う感じがします。樹皮が厚く、山火事にも耐えるのもその理由かも知れません。その中でも、最大最高のSequoiaは「シャーマン将軍(General Sherman)の木」と呼ばれ、世界一の容積の樹とされ、樹齢は2200年とされています。樹皮の色も艶やかで、太さと言い、樹高と言い、その威容さが訪問者達を圧倒しています。日本ではスギ、クスノキ、ケヤキ、イチイが長寿の木で、場合によっては2000年以上の寿命とされています。イチョウは日本に入ってから未だ1000年と考えられますが、その生命力の強靱さから遠い将来にはイチョウが最長寿の樹ということになるかも知れません。北海道に多く見られるイチイも2000年位の寿命を有すると思われ、幹周5mもあれば1000年近く経過しているものと考えられます。1966年に縄文杉が世間に紹介され、周辺に生育するスギの成長度合いから導き出した樹齢が7200年と発表されたことがありましたが、屋久島の北方に位置する硫黄島の約6000年前の噴火により屋久島の森林が消失した経緯が判明し、この説はあえなく否定されてしまいました。世界に目を向けると、セコイア、バオバブ、ブリッスルコーンパイン等が長寿の樹で、特に北アメリカ西海岸・ホワイトマウンテンの乾燥した山岳地帯に生えるブリッスルコーンパインは世界最長寿の樹とされています。成長速度が非常に遅く、4700年以上の世界最長寿の木として知られています。
2020.07.19
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ネットで拝借したアサバスカ氷河の画像は、2012~2015年の頃だと思われ、2020年現在では氷河の縮退は激しさを増している様に思われます。未だ、観光雪上バスで氷河の上を散策出来るのでしょうが、そんな観光も何時まで続きますやら定かではありません。アサバスカ氷河(Athabasca Glacier)は、コロンビア氷原(Columbia Icefield)から流れ出す主要な6つの氷河の1つとして数えられ、他は。キャスルガード氷河(Castleguard Glacier)、コロンビア氷河(Columbia Glacier)、ドーム氷河(Dome Glacier)、スタトフィールド氷河(Stutfield Glacier)、サスカチュワン氷河(Saskatchewan Glacier)である。コロンビア氷原から流れ出す氷河は、近年その規模が縮小していて、アサバスカ氷河は近年年間2mから3mのペースで後退を続けている。この125年で1500m以上も後退し、氷河の体積も、その半分以上が失われたことで知られている。2012年現在のアサバスカ氷河は、全長が6km、約6km2の面積を持ち、氷は90mから300mの厚みを持った場所が存在していると見積もられる。アサバスカ氷河は末端部で融解し、アサバスカ川となって流れていっている。1981年8月初旬に訪れた頃のビジターセンターから見たアサバスカ氷河。氷河の末端には未だ池も無く、氷に触ったり、氷上滑り台等も出来たのです。
2020.06.15
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ニューオルリーンズ(New Orleans)は、英仏戦争で英軍包囲を破った聖女ジャンヌ・ダルクが解放したオルレアンに由来する地名だと思われますが、ルイジアナ州に入りますと、フランス雰囲気が濃くなって来る様です。最初の訪問は、1980年の年末年始休暇期間中で、子供達も現地小学校の英語授業にも少し漸く慣れて来た頃で、米国の有名地観光をさせてみようと思ったのでした。ヒューストンの自宅からニューオルリーンズ迄は400miles、これまでで一番のLong Drive、途中3か所の休憩を含めて6~7時間を要しました。着いた夜は、観光馬車で市内見物、翌朝は散歩がてら、カウボーイハットを買って、ミシシッピ川の遊覧船Natchez号に乗り、リバークルーズを楽しみました。その後は、フレンチクオーターで店内からジャズが鳴り響くBourbon Streetを徘徊、聖堂にあるJackson Squareで一休みとしました。此処には、絵描きやらストリートミュージシャンが屯している、観光客の多い中心地です。その後は、河畔にあるCafe du Mondeと言う店で、Beignetと呼ばれるフランス風のドーナツを食しつつ、テキサス州には無い大きなミシシッピ川の河岸散策をして、泊まっているInn on the Bourbon Streetに戻りました。子供達が寝静まった後、家内と共に、Dixieland Jazzの聖地とされるPreservation Hallで生演奏を楽しむことが出来ましたのは、懐かしい良き思い出となりました!
2020.06.06
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BSTVを観ていましたら、コロラドの蒸気機関車の旅が紹介されていました。デュランゴ&シルバートン鉄道にて起点となるSilvertonの街が出て来ましたので、1980年に家族旅行をした街と思いつつ、古い写真アルバムをチェックしましたら、Silver Plumeであったことが分かりました。Silver Plumeが折り返し点のジョージタウン・ループ鉄道は狭軌の短い路線で、初めて飛行機とレンタカーを使っての家族旅行でした。私は10ヶ月、家族は6ヶ月とアメリカ生活に漸く馴染めそうだと思った頃で、長男は現地学校に通っても、英語がチンプンカンプンなのに、登校拒否もせず、よく我慢して通ってくれたことへの慰労の旅行でもありました。翌年には英語を覚え、親から離れた場所での夏キャンプ生活を期待することにしました。当時、私が38才、家内が37才、長男が9才、次男が7才、若さと言うものは素晴らしいもので、どんな難局を打開するだけのヴェクトルがあるのでしょう!1850年代のゴールドラッシュで、州内各地の鉱山と町を結ぶ数々の鉄道として敷かれたコロラド州の鉄道は、その後モータリゼーションの発達により、多くが廃線となったが、現在では、貨物路線のほかにロッキー山脈の大自然や渓谷を走る観光列車として復活をとげ、コロラド州観光の夏期の人気アトラクションとなっている。■カンブレス&トルテック・シーニック鉄道 ※蒸気機関車○アントニート―チャマ間往復○運行期間:5月23日~10月18日 ○所要時間:6時間30分■パイクスピーク・コグ鉄道 ※ディーゼルカー○マニトウスプリングス―パイクスピーク間往復○運行期間:通年 ○所要時間:3時間10分■ジョージタウン・ループ鉄道 ※蒸気機関車○ジョージタウン―シルバープルーム間往復○運行期間:5月23日~10月12日 ○所要時間:1時間15分■リオグランデ・シーニック鉄道 ※蒸気機関車とディーゼル機関車○アラモサ-ラーラベタ間往復○運行期間:5月23日~10月31日 ○所要時間:8時間45分■デュランゴ&シルバートン鉄道 ※蒸気機関車○デュランゴ―シルバートン間往復○運行期間:5月2日~10月31日 ○所要時間:3時間30分■ロイヤル・ゴージ・ルート鉄道 ※ディーゼル機関車○コロラドスプリングス―キャノンシティ間往復○運行期間:5月23日~10月11日 ○所要時間2時間20分
2020.06.04
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外出自粛要請が発令されていますし、天候も曇天ですので、散歩も取りやめて自宅謹慎しています。昨日の3月26日は、10年半前に亡くなった家内との50回目の結婚記念日でしたので、飾り箪笥からアルバムを取り出して観ています。何と言っても、我が家のエポックは4年に亘る米国駐在生活でしたので、ページを捲って懐かしむことが出来ました。親も子も、思いも掛けなかった海外生活に戸惑いながらも生活して、後半2年間は米国生活を楽しむことが出来たと思っています。学校生活に慣れていない子供達を、郊外に連れ出すことにしました。道路端には、テキサス州とされるルピナスの矮性種であるBluebonnetが群生して咲いているのでした。帰国に際しては、日本への最短距離の航空券が支給されましたが、ヨーロッパ経由の航空券に買い替えて、スイスとフランスを訪問することにしました。パリ郊外のベルサイユ宮殿行きの観光バスに乗車し、宮殿門前での記念写真です。4年前は、小さかった子供達も背丈が伸びて、家内と並ぶ様になりました。米国では移動機関が自動車のみで親の都合や制約が多かったのですが、帰国後は米国テキサス州とは違って日本では公共交通機関が発達していますので、子供達も親離れして、自分達の思う様に生活する様になりました。
2020.03.27
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郵便局に行きますと、時々目に付いた記念切手シートを買って来ます。昨日も、日本オーストリア友好150周年記念切手を見つけて購入して来ました。この趣味とも言えない行動は、在米中のCommemorative Stamp購入が切掛けで、1982年発表で、それには全米50州の州花と州鳥が記念切手シートとして発売されたのでした。それに触発されたのか、日本の郵政省(当時)も「ふるさとの花」切手シートを売り出したのは、2011年のことでした。ふるさとの花切手セットを購入47都道府県のふるさとの花が記念切手シートでしたが、日本の都道府県には、県の鳥は指定されていませんので、米国の記念切手には及ばなかった様でした。昨日購入したオーストリア友好150周年切手は10枚切手で、ウィーンやザルツブルクに加えてSalzkammergutらしき景色もあって、懐かしいものでした!
2020.01.11
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晩秋の氷雨が続き、洗濯物が溜まって来ていますが、金曜日から晴れ模様ですので我慢することにします。洗濯機はヒートポンプ乾燥機能があるのですが、衣類がくしゃくしゃになって乾燥しますので、1回切の利用だけで、2度と乾燥させたことはなく、天日干しとしているからです。ふと、40年も前となる米国滞在生活を思い出しました。アメリカでは洗濯物を天日干しする習慣はなく、乾燥機で柔らかく乾燥させた衣類を畳んでお終いとします。賃貸していた住居には、洗濯機と別置きのゆっくりと横型回転する乾燥機が装備されていましたので、現地の習慣を踏襲することにしたのです。そう言えば、アメリカの雨季は、日本の夏雨季と異なり、晩秋から冬の時期だったことを思い出します。1983年の正月は混雑するルイジアナ州ニューオルリーンズを通過してアラバマ州で、美しい海岸と言われるビロキシ(Biloxi)に行ってみることにしました。写真の日付をみますと、1983年1月2日となっていますので、家内は誕生日を翌日に控えた39才、子供達は11才と9才でした。雨模様で寒かったことから、海岸には人出もなく、近郊のHistorical Monumentとして保存されているプランテーションハウスを見学に行ったものでした。
2019.11.27
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9月9日未明、首都圏を襲った台風15号に依る停電被害が襲来から4日経っても復旧していません。幸いにも、直撃を免れた多摩地区には、殆ど被害がありませんでしたが、直撃を受けた伊豆諸島や千葉県では、コンクリート電柱の倒壊、街路樹の倒木等が相次いでいて、復旧作業には支障を来していて、東京電力の甘い復旧見通しに批判が出ている様です。加えて、断水被害も加わる地域も出て来て、電気・水道水と言ったライフライン復旧への事態は改善の兆候が見えない様子が報道されています。私達家族は1979年12月から1983年9月迄、ヒューストン郊外のSpring Branchに住んでいました。2階建てツーバイフォー工法のタウンハウスで、暖炉もある上下200m2の広い家で、ウォークインクローゼット、トイレ2ケ所、浴室2ケ所が装備されていましたので、快適に過ごすことが出来ました。しかし帰国直前の1983年8月には、ヒューストン運河入口にあるガルベストン(Galveston)島に上陸したHurricane Aliciaによる被害で、2週間の停電を余儀なくされました。ヒューストン電力に電話して、復旧見通しを尋ねたのですが、「其処は配送電力会社の管轄ですから分かりません」とのことでした。米国では、発送配電の全てに亘り、規制緩和が施行され、我が家は独立配電会社管轄だったのです。ヒューストンは高温・多湿の酷暑地区ですから、家で寝ることなりますと熱中症になってしまいますので、仕方なくエアコンのあるホテルに泊まり、家に戻って停電を確認しては、又別のホテルを探して泊まり歩いたことがあって大変な思いをしましたが、今では懐かしい思い出となりました。
2019.09.13
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日本三大瀑布と言えば、華厳の滝、那智の滝、袋田の滝とされていますが、尾瀬の三条の滝は水量日本一と思われ、アクセスは悪いのですが一見の価値があります。1963年7月の訪問でした。富士宮にある白糸の滝も、幅広い崖から流れ落ちる滝の流れは、アクセスも良く、美しさ日本一かも知れません。The Water Fall Named "Shiraito"デジカメの録画モードの撮影、15年程前のことでした。世界三大瀑布の一つである、ナイアガラの滝は豪快で、四季を通じて観光客が殺到していますが、あまりに観光地化されている気がします。アメリカでの美しい滝は、ヨセミテ国立公園に多数あり、ヨセミテの滝は上段400m、下段300mで、出色の美しさがあります。1983年7月が最初の訪問でした。カナダではヨーホー国立公園にある、タカカウの滝、アクセスも良く、滝壺近くまで迫れるので、人気があります。1981年7月の訪問、家内38才身長152㎝ですが、子供達は未だ背が低かったのです。タカカウ滝(Takakkaw Falls)は、1965年版の「カナダの公園(Parks Canada)」のパンフレットによれば、落差は約380.4mであるとする。「地理学的調査(Chief Geographer's survey)」によれば、少なくとも372.8m以上であり、デラ滝(Della Falls)、ハンレン滝(Hunlen Falls)に次ぐ落差であるとする。 そして、「ブリティッシュコロンビア州百科事典2000年版(Encyclopedia of British Columbia, 2000)」によれば、実際の落差は254mであり、ブリティッシュコロンビア州内において第2位であると同時に、カナダ国内においても第2位であるとする。
2019.09.11
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毎日の朝食は、トーストにマーガリン(米国ではマージャリンと呼ぶ)とマーマレード、ブルーベリーヨーグルト、珈琲に果物と言う、至ってシンプルなメニューが続いています。ふと古い昔の記憶がよみ返り、40年前に米国駐在となり、家族を迎える4か月間の準備中に食していた、トーストの代わりにビスケットとパンの中間とも思われる食材を思い出したのですが、悲しいことに近頃記憶の抽斗が錆び付いていて、名前を思い出せません。そう言えば、英国のアフタヌーンティーでも食していた筈と、ネット検索している内に、「スコーン」と言う名前であったと思い出すことが出来ました。スコーンは、ビスケットの一種になるのでしょうか、クッキーでは無く、ほろほろ固めのパンのような柔らかい食材でした。この画像はネットで借用したもので、私のものではありません!時々は、スーパーでスコーンの紙筒入りを買って来て、フライパンで温めて食べていたのだと思います。そう言えば、アメリカ人に典型的な家庭の朝食を食べに来ないかと招待されて、その家に伺ったことがありますが、その時のメニューが「スコーンとグレービーソース」だったのです。グレービーソースはソーセージミート入りのホワイトソースでしたし、温かいスコーンの上にかけて食するので、中々の味と食感でした。その家には、「昼食にスパゲッティ-を茹でたので、食べにいらっしゃい」と招待されたこともあり、種々お世話になったことで、アメリカ人の開放的で率直な性格を知ることが出来ましたし、そのお蔭でその後4年間の家族帯同の駐在生活が滞り無く、全う出来たと思っていて、その親切には今でも感謝するばかりです。
2019.08.31
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先日、NHKBSの「世界街歩き」番組はシアトル編でした。シアトルに行きましたのは、1981年12月の震え上がる程寒い気候の時でした。米国カリフォルニア州の製紙会社へのガスタービン輸出がほぼ決まり、契約をするには、前もって親会社の製材会社からの承認が必要なので、製材会社のあるシアトルに行って挨拶と説明することとの要請でした。製材会社も気を利かせて、シアトルでのプージェット湾(Peuget Sound)での湾内クルーズ船をチャーターしてくれたのです。右からガスタービン技術部長、事業部長、チャーター船の船長、製紙会社の受け入れ担当、ガスタービン営業部長の面々です。私はセールスエンジニアとして駐在して、2年経過して、ほぼ契約に漕ぎ着けて、役割を果たせたのではないかとほっとしている状況で40才直前、事業部長、技術部長、営業部長は何れも40才代で、40才代が会社の中核となる日本企業が勢いのある時代でした。寒さの中、UFOらしき展望台があるNeedle Towetにも上って、市内を見渡した記憶はあるのですが、写真類は残っていませんのは残念です。
2019.03.17
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日本でも集中豪雨や地震被害は昨年来顕著になっていますが、それにも増して米国での自然災害は、昨年来猛威を奮っています。昨年秋のカリフォルニアでの山火事、今冬の北東部での北極を超える極低温気象、今度は南部での風速76m/sの竜巻被害です。今朝のNHKBS1でのワールドニュースでは、風速170MHの竜巻で、数え切れない程の家屋破砕に加えて、23名死亡とそれ以上の傷者が出たと報じられています。NWS: EF4 tornado with 170 mph winds hit Lee County, Alabama気象局の発表に依りますと、竜巻のスケールはEF4(尺度定義は知りませんが・・)と巨大で、竜巻の幅は1Mile(1.6㎞)に達し、設置した長さは24Mile(38㎞)となっていたことで、甚大な被害になったと言うことです。従来、竜巻はコロラド州等の中西部に頻発していて、南部はハリケーン被害だけだったと思っていたのですが、気候変動で発生地域が拡大している様です。近頃は、日本でも竜巻の発生が多くなったと報じられていますので、他人事ではありません。
2019.03.05
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米朝会談は“非核化は合意に至らず(No Deal)、協議継続(Further Contact)”と不調に終わりました。北朝鮮が中国と韓国の入れ知恵で。ミサイル・核兵器を保持したまま、完全な制裁解除を求めたことで、米国は非核化に向けて得るものがないと判断した結果の様でした。キャンセルされた昼食会では野菜サラダにサウザンド・アイランド・ドレッシングが使われると言うことで、懐かしく思い出しました。1989年の夏、マサチューセッツ州のWatertownのDynapowerと言う会社に発注したIM5000ガスタービンの油圧(Hydraulic)スターター&ポンプの立会検査に行き、検査も滞りなく無事完了したので、セントローレンス河を渡ってカナダの首都オタワを再訪、其処で一泊してから日本に帰国することにしました。セントローレンス河は無数の島(Thousand Islands)が散在し、遊覧クルーズも出来るのです。サラダドレッシングで“サウザンド・アイランド(千の島)”はそこで考案されたドレッシングなのです。カナダの首都オタワはオンタリオ州にある小さく美しい町です。オタワ川にそって議事堂、政府建物、外国公館等が並び、対岸には美術館、ノートルダム教会等があって、静かに観光するには良い所です。国を代表する議事堂は、国内に産出する岩石を使っていますが、その石灰岩は無数の小さな動物が封じ込められた化石なのに驚かされます。内部は何となくシックな雰囲気で、美しいステンドグラスもそれを盛り立てます。オタワ川の対岸にある付属する国会図書館も必見で、カナダ産の美しい木材で書棚・柱が構成された美しい円形の図書館となっています。
2019.02.28
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