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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2011.05.10
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 玄奘三蔵の名は知らなくても、親しみをこめていう三蔵法師の呼び名は皆が知っています。

 同様に玄奘訳の般若心経は今日にも親しまれています。

 玄奘三蔵の生涯は、忘れかけている情熱やロマンを現代に蘇らせます。

 ”玄奘”(1994年10月 清水書院刊 三友 量順著)を読みました。

 中国、唐代の仏教学者で大旅行家、大翻訳家として著名な法相宗開創の祖、玄奘の生涯と時代背景を詳しく紹介しています。

 三友量順さんは、1946年東京都生まれ、東京大学大学院人文科学研究科印度哲学専修課程修了、学術博士(Ph.Dデリー)、初期大乗仏教を専攻し、立正大学仏教学部教授、放送大学講師などを歴任しました。

 玄奘は戒名で、俗名は陳、尊称に三蔵法師、玄奘三蔵などがあります。

 602年に、父慧の四男末子として誕生、幼にして敏、つねに古典に親しみました。

 陳をその氏姓とする河南省の出身です。



 11歳前後で父を失ったのち、すでに出家していた兄長捷につき、洛陽の浄土寺に住みました。

 614年に度僧の勅に応じ、人選の大理卿、鄭善果に才を認められて出家し、以後も浄土寺にとどまり、景法師や厳法師より涅槃経、摂大乗論を学びました。

 618年に兄に勧められて洛陽から長安に移り荘厳寺に住みましたが、政変直後の長安仏教界に失望し、翌年、兄とともに蜀に向かい成都に行きました。

 622年に具足戒を受けてのち各地に高僧を訪ね、翌年ふたたび長安に戻り、大覚寺に住んで道岳法師より倶舎論を学びました。

 624年に法常と僧弁の摂大乗論の講筵に列し、両師から大いにその将来を嘱望されましたが、国内における仏教研究の限界に目覚め、諸種の疑点解明のためインド留学を決意し、その準備に専念しました。

 国外出立の公式許可を得ることはできませんでしたが、627年にひそかに長安を出発し、天山南麓を経由してヒンドゥー・クシ山脈を越えインド北辺から中インドに入り、630年ついにマガダ国のナーランダー僧院に至り、シーラバドラ法師と対面しました。

 以後、法師について瑜伽師地論を中心に学び、635年にいったん師のもとを去り、東インド、南インド、西インドを経由してインド半島一巡の旅を終えました。

 638年ナーランダー僧院に戻り、師と再会し、その後、近辺の諸師について学びました。

 640年に東インドのクマーラ王の招聘を受け、彼の王宮に1か月ほど滞在し、中インドのシーラーディーティヤに招かれ、翌641年プラヤーガでの75日の無遮大会に参列しました。

 のち帰国の途について、645年(一説に643年)長安に帰りました。

 玄奘三蔵の活躍した時代は、隋末からさらに中国文化の爛熟期ともいうべき唐代にかけてでした。



 この時代には、日本と中国とは遣唐使を通じて親密な交流が続きました。

 これに先立つ遣隋使の時代には、わが国では聖徳太子によって仏教が為政行の政治理念に積極的に活かされました。

 当時、日本から遣唐使とともに唐に渡り、玄奘三蔵から直接に法相の教理を学んで帰国した僧侶が道昭です。

 道昭の門下には社会事業に貢献した行基がいます。

 その後の奈良時代、平安時代を通して、中国唐代の社会制度や文化が日本に多大な影響を及ぼしました。






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Last updated  2011.05.10 19:52:26
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