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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2011.12.20
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 ”六十一歳の大学生、父野口富士夫の遺した一万枚の日記に挑む ”(2008年10月 文藝春秋社刊 平井 一麥著)を読みました。

 サラリーマン生活が終わった後に実父の野口富士夫の遺した日記を読みながら整理していく様子を伝えています。

 父親の残した日記は、永井荷風の「断腸亭日乗」にも比肩しうる膨大なものでした。

 そこには、貧乏と病気に苦しむ一家族の戦後史が眠っていました。

 平井 一麥さんは、1940年東京生まれ、父親は作家の野口冨士男さん。

 1964年に慶應義塾大学法学部法律学科を卒業して京成電鉄入社し、1978年に東京ディズニーランドを運営するオリエンタルランド社に出向し、2002年3月にサラリーマン生活を終え、4月に、慶應義塾大学文学部社会学専攻に学士入学し、指導教授のすすめで大学院で研究をつづけました。

 野口冨士男さんは1911年東京麹町生れ、1913年に両親が離婚、慶應義塾幼稚舎では同級生に岡本太郎がいて、慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学文学部予科に進みますが、留年し、1930年に中退、1933年に文化学院文学部を卒業しました。

 卒業後、紀伊国屋出版部で「行動」の編集に当たりましたが、1935年に紀伊国屋出版部の倒産に伴って都新聞社に入社し、昭和10年代に同人雑誌に執筆し、1936年から1937年まで河出書房に勤務し、1937年母方の籍に入って平井姓となりました。

 第二次世界大戦末期に海軍の下級水兵として召集され、営内で日記を密かに付けました。



 次いで、無収入同然で秋声の伝記を執筆し、そのころ、東京戸塚の自宅の一部を改造して学生下宿を営みました。

 1965年に毎日芸術賞、1975年に読売文学賞、1980年に川端康成文学賞、1982年に日本芸術院賞、1986年に菊池寛賞を受賞し、1987年に芸術院会員となり、1984年から日本文藝家協会理事長を務めました。
 著者は1949年に小児結核になり、当時、輸入がはじまったばかりで高価だったストレプトマイシン注射で一命をとりとめたそうです。

 小説家の父親はほとんど書けず無収入状態で、父の書籍や母の着物などを売りに売って、なんとか生計を維持していたとのことです。

 小学校高学年から中学に入りたてのころ、作家とはあまりに辛く、むごい生活であることを知ったため、決して作家になることだけはやめようと思ったといいます。

 だた、日記を整理し小説やエッセイを読んでみると、生き方には通じるものがあると思ったそうです。

 父親には父親なりの考えがあって、自筆年譜には病気のことや麻雀屋をやっていたことは記されていないといいます。

 本書には、その事情や母親の献身的な苦労も書かれています。

 1993年3月に母親が78歳で亡くなり、父親は同年11月に82歳の生涯を閉じました。

 著者は、当時、52歳でケーフルテレビ会社勤務だったそうです。

 2005年に誕生日を迎えたとき65歳になることに気づいて、大学院生活を中断して父親の日記整理の生活にシフトしたそうです。



 日記はプライベートなものなので、公開すると差しさわりがありそうな部分もあり、検討しながら日記をパソコンに打ら込んでいきました。

 あっという間に2年半経ち、整理した日記は原稿用紙一万枚分を超えていたそうです。

 2010年に古希なので、父親の日記が近い将来公刊されることを祈っているといいます。

第1章 六十一歳の大学生
第2章 父の遺した日記が一万枚

第4章 わが家には完全に金がなくなった
第5章 スランプ
第6章 生きねばならぬ
第7章 文壇は甘くない
第8章 穴ごもり
第9章 目標の七十歳を過ぎて
第10章 定年のない文学者
第11章 父なりのダンディズムを貫き通せたのは・・・






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Last updated  2011.12.20 19:37:19
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