心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2013.04.30
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 津田左右吉は、地道に研究を重ねて学問上の見果てぬ夢を追い続けた稀有な歴史学者、思想史家でした。

 戦時中、迫害と弾圧によって、日本書紀、古事記に関する著書をめぐる裁判で有罪判決を受けましたが、思想的姿勢は、戦前・戦中・戦後と一貫して変わらず真実を追い求め続けました。

 終戦前後の5年間を岩手の平泉ですごし、著作の改訂作業などに明け暮れました。

 ”津田左右吉と平泉-見果てぬ夢-”(2002年3月 森の本社刊 小野寺 永幸著)を読みました。

 著名な歴史家、思想史家、文学博士である津田左右吉が岩手の平泉で過ごした5年間を紹介しています。

 小野寺永幸さんは、1925年に岩手県で生まれ、元中学校校長で、現在、東北史学研究所所長です。

 津田左右吉は1873年に岐阜県美濃加茂市下米田町で尾張藩家老竹腰家の旧家臣津田藤馬の長男として生まれました。

 名古屋の私立中学を中退し、1891年に早稲田大学の前身、東京専門学校の邦語政治科を卒業しました。

 卒業後、沢柳政太郎の庇護を受け、白鳥庫吉に紹介されて西洋史教科書作成に協力するとともに、千葉、独協などの中学教員を歴任しました。



 調査室での文献批判的実証研究の経験と討論は、学問的研究の出発点となりました。

 その後、日本歴史の大勢を背景として、単に文芸作品のみでなく、広く美術・芸能をも含めて国民の思想・文化・生活の展開を通して、国民思想が中国思想など外来の思想の影響を受けつつ、独自のものを展開してきたことを跡づけました。

 1918年に早稲田大学講師に就任し、東洋史、東洋哲学を教え、1920年に早稲田大学文学部教授に就任しました。

 神武天皇以前の神代史を研究の対象にして史料批判を行い、日本上代史研究などで旺盛な執筆活動を行いました。

 1939年に東京帝国大学法学部講師を兼任しましたが、研究内容が不敬罪にあたるとして当時の右翼から攻撃されました。

 1940年に、政府から、『古事記及び日本書紀の研究』『神代史の研究』『日本上代史研究』『上代日本の社会及思想』の4冊を発売禁止の処分にされ、早稲田大学教授も辞職させられました。

 津田と出版元の岩波茂雄は出版法第26条違反で起訴され、1942年に禁錮3ヶ月、岩波は2ヶ月、ともに執行猶予2年の判決を受けました。

 津田は控訴しましたが、1944年に時効により免訴となりました。

 1945年6月に岩手の平泉に疎開し、同年8月に日本は無条件降伏して太平洋戦争に敗戦しました。

 戦後は熱狂的に学界に迎えられましたが、主な研究・文筆活動は平泉で行いました。

 神話である皇国史観を否定する津田史観は、第二次世界大戦後の歴史学の主流となり、敗戦による価値観の転換を体現する歴史学者の代表となりました。



 1950年に平泉から武蔵境に転居し、主な研究・文筆活動の中心をここに移しました。

 そして、1961年に武蔵境の自宅でこの世を去りました。

 津田の学問的生涯の根底には自由の精神が見られますが、自由の精神の幅をさらに広げ戦後への飛躍をこころみたのは平泉でのことでした。

 陸奥国は古代、日高見の国さらに蝦夷の住む国と呼ばれ、中央律令国家の征服の対象となり、長い間、抵抗の戦乱が続きました。

 12世紀には、藤原清衡・基衡・秀衡によって平泉周辺が栄え、一時は半独立国家の様相を呈しました。



平泉疎開の記
津田博士の戦争観
津田博士のおいたち
弾圧と迫害
津田博士の戦後
津田博士の見た平泉文化






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2013.04.30 17:02:44
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: