心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2015.04.19
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 幕末期に豊後日田の生んだ日本最大の私塾咸宜園の創立者に、広瀬淡窓という人がいます。

 ”広瀬淡窓”(2002年1月 西日本新聞社刊 深町 浩一郎著)を読みました。

 1782年に豊後国日田で博多屋三郎右衛門の長男として生まれ、名は建、字は子基、通称は求馬、別号に苓陽青渓、遠思楼主人などがあります。

 深町浩一郎さんは、1951年日田市生まれ、1970年に日田高等学校を卒業、1974年に鹿児島大学法文学部法学科を卒業し、大分県庁に就職し長く地方の行政に携わりました。

 広瀬淡窓は少年の頃より聡明で、10歳の時、久留米の浪人で日田代官所に出入りしていた松下筑陰に師事し、詩や文学を学びました。

 13歳のとき、筑陰が豊後佐伯毛利氏に仕官したため師を失ない、16歳の頃に筑前の亀井塾に遊学し亀井南冥、昭陽父子に師事しました。

 その後、大病を患い19歳の暮れに退塾し帰郷し、一時は命も危ぶまれましたが、肥後国の医師倉重湊によって命を救われました。

 病気がちであることを理由に家業を継ぐのを諦めて、弟の久兵衛に商売を任せ、一度は医師になることを志しますが、倉重湊の言葉によって学者、教育者の道を選びました。
 1805年に長福寺に初めの塾を開き、これを後の桂林荘咸宜園へ発展させました。



 入学金を納入し名簿に必要事項を記入すれば、身分を問わず誰でもいつでも入塾できました。

 また、三奪の法によって、身分、出身、年齢などにとらわれず、全ての塾生が平等に学ぶことができるようにされました。

 咸宜園では四書五経のほかにも、数学や天文学、医学のような様々な学問分野にわたる講義が行われました。

 毎月試験があり、月旦評という成績評価の発表があり、それで入学時には無級だったものが一級から九級まで成績により上がり下がりしました。

 塾生は遠方からの者も多かったため、寮も併設されました。

 全国68ヶ国の内、66ヶ国から学生が集まりました。

 江戸時代の中でも日本最大級の私塾となり、80年間で、ここに学んだ入門者は約4,800人に及びました。

 淡窓の死後も、弟の広瀬旭荘や林外、広瀬青邨等以降10代の塾主によって明治30年まで存続、運営されました。


 淡窓の指針である敬天とは、人間は正しいこと、善いことをすれば天から報われるとする敬天思想です。

 咸宜園の門生に、高野長英・大村益次郎・長三洲等がいます。

第1章 広瀬淡窓の生涯

第3章 詩人としての広瀬淡窓第4章 儒学者としての淡窓






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2015.04.19 07:45:25
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: