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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2016.05.17
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 スペイン内戦は、第二共和政期のスペインで勃発した内戦です。

 マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍とが争いました。

 反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈しなした。

 ”スペイン内戦-政治と人間の未完のドラマ”(2003年7月 講談社刊 川成 洋著)を読みました。

 ファシズム台頭への不安、共産主義革命への期待の中、1936年にクーデターに端を発して勃発したスペイン内戦の一部始終を紹介しています。

 川成 洋さんは1942年北海道生まれ、1966年に北海道大学文学部を卒業し、1969年東京都立大学英文学専攻大学院修士課程修了、ロンドン大学・ケンブリッジ大学客員研究員を経て、1977年より法政大学教授を務めました。

 2003年に社会学博士号取得、2013年に定年となり名誉教授、専門は、スペイン現代史、現代英文学です。

 1988年10月に、バルセロナで国際旅団の解散50周年を記念したイベントが聞かれました。

 バルセロナ北部の公園の一隅に、12メートルの抽象的な像が建っています。



 会場には、500席くらいの椅子が並べられ、参加者はおそらくその倍くらいでした。

 まず、今は亡き共和国の指導者、国際旅団の義勇兵たちへの追悼の辞が述べられ、92歳のスペイン共産党議長ドロレス・イバルリの歓迎の辞が代読されました。

 続いて、各国の国際旅団の代表者が力強く短い演説をしました。

 最後に、バルセロナ市長パスカル・マラガルの手によって、記念碑の除幕が行なわれました。

 第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上、カタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていました。

 そのため、一時はプリモ・デ・リベーラによる軍事独裁政権も成立しました。

 1931年に左派が選挙で勝利し、王制から共和制へと移行しスペイン第二共和政が成立しました。

 しかし、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回するなど、左派と右派の対立が続きました。

 1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で従来あらゆる政府に反対する立場から棄権を呼びかけていた無政府主義者達が自主投票に転換しました。

 その結果、再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャを大統領、サンティアゴ・カサーレス・キローガを首相とする人民戦線政府が成立しました。

 しかし、人民戦線も議会制民主主義を志向する穏健派と、社会主義・無政府主義革命を志向する強硬派が存在し、決して一枚岩ではありませんでした。



 内戦は1936年7月17日から1939年4月1日まで続き、スペイン国土を荒廃させ、共和国政府を打倒した反乱軍側の勝利で終結し、フランシスコ・フランコに率いられた独裁政治を樹立しました。

 フランコ政権の政党ファランヘ党は自らの影響力を拡大し、フランコ政権下で完全なファシスト体制への転換を目指しました。

 内戦中、政府側の共和国派の人民戦線軍はソビエト連邦とメキシコの支援を得、西欧諸国の個人から多くの義勇兵を得た一方、反乱軍側である民族独立主義派の国民戦線軍は隣国ポルトガルの支援だけでなく、イタリアとドイツからも支援を得ました。

 この戦争は第二次世界大戦前夜の国際関係の緊張を高めました。

 国家間の貪欲なエゴが展開される中、55ヵ国4万人におよぶ海外からの大量の義勇兵が苛酷極まる闘いに身を投じました。



 マドリード防衛戦、ハラマ川の戦いなどで、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍や、同じく義勇軍を称していたドイツ軍・イタリア軍と戦いました。

 部隊には延べ6万人の男女が参加し、うち1万人以上が戦死しました。

 総参加者の内60-85%が各国の共産党員であり、また参加者の社会階層としては知識人や学生が20%、労働者が80%でした。

 マルローやヘミングウェイなどの文化人が指導的立場にあたりました。

 実態はコミンテルン主導の派遣軍であり、第二次世界大戦の前哨戦としての側面を強く象徴する集団でした。

 1937年に入って戦況が悪化し、フランシスコ・フランコ率いる反乱軍がドイツ・イタリアに支援されて首都マドリードに迫ると、コミンテルンの決議により、外国人による部隊の編成が行われることとなりました。

 この年、パブロ・ピカソがビスカヤ県ゲルニカの都市無差別爆撃を主題に絵画や壁画を描きました。

 また、ジャック白井という日本人がブルネテの戦いで戦死しています。

 途中から、共産党員以外は共和国政府による粛清の対象となり投獄されたり射殺されたりしたため、結果的に、共産党員だけが最後まで参加したことになります。

 カタルーニャからは、冬のピレネーを越えてフランスに逃れた亡命者が数多く出ました。

 その直後に第二次世界大戦が始まり、フランスがドイツによって占領されました。

 第二次世界大戦後も、人民戦線派への弾圧は続きました。

 共和国政府はスペイン共和国亡命政府として、メキシコ、次いでパリにて存続しました。

 1975年のフランコの死後国王となったフアン・カルロス1世が独裁政治を受け継がず、1977年のスペイン国会総選挙で政治の民主化路線が決定づけられるまでその命脈を保ちました。

 亡命政府は総選挙の結果を承認し、大統領ホセ・マルドナド・ゴンザレスが政府の解消を宣言し、フアン・カルロス1世はマドリードにて亡命政府元首承継のセレモニーを行ない、形式的に二つに分かれていたスペイン政府の統一が果たされました。

1もう一つのオリンピック/2国際義勇軍部隊の誕生/3第五連隊の創設/4緒戦の推移/5スペイン不干渉委員会/6ピレネーを越えて/7革命の都市、バルセロナ/8国際旅団の誕生/9初陣-マドリード防衛戦/10後続の国際旅団の誕生/11ハラマ河の戦闘/12グアダラハラの戦闘/13ゲルニカ/14国際旅団の休息/15バルセロナの市街戦/16ブルネテの戦闘/17唯一の日本人義勇兵の戦死/18テルエルの攻防戦/19エブロ河の決戦/20国際旅団の解散、帰国または亡命/21スペイン内戦の終結/22第二次大戦と元義勇兵たち/23第二次大戦以降-アメリカとイギリスを中心にして






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Last updated  2016.05.17 08:17:00
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