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飛鳥はかつて大和国高市郡にあった地域で、現在の奈良県高市郡明日香村大字飛鳥周辺を指しました。
”古代飛鳥を歩く”(2016年4月 中央公論社刊 千田 稔著)を読みました。
この国の原点というに相応しい飛鳥とその周辺を歩き、多くの写真とともに当時の歴史を紹介しています。
当時、飛鳥と称されていた地域は、飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たるあまり広くないところと考えられていました。
今日では、飛鳥川の上流や下流、さらに高取川流域地域までを含み、明日香村一帯、あるいはその近隣までを含むとされることもあります。
千田 稔さんは1942年奈良県生まれ、京都大学卒業、同大学院文学研究科博士課程を経て追手門学院大学、奈良女子大学、国際日本文化研究センターで教授等を歴任しました。
現在、奈良県立図書情報館長を務めています。
6~7世紀の飛鳥時代は危機と動乱の時代でした。
仏教伝来、蘇我氏の台頭と聖徳太子の理想、斉明女帝の大公共工事、大化改新、壬申の乱、そして平城京遷都などがありました。
かつて飛鳥には、天皇の宮がおかれたことが多かったです。
推古天皇の592年の豊浦宮での即位から、持統天皇の694年の藤原京への移転までの、約100年間を日本の歴史の時代区分として、飛鳥時代と称しています。
永らく日本の政治・文化の中心地でしたので、宮殿や豪族の邸宅などがたちならび、帰化系の人々も段々と付近に居住するようになりました。
なかでも、のちに有力氏族に成長した阿智使主を氏祖とする東漢氏が、はやくから飛鳥に近い檜隈に居をかまえていました。
6世紀半ばには、飛鳥周辺に仏教が伝来して文化が発達していきました。
7世紀には、飛鳥は古代日本の政治と文化の中心地となり、都市機能の整備がおこなわれるなど宮都の様相を呈していました。
飛鳥時代には、豊浦宮が飛鳥の西方、飛鳥川をはさんだ対岸に置かれました。
また、小墾田宮は飛鳥の北側の小墾田と称される地域にあったとされています。
飛鳥を散策すれば、当時の人々の息吹を感じとることができます。
飛鳥を歩きながら立ち止まって歴史に思いをいたすと、飛鳥の時代と現代の両者が相似ているのに気づく、といいます。
飛鳥の時代は、文化や政治体制が隋・唐といった中国大陸や朝鮮半島から渡来し、近現代においては、欧米文化がもたらされたという事実が見られます。
つまり日本という国の大きな歴史的節目が、どちらも海外からのインパクトによって成立したということです。
ただ、それは表面的な点においてであり、飛鳥の場合、文化・政治における根幹は仏教であり、仏教で国を守る鎮護国家という思想が理想として掲げられました。
同時に天皇をはじめ政治にたずさわる人たちのスタンスは、儒教でた。
徳のあるものこそ、政治に関与すべきだと理念的に考えられました。
近現代は、芸術・医学・理学などの学術、工学などのアートとテクノロジーが欧米からせきを切ったように、わが国に流れ込みました。
しかし、それらの基層にあるキリスト教の思想をほとんどともなうことはありませんでした。
飛鳥時代の風景からは、渡来文化とはいえ、そこに積極的にココロを入れようとした当時の人々の営みが読み取れます。
近現代のそれは、ココロよりも、形骸化したモノをむさぼりつつ今日に至りました。
この国の精神的土壌は、ないがしろにされたままでした。
飛鳥を歩きつつ、日本を考え日本人を考えます。
一体、われわれは、どこに向かおうとしているのでしょうか。
飛鳥を歩くというのは、古代の歴史的痕跡をたどることではありません。
日本のあり処を探ることなのです。
飛鳥を深く知るには、歩くことがよい。
古代の人が歩きながら、風景に目をやり思ったことを追体験するのです。
近鉄吉野線の飛鳥駅から歩きはじめるのが、一般的なコースです。
一日で飛鳥をすべて見て回ろうとしても、それは無理なことです。
本書では、観光あるいは見学コースに沿って述べることはしません。
飛鳥とその周辺の古代の出来事を、年代を追って、現場の風景の前にたたずみながら、日本の歴史において飛鳥とは何かを語っていくつもりである、ということです。
1 飛鳥とは/ 2 素顔の蘇我氏/ 3 聖徳太子と推古天皇/ 4 舒明天皇と息長氏/ 5 大化の政変/ 6 斉明天皇と水の祭祀/ 7 壬申の乱/ 8 持統天皇と藤原京/ 9 古寺をめぐる/ 10 墳墓と遺跡