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がん医療の第一人者が医師としてがん経験者としてまたがんで妻を亡くした夫として、がんと人生を語っています。
”がんと人生-国立がんセンター元総長、半生を語る-”(2011年12月 中央公論新社刊 垣添 忠生著)を読みました。
著者の垣添忠生さんは2011年現在70歳で、そのうち、国立がんセンターに32年間勤務したそうです。
その前後のがんとの関わりを加算すると、40年になるとのことです。
それはくしくも、奥さまとの結婚生活の期間でもあったといいます。
1941年大阪府に生まれ、1967年東京大学医学部を卒業し、1980年東京大学より医学博士の学位を授与されました。
その後、都立豊島病院、東京大学医学部泌尿器科助手などを経て、1975年より国立がんセンター病院に勤務しました。
同センターの手術部長、病院長、中央病院長などを務め、2002年総長に就任しました。
2007年に退職し、名誉総長となりました。
公益財団法人日本対がん協会会長、財団法人がん研究振興財団理事を務めました。
専門は泌尿器科学ですが、すべてのがん種の診断、治療、予防に関わってきました。
がん関連の審議会や検討会などの委員、座長などを数多く務めました。
国立がんセンター田宮賞、高松宮妃癌研究基金学術賞、日本医師会医学賞、文部科学大臣表彰科学技術賞などを受賞しました。
著者は、人生はブラウン運動、つまり分子のゆらぎそのものだと思うといいます。
分子と分子がぶつかって、思いかけない方向に飛んでいきます。
生き物に対する関心から医学部に進みました。
医師になって泌尿器科を専攻し、中でもがんを最大の関心事に選み、誰の指導をどう受け、どんな患者さんに会い、どんな病態を目にしたか、その都度、人生は思いかけない方向に展開したそうです。
奥さまとの出会いも、ブラウン運動そのものであろうといいます。
がんとの40年、妻との40年が、いままでの自分を創ってきました。
これからもう10年も生きることかできたら、十分だと考えているとのこと、遺言書をはじめ、自分の身終いの準備を着々と進めているそうです。
しかし、生きている間は、ボランティアではありますが、日本対がん協会の会長として、民間でできる対がん活動、すなわちがん経験者、家族、遺族を支援する活動を続けたいといいます。
国の対がん戦略と、民間の対がん活動ががっちり手を組めば、血の通ったがん対策か進むことになります。
そのためには、日本対がん協会を皆様にもっと認識いただきたい。
寄附をいただいて財政基盤を強くして、さらにがん患者、家族、遺族を支援する活動を広げたい。
現職中から願ってきた、がん検診と、がん登録を国の事業にすることが目標です。
これに加え、がんの在宅医療、在宅死を希望する人にそれを届ける体制の構築、および、悲しみや苦しみを癒すことを希望するがん患者の遺族を支援するグリーフーケアの実現もあります。
この4つの目標の実現に向けて、生ある限り、努力したいといいます。
がんは、現在わが国で最も恐れられ、しかも同時に、どなたも無縁ではいられない病気です。
一生のうち、2人に1人ががんになり、がんになった人の約半数か亡くなります。
現代人にとって、がんは恐ろしく、かつ普遍的な病気と言えます。
著者は医師として、がん診療に約40年にわたって携わってきました。
また、30代から40代半ばにかけて15年間、国立がんセンター研究所で、がんの基礎研究にものめり込みました。
当時の臨床は今ほど忙しくありませんでしたから、自分の時間を削って二足のわらじを履いたのです。
また、自分自身、がんを2回経験したそうです。
1回目は国立がんセンター中央病院長時代に大腸がんです。
これは内視鏡切除により一日も休むことなく治りました。
2回目は総長時代のこと、センター内に厚生労働省の理解を得て、がん予防・検診研究センターを新設しましたが、ここを体験受検した際に、左腎がんが見つかり、左腎部分切除術を受けました。
どちらも無症状のうちに早期発見し、完治しましたが、自分自身が、がん患者、がん経験者でもあったことになります。
また、奥さまの3度目のがんの、わずか4ミリで発見された肺の小細胞がんを治せませんでした。
陽子線治療により完治したと思えたがんが、肺門部に再発し、当時の最強の治療を行いましたが、再々発し、全身に転移して亡くなりました。
奥さまは、若い頃から膠原病の一種、SLEをもっていて病弱だったため、若い頃から掃除、洗濯、買物、料理、ゴミ出しなどをして、家事をかなり分担してきたそうです。
これが、妻が亡くなった後、何とか自立できた大きな理由の一つでしょう。
1995年3月、声がしわがれてきたことを契機に発見された甲状腺がんに対して、国立がんセンターで甲状腺右半分切除術と、頚部リンパ節廓清術を受けたそうです。
2006年7月には、左肺腺がんか見つかり、左肺部分切除術を受けました。
いずれのがんも手術で完治したと考えられるということです。
2006年3月、右肺下葉の真ん中に、4ミリほどの異常陰影が見つかりました。
あまりに病巣が小さいので、異常所見ではありますが、国立がんセンター中央病院の呼吸器診断の名手にも診断がつかず、経過観察を受けることとなりました。
3ヶ月後の検査では、何も変化は認められませんでした。
しかし、2006年9月、6ヶ月後のCT検査では、小病巣は4ミリから6ミリに増大し、形もダルマさんのように、ややイビツに変形か認められました。
がんだと確信され治療に入り、手術を選択すると、右肺下葉切除術となり、術後の呼吸機能障害が心配されました。
外科医と放射線治療医が種々議論した結果、千葉県柏市にある国立がんセンター東病院で、陽子線治療を受けることとなりました。
2006年9月から10月、東病院で約1カ月、陽子線治療を受けて、小病巣は見事に消えました。
しかし、その約6ヶ月後、2007年3月、右肺門部リンパ節に1つ、転移が見つかりました。
恐らく小細胞肺がんだろう、と主治医に告げられました。
予後不良のがんであり、以後は抗がん剤治療を受けることになり、薬の選択のためにも組織の確認が必須でした。
CTガイド下の針生検で、やはり小細胞肺がんの肺門部リンパ節転移と診断されました。
2007年3月から6月まで、1カ月に1回、シスプラチンとエトポシドの2剤併用による化学療法を受け、7月には、さらに肺門部リンパ節に対して放射線療法が追加されました。
しかし、10月にCT、MRI、PET検査などで、多発性の脳、肺、肝、副腎転移か確認されました。
治るどころか、がんは全身に広がったのでした。
2007年10月から12月、国立がんセンター中央病院に入院し、たくさんの公務がありましたが、朝、昼、夕と、可能な限り妻の病室で過ごし、会話しケアしました。
結婚生活40年のうちで、最も濃密に関わった最も時間を共有できた3ヶ月だったといいます。
2007年12月28日から2008年1月6日まで、病院は年末年始の休暇に入り、12月28日昼頃、自宅に連れて帰り、29日から容態はどんどんと悪化し、30日には意識不明となりました。
31日の午後から担当医に往診をお願いしましたが、担当医の到着前に亡くなったといいます。
本書は、自分自身のエッセイに、読売新聞の”時代の証言者”に27回にわたって連載を加えたものです。
文字通り、がんとの半生記です。
第一部がんと人生/私の診療観/患者さんのこと/避けられる不幸/がん経験者/病気になっても安心な国/国立がんセンターに働く人々/旧棟と新棟/臨床研究/トロント留学/研究所時代/東日本大震災/幼い頃/小学校/桐朋時代/空手/学生運動/居合/妻のこと/酒/山/カヌー/妻の病い/喪失と再生
第二部 時代の証言者