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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.08.03
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 柳宗悦は民藝の美の発見者として広く知られてきました。


 ”柳 宗悦・「無対辞」の思想”(2018年5月 弦書房刊 松竹 洸哉著)を読みました。


 民衆的工芸である民藝の美の発見者で日本民藝館を創設した柳 宗悦の、無対辞=一(いつ)なる美一(いつ)なる思想の核心に迫ります。


 民藝とは一なる美、つまり、根源の美の提示でした。


 しかし無対辞の一なる思想、すなわち、存在するものの一切を全肯定する思想が顧みられることはほとんどありませんでした。


 民藝の思想の核心にあったのは、世界を美醜正邪に分けて二元的にとらえる近代思想を超えようとするものでした。


 本書は、雑誌”道標”28号(2010年春)から58号(2017年春)にかけて連載された全15回の、”柳宗悦ノート”を下敷きにしています。


 恩師と仰ぐ渡辺京二氏に出版のことを強く薦めていただき、弦書房に刊行を引き受けていただいたといいます。


 弦書房は福岡県福岡市中央区に本社を置く人文系の出版社で、地元九州や山口関連の著作を多く刊行しています。


 松竹洸哉さんは1946年に福岡県八女郡で生まれ、1964年に福岡県立八女工業高電気通信科を卒業しました。


 職業遍歴を経て、1973年に福岡県小石原焼早川窯、ついで上野焼英興窯で焼き物の修行をしました。


 1976年に熊本県菊池市で独立開窯し、1990年まで個展、グループ展、公募展等で作品を発表し、2000年以降は個展のみを行っています。


 柳宗悦は1889年に東京府麻布区市兵衛町二丁目において、海軍少将・柳楢悦の三男として生まれました。


 旧制学習院高等科を卒業ごろから同人雑誌”白樺”に参加しました。


 東京帝國大学哲学科に進学し宗教哲学者として執筆していましたが、西洋近代美術を紹介する記事も担当しました。


 やがて美術の世界へと関わっていき、ウォルト・ホイットマンの直観を重視する思想に影響を受け、芸術と宗教に立脚する独特な柳思想の基礎となりました。


 1913年に東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業し、1914年に声楽家の中島兼子と結婚しました。


 母・勝子の弟の嘉納治五郎が千葉・我孫子に別荘を構えていたため、宗悦も我孫子へ転居しました。


 やがて我孫子には、志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派の面々が移住し、旺盛な創作活動を行いました。


 陶芸家の濱田庄司との交友も、この地ではじまりました。


 白樺派の中では、西洋美術を紹介する美術館を建設しようとする動きがあり、宗悦たちはそのための作品蒐集をしていました。


 フランスの彫刻家ロダンと文通して、日本の浮世絵と交換でロダンの彫刻を入手しました。


 宗悦が自宅で保管していたところ、朝鮮の小学校で教鞭をとっていた浅川伯教が、その彫刻を見に宗悦の家を訪ねてきたそうです。


 浅川が手土産に持参した染付秋草文面取壺を見て、宗悦は朝鮮の工芸品に心魅かれました。

 1916年以降たびたび朝鮮半島を訪ね、朝鮮の仏像や陶磁器などの工芸品に魅了されました。

 1924年にソウルに朝鮮民族美術館を設立し、李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器を展示しました。


 民藝運動は、1926年の日本民藝美術館設立趣意書の発刊により開始された、日常的な暮らしの中で使われた手仕事の日用品の中に、用の美を見出し、活用する日本独自の運動です。


 21世紀の現在でも活動が続けられています。


 日本民藝館の創設者であり民芸運動の中心人物でもある柳宗悦は、


 日本各地の焼き物、染織、漆器、木竹工など、無名の工人の作になる日用雑器、

 朝鮮王朝時代の美術工芸品、江戸時代の遊行僧・木喰の仏像など、


 それまでの美術史が正当に評価してこなかった、無名の職人による民衆的美術工芸の美を発掘し、世に紹介することに努めました。


 柳は日本各地の民衆的工芸品の調査・収集のため、日本全国を精力的に旅しました。


 また、江戸時代の遊行僧・木喰の再発見者としても知られ、1923年以来、木喰の事績を求めて、佐渡をはじめ日本各地に調査旅行を行いました。


 柳はこうして収集した工芸品を私有せず、広く一般に公開したいと考えていました。


 当初は帝室博物館に収集品を寄贈しようと考えていましたが、寄贈は博物館側から拒否されました。


 1923年の関東大震災の大被害を契機として京都に居を移し、濱田庄司、河井寛次郎らの同士とともに、いわゆる民藝運動を展開しました。


 京都に10年ほど住んだ後にふたたび東京へ居を移し、大原孫三郎より経済面の援助を得て、1936年に東京・駒場の自邸隣に日本民藝館を開設しました。


 本館は第二次世界大戦にも焼け残り、戦後も民芸運動の拠点として地道に活動を継続してきました。


 高度済成長期に民藝運動が隆盛したのは、前近代的な感性を民藝の思想がすくい得たからだったということができます。


 しかし日本近代において失われたものが何であったかを問うような問題意識は、今や昔のことであるといいます。


 社会的なアイデンティティーにかかわる苦しみと悲しみを宗悦は思想的に俎上し、より普遍的な愛の問題としてこれと向き合っていました。


 そこで依りどころとしたのが、美のイデアヘの愛=エロスをもってする”一(いつ)”なる思想でした。


 万物は”一者”、すなわち、対辞なき一なるものから流出したものとする新プラトン主義でした。


 宗悦はその思想が宿る文学や芸術、キリスト教神秘主義や西洋哲学を渉猟しながら、さらにこれを仏教思想において観ていきました。

 そして同時に民衆的工芸、すなわち、民藝という文字なき美の世界を、天性の直観を働かせながらコトバにしていきました。


 そこに結晶したのが、西洋美学を対象化した未聞の美の思想でした。

 宗悦はその美の思想をもって、世界を分節・差別化して二元的にとらえる近代思想を超克しようとしました。


 根幹にあったのは、世界には意味を有しないものはないという全肯定の思想でした。

 柳宗悦は単に民藝の美の発見者に止まるものではなく、はるか文明論的な次元でその何たるかを根源的に問おうとした思想家でした。


Ⅰ 永遠相に生をみつめて/第一章 文学・芸術・哲学/第二章 神秘主義/第三章 工芸美の発見
Ⅱ 此岸の浄土/第四章 民藝―「文字なき聖書」/第五章 民藝運動/第六章 此岸に彼岸をみつめて
柳宗悦年譜






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Last updated  2019.08.03 09:55:32
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