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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.08.24
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 白隠慧鶴は1686年に駿河国原宿、現・静岡県沼津市原生まれ、臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧で、幼名は岩次郎、諡は神機独妙禅師、正宗国師です。


 15歳で出家して諸国を行脚して修行を重ね、24歳の時に鐘の音を聞いて見性体験したといいます。


 “白隠-禅とその芸術-”(2015年2月 吉川弘文館刊 古田 紹欽著)を読みました。


 江戸時代中期に禅の民衆化に努め、臨済禅中興の祖といわれる白隠慧鶴の生涯と研鑽の過程を辿っています。


 信濃飯山の正受老人・道鏡慧端にあなぐら禅坊主と厳しく指弾され、その指導を受けて修行を続けました。


 古田紹欽さんは1911年岐阜県山県郡伊自良村生まれで、10歳で土地の臨済宗妙心寺派の古刹・東光寺に小僧として養われました。


 翌年からは郡上八幡町の同じく妙心寺派の慈恩寺に養われ、やがて東京帝国大学文学部印度哲学梵文学科に進学し、1936年に卒業しました。


 その後、禅思想を中心とした仏教哲学と日本文化の研究で著名な仏教哲学者で、生涯の師となる鈴水大拙と出会いました。


 国内に留まらず広く欧米で持論を講じ、英文の著書も多く、禅をZENという世界共通語となしました。


 師を敬愛し、北海道大学、日本大学の教授となり、禅の思想的研究、とりわけ禅の公案や禅僧の語録書の研究に優れた業績を遺しました。


 白隠慧鶴は、1700年に地元の松蔭寺の単嶺祖伝のもとで出家し、沼津の大聖寺息道に師事しました。


 1703年に清水の禅叢寺の僧堂に掛錫しましたが、禅に失望し詩文に耽りました。


 雲棲祩宏の”禅関策進”によって修行に開眼し、諸国を遊方しました。


 美濃の瑞雲寺で修行し、1708年に越後高田の英巌寺性徹のもとで、趙州無字の公案によって開悟しました。


 その後、信州飯山の道鏡慧端、正受老人のもとで大悟し、嗣法となりました。


 正受老人にあなぐら禅坊主と厳しく指弾され、その指導を受けて修行を続け、老婆に箒で叩き回されて次の階梯の悟りを得ました。


 のちに禅修行のやり過ぎで禅病となりましたが、1710年に京都の北白川で、白幽子という仙人より内観の秘法を授かって回復しました。


 その白幽子の机上にはただ、”中庸””老子””金剛般若経”のみが置かれていたといいます。


 この経験から、禅を行うと起こる禅病を治す治療法を考案し、多くの若い修行僧を救いました。


 また、他の宗門を兼ねて修道すべきではないと戒めています。


 これは他の宗門を排除するためではなく、それぞれの宗門を修めることがそれぞれに成道することに繋がると捉えているからです。


 1716年に諸方の遊歴より、松蔭寺に帰郷しました。


 地元に帰って布教を続け、曹洞宗・黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させました。

 駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠とまで謳われました。


 更に修行を進め、42歳の時にコオロギの声を聴いて仏法の悟りを完成したといいます。


 白隠はまた、広く民衆への布教に務め、その過程で禅の教えを表した絵を数多く描いたことでも知られています。


 その総数は定かではありませんが、1万点かそれ以上とも言われます。


 絵はおそらく独学と思われますが、1719年の達磨図はすでに巧みな画技を見せています。


 1763年に三島の龍澤寺を中興開山し、1769年に松蔭寺にて示寂しました。


 現在、墓は原の松蔭寺にあって県指定史跡となり、禅画も多数保存されています。


 本書は1978年に木耳社から出版された古田紹欽著、”白隠-禅とその芸術”の復刊です。


 この本は1962年に二玄社から初版がでており、当時より再版が望まれた名著でしたが、発行元で版が焼失したために実現せず、15年を経てやっと再版されたといいます。


 白隠という人はその生涯に書きのこした幾多の著述を見てもわかるように、漢詩文にかけても、和語、詩歌、僅謡にかけても傑出した力量をもっていました。


 近世の禅者のなかで、この人くらい多才な人はまずいません。


 それでいて往々多才の人にありがちな神経質な、才気走ったものを全く見受けることがありません。


 何ごとによらず走っては落ち付きを失い、重味・厚床となると坐っているものには到底勝てません。


 白隠は才気にかけては走る能力を充分もちましたが、短距離の走者にはなりませんでした。


 自からのもったその能力を極力うちに押えました。


 白隠の筆と墨との重床・厚味は、いうならば走る能力を持ちながらあえて走らず、じっと坐ることにつとめた重床であり厚床です。


 もとより吹けば飛ぶような坐りではなく、脂ぎった重力でどっかと坐ったその重床・厚味は、そこにすごみさえもちました。


 白隠くらい墨のもつ重床・厚床を筆に現わし活かした人は、日本の絵画史上まず稀です。


 墨の絵画、即ち墨の絵は墨によるものには違いりませんが、水墨画に見られる墨の濃淡とは別に、同じ墨の色ながらそこに重、軽、厚、薄を別けるものがまたあるのです。


 その重床・厚床を描くとなると、それは画法の能くするところではなく、この点、白隠と肩を並べてそれを能くなし得た人は或は皆無といっていいかも知れません。


 何といっても墨の濃さに見られる白隠の画は素晴しいです。


 もし禅を眼で捉えるというのであるならば、あの濃墨をもってした白隠の画なり、書なりを見るのが一目瞭然です。


 古来、禅者は好んで達磨像を初めとして多くの祖師像を描いています。


 白隠はそれを最も多く画いた一人です。


 殊に達磨を画題として選んだものが数多いです。

 そこには白隠の筆と墨の重味・厚味がまざまざと知られます。


 面壁9年の達磨の坐りっ放しの重床・厚味が確かに見られます。


 白隠には、ものを活かし動かす力としての禅がありました。


 白隠は修行の心得として、禅味に耽着することを極力誠め、いくら修行を積んでも腐った禅は何の役にも立たないとしました。


 さすがに白隠の書画を見ると、その重縁・厚縁の生きて躍動するものが紛ろうかたなく見られます。


新版の序にかえて/初版の序/白隠が白隠になるまで/白隠の禅(禅の真実性の追求/孤危険峻と世俗性/禅と学問との間/禅と念仏/坐禅和讃のこと)/白隠の芸術(禅を画く/達磨図/臨済・大灯の画像/自画像/戯画の中の禅/逸格の書/再説・白隠の書画)/最晩年の白隠/あとがき/『白隠』を読む…高橋範子






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Last updated  2019.08.24 06:33:26
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