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金 美齢さんは日本統治下の台湾に生まれ、留学先の日本で台湾独立運動に関わりながら家庭を築いて一男一女を育て、通訳、英語講師、日本語学校校長などで大活躍してきました。
”82歳。明日は今日より幸せ”(2016年11月 幻冬舎刊 金 美齢著)を読みました。
これまでの人生を振り返り、何歳になってもいつも前向きで日々ハッピーに生きる秘訣を語っています。
著者は、マイナスのカードを四枚持っていたそうです。
一枚目は台湾入であること、二枚目は女性であること、三枚目は結婚し子どもがいること、四枚目は高齢者であることです。
これらすべてのマイナスのカードをプラスに変えたといいます。
金 美齢さんは1934年に台湾で生まれ、1945年に日本が敗戦し台湾は中国人による国民党政権となりました。
日本統治時代の台湾の台北の裕福な家庭に生まれ、1953年に台北市内の台北市立第一女子高級中学を卒業しました。
その後、結婚し、国際学舎=留学生会館に勤務しました。
1956年に離婚し、1959年に留学生として来日し、早稲田大学第一文学部英文学科に入学しました。
1962年に台湾に一時帰省し、その後、台湾民主化運動を日本で推進し、反政府ブラックリストに載り政治難民となりました。
1963年に同大修士課程に進学し、1964年に東京大学博士課程在籍の周英明氏と学生結婚しました。
大学院生のときから、聖心女子学院、東京女子大学、東京理科大学、フェリス女学院大学の講師を歴任し、早稲田大学では1996年3月に至るまで20年以上にわたり英語教育に携わりました。
1971年に早稲田大学大学院文学研究科博士課程を単位修了し、1975年から1976年まで英国ケンブリッジ大学客員研究員となりました。
1988年に学校法人柴永国際学園JET日本語校を設立し、JET日本語学校校長を務め、現在、同校名誉理事長です。
1992年に反政府ブラックリストから削除され、31年ぶりに台湾に帰国しました。
1993年からテレビでの提言活動を開始し、2000年に台湾総統府国策顧問に就任しましたが、2006年に台湾総統府国策顧問制度は廃止されました。
2009年に日本国籍を取得し、2017年秋の叙勲で旭日小綬章を受章しました。
現在、日台の親善にも努め、政治、教育、社会問題等でも積極的に発言する、テレビ討論番組の論客として知られています。
負け組と勝ち組という言葉が定着して久しいですが、そんなことを他人に決められるゆえんはないと言います。
いくら今、世間から負け組とジャッジされているとしても、最終的に自分は勝つと信じて突き進めばいいのです。
大切なのは、自分の力と未来を信じて、最後まで諦めないことです。
著者が台湾独運動に身を投じている間、人々から白い目で見られて敬遠されたこともあるそうです。
勝てもしない闘いに人生を懸けるなんてバカだ、と面と向かって言われたこともありました。
夫も、孤独で長い闘いを強いられてきました。
けれども、今、著者の頭の中にはファンファーレが鳴っているといいます。
最終的に、著者は人生で勝利を収めました。
どんなに国民党に虐げられようとも、台湾の未来を諦めず、56年間闘ってきました。
そして今、国民党は落ちぶれて、勝っだのは自分だといいます。
なぜ、諦めることなく突き進むことができたのかを考えてみると、一番最初に思い浮かぶのは、能天気ということです。
ブラックリストに載って台湾に帰れなくなり、親の死に目に会見ず、遺産も全部放棄しなくてはいけないなどいろいろなことが起こりました。
でも、状況を恨むことなく、それかどうしたと開き直ってしまいました。
第二に、自分には劣情がありません。
最初から持ち合わせていなかったのかはわからりませんが、やっかみやコンプレックス、やきもちなどの感情が一切ないことに、最近気が付きました。
努力もそれほどしていないし、学校の成績がよかったわけでもありません。
でも、それが全然コンプレックスにはなっていません。
やりもしないくせに、やろうと思えばいつでもできると思っています。
自分より素晴らしい人がいても、嫉妬することもありません。
素直にその人のよいところを認めますから、自分には好きな人がたくさんいます。
好き嫌いかはっきりしていますので、嫌いだと思ったら最初から付き合わないのも、下手に嫉妬心が生まれない理由かもしれません。
第三に、自分はツッパリです。
辛いことや大変なことが起きても、それを受け入れて肥やしにします。
辛いことがあると避けて通る人もいますが、ときにはしっかり受け止めることも大切です。
避けてばかりで遠回りしていては、いつまでたってもゴールに到達することはできません。
不利な状況にあっても、自分は負けを認めないし、最終的に自分は勝つと信じて歩んできました。
来日当時、第三国人といわれた旧植民地の人間は非常に地位が低かったので、日本で暮らして行くことにおいては明らかなハンデを負っていました。
しかし、台湾出身だということは、視点を変えると、アウトサイダーとしての目を持っているということです。
しかも、長い間日本に暮らし、インサイダーとしての目も持っています。
つまり、自分は複眼的に物を見ることかできるということです。
これは、生きていくうえで大きな強みになります。
日本しか知らない、狭い世界しか知らない人に比べると、比較できるからこそわかることがあります。
女性であることも、以前は大きなマイナスでした。
現在も、女性であるがために正当な評価をされず悔しい思いをしている人がいると思います。
けれども、世の中をよく見てほしいです。
男はだらしがないではないでしょうか。
自分は女、強いんだからと、胸を張っていればいいです。
自分がちゃんと仕事をしていれば、女であることがプラスになることはいくらでもあります。
なぜなら、ライバルが少ないからです。
次に子どもがいるということ、これもまたプラスに変換できます。
世の中の半分は女性であり、そのうちの多くは、結婚をして子どもを産んでいます。
つまり、大多数の人が経験することを自分自身も経験できたということによって、発言には説得力が生まれます。
最後に、高齢者であるということです。
82歳の自分は、大いに威張っています。
高齢というマイナスのカードをひっくり返して、自分はプラスにしました。
曲がりなりにも、自分は長いこと人生を歩んでいます。
年寄りだということは、それだけ多くの経験を積んでいるということです。
人間は、生まれる国や親を選べません。
DNAは生まれた瞬間に決まっているからもうどうしようもないといいますが、DNAが人生を占める割合は半分くらいだと思います。
もう半分は、自分かどう生きていくかによって決まるのです。
ですから、せめて残った半分は、真っ当に生きていたいと思っているそうです。
衣食住すべてに関心を持ち、カンファタブルにハッピーに生きたい。
もちろん、そのためには努力がいります。
その当たり前のことを見過ごして、生きている人か多いのではないでしょうか。
自分はこれまで歩いてきた人生に100%満足しています。
幸せだと思える理由は、やるべきことをやってきたからだと思います。
しかも、それはやりたいことでした。
やるべきことと、したいこと、そしてできることが一致したというのは、本当にありかたいことでした。
第一章 「台北一の不良娘」が台湾独立運動へ/第二章 思いもかけず結婚し、想定外で母になり
/第三章 働いて稼いで、ハッピーに使う/第四章 小さな楽しみを重ねる、毎日の贅沢/第五章 日本って本当に素敵な国/終 章 明日は今日より幸せに