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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.09.21
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 フランシスコは第266代ローマ教皇で、2013年3月19日にサン・ピエトロ広場において就任ミサが執り行われました。

 長らくキリスト教世界を支えてきたヨーロッパでは、近年信者が減少し、南の世界での増加か著しく、ヨーロッパ以外から教皇が選ばれたのはおよそ1300年ぶりです。

 ”教皇フランシスコ-南の世界から”(2019年3月 平凡社刊 乗 浩子著)を読みました。

 アルゼンチン育ちで2013年に南半球からの最初のローマ教皇となり世界の注目と敬意を集めている、フランシスコの果たそうとしている課題や実績を明らかにしています。

 フランシスコ教皇の激動の半生を描く映画”ローマ法王になる日まで”が、2017年6月に日本でも公開されました。

 1960年代、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ青年は、アルゼンチンで司祭への道を歩み始めました。

 当時の軍事独裁政権下では、3万人もの人びとが行方不明になったと言われています。

 そこで、司祭としてイエズス会アルゼンチン管区長として、人びとと神に忠実に生きようとして苦悩しました。

 大切な仲間や司祭、友人が次々苦難に遭う辛い日々を、ベルゴリオは神父つして生きることになりました。

 乗 浩子=よつのやひろこさんは中国・大連市生まれ、1958年に東京女子大学文学部を卒業し、
1980年に上智大学大学院外国語学研究科で国際関係論を専攻しました。

 1958年から世界経済調査会研究員、
​ 1981年から国学院大学、日本大学等で非常勤講師、
 1988年から帝京大学文学部教授、
 1999年から同大学経済学部教授

となり、現在、退職しています。

 専攻は、ラテンアメリカ近現代史、国際関係史です。

 いわゆる近代化論は、近代化の進展にともなって宗教は死に至ると予言してきましたが、実際には信者は増えつづけています。

 また冷戦体制が揺らぎ始めた1970年代以降イスラム・パワーが台頭しました。

 一方で1960年代のバチカンの民主化路線を反映して、南欧、ラテンアメリカ、アジア、東欧のカトリック勢力は民主化に大きな役割を果たしました。

 なかでも東欧のカトリック国ポーランドヘの当時の教皇の働きかけが、一党支配体制からの脱却を促し、冷戦体制崩壊につながりました。

 冷戦後、世界各地で起きている文明の衝突的な宗教がらみの紛争や衝突に平和的に取り組むためにも、宗教指導者の役割はかつてより大きくなっています。

 ベルゴリオは1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス特別区フローレス区で、イタリア系移民の子として生まれました。

 父のマリオ・ホセ・ベルゴリオは、ピエモンテ州のポルタコマーロ出身の鉄道職員、母のレジーナ・マリア・シヴォリもイタリア系移民の子で、ブエノスアイレス出身です。

 小学校を卒業すると、教育上の配慮から会計士事務所に働きに出されました。

 サレジオ会が経営するラモス・メジア・サレジオ学院を経て、ブエノスアイレス大学で化学を学び学士号を取得しました。

 1958年3月にイエズス会に入会し、ブエノスアイレス特別区ビジャ・デボート区の神学校で司祭になる
ための勉強を始めました。

 1963年チリで教養課程終了後、ブエノスアイレス州サンミゲル市のサン・ホセ神学院で哲学を学びました。

 その後、1964年から1965年にかけて、サンタフェ州のインマクラーダ学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、1966年にはブエノスアイレスのサルバドーレ学院でも同じ教科を教えました。

 1967年に本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のサン・ミゲル神学院に進学しました。

 1969年12月にラモン・ホセ・カステジャーノ大司教によって司祭に叙階され、また、1970年に修士号を取得しました。

 1972年から1973年の間、サン・ミゲルのヴッラ・バリラリ修練院修練長を経て、神学の教授、管区顧問、神学院院長に就任しました。

 指導力を高く評価され、1973年7月にアルゼンチン管区長に任ぜられ、1979年までの6年間この職を務めました。

 1980年から1986年の間に、サン・ミゲルの神学校の神学科・哲学科院長、サン・ミゲル教区のサン・ホセ小教区の主任司祭を務めました。

 1986年3月には博士号取得の為、ドイツのフランクフルトにあるイエズス会が運営する聖ゲオルク神学院に在籍しました。

 その後、アルゼンチンに帰国し、サルバドーレ学院院長を経て、コルドバで霊的指導者・聴罪司祭を務めました。

 1992年5月に、ヨハネ・パウロ2世によりブエノスアイレスの補佐司教およびアウカの名義司教に任命されました。

 同年6月に、ブエノスアイレス大司教のアントニオス・クアラチノ枢機卿の司式によって、司教に叙階されました。

 1997年6月にブエノスアイレス協働大司教に任命され、1998年2月にクアラチノ枢機卿の死去により後継としてブエノスアイレス大司教となりました。

 また同年11月より、アルゼンチン居住の裁治権者をもたない東方典礼カトリック教会信者の、裁治権者を兼任しました。

 2001年2月に、ヨハネ・パウロ2世によって聖ロベルト・ベラルミーノ教会の枢機卿に任命されました。

 そして、枢機卿として、ローマ教皇庁5つの管理職的な地位に就きました。

 ベルゴリオ枢機卿は、宮殿のような司教館ではなく小さなアパートに居住し、お抱えのリムジンの使用を拒否して公共交通を利用していました。

 個人的な謙遜と教義上の保守主義と社会正義への関与で知られるようになりました。

 2005年にヨハネ・パウロ2世が死去した直後の使徒座空位の間には、聖座とローマ・カトリック教会を暫定的に統治する枢機卿団の一人になりました。

 新教皇を選出するコンクラーヴェに選挙枢機卿の一人として参加しました。

 ベルゴリオ枢機卿は、新教皇の最有力候補であったラッツィンガー枢機卿の主要な挑戦者として取り沙汰されました。

 コンクラーヴェでベルゴリオの得票数はラッツィンガー枢機卿の次席となり、勝者となったラッツィンガー枢機卿は教皇ベネディクト16世として2013年まで在位しました。

 ベネディクト16世が2013年2月をもって辞任したことを受け、その後継を選ぶために同年3月12日よりコンクラーヴェが実施されました。

 コンクラーヴェにおいて、翌3月13日、新教皇の選挙権を持つ80歳未満の枢機卿115名による5回目の投票で新教皇に選出されました。

序章 宗教の復権/第1章 カトリック大陸、ラテンアメリカ/第2章 教皇フランシスコへの道/第3章 バチカンの動向/第4章 アフリカとアジアでふえるキリスト教徒/第5章 民主化を促した教会―冷戦体制崩壊へ/第6章 プロテスタントの拡大とカトリックの対応/第7章 教皇フランシスコの課題と実績/終章 回勅『ラウダート・シ―ともに暮らす家を大切に』―環境・人権・平和






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Last updated  2019.09.21 08:55:51
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