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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2019.12.07
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 カルピスは乳酸菌飲料で、原液は非常に高濃度であるためそのままでの飲用は推奨されていません。

 水、湯または牛乳で2.5から5倍程度に希釈して飲用とします。

 原液はその濃さから常温保存しても腐敗しにくい性質があり、戦前は一般家庭の常備品や日本軍の補給品として、戦後は贈答用として広く使われています。

 “カルピスをつくった男 三島海雲”(2018年6月 小学館刊 山川 徹著)を読みました。

 会社の売上げより国の豊かさと日本人の幸せをひたすら願った誰もが知る国民飲料、カルピス社創業者の三島海雲の生涯を紹介しています。

 カルピスは乳酸菌飲料で、原液は非常に高濃度であるためそのままでの飲用は推奨されていません。

 水、湯または牛乳で2.5から5倍程度に希釈して飲用とします。

 原液はその濃さから常温保存しても腐敗しにくい性質があり、戦前は一般家庭の常備品や日本軍の補給品として、戦後は贈答用として広く使われています。

 山川 徹さんは、1977年山形県上山市生まれ、東北学院大学法学部、國學院大學文学部2部を卒業し、在学中より雑誌の編集に携わり、大学卒業後にフリーライター となりました。

 2007、2008年には北西太平洋の調査捕鯨に同行し、捕鯨に携わる若者たちやラグビーなどの取材を続け、各誌に様々なルポルタージュを発表しています。

 三島海雲は1878年に大阪府豊島郡下萱野村、現・箕面市萱野の浄土真宗本願寺派水稲山教学寺の住職の子息として生まれました。

 13歳で得度し、本願寺文学寮、現在の龍谷大学を卒業後、英語教師として山口の開導教校に赴任しました。

 しかし、その職を辞し、仏教大学、現在の龍谷大学に編入しました、

 1902年に、日本語教師として清朝が統治する中国大陸に渡りました。

 1905年に中国大陸、北京で教師として暮らしたあと、雑貨などを売買する行商会社を立ち上げました。

 馬車を引き、大陸各地で日本の雑貨等を販売しました。

 やがて日本陸軍から買い付けを依頼されたり、モンゴル王公から仕入れを頼まれたりして、中国とモンゴル高原を行き来して様々な事業を手がけるようになりました。

 1908年に日本軍部から軍馬調達の指名を受け、内蒙古、現内モンゴル自治区に入り、ケシクテンでジンギスカンの末裔、鮑=ホウ一族の元に滞在しました。

 そこで酸乳に出会い、体調を崩し瀕死の状態にありましたが、すすめられるままに酸乳を飲み続けたところ回復を果たしたといいます。

 しかし、当初の目的であった緬羊事業に失敗し、辛亥革命を機に1912年に清朝が滅亡すると、中国大陸の状況が劇変しました。

 1915年に日本に帰国し、心とからだの健康を願い、酸乳、乳酸菌を日本に広めることを志し、製品開発に取り組みました。

 1917年に、カルピス社の前身となるラクトー株式会社を恵比寿に設立しました。

 発酵クリーム、脱脂乳に乳酸菌を加えた醍醐素、生きた乳酸菌が入ったキャラメルなどを開発し販売しましたが、ことごとく失敗しました。

 帰国から4年後の1919年に、無一文になってしまった41歳のとき、試行錯誤を繰り返してモンゴル高原で親しんだ乳製品に着想をえたカルピスの開発に成功しました。

 そして、世界で初めての乳酸菌飲料の大量生産に成功し、7月7日にカルピスとして発売しました。

 この時のカルピスは現在の薬用養命酒のような下膨れのビンで、ミロのヴィーナスが描かれた紙箱の包装でした。

 1922年に水玉模様の包装紙を巻いたものになり、カルピスのパッケージの水玉模様は、発売日の七夕に因んで天の川をイメージしました。

 最初は青色地に白い無地玉で、1949年に色を逆にし、白地に青い水玉としました。

 仏塔の基壇に隨道を穿つという一風変わったデザインにはモデルがあります。

 中国の北京市街から約50キロ北西の山峡に築かれた居庸関に建つ過街塔という史跡です。

 居庸関は、いまから約2500年以上も昔の春秋戦国時代、モンゴル高原に暮らす遊牧民族の侵略に備えて、燕という国が建設をはじめた要塞です。

 万里の長城と連結されて関所の役割を果たした居庸関は、交通と交易の要衝となり、蒙古と呼ばれたモンゴル高原と中国を結び、たくさんの人や物が往来しました。

 過街塔は1343年に元朝の皇帝が建立した仏塔で、塔を載せたアーチ型の門は雲台と呼ばれます。

 雲台の隨道には、漢字、チベット文字、ウイグル文字、西夏文字、元朝の公用文字だったパスパ文字、サンスクリットの言語を記すためのランツア文字で、旅人の安全を祈願した経が刻まれています。

 それほど多様な言語や文化を持つ人々が、燧道を通り、モンゴル高原に向かったのです。

 明治時代に、三島海雲というひとりの日本人青年が居庸関を通り、モンゴル高原に向かいました。

 三島は草原に生きる遊牧民から乳製品を振る舞われ、その体験が日本初の乳酸菌飲料カルピスを生みました。

 三島について書かれた書物は、50年近く前に刊行された自伝がいくつかあるだけです。

 国立国会図書館などに足を運んでも、数十年前の古い資料が並ふものの、本格的にまとめられた評伝は見つからなかったといいます。

 知人に尋ねても誰も知らない、モンゴルに詳しい人はカルピスのルーツが、遊牧民が作る乳製品にあると知ってはいたものの、情報はそこまでした。

 カルピスは誰もが知る飲料ですが、いまその産みの親である三島を知る人はほとんどいません。

 96年の生涯を生き抜いた三島は、過街塔を模した顕彰碑が建つ和田堀廟所に眠っています。

 創案者を慕うカルピス社のOBは、毎年7月7日に決まって墓参りをしたといいます。

 カルピスウォーターのペットボトルにも、発売当時の包装紙に採用された水玉模様のデザインが用いられています。

 七夕にちなんで、青地に白の水玉という天の川をイメージした図案が、戦後に白地に青といういまも使われているデザインに変わりました。

 この包装は、宇宙の縮図です。

 天体には無数の星があります。

 丁度カルピスの水玉模様であって、遠方にある星は薄く、近くの星は白く強く光っています。

 そういう意味でもカルピスの今の水玉模様は、天体の模様を縮図にしたものです。

 右から左下へ斜めにしてあるのは、天の川を形取ったのです。

 三島は、戦後すぐ富士山麓で見た、ちぎれ雲の間にあらわれた空の色に魅入られたといいます。

 その色といったら、実に何とも形容のつかない深みのある色をしていました。

 そこで三島は、天体の色をカルピスの包装箱に応用したのです。

 断雲の間の深さ極みなし 百光年のみとりたたえて。

 1923年に、ラクトー株式会社をカルピス製造株式会社に商号を変更しました。

 国利民福は、企業は国家を富ませるだけでなく、国民を豊かに、そして幸せにしなければならないという三島が唱えた経営理念です。

 マーケティング活動にも優れ、サンスクリット語の仏教用語が語源の「カルピス」という特色ある商品名を考案し、「初恋の味」というキャッチフレーズを採用しました。

 黒人マークは国際コンペで募集されたもので、また、関東大震災時に善意から無料でカルピスを配給したことも知名度向上に貢献しました。

 三島の生涯の根底には仏教精神、仏教哲学があり、学生の頃より、国利民福という、国の利益と人々の利益としていました。

 三島は、会社の売上げより国の豊かさ、そして日本人の幸せをひたすら願いました。

 いま、新自由主義がもたらした格差と分断が広がる社会で、社会や他者を顧みる余裕は奪われてしまったのではないでしょうか。

 何よりも三島が辿った道は、私たちが生きるいまにつながっています。

序章 カルピスが生まれた七月七日に
第一章  国家の運命とともに/一 仏像を焼き棄てた少年/二 学僧たちの青春/三 日本語教育の名の下に/四 山林王と蒙古王
第二章  草原の国へ /五 死出の旅路/六 遊牧民という生き方/七 別れの日
第三章  戦争と初恋/八 カルピス誕生と関東大震災/九 健康と広告の時代/十 焦土からの再生/十一 東京オリンピックを迎えて
第四章 最期の仕事/十二 仏教聖典を未来に/十三 父と子
終章 一〇〇年後へ/カルピスの里帰り/タイムカプセル





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Last updated  2019.12.07 05:38:24
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