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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2020.02.01
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 真田信繁は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名、真田昌幸の次男、通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)、真田幸村の名で広く知られています。

 現代人において、戦国武将では、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑と呼ばれる人々をも凌ぐほどの、抜群の知名度と人気を誇っています。

 ”真田信繁-幸村と呼ばれた男の真実”(2015年10月 KADOKAWA刊 平山 優著)を読みました。

 真田幸村の名で広く知られ豊臣方の武将として、大坂夏の陣で徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な活躍が、後世に軍記物などで英雄的イメージで広く知られる存在となった、真田信繁をめぐる通説・俗説・新説を根本的に再検証しています。

 人気は今に始まったことではなく、江戸時代前期には、すでに真田人気は不動のものでした。

 近代になっても、1918年に立川文明堂による立川文庫の創刊による影響もあって、明治末年から昭和初期にかけて一大ブームが到来しました。

 平山 優さんは1964年東京都生まれ、立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了、専攻は日本中世史です。

 山梨県埋蔵文化財センター文化財主事、山梨県史編さん室主査、山梨大学非常勤講師、山梨県立博物館副主幹等を経て、山梨県立中央高等学校教諭を務め、2016年放送の大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当しました。

 真田を支える十人の優れた家来たちは真田十勇士と呼ばれますが、これは史実ではありません。

 ですが、真田と十勇士たちの活躍は、戦前ばかりか、戦後になってもテレビドラマなどで繰り返し放送され、人々を魅了し続けてきました。

 日本人の真田人気は、天下簒奪の野望に燃え、豊臣氏を滅ぼそうと企む徳川家康と、それを挫くべく、豊臣秀頼を助け知略の限りを尽くして立ち向かう真田幸村という、勧善懲悪という一貫したストーリーにありましょう。

 弱きを助け強きを挫くという真田幸村の人物像こそ、日本人好みの理想像と合致しています。

 そして力戦しあと一歩まで家康を追い詰めながら、力及ばず散華する姿は、悲劇性をも併せ持ち、幸村の魅力をいっそう際立たせているといえます。

 実戦経験の乏しい信繁が、なぜ徳川方も称賛するほどの軍功をあげることが出来たのでしょうか。

 その実像は、生涯のほとんどについて史料が残されておらず、謎に包まれているといっても過言ではありません。

 確実に判明していることは、

 信濃国小県郡の国衆真田昌幸の次男であること、
 父昌幸の命により上杉景勝のもとへ人質に出されたこと、
 父昌幸が豊臣秀吉に臣従すると上方へ人質として出され、大谷吉隆(吉継)の息女を娶ったこと、
 1600年の関ヶ原合戦に際し、父昌幸とともに信州上田城に寵城し徳川秀忠軍を撃破したこと、
 関ヶ原敗戦後、父昌幸とともに高野山に追放され九度山に住居を構えたこと、
 1619年に豊臣秀頼の招きを受け、九度山を脱出し大坂城に入城したこと、
 大坂冬の陣では「真田丸」「真田出丸」という砦を大坂城惣構のうち玉造口に築き、徳川方に甚大な打撃を与えたこと、
 1920年5月の大坂夏の陣で戦死したこと、

などです。

 真田幸村の名が広く知られていますが、諱は信繁が正しく、直筆の書状を始め、生前の確かな史料で幸村の名が使われているものはありません。

 信繁は1567年(または1570年)に真田昌幸の次男として生まれました。

 真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸隆(幸綱)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属していました。

 伯父の信綱は先方衆として、信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍しています。

 父の昌幸は幸隆の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていましたが、1575年の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継ぎました。

 幸隆は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にありましたが、昌幸も城代を引き継ぎました。

 信繁は父に付き従い甲府を離れ岩櫃に移ったと考えられています。

 1582年3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵されました。

 信繁は関東管領として厩橋城に入城した滝川一益のもとに、人質として赴きました。

 同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、上杉氏・後北条氏・三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生しました。

 滝川一益は本能寺の変によって関東を離れる際に信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡しました。

 真田氏は上杉氏に帰属して自立し、1585年には第一次上田合戦において徳川氏と戦っています。

 従属の際に信繁は人質として越後国に送られ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたといいます。

 織田家臣の豊臣秀吉が台頭すると昌幸はこれに服属し、独立した大名として扱われました。

 信繁は人質として大坂に移り、のちに豊臣家臣の大谷吉継の娘、竹林院を正妻に迎えました。

 1590年の小田原遠征に際しては、昌幸・信幸は前田利家・上杉景勝らと松井田城・箕輪城攻めに、信繁・吉継は石田三成の指揮下で忍城攻めに参戦したと伝えられます。

 文禄の役においては、昌幸・信幸とともに肥前名護屋城に在陣しています。

 1594年11月に従五位下左衛門佐に叙任されるとともに、豊臣姓を下賜されました。

 豊臣政権期の信繁の動向は史料が少なく、詳細はわかっていません。

 秀吉死後の1600年に五大老の徳川家康が、同じく五大老の一人だった会津の上杉景勝討伐の兵を起こすとそれに従軍しました。

 留守中に五奉行の石田三成らが挙兵して関ヶ原の戦いに至ると、父と共に西軍に加勢し、妻が本多忠勝の娘であるため東軍についた兄・信之と袂を分かつことになりました。

 東軍の徳川秀忠勢は中山道制圧を目的として進軍し、昌幸と信繁は居城上田城に籠り、徳川軍を城に立て籠もって迎え撃ちました。

 9月15日、西軍は秀忠が指揮を執る徳川軍主力の到着以前に関ヶ原で敗北を喫しました。

 昌幸と信繁は本来なら敗軍の将として死罪を命じられるところでしたが、信之とその舅である本多忠勝の取り成しがあって、高野山配流を命じられるにとどまりました。

 12月12日に上田を発して紀伊国に向かい、初め高野山の蓮華定院に入り、次いで九度山に移り、蟄居中の1611年に昌幸は死去、1612年に信繁は出家し好白と名乗りました。

 1614年の方広寺鐘銘事件をきっかけに徳川氏と豊臣氏の関係が悪化し、大名の加勢が期待できない豊臣家は浪人を集める策を採り、九度山の信繁の元にも使者を派遣しました。

 信繁は国許にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけ、九度山を脱出して嫡男大助幸昌と共に大坂城に入りました。

 大坂冬の陣では信繁は当初からの大坂城籠城案に反対し、先ず京都市内を支配下に抑え、近江国瀬田まで積極的に討って出て徳川家康が指揮を執る軍勢を迎え撃つよう主張しましたが、結局受け入れられずに終わりました。

 大坂城への籠城策が決定すると、信繁は大坂城の最弱部とされる三の丸南側、玉造口外に真田丸と呼ばれる土作りの出城を築きました。

 戦闘で信繁は寄せ手を撃退し、初めてその武名を天下に知らしめることとなりました。

 冬の陣の講和後、真田丸は両軍講和に伴う堀埋め立ての際に取り壊されてしまいました。

 家康は1615年2月に使者として信繁の叔父である真田信尹を派遣し説得に出ましたが、信繁は対面をしなかったといいます。

 大坂夏の陣では、道明寺の戦いに参加し、伊達政宗隊の先鋒の片倉重長らを銃撃戦の末に一時的に後退させました。

 道明寺の戦いでは、先行した後藤基次隊が真田隊が駆けつける前に壊滅し、基次は討死しました。

 退却に際して真田隊はしんがりを務め、追撃を仕掛ける伊達政宗隊を撃破しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させました。

 5月7日に信繁は大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案し、右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させようとしました。

 先鋒の本多忠朝の部隊が毛利隊の前衛に向けて発砲し射撃戦を始め、本格的な戦闘へと突入しました。

 死を覚悟した信繁は徳川家康本陣のみを目掛けて決死の突撃を敢行し、毛利・明石・大野治房隊などを含む豊臣諸部隊が全線にわたって奮戦し、徳川勢は総崩れの観を呈するに至りました。

 信繁が指揮を執る真田隊は、越前松平家の松平忠直隊の大軍を突破し、合わせて徳川勢と交戦しつつ、ついに家康本陣に向かって突撃を敢行しました。

 精鋭で知られる徳川の親衛隊・旗本・重臣勢を蹂躙し、家康本陣に二度にわたり突入しました。

 しかし、大野治長が秀頼の出陣要請に行こうとした際、退却と誤解した大坂方の人々の間に動揺が走り落胆が広がりました。

 さらに城内で火の手が上がったことで、前線で奮闘していた大坂方の戦意が鈍りました。

 徳川家康はこれを見逃すことはなく、全軍に反撃を下知しました。

 東軍は一斉に前進を再開し、大坂方は崩れ始めました。

 真田隊は越前・松平隊と合戦を続けていましたが、そこへ岡山口から家康の危機を知って駆けつけた井伊直孝の軍勢が真田隊に横槍を入れて突き崩しました。

 真田隊は越前・松平隊の反撃によって次々と討ち取られて数が減っていき、遂には備えが分断されてしまいました。

 そして、兵力で勝る徳川勢に押し返され、信繁は家康に肉薄しながら、ついに撤退を余儀なくされました。

 毛利隊も攻撃続行をあきらめ、大坂方は総崩れとなって大坂城への退却を開始し、天王寺口の合戦は大坂方の敗北が決定的となりました。

 信繁は四天王寺近くの安居神社の境内で木にもたれて傷つき疲れた身体を休ませていたところを、越前松平家鉄砲組頭の西尾宗次に発見され討ち取られました。

 これまで信繁については、数多くの著作が世に送られてきましたが、信繁が発給した文書の基礎研究すらなされておらず、また生涯についても軍記物を根拠にした記述が目立っています。

 本書は、幾多の謎に包まれた不思議な弓取の真田信繁の生涯を、数少ない史料をもとに解き明かしていくことを課題としています。

 最も頭を悩ませたのは、

 大坂の陣をどのように評価し、信繁をこの大乱の中で如何に位置づけたらいいのか、
 実戦経験に乏しい信繁がなぜあれはどの活躍をすることが出来たのをどう理解すればよいか、

ということであったといいます。

序 「不思議なる弓取」と呼ばれた男/第一章 真田信繁の前半生/第二章 父昌幸に寄り添う/第三章 関ヶ原合戦と上田攻防/第四章 九度山の雌伏/第五章 真田丸の正体/第六章 大坂冬の陣/第七章 大坂夏の陣/終 章 真田信繁から幸村へ





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Last updated  2020.02.01 07:43:03
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