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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2020.02.22
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 魯迅は1881年中国・浙江省紹興生まれ、本名は周樹人、字は予才、ほかに迅行、唐俟、巴人など数十の筆名を用いました。

 家は祖父が知県も務める中地主でしたが、祖父が科挙の不正事件で入獄し、父も病死してにわかに没落し、長子として生活の苦労も体験しました。

 ”いま、なぜ魯迅か”(2019年10月 集英社刊 佐高 信著)を読みました。

 まじめ主義者といい人ばかりの日本にいま必要なのは魯迅の批判と抵抗の哲学だとして作品を論じ、縁の深い作家・思想家を振り返る、魯迅をめぐる思索の旅です。

 1898年に南京の江南水師学堂に入学しましたが、内容に不満で退学し、江南陸師学堂付設の鉱務鉄路学堂に入学しました。

 1902年に官費留学生として日本に派遣され、弘文(宏文)学院を経て、仙台医学専門学校に入学しました。

 このころ思想的には革命派の立場にたち、清朝打倒を目ざす光復会にも加入しました。

 仙台医専在学中、志を文学に転じて退学し、東京に戻って企画した文学運動の雑誌は未成に終わりました。

 強烈な個性と反逆精神をもつ詩人=精神界の戦士を顕彰して、中国にもその誕生を促し、その叫びによって民衆の心を燃えたたせる、というのが当時に描いた中国変革のイメージでした。

 1909年に帰国し、杭州、紹興で教師をするうちに1911年の辛亥革命を迎え、新政府に教育部員として参加し、北京に移りました。

 辛亥革命後の現実は革命像を大きく裏切るもので、袁世凱の反動のもと、寂寞の時期を送りました。

 1918年に、友人の勧めもあって『狂人日記』を発表、以後『阿Q正伝』等、のちに『吶喊』『彷徨』にまとめられた小説を発表しました。

 これは文学革命に実質を与え、中国近代文学の成立を示すものであるとともに、中国社会と民衆のあり方を振り返り、青年時代の革命像を再検討する意味をもっていました。

 また一方、鋭い社会・文化批評を込めた雑文を執筆し、やがて著作の大きな部分を占め、中国文学のなかでも独自の一ジャンルとなりました。

 佐高 信さんは1945年山形県酒田市生まれ、山形県立酒田東高等学校、慶應義塾大学法学部法律学科を卒業し、郷里・山形県で庄内農高の社会科教師となりました。

 ここで教科書はいっさい使わず、ガリ版の手製テキストで通したため、赤い教師の非難を浴びたといいます。

 酒田工高に転じて結婚もしましたが、同じく赤軍派教師のレッテルを貼られ、県教組の反主流派でがんばるうちに、同僚女性との出会いがあり、前妻と離婚し1972年に再度上京しました。

 上京後、総会屋系経済誌編集部員を経て編集長となり、その後、評論家活動に入りました。

 公然とした社民党支持者で、土井たか子さんらと憲法行脚の会を結成し、加藤紘一さんとの対談集会を開くなど、護憲運動を行なっています。

 小泉内閣・安倍内閣への批判から、クリーンなタカ派よりはダーティでもハト派の方が良いと、加藤紘一さんや野中広務さん、鈴木宗男さんら自民党内の左派や旧竹下派人脈との関係を深めました。

 ロッキード事件で失脚した田中角栄さんに関しても、かつてはこき下ろしていたものの今ではダーティなハトとして相対的に評価しています。

 現在、評論活動のほか、東北公益文科大学客員教授、元週刊金曜日編集委員、ヘイトスピーチとレイシズムを乗り越える国際ネットワーク共同代表、先住民族アイヌの権利回復を求める署名呼びかけ人を務めています。

 魯迅は1925年に、北京女子師範大学の改革をめぐって新旧両派の衝突した女師大事件で、進歩派の学生・教員とともに軍閥政府に抵抗し、いったん教育部員を罷免されましたが、平政院に提訴して勝利を収めましました。

 留学中に一度帰国して朱安と結婚をしていましたが、女師大の学生だった許広平と出会い、しだいに愛が生まれました。

 1926年夏に厦門大学に移りましたが、その空気に不満で1927年初め、国民革命の根拠地だった広東に移り、ここで上海クーデターを体験し、思想的にも大きな転機となりました。

 1927年秋に上海に移り、このときから許広平と同居し、1929年に子供が生まれ、その後、死ぬまで上海に住みました。

 上海では国民革命の挫折を機に、革命文学を唱える創造社、太陽社から、小ブル文学者と非難を受け、革命文学論戦を展開しました。

 そして、自らマルクス主義芸術論やソビエト文学を精力的に翻訳しました。

 やがて1930年に左翼作家連盟が結成されると、その中心的人物となり、国民党政府の弾圧やその御用文人と、妥協することなく論争しました。

 芸術にも早くから関心をもって、1931年に内山完造の弟嘉吉を招いて木版画講習会を開いたのをはじめ、若い木版作家を養成し、中国現代版画の基礎を築きました。

 著者は、まじめ主義者と多数に従ういい人ばかりの日本に、いま必要なのが魯迅の「批判と抵抗の哲学」だと言います。

 魯迅は、徹底して儒教に抵抗し、真ん中を行く中庸では、世の中は変えられないと言いました。

 魯迅は永遠の批判者であり、魯迅の徒として「批判が生ぬるい」という批判は受け入れても、「批判ばかりして」という難癖を受けつけるつもりはないといいます。

 「批判をし抜く」ことを基点としているのであり、「お前の批判は足りない」と言われた時にのみ、さらに奮起するとのことです。

 「批判をし抜く人」は必要であって、そこにしっかりと踏みとどまって批判の言葉を研磨したのが魯迅でした。

 著者は、残された時間もそう多くないのに、自分には主著と言えるようなものはあるのか、といった疑問がわいて、少なからずうろたえたそうです。

 「魯迅を生きる」そして、「魯迅と生きる」道を歩んできた著者にとって、それは、ある意味でわが人生を振り返ることで、書き進めるに従って、改めて自分の中に魯迅が深く入っていたという思いを新たにしたそうです。

 ドレイは人に所有されることによって自由ではない、しかし、ドレイの所有者もまた所有することによって自由ではない。

 したがって、人間の解放はドレイがドレイの主人にのし上がることによってではなく、人が人を支配する制度そのものを改革することによってしか実現しません。

 現在の企業という封建社会、あるいはドレイ社会の改革も、この方向によってしかなしえません。

 そのためにもまず、ドレイ精神からの脱却が主張されなければなりません。

 会社国家であり官僚国家でもある日本では、精神のドレイが主人の意向を先取りする、いわゆる忖度が大流行りです。

 まじめナルシシズムの腐臭はそこから立ちのぼりますので、批判と抵抗の哲学をもってまじめナルシシズムを捨てることを勧めています。

 魯迅がそうした腐臭と無縁なのは、己れの力などなにほどのものでもないことをハッキリ知っているからです。

 努力が報われがたい現実であるからこそ、絶えず刻む努力が必要であることを知っています。

 著者は、「私は人をだましたい」や「フェアプレイは時期尚早」といった魯迅の刺言を読んで、至誠天に通ず式のマジメ勤勉ナルシシズムから自由になったそうです。

 魯迅を自らの思想的故郷として、血肉となった作品を論じ、ニーチェ、夏目漱石、中野重治、竹内好、久野収、むのたけじら、縁の深い作家・思想家を振り返ります。

 「永遠の批評家」魯迅をめぐる思索の旅は、孤高の評論家の思想遍歴の旅でもあります。

はじめに-いま、なぜ魯迅か/第一章 一九〇四年秋、仙台/第二章 エスペラントに肩入れした魯迅と石原莞爾/第三章 満州建国大学の夢と現実/第四章 上野英信の建大体験/第五章 故郷および母との距離/第六章 魯迅とニーチェの破壊力/第七章 死の三島由紀夫と生の魯迅/第八章 夏目漱石への傾倒/第九章 中野重治と伊丹万作の魯迅的思考/第十章 久野収と竹内好の魯迅理解/第十一章 竹内好の太宰治批判とニセ札論/第十二章 魯迅の思想を生きた、むのたけじ/第十三章 魯迅を匿った内山完造/第十四章 魯迅の人と作品





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Last updated  2020.02.22 06:04:34
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