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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2020.07.04
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北条政子は伊豆の韮山で勢力を誇っていた北条時政の娘で、伊豆に流されていた源頼朝と恋仲となり結婚しました。

 1180年に頼朝は平家追討の挙兵を行いましたが、最初の石橋山の戦いで敗北しました。

 しかし立ち直った頼朝は、源氏ゆかりの地、鎌倉に入り政子を迎えました。

 そして念願叶って平家を滅ぼし、政子も征夷大将軍の夫人となりました。

 ”北条政子-母が嘆きは浅からぬことに候-”(2004年3月 ミネルヴァ書房刊 関 幸彦著)を読みました。

 平安時代末期から鎌倉時代を生きて鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室となった、一人の傑出した女性の生涯を通して源平争乱から承久の乱までの攻防に迫っています。

 頼朝の亡き後は尼将軍と呼ばれ、鎌倉幕府に君臨しました。

 御家人達による合議制を幕府の基本方針とし、これに反対する者は、身内であろうと、功労者であろうと、容赦なく追い払いました。

 1221年に起こった承久の乱では、朝廷に立ち向かうことを恐れた御家人を統率して、上京させました。



 専門は日本中世史で、学習院大学文学部史学科助手、文部省初等中等教育局教科書調査官、鶴見大学文学部教授を経て、2008年より日本大学文理学部教授を務めています。

 北条政子は1157年に、伊豆国の豪族の北条時政の長女として生まれました。

 伊豆の在庁官人であった時政は、平治の乱で敗れ同地に流されていた源頼朝の監視役でしたが、時政が大番役のため在京中の間に、政子は頼朝と恋仲になってしまいました。

 1177年20歳のとき、周りの反対を押し切り伊豆の流人だった源頼朝と結婚しました。

 頼朝と政子の関係を知った時政は平家一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆目代の山木兼隆と結婚させようとしました。

 山木兼隆は元は流人でしたが、平家の一族であり、平家政権の成立とともに目代となり伊豆での平家の代官となっていました。

 政子は山木の邸へ輿入れさせられようとしましたが、屋敷を抜け出した政子は山を一つ越え、頼朝の元へ走ったといいます。

 二人は伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われました。

 伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかったといいます。

 しかし最終的に時政はこの二人の婚姻を認めました。

 政子は、まもなく長女・大姫を出産しました。



 子供は、頼家、実朝、大姫、三幡で、兄弟姉妹には、宗時、義時、時房、阿波局、時子などがいました。

 1180年23歳のとき、伊豆の頼朝にも以仁王の挙兵の令旨が届けられましたが、慎重な頼朝は即座には応じませんでした。

 しかし、計画が露見して以仁王が敗死したことにより、頼朝にも危機が迫り挙兵せざるを得なくなりました。

 源頼朝が源頼政と平家打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に挙兵を呼びかけました。

 頼朝は目代・山木兼隆の邸を襲撃してこれを討ち取りましたが、続く石橋山の戦いで惨敗しました。



 政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を心配して不安の日々を送ることになりました。

 頼朝は北条時政、義時とともに安房国に逃れて再挙し、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めました。

 政子も鎌倉に移り住みました。

 頼朝は富士川の戦いで勝利し、各地の反対勢力を滅ぼして関東を制圧しました。

 頼朝は東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになりました。

 1182年25歳のとき、長男で鎌倉幕府の2代将軍となる源頼家を懐妊しました。

 頼朝は三浦義澄の願いにより政子の安産祈願として、平家方の豪族で鎌倉方に捕らえられていた伊東祐親の恩赦を命じました。

 頼朝は政子と結ばれる以前に祐親の娘の八重姫と恋仲になり男子までなしましたが,平氏の怒りを恐れた祐親はこの子を殺し、頼朝と八重姫の仲を裂き他の武士と強引に結婚させてしまいました。

 祐親はこの赦免を恥じとして自害してしまいました。

 同年8月に政子は男子を出産,後の2代将軍・源頼家です。

 政子の妊娠中に頼朝は亀の前を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになりました。

 これを時政の後妻の牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒しました。

 11月、牧の方の父の牧宗親に命じて亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させ、亀の前はほうほうの体で逃げ出しました。

 頼朝は激怒して牧宗親を詰問し、自らの手で宗親の髻を切り落とす恥辱を与えました。

 頼朝のこの仕打ちに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き揚げる騒ぎになりました。

 政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国へ流罪にさせました。

 政子の怒りは嫉妬深さだけではなく、伊豆の小土豪に過ぎない北条氏の出である政子は、貴種である頼朝の正室としては出自が低く、その地位は必ずしも安定したものではなかったと考えられます。

 1183年26歳のとき、頼朝は対立していた源義仲と和睦し、その条件として義仲の嫡子・義高と頼朝と政子の長女・大姫の婚約が成立しました。

 義高は大姫の婿という名目の人質として鎌倉へ下りました。

 義高は11歳、大姫は6歳前後でした。

 幼いながらも大姫は義高を慕うようになりました。

 義仲は平家を破り、頼朝より早く入京しました。

 しかし、義仲は京の統治に失敗し、平家と戦って敗北し、後白河法皇とも対立しました。

 1184年27歳のとき、頼朝は弟の源範頼、義経を派遣して義仲を滅ぼしました。

 頼朝は禍根を断つべく鎌倉にいた義高の殺害を決めましたが、これを侍女達から漏れ聞いた大姫が義高を鎌倉から脱出させました。

 激怒した頼朝の命により堀親家がこれを追い、義高は親家の郎党である藤内光澄の手によって斬られました。

 大姫は悲嘆の余り病の床についたといいます。

 政子は義高を討ったために大姫が病になったと憤り、親家の郎党の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、頼朝はやむなく藤内光澄を晒し首にしました。

 その後大姫は心の病となり、長く憂愁に沈む身となりました。

 政子は大姫の快癒を願ってしばしば寺社に参詣しましたが、大姫が立ち直ることはありませんでした。

 範頼と義経は一ノ谷の戦いで平家に大勝し、捕虜になった平重衡が鎌倉に送られてきました。

 頼朝は重衡を厚遇し、政子もこの貴人を慰めるため、侍女の千手の前を差し出しました。

 重衡は後に東大寺へ送られて斬られましたが、千手の前は重衡の死を悲しみ、ほどなく死去しました。

 範頼と義経が平家と戦っている間、頼朝は東国の経営を進め、政子も参詣祈願や、寺社の造営式など諸行事に頼朝と同席しました。

 1185年28歳のとき、義経は壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしました。

 平家滅亡後、頼朝と義経は対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻妾を連れて都を落ちました。

 翌年、義経の愛妾の静御前が捕らえられ、鎌倉へ送られました。

 政子は白拍子の名手である静に舞を所望し、渋る静を説得しました。

 度重なる要請に折れた静は鶴岡八幡宮で白拍子の舞いを披露しました。

 政子は大姫を慰めるために南御堂に参詣し、静は政子と大姫のために南御堂に舞を納めました。

 静は義経の子を身ごもっており、頼朝は女子なら生かすが男子ならば禍根を断つために殺すよう命じました。

 静は男子を生み、政子は子の助命を頼朝に願うが許されず、子は由比ヶ浜に遺棄されました。

 政子と大姫は静を憐れみ、京へ帰る静と母の磯禅師に多くの重宝を与えました。

 奥州へ逃れた義経は1189年に、藤原泰衡に攻められ自害しました。

 頼朝は奥州征伐のため出陣し、政子は鶴岡八幡宮にお百度参りして戦勝を祈願しました。

 頼朝は奥州藤原氏を滅ぼして、鎌倉に凱旋しました。

 1190年33歳のとき、頼朝は大軍を率いて入京し、後白河法皇に拝謁して右近衛大将に任じられました。

 1192年35歳ととき、夫の頼朝が武士の統領である征夷大将軍に就任しました。

 頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所=みだいどころと呼ばれました。

 また、次男で3代将軍となる実朝を出産しました。

 1194年37歳のとき、政子は大姫と頼朝の甥にあたる公家の一条高能との縁談を勧めましたが、大姫は義高を慕い頑なに拒みました。

 政子は大姫を慰めるために義高の追善供養を盛大に催しました。

 1195年38歳のとき、政子は頼朝と共に上洛し、宣陽門院の生母の丹後局と会って大姫の後鳥羽天皇への入内を協議しました。

 頼朝は政治的に大きな意味のあるこの入内を強く望み、政子も相手が帝なら大姫も喜ぶだろうと考えましたが、大姫は重い病の床につきました。

 政子と頼朝は快癒を願って加持祈祷をさせましたが、2年後に大姫は20歳で死去しました。

 1199年42歳のとき、頼朝は次女の三幡を入内させようと図りましたが、朝廷の実力者である土御門通親に阻まれました。

 親鎌倉派の関白・九条兼実が失脚し、朝廷政治での頼朝の形勢が悪化し三幡の入内も困難な情勢になりました。

 頼朝は再度の上洛を計画しましたが、落馬が元で急死しました。

 政子は頼朝を弔うため出家し、法名を安養院=あんにょういんといいました。

 夫の死後に落飾して尼御台=あまみだいと呼ばれました。

 長男の頼家が第2代将軍を継ぎました。

 1203年46歳のとき、頼家が出家し次男の実朝が第3代将軍を継ぎました。

 1219年62歳のとき、実朝が暗殺され、源頼朝の直系が絶えたため、京都出身の藤原頼経を連れてきて、4代将軍にしました。

 政子は尼将軍となり、頼経の後見人となりました。

 1221年64歳のとき、朝廷との間に承久の乱がおこり、尼将軍として鎌倉幕府の武士たちを奮い立たせ、幕府方が勝つ要因となりました。

 1225年に享年68歳で亡くなりました。

 「女房の目出たき例」にとされた北条政子、本書の主題はその政子を中世という時代のなかで語ることにあります。

 小説(文学)風味とは異なる、大説(歴史学)としての人物像の提供にあります。

 70年に近い政子の生涯には、頼朝の妻(御台所)、頼家・実朝の母、さらには尼将軍と、さまざまな立場がありました。

 夫や子女にさきだたれ、運命に殉ずるかの如く生きぬいた政子の人生は、悲劇という枠組みを越え、激しさと大きさがあるようです。

 考えてみれば、その生涯には平家の時代も、源平の争乱もさらには承久の乱までもがすっぽりと含まれてしまうのです。

 まさに彼女が生きた時代は古代から中世への変革期でした。

 わが国の未曽有の画期にあたるその時代を彼女は自ら体験しました。

 そうした点で政子を論ずることは、同時にわが国の中世を考えることにもつながります。

 本書が政子とその時代をつねに射程にすえたのもここにあります。

 政子の時代を読み解くことで、武家政権のさまざまが見えてくるはずです。

 本書の構成は次のとおりです。

 まず本論に先立ち、政子が後の時代にどのように語られてきたのかを概観し、各時代の政子評を整理することで、その虚像と実像について考えます。

 本論では政子が生きた時代を対象に、大姫・頼朝・頼家・実朝・義時といった関係人物たちを軸にその生涯を叙述しました。

 彼らを骨格にしたのは『承久記』が代弁するように、政子の人生の節目を象徴している人々と考えられるからです。

 そこには彼女が遭遇した政治的事件のさまざまが論ぜられることになります。

 最後の「伝説を歩く」では、政子にかかわる旧跡を紹介することで本論とは異なる回路を用意してみました。

 以上が本書の構成です。

 ここで打ち出した政子論により中世政治史の裾野がさらに広がることを期待するとのことです。

はしがき 関係系図/関係地図
序章 伝説を読む-歴史の中の「政子」たち/第1 大姫の章-建久八年 秋/第2 頼朝の章-建久十年 春/第3 頼家の章-元久元年 夏/第4 実朝の章-建保七年 春/第5 義時の章-貞応三年 夏/第6 政子の章-嘉禄元年 夏
/終章 伝説を歩く-史跡からの証言/参考文献/あとがき/北条政子略年譜/参考資料/人名・事項索引





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Last updated  2020.07.04 08:09:11
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