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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2020.10.10
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 ”名門水野家の復活 御曹司と婿養子が紡いだ100年”(2018年3月 新潮社刊 福留 真紀著)を読みました。

 江戸時代に忠重流、忠分流、忠守流、諸流があった水野家で、忠重-忠清流の松本藩主時代に第6代隼人正忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こしました。

 そのため改易となるも復活を果たした、忠友=ただともと忠成=ただあきらの奮闘を紹介しています。

 江戸時代前の宗家は、緒川城主・刈谷城主でした。

 織田信長の時代に武田勝頼への内通を疑われ、水野信元と跡継ぎの信政が殺害され断絶となりましたが、その後、難を逃れた一族は信長に再興を許されました。

 江戸時代には忠重流、忠分流、忠守流、諸流に分岐し、忠重流は宗家で結城藩主家でしたが、沼津藩主家・鶴牧藩主家・諸分家に分かれました。

 忠分流は安中藩主家・紀伊新宮藩主家・諸分家となり、忠守流は山形藩主家・諸分家となりました。

 忠重-勝成流は第5代・勝岑が2歳で夭折すると跡目を失い断絶となったことがありましたが、名門の家柄が惜しまれ勝成の孫である勝長が跡目を継ぎ家名の存続が許されました。

 忠重-忠胤流は遠江浜松藩主・松平忠頼を招いた茶会において忠胤家臣と忠頼家臣が口論を起こし、仲裁に入った忠頼を忠胤家臣が殺害してしまい、忠胤は切腹を命じられ廃藩となりました。

 忠重-忠清流は第6代隼人正忠恒が江戸城中で刃傷事件を起こしたため改易となりましたが、叔父出羽守忠穀に家名存続のみが許され、その子出羽守忠友が家治の側近として活躍して大名に復帰しました。

 そして、後に、駿河沼津城を与えられ城持ち大名となりました。

 大名復帰後、当主が側用人や老中といった幕府要職に就任する機会が多くなりました。

 忠守-忠元流は代々監物を名乗り帝鑑間に詰め、唐津藩時代を除いて幕府の要職に付くことが多かったです。

 忠分-分長流は第3代信濃守元知が乱心して妻女である出羽山形藩水野氏水野監物忠善の娘を殺害したため改易となり、その後子孫は旗本として存続しました。

 忠分-重央流は重央のとき徳川頼宣の附家老となり、その後子孫は江戸詰め家老の役にあり、基本的に江戸で政務を取りました。

 名門水野家の忠重-忠清流は、当主の乱心による江戸城松之廊下での刃傷事件で、譜代大名から旗本へ転落しましたが、本書は忠友と忠成の二代にわたる水野家復活の道程を史料を基に紹介しています。

 福留真紀さんは1973年東京都生まれ、東京女子大学文理学部を卒業し、お茶の水女子大学大学院博士後期課程修了し、2003年に博士(お茶の水女子大学・人文科学)となりました。

 東京大学史料編纂所特任研究員、長崎大学准教授などを経て、現在、東京工業大学准教授を務めています。

 水野氏は清和源氏を称する日本の氏族で、戦国時代には緒川城、刈谷城を中心に、尾張国南部の知多半島と三河国西部に領地を広げ、織田氏や徳川氏と同盟を結び、最盛期には24万石と称される勢力となりました。

 宗家のほか大高水野氏、常滑水野氏などの諸氏がありました。

 水野家は近世大名家を輩出した一族の一つで、江戸時代中期から後期には幕府の老中に人物を輩出し続けました。

 享保の改革や天保の改革に関与するなど、幕政を主導する立場に立つこともありました。

 幕末期においては、下総結城藩、駿河沼津藩、上総鶴牧藩、出羽山形藩の各藩の藩主が水野氏でした。

 その他、改易となった上野安中藩の藩主や、紀州藩の附家老であった紀伊新宮城主もこの一族でした。

 そして、維新後は、大名の水野家はすべて子爵に列しました。

 徳川幕府初代将軍家康の生母の於大の方は、刈谷城主水野忠政の娘に生まれ、岡崎城主松平広忠に嫁ぎ、1542年12月26日に嫡男竹千代、のちの家康を産みましだ。

 竹千代誕生の翌年、於大の方の父忠政が死去し、兄信元が水野家当主となると、水野家は今川家と手を切り、織田家との同盟関係を強めたため、今川家の傘下にあった松平家は於大の方を離縁しました。

 その後於大の方は、阿久比城主久松俊勝と再婚しました。

 於大の方が竹千代と再会するのは、1560年に桶狭間の戦いの先鋒として出陣し、久松の館に立ち寄った際のことでした。

 1587年に二人目の夫久松俊勝が亡くなると、翌年、於大の方は髪をおろし伝通院と号しました。

 その後、母華陽院と自分の位牌と肖像画を水野家の菩提寺に奉納しました。

 忠友は於大の方の弟忠重の四男忠清の家系で、忠清を初代とすると8代目の当主にあたります。

 忠清は家康・秀忠・家光に仕え、信濃国松本藩7万石の藩主となりました。

 2代目忠職は大坂城代、3代目忠直は帝鑑之間席、4代目忠周は奥詰、小姓を務め帝鑑之間席と、代々、古来御譜代としてそれなりの地位を得ていました。

 ところが、名君と期待された5代目忠幹が、25歳という若さで死去しました。

 その弟である6代目忠恒が、1725年にある事件を起こした科により、水野家は松本藩七万石を改易、信濃国佐久郡7000石の旗本となりました。

 家康の生母の実家のまさかの転落でした。

 復活の期待を背負った7代目忠穀は、3代目忠直の9男で書院番頭、大番頭を務めましたが、36歳で病死してしまいました。

 御家再興の望みを託されたのは、忠穀の嫡男で8目代の忠友でした。

 本書は、水野家再興の宿命を負い、老中まで上り詰めた御曹司忠友と、その婿養子で9代目当主となり、やはり老中となる忠成の奮闘の道をたどっています。

 忠友は1731年に大身旗本水野忠穀の長男として生まれ、父死去に伴い12歳で家督を相続し、1739年徳川家治小姓、1758年小姓組番頭格、1760年御側衆を経て、若年寄となりました。

 1765年に三河で6000石の加増を受け都合1万3000石になり、三河大浜に城地を与えられ再び大名に復活しました。

 さらに駿河沼津2万石に移り、2度の加増を経て最終的に3万石となりました。

 幕府では一貫して田沼意次の重商主義政策を支え、若年寄、側用人、勝手掛老中格を経て、正式な老中になりました。

 1786年に意次失脚と同時に忠徳と名乗らせ養嗣子としていた意次の息子を廃嫡とし、代わりに分家旗本の水野忠成を養嗣子としました。

 遅きに失した感は否めず、天明の打ち壊しを期に失脚し、松平定信の指令で免職の憂き目にあいました。

 10年後に再び老中(西丸付)に返り咲き、在職中の1802年に死去し跡を養嗣子の忠成が継ぎましだ。

 忠成は1762年に旗本岡野知暁の次男として生まれ、1778年に2000石取りの分家旗本水野忠隣の末期養子となり、忠隣の養女を娶って家督を相続しました。

 10代将軍徳川家治に仕え、小納戸役・小姓を歴任、1785年に従五位下大和守に任官しました。

 翌年、沼津藩主水野忠友の養子となり、その娘八重と再婚しました。

 1802年に忠友の死により沼津藩主を継ぎ、奏者番に任命されました。

 翌年には寺社奉行を兼務、以後、若年寄・側用人を歴任し、11代将軍徳川家斉の側近として擡頭しました。

 1817年に松平信明の死を受けて、老中首座に就任しました。

 義父・忠友は松平定信と対立した田沼意次派の人間であり、忠成もその人脈に連なりました。

 世の風潮が、吉宗政権期では質素、家重政権期では華美な雰囲気となり、田沼意次の時代である家治政権期ではそれが極まりました。

 家斉政権期に松平定信が将軍補佐を務めるようになると、再び質朴に戻りました。

 忠成は家斉から政治を委任されて幕政の責任者となり、文政小判の改鋳によって通貨発行益をもたらしデフレ不況から好景気へと引き上げました。

 当時、庶民には、「水の出て 元の田沼となりにけり」と皮肉られました。

 1834年に73歳で死去し、三男の忠義が跡を継ぎました。

 本書では、水野家再興の宿命を負い、奮闘し続けた御曹司忠友と、その婿養子忠成の真の姿に迫っていこうとしています。

 資料として本人の手による私的な書状や日記などが見出されていません。

 しかし、公務日記や公的記録などの史料に加え、家臣たち以外の周囲の人々、後世の人々がどのように恨えていったのかがわかる史料を含め、多くの人々の視線を積み重ねて多角的に分析しています。

第1章 「松之廊下刃傷事件」ふたたび/第2章 名門水野家、復活す/第3章 水野忠友、その出世と苦悩/第4章 悪徳政治家としての忠成/第5章 有能な官僚としての忠成





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Last updated  2020.10.10 07:13:12
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