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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2020.11.21
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 菅原道真は845年生まれの、貴族、学者、漢詩人、政治家で、参議・菅原是善の三男、官位は従二位・右大臣、贈正一位・太政大臣です。

 ”天神様の正体 菅原道真の生涯”(2020年9月 吉川弘文館刊 森 公章著)を読みました。

 天神様として畏怖・祈願の対象とする神道の信仰を背景に、全国で学問の神として祀られる菅原道真について、異例の出世や突然の左遷などその起伏ある生涯を紹介しています。

 忠臣として名高く、宇多天皇に重用され、寛平の治を支えた一人で、醍醐朝では右大臣にまで昇りつめました。

 しかし謀反を計画したとして、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没しました。

 死後、すぐに、臣下の味酒安行が道真を天満大自在天神という神格で祀りました。

 天神とは国津神に対する天津神のことであり、特定の神の名ではありませんでしたが、菅原道真が没するとすぐに、天満大自在天神という神格で祀られました。

 つづいて、清涼殿落雷事件を契機に、道真の怨霊が北野の地に祀られていた火雷神と結び付けて考えられ、火雷天神と呼ばれるようになりました。

 後に、火雷神は眷属として取り込まれ、新たに日本太政威徳天などの神号が確立し、さらに、実道権現などとも呼ばれ、仏教でもあつい崇敬をうけ、道真の神霊に対する信仰が天神信仰として広まりました。

 儒者の家に生まれた道真は、なぜ政治の世界で異例の出世を遂げたのでしょうか。

 また、なぜある日突然、大宰府に左遷されたのでしょうか。

 森公章さんは1958年岡山県生まれ、1981年に東京大学文学部国史学科を卒業、1988年に同大学院博士課程単位取得退学し、同年奈良国立文化財研究所文部技官となりました。

 1994年に高知大学人文学部助教授となり、1998年に文学博士(東京大学)を取得し、2001年に東洋大学文学部教授となり現在に至ります。

 本書は京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮や東京の湯島天神など、全国で学問の神として崇敬される菅原道真の生涯を解明しようとするものです。

 その探究に際して、まず曽祖父古人に至る土師氏の歴史から検討し、どのようにして学問の道につながるのかから考えています。

 そのうえで、祖父清公、父是善などの父祖の事績をふまえて、九世紀後半の時代を生きた道真の諸相を考究したいといいます。

 道真の曾祖父は土師古人で、土師氏の祖の野見宿禰は出雲国造出雲臣と同じく、天穂日命を遠祖とします。

 宿禰は実際に出雲から畿内ヤマトに到来し、当麻邑の当麻鍬速と拘力したことで著名で、これは相撲の起源として名高いです。

 その後、宿禰は垂仁天皇の朝廷にとどまりました。

 当時、天皇の弟倭彦命を埋葬したとき、この頃はまだ近習者を殉葬する風習があり、凄惨な光景が繰り広げられていました。

 宿禰は、殉死者に代えて埴で作った形象を墳墓に立てることを提案し、出雲から土部百人を喚び、人・馬や種々の形を作りました。

 土師氏は奈良時代になっても負名氏=なおいのうじとして喪葬儀土師氏の職能儀礼を担当する特異な律令宮人として存続していました。

 奈良時代の終わりに至って、ようやくこの状況を脱却して一般宮人への転換の道を模索しました。

 古人の申請に続いて、土師安人らは平城京の北の居地にちなんで秋篠姓への改姓を願い出ています。

 また、土師氏には四系統がありましたが、その一つの毛受腹の一族は大枝(大江)朝臣へと改姓しています。

 菅原・秋篠氏もこれに追随する形で、菅原朝臣・秋篠朝臣となりました。

 古人らの菅原氏が先導する形で、土師氏全体の改氏姓が図られました。

 古人らの言によると、土師氏はかつては吉凶両儀式に関与していましたが、その後、凶礼専従になっていたといいます。

 道真の父親は菅原是善、祖父は菅原清公、曾祖父は遠江介・菅原古人で、古人の氏姓は土師宿禰、のち菅原宿禰であり、先祖は土師氏です。

 道真には編著として”日本三代実録””類聚国史””新撰万葉集”があり、漢詩文集として”菅家文草””菅家後集”などがあります。

 いずれも歴史・文学史上で重要な書目とされています。

 政治史上では宇多天皇に起用され、蔵人頭から議政官に昇任し、最初に関白となった藤原基経の子時平と相並ぶ形で太政官の上首者になりました。

 次の醍醐天皇のときには、左大臣時平とともに右大臣にまで昇進しています。

 しかし、901年正月、突如大宰権帥に左遷され大宰府下で死没しました。

 その後、怨霊として猛威を振るったうえで、十世紀中葉には、天満自在天神、天神様として奉祀され、今日につながる天神信仰、学問の神として崇敬される状況が成立しています。

 道真は累代の儒者の家に生まれ、詩人・詩臣を自認しながらも、自分の嫌う鴻儒としての役割を務めていくことになりました。

 宇多天皇には数々の失策・失敗があり、この国の常として、下の者が責任を取ることが求められ、道真は諌臣として直言を行い、宇多天皇との大きな信頼関係を築くことができました。

 しかし、それゆえに大臣として頂点に立たされ、学閥の対立や貴種の人々の妬みをうけました。

 また、年齢差や宇多太上天皇・法皇に仕える二君への奉仕などもあって、醍醐天皇には諌臣としての信頼を得ることができないままに昌泰の変で左降、大宰府での死を迎えたと要約されます。

 道真の没後、疫病がはやり日照りが続き、また醍醐天皇の皇子が相次いで病死しました。

 さらに、清涼殿が落雷を受け多くの死傷者が出て、これらが道真の祟りだと恐れた朝廷は、道真の罪を赦すと共に贈位を行いました。

 元々京都の北野の地には平安京の西北・天門の鎮めとして火雷神という地主神が祀られていて、朝廷はここに北野天満宮を建立して道真の祟りを鎮めようとしました。

 道真が亡くなった太宰府には、先に醍醐天皇の勅命により藤原仲平によって建立された安楽寺廟、のちの太宰府天満宮で崇奉されました。

 また、949年には難波京の西北の鎮めとされた大将軍社前に、一夜にして七本の松が生えたという話により、勅命で大阪天満宮が建立されました。

 987年には北野天満宮天神の勅号が下され、天満大自在天神、日本太政威徳天などとも呼ばれ、恐ろしい怨霊として恐れられました。

 北野天満宮と太宰府天満宮はそれぞれ独立に創建されたものであり、どちらかがどちらかから勧請を受けたというものではありません。

 そのため、北野天満宮では「総本社」、太宰府天満宮では「総本宮」と呼称し、「天神信仰発祥の地」という言い方をしています。

 また、防府天満宮や與喜天満神社など最古の信仰発祥の地を称するところも複数あります。

 道真は基経が関白になる際の、宇多朝初期の阿衡事件にも若干関与しており、この事件の経緯や道真の役割の有無などには、なお解明すべき点が残っています。

 また宇多朝には寛平度遣唐使計画があり、道真の建議によって遣唐使は中止ないし廃止されたと考えられてきました。

 しかし、近年では遣唐使派遣の是非は未解決のまま、907年の唐の滅亡もあり、自然消滅になったとみるのが有力な見解です。

 この点を含めて、宇多朝の寛平の治と呼ばれる政治改革において道真が果たした役割いかんなども、なお不明の部分が多いです。

 基経・時平と道真の関係には新しい視点も呈されており、昌泰の変の真因に関してもさらに考究すべき点があります。

 著者は、こうした道真をめぐるさまざまな論点に留意しながら、学問に携わる者としても窒に興味深いその処世と生涯、そして正体を明らかにすることを期したいといいます。

土師氏の願い-プロローグ
父祖たちの足跡/土師氏の歴史/曽祖父から父まで
道真の立身/対策及第まで/文章博士として/讃岐守時代/阿衝事件
政治への参加/寛平の治/寛平度遣唐使計画/宇多朝から醍醐朝へ
左遷と死、そして天神様へ/昌泰の変/道真の死と怨霊から天神へ
その後の菅原氏-エピローグ







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Last updated  2020.11.21 08:27:00
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