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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2021.11.13
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 ”蓑虫放浪 蓑虫山人放浪伝 ”(2020年10月 図書刊行会刊 望月 昭秀著)を読みました。

 14歳のとき郷里の美濃を出て、北は青森から南は鹿児島まで全国津々浦々を自由に旅した、漂泊の画人・蓑虫山人の足跡を明らかにしています。

 鉄翁祖門は1791年生まれ、幕末長崎で活躍した南画家で、木下逸雲・三浦梧門と共に長崎南画三筆とされます。

 長崎銀屋町の桶職人日高勘右衛門の子で、11歳で父を亡くし華嶽山春徳寺13世玄翁和尚に養育されました。

 幼少より画を好み、はじめ唐絵目利の石崎融思に漢画を、1804年からは来舶清人の江稼圃に師事して南画を学びました。

 1820年に春徳寺14世住持となり、1827年に51歳の田能村竹田が春徳寺の鉄翁を訪問したことがあります。

 蓑虫山人は21歳の時にミノムシを見て、あのような虫にも家があると感じ、天幕のような笈を自作し蓑虫を号としました。

 ミノムシはチョウ目・ミノガ科のガの幼虫で、一般にはその中でもオオミノガ、チャミノガの幼虫を指します。

 幼虫が作る巣が藁で作った雨具の蓑に形が似ているため、日本ではミノムシと呼ばれるようになりました。

 ミノムシは身の回りの繊維であれば、葉や枝でなくても蓑を作り上げます。

 このため、毛糸くずや細かく切った色紙の中に蓑を取り去った幼虫を入れると、色鮮やかな蓑を作り上げます。

 秋に蓑を作るため俳句では秋の季語となり、ミノムシ自体は発声器官を持たないのですが、季語では「蓑虫鳴く」と扱われています。

 蓑虫山人は幕末から明治時代の絵師であり、考古学者でも造園家でもありました。

 しかしホラ吹きであり、蓑虫山人の語ったことや残された逸話のすべてを信じるわけにはいかないといいます。

 死後120年経っている人物ですから、いくら疑ったところで、すでにいくつかの真偽は不明です。

 そこで本書では、可能な限り状況証拠を集め、蓑虫山人の行動を推測することにしたとのことです。

 望月昭秀さんは1972年静岡市生まれ、現在、ニルソンデザイン事務所代表の傍ら、2015年からフリーペーパー「縄文ZINE」編集長をつとめています。

 ニルソンデザイン事務所は、2004年に個人で設立され、2013年に株式会社に法人成りしました。

 グラフィックデザイン全般を行い、主に書籍の装丁デザイを行っています。

 「縄文ZINE」は、望月さんが作る縄文時代をテーマにしたフリーペーパーです。

 2015年8月に創刊され、2018年12月現在第9号まで発行され、ユニークに縄文時代の紹介をしたり、縄文的視点でさまざまな物事をとらえ考えたりする内容となっています。

 年に3回毎号3万部を発行し、日本全国300カ所以上で配布され、グッズの販売、合本の出版・販売を行い、楽しみにしてくれる読者も増えてきているといいます。

 もともとは望月さんの個人的な企画から始まった雑誌ですが、号を重ねるごとに各地で新しい縄文ファンを発掘しているそうです。

 この雑誌を作成しようとぼんやりと考え始めた2014年から2015年当時、世間では「縄文」というコンテンツは、「誤解」と「偏見」にまみれて語られることが多かったそうです。

 一方で縄文好きは先鋭化し、好きな人とそうでない人の間には渓谷のように深くて広い断絶がひろがり、その両岸には大きな隔たりが存在していました。

 「縄文ZINE」の発行の理由も実は孤独な魂の叫びの一種で、縄文の楽しさを共有したいという魂の叫びだといいます。

 田附 勝さんは1974年富山県生まれ、埼玉県立和光国際高等学校を卒業後、写真を独学で学びました。

 1995年から1996年にかけてスタジオFOBOSに勤務し、1998年にフリーランスとして活動を開始しました。

 全国を走るデコトラとトラックドライバーを撮影し、初の写真集を2007年に発表し、2012年に第37回木村伊兵衛写真賞を受賞しました。

 蓑虫山人こと、土岐源吾は1836年美濃国、現在の岐阜県安八郡結村生まれ、家は豪農で父は好事家でした。

 本書は、幕末から明治初期にかけて日本という国を放浪し続けた、一人のホラ吹きの夢を追いかけたルポルターです。

 蓑虫山人は各地を放浪しその地の名勝や民俗を記録しましたが、幕末期には九州に滞在していたようです。

 その後約10年間足取りが一部を除いて途絶えた後、1878年に岩手県水沢、現・奥州市に水沢公園を造園し、その後、約10年間、東北地方に身を置きました。

 水沢公園は岩手県奥州市水沢中上野町にある都市公園で、岩手県有数の桜の名所として知られています。

 現在の水沢公園は500本以上の桜が咲き、樹齢300年のヒガンザクラの古木の群生は県の天然記念物に指定されています。

 園内には後藤新平の銅像、斎藤実の銅像、高野長英の碑、正岡子規の句碑、松平悦子の墓、七重の塔、戊辰戦争の弔魂碑、水沢公園史碑、太宰先生之碑、国体記念碑などがあります。

 蓑虫山人は1887年に、青森県つがる市にある縄文時代晩期の集落遺跡である亀ヶ岡遺跡の発掘調査を行いました。

 遺跡は、1622年に津軽藩2代目藩主の津軽信枚がこの地に亀ヶ岡城を築こうとした際、土偶や土器が出土したことから発見されました。

 江戸時代にはここから発掘されたものは亀ヶ岡物と言われ、好事家に喜ばれ、遠くオランダまで売られたものもあります。

 1万個を越える完形の土器が勝手に発掘されて持ち去られたといいます。

 1889年に学術調査が行われ、1895年と昭和にも発掘調査が行われ、戦後も支谷の低湿地遺物包含層のみの調査が行われました。

 現在、現地には遮光器土偶をかたどったモニュメントが建てられていますが、その背後にある谷間の湿地帯から数多くの遺物が出土しています。

 この時期に神田孝平の知遇を得て、遺跡発掘についての報告を神田に手紙で送り、それが日本人類学会 が発行する「東京人類学雑誌」に掲載されました。

 日本人類学会は、自然人類学に関連する諸分野の研究者を中心とした学術団体で、設立は1884にさかのぼり、日本で最も古い学会の一つです。

 人類学上の事項を研究し、これに関する知識の交流をはかることを目的とし、学術集会の開催 、機関誌の刊行 、内外諸学会との交流、公開シンポジウムの開催などの活動を行っています。

 神田孝平は1830年美濃国不破郡岩手村生まれ、江戸時代末期から明治時代にかけての日本の洋学者、政治家です。

 兵庫県令、文部少輔、元老院議官、貴族院議員を歴任しました。

 牧善輔・松崎慊堂らに漢学を、杉田成卿・伊東玄朴に蘭学を学び、幕府蕃書調所教授となり、1868年に同頭取に昇進しました。

 江戸開城後の1868年に、明治政府に1等訳官として招聘されました。

 蓑虫山人は、1887年に一度上京しその後は再び東北に戻り、1895年に秋田県滞在中に唯一の肖像写真を残しています。

 1896年に帰郷するが居場所が見つからず、笠松で地元民から「竹をくれるなら絵を描く」という条件で竹を集めて庵を作りました。

 1897年に完成して「籠庵」と名付けられた庵は、車に乗せられて約15km離れた志段見まで移動して据え付けられたといいます。

 1899年には名古屋市の長母寺に身を寄せ、翌年2月に他の寺に出向き入浴した後に倒れて死去しました。

 長母寺は愛知県名古屋市東区にある臨済宗東福寺派の寺院で、1179年にこの地の領主であった山田重忠の開基により創建されました。

 当初は天台宗に属しており亀鐘山桃尾寺と号しましたが、1263年に無住一円が入寺して以降禅宗寺院となり、山号・寺号が現在のものに改められ、一時末寺93ヶ寺を数えるほど隆盛しました。

 中世には代々武家の帰依を得て北条氏・足利氏・織田氏などから寺領を寄進されましたが、文禄年間の太閤検地によって寺領が没収され一時衰退した時期もあります。

 江戸時代前期の1682年に、尾張藩二代目藩主徳川光友の命により禅僧・雪渓恵恭が再興しました。

 長母寺付近を流れる矢田川は、1868年、1896年、1903年、1911年、1925年に、度々洪水を起こしました。

 1891年の濃尾地震により、本堂が倒壊しましたが、その後再建されました。

 蓑虫山人とはいったい何者だったのでしょうか。

 折り畳みの家を背負って旅をしたアドレスホッパーだった、幕末に西郷隆盛を助けた、勝海舟、山岡鉄舟とも知り合いだった、青森・亀ヶ岡で、あの遮光器土偶を発掘したなどなどが伝わります。

 蓑虫の名は、バックパッカーのように生活用具一式を背負い、時には折り畳み自在の寝幌に一夜を過ごす旅のスタイルから、蓑虫山人自身が名付けたものです。

 奇想天外で独立独歩、そしてユーモアの達人。その人柄は多くの人々から愛され、各地にはいまも蓑虫山人が描き残した絵日記が残っています。

 絵日記には、幕末から明治という、ウィズコロナ時代のいまよりもさらに激動の時代を、愉快に生きた蓑虫山人と人々の暮らしが生き生きと描かれています。

 絵日記を眺めていると、自然と心が和み、また、蓑虫山人は人生を愉しくする天才だったと思えてきます。

 閉塞的な世情にも響くものがあり、2020年のいま、あらためて蓑虫山人への注目が集まっています。

 著者は東北地方へ足を運んだのが2006年で、それから15年近く通い続けているそうです。

 ある時、青森県の浪岡町にある、蓑虫山人が描いた「土器図石器図絵屏風」の存在を知ることになりました。

 縄文時代というものに興味を持っていたけれど、幕末から明治に移り変わる激動の時代に、こんな温かな絵を残す絵師がいたのかといたく興味を持ったといいます。

 2011年に東北地方で撮影したものを一冊の写真集にまとめ、ひと区切りがつくはずでしたが、震災がありそれから心の在り方が平穏を取り戻すまでに数年を要したそうです。

 2013年になってから、蓑虫山人の屏風絵は、浪岡町中世の館の静かな館内でガラスケースに収められていました。

 資料を見た時に感じていた以上に、現物を見てみれば土器や土偶への思い入れや優しさが惨んでいました。

 そして、それを鑑賞する人に伝えたいと強く思って、縄文ZINEで編集長を務める望月昭秀さんに出会い、蓑虫山人の企画を雑誌に持ち込んだり、二人で取材の旅に出掛けたりして、最終的にはこの本を作るまでに至ったということです。

序/年表/1、源吾/2、幕末/3、土偶/4、変人/5、放浪/6、美濃/笈の記2020/あとがき/参考文献

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Last updated  2021.11.13 08:07:07
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