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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.01.15
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 ”明暦の大火 「都市改造」という神話”(2021年9月 吉川弘文館刊 岩本 馨著)を読みました。

 世界史上最大級の惨事といわれる明暦の大火が従前の江戸市街地を滅ぼし、その後の都市改造が新たな江戸を創り上げたという通説を検証し、大火と復興の実像に迫っています。

 関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと、日本史上最大の火災であり、ローマ大火、ロンドン大火、明暦の大火を世界三大大火とする場合もあるようです。

 明暦の大火は出火の状況から振袖火事、火元の地名から丸山火事といわれる、明暦3 (1657) 年1月18~19日の江戸の大火です。

 1月18日未の刻(14時ごろ)、本郷丸山の本妙寺より出火し、神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及びました。

 霊巌寺で炎に追い詰められた1万人近くの避難民が死亡し、浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたことで逃げ場を失った2万人以上が死亡しました。

 1月19日巳の刻(10時ごろ)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力の宿所より出火し、飯田橋から九段一帯に延焼し、江戸城は天守を含む大半が焼失しました。

 1月19日申の刻(16時ごろ)、麹町5丁目の在家より出火し、南東方面へ延焼し、新橋の海岸に至って鎮火しました。

 焼失町数約500~800、旗本屋敷、神社仏閣、橋梁など多数が焼け、さらに江戸城本丸はじめ大名屋敷も多く焼亡しました。

 焼死者は約10万に及んだと言われ、江戸時代初期の町の様相は失われました。

 火災後、身元不明の遺体は幕府が本所牛島新田に船で運び埋葬し、供養のため現在の回向院が建立されたと言われます。

 幕府は米倉からの備蓄米放出、食糧の配給、材木や米の価格統制、武士・町人を問わない復興資金援助を行いました。

 松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行し、1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国などの施策を行い、災害復旧に力を注ぎました。

 岩本馨さんは1978年北九州市生まれ、2000年に東京大学工学部建築学科を卒業し、2002年に同大学大学院工学系研究科修士課程を、2006年に同大学博士課程を修了し博士(工学)となりました。

 2006年に京都工芸繊維大学助手となり、その後、助教、講師を経て、2017年から准教授を務めています。

 明暦の大火については、その後の幕府の都市改造が新たな江戸を創り上げたという通説について、裏付けのないエピソードを避け、信頼性の高い記録から災害時の天候や焼失範囲などの事実関係を確認し検証しています。

 本妙寺の失火が原因とする説は伝承に基づいており、振袖火事の別名の由来になっています。

 「お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行った。その帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向いた。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまった。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らした。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。」

 「当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16歳)のものとなる。ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた。」

 「さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。」

 この伝承は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著しました。

 伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して作り話と結論づけたといいます。

 次に、江戸の都市改造を実行するため、幕府が放火したとする説があります。

 当時の江戸は急速な発展による人口の増加にともない、住居の過密化をはじめ、衛生環境の悪化による疫病の流行、連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化するなど都市機能が限界に達していました。

 もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていましたが、都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていました。

 そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば、都市改造が一気にできるようになると考えたのだといいます。

 江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため、放火計画は立てやすかったと思われます。

 実際に大火後の江戸では都市改造が行われていますが、明暦の大火では江戸城にまで大きな被害が及んでおり、幕府側も火災で被害を受ける結果になっています。

 次に、本妙寺火元引受説は、本来、火元は老中・阿部忠秋の屋敷でしたが、火元は老中屋敷と露見すると幕府の威信が失墜するため、幕府が要請して阿部邸に隣接する本妙寺が火元ということにして話を広めたとする説です。

 これは火元であるはずの本妙寺が大火前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を奉納したことなどを論拠としています。

 災害復興のため幕府貯蔵の金銀は底をつき、江戸幕府の勘定奉行の荻原重秀が元禄時代行った貨幣改悪の遠因となりました。

 明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転しました。

 また市区改正が行われ、防衛のため千住大橋だけであった隅田川の両国橋や永代橋などの架橋が行われ、隅田川東岸に深川など市街地が拡大され、吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進みました。

 さらに防災への取り組みも行われ、火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置されました。

 現在でも上野広小路などの地名が残っています。

 幕府は防火のための建築規制を施行し、耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励しました。

 しかし、その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われる通り、江戸はその後もしばしば大火に見舞われました。

 紀元64年7月にローマは燃え、大競技場付近から起こった火は、風に煽られてまたたく間に燃え拡がり、6日間にわたって市街地の7割以上を焼きました。

 当時のローマでは木造建築が不規則に密集していて、それが甚大な被害につながったと考えられます。

 大火後のローマでは、皇帝ネロのもとで、規則正しい街区の形成、道路の拡幅、建築の不燃化などの都市改造が行われたとされます。

 当時のローマの人々は、もしやこの大火は、暴君ネロがローマを改造するために仕掛けたものだったのではないかと噂したといいます。

 それから1593年後の明暦3年1月に、ローマ大火などとともに世界史上最大級の惨事として挙げられるほどの明暦の大火災が江戸を襲いました。

 ローマ大火と明暦の大火は、時代は遠く隔たってはいますが、その語られ方については不思議と符合します。

 都市災害のなかで、火災はとりわけ人災としての側面が大きいです。

 そもそも火災は意図的に発生させることが可能なうえに、狭隘な市街地、燃えやすい建築、未熟な消火システムによって被害が拡大されえます。

 それゆえ大火に遭ったとき、人々は自らの都市が抱えていた問題点に向き合わざるを得ません。

 焼失した都市が大火後に改造されて相貌を一新したというような説明、あるいはさらにそこから飛躍して、大火はそもそも都市改造のために引き起こされたのだという陰謀論は、その点で人々にとって分かりやすいです。

 明暦の大火についても、放火説はともかく、大火が従前の江戸市街地を滅ぼし、その後の都市改造が新たな江戸を創り上げたという流れは、通説としてさまざまな書籍などで記述されてきました。

 明暦の大火を江戸の都市史の劃期として捉える史観は、古くは戦前の書籍も見られ、さらに大元をたどれば近世にまで遡る伝統的なものでした。

 しかしここに挙げられている都市改造の内実については、必ずしもきちんとした実証がなされてきたわけではないため、改めて検討される必要があるように思われると言います。

 20世紀段階では、明暦の大火前の江戸について知るための手がかりは、飯田龍一・俵元昭『江戸図の歴史』の「寛永描画図群」と呼ばれる一連の木板図がほとんどでした。

 これらは江戸の中心部のみを図化したものでした。

 江戸全域らしい範囲を描いたものとしては「正保江戸図」の存在が知られてはいましたが、これは随所に不自然な空白や欠落があり不完全な図でした。

 大火前 江戸の全体像を知ることはこの時点では不可能だったのであり、それゆえ大火後の江戸の拡張も過大に評価されがちでした。

 ところが、2006年に大分県臼杵市で寛永末年、西暦1642~43年の江戸の全貌を描いた「寛永江戸全図」が発見され、翌年には仮撮影版が刊行されました。

 また2007年には、大火直後の明暦3~4年、西暦1657~58頃の江戸を描いたとみられる、三井文庫所蔵の「明暦江戸大絵図」の全体を高精細撮影して索引を付した書籍が刊行されました。

 これら新たに発見・紹介された江戸全体図によって、誰もが大火前後の江戸の変遷を詳細に追うことができる環境が整ったのです。

 そこで本書では、裏付けのないエピソード類の利用を可能な限り避け、信頼性の高い記録から事実関係を押さえることを基本方針としています。

 あわせて、江戸図類に記載される情報の悉皆的なデータ化により、空間的な変遷を把握することで、明暦の大火とその後の復興の実像に迫っていきたいといいます。

「都市改造という神話」-プロローグ/大火の日(大火前後の江戸と絵図〈江戸の実測図/大火前の江戸図〉以下細目略/明暦三年、正月/三つの大火/大火の被害)/「復興」の実態(焼け跡から/大火後の被災地/郊外へ)/大火以前・以後(江戸のスプロール/始まっていた「改造」/「改造」は前進か)/神話化する大火(『むさしあぶみ』の功罪/「都市改造」幻想)/大火がもたらしたものーエピローグ/明暦3年元日時点の大名一覧

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Last updated  2022.01.15 21:06:54
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