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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2022.03.05
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 シチリア島はイタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島で、面積は2万5460平方キロメートルで地中海最大の島です。

 ”地中海の十字路=シチリアの歴史”(2019年6月 講談社刊 藤澤 房俊著)を読みました。

 古くはギリシア人とフェニキア人が覇権を争い、次にローマの穀倉となり、中世にはイスラーム勢力が、そしてノルマン人が栄光の時代をもたらし、さらに、欧州の強国の確執があり、多様な文化と宗教に彩られてきました。

 古典ギリシア語ではシケリア、ラテン語ではシキリアと呼ばれ、英語由来の名称でシシリー、シシリアとも呼ばれます。

 周辺に浮かぶ島々を含めてシチリア自治州を構成しています。

 トラパニ、パレルモ、メッシーナ、アグリジェント、カルタニセッタ、エンナ、カターニア、ラグーザ、シラクーザの9つの県からなり、州都はパレルモです。

 自治州の面積は2万5708平方キロメートルで、イタリアの州のなかではもっとも広く、人口486万人強(2001)です。

 東のファーロ岬、南のイゾラ・デッレ・コッレンティ岬、西のリリベオ岬を頂点とする三角形の島です。

 イタリア半島のカラブリアとは幅3キロメートルのメッシーナ海峡によって、アフリカ大陸とは幅140キロメートルのシチリア海峡によって隔てられています。

 島の北部には、アペニン山脈から連なるペロリターニ、ネブロディ、マドニーエの三つの山脈が東西に走ります。

 中央部にはエレイ山地、南部にはイブレイ山地、東部には島内最高峰であるヨーロッパ最大の活火山エトナ火山(3323メートル)があります。

 平野は少なく、島内最大のカターニア平野を除けば、パレルモやジェラなどの周辺に小規模な海岸平野があるにすぎません。

 地中海のほぼ中央に位置しており、かつて地中海の要衝としてさまざまな勢力が覇権を競い合いました。

 古くからシクリ人などが住んでいましたが、フェニキア、ギリシア、カルタゴ、ローマ、東ゴート、サラセン、ノルマン、フランスのアンジュー家、アラゴン、スペインなどに次々に支配され、1861年イタリア王国の一部となりました。

 主要都市のはいずれも、古代ギリシア,ノルマンなどの遺跡があります。

 藤澤房俊さんは1943年東京都生まれ、早稲田大学第二文学部史学科を卒業し、同大学院文学研究科博士課程を単位取得退学し、2001年に早大文学博士となりました。

 1970年から1971年までローマ大学に留学し、1973年から1975年までイタリア歴史学研究所に留学しました。

 共立女子大学助教授を経て、1992年に東京経済大学教授となり、2013年に定年となり名誉教授となりました。

 1988年に第11回マルコ・ポーロ賞受賞、1996年にイタリア政府よりイタリア共和国功労勲章・カヴァリエーレを、2006年にコンメンダトーレを授与されました。

 シチリアは、長靴の形をしたイタリア半島に蹴りあげられるように、地中海に浮かぶ最大の島です。

 古くは(シチリアの)形態からトリナクリアと呼ばれた島は、そこに移住したシカーニ人によってシカーニアと命名されましたが、イタリア半島から大挙して渡来したシークリ人によってシケリアという名になりました。

 シチリアの古称トリナクリアは、三角形のシチリアの地理的形態を示しています。

 トリナクリアの図像には、ギリシア神話に登場する女性メデューサの顔が中央についています。

 メデューサは、その顔を見たものは石になるといわれ、古代ギリシアでは魔除けとされました。

 ギリシアのメデューサの頭毛は蛇になっていますが、シチリアのそれは麦の穂で編まれており、シチリアの肥沃な大地を表す大地母神といわれています。

 シチリアの名前は、前八世紀に渡来し、植民市を拓いたギリシア人が、先住民のシークリ人の住むところ、シケリアと呼んだことによります。

 そして、シチリアに住み着いたギリシア人は自らをシチェリオーティ人と名乗りました。

 ホメロスが「ワインのような濃い色」と呼んだ地中海は、ラテン語の中(medi)と、地(tera)を合成したもので、ヨーロッパとアフリカの間にあるところという意味です。

 ローマ人は帝国を樹立すると、地中海をマーレーノストルム、「われらの海」と呼びました。

 シチリアを取り巻く地中海は、外の世界を遮断するのではなく、結び合う、開かれた路でした。

 シチリアは地中海を通路として、西と東、ヨーロッパとアフリカにつながっています。

 その開放的な地理的環境ゆえに、古代から今日にいたるまで、あまたのよそ者が絶えることなくシチリアに侵入しました。

 近隣のイタリア半島やアフリカからはもちろんのこと、遠く離れたノルマンディやドイツなどのヨーロッパの地域からも、多様な人種、宗教、文化が古くからシチリアに流入しました。

 地中海の真ん中に位置し、文明の十字路と呼ばれるシチリアでは、侵入した人々が衝突や排除を繰り返しながらも融合し、重層的に交錯する独特の世界が誕生しました。

 シチリアの東部、南部の沿岸には、ギリシア人の植民市を起源とする、たとえばカターニア、シラクーサ、アグリジェントなどの都市が今も栄えています。

 百のシチリアとも形容されるシチリアには、さまざまなよそ者を起源にもつ都市や町が混在し、それぞれに固有の歴史と文化を今も残しています。

 シチリアの都市は、ギリシア人が建てた壮麗なモニュメントが残る、シラクーサやアグリジェントのような沿岸都市だけではありません。

 アラビア語で花瓶の丘を意味する、カターニア県の山岳都市カルタジローネは、イスラーム教徒がもたらした色鮮やかな陶器の町として、今も栄えています。

 シチリアの北西部には、最初はフェニキア人が築き、花を意味するジズと呼ばれ、ギリシア人が支配するようになるとすべてが港を意味するパノルモスと呼ばれるようになる、自然港のパレルモがあります。

 時空を超えて、多様な人種と文化が混在するシチリアを、今も視覚的に知ることができます。

 パレルモの町を歩いていると、目鼻立ちの整った、それこそギリシア彫刻のような女性に出会うことがあるそうです。

 黒い髪の、浅黒い肌のアラブ系と思える人も散見されます。

 肌が白く、背が高い、紅毛碧眼のシチリア人を目にすることもあるそうです。

 パレルモの歴史的中心地には、イタリア語・アラビア語・ヘブライ語の三ヵ国語で広場や通りの名前を記した標示板があります。

 それは、パレルモの歴史的な多民族社会の記憶の場であり、多文化社会の未来を希求するものです。

 しかし、反ユダヤ主義者や難民を排斥する人によって、標示板が破壊される事件が、今起こっているそうです。

 シチリアの奥地に入ると、オスマン帝国の拡大から逃れてシチリアに住み着いたアルバニア人の町、ピアーナーデッリーアルバネージが存在します。

 そこではギリシア正教の教会があり、現代イタリア語のかたわらでアルバニア語が日常的に使用されています。

 歴史的に多様な人種や文化が混在する、カオスとさえ形容されるシチリアは、知的好奇心を掻き立てる特別な場所のトポスであり、それこそがシチリアの魅力に他なりません。

 シチリアは、世界の各地域と相互に交錯する歴史を照射することが出来る、グローバルーヒストリーの格好の対象です。

 地中海世界という広域の文脈のなかにシチリアを設定し、広範囲な相互連関と人種・宗教・文明が重層的に交錯するシチリアの歴史的特徴を明らかにすれば、ヨーロッパ中心の世界とは異なる歴史が見えてくるといいます。

 本書は、ギリシア人がシチリアに植民市を拓いた前8世紀から、イタリアのなかで特別自治州となった今日まで、長い時間をカバーしています。

 紀元前にはギリシア人植民者とカルタゴが争い(シケリア戦争)、後のポエニ戦争でローマの支配下に入り(シキリア属州)、6世紀にはユスティニアヌス大帝の東ローマ帝国に属しました。

 9世紀後半にはイスラムが掌握し、中心拠点となったパレルモは3000人ほどの町から30万人を超える都市に急成長し、イスラムの中心都市として繁栄しました。

 11世紀に北フランス出身のノルマン人が征服し、ムスリムとも共存して多文化が融合したシチリア王国として繁栄しました。

 地中海世界で政治的・文化的・経済的に君臨し、現在のシチリア人の歴史的・文化的な拠り所は、このシチリア王国にあるようです。

 ノルマン人に代わってシチリアを支配するのは、ドイツのホーエンシュタウフェン家です。

 中世の君主の枠におさまらない、神聖ローマ皇帝にしてシチリア王のフェデリーコニ世(ドイツ語でフリードリヒ二世)は、シチリアの歴史を語るうえで、欠かせない人物の一人です。

 ノルマン人が約130年、ホーエンシュタウフェン家が約70年と、それぞれが支配した期間は決して長くありませんが、シチリアに残したものは大きいです。

 ホーエンシュタウフェン家の後、シチリアは教皇派のフランスのアンジュー家が支配しました。

 シチリアの晩祷と言われる住民暴動と虐殺事件で、シチリアから放逐されたアンジュー家に続いて、シチリアはアラゴン・スペインによる長くて暗い時代に入りました。

 シチリアではイベリア半島との関係が強まり、イタリア半島とは異なる歴史的展開を見ることになりました。

 対抗宗教改革である異端審聞所が導入され、古くからシチリアに住み着いていたユダヤ人はローマ、ピーサ、ヴェネツィアに逃れました。

 オスマン帝国が勢力を拡大すると、シチリアはキリスト教世界の防波堤となりました。

 大航海時代にスペインが世界最大の植民地帝国になると、商業活動の中心が地中海から大西洋に移り、シチリアは重要性を失い、ヨーロッパの周縁となりました。

 18世紀にはいるや否や、シチリアはヨーロッパの国際政治にチェスのコマを動かすように翻弄され、30数年間に4度も支配者が交代しました。

 ハプスブルク家・ブルボン家時代に、啓蒙的改革が始まり、異端審聞所が廃止されました。

 フランス革命、ナポレオン支配という激動のヨーロッパにあって、イタリア半島がフランスの支配下に置かれたのに対して、シチリアはイギリスの保護下に置かれました。

 このときもまた、シチリアはイタリア本土と異なる歴史を経験しました。

 ナポレオン失墜後の1816年に成立した両シチリア王国の時代に、首都がナーポリにおかれました。

 シチリアは、ナーポリからの分離独立を要求するようになりましたが、その時期にイタリア本土で高揚していた、オーストリアからの独立とイタリアの統一運動に巻き込まれていきました。

 統一運動の英雄ガリバルディの率いる義勇兵部隊がブルボン軍を撃破し、シチリアはイタリアに統合されました。

 自由の戦士として、ガリバルディを熱狂的に迎えたシチリアの興奮は瞬く間に消え、イタリア政府に対する不満があふれ出ることになりました。

 19世紀末からよそ者を受け入れるだけだったシチリアは、アメリカなど海外に大量の移民を出すことになりました。

 第二次世界大戦末期、シチリアに上陸したよそ者は、パットン将軍・モントゴメリー将軍の率いる連合軍でした。

 その時、イタリアからの独立を掲げたシチリア独立運動が躍り出て、ムッソリーニに弾圧されていたマフィアも燦然と蘇りました。

 戦後、奇跡の経済復興で沸き立つ北イタリアの諸都市に、シチリアは国内移民を送り出すことになりました。

 1946年にイタリア共和国の自治州となり、1950年から1962年にかけて国土の再編成が行われ、シチリア島は少し拡張されました。

 現在、シチリアはイタリアの一部ですが、完全に国民国家に収斂されるのではなく、特別自治州として、大幅な自治権を獲得しています。

 歴史的に絶え間なく侵入したよそ者と、宗教・文化の相互交錯の過程で、シチリア主義とも呼ばれる、シチリア人の誇り高いアイデンティティが形成されました。

 シチリアの歴史には、多様な征服者にともなって、ギリシア語・ラテン語・アラビア語・フランス語・ドイツ語・スペイン語・イタリア語が登場し、時代によって地名は変化しているケースも多々あります。

 本書はその3000年に及ぶ歴史を描き出し、シチリア島から世界史を照射しようとしています。

序章 シチリア島から世界史をみる/第1章 地中海世界と神々の島/第2章 イスラームの支配と王国の栄光/第3章 長くて、深い眠り/第4章 独立国家の熱望と失望/第5章 ファシズムと独立運動/終章 「シチリア人」の自画像

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Last updated  2022.03.05 08:09:03
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