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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2024.01.06
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 五代友厚は1836年薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷、現在の鹿児島県鹿児島市長田町生まれ、大阪経済界の重鎮の一人です。
 ”五代友厚 渋沢栄一と並び称される大阪の経済人”(2023年9月 平凡社刊 橋本 俊詔著)を読みました。
 幕末に薩摩藩士の子として生まれ、後に経済人として鉱業と製造業を中心に多くの事業を始め、大阪商工会議所の設立に尽力し、大阪経済の礎を築きました。
 東の渋沢栄一、西の五代友厚と称されるように、二人は日本の資本主義経済の船出に大きな貢献をしました。
 それぞれ東京商法会議所と大阪商法会議所をつくり、一橋大学と大阪市立大学の創設に関与しました。
 大阪経済の創始者である五代ですが、出身は関西ではなく薩摩です。
 明治維新は薩摩をはじめ長州、土佐、肥前出身の武士の活躍で達成されました。
 五代が偉大な人物として名を残せたのは、薩摩藩での若い頃の人生が決定的に重要です。
 橘木俊詔さんは1943年兵庫県生まれ、1967年に小樽商科大学を卒業しました。
 1969年に大阪大学大学院経済学研究科修士課程を修了し、1973年にジョンズ・ホプキンス大学大学院博士課程を修了しました。
 大阪大学教養部助教授を経て、1979年に京都大学経済研究所助教授、1986年に教授となりました。
 専攻は労働経済学で、1998年に経済学博士(京都大学)となりました。
 2003年に同大学院経済学研究科教授となり、2007年に定年退任し名誉教授となりました。
 現在、京都大学名誉教授、京都女子大学客員教授、元同志社大学経済学部特別客員教授を務めています。
 五代友厚は記録奉行である五代直左衛門秀尭の次男として生まれ、質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられました。
 8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学びました。
 14歳のとき、琉球交易係を兼ねていた父・五代秀堯が奇妙な地図を広げて友厚を手招きました。
 見せたものは、藩主・島津斉興がポルトガル人から入手した世界地図でした。
 少年期の五代才助はこれを見ることができる環境で育ち、諸外国へ思いを馳せたのかもしれません。
 1854年にペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となった折、五代は男児志を立てるはまさにこのときにありと奮いたったといいます。
 1855年に藩の郡方書役助となり、翌年に長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学びました。
 1863年に生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと寺島宗則と共にイギリス海軍の捕虜となりました。
 通弁の清水卯三郎のはからいにより、横浜において小舟にてイギリス艦を脱出し江戸に入りました。
 1865年に藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発し、さらに欧州各地を巡歴しました。
 1866年に帰国し御小納戸奉公格に昇進し、薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任しました。
 長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど、実業家の手腕を発揮し始めました。
 1868年に戊辰戦争が勃発し、五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍し、明治新政府の参与職外国事務掛となりました。
 外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、堺事件、イギリス公使パークス襲撃事件などの外交処理にあたりました。
 また、大阪に造幣廠を誘致し、初代大阪税関長となり大阪税関史の幕を開けました。
 1869年の退官後、本木昌造の協力により英和辞書を刊行、また硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立しました。
 紡績業・鉱山業・製塩業・製藍業などの発展に尽力しました。
 大阪財界人、田中市兵衛らとともに 
大阪株式取引所、大阪商法会議所、大阪商業講習所、大阪製銅、関西貿易社、共同運輸会社、神戸桟橋、大阪商船、阪堺鉄道(現・南海電気鉄道)
などを設立しました。
 薩摩の七傑とは、西郷隆盛、島津斎彬、大久保利通、黒川清隆、桐野利秋、付田新入、そして五代友厚です。
 このなかで、島津斉彬が育てた出色の家臣として、西郷、大久後、寺島宗則、そして五代が挙げられています。
 マス・グラバーとシャルル・モンブランは、五代の人生を語るうえでとても重要な二人の外国人です。
 五代の薩摩藩士としての富国強兵、殖産興業政策の実行、明治新政府の外交官、官を辞しての経済人としての生活にも影響を与えました。
 渋沢栄一はフランスでフリュリ=エラールから銀行業を学びましたが、五代におけるグラバーとモンブランは、渋沢におけるエラールよりもけるかに大きな影響力がありました。
 多岐にわたる事業を経営したのは東の渋沢と同じであるが、両者に違いもあります。
 第一に、渋沢が企業の経営に関与した数は500社近くにも達し、日本資本主義の父と称されるほどですが、五代の場合はその企業数は渋沢よりかなり少ないです。
 第二に、渋沢が最初に手掛けた事業は銀行業でしたが、五代の場合には、鉱山業と金・銀・銅などの鋳造と精錬でした。
 経営者としての生活を送りながら、五代は商工会議所の設立に関与し、いわゆる財界活動の拠点を創設するとともに自らが会頭職を務め、文字通りの大阪財界の指導者となりました。
 商業講習所の設置にも関与し、商業教育を大阪に根づかせようとしました。
 ところが1885年に五代は49歳で命を落としました。
 遠因は糖尿病にあったとされ、高血圧症心臓疾患が直接の死因でした。
 東の渋沢は当時としては珍しい91歳まで生きた長命であり、それこそ数多くの事業を成しましたが、五代の場合には50歳になる前の死でした。
 とはいえ明治時代の平均寿命は45歳前後であったとされますので、決して早世ではなく、仕事の種類と量の多さを渋沢と単純に比較するのは正しいとはいえないといいます。

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序章 友厚の幼青年期とは/第1章 長崎海軍伝習所と薩英戦争/第2章 薩摩藩の英国使節団/第3章 幕末から明治期ー役人・民間経済人として/第4章 働き盛りを迎えた明治10年代/第5章 五代友厚と渋沢栄一





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Last updated  2024.01.06 07:29:23
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