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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.02.01
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 アルベール・カミュは、1913年にフランス領アルジェリアのモンドヴィ、現、ドレアン近郊で生まれました。
 ”アルベール・カミュ 生きることへの愛 ”(2024年9月 岩波書店刊 三野 博司著)を読みました。
 史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞したフランスの小説家・劇作家・哲学者・随筆家・記者・評論家であったカミュについて、アルジェリアでの出生から不慮の死までを紹介しています。
 19世紀初めに祖父がフランスからアルジェリアに渡ってきて、父親は農場労働者でした。
 生まれた翌年に父がマルヌ会戦で戦死し、以後、母と2人の息子はアルジェ市内の母の実家に身を寄せました。
 この家には、祖母のほかに叔父が一人同居していました。
 聴覚障害のあった母親も含め、読み書きできるものは一人もいませんでした。
 カミュはこの家で育ち、貧しいものの自然に恵まれた幼少期を過ごしました。
 カミュの著作は、不条理という概念によって特徴付けられています。
 不条理とは、明晰な理性を保ったまま世界に対峙するときに現れる不合理性のことです。
 不条理な運命を目をそむけず、見つめ続ける態度が反抗と呼ばれます。
 人間性を脅かすものに対する反抗の態度が、人々の間で連帯を生むとされます。
 病気、死、災禍、殺人、テロ、戦争、全体主義など、人間を襲う不条理な暴力と闘いました。
 一貫して、キリスト教や左翼革命思想のような上位審級を拒否しました。
 何よりも時代の妥協しない証言者で、あらゆるイデオロギーと闘い、実存主義、マルクス主義と対立しました。
 超越的価値に依存することなく、人間の地平にとどまって生の意味を探し求めました。
 そして、父としての神もその代理人としての歴史も拒否しました。
 三野博司さんは1949年京都生まれで、1974年に京都大学文学部仏文科を卒業しました。
 1976年に、大阪市立大学大学院修士課程を修了しました。
 1978年に同文学部助手となり、1983年に講師となりました。
 1985年に、フランスのクレルモン=フェラン大学博士課程を修了し、文学博士となりました。
 2010年に同文学部長となり、2015年に定年退任し同名誉教授となりました。
 1982年の日本カミュ研究会設立以来代表を務め、2007年に国際カミュ学会副会長となりました。
 カミュは1918年に公立小学校に入学しましたが、貧しいサンテス家では高等学校へ進学する希望はありませんでした。
 庇護者を失った子どもは、アルジェの貧民街で少年時代を過ごしました。
 そして、17歳のときには、当時まだ治療薬のなかった結核を発症して死を覚悟しました。
 しかし、教諭のルイ=ジェルマンはカミュの才能を見抜き、家族に進学を説得しました。
 これにより、カミュは1924年にアルジェの高等中学校リセ=ビジョーに進学しました。
 この時代にリセの教員ジャン・グルニエと出会い、文学への志望を固めていきました。
 その後、1930年より結核の徴候が現れて喀血し、病院退院後もしばらく叔父の家で療養生活を送りました。
 そして1932年にバカロレアに合格し、アルジェ大学文学部に入学しました。
 在学中の1934年に、眼科医の娘であったシモーヌ・イエと学生結婚しました。
 これをきっかけに結婚反対の叔父と疎遠になり、アルバイトやイエの母親からの支援を受けながら学生生活を続けました。
 しかし派手好きなシモーヌとの生活はやがて破綻し、後に離婚することになりました。
 1935年に、グルニエの勧めもあって共産党に入党しました。
 しかし党幹部とアラブ人活動家たちとの間で板ばさみになり、最終的に党から除名処分を受けました。
 第二次大戦が始まると、レジスタンスに参加してナチズムと闘い、反抗と連帯の価値を見出しました。
 しかし、戦後は対独協力者の粛正をめぐり殺人と正義の問題に直面しました。
 第二次世界大戦中に刊行された小説”異邦人”やエッセイ”シーシュポスの神話”などで不条理の哲学を打ち出しました。
 戦後は、レジスタンスにおける戦闘的なジャーナリストとして活躍しました。
 戦後に発表した小説”ペスト”は、ベストセラーとなりました。
 東西冷戦の時代には、歴史を絶対視する思想と左翼全体主義を批判しました。
 エッセイ”反抗的人間”において、左翼全体主義を批判しました。
 1957年に、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞しました。
 受賞時に行った講演で、芸術の偉大さは、美と苦しみ、人間への愛と創造の狂熱、拒否と同意、こういったものの絶えざる緊張関係にあると述べました。
 カミュを読むということは、この緊張関係に身を置くということです。
 カミュはノーベル賞記念講演の出版の際に、ルイ=ジェルマン先生へとの献辞を添えました。
 1960年に交通事故により急死し、未完に残された小説”最初の人間”が1994年に刊行されました。
 東日本大震災とそれに続く未曽有の大惨事は、日本人がカミュの”ベスト”を再発見する機会ともなりました。
 この小説は、単に第二次大戦のレジスタンスを疫病との闘いに読み替えるだけではありませんでした。
 それはより広く深く、人類を襲う不条理な暴力との闘いの物語でした。
 それから9年後、この小説は世界中で再読されることになりました。
 しかも、コロナウィルスと同じ速さで世界中を駆けめぐりました。
 この小説を再読することが、今日の状況を理解するために有効でした。
 適切な対策を講じることができない政府のあわてふためきから、医療者の勇気ある献身的行動まで、すでに小説のなかに描かれていました。
 まさに、現実のほうがフィクションを模倣しているように思われました。
 この小説が時代を超え読み継がれているのは、ペストをあらゆる不条理の象徴として意図的に描かれたからです。
 時代ごとに、ふさわしい読み方ができるのです。
 カミュはこれまで、それぞれの時代が抱える課題のなかで読み継がれてきました。
 カミュは生前も死後も一貫して、一般読者から見放されることが一度もなかった作家です。
 1989年のベルリンの壁の崩壊は、左翼全体主義を批判したカミュの立場の正しさを立証しました。
 90年代から続いたアルジェリアのテロは、テロリズムについてカミュの考察を再発見する機会をもたらしました。
 今日フランスにおいては、あらゆる場所でカミュが引き合いに出されています。
 カミュは、時代の趨勢に流されない明晰な目をもっていました。
 超越的な価値に依存することなくこの世界に生きることを愛し、人間の次元に立って不条理に反抗しました。
 成功の確信や救済の約束がないとしても、人間が自分の職務を果たすのを受け入れることがメッセージでした。
 世界の美しさと人間の苦しみと、その双方に忠実であろうとしながら生きる意味を探求し続けました。
 時をこえて私たち自身の生をも映し出し、その現代性はいまも失われていません。
 ここでは、個々の作品論や主題別の論孜を執筆するのではなく、カミュの全体像をどのように提示したいといいます。
第1章 アルジェリアの青春ー「節度なく愛する権利」(貧民街の少年/習作から最初の出版へ/地中海の霊感)/第2章 不条理の時代ー「世界の優しい無関心」(『異邦人』-戦時下パリ文壇への登場/パリの劇作家)/第3章 反抗の時代ー「われ反抗す、ゆえにわれらあり」(レジスタンスから解放へ/『ペスト』-長い労苦の果ての成功作/反抗と正義の戯曲/冷戦時代の論争)/第4章 再生へ向けてー「孤独と読むか、連帯と読むか」(失意の時代とアルジェリア戦争/『転落』-周囲を驚かせた傑作/ノーベル文学賞)/第5章 愛の時代ー「私の夢見る作品」(不慮の死と遺作/『最初の人間』-未完の自伝的小説)






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Last updated  2025.02.01 09:17:44
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