心の赴くままに

心の赴くままに

PR

Profile

kishiym

kishiym

Keyword Search

▼キーワード検索

Calendar

Comments

cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.03.01
XML
カテゴリ: カテゴリ未分類
 熊沢蕃山は江戸時代初期の陽明学者で、政治家、経世家です。
 呼称について本人は自分を熊沢蕃山と称したことはなく、生存中に周囲からそう呼ばれなかったはずだといいます。
 ”熊沢蕃山 まづしくはあれども康寧の福”(2023年10月 ミネルヴァ書房刊 川口 浩著)を読みました。
 単なる学者としてではなく、儒教的価値を実現するため専心した為政者であった武士の熊沢蕃山の生涯を紹介しています。
 江戸時代以前、呼び名は誕生から死亡までの間に、さらに死後においても、幾度か変わることがありました。
 蕃山も、左七郎、二郎八、次郎八、助右衛門、伯継、了介、息游軒などと名乗りそう呼ばれていました。
 しかし、この中に熊沢蕃山がないことに読者は戸惑われるかも知れないといいます。
 熊沢は正式な名字ですが、蕃山とうのはそうではありません。
 これは本来バンサンではなくシゲヤマと読み、自分の知行地の村に付けた名です。
 一時期、蕃山子介と名乗っていたことはありますが、熊沢と蕃山を連ねて使ったことはありません。
 異説もありますが、いつの頃からか誰かが熊沢蕃山と呼ぶようになり、それが次第に世間に広まりそのまま現在に至ったのだといいます。
 川口浩さんは1951年三重県生まれ、早大高等学院を経て1974年に早稲田大学政治経済学部を卒業しました。
 1985年に、同大学院経済学研究科博士課程を単位取得満期退学しました。
 1986年に中京大学商学部専任講師となり、1991年に経済学部助教授となりました。
 1994年に早稲田大学政治経済学部助教授となり、1996年に政治経済学部教授となりました。
 現在、早稲田大学政治経済学術院教授を経て名誉教授を務めています。
 専門は日本経済思想史で、社会経済史学会常任理事を務めました。
 熊沢蕃山は1619年に京都の浪人の野尻藤兵衛一利の長男として生まれました。
 8歳の時に母方の祖父の熊沢守久の養子となり、熊沢姓を名乗ることとなりました。
 池田輝政の女婿の京極高広の紹介で、16歳のとき輝政の孫の備前国岡山藩主池田光政の児小姓役として出仕しました。
 21歳のとき池田家を離れ、滋賀県近江八幡市近江桐原の熊沢家に戻りました。
 光政は蕃山を他の児輩と異なると評価していたため、蕃山の成長を考え敢えて世に放ったのではないでしょうか。
 光政には、自藩といった枠を越えて個人を活かす道を選ぶ癖があったといいます。
 蕃山は、桐原の地の熊沢守久宅で朱子学の勉学に励みました。
 しかし、独学では満足できず、師を探し始めました。
 そこで出会ったのが、滋賀県高島市の近江小川村に住む中江藤樹でした。
 藤樹は1608年に近江国小川村、現、滋賀県高島市に生まれ、9歳のとき祖父吉長の養子となりました。
 陽明学の確立と知行合一の道を実践し、のちに近江聖人と称えられました。
 陽明学は、中国で明の時代に王陽明が宋の陸象山の説を継承して唱えた学説です。
 人は生来備えている是非・善悪・正邪の判断力を養って、知識と実践とを一体化すべきだとします。
 藤樹は愛媛の伊予大洲藩を脱藩して、母の住む小川村に戻り私塾の藤樹書院を開いていました。
 蕃山は23歳のとき、34歳だった藤樹の塾に入門しました。
 わずか8ヶ月間の塾生生活でしたが、蕃山は藤樹から学問と陽明学の思想を学び儒教信者となりました。
 陽明学は実践の学問であり、机上では無意味だとされていました。
 1645年に、再び京極高広に口添えを願い出て、備前岡山藩の池田光政に出仕する運びとなりました。
 藩政に参与して零細農民の救済や土木事業で業績をあげ、三千石の番頭に命ぜられました。
 蕃山の治国策は、儒教の普及、軍事面の充実、治山治水などに至るまで国政全般に及びました。
 農本主義を唱え、治水・治山による農業政策を実践し、岡山藩の財政立て直しに寄与しました。
 しかし、大胆な藩政改革で藩内からも幕府からも不審を招き、岡山を去ることとなりました。
 このため、1657年に39歳で岡山城下を離れ、知行地の和気郡寺口村、現、岡山県備前市蕃山に隠棲を余儀なくされました。
 1658年に京都に移り私塾を開いて、多数の家下・武士・町人に師事されました。
 さらに、浪々の中で幕府政策批判を続け、参勤交代や兵農分離策などを批判しました。
 また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者であったため、保科正之や林羅山らの批判を受けました。
 そのため、69歳で茨城県古河城に蟄居謹慎を命ぜられ、1691年に古河城にて享年74歳で死去しました。
 蕃山の学問と思想は没後も多くの識者に影響を与え、やがて明治維新の大きな原動力になりました。
 熊沢蕃山は、現在では、江戸時代初期の経世思想家として知られています。
 その思想の根底には儒学思想と儒教的価値観があり、経世策はその応用編でした。
 本書は、両者は一体不可分であるという立場に立脚しています。
 蕃山は、自分が生み出した政策案を助言・吹聴するだけの学者ではありません。
 蕃山は、生涯、自分の中では自身が学者であることをよしとすることはありませんでした。
 儒教的価値実現のための政治・行政に注力・専心する、為政者としての武士であり続けました。
 自己を武士であると確信している蕃山は、生真面目な信念の人であると言えます。
 しかし、非妥協的で独善的な人物であるかも知れないのです。
 このため、尊崇する門人・知人がいる一方で、忌み嫌う反対者・敵対者も少なからず存在していました。
 その結果、蕃山の人生はいろいろな力によって右へ左へと揺さぶられ、数奇なものになってしまいました。
 ある意味で、そこには自業自得な側面もなにがしかはあるかも知れません。
 蕃山は薄幸な人であったかといえば、恐らくそうではないように感じられるといいます。
 蕃山は、自己に与えられた天命のままに生きたように思われてならないということです。
 蕃山の思想の基軸にあるのは、天道とか誠とかいわれる普遍的だと信じていた道徳規範です。
 しかし、これは観念の世界における理念であり、そのままでは画に描いた餅です。
 それゆえ、それは現実の中で具体化されなければなりませんが、幸運にも蕃山はその実現の場と力を得ました。
 蕃山は誠に基づく治国安民という理念を具体化するため、備前岡山藩で身を粉にして働きました。
 しかし、蕃山は池田家の家臣であったため、池田家のために働く対価として藩から扶持を得ていました。
 ここには、普遍である誠と個別である岡山藩の二重構造があります。
 なにごともなかったならば、この二つは矛盾せず相互補完的であったかも知れません。
 ただし、両社が甑語をきたしたとき、蕃山はしばしば前者を優先して非妥協的・激情的な行動をとりました。
 何が普遍で何が個別かの判断や、軸足をどちらに置くかあるいは折り合いをつけるかは、人それぞれです。
 蕃山の弟の泉仲愛は、周囲との摩擦を生むことなく新参者でしたが藩主から信頼される家臣の一人となりました。
 しかし、蕃山は、良し悪しは別にして、大人の度量を欠き普遍と個別の谷間に落ちてしまいました。
 著者が気になることは、蕃山の思考の大前提にある無成長という経済のあり方であるといいます。
 現在の日本では経済成長は当たり前のことと思われていますが、近年では一部に脱成長という主張があります。
 ただし、前近代の無成長と21世紀の脱成長とは歴史的文脈を異にし、同一視することはできません。
 しかし、蕃山を読むと人類史全体の中で近代は例外であり、前近代の無成長と将来の脱成長の間に超歴史的な一貫性があるのはないかといいます。
はしがき/第1章 武士人生の始まりと躓き/第2章 師と君主/第3章 岡山藩政への参画/第4章 擁護と排斥/第5章 儒学思想/第6章 経世済民論/第7章 古河幽閉/あとがき/参考文献/年表・索引

 [http://lifestyle.blogmura.com/comfortlife/ranking.html" target="_blank にほんブログ村 心地よい暮らし]





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2025.03.01 08:37:04
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: