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cozycoach @ Re:徳川忠長 兄家光の苦悩、将軍家の悲劇(感想)(11/20) いつも興味深い書物のまとめ・ご意見など…
2025.08.16
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 武田家三代とは、武田信虎、武田信玄、武田勝頼の三代を指しています。
 ”武田家三代 戦国大名の日常生活”(2025年3月 吉川弘文館刊 笹本 正治著)を読みました。
 戦国大名が乱世をいかに生きていたのかについて、甲斐武田家三代の日常生活にも目を向け、戦争に明け暮れたというイメージを再考しています。
 信虎は1494年に誕生し、1507年に武田家を継いで甲斐国主となりました。
 1519年につつじが崎に新館を造営して、家臣や商人職人の集住を図って城下町甲府を開創しました。
 有力土豪が割拠していた甲斐を統一し、さらに積極的に隣国の信濃に侵攻して家勢を拡大しました。
 しかし、1541年に信玄によって追放されて、駿河に退隠となりました。
 信玄は、1521年に信虎の嫡男として積翠寺で誕生し晴信と称しました。
 1536年に三条公頼の娘と結婚し、1541年に家督を継ぎ甲斐国主となりました。
 隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで信濃侵攻を進め、越後の長尾景虎と衝突しました。
 今川氏衰退後、嫡男の義信を切腹に追い込んだのち、同盟を破棄して駿河国へ侵攻しました。
 1553年に始まった第1回川中島の戦いで有名ですが、政治家としても優れた手腕を発揮しました。
 釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑え、新田の開発を可能にしました。
 そして、商人職人集団を編成して甲府への居住を進め、城下町を大きく拡大しました。
 交通網の整備も行ったことから、往還に沿って荷継ぎの馬を配備した宿町も発達しました。
 1572年に、西上の軍を起こして三方ヶ原で徳川勢を撃破しました。
 途中、室町幕府将軍の足利義昭の要請に応じて、上洛戦に転じました。
 しかし1573年に、病気のため信州の伊那駒場で53歳の生涯を閉じました。
 勝頼の代に美濃に進出して領土を拡大しましたが、次第に家中を掌握しきれなくなりました。
 1575年の長篠の戦いに敗北すると、信玄時代からの重臣を失って一挙に衰退しました。
 1582年には、織田信長に攻め込まれて、後を継いだ信勝ともども滅亡しました。
 1974年に信州大学人文学部を卒業し、長野県阿南高等学校教諭となりました。
 1975年に名古屋大学大学院文学研究科へ入学し、1977年に博士課程前期課程を修了しました。
 同年同大学助手となり、1984年に信州大学助教授、1994年に教授となりました。
 1997年に名古屋大学文学博士となり、2009年に信州大学副学長、2016年に長野県立歴史館長となりました。
 多くの人は戦国大名と聞くと、代表として北条早雲、武田信玄、上杉謙信などの名前を思い起こします。
 それぞれのイメージを描く際には、戦国大名という名称から戦争が想起されます。
 川中島の合戦、桶狭間の合戦、厳島の合戦などです。
 戦国時代ということから、戦いに明け暮れて戦いは日常的であったと考えるでしょう。
 戦国大名を取り上げたテレビ、映画、小説で、クライマックスになるのは戦争の場面です。
 戦争を趣味や生活の糧にして、常に戦場に身を置いていた人はどれだけいたのでしょうか。
 人間は本来的に、戦うために生まれてきた動物ではありません。
 自分たちの利益を守ったり、新たな利益を獲得するために戦争をするのです。
 けっして戦争、それ自体を目的として活動するわけではありません。
 戦国大名も同様に、戦争することが人生のすべてだったわけではありません。
 人が生まれるためには男女の関係があり、子が育つには家庭が重要です。
 成長した人間もまた、子孫を作っていくのが人類の連環です。
 戦国大名にも家庭があり、人間として一般人と変わらぬ日常生活があったはずです。
 本書で取り上げたいのは、そうした戦争の場以外の戦国大名の日常生活だといいます。
 この三代の間に武田家の領国は拡大し、支配のあり方も変化しています。
 しかし、武田家は1582年に滅亡しましたので、武田家に伝わった文書が残っていません。
 今から400年以上も前に滅亡したことから、利用できる材料はわずかです。
 まして、日常生活を伝える史料は少ないのです。
 特に、信虎の史料は数が少ないだけでなく、検討を要するものが多いです。
 戦国大名として一括すると、三代の変化が見えなくなってしまうのです。
 そこで本書では、戦国大名の武田家といっても、信玄、勝頼の日常生活を多く取り上げています。
 著者は、三人の当主による差異に着目し、三代の間における変化を追うことにするといいます。
 第一章では、三人の当主がいかなる過程を経て家を継いだかを確認しています。
 家督相続には、戦国大名が乗り越えるべきさまざまなハードルや社会状況が見えるといいます。
 第二章では、戦国大名がいかにして戦争で勝利していったかを確認しています。
 戦いに勝つことが戦国大名の使命ですが、戦争より背後の意識や政策に着目したいといいます。
 第三章では、戦国大名の統治者としての側面に光を当てています。
 戦国大名はどうして人気があるのか、当時の領民の立場から述べるといいます。
 第四章では、戦国大名と家族の関係を見つめています。
 戦国大名にとって、家族とはいったいどのような意味を持つのかを明らかにしたいといいます。
 第五章では、戦国大名がどのような毎日を送っていたか、日々の暮らしについてまとめています。
 戦国大名の一生、教養や日常の信仰などについても触れるといいます。
 第六章では、武田家の滅亡について記しています。
 勝頼は凡庸な戦国大名ではなかったのに、なぜ武田家が滅亡したか明らかにしたいといいます。
 そして、戦国大名についての神話が後世の人々によっていかに作られるかも考えています。
 多くの人は、戦国大名は自分の力を頼りに意のままに生きた存在と考えているようです。
 しかし、戦国大名の典型の武田家当主でさえ、思うがまま自分勝手に行動できたわけではありません。
 社会と時代の制約の上で、必死になって生きていたのです。
 神仏を絶対的とする中世的考えから、神仏も統治の手段とする近世的考えへの転換点にありました。
 しかし覇者は一人のみで、多くはその下に座するか、戦って死ぬしか道がありませんでした。
 勝頼の場合は、後者の典型的な例であったといいます。
はじめに/第一章 日の出ー家督相続と家臣/第二章 戦うー時代を生き抜く/第3章 治めるー公としての統治/第四章 家族ー心の絆/第五章 日々の暮らしー日常の決まり/第六章 落日ーそれでも滅亡した武田家/あとがき/補論 武田信玄と川中島合戦





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Last updated  2025.08.16 07:53:31
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