2002/10/19
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 読み直し。笙野頼子『二百回忌』は途中で飽きた。
 今まで読んできた作家、思ったよりずっと貧相な数のそれらを漠然と思い浮かべながら。江戸川乱歩・・・決め手にかけるか。チェーホフ・・・「退屈な話」あれは嫌だ! 村、村・・・春樹、別に読み直したいものもないか。龍・・・暴力、性、経済、どうでもいいなあ・・・あ、『69』! というそういう。
 楽しいな。こういう読書は。青春小説は。いい意味で馬鹿馬鹿しい小説は。
 しかし楽しいことばかりでもない。どこか引用するのにいい箇所はないかと見直してみると、そこだけ抜き出してみてもあまり笑えない。小説の底に一貫して流れている「60年代終わりの雰囲気」こそが大切なのだ。私達が歳をとった時、たとえば「99」を、1999年に流れていた90年代終わりの雰囲気を楽しそうに書けるだろうか、書くべきことが見つかるかどうか? 悲観的な予測しか立たない。
「1950年代に生まれていたら、ビートルズをリアルタイムで楽しむことも、その後の音楽の隆盛も丸ごと目の前で見ることが出来たのになあ」とぼやいた友人がいる。「じゃあヒッピーなんかにもなりたいか?」と聞くと答えはノーだった。今の感覚を持ち越して考えることを捨てるのは難しい。
 この小説と同じように、母校に夜中数人で忍び込み校庭でウンコをしてきた知り合いもいる。それは反体制の象徴でも、恨みでもない。ただ酔った末の勢い任せだ。それとタイミングの良い(悪い?)便意と。


 しかしアダマは優しい。ボタ山のふもとに知り合いの養鶏場があるけん電話してみよう、と言ってくれた。アダマは忠実だ。僕に忠実なのではない。アダマは信じている。僕を信じているのではない。一九六〇年代の終わりに充ちていたある何かを信じていて、その何かに忠実だったのである。その何かを説明するのは難しい。
 その何かは僕たちを自由にする。単一の価値観に縛られることから僕達を自由にするのだ。


「ある何か」が摩滅され消耗しきった跡をしか私達の世代は歩いていないかもしれない。しかしまた別の何かが私達の底には充ちていたような気がすることもある。それはだらけた、うすぼんやりとしたものでしかなくても。それが自分達のものであるというだけで、価値はある。69と99の違いなどただの数字だ。昔の雰囲気に憧れているだけなのは寂しい。

村上龍「69」(集英社文庫)





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Last updated  2002/10/19 12:03:20 AM
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